2022/6/20, Mon.

 まさにその年、ゴシックの建築家サンダーソン・ミラーらとともにこの庭 [バッキンガムのストウ庭園] を歩いていたのが ”有能なる” 〔ケイパビリティ〕と称される庭師ランスロ・ブラウンだった。ブラウンは、簡素な水や草木の空間によって造園の革命を完成に導いてゆく。ブラウンはストウでもっとも大きくひろがるグレシアン・ヴァレーを造った(一見まったく自然のようだが、この谷筋自体は多くの人足によって掘られたもの。彼らが風景式の庭づくりをどうみていたかは伺い知れない)。ブラウンによる庭では彫刻や建築が大幅に減らされ、歴史や政治の記念物とは別物になり、背景であった自然は主題となった。庭の散策者は、美徳やらヴェルギリウスやらについて考えるよう仕向けられるのではなく、それぞれに物思いしながら曲がりくねる小径をたどるようになった(とはいえ、残された大量のテキストが示すように、その内省の対象がおおかた自然について――あるいは形而上の自然なるものについて――であったのは当然かもしれない)。こ(end150)うして、この庭は建築で構成されたフォーマルで権威的な空間から、私的で孤独な原野へと変貌した。
 ブラウンが具現化してみせた風景式庭園を誰もが受けいれたわけではない。王立アカデミー会長だったジョシュア・レイノルズ卿は次のように書いている。

作庭は、それが芸術である限り、あるいはそう呼ばれる資格を有する限り、自然と距離をとることである。多くの者が考えるように、あらゆる芸術のよそおいを奪い去り、人間の足跡を消し去ってゆくことにその真の価値があるとすれば、それはもはや庭とは呼ばれないだろう。

 レイノルズは気づいていた。次第に周囲の風景との区別を失ってゆくうちに、庭はその必要性をも失っていたのだ。ウォルポールもまた、造園家ウィリアム・ケントは「垣根を飛び越え、すべての自然を庭として発見した」と評していた。たださまよい歩いて目をよろこばせる存在が庭であるとすれば、それは造りだされるものでなく見出されるものでよかった。とすれば、庭の散策という伝統は、観光旅行を含むものへとひろげてゆくことができるだろう。景観の渉猟家が目を向けるのは人為ではなく自然の産物でもあり得た。そして、自然の産物が芸術のように見られることによって、この革命が完結する。シャフツベリ [シャフツベリ伯アンソニー・アシュリー・クーパー] の言葉によれば、豪奢な庭園は、ついにありのままの自然に道を譲る。人を寄せつけぬ世界が美学的な観想のこれ以上ない(end151)対象となったのだ。
 要塞化した城館の一隅にはじまった貴族の庭園の障壁はゆっくりと溶けて消えていった。庭が世界へ溶け出してゆくことは、イギリスがどれだけ安全な場所になったかということの徴だ(イギリス式庭園が流行する多くの西洋諸国においてもある程度同じ傾向がある)。およそ一七七〇年を境に、道路の改良や路上犯罪の減少、安価な運賃といった「交通革命」を経験したイギリスでは、旅は本質的な変化を被った。十八世紀半ばまでの旅行記は、宗教的・文化的名所以外に、移動の途上の土地に触れることは稀だった。しかし、その頃を境にして旅の流儀もまったく新しいものになった。それまで、巡礼や実務的な旅行において、出発地と目的地のあいだの空間は試練、あるいは不都合なものだった。この空間が景観として認識されるようになると、旅はそれ自体に目的を含み込んだ庭園散策の延長となった。つまり、道中の経験自体が、終着地への到達に代わる旅の目的となり得るようになったのだ。そして風景のすべてが目的地となるとき、庭や絵画のように視線が向けられる先の世界は、出発とほとんど同時に到達されるものとなった。久しく歩行が担ってきた娯楽に旅が加わると、風景を楽しむ旅で徒歩移動が大きな役割を担うようになるまでに時間はかからなかった。ついにその遅さが美点となったのだ。つつましい詩人とその妹が、ただ見ることと歩くことの愉しみのために雪の田舎道を旅するところまで、わたしたちはもうすぐの地点にいる。
 後に、ワーズワースは自分で湖水地方のガイド本の執筆を試みている。そこには、ここまでたどってきた歴史が次のように要約されている。一八一〇年に書かれたものだ。(end152)

ここ六十年の間、イギリス中で「装飾的庭づくり」と称される流行があった。この技巧への賞賛と反対のなかから、選り抜かれた自然景観への趣味が生まれた。そして旅行者たちは、街や工場や鉱山だけに目を向けるのではなく、この島にひっそりと隠された、自然が類稀な崇高さや美をかたちづくる……場所を探してさまよい歩くようになったのだ。

 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、150~153; 第六章「庭園を歩み出て」)


  • 「英語」: 834 - 838
  • 「読みかえし2」: 838 - 850


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 六時ちょうどごろにいちど目を覚ました。その時点で目覚めはもうわりとはっきりしていたのだが、目を閉じてまた休む。つぎにたしかに気づいて携帯を見ると七時だった。そこをもう覚醒とさだめ、布団のしたで深呼吸したり、からだの各所を揉んだりして起床の準備をする。窓外ではむかいの保育園でおはようございますと交わし合ったり、扉をガチャガチャあけたりするおとが聞こえており、保育士たちがだんだんあつまりだしているようだ。子どもたちが来るのは八時くらいからだとおもう。きょうの天気はまた一転して一面真っ白い曇り。七時四〇分にいたると起き上がった。洗面所に行って顔を洗い、冷蔵庫から水のペットボトルを出してちょっと飲み、屈伸をする。それから寝床にもどって書見。さくばん寝るまえに読みはじめた上田秋成/鵜月洋=訳注『雨月物語』(角川文庫、二〇〇六年)。昨夜はうしろのほうに載っている原文を一段落ぐらいずつ読み、脚注や補注を読み、それからまえの現代語訳を読み、という感じでやっていたのだが、それだとやはり煩雑でめんどうくさいので、ふつうにまえから順番に読んでいくことにした。現代語訳のほうでいったん読んでしまい、それから原文へ、というかたちである。この本を買ったのはまだ読み書きをはじめるまえ、たぶん大学時代で、一回か二回読んだのではなしはそこそこおぼえている。15から50まで。「白峯」、「菊花の約 [ちぎり] 」と読了。後者の書き出しが、特段めずらしかったりおもしろかったりするわけではないのだけれど、現代語訳のリズムがちゃんとしていていかにも物語のはじまりだなという感じがあったので、この訳者はきちんとした仕事をするひとだとおもった。いまウィキペディアをみてみるとなまえは「ひろし」という読みで、一九一八年生まれ六五年死去だからおもったよりも古いひとだった。戦時中には日本文学報国会の主事だったという。
 窓外では掃除機をかけるおとが聞こえたり、子どもらがだんだんあつまってきて親と保育士がおはようございますとあいさつしたり、保護者が子どもにじゃあね、がんばってね、いい子でね、とか言っているのが聞こえたりする。起き抜けのまだととのっていないからだに幼児らのけたたましい声を受けるのはなかなかたいへんなので、耳栓がわりにイヤフォンをして外部音の圧力を軽減した。九時くらいまで読み、瞑想。三五分ほど。このときもイヤフォンをつけたままで座った。座るまえに子どもらが揃いの赤帽姿で建物のそとに出てくるのがカーテンを透かして見えたのだけれど、建物のそとと言っても門をくぐるのではなく、行くよー! という保育士の先導にしたがって戸口から横に移行して、おそらく園庭に行ったのだろうが、数日前に知らせがはいっていたけれど夏祭りだったかなにかのイベントが七月にあって、そのための練習をしているとかいうはなしだった。たぶんそれをやったのではないか。あるいはもうだいぶ暑いしプールにでもはいっているのかなというにぎやかな声が聞こえていたが、服は着ていたからたぶんちがうとおもう。園庭のほうから聞こえてくる声はすごくて、ヒヨドリの群れにもまったく負けないいきおい、それどころか、"Hannibal" Marvin Petersonとかが放つようなトランペットの最高音じみた甲高い叫びをこともなげにあげている。部屋のうちにいるときもそういうシャウトをたびたび発している威勢のよいおそらく男児がいるし、そのいっぽうでえーんえーんと泣き声をあげている子とかもいる。保育士のひとたちも、あの音の圧力を間近で受けつづけなければならないのだから、相当疲れるとおもう。
 瞑想を済ませるとティッシュと消毒スプレーで拭いてからコンピューターをつけ、そのあいだにまた屈伸。Notionを準備。なにをしようかなというところだが、とりあえず音読をしようかなとおもって「英語」記事と「読みかえし」ノートを読んだ。前者はさいごまで行った。後者も「読みかえし2」のほうをほぼさいごまで。「読みかえし1」はすこしまえにたしょう読みはじめていたので、今度そのつづきから読む。読むと一一時くらい。椅子から立ってまた屈伸したり背伸びしたついでに、流しやそのまわりに置いてあったきのうのプラスチックパックを鋏で切って袋に入れておいた。四五リットルの半透明ポリ袋を先日買っておいたのだが、きのうの七時ごろにいままで出て溜めていた容器包装プラスチックゴミをそれに移して流しのしたに押しこんでおいた。そのとき口をもう縛っていたのだが、それを解いて追加で入れたかたち。容器包装プラスチックの回収は毎週火曜であしたなので、きょうの夜に出しておくつもりだが、それまでにもしまたゴミが発生したら加えるつもりで、口は縛らずにまた押しこんでおいた。そろそろ飯を食いたい感じだが、さきにきょうのことを書くことにして、ここまで綴れば一一時四〇分。(……)クリニックにも電話してみよう。音読中はイヤフォンをつけてさらに窓も閉ざしていたのだけれど、そうすれば騒音は相当カットできる。とはいえ窓を閉めているときょうは曇天だから蒸してかなり暑いので、とちゅうでエアコンを入れるかとつけてみた。二九度。つかわれていなかっただろうからさいしょのうちは換気して埃とかをのがしたほうがいいかなとおもってしばらく窓を開けたままにで稼働させていたのだが、じきに音読(といっても声を出さずにコソコソ言っているだけだが)に切りがついて日記を書く段になったので、それなら窓を開けたままで音楽聞けばいいやとおもってエアコンはすぐに停めた。BGMはJaco Pastorius Word of Mouth Sextet『Live At The Montreal Jazz Festival, July 3, 1982』。さくばん書抜きするさいにもながしていた。いまそれが終わってAmazon Musicの自動再生機能でなんかわりと雰囲気のあるジャズギターがながれだしたのだが、みてみるとこれは浅利史花という日本人のひとで、『Introducin'』というアルバムの"Summit"という曲だった。むかしながらの、という感じで、衒わずにきれいな音取りでよく歌っているようにおもわれ、けっこう良い。なんか山中千尋がJoe Farnsworthとかとやっていたトリオをおもいださせる。あとギターとベースとのトリオでやっていたやつとか。とおもっていま検索したが、Joe Farnsworthとはやっていないのかもしれない。いまそのつぎにまた自動再生でながれだしたやつがこんどはギターの歪んだもったりしているロックだったのだけれど、歌がはいってちょっとBlack Sabbathをおもわせる重々しい感じになると、あれなんかこれ聞き覚えあるなとおもい、King Crimsonじゃん、とおもいあたって笑った。この自動再生機能は似た楽曲をながすというやつのはずなのだけれど、どういうながれなのか。『Live In Toronto』の"Picture of A City』だった。しかしKing Crimsonなんてぜんぜん聞いたことないのだが。Wikipediaをみてみるとこれは二〇一五年、さいきんのツアーの録音で、ドラムが三人いるところがやはりKing Crimsonの意味のわからない点だ。かれらについてはさいきんのこともむかしのこともぜんぜん知らないのだが、クレジットをみるにRobert FlippとTony Levinがまだやっているようだ。あとMel Collinsというサックス奏者がいて、このなまえはなんかどこかで見たことがある気がする。ほかのなまえは知らない。


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 一年前の日記。

勤務中のことの記述のなかに、つぎの一節。「今日も教科書を読み、ピーター・ラビットの話を一緒に訳していくのだが、ストーリーはやはり役に立つ。そういう枠組みがあったほうがおそらく圧倒的に言葉を覚えやすいし、(……)くん自身も途中で、これどうなったの? と結末が気になってみずから読もうと試みていた。物語の力というものだ。人間はある物事の先がどうなるのかということが気になって仕方のない生き物なのだろう。だが同時に、多くの人はおそらくある物事が永遠に続くことは望んでおらず、それが適切な形で終わらなければ満足ができない。〈完結主義〉とでも呼ぶべきイデオロギーがこの世には蔓延しており、やれ作品を作るならとにかくまずは最後まで書いて終わらせろだの、やれ結末を明かすなだの、やれ未完作品は読む気にならないだの、そういう種類の思考が世界を圧倒的に席巻しているのだけれど、「完結」という事態は本源的には存在しない捏造物に過ぎないとこちらは思うし、それを仮に受け入れなければならないとしてもいつどこで「完結」させるかという判断(いつどこで「完結」するかという物事の展開)に確実な根拠などないだろうし、何ごとかを「完結」させることよりもそれをできる限り永続的に続けることのほうが面白いと思っている」というわけで、これはこれでありきたりな言い分ではある。とはいえいまでもじぶんのスタンスはわりとこういうかんじではあるが、ただ、やっぱり完結も大事だな、という気にもなっている。「結末を明かすな」と「未完作品は読む気にならない」という動向にはいまでも同意しないが、「作品を作るならとにかくまずは最後まで書いて終わらせろ」にかんしては、多少賛同する気持ちが芽生えている。つまり、じぶんがつくるにあたって、ということだが。さいしょから良いものだけをつくろうとしてもできるはずがないので、とりたてて良くはないものでも、ともかくはその範囲でかたちを成すという経験をかさねていき、そうしてちからをつけていかなければ、と尋常なことをおもっている。


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 日記に切りをつけると(……)クリニックに電話。ちょうど一二時だった。しかし出ない。コールをつづけてみてもつながらない。午前は一二時までなので、バタバタしていたか、ちょうど休憩にはいってはなれていたのかもしれない。それなのでさきに食事。向かいの保育園でも食事を取っている雰囲気だった。子どもたちの声が比較的おさまっている。れいによってキャベツを細切りにする。紙皿に乗せ、きょうはトマトも食べることに。半分に切ってヘタを捨てたあと、分割されたそれぞれを切り分けて一個分を盛ったキャベツの縁にならべる。ハーブ風味のサラダチキンも細く切って縁にまとめて添え、さいごに大根をすこしスライスしてキャベツのまんなかに乗せた。小山がそれぞれの方向からおおわれて隠れるようなかんじ。刻みタマネギドレッシングをかける。豆腐も鰹節を乗せたうえから麺つゆをかけて用意し、あとは照焼きチキンマヨネーズの手巻き。コンピューターをまえにウェブをみながらものを食べた。漢方薬もせっかく買ったのでいちおう飲みつづけるつもりで食前に水でながしこんでいる。食べ終えると洗い物をひとまず流しにおくって水で流すだけしておき、(……)クリニックに再度電話した。一二時四〇分過ぎだった。こんどはつながった。あいさつをするが声がうまく出なくてかすれたようになってしまい、咳きこんですみませんと言いながら名乗り、いぜんそちらでお世話になっていたものなんですが、またお世話になりたいとおもいまして、という。電話先の受付の声は、あのひとだなというのが顔の記憶をともなってわかる。少々お待ちくださいとあってデータを検索するか、あるいはいまだにアナログならむかしのカルテをさがしていたのだろう、音楽のながれる間があって、もどってくるとしたのなまえもお願いしますと言った。つづけて生年月日もきかれるのでおしえて、無事照合が一致。二年くらいまえなので、とやはり初診あつかいになる。しかし予約は意外とはやくて、月・火・金の四時というのは、今週もう行けるということで、つまりきょうの四時でも空いているというのだが、どうしようかなと口にしつつ、きょういきなり電車に乗る決意がつかなかったので、じゃああしたの四時で、と予約を入れた。好都合である。あしたにはもうヤクが手に入るから、これでどうとでもなる。それではあした、火曜日の四時で、診察券と保険証を忘れずに、とあいてがいうので、保険証なんですけど、いま引っ越したばかりで、あたらしいものがまだなくてですね、とりあえず自費でもいいので、と申し出る。役所に行けばすぐもらえるとおもいますがと返るので、古いほうのてつづきができていなくて、と言い、まだのこっているとかですかというのに肯定する。いぜんはもちろん(……)だったわけだが、どちらに移られたのかときかれるので、いまは(……)で、というと、あいてはなにか調べたような気配のあと、それだとそうですね、自費になっちゃいますね、けっこうかかっちゃうとおもいますけど、というので、そうですよねとちょっと笑いつつ受ける。どれくらいかかるか計算してくれていたようで、八〇〇〇円くらいはかかってしまうだろうとのこと。加えて薬代のほうも。だから一万円を余裕で越えるはずで、かなりもったいない感があるがまあしかたがない。いぜんはパニック障害でかよってまして、引っ越しを機にそれがまあ、悪化したような感じでして、それでいったん自費でいいので、ちょっとだけでも薬をもらいたいとおもいまして、と事情を説明し、それで予約が済んだ。
 そのあとなにをしようかなというのがあまりさだまらず、やる気が出ないような感じだったが、とりあえず一年前の日記でも読んでみるかとおもってそうした。それで一時過ぎ。瞑想することに。枕のうえに尻を乗せるのだけれど、実家のものとはちがって感触がふわふわ気味でつぶれるので、瞑想をするときはむしろやりづらい感がある。座布団といっしょに重ねたほうがよいのだろう。高さの問題らしく、座りはじめるとすぐに左脚がしびれた。イヤフォンをつけてやっていると外界の音がそこそこ遮断されて、保育園の子どもらはいまは昼寝の時間とおもわれるからしずかだし、車の通るおとが削減されつつ聞こえるくらいなのだが、そうすると音楽を聞くときとおなじで意識もやや籠ったような感触になり、つまりけっこうねむくなってきて、なかなかきもちがよい。脚の痺れのために二〇分も座れなかった。
 それから洗い物を済ませて、プラスチックゴミも袋に入れておき、またどうしようかなという感じなのだが、なんとなく収納スペースのうえをかたづけはじめた。家電等の保証書とか説明書とかはニトリの椅子の組立書がはいっていたビニール袋にまとめて入れておくことに。洗濯ばさみも散らかっていたのだが、ちいさいほうは台紙をのこしていたからそれに留めておけばよいとしても、おおきなY字ピンチは台紙を捨ててしまった。それでなんかないかなとおもったところが鋏と包丁(というか小型ナイフ)を入れてきたキッチンバサミの小箱があったので、これを平たくしてそれにつけておく。左右に五個ずつで一〇個がぴったりならぶちょうどよいおおきさだった。これらを収納スペースの左端、籠と壁のあいだに立てておき、そのむこうには巻物型にまとまっているゴミ袋。籠のむこう、ゴミ袋の横にはなにかにつかうかもと実家からもってきた新聞紙と、保証書などがまとまった袋を差しこんでおく。その他てきとうに整理して、収納スペースの手前側、いちばんよくいじる付近はそれなりに配置がかたづいた。左端には財布とか鍵とか外出時に持っていくものがまとめてある。消毒スプレーも。その横に夜に食う予定のチョコチップメロンパン。ヘッドフォンも置き場所がないのでひとまずそのへんに。あと制汗剤シートや漢方薬。それから寝床の足もと、ワークチェアがはいっていた段ボール箱のうえも整理にかかる。漢方薬がはいっていたAmazonの小包をかたづけて、収納スペースのしたの壁際、机の天板がはいっていた段ボール箱といっしょにしておく。カッターも開封してつかった。あとそこにあった洗濯機の説明書も保証書などとおなじ場所へ。ほんとうは段ボール類をはやく解体して縛らなければならないのだが、そこまではやる気が出ないので、ひとまずうえを整理しただけで満足した。それからきのう印刷してきた転出届を記入。そうしてここまで綴ると三時。郵便局が近くにあるようなので、もうすこししたら出向いておくってしまおうとおもっている。クソ暑い。さすがにエアコンを入れた。あとねむい。ねむりが足りないとやはりすこし緊張するような感触がある。


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 ニュース。コロナウイルス感染者はきょう、東京で一〇七六人だったと。検査数の事情でだろう、月曜日は毎週低いのだが、きょうは先週からだと一一六人増えている。全体的な傾向としてはいちおう減ってきてはいるのだけれど、あまり変わらない。

 【パリ=谷悠己】フランス国民議会(下院、定数577)選挙の決選投票は19日に投開票が行われ、マクロン大統領を支える中道の与党連合は最大勢力を維持したものの、野党の伸長によって過半数を割った。与党連合は多数派工作を進める方針だが、不調に終われば法案審議が困難になり、マクロン政権にとって大打撃となりそうだ。
 仏内務省によると、与党連合は改選前から約100議席減らし245議席にとどまった。与党の過半数割れは下院選が大統領選直後に行われるようになった2002年以降で初めて。
 大統領選で3位だったメランション氏が主導する左派連合「人民環境社会新連合」が131議席で最大野党となった。左派連合は、同氏率いる急進左派「不屈のフランス」を中心に新たに結成された。大統領選でマクロン氏に迫ったマリーヌ・ルペン氏の極右政党「国民連合」は改選前の10倍以上となる89議席と急進し、政党別の第2勢力に。最大野党だった中道右派共和党は61議席にとどまった。
 ボルヌ首相は19日の会見で「かつてない危険な状況だ。多数派づくりに取り組む」と述べたが、連立相手として有力視される共和党ヤコブ党首は「政権に対抗する立場は変わらない」と強調した。
 下院選の決選投票は小選挙区制で、ほとんどが一騎打ちの構図だった。投票率は約46%で、過去最低だった17年の前回選をわずかに上回った。

 【ニューヨーク=杉藤貴浩】南米コロンビアで19日、ドゥケ大統領の任期満了に伴う大統領選決選投票が行われ、左翼ゲリラ出身で元ボゴタ市長のグスタボ・ペトロ氏(62)が当選を確実にした。同国で初の左派政権となる。ペトロ氏は反米左派の隣国ベネズエラとの関係改善や、米国との関係見直しに言及。左派政権誕生が続く南米で、米国の影響力低下に拍車がかかる可能性もある。
 (……)任期4年で再選は禁止。8月7日に就任する。
 コロンビアでは新型コロナウイルス禍により構造的な経済格差がさらに悪化し、ドゥケ政権が昨年4月に増税案を打ち出したことをきっかけに大規模デモが発生。社会保障拡充や高等教育の無償化、汚職撲滅を訴えるペトロ氏に若者や低所得層の支持が集まった。
 ペトロ氏は、反米左派マドゥロ大統領が率いる隣国ベネズエラとの関係再開を主張。米国はマドゥロ政権の正統性を認めず経済制裁を続けており、伝統的に親米保守政権が続いてきたコロンビアがベネズエラとの友好にかじを切れば米国の南米政策には打撃となる。

     *

 ペトロ氏は1980年に在コロンビア・ドミニカ共和国大使館占拠事件を起こすなどした親キューバ左翼ゲリラ「M19」の出身。M19はその後、武装解除して合法政党となり、同氏は今回が3度目の大統領選出馬だった。

 新型コロナ患者の初確認から約2カ月後の2020年2月末、安倍晋三首相(当時)は突然、全小中高校に休校を要請した。当時、全国の1日の新規感染者数は約20人。子どもの預け先を失った保護者らは仕事に行けず、収入減や医療従事者の不足が起きた。
 布製「アベノマスク」も不評を買った。400億円で2億8000万枚を調達したが、8000万枚以上を放置。保管費用は6億円を超えた。
 第1波で、病床は逼迫ひっぱく。初の緊急事態宣言を出したが、欧米の都市封鎖(ロックダウン)のような強制措置は取らず、飲食店の営業自粛、外出制限、マスク着用など、「要請」に基づく国民の努力に頼った。安倍氏は同年5月の記者会見で「日本モデルの力を示した」と胸を張ったが、冷ややかに見る向きもあった。
 20年秋、体調不良を理由に退いた安倍氏の後を継いだ菅義偉首相(当時)は経済回復を急ぎ、観光支援策「Go To トラベル」を年末まで継続。第3波に突入し、野党は「総理がGo To トラベルにあまりにもこだわり、全国に感染が広がったことは明白。人災だ」と批判した。

 同時期、米国は米ファイザー製ワクチンの緊急使用を認め、接種を始めた。菅氏はファイザーの責任者と直接、電話会談を行うなど積極的に動いたが、世界のワクチン争奪戦に出遅れた。高齢者接種の本格化は21年4月下旬。米モデルナ製も調達し、一般接種を加速させたのは同年6月だ。
 結果、デルタ株による第5波を防げず、全国で病床が逼迫して自宅療養中に亡くなる人が続出。1年延期で迎えた東京五輪パラリンピックは、ほとんどの会場で無観客開催となった。
 菅氏は新型コロナ対策を巡る支持率低下が響いて退陣。岸田文雄首相になった昨秋、国内の感染状況は落ち着いていたが、英国などではオミクロン株が猛威を振るい始めていた。
 ワクチン効果は半年で半減するとされ、3回目接種が必要だったが、政府は接種2回目から8カ月空けるよう自治体に要請。「科学的根拠がない」と不満が噴出すると、一転「6カ月に前倒し可能」とした。その間、第6波が始まり、全国の1日の新規感染者数は最多の10万人に達した。


―――


 (……)くんにメールを書くことにする。

(……)


―――


 三時以降のこと。ねむかったので出かけるまえにすこし休もうとおもって、寝床に移った。あおむけになって両手をだらりとからだの脇に置き、目を閉じて休息。しかししばらくすると起き上がって瞑想に移行した。けっこうよく停まる。しかし目をひらけば一七分くらいしか経っていない。ふたたび横になり、こんどはからだの左をしたにするかたちで寝て、ちょっとだけまどろんだ。そうして四時。
 外出へ。歯を磨いたり、制汗剤シートでからだを拭いたり。この部屋はマジで暑い。ぜんぜん風がとおらない。まあ、のぞかれるのが恥ずかしいのでカーテンを閉ざしたままだから。そういえばさきほどかたづけをしたさいに、買ったまま段ボール箱のうえに放置してあったカーテンをようやく開封してつけた。ネイビー、すなわち紺色のやつ。模様などなにもなしでただ一色。まあわりと良いんではないかとおもう。寝るときもだいぶ暗くなるだろう。あと書くのをわすれていたが、朝起きたあと、日記を書き出すまえに耳栓もAmazonで注文したのだった。Moldexというメーカーのものがよいといぜんネット上でみかけたことがあったので、そこの品をいくつかみて、「ピュラフィット」というやつにした。これがいちばんやわらかいとかレビューにあったので。正確かどうか知れたものではないが。
 服装はTシャツにまた真っ黒なズボン。真っ黒なズボンもそろそろ洗わねばならず、きのう洗おうとおもっていたのにわすれてしまった。(……)市役所の住所をホームページから手帳にメモしておく。転出届と同封するものとして本人確認書類が必要なのだが、パスポートをコピーするのをわすれていたので郵便局に行くまえにコピーすることにして、それも持った。その場で切り取れるように鋏も。あとついでに金をおろそうとおもって通帳も。そうして部屋を出る。水のペットボトルと、きのう飲んだクラフトコーラ(夜に飲んだのだが、意外にもカフェインの作用はぜんぜん感じなかった)の缶を持って階段を下り、出るとボックスへ。このボックスはゴミ箱ではなくリサイクルのためのものですとかいう表示があり、それに気づいていながら気にしていなかったのだけれど、きのうゴミ捨てルールのPDFを確認したさいにそういえばペットボトルはキャップとラベルをはずすんだよなとおもいだし、リサイクル用のものですっていうのはそういうことか、ただ入れるんじゃなくてちゃんとルールに沿った捨て方をしてくださいということかとおもって、きのうからそうした。缶のほうはゆすいだだけ。捨てるまえに手でちょっと潰したのだが、そのために横幅がひろがってしまい、かえって穴を通しづらくなった。押しこんで入れ、みちへ。近間のコンビニへむかう。そとも暑い。空は曇りだが分厚い曇天ではなく、淡い雲の白と鈍いみずいろが交互に成した畝がみられ、そのなかに太陽も西で純白円を透かしている。コンビニに着いてはいるとコピー機のところに行き、一〇円で一枚コピー。B5。きゃらきゃらはなしている女子中学生ふたりの脇を抜けて退店し、そとのみちで鋏を取り出すと身分証明の部分だけ切り抜いた。あまりの紙はちいさくたたんでリュック内へ。転出届とパスポートのコピーもそのままでリュック内。そうしてみちをひきかえして郵便局へ。アパートからほんとうにすぐそこ、三分もしないくらいのところにある。はいって手を消毒し、まずATMで金を五万おろした。残高は六二万円くらいだったはず。まだすぐ死ぬものではない。それから郵便窓口へ。あいさつするが、緊張している。声がうまく出ず、かぼそいようになってかすれる。他人と会話をする機会がとんとないので喉をぜんぜんつかっていないこともあるだろうが、緊張してビビっているのも原因だろう。窓口の女性に、さいきん引っ越してきまして、転出届をおくりたいんですが、と告げると、すぐに了解した女性は、じゃあこちらに記入していただいて、と紙を差し出してきた。それは転居届と書いてあるもので、こちらはただ(……)市に送るために封筒と切手がほしかっただけなのだが、ここでもなにか記入しなければならないのか? とよくわからないままに了承して記入スペースへ。とちゅうから、これいらないんじゃないか? とおもっていたのだが、けっきょく記入してしまい、あとで帰ったあとに確認してみると、これは郵便の配送先を旧居から新居に一年間変更するという届け出の用紙で、そのことはぜんぜんかんがえていなかったがかえって良かったかもしれない。記入しているあいだも緊張をおぼえていた。それで、これはなんなのかというのをその場で聞けばよかったのだけれど、気後れして聞く気にならなかったのだ。書き終えると窓口に持っていき、そこにさきほど転出届とパスポートのコピーを出しておいたのだが、これを(……)市のほうに送りたくて、封筒と切手を、というと、封筒はうしろのほうにありますとのこと。そのとき五時で閉まるまえだからか客が増えていて、ほかの職員がそちらに対応したりちょっとバタバタしはじめていたのだが、女性は転居届の手続きを終えたあと出てきて、封筒のところにこちらを案内して示すので、ふつうにA4用紙が三つ折りではいる茶封筒をえらんだ。返信用も入れるようにとの指示なので二枚買い、切手も八四円のものを二枚。それらを購入し、記入スペースでふたたび記入。封筒とか手紙とかそういうたぐいなんてもう何年ものあいだ送ることがなかったので、書き方こんな感じでよかったかなというのがあいまいなのだが、まあわかりゃあええでしょうというわけで縦書きでてきとうに書いた。裏面の自分方の情報は右側に書いてしまったのだが、いま検索してみると左側か中央がただしいようだ。「転居届在中」といちおう添えておいたのだけれど、じぶんのなまえを書いたかどうかおぼえていない。住所だけ書いてなまえを書きわすれたかもしれない。それで窓口にまた行って女性に糊を貸してもらい、切手をそれぞれ貼りつけて、三つ折りにした転居届とパスポートのコピー、三つ折りにしたもう一枚の封筒を入れて、そうして窓口に礼をかけながら退去し、そとのポストに投函しておいた。これでちゃんと転出証明書が来るとよいのだが。どれくらい時間がかかるかもわからんな。よくかんがえたらけっこうかかるのではないか? そんなにすぐ来ないんじゃないか。だとすると二四日までに転入手続きが間に合わん。最悪あしたヤクが手に入るわけだから、それで苦労せず電車に乗れるようになるはずで、そうすれば直接役所に出向けばどうにかなるか。
 暑いなかあるいて帰宅。帰ってくるとなんだか疲れたなという感じがして、寝床でだらだら過ごしてしまった。せっかくなので、つけたカーテンも閉ざして部屋を暗くし、休息。七時過ぎに起き上がってデスクにつき、きのうのことをやっつけ気味に記した。そのあとニュースを読むなど。そうして食事。れいによってキャベツ・トマト・サラダチキンを切り、大根をスライス。豆腐も用意。あとはチョコチップメロンパン。毎食このキャベツなどのサラダ食ってるわけで、これはなかなかよい。刻みタマネギドレッシング美味いし。食ったあとはまたニュースを読み、その後洗い物。あと、LINEにパニック障害が悪化したから"(……)"英語版の録音は七月になるとつたえておき、(……)くんにもメールを書いておくった。その後ここまで書けばもう零時一六分。夕食前には書抜きもしたのだった。BGMは山中千尋の『After Hours』。ギターとベースとのトリオでOscar Petersonに手向けたアルバム。なかなかよろしい。きもちがよい。オーソドックスな古き良き香り。


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 そのあとは歯を磨き、シャワーを浴び、もう寝床へ。『雨月物語』を読んでいたのだがいつの間にか意識をなくしていた。気づくと二時台。窓とカーテンを閉ざし、そのまま就寝。