2022/7/16, Sat.

 十九歳のキャロライン・ワイバーグがひとりの船員と「散歩に」出かけてゆく。場所はイギリスのチャタム、一八七〇年のことだ。散歩はすでに男女の交際における確立された文化となって久しかった。お金はかからず、恋人たちは公園や広場や大通、あるいは裏道でも半ばプライベートな空間で愛をささやくことができた(田舎によくある「恋人たちの小径 [ラヴァーズ・レーン] 」などには、もっといろいろできるような人目のない空間がある)。連れ立って行進することが集団の団結を強めるように、歩調をあわせるように歩くというこの繊細な行為もまた、ふたりの人間を感情的にも身体的にも同調させてゆくのかもしれない。そして夕べの街路を、この世界を連れ立ってともに歩いてゆくことをとおして、はじめて彼らはふたり [﹅3] であると感じるのかもしれない。一緒にそぞろ歩くという、何もしないことにきわめて近い所作によって彼らは互いの存在に浸りあう。会話を続けることも、会話を遮って注意を執拗に引くようなことも、なにも必要とはされてない。イギリスでは〈一緒に出歩く〉という言葉はかなり直接的に性的な含意をもつ一方で、持続的な関係を築いているという意味で用いられることも多かった。これは現代の米語でいう〈ステディになる〉に近い。ジェイムス・ジョイスの中編『死者たち』のなかで、(end390)妻には若いころ求婚者がいたことを発見してしまった夫が、そのいまは亡き少年を愛しているのかと問いかけると、取り乱した妻は「あの人と出歩いていたわ」と答えている。
 十九歳のキャロライン・ワイバーグが水兵と歩いているのを見ている者がいた。ある夜遅く、警察の監察官はそのことを理由に彼女をベッドから引き摺り出して連行した。当時施行されていた伝染病法によって、兵営のある街の警察は、娼婦の疑いのある者を誰でも逮捕する権限を有していた。女性はただ歩くだけでもその時間や場所によっては嫌疑を受けることになり、法はそうした疑いをかけられた者やそのような告発を受けた者を逮捕するよう促していた。逮捕された女性は医学検査を拒否すると何ヶ月間も収監される可能性があった。苦痛と屈辱をともなう医学検査には、同時に刑罰としての役割もあった。そして性病の感染が確認された場合は医療刑務所へ拘禁された。無実が証明されるまで有罪とみなされ、彼女たちは無傷で逃れることはできなかったのだ。ワイバーグは自身と母親の生活を建物の玄関口や地下室の清掃の仕事によって賄っていたが、収入が長期にわたって途絶えることを危惧した母親は、三ヶ月の拘留ではなく甘んじて検査を受けるよう説得した。彼女が拒むと、警察官は四日間にわたって彼女をベッドに縛りつけた。五日目に検査を受けることに同意するが、拘束服を着せられて処置室へ連れていかれ、両脚を開いた状態に縛られて検査台に押さえつけられた。助手が肘で胸を押さえようとすると、彼女は思わず抵抗した。もがいた彼女は足首が固定されたまま検査台から転落し、ひどい怪我を負った。検査器具が彼女の処女を奪い脚の間を血が伝うと、医務官は笑った。「どうやら本当だったみたいだな」と彼はいった。「おまえは悪い娘じゃなかった」。(end391)
 水兵の方は名前を確認されることもなく、逮捕も検査もされず、いかなる点でも法的に問われることはなかった。男性はたいてい女性よりも気楽に街を歩くことができた。一方、女性に対しては、外を出歩くというもっとも素朴な自由を試みることにさえ処罰と脅迫が加えられるのが常だった。なぜならば、こうした女性のセクシュアリティの統制を課題とする社会では、女性が出歩くこと、さらには彼女たちの存在自体が、いかなるときも避けがたく性的なものであると解されたからだ。本書がたどってきた歩行の歴史において、逍遥学派の哲学者にせよ、遊歩者にせよ、あるいは登山家にせよその主役はいつでも男性だった。なぜ女性は戸外の歩行者とならなかったのか。いよいよその問いに目を向けねばならない。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、390~392; 第十四章「夜歩く――女、性、公共空間」)





 一〇時四〇分くらいに覚醒。そのまま二度寝におちいることなく、布団のしたで膝を立て、静止したり深呼吸をしばらくしたりして、一一時まえに起き上がった。カーテンレールにひっかけてある洗濯物をどかしながら紺色のカーテンをあけてレースの白い窓辺にする。きょうも雨天。そとを行く車の音にすでに水の質がふくまれている。洗面所に行って顔を洗い、椅子について水を飲んでからいつもどおり寝床にもどって本を読んだ。マルクス・ガブリエル/中島隆博全体主義の克服』(集英社新書、二〇二〇年)のつづき。きのう読んだ部分の書抜きメモを取っていなかったのでさかのぼってページ数と行数をメモる。このとき読んだのは67くらいから122までで、新書で一ページの行数もすくないのですすむのははやい。78から80あたりにかけて、マルクス・ガブリエルは、アドルノやホルクハイマー(フランクフルト学派)対ハーバーマスやガダマーという、戦後ドイツ哲学界の権力闘争的な経緯を語っていて、どこまで信じてよいのかわからないし、ゴシップ的で一面の見方でしかない気がするのだが、ただまあどんな業界でも、知的だろうが高尚だろうが卑俗だろうが平凡だろうが、そういう覇権あらそいみたいなことはつねにあるのだろうなあとおもった。ガブリエルによれば、保守派のガダマーはフランクフルト学派を破壊したがっていたのではないかということで、ハーバーマスがフランクフルト大学に移籍するときに介入したり、リュディガー・ブプナーというじぶんの弟子を同大学のアドルノの後継者に押し込んだりしたという。「実はブプナーは、わたしの指導教員のひとりでした。だからわたしは、この一連の経緯を知っているわけです」(79)とのこと。「そしてついに、フランクフルト学派との戦いにガダマーが勝利します」というのは、ドイツではヘーゲル学派が左右に分裂していて、「左派寄りの国際ヘーゲルソサエティとは別に、ガダマーの設立した中道・右派の国際ヘーゲル・アソシエーションがあります。後者はハイデルベルクに本部を置いていて、フランクフルト学派の批判理論に対抗しているのです」と。ちなみに二〇〇七年からはアクセル・ホネットがヘーゲル・アソシエーションの会長だったとのこと。そういうわけで、「彼らは、フランクフルト学派の批判理論を攻撃する計画を本当にもっていたのです。ですから、ハーバーマスフランクフルト学派と呼ぶことは、フランクフルト学派のメンバーにとっては侮辱的なことであり、彼らを批判することなんです」(79~80)とまとめられている。
 またいっぽう、ハーバーマスは『近代の哲学的ディスクルス』という著作のデリダを論じた第七章の長い註で、デリダを「ユダヤ神秘主義者」だと分類しているという。「ハーバーマスデリダユダヤ神秘主義者というレッテルを貼り、そこからデリダがトーラーというユダヤ教聖典を(紙に書かれただけの)「死せる文字」として尊重していることへと話を進めます。つまり、デリダを死と結びつけ、(自分が強調する)理性をキリスト教と生に結びつけているように読めるのです。デリダは [二〇〇一年にハイデルベルクで会ったときになされた] わたしとの会話のなかで、これを「象徴的なホロコースト」と呼びました」(80~81)とのこと。
 さらには、これこそまさしくゴシップ的なはなしだが、ハーバーマスはペーター・スローターダイクが『「人間園」の規則』(一九九九年)というバイオテクノロジーと倫理規定について論じた本を出したさいに、「スローターダイクは、バイオテクノロジーを使って人類を完全にする必要があると言っている。それゆえ、彼は全体主義者なのだ」(82)と主張し、「あちこちに電話をかけまくって、スローターダイクへの侮蔑を喧伝したり、スローターダイクの講演を好意的に聞いていた同僚にも圧力をかけたといいます」(83)とのこと。このゴシップ的エピソードの典拠は、ハーバーマスとその弟子たちが「悪質で実に私的な非難をした」(82)と思ったスローターダイクが『Zeit』誌に発表した公開書簡(「批判理論は死んだ」という題)で、「書簡のなかでスローターダイクは、ハーバーマスは自分とは一切対話をすることなく、さまざまな人々に自分への非難を語っていたと告発しています。つまり、それのどこがコミュニケーション的理性なんだと。そのやり口自体が、実際に批判理論は死んだことを示しているというわけです」(82~83)というはなし。ここだけ読めばスローターダイクのいっていることはじつに正論に見える。
 その他、ハイデガーのいわゆる「黒ノート」にまつわってかれは真正のナチだったというはなしなど。「ハイデガー第三帝国の真のイデオローグですよ。彼は大臣ではなかったが、本物の信者でした」(97)。またちなみに、AfD(「ドイツのための選択肢」)所属の国会議員であるマルク・ヨンゲンは「ハイデガーを研究していて、党のイデオローグとなっていますが、さきほどのペーター・スローターダイクの学生です。だからこそスローターダイクは右派だとみなされるようになったわけです」(99)ともいう。
 第四章「全体主義に対峙する新実在論」では固いはなしもはいってきて、マルクス・ガブリエルの思想や、「複数の無限の無限」たる「超限」(117)という概念について説明されていて、そこそこわかる気はするが、わかるようなわからないような、という感じ。たとえば、「どの点からも、多くの点を含む無限に多くの連鎖が出ており、その連鎖がまた無限に多くの連鎖の部分をなしています。そしてこれが対象に安定性を与えているのです。どの対象も、無限に多くの連鎖が交差したものなのです。だからこそ、対象は安定しているように見えますが、それは無限のネットワークの結び目であることによってなのです」(116)といわれているが、なんかこういうネットワーク的関係性に焦点をあててその極限を構想することで世界をとらえるあたりって、ものの本を読んでいないのでちっともよく知らないし勘違いかもしれないが、さいきんのアクターネットワーク理論とか、オブジェクト指向存在論とかにもそういう要素がふくまれているような気がする。
 正午をまわるまで読み、立ち上がると屈伸したりして、椅子のうえに座って瞑想。このときはたしかやはり脚が、そんなに痺れはしなかったがだんだんジリジリなってきてそう長くはできず、二〇分いかなかったのではなかったか。一七分くらいだった気がする。それから飯を食うよりさきに一一日と一二日の記事をインターネット上に放流した。はてなブログに投稿した文のなかから抜粋してnoteのほうにも投稿しておく。かなりどうでもよいことなのだが、はてなブログの毎日の記事のタイトルは「2022/7/16, Sat.」という表記になっている。対して、メモ帳に書いて保存してあるテキストファイルのファイル名は、「20220716, Sat.」としている(Notionの記事は前者とおなじ)。先日はじめてメモ帳に書いて保存するとなったときに、たしかスラッシュはファイル名につかえないんじゃなかったっけとおもってこういう表記にして、このほうがファイル名っぽいしなんかいいかなという気もしていたのだが、noteに投稿するほうの記事もこの「20220716, Sat.」の表記方式にすることにした。とくに理由はないのだが、なぜかなんとなくそっちのほうが良い気がしたのだ。
 それから食事。キャベツが尽きた。大根も。ニンジンはあとそうおおきくはない一本の半分くらい。ほか、ハーフベーコンが一パック、豆腐、バナナがのこっている。冷凍食品のハンバーグと揚げチキンもまだたしょうある。今回のハンバーグよりも前回買ったハンバーグのほうが味はよいとおもう。ただいまのは一〇個入りだかなのでけっこう保つのはよいが。チキンはニチレイの「ちょびチキ」とかいうやつで、これはなかなかよい。つかえる。ほんとうはレンジではなくて揚げもどす品のようだが。バナナも先日スーパーで買ったはよいものの、生ゴミ管理を確立していないから皮の保存をどうするか、また冷蔵庫に入れておくかとおもっていたところに、(……)さんのブログを見たら豚肉の剝いだ皮を腐らないように冷凍しておくというはなしがあって、そうか、冷凍庫に入れておけばよいのか、キャベツの芯なども冷蔵はしていたが冷凍という発想がまるでなかった、なんで気づかなかったんだろう、とおもって生ゴミ類はとりあえず冷凍庫に入れておくことにした。ゴミの日が来るまでそうしておきつつ、密閉できる袋を買ってきて、ゴミに出すときはそれに閉ざして出したほうがよいかもしれない。というかもともとそれに密閉して冷凍しておけばよいかもしれない。
 そういうわけでサラダやバナナや肉を食い、洗い物をして、一三日や一四日も投稿。そこでいったん切り、手足の爪を切った。手もさいきん伸びてきて鬱陶しかったが、足の爪はずっと放置していたのでかなり厚くなっており、切らねば切らねばとおもっていながらここでようやく処理することができた。人体のなかのいらない度合いで行くと、爪ってかなりレベルが高いとおもうのだが。でも、ネイルを装飾するようなひとにとっては大事か。あとまあギターを弾くにもまったくないはないで困る。机のうえに置いたChromebookからアンプにつながるケーブルをはずし、FISHMANSの"バックビートに乗っかって"をながしだしたなかで寝床に座りこんで爪を切った。手足両方。右足の小指の爪だけすでにみじかくなっていたのはどこかで折れたのだとおもうが、いつ折れていたのかまったく気づかなかった。
 爪を処理し終えると二回目の瞑想をしたはず。このときは三時二〇分から四七分まで、二七分間座れてまあまあよろしい。座っていると短歌になりそうなフレーズ断片が勝手におもいうかんできたりして、いくつか成った。窓を閉ざしてエアコンのドライをつけずに座っていると、からだはけっこう熱く感じる。静止をしていると、からだがほぐれて体温があがるのかわからないが、肌にそこそこ熱を感じる。きこえる音はすくなく、水気をはらみながら窓外を走っていく車の音とか、背後の冷蔵庫がしずかにはたらいている低い稼働音とか、あと窓のほうでちらちら散っていたのはわずかな小鳥の声かとおもっていたのだが、たぶんちがう気がする。建物内の配管内を水が行く音か? それか実は窓のほうにあるのではなくて、冷蔵庫の稼働音のなかにふくまれているのだろうか。
 一五日、すなわちきのうの記事を書き足して投稿し、さらにきょうのこともここまで記せば五時三八分。からだが疲れた。


     *


 その後、寝床で休んだあと、外出することに。とくに目的もないが、足を動かして外気のなかを歩きたくなっていたのだ。とくに目的もなくそとをただ歩くことができる、これこそがうたがいなく人間が持ちうる最高の自由のひとつである。それで七時前にからだを起こし、服を着替えた。れいによって赤褐色を中心として幾何学的な模様をなした柄のTシャツと、真っ黒な薄手のズボン。野菜ももうないし、気が向いたら帰りにスーパーに寄ろうということでリュックサックを背負った。その他財布と携帯を入れただけで、またズボンのポケットには鍵とSUICAとハンカチ。歩く方向の候補としては二通りあって、おおざっぱに西に向かって(……)駅にいたるか、それか反対に東に向かって(……)にいたるかである。先日いちど夜歩きに出たさいに帰ってきてからGoogleで周辺の地図を確認し、そのとき、アパートを出てすぐ東に向かい、行き当たる斜めの通りをずっとすすめば(……)駅まで行くということを知っていた。それでなんとなく東方面のそちらかなとかたむいて、部屋を出て階段を下りると傘をひらき、右に出てすぐの角からもういちど右に折れた。それで東が正面になる。雨降りのなかを気ままにてくてくと行く。郵便局を過ぎるとここは(……)とかいう施設で敷地がひろく、せまい歩道の脇には柵がつづいてその向こうには草木が茂っており、柵の隙間からは葉叢がときおり湧き出しており頭上に枝葉を伸ばしている樹々もあって、濡れた葉っぱたちは車が来るとそのライトを受けて白さを発しかえす。ライトのなかに切り取られてあらわれる雨の線はわずかにかたむいた角度でまっすぐ引かれてそれなりの集合、こずえはときおりしずくを落として右手の柵から金属音が立ち、左の車道をはさんで向かいの家屋のうえはピークに達するまえの青さを染みこませた曇天だった。敷地を過ぎるとほそい十字路に来た。まっすぐすすめば(……)通りに当たることを知っている。それでいちどはそこを渡ったのだが、つづく道に歩道らしい歩道がなくて窮屈そうだったので、渡り返って左手へ、つまり元来たほうからすれば右手だが、いずれにしても南に折れた。(……)通りの起点がちょっと南にあることを出てくるまえに地図で見ていたし、とちゅうでまた東に折れてもよい。行くうちに(……)の正門前に出て、ここが正面だったのかと見つつとりあえず向かいに渡ろうとすると、門前からななめに伸びた道の遠くに白灯がいくつもならんでいるのが望まれて、繁華とまでは行かないがいくらかひと気のありそうなあかるさだから、あれもしかしてここが(……)通りの始点なのかなとおもった。もうすこし南だとおもっていたのだが。いずれにしても東に向かえばそのうち当たるはずだからと渡ってそこにはいったが、じっさいここが(……)通りで正解だった。はじめのうちは人家が主だがそのうちに店のたぐいが出てきて、飯処もちらほら見られて半商店街というぐあいになる。歩道はひろくはない。おりおりに電柱やらが立っていると隙間がせまく、傘を差したままだと通りづらくて、柱の外側に踏み出すか、ちょっと閉じてかわすか、かたむけながら抜けようとして失敗しぶつけるかになる。ひとがまえから来るにも互いに差していればこれも余裕はない。こちらは車道の右側をあるいていた。まっすぐつづく通りのところどころには横道がひらき、決まって右前方の暗がりへと分かれていくのだが、正面は北東方向だから分かれ道はほぼ真東で、どの口からでもそちらに行けば(……)駅から南にまっすぐ伸びる(……)通りにいずれいたるのだろう。整然とした区画設計になっている。雨はだんだん衰えてきたので傘はとちゅうで閉ざして提げた。左手、向かいの建物のならびもそう高いものはなく、せいぜい二、三階建てが大半で突出を欠いてなだらかにつらなっており、だから空はさほど食われず道の遠くにマンションが見えるくらい、おそらく七時半前のころには青さが深まってひたされていたが、そこを過ぎればまもなく夜がかっていつか一気に青みは抜けて薄灰色の曇り空だった。徐々に人通りも増え、左右の店々もあかるさを増し、駅がちかづいているのが感じられる。とちゅうに公民館があった。通り沿いに階上をのぞけるかぎりでは本棚があって座った年嵩の男性が書見しているから、図書館もはいっているのだろうか。いくらか緊張があるようだった。緊張感そのものというよりも、喉元のひっかかりの感覚でそれが判じられた。駅前ロータリーにいたればここはこちらも知った景色、とはいえもう何年も来ていなかったはずだが、ちょうど青になった横断歩道を左に渡って駅舎のほうへ、喫茶店があるのは記憶通りだがたしかいぜんはその隣に本屋があったのではなかったか。なくなったようだ。diskunionも駅のすぐ脇にあったものだがこれはもうだいぶ前である。旧駅舎は一部のこされているようでロータリー正面にそれらしき建物があり、そのうしろに新駅舎があったのでその入口をくぐった。南北を抜ける通路で、右手には駅内店舗のたぐいがあり、(……)と似ているが(……)線はどこもこんな感じかもしれない。七時四〇分くらいだった。おもったよりも短かった印象だ。三〇分程度しかあるかなかったのではないか。とりあえず電車に乗って(……)に行くかというわけで改札をくぐり、トイレに行って小便をしてからホームにあがり、いちばん端の車両に乗った。緊張はあったもののまあたいしたものでないと怖じず乗り、席が空いていたのでリュックサックを背負ったまま腰掛けて、瞑目のうちに到着を待って(……)で下車。このまま乗り換えて最寄りにもどるか、それとも駅を出てうろつくかまよったが、とりあえず出るだけ出てみるかと改札を抜けた。しかし出たところで行くあてなど本屋しかないわけである。金もないし買うつもりはなかったが、ちょっと見るだけ見ておくかと(……)に行くことにして、いつもどおり北口に進路を取った。駅をつらぬく大通路はひとびとの歩みで満たされており、やはりいくらか圧迫を感じるようだったので、ひどくはないし耐えることは容易だろうがしかし無理をせずにどこかでヤクを追加しておいたほうがよいかとおもいながら進み、広場に出るともはや雨はないので屋根の位置にこだわらず斜めに渡って、高架歩廊を進行した。ひと気はさほどない。予想していたが、からだが緊張しているので、歩道橋を渡るときはおっかなびっくりといった感じで、高まりをおぼえてやりすごしながら足をはやめて逃げるように渡り、折れてビルへ。手を消毒してフロアに入り、書店は九時までだったよなとエレベーターのところの表示で確認し、ちょうど来たのではいってのぼる。降りると文具売り場のまえである。そばは美術の棚で、なんとなくそのへんも見分した。岡崎乾二郎がいままでの批評文をまとめたみたいな新刊を出したようだ。ほか、美学系の本もおもしろそうなものはいくらもある。ジョルジュ・ディディ=ユベルマンをちょっと手に取ったりし、あとは西洋美術の作家研究のところでレオナルド・ダ・ヴィンチの伝記を瞥見したり。そのまま壁際へ進み、棚を変えて東洋文庫のまえにはいるとリュックサックを下ろして財布をとりだし、ロラゼパムを一錠、水がないので口に入れてそのまま飲みこんだ。そうしてそこを進むと仏教の区画があったので道元全集なんかをちょっと見る。『正法眼蔵』を読みたいとおもっているのだけれど、単行本で出ているものはどれも高い。だいたい四巻くらいになっているし。講談社学術文庫は八巻だったっけか? とおもっていま検索したが、岩波にもはいっていたのだ。そりゃそうか。しかし岩波のやつはたぶん補助的な註だけで現代語訳はないとおもうので、それだと太刀打ちできなさそう。とりあえずは講談社学術で読むのがよいだろう。その他南方熊楠をちょっと見てからさらに隣の西洋哲学の棚へ。八木雄二ソクラテスについての本がちょっと気になる。一人称単数のわたしの声みたいなことが書かれていたので。おなじテーマはのちにアルフォンソ・リンギス『わたしの声』という著作にも見つけて、あとメルロ=ポンティの研究書にもなんかそんな感じのやつがあった気がするのだが。メルロ=ポンティ、まったく読んだことがないが、さいきんわりと気になりだしている。そういえばバタイユの書簡集も出ていた。ほか、そんなに目新しい印象はのこっていない。棚の配置はけっこう変わっており、いぜんはエスカレーターのほうからこの通路にはいると、左手の列には言語哲学とか分析哲学方面とか、あと倫理学や正義論とか公共哲学みたいな分野があつめられていて、アーレントなんかもそちらにあったのだが、いまは右側の列にぜんぶあつめられている。社会学がべつのところにうつったのだとおもう。あとキリスト教とかも。
 ひととおりざっと見て出ると文庫のほうへ行った。新刊のところにタルコフスキーの本。芸術とか映画について語ったもの。ちくま学芸文庫だったとおもう。ちょっと気になる。タルコフスキーの映画見たことないが。棚をまえをながれていき、ちくま学芸あたりをちょっと見分すると区画を出て、日本の詩や評論をたどっていき、あと振り返ってさきの壁際にある古典文学のほうも少々見たあと、そちらの壁と垂直にまじわっているほうの壁際、すなわち海外文学のならびを見分した。ここでもなにか気になるものを見たような気がしたのだが、わすれた。フェルナンド・ペソアかな? 新刊ではないが。あとあれだ、工藤正廣というロシア文学の翻訳者がいて、ボリス・パステルナークを訳しているひとで、むかしだれだったかにこのひとのパステルナークの訳は微妙だったか、界隈でも評価が分かれているみたいなことを聞いたおぼえがあったのだが、そのひとが『アリョーシャ年代記』というやつを書いている。二巻。いままでその存在は知っていながらもあまり気にしたことはなかったのだが、これを取ってひらいてみるとなんかよさそうだった。未知谷。小説も書いていたんだな、と。そのしたの列にあったパステルナークの『ドクトル・ジバゴ』もちょっと見てみたが(でかい)、ちょっと見てみただけでは訳がよいのかわるいのかわからない。ただ、『アリョーシャ年代記』の各部の書き出しなんかちょっと読んでみた感じでは良い文章を書きそうな印象だったが。『アリョーシャ年代記』の左隣には、これもおなじ未知谷だったかそれか群像社だったか、わすれたがおなじような白くてきれいな装丁の本があり、なんとか川の周辺の村みたいなタイトルで、じつのところこちらのほうに先に目が行って取っていたのだけれど、こういう自然描写がふんだんにふくまれていそうな小説のたぐいには弱い。ロシア文学群像社がけっこうそういうのを出している印象で、マイナーだけれど気になる本はわりとある。
 その後左にずれていってドイツやフランスや英米も瞥見し、なにも買うつもりはなかったのでそれで通路を抜け、帰ることに。もと来たエレベーターのところまで行って下階へ。ビルを出ると雨降り。高架歩廊とちゅうのスロープからしたに下り、モノレール線路下広場を経由しておもての道に出ると、背後に来た五人ほどのあつまりは中国人か韓国人のようだった。横断歩道を渡ってそこにある「(……)」でなにかテイクアウトしていくか? としばらく看板を見たものの、あまりピンとこなかったのでいいやと別れ、左方にすすんで右に折れて裏に入り、セブンイレブンのまえで左の細道にはいって駅からまっすぐ北上するおもて道へ。エスカレーターで高架にのぼり、屋根のあるところまで来ると傘を閉ざして駅へ。駅舎内の大通路と広場のちょうど境あたりで、左端に座りこんでいる男がいた。おそらく携帯でだれかとはなしていたよう。大通路の人波のなかでは前方から笑い声がおおきく立ち、みればすらっとして背の高い、背面が肩甲骨のなかばあたりまでひらいて肌をあらわした黒い服を着た女性が、もうひとりの女友だちといっしょになってからだをななめにかたむかせながらしきりに笑っていた。改札をくぐると(……)線へ。電車は九時一分。もうほぼその時間で、しかし階段をくだればホームに電車のすがたはなく、ひとびとがいくつも列をなして空間を埋めている。遅れているようだ。てきとうなところで止まって立ち尽くしながら待つ。まえにいるのは若めのカップルで、男性は真っ黒なTシャツを着てハーフパンツにサンダル、ラフなかっこうでたしょうガタイはよく、右からその腕に絶えずからんでいく女性のほうは茶髪でうえは藍色の、みたところではニットらしい線のはいった服をまとっており、したは水色の褪せたようなジーンズ、足もとは白いサンダルで爪を赤く塗っていた。なんやかやはなしをしているあいだ、かのじょはたびたび男性の右腕に両手をからみつかせにいき、もたれかかるようにしている。いちゃいちゃというよりは、ベタベタとしている。じきに電車が来たので乗り、立ったまま瞑目のうちに待って、(……)に着くと降車。さきほどのカップルもここで降りた。駅を抜けると、きょうはスーパーではなくてコンビニに寄ってなんか買って行こうかなという気になったので近間の(……)に入店。どうでもよいのだが、くだんのカップルもやはりあとから来ていた。弁当とかそのへんを見ていると尾道ラーメンがあったので、いまやラーメンすら電子レンジであたためれば食えるのかとおもいながらそれを選んだ。その他カレーパンとか、ウインナーのはさまったパンとか、あとはわすれた。床の表示にしたがって通路を行ってレジ前に出ると、右手ではさきほどのカップルが会計しており、左手では店員なのか男性がふたりレジのところでにぎやかに会話しており、その向こうに若い女性店員もいて、どうも三人いっしょのようだったのだけれどいまいちわからず、右が終わるのを待つかと突っ立っていると左手の女性店員がたよりない声でこちらを呼ぶのが聞こえたので、そちらに行った。大学生か高校生ではないか。ちょっとおずおずとしているような子で、ひとのことはいえないが声がちいさく、なんと言っているのか仔細に聞き取りづらいようなところがあったがマニュアル的なやりとりなので支障はない。おずおずとしているようでありながらしかし、たとえば箸はおつけしますか、とかこちらに質問を投げるさいに、目をあげてこちらのほうをじっとうかがうようになることがたびたびあり、全体的な雰囲気とその視線のさだかさとの不釣り合いが印象的だった。マスクをつけているわけだが、顔はちょっと笑みをふくんでいるような気配もあった。いやな笑みの気配ではなく、他者とのやりとりの得意ではないにんげんが緩衝として意識せずに浮かべてしまうそれの感じがはんぶん、もうはんぶんはこちらのことをなにかおもしろがっているような感じを受けないでもなかったが、だからといって馬鹿にされている感じはなかった。支払いを終えて荷物や釣りを受け取ったところでレシートが出てこなかったので、ほとんど自動的な一連の推移のなかでまあいいかとおもいつつはなれようとしたところが、ワンテンポ遅れてかのじょはレシートを手にしたので、あるならもらおうといただきますと手を出したところ、女性はえ、あ、みたいにちょっと困惑の一瞬を置いて、それからちいさな紙を両手で持ってこちらのゆびにゆだねた。退店。このときは雨が降っていたのだ。左手にビニール袋を提げて、右手に傘を持つ。ふくれたビニールをさほど高く持つこともできず、傘の範囲からのがれてしまうがかまわない。
 帰り着いたあとは尾道ラーメンを食ったりしたのだが、そのほかにいまいちおぼえていることがない。


―――――


 ひたむきに燃えよ生成寝て覚めて生まれ変わった世界の朝へ

 星々に停止を願いこの夜は絵画となった二千年後の

 おれたちは奴隷ではないみずからのこころのいろも知らないけれど

 空も見ず今日が暮れても目を閉じて触れてくるだろ歴史の裾が

 つまらないうわさ話をやめにして虚構まみれの都市を行こうぜ