[プロイセンの旅人カール・] モリッツの旅でもうひとつ特筆すべきものに、湖水地方からそれほど遠くない、イングランド北部ダービーシャーのピーク地方にある有名な洞窟の訪問がある。重要なのはそこにはすでに案内人がいて、料金をとって見所を案内していたということだ。ピーク地方、湖水地方、(end154)ウェールズ、スコットランドでは景色を目当てにした観光が興りつつあった。そして、ちょうどイギリス風形式庭園が詩や書簡の言葉をともなって発展したように、観光の成長にはガイドブックの宣伝と後押しがあった。現代のガイドブックや旅行記と同じように見るべきものとその所在地を解説するものだが、なかには、特に聖職者だったウィリアム・ギルピンのものなど、「どう見るべきか」を教えるものもあった。風景のよき趣味は洗練の証であり、洗練を求める者は風景の目利きの教えを求めたのだ。ギルピンが文筆家として大きな影響力をもつに至ったのは、おそらく彼の同時代人が、まるでのちの時代の人びとがガイドブックからテーブルマナーや宿の主人とのつきあい方を学ぶようにして彼の著作を読んでいたからではないだろうか。というのは、ギルピンの著作はちょうど、それまで上流のものだった風景という趣味を、中流階級が身につけようとした時代に書かれたものだからだ。風景式庭園は贅沢品であって、造ったり利用したりするのはごく一握りの者に限られたが、手の付けられていない風景は実質的に誰にでも開かれていた。そして道中の治安が改善され、路面が改良され、移動の費用が安価になるにつれて、それを楽しみに旅行する中流階級の人びとは次第に増えていった。風景へのよき趣味は学んで身につけるものであって、大勢の人びとがギルピンを導き手としたのだった。「彼女なら古くてねじまがった木の見方を説くような本はあらかた手に入れるでしょう」とは、ジェーン・オースティンの『分別と多感』のなかで、情熱的なマリアンについて語るエドワードの言葉だ。批評家のジョン・バレルはこう指摘している。(end155)
十八世紀後期のイギリスでは、絵画や文芸での表現とはまったく異なるものとして、ただ風景を眺めるということが教養ある者の重要な趣味となり、それ自体がひとつの芸術的実践ともみなされる意識があった。風景に関して適切な鑑賞眼を発揮することが、歌唱に優れていたり、礼節に則った手紙を認めたりするのと同じくらいに価値ある社会的たしなみだったのだ。多くの十八世紀後半の小説のヒロインは、こうした趣味をほとんど目障りなほどの技巧を弄しながら披露するような人物として描かれている。そして作家によっては、単純に風景への趣味を身につけているか否かということだけでなく、そのなかのさまざまな趣向の違いさえ、人物像を書きわける妥当な指標とみなしている場合がある。
(レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、154~156; 第六章「庭園を歩み出て」)
- 「英語」: 1 - 30
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れいによって六時ごろにいちど覚めたおぼえがある。つぎに起きたのは八時。紺色のカーテンを導入して朝のあかるさがはいらなくなったので、睡眠がけっこう密だったような感覚があった。寝床で深呼吸。八時一七分に起き上がり、カーテンをあけると、曇天だが空の白さが一瞬まぶしい。冷蔵庫から水を出してちょっと飲み、洗面所に行って洗顔。寝床にもどると書見をはじめた。きょうは『雨月物語』ではなくて、ホッブズ『リヴァイアサン』のⅡを読みはじめることに。八時に起きたあたりで、窓外ではおはようございますと交わし合う声が聞こえていたが、書見中は子どもたちもだんだん集まりだして、送りに来た親が泣いている子にたいしてじゃあね、行ってくるね、といったり、保育士が行ってらっしゃ~い、と受けたりしているのが聞こえていた。保育士は夕方にはおかえりなさ~いともいっているが、あれは迎えに来た保護者にたいして言っているのだろう。子どもたちはけっこう泣いているのだが、なかにひとり、マ~~~マ~~~という泣き声をあげつづけている子がいて、しかしその声は濁点にまみれた感じでめちゃくちゃざらついているので、マのおとがほとんどバに聞こえるのだった。また、あいまにブ~~という泣き声もはさまる。書見は九時半過ぎまで。Ⅱのさいしょは第二十六章「市民法について」。立法権をもっているのは主権者だけであるとか、裁判官は主権者の意図をただしく解釈して、理性による自然法や、証拠や証人による事実にもとづいて判決をくださなければならないみたいなはなし。23に、「ところで、立法者の意図はつねに公平にあると考えられる」とあって、さらにつづけて、「なぜなら裁判官が主権者についてそれ以外に考えることはひじょうな傲慢だからである」(23~24)とされており、そんな理由付けでいいんかいとおもった。あいかわらず立法者=主権者の理性と善意が前提されつつその強大な権限が保証されている。
それから瞑想。さいしょに二五回くらい深呼吸した。それから静止。深呼吸するとやはりからだが芯からほぐれるから楽になる。体温もあがる。しばらく座って目をひらくと、ぴったり一〇時だった。立ち上がり、屈伸したりして、水を飲み、コンピューターを用意。Notionできょうの記事をつくる。それから「英語」ノートをちょっとだけ音読し、もう飯を食うことに。れいによってキャベツと大根のサラダに豆腐。スパゲッティサラダを開封して野菜に添えた。きょうはそれいがいのメインとなるような食べ物がない。キャベツもなくなり、大根もあとすこし。食後、洗い物を済ませると、役所での手続きについてあらためて調べた。とくに健康保険をどうすればいいのか詳しくわかっていなかったのだが、いま扶養で退職後も二年間はとか父親が言っていたのは、たぶん社会保険の任意継続というやつだろう。退職してからも二年のあいだはじぶんの社会保険分を支払えば、被扶養者の分もまかなえるという制度らしい。これが切れるのが来月、ということだろう。ということはそれまで(……)市で国民健康保険に加入することはできないのではないか。切り替えには任意継続が切れたことがわかる証明書がいるようで、このへんは父親に相談しなければならないなとおもってあとで電話をかけたが出なかった。国民年金のほうは、配偶者の扶養で支払われるという区分はあるようだが(これが第三号被保険者)、親の扶養でという区分けはないようなので、じぶんは第一号被保険者にあたるはず。そしてこのひとは引っ越したら年金にかんしても住所変更手続きがいるらしく、それには国民年金手帳がいるようだ。その理解は先日調べたそれと合っている。そのときに母親に年金手帳さがしておいてくれとメールを送っておいたのだが、なんの返信もなかったので、たぶん母親はauメールをみていないのではないかとおもわれた。それで電話しておこうとおもい実家にかけたところが出ない。つづいて母親の携帯にもかけたが出ない。そのながれで父親にもかけたが出ない。しかしちょっと経ってから母親から折り返してきたので、年金手帳をさがしておいてほしいということと、パニック障害が悪化してきょう医者に行くから、そのあとに取りに帰るということをつたえておいた。住所を送ってくれというので了承。いまはイオンに映画を見に来ていると言い、映画が終わってこれから飯を食うところだと。フードコートのあたりにいるようで、ついでに父親にもかわってもらおうとおもったところがいまはなれたところにいて出られないというのでそれならいいと落とした。あと、(……)家の(……)の結婚式が七月の一〇日だったかそのへんにあるという予定で、(……)はもちろん嫌いではないが親戚(いとこ)の結婚式となるとなんか友だちとちがってめんどうくさそうだなとか、あとなによりもパニック障害が悪化しているから公的な場で飯なんて食えないわけで、そのうちことわりの連絡を入れておこうとおもっていたところ、それは延期だかになったという。いそがしいのでべつの日程になるとかなんとか。電話を終えたあと、SMSのほうに住所を送っておき、ついでに部屋の写真も三枚撮ってこんな感じだと示しておいた。ここまで記して一二時二一分。深呼吸をたくさんしたのでからだはやわらかく、ゆびもよくうごいてやる気もあるが、ただやっぱり緊張はしている。母親と電話ではなしているあいだもやはり声がどうも出づらい。高めになってしまう。これから電車に乗るということがわかっているから、それでビビっているのだろう。ちなみにSMSの返信によると、見た映画というのは、「プラン75という高齢者姥捨山みたいな映画でした」とのこと。チャンポンを食べて帰るらしい。おれも食いたい。
来月まで国民健康保険加入の手続きが取れないとすると、それまでにもういちど医者に来ることになったりしたらやばいじゃんとおもった。また金がやたらかかってしまう。それなので、そのへんの事情はもうきょう(……)先生にぜんぶはなして、来月までもつように薬を多めに出してもらおうかとおもっている。電車は15:03発のもので行けばちょうどよさそう。
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SMSでいまそこで父親に社会保険の任意継続が来月のいつ切れるのか聞いてくれと送ったのだが返信がない。過去の日記をさぐってみるかとおもってNotionをみると二〇二〇年七月は二日分しか記事がなく、なかなか書けなかった時期のようだ。ブログのほうも二〇日分くらいしかない。一記事ずつたどりながら「父親」というワードで検索しているうちに、父親が定年になったのが、七月末ではなかったか? という気がしてきた。そういうのってふつう切り良くするものだろうし。そうなると薬がやはり足りないわけで、となれば期限を待たずに扶養からはずれる手続きをし、それでもって国民健康保険に入ることになるのかな、とおもった。さいしょからそうかんがえればよかったのだ。なぜかまったくおもいつかなかったが。あるいはふつうに再交付してもらえばよいのか。すぐつかわなくなってしまうわけだが。そのへんはきょう帰ったときに父親とはなせばよかろう。
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- 「読みかえし2」: 851 - 860
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一時から音読。「読みかえし」。860というのはきのう追加した最新まで行ったということで、「読みかえし1」のほうに移りたい。追加したらその分だけ読みつつ、「読みかえし1」をすすめていく。一二時二一分で日記に切りをつけたあとはきのうのこともすこしだけ加筆し、投稿した。そのあたりで部屋が暑いので水を飲まないと死ぬぞとおもい、百円玉を三つもってジャージに肌着のままそとに出て(すぐなので鍵はかけなかった)、自販機で水を買ったが売切れになってしまって一本しか買えず。かわりに一〇〇円のクラフトコーラも一本買っておき、もどる。部屋の扉の脇の壁にある物入れに水道料金のお知らせがはいっていた。七三四円。使用期間六月七日から二一日とあるが、実質一〇日、もしくは一一日からだろう。それで平均すると一日七〇円強か。洗濯機もつかいはじめたし、今後じっさいにはもうすこしかかるだろうが。
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その後母親とやりとりしたりしつつ、もうはやめに出ようとおもって身支度へ。座っていきたかったのだが、15:03で行くと(……)で乗り換える(……)行きが、(……)線から直通するものだったので、それだと座れないだろうとおもったからである。路線案内を調べなおすと、14:46に乗れば(……)から出る電車に座っていけそう。それで行くことに。歯を磨いたり、リュックサックに財布や携帯などを用意したり。二時半ごろには部屋を発った。ぶらぶら行く。とりたてた印象はない。天気は曇りだったが、だいぶ暑い。赤褐色の幾何学模様がはいったTシャツに、ガンクラブチェックのズボンというよそおい。駅まで行くとやはり緊張。とりわけホームに立ち、いちばんさきのほうの屋根がない地帯、まわりにだれもいないほうに行ったのだが、そろそろ電車が来るとなるととたんにからだが緊張してめちゃくちゃ固くなるのがわかる。来た電車に乗ってももう必死ですわ。この日は音楽(FISHMANS『空中キャンプ』)を耳にながすことで外的情報の圧迫を減らそうともこころみたが、動悸がやばいし音楽に耳を向けるどころではない。しかしともかくもやりすごして(……)で降り、乗り換え。いつも乗っている先頭車両(反対側の端)にいそいで向かう。そこがいちばん乗客がすくないだろうと見込んでいたからだ。しかし平日火曜日の午後三時前でもおもったよりもすくなくはなかった。いちばん端の座席にも向かいにベビーカーをともなったひとらがいたが、まあしょうがねえ、そこにつく。それからは目を閉じて緊張と動悸と吐きそうになる感覚に耐えるのだけれど、こうなると周りにひとがいるかどうかなど関係なく、まさしくじぶんとのたたかいである。目を閉じて音楽がながれていれば周囲の気配など感じられないし、じっさい目を閉じているうちに向かいからはひとがいなくなっていた。それで多少楽になるところはないとはいえないが、とはいえ究極的にはおのれ自身、じぶんの身体とのたたかいである。ゆっくりと呼吸することをこころみた。口で吐くと腹がへこんでそれでかえって苦しくなることがあるので、鼻でゆっくり息を吐くことをくりかえす。その呼気を支えとして、ある種の拠点、根拠地として自己を保ち、おのれの身体と対峙しつづける。そうするとたしかにじきにそこそこ落ち着いてきた。とはいえ突発的にぶり返したりするので油断はできないのだが、すくなくとも動悸がバクバクしまくるということはなくなって、からだはいくらか楽になった。深呼吸をすると精神が落ち着く、吐く息をながくすると副交感神経がはたらくとかよくいうが、たしかにそうらしい。とはいえこういう行動ははじめてパニック障害になったその初期とおなじことである。反復感がある。この日だったか前日だったか、こんなふうにからだがつねに幾ばくか緊張を帯びているというのはひさしぶりだな、むかしはこうだったな、とちょっとばかりなつかしさをおぼえたくらいだ。
そうしてなんとか(……)へ。はやい電車で来たので四時まではまだまだ時間があった。ベンチについて書見。『雨月物語』。とはいえやはり緊張があるから本を読んでいてもそんなに集中できる感じではない。しかも風もやたら強く、たびたび分厚く吹きながれて横から髪を薙いで乱し、ページも応じてばたばたする。あと、胃から空気があがってきてげっぷまではいかないけれど喉で鳴るというやつが起こっていて、頻繁に喉とか食道のあたりで気泡が潰れてぎゅるぎゅるおとを立てていた。それもいやな感じだ。これもたぶん最終的には緊張によって起こっているのではないか。三時四〇分くらいに至ったところで、そういえば医院のちかくに公園があったし、もう行ってあそこにいるかとおもった。立ち上がり、自販機で「いろはす」のちいさなボトルを買い、それを飲むとぎゅるぎゅるいうのはすこしおさまったようだった。エスカレーターをのぼって改札を抜け、左折。階段を下り、バス待ちでならんでいる高齢者のあいだを抜けていくときですら緊張を感じる。線路沿いの道を行ったが、雨がぱらぱら降りはじめていた。構わず進み、医院のビルを通り過ぎて公園へ。縁をかこむちいさな柵をまたぎこえて、ちょうどよく木の下にあたるベンチがあったのでそこに腰をおろした。ずいぶん低い、子どもが座る用だとおもわれるベンチだった。そうして水を飲んだり、深呼吸をしたり、本をまたちょっと読んだり、周囲のようすを見たりして、四時前になると立って医者へ。ビルにはいり、エレベーターをつかわずに階段をあがっていく。だいぶ緊張。待合室にはいって受付にちかづき、こんにちは、というときも声がぜんぜん出ず、かすれており、(……)ですと名乗るのが精一杯。診察券を出して受付。住所が変わったということで新しいものを書いてくれというので、立ったままカウンターで書くが、そのあいだも緊張でわりと必死である。その後、いまは体温を測ってましてということで、受付の女性が差し出してくる体温計を額で受けたが、ちょっと高いですねという。何度くらいでしたときくと、三七度いくらかとか。いま暑かったりしますか? ときくのに、いま緊張してるんで、それで、と喉の詰まったような声でぎこちない笑みを浮かべる。風邪っぽかったりはしないですよね? とつづくので、それはないですねと回答し、いったん座っていただいて、ちょっとして落ち着いたらまた測ってみましょう、ということになった。しかしこれはそのあとけっきょく再計測はなされず。こちらは座席につくと、さいしょは『雨月物語』を読もうとしたけれど、やはりからだを落ち着かせたほうがよいなとおもってまた目を閉じ、鼻でひたすら深呼吸をくりかえしていた。そのうちにだいぶ落ち着いて、これなら大丈夫だわというレベルにいたり、そうするとみずから立ち上がって体温もっかい測ったほうがいいですかねといいに行こうかなともおもったのだけれど、からだをより落ち着かせたかったので、声がかかるまで待とうということで呼吸をつづけた。職員はカウンターの向こうから扉をとおって出てきて、ゴミを捨てに行ったり、トイレの掃除をしたりとけっこう周辺でバタバタしていたが。先客は三人くらいでおもったよりもすくなく、一時間くらいは待つかなとおもっていたのだけれど、じっさいにはたぶん四〇分くらいだったのではないか。そのうちになまえを呼ばれ、体温をもういちどともいわれないのでそのままリュックサックを持って診察室へ。ひさしぶりなのでノックを忘れそうになったが軽くコンコンやって扉を開け、どうも、こんにちは、とあいさつ。お久しぶりですと言い、革張りの椅子についてから、以前はほんとうにお世話になりまして、ありがとうございましたとまず礼を言った。この時点ではまだやはり緊張があり、声が出しづらかったが、はなしているうちに落ち着いてきてほぼふつうに話せるようになった。どうされましたかときかれるので、ようやく実家を出まして、いま(……)にいるんですけど……それが一〇日で、そのまえからなんかまあ胃が悪いみたいな感じはあったんですけど、胃液が逆流するような、で、このあいだの一三日と一五日に勤務があったんですけど、そのとき電車のなかでパニック障害の再発みたいになりまして、吐きそうになっちゃって、一五日には職場でももう吐きそうになっちゃったんで早引けさせてもらって、それで今週は一週間休みをもらってます、などと説明。いちばんさいしょのときとおなじような感じですね、と先生。二〇一八年に自生思考めいたこととか、鬱的な状態になったわけだが、医師はそのときのような症状はないかとひとつひとつ確認した。それらはないとこたえる。保険証をいま紛失しているということも伝えて、終わりに、後日持ってきた場合、返金はできるのかと聞いてみたところ、今月中だったら受け付けるとのこと。ただし薬局はどうかわからない、そちらはそちらの対応によると。一三日には財布に二錠だけはいっていたむかしのロラゼパムを飲んでなんとかなり、一五日にはスルピリドを飲んだがこちらはとくに効きはしなかったとも言った。ロラゼパムだけで良さそうですね、とのこと。記録を見返した医師は、ロラゼパムは鬱的様態のときはもう飲んでいなかったという。そうだったかとおもったが、たしかに一八年中はとちゅうからなにも感じないという状態になり、そうするとべつに不安も感じないからパニック障害の症状は起こらず、べつに安定剤はいらないわとなったのだった。あれも不思議だったな。とにかくなにも感じられない、という感覚があり、だから苦しみもさほどないのだけれど、苦しみをおぼえないというそのことが苦しいみたいな。ただ希死念慮だけがつねにあった。プリーモ・レーヴィとかがアウシュヴィッツについて語っている「ムーゼルマン」、「回教徒」というのは、もしかするとああいう感じだったのかもしれない。だからロラゼパムはかなり古いやつ、しかも財布にはいっていたことを考えると相当に古いもので、もしかしたら五年とか経っていたのかもしれないが、それだと相当古いやつでしたね、でも助かりましたよ、ほんとうに、とこちらは笑った。ロラゼパムは二週間分出してもらえることに。しかも一日二回の処方なのでたくさんあるぜ。ひととおりはなしが終わると先生はとつぜん、小説は書いてますか、とたずねてきた。破顔して、そうですね、書いてまして、と受けると、応募とか、とつづくので、応募はしてないんですけど、と置き、あいかわらず毎日読み書きをやっておりまして、ただまあこのまま実家にいてもどうにもならないし、もうとりあえず出てしまおうと、ようやくですけどね、と笑った。もうひとつ、ひとり暮らしについて、自炊なんかしてますか、ともたずねられた。まだ調理器具をそろえてないので自炊っていうほどじゃないですけど、まあキャベツを切ってサラダをつくったり、キャベツは毎食切ってますねとまた破顔しながらはなした。
ともあれこれでヤクが手に入ることになったので安心である。礼を言って室を出ると、会計までのあいだも目を閉じて呼吸をしていた。なぜかずいぶん時間がかかったが。自費だとなにか違うのだろうか? ともかく会計。七七一〇円だった。一万円札と一〇円玉で払い、処方箋を受け取り、礼を言って退出。このころには緊張もだいぶなくなっていた。ビルを出て、となりの薬局へ。局内とそととのあいだに消毒アルコールの置かれた狭いスペースがあるのでそこで手に薬品をかけ、もうひとつ自動ドアをくぐる。受付に処方箋を提出。あいては研修生の札をつけた男性。去年だか二年前だかに塾で指導した(……)くんに似ているなとおもったが別人である。あいてがなにか聞いたのにかぶせてしまったが、あの、保険証をいま紛失してしまっていて、きょうはとりあえず自費でお願いします、と頼んだ。研修生の横につきにきた女性が、かしこまりました、と答え、研修生のほうは、お薬手帳はときいてきたので、あ、お薬手帳はないですと回答し、女性がシールのご用意もよろしいですかと聞くのにはいと返した。それで六二番の札を受け取って席へ。ほかに客はいなかった。すこし経ってから老婆がひとり来たくらい。あと電話がひとつはいっていた。ここでも目を閉じて深呼吸をつづけて呼ばれるのを待ち、じきにさきほどの女性が呼んで会計。多少やりとり。ここで実家を出て引っ越したが、それを機に悪化したような調子で、とちょっと説明。記録を見ましたら、まえにもつかっていたお薬なんですね、と。ひさしぶりにつかうので眠気が出たりするかもしれませんとのことだったが、二二日の日付替わり直前のいま、それは如実に感じている。やはり飲むと意識が重くなるようで、眠い。ここでは一八七〇円だった。意外と安いなとおもったのでそう口にしたが、単価が五. 一円なので自費でもそこまでにはならないようだ。ここでも後日保険証をもってきたらということをきくと、返金を受け付けているというので、父親による再交付が今月中に間に合えば金を回収しにいくのがよいだろう。
薬局を出ると五時一〇分くらいだった。雨がすこしだけつよくなっていた。意に介さず、線路沿いをとおって駅にもどる。気分はだいぶ楽になっていた。現金な心身で、安定剤を入手した安心があったのだろう。深呼吸をつづけていたのでそれで落ち着いていたこともある。ホームにはいると立ったまままた音楽を用意し、FISHMANSのライブ盤を聞きながら電車に乗る。ようやく音楽が耳に入るようだった。(……)に行くとすぐ乗り換えて、実家の最寄りへ。ここでも雨は散っていたがたいした降りではない。駅を出て街道沿いの自販機をいちどはとおりすぎたが、せっかくだから土産を買っていってやるかとおもって茶(「綾鷹」)とコカコーラゼロを買った。土産といえるほどのものではないが。それを両手にもちつつ道を行き、とちゅうで右に折れて林のなかの坂を下っていけば家はすぐそこ。まわりの木々の葉の色に変化があるかと駅を降りたときから目を向けていたが、まだまだ色濃くて特別変化は見受けられず。ただ街道を行っているときは、やっぱりじぶんは性分としては、こういうすぐそこに丘が見えたり、そのへんに木々がいくらでもあって緑色が多かったり、鳥声がつねにあるような場所のほうが向いているのだろうなとおもった。街には街のおもしろさがまたあるにはあるが。自宅の玄関はひらいていたので隙間からはいり、靴を脱いで手をアルコールで消毒。居間の椅子に座っている母親が気配を聞きつけて身を反らせうかがい、おかえりと言ってくるので受けて入る。土産の飲み物をテーブルに置き、手を洗うと椅子に座っていや疲れた、などと漏らす。父親はこのとき階段下にいたがまもなくあがってきたのであいさつ。ふたりともとうぜんながらこちらの体調を気遣うが、まあ安定剤をもらえたからこれで大丈夫だろうと言っておく。父親などは無理にひとりで暮らさなくてもいい、とこの滞在中三回は口にしたし、母親もとにかくからだを、健康を優先して、といったが、じぶんはひとりで暮らしたいし、今回はまだまだ地獄の入り口にすら立っていない、ぜんぜん浅みにいるとおもっているので(この帰りの電車内ではその判断を修正して、ちょっと地獄に足を入れかけたかなとおもったが)、まあまあまあと受け、まあどうしても無理ってなったらまあ、と言っておいた。それで居間で母親とたしょう話したり、父親と保険まわりのはなしをしたり。保険証再交付の手続きはもうしてきたというので礼を言い、来月末まではそれで通って、そのあとは(……)市のほうで国民健康保険にはいる、とつたえた。そのほか年金手帳を回収するのが目的で来たわけだが、母親が探しても見つからなかったという。あるとしたら居間の引き出しかじぶんの部屋かだろう。というのは、たしかパスポートをつくるときにつかったおぼえがあるのだが、そのときじぶんが年金手帳ある? ときくと、母親が居間の引き出しから即座に取り出していたからだ。だからそこにもどしたか、それかつかったあと自室に置いたままになっているかだろうと推測し、自分の部屋におりてここじゃないかという場所をみてみると、まさしくそこにあったのでなんの苦もなく見つけることができた。そのほか本をいくらか持っていくことに。あと、いらない本も分けて縛ろうとおもい、ついでに居間の隅の籠に新聞が溜まっていたのでこれも縛ってそとの物置きにはこんでおいた。これはもういいなという漫画などをわけて兄の部屋に運び、縛ろうとしていると母親が来て、しばらなくてもいい、メルカリに出してみるから、という。それほどのものではないとおもうのだが、なにしろ河原で拾った石や流木にも値段がつく貨幣の神の支配領域である。それで兄の部屋に積んであるものたちに、手近にあったノートのページを切ってつくった紙で、いる本とかいらない本とか売ろうと思っている本とか表示を乗せておいた。あと、兄の本棚の上半分以上をこちらが強奪占拠してじぶんの領域にしているのだが、母親はそれも兄の本だとおもっていたようなので、違う、こっからうえはおれのだから、これも持ってかなきゃ、と言っておいた。それでこの日はリュックサックにポール・ド・マン関連の本とか新書を三冊入れ、もう一枚紙袋に書き抜かなければならない本とか、あと『フィネガンズ・ウェイク』とかジョルジュ・ディディ=ユベルマンとかサイードとかを入れた。また、母親はきょう泊まっていくものだとおもって(SMSで帰ると言っておいたのだが)食事を用意したというので、食べない、電車のなかで吐きそうになるからというと、じゃあ持ってけばとなって米と肉の炒めものと厚揚げをパックに入れて用意してくれたので、こいつはありがたい、きょうの夜はものがないから帰りに買っていかなければならないかとおもっていたところが、これでOKだとありがたくもらうことにした。ほんとうはキュウリとトマトも持っていけとのことだったのだが、入らないのでとキュウリ一本だけをもらった。うちのものではないと言っていたがそれではどこのものなのか。スーパーの品なのか、それか(……)さんあたりがつくったということなのか。食べ物は汁が漏れないようにとビニール袋二枚で二重に包み、さいしょは本のうえに載せようとおもったが無理そうだったので、これを一番下に据えて周りを本で固めれば傾かないし安全だろうと気づいてそのようにリュックサック内をセッティングした。そうしているこちらのようすを両親はそれぞれ横に立って見下ろしている。そうして母親が(……)まで送っていってくれるというので出発。雨がそこそこになっていたわけだが、傘も持っていっていいというので一本もらった。その黒いやつをと父親がいうのに、これいいの、お父さんのじゃなかったの、ときくと、これおまえのじゃなかったのかと同じ問いが返り、いいというのでいただくことにした。戸口で振り返り、からだに気をつけて、とあたまを下げると、お互いになとかえるのでそうだねと受けてそとへ。そうして母親の車に同乗。乗った後部座席から戸口に顔を出している父親に手をあげておいたが、たぶんリアガラスの兼ね合いで見えなかっただろう。それらしい反応がなかったので。
それで(……)駅まで。駅前で降り、あいさつして駅舎内へ。改札をくぐってホームに出ると、やってきた電車に乗って先頭車両へ。心身はだいぶ落ち着いており、なんだったらもうきょうは薬飲まなくてもだいじょうぶだろと余裕綽々でいたのだが、とはいえやはり電車内なので発車前に一錠服用した。それでさいしょのうちはやはり楽でFISHMANSの『男達の別れ』をながして"ナイトクルージング"とか"なんてったの"とか聞いていたのだけれど、とちゅうからなぜか腹がうごめくような感じが生まれ、それとともにまたなにかがあがってくるような嘔吐感が生じたので、おいおいぜんぜん楽じゃなかったとおもって慌ててやりすごす態勢にはいった。とちゅうで薬をもう一粒追加もしたのだけれど、この帰路はかなりきつかった。これだとばあいによっては地獄の入り口に一歩踏み入りかけているかもしれんとおもったくらいだ。耐えているうちに、けっきょくやはりじぶんがおそろしい身体の感覚から目をそらさずにそれを見つめることで対抗できるかどうかが肝要なのではないかとおもった。目をそらしたらやられる、と。吐きそうな感覚があがってくるのは怖いものなのだが、そこから逃げようとするとかえってそれがふくらむような感じがあり、それをきちんと見ようとすると不思議とある程度まででおさまるような感じがある。恐怖に視線を向けて対峙しなければならない、それができる力と容量をじぶんに身につけていくというのが、けっきょくのところこういう症状に対抗するための有効策なのではないかと。吐きそうだの動悸だの周りに他人がいるとだのいろいろあるが、本質的には問題はやはり恐怖なのではないかと。恐怖から逃げずにそれを見ることができるかどうか、ということ。なににたいする恐怖なのかわからないが。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが考察していた、すべての恐怖症は最終的には恐怖そのものをおそれる恐怖恐怖症にいたるということばのただしさを、じぶんは身をもって実感している。たとえば電車に乗るまえとかにめちゃくちゃ緊張したり不安をおぼえたりしてその時点で苦しいわけだが、このときじぶんが恐怖しているのは、電車に乗るということそのものよりも、そこで生じる恐怖とか発作にたいしてである。来たるべき恐怖をあらかじめ恐怖しているところがある。
なんとか(……)まで生き延び、きついしどうするかこのあいだとおなじように歩いて帰るか、それともあとすこしだしなんとか耐えるかとおもいつつ、しかしきょうは雨もちょっと降っているようだし本の紙袋もあって手が重いから歩くのはなかなか骨が折れる。とりあえず電車を見てみようと(……)線のホームに移り、いちばん端の車両に行ってもまあ予想通り混んでいるわけだが、ここはしかしもう死んだとおもってがんばるかと乗り、扉口の脇に立って本を足もとに置いて、手すりをつかんで目を閉じながらみずからの恐怖と対峙しようとした。そうするとおもったほどひどいことにはならず、(……)に到着。わりとへとへとという感じで降りて、駅を抜けてのろのろと帰路をたどった。夜道。そのあとはたいした記憶がない。飯は食った。母親がくれたやつで、白米と肉の炒めものと厚揚げ。ロラゼパムを二錠飲んだからからだがめちゃくちゃ重く、あたまもはたらかず、意識のうえになにかにのしかかられている感じで、どうにもならず、じきに寝床に落ちて死んでいた。そのためシャワーも浴びず、歯も磨かずになってしまった。