2022/6/22, Wed.

 今日の読者にとっては、絵のような眺め、あるいは景色のための観光といったものの存在は、風景を好むこととおなじようにそれほど特筆すべきものとは思われないかもしれない。しかし、そのすべては十八世紀に発明されたものなのだ。世に知られた詩人トマス・グレイの湖水地方の旅は一七六九年、風景を見るための最初の観光旅行者がこの地を訪れ、そのことを記録に残した二年後のことだった。グレイもまた同じように記録を残した。この世紀のおわりには湖水地方はもはや押しも押されぬ観光地となり、その地位は未だに揺らいでいない。その立役者は(end157)ギルピンとワーズワースといってよいが、ナポレオンも忘れてはいけない。海外に足を向けていたイギリス人旅行者は、フランス革命ナポレオン戦争の動乱をきっかけに自国を再発見した。旅行者の足は大型馬車から鉄道へ(そして自動車と飛行機へ)と変わった。みなそれぞれにガイド本を携え、それぞれに風景へ目を向け、土産物を買う。そして目的地に着くと歩く。おそらくもともとは、歩くことはいちばんいい眺望を発見するために動き回るプロセスの一部であり、副次的な行動だった。しかし世紀をまたぐころになると、歩行を中心とする旅の趣向も登場し、ウォーキング・ツアーや山登りが夜明けを迎えようとしていた。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、157~158; 第六章「庭園を歩み出て」)


  • 「英語」: 31 - 60
  • 「読みかえし1」: 29, 51 - 64


―――


 29番。

 どんなにあなたが絶望をかさねても
 どんなに尨大な希望がきらめいても
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は……
 どんな小鳥が どんなトカゲや鳩が
 廃墟にささやかな住居をつくっても
 どんな旗が俄かに高々とひるがえっても
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は……
 あやまちを物指としてあやまちを測る
 それが人間ひとりひとりの あなたの智恵だ
 モスクワには雪がふる エジプトの砂が焼ける
 港を出る船はふたたび港に入るだろうか
 船は積荷をおろす ボーキサイト
 硫黄を ウラニウムを ミサイルを
 仲仕たちは風の匂いと賃金を受け取る
 港から空へ 空から山へ 地下鉄へ 湖へ
 生き残った人たちの悲しい報告が伝わる
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は!
 ふたたび戦争 かさねて戦争 又しても戦争
 この火事と憲法 拡声器と権力の長さを
 あなたはどんな方法で測るのですか
 銀行家は分厚い刷りもののページを繰る
 経営者はふるえる指で電話のダイヤルをまわす
 警官はやにわに駆け寄り棍棒をふりおろす
 政治家は車を下りて灰皿に灰をおとす
 そのときあなたは裏町を歩いているだろう
 天気はきのうのつづき あなたの心もきのうそのまま
 俄かに晴れもせず 雨もふらないだろう
 恋人たちは相変わらず人目を避け
 白い商売人や黒い野心家が
 せわしげに行き来するだろう
 そのときピアノの
 音が流れてくるのを
 あなたはふしぎに思いますか
 裏庭の
 瓦礫のなかに
 だれかが捨てていったピアノ
 そのまわりをかこむ若者たち
 かれらの髪はよごれ 頬骨は高く
 肘には擦り傷 靴には泥
 わずかに耳だけが寒さに赤い
 あなたはかれらに近寄り
 とつぜん親しい顔を見分けるだろう
 死んだ人は生き返らない 死んだ人は
 けれどもかれらが耳かたむける音楽は
 百五十年の昔に生れた男がつくった
 その男同様 かれらの血管には紛れもない血が流れ
 モスクワの雪と
 エジプトの砂が
 かれらの夢なのだ そしてほかならぬその夢のために
 かれらは不信と絶望と倦怠の世界をこわそうとする
 してみればあなたはかれらの友だちではないのですか
 街角を誰かが走って行く
 いちばん若い伝令がわたしたちに伝える
 この世界はすこしもすこしも変っていないと
 だが
 みじかい音楽のために
 わたしたちの心は鼓動をとりもどすと
 この地球では
 足よりも手よりも先に
 心が踊り始めるのがならわしだ
 伝令は走り去った
 過去の軍勢が押し寄せてくる
 いっぽんの
 攻撃の指が
 ピアノの鍵盤にふれ
 あなたはピアノを囲む円陣に加わる。
 (『岩田宏詩集成』書肆山田、二〇一四年、170~175; 「ショパン」; 「8 モスクワの雪とエジプトの砂」; 『頭脳の戦争』より)


 62番。

 (……)「わたしはビルに入った」とわたしが言う時、わたしの文はとてもありきたりですが、それがフランス語の文法に従属する構文の規則に従っているという意味で構造化されています。一人称の主語の形態、動詞、場所の補語、これだけの拘束があるのです。チェスのように駒があり、規則があります。しかしながら、構造を備えたこの文は、同時に、閉じていません。それが閉じていないという証拠は、無限にそれを拡張することができるからです。
 例えばこの文は、「わたしは階段を昇るのが嫌いなのだが、外で雨が降っていたので、ベリー通り二五番地のビルに入った」となることができます。一つの文が決して飽和状態に達することがなく、理論的には無限のプロセスに従い次々に補充することによって、よく言われるように、触媒作用を引き起こすことができるという考えは知的次元においてまさに驚くべきものです。中心は無限に可動的なのです。
 なんという言語学者が言っていたのかもうわかりませんが、とても素晴らしいそしてとても心をかき乱されるものがあります。「私たちの一人ひとりはただ一つの文だけを話すのですが、死だけがそれを中断できるのです。」 それはあらゆる認識に一種の詩的戦慄を伝えるものです。
 (ロラン・バルト/松島征・大野多加志訳『声のきめ インタビュー集 1962-1980』みすず書房、二〇一八年、143~144; 「『レクスプレス』誌は前進する…… ロラン・バルトとともに」; 『レクスプレス』誌、一九七〇年五月三一日号)


―――


 八時二〇分に離床。やはり六時ごろとか、あとそれよりいぜん、四時ごろにも覚めたおぼえがある。きのうはロラザパム二錠の作用でだろう、からだがめちゃくちゃ重かったので、たいしてうごくこともならず、シャワーも浴びず、歯も磨かずにねむってしまったのだった。八時ごろにさだかに覚醒すると深呼吸をくりかえしてからだの稼働準備をととのえる。起き上がると紺色のカーテンをあけて外光をとりいれるが、きょうも曇りでひかりというほどのものはない。洗面所に行って洗顔し、水を飲んで、ドライヤーで髪をとかした。おもったよりもべたついてはいない。歯ももう磨いてしまい、それから寝床にもどって書見した。ホッブズ/永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサンⅡ』。そのとちゅうに、Amazonで耳栓を注文したことをおもいだし、何時に来るとかわからないかなとおもって手もとのスマートフォンgmailにアクセスしたところ、通知が三つ来ている。そのさいごのものに、もう届け終わったと書かれてあったので、もう来てたのか、はやいなとおもって起き上がり、ジャージに肌着で部屋を出て階段下の郵便ボックスを見に行くと、ちいさな包みがはいっていたので回収した。部屋に帰ると鋏で開封。いかにもアメリカらしい化学的な黄緑色のパッケージに、黒影でわずかに厚みを出した黄色い「PURA-FIT」の文字が記されているそういう袋が一〇個、ビニールのなかに入れられている。じつにチープな見た目だ。ビニールをあけ、さっそく一袋破ってあけて、なかの耳栓ふたつをとりだした。これも黄緑色で感触はやわらかい。袋の裏につけかたが英語と絵で示されてあり、最小サイズまでまるめて耳に突っこんだらそのまま待っていればOKというはなしだったのでそのようにした。潰し方がわからずてきとうに潰して耳にいれると、さいしょのうちはすきまが多いからべつにそんなに聞こえなくなるわけではなく、頼りないような感触だったが、そのうちにもとの形状にふくらんでくると耳の穴が埋まっていき、そうするとみごとに聴覚野がかなりしずかになった。子どもたちが園庭のほうで騒いでいるとおもうのだが、そちらの声はぜんぜん聞こえなかったし、車のおとなどもかなりカットされる。こいつはよろしい。子どもらのなかにひとり、すぐむかいの近くで泣いている子がいて、たぶんほかの子にひとり遅れてぐずっているのだろうか、保育士がなだめながら行こう? ほら、とか言っているのが聞こえたが、それも遠いような感じだ。おとが全体的に遠くなり、静寂がひろがる。おちつく。
 それで書見し、九時一〇分か二〇分かそのくらいから瞑想した。三七分座った。ここさいきんのパニック障害再発、そしてきのうの帰りの電車内での時間などから、やはりじぶんのからだを日頃からよくみておかなければならないのではないか、おのれの身体と対峙し、観察し、いかにも文学的な言い方でいえば対話するという訓練を日々やっておかねばならないのではないかとおもって、きょうはそれを意識した。じぶんの身体、とくに喉とか腹とかの感覚に注視をむけて、そのゆらぎとかうごきとかみつめ、把握するようこころがける。おもしろいもので瞑想しながらからだのあるところに注意をむけると、そこの筋肉がやわらいでいくことがよくある。筋トレのときに鍛えたい筋肉に意識をむけながらやったほうが効果は格段にあがるというはなしをいぜん聞いたことがあるが、それとおなじなにかが作用している気がする。
 デスクについてコンピューターを用意。LINEを確認するなど。一〇時をまわるときょうはもう食事を取ることにした。ものはとぼしい。キャベツはきのうなくなってしまい、のこっているのは大根にトマト、レモン風味のサラダチキン、あときのうもらってきたキュウリなので、トマトはのぞいてそれらをサラダにした。包丁とまな板をつかわず楽に済ませようということでキュウリと大根はスライスし、あとあれだ、スパゲッティサラダののこりも全部添えて、サラダチキンは開封すると切らずにそのまま野菜といっしょに盛った。その紙皿ワンプレートのみを食事とする。レモン風味のサラダチキン、なかなかうまかった。一食でまるごとひとつ食べるのはもったいないが。瞑想中にけっこう腹が鳴って、これはさいきんはなかったことだ。腹が鳴るというのもなかったし、いかにも明確に空腹をおぼえるということもなかった。やはりからだがつねに緊張していたのかもしれない。ようやく平常にもどりつつあるのかもしれない。
 かたづけをすると一一時くらいで、音読をしようというところだが、曇天だけれど窓外が意外とあかるみを帯びてきている。それでYahoo!のページで天気予報をみてみると、東京はきょうは曇りで降水確率も五〇だったのだが、雨雲レーダーとやらで六時間後まで推移をみてみると、このへんはぜんぜん雨雲ないじゃんというわけで洗濯をすることにした。それでタオルとか下着類とかを洗濯機へ。あとTシャツと、ながらく洗えていなかった真っ黒いズボンもくわえた。ズボンはたぶんほんとうは洗濯機で洗っては駄目な品ではないかという気がするのだが、まあかまうまいとおもい、Tシャツといっしょにネットに入れておいた。洗剤をてきとうに混ぜて稼働させ、そのあいだに音読。洗濯が終わったのは一一時三八分。干す。フェイスタオルとパンツひとつは集合ハンガーに。午後にひかりがだんだんかたよってくるのを見越して棒の左半分にすべてまとめる。出したころにはむかいの保育園の建物に薄光の白いかさなりがみられてよい感じだったのだが、一二時半過ぎ現在は空からかろうじての青さも消えてしまい真っ白で、ミスったかな、という気配が生じつつあるようにおもえなくもない。降りさえしなければ曇天でもそこそこ乾くとおもうのだが。


―――


 (……)くんに小説の感想文を書いて送った。やたら長くなったので、段落ごとに一行空けをはさみ、さらに話題のまとまりごとには三行空けるかたちにした。これと同時に返信も。先日、パニック障害が悪化したので二五日は延期させてほしい、それはそれとしてせっかくだから通話しようと送っておいたのだが、その件。もともとの予定通り二五日の一四時から通話することになった。

「(……)」を読ませてもらいました。全体的にはなかなかおもしろかった、楽しめた、という感じが残りました。とりわけおもしろく感じた点や、反対に、じぶんの好みとは違った点などを感想として記します。かなり長いので、気をつけてください笑



まず、きわだって良かったところ、特筆するべきだとおもったのは、課長である島田健司のウザさです笑 あまりにもウザい。パワハラ上司のいやらしく、ウザすぎる言動やセリフ回しがよくつくれていて、これは読んでいておもしろかった。

しかもじぶんの場合は、この小説が(……)くん自身の体験に相当程度もとづいているということを知っています。課長のモデルの上司もたぶん、ふだんからわりとこういう感じの言動をしていたわけでしょう。そう想定すると、(……)くんよくこんなところで長年耐えてたな、おれだったら即座に精神を病むか、それかこいつをぶん殴ってクビになってたわ、とおもいました笑

ただもしかすると、じぶんとは違って(……)くんの事情を知らない読者がふつうに読むと、この課長の言動は戯画化が過ぎているように、あからさまでわざとらしく感じられるかもしれない、ともおもいました。しかしともあれ、見事にウザい。



つぎに良かったのは、終盤、中島が死んだあとに、荒木と佐伯が飯屋ではなしあい、議論をする場面です。ここの会話はダイナミズムがあり、流れがうまく整っているように感じられました。冒頭ではとうぜん、中島の死がまず話題になりますが、けっこう緊張感を帯びつつ、もろもろバチバチと議論を交わしたあと、荒木が、中島は課長に追いこまれて死んだのではないかという大胆な仮説を出して、かれの死という主題がもどってくる。そこで生まれる、「中島は、なぜこの世から消えねばならなかったのだろうか」(85)という問い、「その死の真相」(85)への疑問が、つぎの展開につながっていく。そういう意味で、ここの議論から、そのあと終わりに向かっての流れは物語的になめらかに、たくみに構築できているようにおもいました。

荒木という人物もニヒルで小賢しく、口がうまくて、なかなか嫌いではありません笑 とはいえかれは小賢しいだけの人間ではなく、この小説に出てくる人物のなかで唯一、きちんとした批判=批評の精神と、善を信じるような信念を持っている。情報や要素をとりあつめて分析・統合することで、他人が気づかない現実の見方を提示しています。ワイズカンパニーは「利益を追うあまり、黒を白と言い、白を黒と言う達人を育ててる」(83)とかれは断言していますが、この「黒を白と言い、白を黒と言う達人」からある種の読者がおもいおこすのは、まさしくソフィストという一語でしょう。その比喩にしたがうならば、荒木はソフィストの欺瞞をあばく哲学者のような存在だということになります(ソクラテスと比べるとまったく迂遠ではなく、自分からどんどん、はっきりとした意見や考えを口にしますが)。

荒木の名がはじめて作中に書きこまれ、かれがはじめて発言するのは19ページです。だからというわけではないですが、18ページからはじまる田崎部長による研修の場面は、この小説を読んでいてさいしょにちょっとおもしろみを感じたところです(逆に言うと、それ以前、「(一)入社」のあいだなどはけっこう単調に感じていました)。具体的にどの点が、というのはわからないのだけれど、(……)くんは会話をつくるのがうまいのかもしれない、ひとがことばで長くやりとりする場面をおもしろくする力があるのかもしれない、とおもいました。島田課長のウザさも、そのセリフやことば遣いによって喚起されていたわけで、そこともつながるかもしれません。



はなしをちょっともどすと、荒木と佐伯の議論以降、最後まで、終盤の物語的展開もおもしろく読みました。回帰的な議論の構造が疑問を生み、中島のSNSアカウントの発見へとなめらかにつながるというのは述べたとおりです。そこで、中島の意図された死をみちびきとして、「なんだ、自分からいなくなれば良かったのか」(86)という気づきを佐伯は得ます。これは一種の真理のおとずれ、すなわち「啓示」ですが、ここで啓示が来るのかというのがおもしろかった。

くわえてこの啓示がおもしろいのは、真理を手にしたようでいて、じつは極論から極論に飛んでいるに過ぎないということです。佐伯本人は自分の問題を解決する(解決というよりは解消でしょうが)決定的な解を見出したという確信を持っていますが、客観的にはそれはなんの解決にもなっていない。極論から極論に飛んでいるといいましたが、その論の方向性は変わっておらず、要するに生産性と効率至上というそれまでの原理から逃れられないまま、その範疇で一挙に先鋭化したということだとおもいます。「したがって、赤字社員として金銭的価値を生み出せていない僕は、生きていること自体が世の中にとって迷惑な存在なのだ」(87)とか、「未来まで含めて全体最適を考えたとき、これから僕が生きていく中で社会に撒き散らし続ける害悪の大きさを見据えれば、止むを得ない犠牲と言うほかない」(88)とか、「したがって今回は、会社に何も報告しない方が、巡り巡って会社への貢献につながるのである」(89)とかいう言い方に、それがあらわれているようにおもいます(自殺をすればもうそれで終わりだというのに、まるで前回があったり次回があるかのごとく「今回は」という言い方をしているのもちょっとおもしろい)。

この気づきを蝶番、結節点として、物語は転換し、佐伯の自死に向かってなだれこんでいくわけですが、最後になって課長から呼びもどされるかたちで自殺は成就されずに終わる。裏切り的な締めくくりになっています。この終盤の展開はおもしろく、オチもうまくついたとおもいます。



ここまでがおもしろかった点です。つぎに、駄目だとかクソつまらんということではないですが、個人的な趣味も含みつつ、じぶんからすると疑問を感じたり、好みと違ったりした点を記しておきます。



まず全体的な面でいうと、文体です。この文体が下手くそだとか、うまく書けていないということではない。ただやはり、じぶんの好みからすると簡素に過ぎるなとおもいました。形容修飾や比喩もすくなく、またつかわれる比喩的な表現は新奇でない、通念的なものにとどまっているとおもいます。たとえば、いまはじめから目についたのを拾ってみると、「この瞬間、僕の頭の中には、無数の疑問符が一度に湧き立った」(1)とか、「髪はワックスでほどよく固められており、容姿は俳優のように整っている」(8)とかです。

さらに、この小説は具体的な描写がすくない。ここでいう具体的な描写とは、たとえば風景の記述であったり、なにかものや人間の様子や動きのさまなどを詳しく記述することです。たくみな描写は、読む者のうちに仮想的な知覚とか、さまざまなイメージとか、動きの感覚とかを喚起させます。じぶんは趣味としては完全にそういうたぐいの記述に惹かれるタイプなので、その好みからすると、この小説はぜんぜん描写がないなあ、とおもいました。



その代わりにどういう記述があるかというと、説明です。描写と説明の違いとはなにかというのもややこしい問題で、たしかな解をもちあわせていませんが、ひとつにはより具体性についているか、それとも経済的な要約性についているかという点があげられるんじゃないでしょうか。

たとえばいまこころみに、前から見てみて説明的だと感じる部分をあげてみると、2ページの「そもそも、僕のようなしがない機械部品メーカーの平社員に(……)」に以降がそうです。ここから一行開けまでの三段落は、一人称の独白で佐伯の思考を語ったものになっていますが、なんというか非常に経済的で、余計な要素がなにもなく、「今回はここまでの縁であったと思ってもらうほかあるまい」という結論まで、じつにストレートに、まっすぐ最短距離でながれているように感じます。

それ自体が悪いというわけではないですが、この小説は全体的に、物語の進行や会話のやりとりのあいだにはさまる佐伯の独白(思念)が、心理や思考を描いているというよりも、説明をしている、というふうに感じられました。思考のありかたを描出するというよりも、整理された情報をうまく順番にならべて読者に提示している、というか。したがって、非常に経済的で、わかりやすく読める文章ではあるわけです。



描写についても考えてみます。作品の一文目は、「僕宛に知らない男から電話がかかってきたのは、残暑もようやく落ち着こうかという九月末のことだった」(1)となっていますが、尋常に「文学的な」小説だったら、この「残暑もようやく落ち着こうかという九月末」にかんする情報をもっと盛りこむでしょう。たとえばエアコンの温度がどのくらいになっていたとか、通勤途中のセミの声のおとろえがどうだとか、天気はどうだ風の質感はどうだ、社内のひとびとの服装や様子はどうだ、このあいだまで団扇をつかっていたひとがもうつかわなくなったとか、飲み物を買いに行く回数がどうのその選択がどうのとか、やりようはいろいろありますが、具体的な情報でもって季節感を出したり、感覚や風景を書いたりします。

さらにセリフをはさんでそのつぎに、「事務の涼子さんから取り次がれ、僕は首を傾げた」(1)とあります。この一文は描写にあたるとおもいます。そのとき起こった具体的な行動を書いているからです。反対に、そのつぎの、「社名も人名も、全く聞き覚えがない」以降は、この描写に付加されたかたちの、どちらかといえば説明的な文に属するかとおもいます。もしここで描写度合いを高めるならば、涼子さんの取り次ぎ方はどんなふうだったのか、そのときの彼女の表情は、視線は、姿勢は、声音は、服装は、とか、そういう情報を書くことが考えられます。

また、佐伯の反応としては、「僕は首を傾げた」のあと、電話の主を知らないことを示す「困惑気味な声を漏らした」という二点が書かれていますが、ここもやりようによっては情報を足してふくらませることができるでしょう。佐伯と涼子さんの位置関係や、オフィスの人やものの配置など、空間的な様子を描くこともありえます。

あるいはそもそも、「社名も人名も」から「直接電話してくるはずだ」までは丸ごと省いてしまい、そこに起こったじっさいの行為や出来事のみでひとまず進めていくというやり方も取りえます。それでも事情は十分にわかるはずです。この観点からすると、「社名も人名も」から「直接電話してくるはずだ」までの情報は、出来事に対する注釈的なコメントのように感じられます。先ほど述べた、「この小説は全体的に、物語の進行や会話のやりとりのあいだにはさまる佐伯の独白(思念)が、心理や思考を描いているというよりも、説明をしている、というふうに感じられました。思考のありかたを描出するというよりも、整理された情報をうまく順番にならべて読者に提示している、というか」という印象をそのように言い換えることもできるでしょう。物語に対して注釈をはさみながら進めている、というふうに感じられた気がします。

以上からして、基本的に、そのときその場で起こっている行動や時空の様子、知覚情報などを、適宜形容修飾をもちいながら具体的に記述するというのが描写・描出ということではないでしょうか。だからといって、具体性にやたらとついてただただ記述をふくらませればよいということにはもちろんなりません。そのバランスは書き手がやりたいことや作品が要請することによって変わってきますが、この作品は、じぶんの好みからすると描写的な要素がすくなく感じられたということです。



ただ、ここでもうひとつ難しい問題が出てきます。この作品が主人公佐伯による一人称の語りだということです。ということはすなわち、地の文で書かれることがだいたいそのまま佐伯の人間性や、感受性や、かれの知覚感覚をあらわすことになるということです。つまりあまりこまかな描写をすると、この人物はそんなによくものを見ているのか、とおもわれたり、妙に文学的な感性をもっているな、と読まれたりすることがありえるわけです。

この作品の場合、記述が説明的だということは、そのままこの佐伯という人物が説明的で、やや理屈っぽく、論理でもって物事を納得しようとする傾向がある、ということを示すはたらきをするでしょう。そう考えた場合、またこの作品の舞台(企業共同体・ビジネス界隈)やそこで展開する物事を考え合わせた場合、こういう文体でも良いのかもしれないともおもいます。



記述のありかたがそのまま佐伯の人物造形につながるという点について、もうすこし述べさせてもらいましょう。序盤を読んでいたときの印象として、この主人公はずいぶん物わかりが良いな、じぶんでじぶんを納得させるな、そういう解釈をじぶんで用意するな、というものがありました。

具体例を挙げると、早川から五回も電話があったということを知らされたときの反応です。涼子さんの報告を受けて、たしかに、「僕は、背中がぞわりとするのを感じた」(3)と、感情的・感覚的な側面がまず述べられています。読者にとってはここで、ずいぶん礼儀正しく慇懃だった早川の像に、なにかしら得体の知れない不気味さのようなものが滲んでくるわけです。

ところがその直後、佐伯は、「電話の約束をした覚えはなかったが、確かに、ヘッドハンティングの件をきっぱり断ったわけではない。約束と受け取られてもおかしくはない返事の仕方だった気もする」(3)と言って、みずから感じたその不気味さを中和し、自分で納得の行く考え方を提出しています。佐伯にとってはこれはある種の自己解決なわけですが、その理解は同時に読者に対しても提示されることになるわけで、だとすれば読者にとっても、早川の得体の知れなさに説明がついてしまう、ということになるでしょう。

はっきりした約束もなかったのに、「一、二時間おきに」(3)、五回も電話をかけてくるというのは、われわれの生きている世間的な常識から見てあまり尋常なことではありません。しかも電話の相手はそんな行動を取りそうにもない、丁重な言動の人物でした。そういう事態を読んだときに、そのちぐはぐさからわれわれは異常をおぼえ、この人物はいったいなんなんだろう、という不気味さを喚起されるでしょう。佐伯の身からすれば、そんなにしばしばかけてくるなと文句の一つくらい言っても良いのではないかとおもわれるほどです。ところがそのあとを見てみても、電話を折り返した佐伯は、「早川の滑るような口調からは、焦りや苛立ちなど微塵も感じられない。やはり、こちらに電話を折り返させるため、一芝居打ったとみえた」(3)と判断しています。ここで先ほどの箇所と同じことが起こっているのが見て取れるとおもいます。あまり常識的とはおもえない事態の不気味さを、常識の範疇におさめもどす解釈を提出しているわけです。



こういった部分を読んだときに、じぶんがおもいつく評価の仕方はふたつです。ひとつは、せっかくの不気味さが弱められてしまい、中途半端にふつうの事態になってしまったという理解です。不気味さを中和せずに、いってみればカフカ風の、悪夢的な質感をもうすこし残したり、よりばら撒いたりするというやり方もあったかもしれません。

もうひとつには、佐伯の人物評価につなげることができます。「ずいぶん物わかりが良いな、じぶんでじぶんを納得させるな、そういう解釈をじぶんで用意するな」と先に記しましたが、これらを一語でまとめると、じぶんの場合、「従順」という印象になります。理屈で考えがちで説明的であり、異常な事柄に対しても自分で自分を納得させる解釈を提示でき、事態に順応するための従順さをもっている、と。

佐伯をそのように評価するなら、これはとうぜんながら物語のその後の展開、かれが会社のシステムにしたがって追いこまれていく様子と順当につながるでしょう。ただしこの点も二通りの評価ができます。つまり、展開として順当であるために意外性がないとも考えられる。佐伯が当初はもう少し感情的だったり、疑いを持っていたり、反骨的だったりしたほうが、会社とシステムによる「洗脳」の力がまざまざと示される、という可能性もあるでしょう。とはいえそれも、あまりやりすぎるとわざとらしくなってしまうので、成功させるためには細部の調節によるほかはありません。



そしてここで、先ほど長々と言及した「描写」と「説明」の二分法に立ちもどりたいとおもいます。描写というものは適宜形容修飾をもちいて具体的なことを記述するやり方だ、と述べました。したがって、それは物語のながれからすると余計物です。構造の面から見ると、それに付け加えられる余白や装飾や多少の厚みに過ぎない。物語を語りたいだけだったら、そんなものはすくないに越したことはなく、最小限で良いわけです。風景の記述など必要ない。

この作品の場合はしかし、「描写」と「説明」という(仮の)二分法を活用しながら、文体の面でも多少、変容のダイナミズムを生む可能性があったのかもしれないな、とおもいました。つまり、序盤では「描写」をすることができていた佐伯が、会社とシステムの圧力によって「説明」しかできなくなっていく、という構想です。



描写としてもっともわかりやすいのはおそらく風景の描写で、一人称において風景描写をするということは、その人物に風景を見て感受する感性や余裕があるということを示します。くわえて上に触れたように、描写的記述は説話的経済性からすると邪魔な要素で、端的に言って物語の流れを停めたり遅くしたりするわけです。そういう余白部分においては、物語の主軸にかかわるような意味の濃度、つまり心理的な要素とか、思念的な要素とか、論理的な要素とかを薄くすることもできます。佐伯の理屈っぽさと説明から離れる要素として、風景その他の描写がありえたんじゃないかとおもうわけです。最初のうちはそういったものが文章に含まれていたのに、物語が進行し、佐伯が変化していくにつれて削減されていき、システム的な効率性に同化したような文体になる、と。

文体と物語内容を一致させたかたちでの統合的変容を想像してみた、というわけです。これももちろん、うまくやらないとわざとらしいものになります。とはいえ(……)くんも、それと似たようなこころみはしているとおもいます。つまり、後半になると佐伯は会社の思想を見事にインストールし、深く身につけて、それにもとづいてさまざまな判断をしていることが見て取られます。妻である佳奈との「議論」(67)がその最たる例ですが、佐伯自身は自分のそういう様子に客観的な疑いを抱くことはない。そしてそのまま例の「啓示」を経て極点に達するわけですが、この後半から終盤にかけての佐伯の狂いは、やはりどこかあからさまに説明をしすぎているなという感触をもちました。



そして、この感想を書いている途中に気づいたのですが、上述したようなじぶんの理解にしたがえば、この作品の文体・文章は、余白的な描写がすくなく、物語を語るにあたっては非常に経済的な文章です。説明もたびたび十分にふくまれており、わかりやすく、読者は遅延や迂回を感じることなく、スムーズに読みすすめていくことができるでしょう。すなわちこれは、とても効率的で無駄やノイズのない文章です。そして、効率性・経済性・無駄のなさ・ノイズのなさとは、まさしく現代資本主義社会の金科玉条であり、作中で描かれているワイズカンパニーの至上命題じゃないですか。

この小説は文体的に、作中で(荒木にいわせれば)その「洗脳」(83)力や「詭弁と欺瞞」(79)が書かれている会社と、同じ原理にしたがい、それをかなりの程度体現しているように見えるということです。(……)くんがこれを意図していたのか、またこの一致がなにを意味するのか、そこからさらにどういう読みや解釈をみちびきだすことができるのか、そこまではじぶんにはわかりませんが、この照応自体はたぶん、ひとつの観察として指摘できるのではないかとおもいます。

文体のありかた、すなわち形式が、内容とは離れて(もしくは内容との関係で)独自に意味を持ちうる、ということでしょう。文体についてはこうしていろいろ述べてしまいましたが、読むにあたって違和感をおぼえた箇所はありません。誤字もまずなかったとおもいます(たしか一箇所だけ、この漢字ではないはず、とおもったところがあった気がしますが、忘れてしまいました)。じぶんの好みからすると簡素に過ぎるという文体ですが、その範疇で丁寧に、きちんと書かれているのを感じられたようにおもいます。以前話したときに、全部音読して推敲すると言っていましたが、それを今回もきっちりやったんじゃないでしょうか。



感想は以上です。また新しい作品を書いたら、読ませてください。偉そうなことをいろいろと言っていますが、じぶんもじぶんで作品書かなあかんのですけどね。25日に通話するとおもうので、そのときにまたいろいろはなしましょう。


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 (……)くんへの感想文を書いたのはたぶん二時から五時くらいだったとおもう。けっこう時間がかかってしまった。まだまだである。それできょうはキャベツもなくなったわけだけれど買い出しはまあいいかなと、カップ麺があってあとトマトとキュウリがのこっているから夜はそれを食えばいいかなとおもい、部屋に籠ることにした。出たのは飲み物を買ったときだけ。水が売切れだったので、カフェインゼロの麦茶と、Welch'sのぶどうジュース。天気はけっきょくその後ぐずぐずとした感じで雲が支配的になり、駄目だった。夕方まで出しておいたが、とうぜんながら乾きは甘く、すっきりとせずにわずかに湿りがのこった。耳栓をしていると気づきにくいが、六時くらいだったかそろそろ入れようかなとおもったところがちょうど雨がぱらついてきていたのでいそいで回収した。とりあえず室内のカーテンレールや、スーツなどをかけてある木製ブロックのならびに吊るしておいた。
 夜にやったことといってやはりたいした記憶もない。夕食はうえのように「どん兵衛」の鴨出汁蕎麦と野菜。キュウリはきのうの夜に大根やスパゲッティサラダのあまりといっしょに食い、半分くらいのこっていたので、それとトマトのさいごのひとつをトマトがはいっていたパックに乗せ、男は黙ってまるかじりというわけでマヨネーズをつけて直接むしゃむしゃかじった。トマトのまるかじりはうまいといわざるをえない。包丁もまな板もスライサーもつかわなかったので洗い物もすくなく済んだ。カップ麺の容器はとりあえず洗剤を垂らして水を注ぎ、なかを泡で埋めておく。パックはながして切って捨てればよいだけ。食後はロラゼパムを一錠飲んでおいた。数日前は、今回は出かけるときやはたらくときだけで、毎日飲む必要はないだろうとおもっていたのだが、おもったよりも心身が傷んでいる気がしたので、甘くみるものではない、やはりまいにち飲んで身を落ち着かせたほうがよいだろうと判断し直した。一日一錠にするか二錠にするかはまた決めどころで、そこは日によって変えても良い気がするが、毎日かならず一錠は飲むということをつづけよう。それで落ち着いた状態を平常として身に経験させなければならない。そういうわけで飲んだのだが、この日の夕食後はそれでまたからだが重く、眠くなって、かろうじてシャワーは浴びたもののたいしたこともできず。寝床に引き寄せられたのが何時だったか、意識をうしなったのが何時だったかもおぼえていない。
 夕食前に布団のうえでけっこうながく読みものをする時間があったのだけれど、そのとき読んだのは一年前の日記と、あとまえまえから論文を読もうとおもってCiniiでめぼしいものを拾っていたのだけれど、きょうようやくそのなかからなにか読んでみるかなという気になり、石川美子「日記の時間」というのを選んだ。しかしそこまでおもしろかったり、刺激的だったりするわけではなかった。書き抜くもしくは日記に引用しておくほどのことはないかな、という感じ。「自己の内面を語る文学形式」(131)として、「自伝」「日記」「自己描写」というジャンル区分をしており、「自己描写」というカテゴリは知らなかったが。それは「自己について思い浮かぶことを断章的に書きしるす」(131)もので、モンテーニュの『エセー』とかミシェル・レリスの『ゲームの規則』がそれにあたるという。レリスの作品もさっさと読みたい。これら三形式は、つぎのように弁別されている。「すなわち日記とは、暦の時間にそって書かれるが、過去をふりかえるという回顧的視点をもたず、その主題は日ごと(断章ごと)に完結するという断章的構造をもったレシである」、「これにたいして自伝とは過去を年代順に語る回顧的なレシであり、自己描写とは時間的順序も回顧的視点ももたない断章集だといえる」(133)と。ただこれ微妙というか、じぶんの日記をかんがえるとけっこう過去の記憶をたびたび書くわけで、それは「過去をふりかえるという回顧的視点」にあたるような気がするのだが。とはいえ、たしかに「自伝」のように「過去を年代順に語る」というほどながい時間をそこで扱うわけではなく、断片的なできごとや場面や、ちょっとした物事の経緯の記憶にかぎられるので、「自己描写」については「回顧的視点ももたない」といわれてはいるけれど、じぶんの記憶の記述とかはどちらかといえば「自己描写」のほうにちかいのかもしれない。「日記は自伝と自己描写のはざまに曖昧なかたちで位置づけられる」(133)ともいわれているが、「自己描写」に「暦の時間」という「時間的順序」を導入したのが日記であると。ただいっぽうで、じぶんのこれのばあいは、特異なかたちでの「自伝」でもまたあるといえるような気もする。「過去をふりかえるという回顧的視点」はないというか、厳密に言えば書かれることはすべてすでに過去なのだから、そこでいちおう「過去をふりかえるという回顧」のはたらきは生まれているわけだけれど、それは日ごと、その都度のことであって、ふつうの自伝作家のように、過去のおおきな範囲をひとまとめの対象として受け取って、それをある程度年代順に配列し、つなげて物語にする、というやりかたではない。とはいえ、この日記が物事を「年代順に語る」ものであることはまちがいない。暦、日付という厳密きわまりない順序がそこにあるからである。ただしそこで語られるのは遠く、ある程度の量がひとまとまりになった過去ではなく、直近の過去であり、それがその都度書かれ、書き足され、書き継がれていくというありかたをしているのがこのテクストだ。だからありふれた結論にすれば、ほぼ現在進行のかたちで自伝が書かれているということになるだろう。ブログを読んでいるひとは、こちらの自伝の製作に日々リアルタイムで立ち会っているということになる。これを「自伝」といえるとして、このまま死ぬまで書き続けることができれば、歴史上この世でいちばんながい自伝を書くのはおそらくこちらか(……)さんのどちらかになるだろうが、石川美子の論文内では「自伝」についてまた、「執筆を決意した時点で、物語(自伝)の終わりが決定され、そこからさかのぼって物語の全体、そして始まりが構想されることになる。したがって執筆開始の時点が、物語の終わりによって追い越されることはありえない」(134)と記されている。それはとうぜんのことである。「追い越されることはありえない」だろうし、また「物語(自伝)」を「執筆開始の時点」まで追いつかせて語る作者もすくないのではないか。ところがじぶんの日記は、まあじゅうぶんにはできていないけれど、日々記述を生の現在時に追いつかせることをひとつの肝要事としている。そういう意味で、日々の「執筆開始の時点が、物語の終わりによって追い越されることはありえない」のだが、それはまさしく、記述がいちど現在時まで追いつけば、そこでいったん書くことが尽きるからであって、「追い越されることはありえない」というか、こういう日記のばあい、「物語の終わり」は原理的に「執筆開始の時点」を追い越すことができないのだ。そのつぎに行くためにはまたすこし時間が経って、書き手であるじぶんの生がすすまなければならない。「作者の時間と物語の時間との乖離こそが、回顧的視点の本質である。この回顧的視点は自伝にとって、いくつかある特徴のひとつではなく、自伝が物語として成立するための必要条件そのものなのである」(135)と石川美子は述べているけれど、じぶんの日記においてはこの「作者の時間と物語の時間の乖離」がほぼまったく存在しないと言ってよいとおもう。だとすれば、このテクストは、「自伝が物語として成立するための必要条件」をそなえていない。
 あと、ロラン・バルトの弟子というか生徒だった気がするが、エリック・マルティが、「日記とは「死のためのエクリチュール」である」と主張しているらしく、「日記だけが「作者が死んでも未完として残されることのない唯一のテクストである」とマルティは言う」(136)とのこと。「作者の死によって、ほかの作品は完成を中断されるが、日記は、死によって、まさに死の瞬間に完結する。作者の意志で書きやめられた日記のほうが、かえって「中断された」とみなされる。この逆説は日記だけのものである」(136)と石川美子は説明をくわえているが、こうかんがえたことはなかったな、とおもった。じぶんがじっさいに死ぬまで日記を書き続けたとして、それはふつうに未完で終わるものだとおもっていた。だからむかし、この日記というのは決して完結をもたず、ただじぶんの死という偶然の要素によってのみ、未完のまま断ち切られざるをえない、決して終わりを成就することのない、非完結性と挫折を運命づけられたテクストなんだみたいなことを言ってロマン化していたおぼえがある。それがまさか死によって「完結」してしまうとは。たしかにいわれてみればそうかもしれない。とはいえ、この点は死による切断をどう見るかという評価の違いでしかないが、ただ、「作者の意志で書きやめられた日記のほうが、かえって「中断された」とみなされる」というのは、これはたしかにそうだなとおもった。ただ、どうだろう? こういうことをいうからには、「日記」はほんらいその書き手の「死」まで続くものだという考えが前提化されているように見えるのだけれど、日記を書くひとがそんなことをおもって書き出すかというと、そんなわけがあるまいとおもう。いつまでつづけるかとかそんなことはかんがえず、まあとちゅうでやめてもいいやと、そのくらいの感じではじめるひとが大半なのではないか? そしてじっさい、かれらかのじょらはそうながくつづけないうちに、忙しくなったり、面倒くさくなったり、つまらなくなったり、ほかに楽しみが見つかったり、意味を見失ったり、飽きたりして書くことをやめていく。それはブログ時代になり、またTwitter時代になり、文を書いて記録する手間が格段に減り、カジュアルになったとてそう変わりはしないだろう。だから、日記とはむしろはじめからとちゅうでやめるものとして書きつづけられる気がするのだが。それは完成・完結を前提とされず、それどころか日記という形式領域においてそれらはそもそも存在せず、あるのはただ中断だけである。生のとちゅうでさまざまな事情により書くことをやめるにせよ、死によって強制的に打ち切られるにせよ、そこにあるのは中断だけなのだと、じぶんはそのようにかんがえたほうがしっくりくる。それはひとの生が完成・完結しないのとおなじことである。ひとの生に、その時間に道行きに、完成や完結などあるはずがないではないか? あるひとの生がいったいどうなれば、その生は完成・完結したとみなせるのか? そんなものはありはしない。ひとはただ生き、生きつづけ、そしてあるとき死ぬだけである。死は終わりではあるかもしれないが、完成でも完結でもない。それはたんに生が中断されるだけのことである。中断というからには再開がいつかまたありうるのか、それは人知を越えた問題である。さいきんだと異世界転生漫画がいろいろ流行っているようで、いまあるじぶんの生を終わらせてまるでリセットするかのようにべつの人間や環境に生まれ変わりたいという願望が行き渡っているように見える。それはエンターテインメントとしてはおもしろいだろう。だがもし、死がたんなる生の中断にすぎず、輪廻転生が生の再開なのだとしたら、まるで中断前の生が丸ごと失われたかのように、まっさらな状態からやり直せるかのようにおもうのはただのご都合主義に過ぎない。死が中断で生まれ変わりが再開なのだとしたら、中断前の生は決してなかったことにはならず、ひとはそれを引き継ぎ、引き受けていかなければならない。こういうかんがえを拡張すれば宗教的なものになっていくだろう。仏教や平安時代の文学が言っている業とか前世の宿縁というのはだいたいこういうことではないのか?