2022/7/6, Wed.

 街路は建物の隙間に残された空間。一軒家がオープンスペースの海に囲まれた島だとすれば、都市以前の村落は同じ海に浮かぶ群島でしかなかった。しかし、次第に建物が増してくると、それらは大陸となり、残されたオープンスペースはもはや海ではなく河となり、運河となり、小川となって陸地の間を流れるようになる。人びとは海原のような野山を融通無碍に移動するのではなく、街路をあくせくと行ったり来たりするようになった。ちょうど狭まった水路で流れが激しさや速度を増すように、放水路がオープンスペースから街路へ変わるにつれ、歩行者の洪水も同じように整えられ、水嵩を増してゆく。名のある都市では建物だけではなく空間も設計され建設される。歩くこと、立ち会うこと、人前に出ること、そういったことも、屋内で寝食し、靴をつくったり愛を交わしたり音楽を奏でたりすることに劣らず、都市の設計や目的にとって重要となる。市民 [シチズン] という言葉が都市 [シティ] に関わっているように、都市民であることを中核にして、すなわち公的生活への参画を中心として構成されていることが都市の理想なのだ。
 しかしながらアメリカの多くの都市や街は、かつての劣悪なイギリスの産業都市と同じように消費と生産を軸に構成され、公共空間は仕事場と店舗と住居がつくりだすただの空隙となってしまっている。歩くことは都市民であることの出発点に過ぎない。けれども、そのことを通じて市民は自らの街や共に生きる人びとを知り、わずかな私有空間ではなく真の意味で都市に住まうようになる。街を歩くことが地図と実人生とを、私 [わたくし] のミクロコスモスと公のマクロコスモスとを連関させる。そして自分をとりまく迷宮に意味を与えてゆく。ジェーン・ジェイコブ(end290)ズは名高い『アメリカ大都市の死と生』のなかで、よく使われている道が、ただ人通りが多いということがいかに治安の維持に役立つのかを説明している。歩くことが公共空間の公共性と持続性を支えているのだ。フランコモレッティによれば、「都市の特質は、その空間的な構造(基本的には集中性)が流動性の高まりと相関していることにある。空間的な流動性は当然だが、主には社会的な流動性である」。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、290~291; 第十一章「都市――孤独な散歩者たち」)




  • 「ことば」: 1- 9
  • 「英語」: 372 - 408
  • 「読みかえし1」: 136 - 141


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 出勤までのことはたいしておぼえていない。音読や読書をよくやっていたようだ。あと、二時前くらいになってきのう買ってきたハンディスチーマーをつかってワイシャツを一枚処理した。説明書を読みながら器具を準備する。四角いタイプのもので、トレイに水を入れて機会にセットし、スイッチを入れてちょっと待つと熱されてスチームが出せるようになるので、ボタンを押すとひらたい底面から蒸気が湧く。座布団をアイロン台代わりにしてそのうえにワイシャツを乗せ、アイロンのようにつかってみたが、これで行けそうだ。アイロンよりも底面がちいさいけれど、それはかえって小回りがきいたりこまかなところまで入れることができて良いかもしれない。ただかけながら基本的にはつねにスチームを出すかたちになるので、気をつけないと手指に火傷をしかねない。生地の位置や伸びを調節するためにスチーマーのちかくにもういっぽうの手をもっていくと、蒸気に襲われて被害を受ける可能性がある。その点は注意が必要だ。
 二時半くらいの電車に乗ろうというわけで、二時一七分あたりで家を発った。扉のまえでマスクをつけたりしていると、階上で太めの男性の声が部屋を訪問して、おとなりさんはいないですかねえ? とか、終わったら声かけますんで、とか言っているのがきこえた。これは水道メーターの取替だと推測された。おとといあたりにお知らせの紙がはいっていたので。こちらの部屋にもじきに来るとおもうので、ひとことあいさつをかけていったほうがいいかなとおもいつつ通路に出て、下りてくるかとちょっとうかがったのだが、なかなか来なかったのでまあいいやと払って階段を下り、建物のそとに出た。南へ。公園では小学生が男児も女子もたくさんあつまっており、おのおののばしょで喋ったり走り回ったりしていた。右に折れて路地を抜け、出た横道も渡って再度裏へ。はいってすぐの左にはそれなりの格に見える集合住宅があり、敷地の入り口脇には「(……)」という表示があったので、もしかしたら一般の住宅ではなくその会社でしごとにつかっていたり、あるいは社宅にしているのかもしれない。建物前の縁にはちいさなツツジの群れがあしらわれており、もう花はないだろうとおもったところがひとつだけ、内側はうすく白っぽかったものの五弁か六弁のピンク色をはっきりつくった遅れ咲きのすがたがあった。風はときおりながれてやわらかく、曇天のもとにわずかな涼しさの気配をあたえる。(……)駅について改札を抜け、手前のホームから階段通路にのぼるとそのうえではさらに風がとおり、ホームに下りるとせっかくなので歩く距離をかせごうと反対側のいちばん端に向かったところ、屋根がとぎれたそのあたりからやはりながれるものが生まれて、線路やホームにさからわずそれに沿ってからだをまえから覆ってきた。
 乗車。扉際で手すりをもって瞑目。この時点ではまだ一錠しか飲んでおらず、追加はなかったが、いちおう問題なかった。(……)につくと降りて、そこの階段をあがらず、わざわざ反対側の端ちかくまであるいてからそちらの階段で上がった。そうして乗り換え。にんげんがうじゃうじゃとフロアを行き交っておりそのなかの一片として混ざりこまざるをえないが、多量の人をまえにしても明確な緊張や圧迫は感じなかった。一番線ホームにくだって先頭へ。まだ発車まで間があるのでだれもいない。いちばん端の一席につく。そうして瞑目して休みながら発車を待つうち、そこそこひとが乗ってきて、発車前に目をあけてみれば向かいは高校生のカップルだった。右手にもひとりいた。だから人数としてはすくなく、薬も飲まずにとりあえずこのまま行ってみようと発車をむかえたものの、扉が閉まってしばらくするとやはりちょっと嫌な感じがあって、がんばれば一錠だけでも行けそうだったが今回は無理をしないと決めているので、もう一錠をブーストすることにした。財布から薬を出して一粒押して取り、それを口に入れるともってきていた水のボトル(先日外出中に買って飲んだ「いろはす」のちいさなボトルに浄水ポットでつくった水をそそいで冷蔵庫に入れておいたもの)で服用した。そうして瞑目。しばらくすると効いてきたらしき感覚が生まれ、心身がすこし重くなる。その後は問題なく、じきに高校生カップルも去ったし、さいごのほうでは持ってきたブコウスキー書簡を読みすらしたが、二錠飲んで出先ではあまりさだかに読めるでもない。
 

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 勤務。(……)
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