「脚に一家言ある女性に聞く限り、彼の脚には全員が辛辣な評価を下していた」。ワーズワースについて語るトマス・ド・クインシーの言葉にいりまじる賞賛と敵意は、この詩人に続く世代の大方に共有されたものだった。
ひどい欠点があるわけでなし、たいていの人間の必要以上に役にたつ脚だったのは疑いがない。十分な資料にもとづいて計算してみると、ワーズワースはまさにその脚で一七・五万から一八万マイルの距離を踏破したに違いない。この骨の折れる運動は、彼にとってワインや蒸留酒、そのほか何であれ動物精気 [アニマル・スピリッツ] を刺激するものの代わりだった。彼はそのおかげで翳りのない幸せな生涯をおくっているのであり、われわれもまた、彼が書いたものの最良の部分をそこに負っている。
ワーズワースの以前にも以後にも歩いた者はいた。また徒歩旅行を行なうロマン派詩人は跡を絶たなかった。それでも、ワーズワースほど、歩くことを人生と芸術の要とした者は後にも(end169)先にもない。ほとんど毎日のように歩きながら長い人生を送ったワーズワースにとって、歩くことは世界との出会いの手立てであり、同時に詩を書く方法でもあった。
ワーズワースの歩行を理解するためには、心地良い場所を歩くひとときの散歩という概念と、近年の研究者がロマン主義的歩行と称しているもの、すなわち徒歩による長距離の旅行という概念をいずれも手放してみることが肝要だ。なぜなら、ワーズワースにとって、歩くことは移動の様式ではなく存在の様式だったから。二十一歳のときには二〇〇〇マイルの徒歩旅行を敢行したが、後半生の五十年間は小さな庭のテラスを行きつ戻りつして詩を書いていた。彼にとっては、その両方がパリやロンドンの街頭をさまよったり、山に登ったり、妹や友人と歩くことと同じように大事なことだった。彼の詩はこれらあらゆる歩行の向かう先にあった。ワーズワースの歩みについては、この本のもっと前の方で、歩行を思考プロセスの一部にしていた哲学的な著作家たちとならべて論じることもできたし、あるいは、都市の歩行の歴史をあつかう後続の章でとりあげることもできる。しかし歩くことを、まったく新しい力強いやり方によって自然や詩へ、あるいは貧しさや漂泊へと結びつけたのはワーズワースその人だった。そしてもちろん、彼自身は農村的なものを都市の上位においていた。わたしが自然とともに歩んだことの幸福
ひしめく生活の醜さにあまりに早くより交わることなく…… 〔『序曲』〕(end170)後代の人間にとって、ワーズワースは野外における歩行の歴史をたどろうとするときに目をとめる、いわば道祖神になっている。
(レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、169~171; 第七章「ウィリアム・ワーズワースの脚」)
れいによって半端にねむってしまい、四時前だったかに覚めて、そこで正式に寝ればよかったのだがなぜかもう起きてしまう気になり、といっても寝床でスマートフォンをだらだらいじっていただけなのだが、そうして朝をむかえた。朝をむかえてから上田秋成/鵜月洋=訳注『雨月物語』を読みはじめたものの、とうぜんながらさすがにねむいので寝ようとなり、きれぎれに半端な休息を取って最終的に一〇時前が正式な離床となった。とにかくシャワーを浴びず歯も磨かずにねむってしまうということをただしたい。顔を洗うとしかしまずは書見というわけで『雨月物語』の原文パートを読みすすめる。現代語訳でいちど読んだわけだから直近にすでに知ったはなしを再読しているわけで、原文になったとはいえそんなに目新しくなるわけでもないから、しょうじきそんなにおもしろくはない。ただときおりこの古語、このいいかたはつかえるかもしれないというものがないではない。訳注や補注もついているから、この和歌はここから取ってきたものである、この表現は万葉集のここを踏まえたものである、この部分の典拠はこれであるとそういう文献学的関連がしめされるのもなかなかおもしろい。『雨月物語』の物語は、けっこう中国の小説とかを翻案したものが多いようだ。
たぶん一〇時四〇分くらいまで読んだ。瞑想はサボる。きょうは二時から(……)くんと通話なので、それまでにシャワーを浴びたり、洗濯をしたりしておきたかった。天気はまったき快晴、きのうもそうだったがとにかく風がつよく、頻々と走って精霊のうなりを宙に差しこみ、窓を網戸にすればレースのカーテンはなすすべもなくもてあそばれる。起きるととりあえずものを食ってみずを飲もうというわけで、といってみずはもうなくなってしまったので、飲むヨーグルトをプラスチックのコップについで飲む。うまい。食事はオールドファッションドーナツのさいごの一個だけでいいやとおもったのだが、それを食べればやはり野菜も食べたいなとなり、すでに洗濯をはじめて振動している洗濯機のうえにまな板を乗せ、キャベツを細切りにした。皿は紙皿を前晩につかいきってしまったのできのうニトリで買ったどことなく瀬戸物風の、オリーブらしいが実のついた草が白地に深めの青で描かれているそれをもちいた。大根のスライスも乗せ、あいた半分にはレモン風味のサラダチキンを一個丸ごと添えた。そうしてクリーミーオニオンのドレッシングをかけて食す。洗い物は流しにひとまず放置しておき、洗濯も終わっていたがそれも措いて、食べ終えるとまずシャワーを浴びた。束子でからだをこすってから湯と水と蛇口をそれぞれひねってうまく調節し、ぬるめのお湯でいちどからだをながして髪も手でなでつけながら深くまで濡らす。それからいったん湯を止めて、ボディソープを手に取ってからだをいくらかこすり、シャンプーであたまもガシガシ洗うと、ふたたび蛇口を調節して再度全身をながし、シャワーを止めて立ち上がるとまず浴槽にとどまったままフェイスタオルでからだを拭いた。同時に扉もあけておいて外気の涼しさをとりこむ。それから縁をまたぎこして便器のまえに立つとバスタオルで正式に水気をぬぐい、パンツを履いてそとに出ると収納スペースの籠に置いてあるドライヤーを手に取って、寝床の枕元に行って角のコンセントにつなぐと髪をかわかした。肌着のシャツとジャージのしたも着て、それから洗濯物を干しにかかる。円型ハンガーをうまくつかって洗濯ばさみに空きが出ないようにした。フェイスタオルやパンツに靴下である。そのほかバスタオル一枚と、肌着のシャツ一枚。したがって吊るされたものは計三つであり、靴下のワンセットが余ってしまってどうするかとおもったが、洗濯ばさみでバスタオルを取りつけたハンガーの下辺に、おなじく洗濯ばさみではさんでおいた。それぞれ棒に吊るした部分をうえからY字ピンチでかこむようにはさみ、強風が吹いてもながされないようにする。その後見てみても、かたむきはするものの、上部はずれず、また吊るしたものが飛ばされることもない。肌着のシャツはふつうにかけるだけではやばそうだなとおもって、ちょうどハンガーがとちゅうにへこみのあるタイプだったので、肩口にあたるそのへこみ部分を洗濯ばさみを留めておいた。だいじょうぶそう。
そうして流しの洗い物をかたづける。洗ったものを置いて乾かすツールがないというのがやはり目下主要な問題のひとつである。いまのところは洗濯機のうえにタオルを敷いて皿とまな板はそこに置いたり、プラスチックゴミのたぐいは流しのまわりとか靴箱のうえとかにてきとうに置いたりしている。きのうニトリでちょっとだけ見分してみたが、トレイに溜まったみずが勝手にながれだすようなタイプではなくて、いちいち捨てるようなほうがむしろこの部屋のばあいはよいかもしれない。流しまわりにそれを置いてシンクへと排水できるほどのスペースがないので。ものを洗っているあいだは床とかにいったん置いておき、洗ったものをぜんぶ乗せ終わったら流しのうえにうつしておくみたいな。
それからきょうのことをここまで記すと一時二四分。洗濯物は飛ばされていない。さきほど見てみたが、もうほぼかんぜんに乾いていて、おそろしいはやさ。きょうは三五度だとかいう。今年一ではないか? しかしそこまでめちゃくちゃ暑いという感じもないが。このあいだのほうが室内は暑かったようにおもう。湿気はあまりないのだろう。エアコンも入れずに済んでいる。
あとそういえば、シャワーを浴びたあとに水を買いに出たのだけれど、ジャージに肌着のすがたで扉をくぐると、その時点から吹きすぎる空気の抵抗が扉とこちらのからだをちょっと押してきた。下りていくとアパート横の自販機の脇には自転車が停まっており、中年の男性がひとりいたので会釈をする。自転車をどかしてくれた。たぶんこの建物に住んでいるひとではなく、サイクリングのとちゅうで飲み物を買って休んでいたというところではないか。こちらも自販機で水のボトルふたつと、クラフトコーラを購入。三つをかかえて建物にはいり、郵便ボックスになにもないのをチェックして階段をあがると、二階通路端の開口部からみえる隣の家や周辺の屋根のあいまの空が、汚れなきみずいろに真っ青だった。
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そうして二時から(……)くんと通話。通話前にもう洗濯物を入れてしまおうとおもい、一〇分前になると取りこんで寝床のうえでたたんで籠などへ。ただバスタオルのハンガーにつけていた靴下だけまだ乾ききっていなかったので、それはあらためて集合ハンガーにつけて出しておいた。のちほど通話中、三時過ぎくらいにしまった。通話のためにはZOOMを作成。無料版なので四〇分でいちど切れてしまう。さいしょはそのたびにまた新規ミーティングをつくらなければならないとおもっていたのだけれど、ZOOMの画面をよくみてみるとパーソナルミーティングとかいうものがつくれるようで、これならすぐはいり直すことができるんじゃないかとおもって試してみたところ、そういう仕様だった。それで四〇分ごとにつなぎなおしながら八時ごろまで、六時間もはなしつづけた。通話をはじめたさいしょはまず開口一番体調はだいじょうぶかときかれたのだが、まあ薬ももらったし、そうすれば落ち着くから問題はないとこたえる。序盤はまたこちらの部屋やひとり暮らしのようすについてはなしたり、(……)くんが飼っているカメについて聞いたりした。パソコンをもちあげてカメラで部屋内をうつし、洗濯機と冷蔵庫は買ったが調理器具がないのでまだ自炊というほどではない、キャベツとかを毎食切って食うくらいだというと、(……)くんは、いや、えらいなと言い、まえにも聞いたことがあるが、かれがひとりでアパートに住んでいたときは、一年半かそのくらいつづいたけれど、一回も料理をしなかったと言った。コンビニの弁当とか冷凍食品とかをローテーションで食っていたという。だから健康にはめちゃくちゃ悪い、野菜もぜんぜん取ってなかったし、まあ二〇代なかばってことでそれでもなんとかなったんだろうけど、とのこと。冷凍食品もうまいよねえと受けつつ、ただいままだ電子レンジがないから、むしろ冷凍食品食えないのよとこちらは言った。(……)がくれるといっているからはやいうちにもらいたい。そろそろあったかいもん食いてえとおもってるけど、ともらす。目下こまっているのは洗った皿とかを置いておくスペースがないことだと言うと(……)くんはたしかに、といいながら笑い、なんかしたに水が溜めておける入れ物みたいなの買ってやるしかないかなというので、じぶんもそうおもってきのうちょうどニトリでちょっと見てみたけどねとこたえる。部屋を(……)市にさだめたのは(……)図書館を利用したいというその一心に尽きるということも言った。物件はふつうにホームズとかSUUMOとかああいうのでさがしたの? ときかれたので、高校の同級生が不動産屋の店長やってて、それでもう頼りきりですよ、とかえす。まあ最低ランクのなかでもまだましなとこってので探してもらって、(……)だと最低が三万くらいなのね、とはなすと、やっす、という反応がかえった。都心などほかの土地の相場を知らないし、(……)さんが京都で二万円くらいの部屋でやっていたのをずっとブログで読んでいたわけだから、そんなに実感が湧かないのだが、(……)くんはいちど北千住で物件をさがしたとき、まあこのくらいかなというやつで七万くらいだったと。それだとなあとおもっていると、もっと埼玉寄りになるけれど竹ノ塚というところがあってこっちだったらもうすこし安いですよと不動産屋にいわれてその土地に決めたという。当時は職場が秋葉原だったとか。けっきょく何万だったのかは聞かなかったが、たぶん五万円台とかだろうか? この部屋が三万三〇〇〇円だけど、その値段のわりにいいほうなんじゃないかとおもう、と告げた。まあ不便はあるけれど不満は感じていないと。
でもまさか(……)だとはおもわなかったよ、と言った。というのも(……)くんはサイクリングをときおりやっていて、川沿いに自転車を走らせてこのへんまで来ることがよくあるというのだ。きのうも三五キロだか走ったところだという。三五キロ走るとかいわれても途方もない数字にしかおもえないのだけれど、もうそのくらいでは筋肉痛にもならないと。帰ったあとも活動する余力があるという。いままででいちばん走ったのは(……)くん((……)くんの旧友で、われわれが月一でやっていた読書会にも一時期参加していた)の家まで行ったときで、ばしょは所沢、そのときは往復で一一五キロくらいになったと。意味がわからん。片道で三、四時間かかったらしく、暗くなってから走るのはあぶないから避けたいので、朝に出て昼前くらいにつき、午後三時くらいまではなしたりしてそれから帰り、日の長い時節だったから七時くらいに帰りついてもまだあまり暗くなかったのでそれがよかったと。それでいえばちょうどいまも夏至を過ぎてまもないころあいで、きのうだかおとといだか、七時半にいたってもそとは黄昏にはいったくらいで陰がちながら宵まで満たず、建物にさえぎられた遠い空の低みに雲が茜に染まってのこり、空気は緑をかすかにはらんで池のようなあの青さに浸っているのに、ずいぶん日がながいな、夏至のころというのはこんなにながかったかとおもったことがあった。一一五キロ走るとさすがにそれはくたくたで、帰れば眠くてそれいじょうなにもする気にならなかったと。自転車で走行中はこのくらいの夏めいた時期でも風にふれているから意外と暑くはなく、ただ信号などで停まるときは陽を受けて熱がとどまるからそれは暑いと。ランナーズハイみたいなやつある? ときいてみると、自転車で走っているときは意外とそこまではなくて、あれはふつうに足で走っているときに、けっこうきつい状態まで行ったあとに来るもので、脳に酸素が足りなくなってぼんやりすると起こるとかいうが、そうすると気づかないうちにめちゃくちゃすすんでいたみたいなことになるのだけれど、自転車は意外とそこまで脚の筋肉をつかわない、というのはある程度漕げばそのあと脚を止めてもすすむからで、そこまで酸素が足りなくなることがない、ということだった。自転車というのもたしかにきもちがよさそうではある。町中で走りたいとはまったくおもわないが。なんでもいいのだけれど、歩くか走るかチャリか、ともかくそういう持続的に移動するたぐいの運動をほんとうはやっぱり習慣化するべきなんだろうなとおもう。それでいえばあとで小説とかのはなしをしているときに(……)くんが村上春樹の名を出して、なんだっけ村上春樹が小説家になるために必要な習慣みたいなことを言ってて、と書名をおぼつかなく口にしながら背後の棚を振り返るので、『職業としての小説家』? ときくと、あ、そうそうそれ、と。いわく、まずだいいちに、小説家は身のまわりの見聞きしたものをスケッチのようにして書き記す習慣をつけなくてはならない(そうだね、と肯定)、第二に、どんな本であれ、本をたくさん読まなければならない(そうだね、と肯定)、第三に、体力をつけなくてはならない、と(そうだね、まちがいない、と破顔)。そのとおりだわ、だからあいつジョギングしてんだよねというと、そう、毎日一時間だかかならず走ってるらしいからね、と返った。その話題が出たときというのは、ものごとの具体性とか、世界のなかの具体的なポイントにたいする観察力を養うためには、じぶんのばあい日記を書いて身の回りのことごとをこまかく記すのが役立った、というようなはなしをしているあいだで、(……)くんはそれに応じて村上春樹のそのはなしと、もうひとつ、ヤマザキマリや浦沢直樹の例を出していた。というのも漫画のはなしもたしょうしていたからだが、文脈としてはまあいわゆるエンタメ・純文学みたいな例の区分のことをはなしていて、エンタメ的な作法をまなぶんだったら映画や漫画にまなぶのがいいんじゃないかとこちらが言い、それでここ数年読んだ漫画のなかでいちばん王道的におもしろかったのは『図書館の大魔術師』というアフタヌーンで連載しているやつだとこちらが言い、とはいえじぶんは三巻くらいまでしか読んでいないのだけれどと付言しつつ、あれは王道も王道で、これ読んでおもしろいっておもわないひとほぼいないんじゃないの、という感じのストレートアヘッドな漫画だが、だからといって安っぽいことはなく、丁寧につくられているし、絵の描きこみなんかもすごい、と教えておいたところ、(……)くんはまえに浦沢直樹がなにかのテレビ番組に出ているのをちょっとだけ見たことがあって(ちなみに『じゅん散歩』にも出たことがあり、そのときはトキワ荘を訪れていたという)、そのときメビウスの絵とか手塚治虫の絵柄とかをその場でささっと描いて、こんな感じですよねと提示していてすげえとおもったのだという。メビウスの名を(……)くんはもともと知っていたわけではなく、このまえにバンドデシネのはなしを出していたのでそこでググって画像を見て知ったのだが、このあたりはおもいだせばのちほど。ヤマザキマリもなにかの旅番組に出ていて、というかあれだ、U-NEXTだかNetFlixだかわすれたが『テルマエ・ロマエ』のアニメだかなにかがやっていて、その本編後に五分間だけおまけとしてそういう作者が出演する番組があるらしいのだけれど、そこでヤマザキマリは草津の温泉をおとずれており、湯もみ体験をしていた。板をつかってえんやーこーらどっこいしょという風情で湯をかきまわすあれだけれど、とうぜんながらあれはからだをめちゃくちゃつかってかなりきついらしい。湯の抵抗もおおきいだろうし。ヤマザキマリはそれを体験して、いやこれはきつい、とひいひいいったあと、タブレットだったか紙かわすれたが描くものをとりだして、その湯もみをしている女性らのようすをその場でささっとスケッチしはじめ、こんな感じですかねと示したその絵がやっぱりうまくてすごいなとおもったと。やっぱそういうもんだよね、それだからおれが見た風景とかを書いてるのとおなじ感じだろうね、とこたえた。
(……)くんはカメを飼っている。そのカメが通話中に脱走をこころみたらしく、顔を横にむけた(……)くんはちょっと待って、と言って一時はなれ、もどってくると逃げようとしていたと笑った。水槽は壁際にあって、足場をつかって水槽の高さを越え、壁にからだをもたせかけてそこでうごうごしていたという。さいきんはからだがでかくなったためにそういうことができるようになったと。かれが飼っているのはミシシッピニオイガメという種類で、ペットで飼うカメとしてはわりと人気の種なのだという。というのはそこまでおおきくならず、いままで発見されている最大の個体でも一三センチ一四センチ程度、ふつうなら一二センチ程度にとどまるので、世話が大変でないからだと。むかし祭りの縁日などでよく売られていたミドリガメというやつもミシシッピなんとかガメという種らしいのだが、こちらはおおきくなると三〇センチほどに達したりするので、そうすると水槽もおおきなものを用意しなければならず、意外と育てにくいのだという。(……)くんはなにか生き物を飼いたいなと思い立っていろいろと調べ、もちろん猫とか犬とかもかんがえたのだけれど、哺乳類はやはりお金もかかるし世話も大変だからと最終的にカメに落ち着いたと。意外とあたまはよいらしく、だんだんと信頼めいたものが芽生えてきて可愛らしいと言った。(……)さんはかわいがってんの? と聞いてみると、かわいがってる、と言い、かのじょはむしろ、(……)くんには意外だったのだけれど、哺乳類のあのあたたかい感触が苦手らしい。ウサギとか猫とかにふれたりもったりしたときの、あのふわふわした感触やぬくもりのことだろう。なぜなのかはよくわからないが、ぬくもりがきもちわるいのか。それか、なんか壊れちゃいそうな感じが苦手なのかな、と(……)くんは言っていた。ひるがえってカメは爬虫類、冷血動物であるから、その点問題ない。飼いはじめたのは半年前くらいで、(……)くんはエクセルをつかってその成長のようすをデータに取っているのだった。何日目に体長が何センチで、体重は、みたいなことだ。というのもカメはあまり餌をやりすぎるとかえって肥満で死んでしまうのだという。太ったなというのは、後ろ足を引っこめるときに、引っこめようとしても引っこみきらずにはみ出す具合とかでわかると。さいしょのうちはカメのほうも怯えていて、手を出してもちかづかずに逃げたりしていたのだが、だんだん慣れてくると、個体識別はさすがにしていないとおもうが、なんかこういう巨大な動物がいてそれがあらわれると餌がもらえるということは理解するようで、ぼくが水槽のまえをとおるとそれについてきて、反対側からもどるとまたぱたぱたついてきたりする、と言った。それでかわいいとおもって餌をあげすぎるとしかしかえって悪いので、こころを鬼にして一時ダイエットさせたこともあると。また、脱走をするといって、いちどここからのぼれたなということは確実におぼえているといい、またこころみるときはかならずそのルートを取ってそとに出ようとする、だから意外とけっこうあたまはよい、ということだった。カメが脱走しようとするときは、水の質がよくない場合があるという。もともと野生の種なので、もっと良い水質のところがあるんじゃないかとおもって移動しようとする本能が身についているということだ。また(……)くんはカメいがいにもう一匹、「レオパ」という爬虫類も飼っているらしく、なんだそれはとおもって検索してみると、レオパードゲッコーもしくはヒョウモントカゲモドキといってヤモリの仲間らしい。こちらもけっこう愛らしいと。うちの実家のまわりヤモリめっちゃいて、いまの時期なんか毎晩風呂場の窓とか居間の窓とかにあらわれるよと言った。レオパードゲッコーの主食は虫である。しかし(……)くんは虫が大の苦手である。ペットショップには餌用のちいさなゴキブリなんかが売っているのだが、それはとても無理だと。それで冷凍コオロギを用いる。冷凍なら虫とはいえまあ死んでいるからさすがに行ける。冷凍コオロギはただ、きちんど解凍しないとレオパードゲッコーは受け付けず、吐いてしまうのだという。いちどそういうことがあった。おそらく芯のほうがまだ溶けていなかったのだろう。それとはべつのときにも餌を食べたあともどしてしまい、そのなかに白い泡や靄みたいなものがたくさん混ざっていたことがあり、これはなんなんだ? やばいのか? とおもってネットでいろいろ調べてみると、尿酸らしい。鳥の糞に白いものが混ざっていることがよくあるが、あれも尿酸らしい。われわれにんげんは体内にとりいれた不要物質を尿素にして水分といっしょに排出する。ところが水分というのは意外と重いので、空を自由にはばたく鳥はなるべくからだを軽くしたいわけだから、からだのなかに水分をあまりたくわえず、そのため尿酸がそのまま排出されてしまう、とこのへん理解と記憶があいまいなのでまちがっているかもしれないが、そんなようなはなしがなされた。レオパードゲッコーのばあいもそれとおなじだったようだが、そんな感じで意外と繊細な生き物だと。吐いてしまったあとは胃液ももどしたわけだから食道も傷ついており、その後五日間くらいは絶食させないといけないという。
そのほか主要な話題はもちろん(……)くんの小説についてや、その他読み書きや芸術まわりなど。かれの作品についてはメールに書いた内容が主なのだが、描写的な要素を利用して文体面でも佐伯の変化や会社の「洗脳」をきわだたせるというような発想はまったくもっておらず、脱帽したと。また、文体のしたがっている原理(要は効率性)が作中で批判されているはずの会社がこのうえなく体現している原理と期せずして一致してしまっている、という点も。ふつうにかんがえれば、批判したつもりで批判しきれていないということになってしまうはず。全体的に説明的に感じられる部分が多かったという点もたがいにいろいろはなす。(……)くんは前回通話をしたさいになんとかいうプロ作家の小説塾みたいなやつに原稿を出して講評をもらったことがあり、ちょうど通話中にその返送がとどいてコメントをちょっと読んでもらったのだが、そのときの評価でいちばん根本的な問題として書かれていたのが、長篇をつらぬく確固たる主題がないということだったと。(……)くんがそのとき書いたのは歴史小説で、かれがやりたいのは基本的にそちらなので次回作やこれ以降もそうなる見込みだが、プロ作家に出した作品は、たしかに舞台や時代設定はぜんたいで共通だけれど、エピソードがぽんぽんあるだけで、それをつらぬく主題がないと。その作家がいう主題というのはどういうことなのか、作者がつたえたいこと式のれいのやつなのか、それともメッセージ性とははなれた部分の一本の筋みたいなことなのか、いずれにしてもこちらは聞きながらあまり感銘を受けないというか、磯崎憲一郎の小説とかどうなるの? とおもっていたのだけれど、たんじゅんに、ぜんたいの統一・統合が甘いということなのかもしれない。そういうことがあったので(……)くんとしては今回、確固たる主題、つたえたいことに重点を置き、それに傾注したのでかえって説明しすぎになってしまったのだろうという。こちらだけではなく、作品を読ませたほかの友人なども、なんか説明くさくない? と言うひとがけっこういたらしい。あとほかのひと、たとえば両親とかが言ったのは、終わり方の後味が悪い、と。まあそりゃそうなるだろうなあと納得ではあるが、なかにひとり映画好きの友人で、『ミスト』という映画と終わり方の感じが似ていると言ったひとがいたという。『ミスト』はスティーヴン・キング原作の映画で、ある街に霧が立ちこめてその向こうになにかがいるらしく、襲われたひととかが出るのだがなにがいるのかわからない、最終的にそれは異星人だとわかり、主人公は家族といっしょに車に乗って逃げようとするのだけれど脱出できず、異星人がまわりにたくさんいるなかであきらめて、同意を得たうえで家族みんなを射殺し、じぶんもエイリアンとたたかって死のうと決意し車から出て立ち向かうのだが、そこで米軍があらわれて宇宙生物をかたづけ救出されるというラストで、だからひじょうに後味が悪いのだと。(……)くんも友だちにこの作品のことを教えてもらってはじめて見たというのだが、スティーヴン・キング原作でおなじ監督でもうひとつ『ショーシャンクの空に』があり、このふたつは一見真反対だけれどメッセージとしてはおなじことをつたえたがっている、要するに希望を失っては駄目だということで、ただその描き方が『ミスト』のほうは逆をとってより鮮烈なものになっている、というかんがえを(……)くんは述べた。つまり主人公があきらめて家族を殺したりみずからも死のうとしなければみんな助かっていたのだから、と。かれが絶望したから家族は死に、じぶんだけ助かるという悲劇になってしまったのだということだ。(……)くんの「(……)」も、こちらは裏切り的な終わりになっていると評してそこはけっこうおもしろく読んだのだが、たしかにまあその裏切りの点が似ているといえば似ているかもしれない。その映画を見て、スティーヴン・キングくらいになるともうどういう物語でもお手の物なんだなとおもったというが、まあその二作のばあいはたぶんむしろやりやすいんだよね、つまり一八〇度違うわけだからさ、要素をいくつか反転させればいいわけで、極は通じるっていうのとおなじことでさ、極右と極左がちかいみたいな、と言ってこちらは笑った。『ミスト』にせよ、「(……)」にせよ、ふれたひとが後味が悪いというのはまあよくわかる。それはやはり感情移入をするひとの読み方だよね、主人公の佐伯の視点で、かれを追って、かれが感じることをじぶんも感じるみたいな、じぶんはもうあんまりそういうふうには感じなくなったな、まったく感情移入しないわけじゃないけど、島田課長マジでウザすぎってなるからね(と笑い)、でもそれもどうなんだろう? おれはウザくていいな、めちゃくちゃウザく書けてていいなっておもうわけよ、佐伯ほんにんだったらさ、苦しくてしょうがないわけじゃん、だからやっぱり感情移入してないのか、まあべつに感情移入は感情移入でいいんだけど、おれはそこははなれて、作品としてどうとかながれがどうとかそういう読み方をやっぱりしちゃうね、夏目漱石が『草枕』のはじめのほうでそういうはなししてたわ。というと(……)くんは、『草枕』って一回(われわれの読書会で)読んだっけ? というので、たしかにそうだったかも、とおもいだし、あれもさ、主人公は画家で、まだ三〇くらいだったとおもうけど、それで世をわたるのがもう嫌でみたいなことを言って、人里はなれた温泉地に行くかってあるいてるわけじゃんさいしょ、で人情非人情とか言って、世の中ってのはやっぱり人情でどうも生きづらいですよねえみたいな、小説を読んだり劇を見るにつけてもみんな人情でばかり見ようとする、でもそれじゃあおもしろくないですよみたいな。つまりにんげんが物語だとかフィクションだとかを受容するやり方の大勢は一〇〇年以上まえからなんら変わっておらんということだろう。通話のさいごのほうで「(……)」にはなしがもどった時間があり、そのさい、いやー荒木けっこうよかったよねえとか、島田課長のモデルの上司はやっぱわりとふだんからああいうことを言ってたわけでしょ? とかいったのだが、上司のセリフはすべてじっさいにあったことだというのでそれはさすがにおどろいた。クソである。へー、こんなのもできないんだ、みたいな、いやらしいいいかたをするのがクソウザくてよかったわけだが、そういう、あ、できなかったの? とか、へーそう、こんなこともわからないんだ、みたいなことはとてもよくいわれたという。ただ、とにかく理詰め理詰めで来るものだから、言っていることの大筋は正論ではあって、そこだけ切り取ったり作品として読むとブラックに見えるけれど、じっさいにああいう環境のなかにはいってやっているとそれがわからなくなる、ということだった。おそろしいことだ。荒木にはふたりモデルがいて、ひとりは優秀なひとではいったあとに営業成績も高く稼いで結果を出していたらしく、だからいわゆる要領がいい、会社の風土に浸りきらず、いくらか距離をとりながらもしかしこなすことはこなしてしまえるというタイプだったのだろうが、そのひとがさいしょの研修のあとに荒木と同様、いやー、とんでもない会社にはいっちゃったな、と口にしたのだという。(……)くんはそのとき、まあすごくきっちり厳密な会社だとはおもっていたけれど、とんでもないとまでは感じておらず、またまわりのひとも似たようすだったというから、かれひとり冴えていたわけで、さすがですねとこちらは言ったけれど、だからといってそのひとは会社を辞めるわけではなく、まあはいっちゃったからにはやるけどね? みたいなややシニカルなスタンスでいながらしかも結果を出すのだから、じつに要領がいいタイプなのだろう。もうひとり、対照的にぜんぜんついていけない、いつもちょっとズレた発言をしてしまって叱られるみたいなそういう同僚もいて、そのひともモデルとして混ぜたらしく、かれは一か月半かそのくらいでさっさと辞めていったらしい。引き際の見極めが正確である。中島にかんしては同僚のひとりがモデルで、あの、なんで辞めないんですかってきいたら意地ですって言ったひとでしょ? ときくとそうだと返り、かれとはけっこう仲良くしていて、オンラインで相談をしながらしごとをしているときなど、そろそろあがりますわと互いにいいつつ一時間くらい雑談をしたり、あと辞めたあとも一回会ってはなしたのだという。(……)くんは開口一番、だいじょうぶですか? ときいてみたところ、だいじょうぶ、だいじょうぶですと返ったので、まあほんにんがじぶんで選択してのこってるならそれいじょうぼくが口をはさめることではないかなとおもい、ただだいじょうぶかどうかだけは確認したと。そのひとはエヴァンゲリオンとかが好きだったり、あと『パプリカ』という映画が好きでおしえてくれたりし、『パプリカ』というのは知らなかったのだが筒井康隆原作の作品で、音楽を平沢進が担当したらしく、音楽がけっこうよかったと(……)くんは言った。カラオケに行って熱唱したりと、そのひととはそういう交流をしていたようだ。いずれにしても通話のさいごのほうで、いやー、やばいな、やっぱりぶっ潰さなきゃ、ぶっ潰さないと駄目ですよ、とこちらは笑いながら口にし、(……)くんもいやいやまあまあみたいな感じで笑ったのだけれど、だってあれでしょ? その会社にのこってんのは、要するにエリートのアイヒマンなわけでしょ? 量産型アイヒマンみたいなさ、と笑いながらつづけると、(……)くんも笑いつつもまさにそのとおりとおおきく同意し、アイヒマンでできた会社がさ、日本社会の中心にばーんとそびえるみたいなことになったらさ、それはやっぱよくないでしょ、と落とした。でもなんかこの企業みたいなやりかたが、主流までは行かないにしても、今後最先端のやりかたみたいな感じで一部でもてはやされてけっこう地位を得そうな気がするんだよなあなんとなく。なんかわからんけど、勝手なイメージで失礼だけれど、IT系の界隈とかもうけっこうそういうふうになってるんじゃないだろうか? 終わってるよマジで。そんなにシステムと抽象が好きならちゃんと形而上学やったらいいのに。まあかれらかのじょらはシステムと抽象が好きなのではなくて、金が好きなのだろうが。というか金が好きですらなくて、金を稼ぐためにはそうしなければならないというところにとらわれているのだろうが。生きていくためにはじぶんを殺さないといけないというのがやはりこの世の罪悪の最たるものだな。もちろんある程度はしかたがないとしても。
蓮實重彦のはなしをした時間がおおかった。さいきん『ショットとは何か』と『見るレッスン』を読んだからだが、主に前者を紹介するようなかたちで、物語を消費するだけではない映画の見方や芸術のふれかたというものについて語る。そのまえに(……)くんの小説にもまつわっていわゆるエンタメ・純文学とか、ロラン・バルトのいう「読みうるテクスト/書きうるテクスト」とかについてもはなしたのだった。そもそも先述のように文体のしたがっている原理が作中で批判的に描かれているはずの原理と一致してしまうという点について、文体や文章の書き方そのものがある種の意味や思想をもったり作者の立場表明になったりすることがあって、それによって作家は社会参加をするというかんがえを述べたのがロラン・バルトという批評家のさいしょの著作、『エクリチュールの零度』もしくは『零度のエクリチュール』という本だと紹介した。バルトにかんしては過去にもなんどかなまえを出しているので、(……)くんも名はおぼえている。そのバルトが七〇年くらいになると「読みうるテクスト」「書きうるテクスト」ということを言い出すのだけれど、「読みうるテクスト」というのはいってみれば古典的にきれいなかたちや構造をした作品というか、たとえば作品のどこをとりあげてもぜんたいとの関連で説明がつき、各部分が有機的につながってひとつの統一を成しているもので、だからまさしくそれは読める、読めてしまうものなのだ、バルトがそういうテクストとしてあげたのはたとえばバルザックとかで、かれがその当時いうにはわれわれはもう読みうるテクストを書くことはできない、そういう古典のような、典型となるような完璧なかたちの作品はもう前代まででやられてしまった、ひるがえっていまの作家が書けるのは書きうるテクスト、すなわち読むことはできない、説明がつかないような部分があったり、構造的にはきれいではなく部分部分を崩していたり、なにかあたらしいこころみをやったりしている、そういうテクストは読み切ること、説明をつけきることはできないのだけれど、しかし書けてしまう、そういうものを書いている作家がいまいるのだと、そんなことをバルトは言っていたのだと説明をした。この理解で正確に合っているのか完全な自信はないが。その区分けで行くと(……)くんの今回の作品は「読みうるテクスト」のほうに近いかもねと述べた。たとえばかれは主人公の妻や夫婦関係を作中にとりいれた理由について、荒木みたいな会社に批判的な視点をもつキャラクターはいるけれど、それでもやはり会社内の視点にとどまってしまうから、外部の、まったく一般人の見方も盛り込まないといけないとおもった、と説明していたのだけれど、それをとりあげて、もうひとつ、奥さんをやしなってもしいずれ子どもをつくるとしたらとにかく金が必要だというのが主人公が会社から逃れられない理由になっているよね、と指摘し、そういうふうにひとつの要素が物語にたいして整合的に説明できるというのが読みうるテクストだと述べた。バルトが「書きうるテクスト」と言ったばあい、それは具体的にどういう作品や作家のことを指していたのかという質問も来たので、そのへんよく知らんのだが、たぶんソレルスあたりかなとおもいつつも、まあたぶんヌーヴォー・ロマンもそうだろとおもってそれについてもおしえた。ただ、バルトはこの読みうる/書きうるという区分は理念的なものにすぎず、具体的にどの作品がどちらでというふうに分類するためのものではない、とかどこかで言っていたような気もするのだが。ヌーヴォー・ロマンにかんしてはおそらくいちばん代表とされる作家としてクロード・シモンの名を教え、クロード・シモンのいちばんの代表作といわれるものとして『フランドルへの道』をあげ、これはこのあいだじぶんも読んだが、まあいわゆるふつうの小説、なんか時系列順で物語があってキャラクターがいてみたいな、そういう小説が小説というものだとおもっているひとにとっては、まあそれは正気の沙汰ではないような作品になっている、と言って笑った。ぜんぶが記憶の位相にあるという設定で時系列を乱し、文章が句読点なしで数ページずーっとつづいたりする、それはただ必然性がないわけではなくて、記憶の位相として明確な区切りなく場面を急に飛ばそうというときに、そういうふうにずーっとつづいているうちにいつのまにかべつの時空になっているみたいなことができるわけだ、と。はなしをもどすと(……)くんの今回の作品は、たんに物語のおもしろさを楽しませるものではなくて作者のテーマ性やメッセージ性、読者になにかをうったえかけてかんがえさせたいという姿勢があるにしても、構造としてはきれいなものになっており、それは作法としてはどちらかといえばエンターテインメント寄りだろうと。まずもってエンタメはきれいな構造、きれいなかたちの整合的な物語にしないとはなしにならないだろうからと。(……)くん当人としては今回はけっこう純文学的なことをやったつもりだったようで、それこそ「新潮」に送っているわけだからそうだろうが、はなしているうちに、なんかじぶんの純文学のイメージが、べつに思想とか読者にかんがえさせるとかそこで決まるとおもってたわけじゃないんだけど、エンタメでもそういう作品はあるわけだし、でもなんか崩しを入れるっていうか、ふつうとは違うことをどこかでやってれば純文学だろうみたいにおもってた気がする、と言い出し、かれとしてはラストのつけかたがそうだった、崩してやったぜ、みたいな、と。そこはまあたしかに通常の路線とは違っているのかもしれないが、さきにも述べたようにそれは裏切りなわけで、裏切りということはまずこういう終わり方をするだろう、こういう展開になるだろうという予想が読者に前提されていなければ成り立たないわけで、それを踏まえて逆方向に切ってみせたということだから、それはそれできれいなかたちなのだ。そのへんで、物語とか構造というのは型なのだ、ということも述べた。そして型はみんなすでに知っている。たとえば、ミステリーといわれるジャンルのなかで、主人公たちが孤島に行けば、まあだいたいのところ外部との連絡が断たれるだろうということは、みんなすでに知っている。だからひとが物語をたのしむときになにをたのしんでいるかというと、すでに知っている型の反復をたのしんでいるのだと。おそらくひとはすでに知っているものしか消費することはできない。そのへんで蓮實重彦のはなしにも通ずるわけだが、『ショットとは何か』という本はさいきん出たもので、映画を見るというのは物語を受容するだけではなくてそれを超えた瞬間があるもので、物語とはべつに「ショット」という次元がある、なんかこの画はすごい、完璧にはまっている、そういうような感覚をあたえる瞬間があり、そういう「ショット」としての画をつくる作法というのはハリウッドの古典的な作家たちがわりと確立していたのだが、以後その手法は受け継がれたりされなかったりして、「ショット」を撮れる映画監督と取れない監督がいる、さいきんの監督でもこのひとは撮れるひとでとか、このショットはこういうふうになっててとか、そんなようなはなしをした本だと語った。蓮實重彦というのはそういうふうに映画をなによりもそこに映っているもの、映像、画として見ようとするにんげんだといい、立教大学(だったよな?)での授業のやりかたのゆうめいなエピソードもおしえた。これは『ユリイカ』の蓮實重彦特集で黒沢清と青山真治とあと万田なんとかいうひとが鼎談しているなかで語っていたし、ほかのばしょでもおりおり語られているのだとおもうが、蓮實重彦の授業はそのとき街でかかっている映画を、じゃあ今週はこれを見てきてもらって、次回の授業のときにそれについてはなしましょうか、というものだった。それで生徒たちは見てくる。授業で蓮實重彦は、なにが映っていましたか? という質問を生徒らに投げかける。で、たいていの生徒は、あの登場人物の勇気が……とか、あのひとのやさしさがすばらしくて……とかいうことをいう。そうすると蓮實重彦は、その勇気はどこに映っていたんですか? 画面のなかのどこに勇気は映っていたんですか? という質問をする。そういう調子に慣れて、こういうことだなと要領をつかんだ生徒などは、なにが映っていましたか? という問いに、こういう扉が五回映っていました、とかいう答えをする。そうすると、はい、そうでしたね、と蓮實はいう。とそういうはなしを笑いながら語り、蓮實重彦の批評の手法はそういうふうに、映画にしても文学にしてもそうなのだけれど、そこに映っていること、そこに書かれていることをまずはきちんと読もうとして、そこから解釈とか意味の変換とかにやすやすとながれようとしない、それは強みでもあり弱点でもあって、要はその作品を超えた一般論とかにはとうぜん行きづらいわけだけれど、ただそういうある種ひじょうに禁欲的な、窮屈なやりかたでおもしろい批評を書いてしまうものだから、それはやはりすごい。で、そういうふうな見方を育成されたひとは、作品の具体的な要素がどういうふうにかかわっているか、どういう要素をどういうふうにつなげ、ならべ、配置してどういう効果がつくりだせるか、どういう作品ができているか、そういうことをまなんで理解できる、と言っておいた。黒沢清が蓮實の生徒だったこともふれておいたが、「スパイの妻」の名を出すと(……)くんはそれでいちおうおもいあたったようだった。ただ特段見たり知ったりはしていなかったよう。こちらもなまえと顔だけで一作も見たことがない。とにかく映画を見るという文化的行動形態が生のなかに根ざしていない。
そのへんからだんだん、なにかにふれるとき、全体的な印象というのももちろんあるけれど、具体的なポイントについて記憶したり、どの部分にじぶんがどのように感じたのかというのを把握できるというのがまず大事なことではないかというはなしにながれた。扉が五回映っていましたのエピソードをはなしたあと(……)くんは、いやでもそんなにおぼえられないでしょ、ぼくはとても無理だなと言ったが、でも(……)くんだって、じぶんの小説書くときに、このことばはまえにもつかったなとか、前半のあのへんで一回つかったなとか、そういうことおぼえてるでしょ? と聞くと、おおむね同意がかえったので、だからそれとおなじようなことなのよと言った。それでじぶんは具体的な点を指し示すことができるというのがまずは大事じゃないかとおもっている、感想のメールもそうだったでしょ? ここが良かった、この点がどうこうで、って、そういうことを言ってたでしょ? と向けると、たしかにたしかに、とうなずきがかえる。さらに、じぶんにとってはぜんぶそういう感じでおなじなのだ、と、道をあるいていて風景に目を留めるのも、本を読んでいて気になる一節があるのも、ここ、という具体的なポイントがあるという意味でおなじふれかたなのだとはなし、そういう具体的なポイントへの感性や観察力をやしなうためには、やはり日記と書抜きがひじょうに役に立ったと語っておいた。そのへんで村上春樹とかのはなしが出て、やっぱり身の回りのことを書けるようにしないと駄目なんだなあみたいな言がもれたので、それはそうだとおもうと肯定し、やはり書抜きをするとちからがつくとおすすめした。じゃあ風景を書こうつって、さいしょから書けるわけがないわけじゃん、だから読んだ小説のなかでいいなっておもった風景描写を書き抜くわけよ、おれなんかはさいしょからなんでかそういうのが好きで、じぶんでも風景書きたいなってなってたんだけど、書き抜いておくと、じっさいにじぶんで風景を見るときにそれがおもいだされたりとかさ、ここあれに似てるなとか、あの描写みたいな感じでここの風景書いてみたいなとか、そういうことをおもう、と。日記の習慣も、そういう目に留まる具体的なポイントがどんどん増えていく、と言い、じぶんのばあいはまいにち日記を書くいとなみによって、観察力と記憶力は格段に上がった、たとえば道をあるくじゃん、まいにちおなじ道をあるくよね? でもそこでその日に目につく、ひっかかるポイントってのはその都度絶対に違う、仮にきのうとおなじものが気になったとしても、その感じ方、気になり方はきのうとは違う、絶対に、とこの点はなぜか熱のこもった口調になってしまった。あとあたまのなかでなんていうのかな、似たものごとが勝手に連想されてつながって整理されるっていうか、そういうふうにもなったね、とはなしつつ、まあそれでいまあんなに文量がふくらんじゃったわけだけど、と笑った。(……)くんも日記はむかしから書いており、いまははてなブログで非公開でつけているらしい。飼っているペットの観察日記とかいいじゃん、おもしろそうじゃん、とすすめておいた。また、たいへんだけど、観察力とか文を書くちからをつけるとしたら、おぼえていることをなるべく全部書くっていうのが大事だね、とも助言した。取捨選択をしない、と断言する。もちろんほんとうはそんなことは無理なのだが。記録するべきか否か、書いておく価値があるかどうか、そんなことはかんがえない、なるべく全部を書こうとする、それはめちゃくちゃ大変だけど、まちがいなくちからはつく、と。
じぶんはもともとなぜかそういう感じで、なるべく全部を書きたいという欲望に取り憑かれてここまで来ているわけだけれど、それは蓮實重彦の映画の見方とたぶんけっこう相同的なのだとおもう。つまりかれは、若いひとびとにたいして、映画批評をやろうというからには、ひとつのカットも見逃さないような集中力をもって見てほしいものです、と『ユリイカ』の冒頭のインタビューで言っていたし、その他、あの映画のあそこの流れは完全におぼえているとおもっても、再度みてみるとかならず、え、こんなカットあったの? という画がはさまっている、とかもおなじインタビューで言っていたとおもうし、また『ショットとは何か』の冒頭で語られていた一〇代のころの映画体験なんかを読んでも、とにかく映画がおもしろくてしょうがないし、また当時はある作品を見られる機会というのはいまより格段にアクセスしづらいものだったわけだから、すべてを見逃さずに記憶にとどめてやろうというそういう熱意をもって見ていたんだろうということがわかる。だから『ショットとは何か』の「Ⅱ 物語を超えて」の章で、「ショットの話を伺っているなかで、映像を見ていても物語に還元して画面を見ていない人が多いといえると思います。それに対して、ショットに着目することで、映画をより生き生きしたものに感じることができる、と。『『ボヴァリー夫人』論』(筑摩書房、2014)でも、「物語」や通説にまどわされていて、テクストを読んでいないと書かれていましたが、これも共通する感性、考え方なのではないかと思いました。蓮實さんはどのようにしていわばショット的感性を築き上げていったのでしょうか。そのような考えを蓮實さんが確立されたのはいつぐらいなのですか」(77)という質問にこたえて、「確立したというか、じつは、初めから、スクリーンに見えているものをショットごとにひたすらたどることで映画を見ていたというほうが正しいと思う」と言い、ジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』(1941)という作品のあるシーンに遭遇して、「物語を超えたなにかが、映画を震わせている」(78)のを感得し、「どっと涙があふれてきた」という体験を語っている。この、「スクリーンに見えているものをショットごとにひたすらたどることで映画を見」るという姿勢こそが、やはりじぶんは基本的な倫理性だとおもっていて、じぶんのばあいは映画は見つけないが本を読むときに、飛ばし読みをまずしない。つまらない本であっても、一字一句をひとまずきちんと追うだけは追う。それがやはりまず第一段階としては、読むということだろうと。あと、Bill Evans Trioの"All of You"をすべて記憶したいという欲望を一時期いだいていたことをあわせても、じぶんにはあきらかに全般的に、そこにあるものをなるべくすべて、という志向がある。それは良し悪しあるだろうが、この通話のときにはなされたことがらと絡めるならば、効率性に真っ向から反抗する姿勢である。世がどんどんとスマートさ、無駄のなさ、ノイズのすくなさ、資本主義的効率性を称揚するようになっているというのはいつもながらの話題で、それにたいする批判はそれじたいがもはやひとつの通念だろうし、じゃあかえって無駄を愛しことほぐという反動的なふるまいに出ればいいのかというとそうでもないとおもうが(じぶんは性分としては完全にそういう感じだが)、またきょうもそういうはなしをしてしまった。それはまえにも書いたけれど例の、映画を早送りで見る受容様式とか、あと一〇分に短縮された版を見る様式とか、あと(……)さんがブログでふれていたギターソロを飛ばすという聞き方を話題に出したからなのだが、まあギターソロうざいっていうのはわからんでもないけどね、と笑いつつ、けっきょくじぶんがそういうはなしを聞いたときにおもうのは、それでなにがおもしろいの? というその疑問ひとつだけなのだと言った。(……)くんも映画を早送りで見るたぐいの受容はあまりよろしくおもっていないらしい。時間がないってのはわかる、ぼくが聞くに、そういうひとってたとえば、学校で友だちとおなじドラマを見てないとはなしについていけなくてとか、そういう事情らしいのよ、それはまあわかるんだけど、でもそれは映画を見てるわけじゃないよねって、ぼくだったらふつうのスピードで、何回かにわけて見るな、ということだった。音楽にかんしては、たとえばYouTubeとかSpotifyとかで、さいしょの数秒だけ聞いていいか悪いかすぐ判断してつぎに行くみたいな、そういう聞き方が増えたから、さいしょのその短い部分で聞くひとをとりあえずつかまなきゃいけない、そういう曲作りが多くなったって聞いたことがある、ともはなしにあがった。けっきょくこれも効率主義の問題なのだとこちらは受ける。みんないい音楽を知りたい、いい音楽に出会いたいわけよ、なんだけど、なるべく手間や時間をかけずにそれを知りたいんだよね、できるだけ効率的に、じぶんが好きな、すばらしい音楽に出会いたい、そりゃまあわかる、でもいまはなしてておれはこうおもっちゃったんだよね、じぶんがほんとうに好きな、すばらしいとおもうものを見つけたいっていうのに、さいしょの五秒しか聞かない、それでいいもの見つけようっていうのは、虫がいいんじゃないか? って。けっきょくじぶんにとって都合のいいものや都合のいい部分しかふれたくないということだろう。一〇分の短縮版で映画を受容するとか、物語の消費もしかり、物語というのは不思議なもので実体がない、映像でも言語でもその他のものでも表現することができるでしょ、だからそれは構造で、型なのよ、抽象的なんだよね、一〇分に短縮された映画作品を見るっていうのは、それはもちろん映画を見ているんじゃなくて、構造を消費してるのよ、具体的なものを見ない、細部を見ない、構造だけで満足するっていう、そういう感性があまりにも行き渡ったらやっぱりあんまりよくはなくて、画一化されるでしょ、みんながおなじものを見ておなじように感動して、ってそれは全体主義ですよ、と一気に極論に飛んで笑った。じぶんにとって都合のいい部分しか見たくない聞きたくない読みたくないってのもおなじ、それは要は効率化だよね? きょうのわれわれのはなしはぜんぶ効率主義の問題、これが根幹にあってぜんぶつながってるよ、まあ効率化、それはそれでべつにいいけど、それをにんげんにあてはめてみてくださいよ、差別主義になるでしょ、じぶんにとって都合のいい、価値のあるにんげんしかいらない、そうじゃないにんげんを排除するっていうことになりえるじゃん、まえにも言ったことがあるとおもうけど、資本主義、効率化ってのがひたすら推し進められていったら、究極的にはそれはナチスになるわけ、おれはそうだとおもうんだよね、そこにはぜったいつながりがあるのよ、もちろん資本主義、合理化、効率主義っつってそこから一気にナチスには飛ばない、そのあいだにはもちろんおおきな距離はあるよ、でも、ぜったいつながりはあるわけ、だからおれはいつもこういうはなしを聞くと、なんかなあっておもうんだよね。じぶんにとって都合のいいものしかふれたくないっていうさ、ともかくもつきあうっていう余裕がないんだよね。
ほかにもいろいろはなしはしたが、おもいだせるのはこのへんで尽きる。あと、(……)さんにかんしては、通話をはじめてまもないころにほんのすこしだけ顔が見えたのでああどうもどうもとあいさつした。午前中にゴルフに行ってきて、これからまたサッカー観戦に行くとかでいそがしく、めちゃくちゃスポーツ、とこちらは笑った。ゴルフなんてよくできるな、おれぜったい無理だわというと、(……)さんの父親が好きでやっており、娘といっしょにやりたいということで金を出したりもしてくれているのだろうとのこと。通話は先述どおり八時くらいまでつづいて、さいしょのうちはなんだかあまりあたまと口がまわらずに(……)くんのはなしをうんうん受ける時間が多かったのだが、小説のはなしにはいったくらいからやはり馴染んだ分野でエンジンがかかるということなのか、口は一挙に回転しはじめ、バルトとか蓮實重彦についてとか、ペラペラペラペラ語り倒した。六時間もの長きにわたってずーっと通話していたわけで、時間をとらせすぎてしまった。まあ(……)くんは(……)のはなしはいつもおもしろくて勉強になると言ってくれるから良いのかもしれないが、八時くらいにはもしかしたら(……)さんがすでに帰宅していたのかもしれず、かのじょにとってはそんなにながくはなしているのは良くなかったかもしれない。とくに根拠のない想像なのだが、帰ってきて飯の支度とかしていたとしたら、(……)くんにも手伝ってほしかったんじゃないかと。
この日はおおかた通話に尽きたわけで、そのあとはなにをしたというおぼえも浮かんでこない。二四日のことはたしょう書いたのだったか。夜半過ぎに書抜きを一箇所だけ。もうそれだけで力尽きてしまったのだ。外出もしなかった。食事はのこっていたキャベツと大根で済ませたのではなかったか?