2022/8/7, Sun.

 それから朗読の集まりというのもあった。家賃を稼ぐためにやるのなら問題ない。ところが多くの奴らは虚栄心のためにやるときている。そうしたやつらはただで行い、多くの者がそうしている。ステージに立つことをわたしが望んでいたのだとしたら、役者になっていただろう。家に立ち寄ってわたしの酒を飲みまくる者たちの何人かには、わたしが聴衆の前で詩を朗読するのが嫌いだとはっきり伝えている。自己愛に走りがちだとも彼らには告げた。何人かのキザな男たちが立ち上がって明瞭な詩句を舌足らずに朗読する場面にお目にかかったこともあるが、退屈千万でうんざりさせられ、読者と同じように聴衆もまた生気のかけらもないように思える。死んだような人間が死んだような夜に時間つぶしをしているだけの話だ。
 「違うよ、ブコウスキー、あんたが間違っている [﹅6] ! 吟遊詩人たちは街角でみんなを楽しませていたんだよ!」
 「彼らがひどかったということはあり得ないのかい?」
 「ねえ、あんた [﹅3] 、いったい何の [﹅2] 話をしているんだ? 叙情的な恋の歌だよ! 赤心の歌の数々だ! 詩人だって同じことだよ! 詩人の数はまだまだ少ない [﹅7] んだ! もっとたくさん [﹅7] 詩人がいなくちゃならないんだ、街でも、山の上でも、いたるところで!」
 こういうことすべてには見返りがあるのだと思う。南部でわたしがある詩の朗読会を行なった後、朗読会を主催した教授の家で打ち上げパーティがあり、立っていつもと違う酒を飲んでいたら、その教授が近づいてきた。(end259)
 「さてと、ブコウスキー、誰をお望みかな?」
 「この女性たちのうちで、ということかな?」
 「そうだよ、南部のもてなしってやつさ」
 部屋の中には女性たちが十五人から二十人ほどいたに違いない。わたしはちらっと目をやって、このおぞましい魂の救済になるはずだと重い、丈の短い赤いドレスを着て脚をたっぷり露出している、口紅をべったり塗って、酒に酔っている少し歳のいった女性を選んだ。
 「そこにいるグランマ・モーゼスにするよ」と、わたしは彼に告げた。
 「何だって? 冗談だろう? そうか、彼女を好きにしていいよ……」
 どうすればいいのかわからないが言葉が勝手に飛び出した。グランマはどこかの男に話しかけていた。彼女がこちらの方を見て微笑み、小さく手を振った。わたしも微笑み、ウインクした。あの赤いドレスにわたしの金玉を包み込んでやろう。
 すると背の高いブロンドの女性が近づいてきた。顔の色は象牙のようなクリーム色、鋳型で作られたような見事な体型で、深緑色の目、ぴちぴちの腿、神秘的、みずみずしい若さ、ああ、とにかく何もかもが最高で、彼女は歩み寄ってくると、巨乳を思い切り誇示しながらこう言った、「あんなの [﹅4] にするおつもりなの?」
 「ああ、そうだよ。彼女の片方の尻にわたしのイニシャルを刻み込むつもりなんだ」
 「この馬鹿!」。唾を吐きつけそうな勢いで彼女は言って素早く向きを変えて立ち去ると、自分の抱え込んでしまった苦悶が耐え(end261)られないとでもいうかのように、細くて華奢な首を力なく前に傾けている黒髪の学生に話しかけた。多分彼女はあの街では詩人とおまんこをする代表的な存在、もしくは単に詩人をカモにする代表的な存在だったのだろうが、わたしは彼女の夜を台無しにしてしまったのだ。たとえ500ドルのギャラと飛行機代だけでも、朗読は割りに合う仕事となることがある……
 それで深入りしてしまう。そんなことをしていた時は、わたしは小さな旅行鞄と分厚くなっていくばかりの詩の束を抱え、同類たちに出会った。わたしが到着した時に彼らが去っていくことがあったし、その逆もまたしかりだ。何てこった、彼らの見た目ときたら、わたしと同じようにいかがわしくて、怒りに満ちた目をして、意気消沈しきっていた。それで彼らに対して少しは期待のかけらを抱くことができた。誰もがどうにかこうにかやっているだけだ、とわたしは思った、承知の上できたない仕事をやっている。彼らの中には少しは挑戦的な、抑え込めない悲鳴のような、必死で何かに立ち向かっているかのような詩を書いている者も僅かながらいた。わたしたちは見込みがまったくないのにもかかわらず、どうしようもない代物を騙して売りつけ、工場や洗濯場で働いたりせずに済むよう、あるいは精神病院に送り込まれることのないよう頑張っているのだと考えていた。わたしの運が少しはいい方向に変化する前、どこかの銀行を襲う計画を立てようとしていたこともある。丈の短い赤いドレスを着た歳のいった女性とおまんこをする方がましで……とはいえ、わたしが今言おうとしているのは最初からうまくいった数少ない者たちのことで……言うならば、『V-Letter /V・レター』の初期の [カール・] シャピロとほとんど同じような大成功で、今見回してみたところ彼らは取り込まれ、消化され、唆され、陵辱され、征服され、役立たずになってしまっている。あれこれ教え、大学で教鞭をとる詩人になっている。(end261)彼らはいい服を着ている。彼らは冷静だ。しかし彼らが書くものときたら、四つのタイヤが全部パンクしていて、トランクにはスペアのタイヤも入っていなくて、ガス欠している。そんな彼らが今や詩を教えている。どうやって詩を書けばいいのか教えている。いったい詩について何かわかっているなどとどこで思えるようになったのか? わたしにとってはまさに謎だ。彼らはどうやってそんなにもあっという間に賢くなって、どうやってそんなにもあっという間に愚鈍になってしまったのか? 彼らはどこへ行ってしまったのか? そしてどういうわけで? そして何のために? 忍耐は真実よりも大切で、なぜなら忍耐がなかったら真実にたどり着けないからだ。そして真実とは言明したように最後まで行くことだ。そんなふうに、死は行くぞと決めたらあっという間に襲いかかる。
 さてと、すでにいっぱい喋りすぎてしまった。しょっちゅう顔を出してはわたしのカウチにゲロを吐いていた詩人たちのようにわたしはなってしまっている。そしてわたしの言葉は他の人たちが喋りまくる言葉と何ら変わりはしない。(……)
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、259~262; ウィリアム・パッカード宛、1984年5月19日)




 現世にもどって上体をちょっと起こし、手を伸ばして携帯を見たのは八時一五分。あおむけにもどると目を閉じてゆっくり息を吐きつづけ、からだに空気と血をめぐらせて覚醒をたしかにした。腹やこめかみ、頭蓋なども揉み、まぶたを下ろしたまま眼球もよく回しておいた。昨晩目が疲れて日記を書けなかったので。ことさら暑かったり汗をかいたりしているわけでもないし、空気の感じからしてきょうも曇り日らしいなと推す。そうして八時四五分に起き上がり、カーテンをひらいてみるとやはりきのうにつづいて白い曇天、しかし一二時半現在だとレースのカーテンの下部にすこしばかりあかるみが触れ、かさなっているのがみられる。洗面所に行って顔を洗うと用を足し、出ると口をゆすいだりうがいをよくやったりしておいて、水を飲んで蒸しタオルを顔に乗せる。寝床にもどるとChromebookを持ったが、きょうもまた一年前の読みかえしをサボってしまった。ウェブを見てまわったのち、きょうは読書会があってホッブズリヴァイアサン』のⅡについてはなすので、ブログを「ホッブズ」で検索して感想や分析を書いた記述を読みかえしておいた。読了したのはもう一か月もまえなのであまりよくおぼえていない。読みかえす過程で出てきた日のほかの記述もところどころ読んでみたが、よく書いてんなあとおもうところも二、三あった。そうして一〇時四五分ごろにいたって離床し、背伸びをしたあとふたたび水を一杯飲んで、それから瞑想。椅子のうえにあぐらをかいてすっぽりはまるようにして座ると、さいしょに深呼吸をしばらくつづけた。たぶん五分くらいか。それから静止。窓外からはセミの声が聞こえるが、きょうは日曜日なので保育園から子どもの声はひとつも立たない。セミアブラゼミなのか、窓ガラスの遮蔽のために声はちいさく遠くにちょっと敷かれているような聞こえ方で、ミンミンゼミがうなりをあげればその下地のうえにはっきりあらわれて波を描く。三〇分ほど座って一一時二六分。食事へ。きのう買ってきた水切り用ケースに皿などを入れて洗濯機のうえに置いておいたので、それをいったん床のうえ、流し下の戸棚のまえに下ろす。そうして皿やまな板を取って洗濯機や冷蔵庫のうえに置き、キャベツを切りはじめた。半分に切った片方がまだそこそこのこっており、もう半分は手つかず。皮を一枚ずつ破りながら剝いで、それを細切りにする。なんかそうしたほうがむやみにたくさん切らずに済み、節約につながるような気がする。リーフレタスはすくないあまりをぜんぶちぎってしまい、キャベツのまわりを囲むように配置して、セロリや赤パプリカを刻んでキャベツに乗せたり混ぜたりし、あとはトマトを切って外周のレタスのうえに。ドレッシングは生姜のやつを開封。そのほか三個一セットの豆腐をみてみると賞味期限が八月一〇日だしこれも食うかとおもって椀に取り出し、鰹節と麺つゆをかけて生姜をのせる。さらに冷凍のメンチカツ。メンチカツはこれでなくなった。あと食い物は野菜と豆腐くらいなので、またたしょう買いに行っておいたほうがよいが、きょうはたぶん行く気にならないし、あしたは労働、したがってあさって医者に行ったそのあとになるか。ウェブを見ながら食事を取って、薬も一錠飲んでおき、洗い物はいったん流しで水にひたしておいて、便所でクソを垂れてからNotionにログインしてきょうのことをここまで書いた。一二時四五分。だんだんそれが常態になってきたが、またしても昨夜はシャワーを浴びなかったのでこれから浴びる。そのあときのうにつづき洗濯もしたい。あとはきょうじゅうに五日と六日の日記をどこまですすめられるか。あしたの授業の予習もしておく必要がある。きのう箒とちりとりを買ってきたので掃除もしたいが、きょうはできない気がする。


     *


 シャワーを浴びることにして席から立ったが、陽が出てきたので、そのまえにきのう洗って吊るしたままだった洗濯物のうち、タオルとバスタオルはそとに出しておいた。肌着のシャツとパンツはまあいいかなとハンガーからはずしてたたんでしまい、湯浴みにつかうタオルを一枚そとに出した集合ハンガーから取って服を脱ぐ。シャワーを浴びているあいだに洗濯もしてしまおうと洗濯機にすくない汚れ物を入れ、スタートボタンを押して水をそそぐ。パンツ一丁のかっこうで背伸びをしながら水が溜まるのを待ち、ある程度行ったところでエマールとワイドハイターを回し入れて、注水が止まるとパンツも脱いで加えておき、蓋を閉めて開始させると浴室にはいった。ふたつの蛇口をひねってうまい湯の温度をさぐる。湯が出てくるまでには時間がかかるので、そのあいだはいつも壁の取りつけ具にとおしたシャワーから吐き出される水を両手ですくってなんども顔を洗っている。出るものがあたたかくなると足先のほうからからだに浴びせ、じきに座りこみ、あぐらをかけば左右がぶつかるくらい狭苦しい浴槽のなかでからだぜんたいを流す。それから湯をとめてボディソープを手に取り、素手でてきとうにからだを洗って、それをいったんながしてからあたまを洗うこともあるしそのままシャンプーに行くこともある。あたまをガシガシやってながし、さっぱりすると扉をあけておいて、フェイスタオルで髪やからだの水気をいくらかぬぐう。浴槽の縁をまたぎこしながら足の裏も拭いておき、縁のうえにはねている水なども拭き取って室を出ると、そこにある足拭きマットのうえに立ち、つかったフェイスタオルは脇に置いてあるニトリの袋に入れておいてバスタオルでからだを本格に拭いた。それで肌着やジャージを身につけて、ドライヤーで髪をかわかす。その後椅子について音読へ。「ことば」ノートの九番、岩田宏の「ショパン」を読んでいるとちゅうで洗濯が終わった。しかしすぐには立たず一四番までぜんぶ読んでから洗濯物を干しにかかった。さきほど出しておいたハンガーを取りこんでもともとついていたタオルなどは外し、布団のうえに放っておいて、洗ったものをあらたに取りつけてそとへ。その他肌着やTシャツやいまつかったバスタオル。足拭きマットも柵にかけておいた。天気はひかりにかたむいており、右方、北側にはもくもくと湧いて丸まった雲がみられてぜんたいにも量はおおいけれど、水色もまたたしかにのぞいて爽快さを添えている。洗濯物を出したこのときには向かいの保育園の直上に灰色混じりのおおきな雲がひろがっており、それが太陽をさえぎれば一転したあたりの大気のいろあいにあやしさを感じもしたものの、その後またあかるんでいるし雨はすぐにはなさそうだ。干し終えると席にもどって音読をつづけ、そのあとここまで加筆すると二時半を越えた。


     *


 五日の記事を書きはじめたのだが、ちょっとだけ書いたところで寝床に闘争し、からだを休めながらものを読んだ。まずあしたある(……)くんの授業のため、現代文と英語とそれぞれ予習する。現代文のほうはかれがもってきた河合塾の共通テスト模試をコピーさせてもらったやつで、とりあげられているのは宇野重規『民主主義とは何か』と竹西寛子の「管絃祭」。とりあえず前者のみ読んで、後者はまだ読んでいない。あした行くまえに余裕があれば。『民主主義とは何か』の文章は簡明で、問題もふつうにわかりやすい。容易に全問正解できる。そのあと安河内哲也のハイパートレーニング英語長文3。先日標準編の2を買ったのだが、それをもって職場に行ったところが(……)くんはやはり2ではなくてもう3(難関編)からやってしまうことにしたというので、きのう買い直した。標準編のほうは職場に寄付してやったわ。難関編なのでたぶんMARCH(いまはGMARCHというのだとおもうが)いじょう、早慶を受けるくらいの生徒がやるレベルなのだとおもうが、まあ余裕ですわ。二題読んでおいたが、意味がわからない部分などまるでない。問題もふつうに正解できる。こうしてみるとおれもそこそこ英語が読める。しかしこんなところで満足していてははなしにならない。もっと英語で文学を読めるようにならなくては。世界中の言語で詩が読めるようになりたい。
 予習を済ませたあとはマックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)。一九一三年一月一二日にはカフカの妹のひとりであるヴァリが結婚したのだが、カフカは結婚式のような場はやはりまったくなじめないようで、「時折ぼくは、こうした無縁の人々から解放されるためには、犠牲が大きすぎるということはない、妹を犠牲にしたってかまわないという感じがします」(223)とまでいっている。この「妹」が結婚当事者であるヴァリのことなのか、かれがもっとも愛したオットラのことなのか、そもそもこの語が原文で不定単数なのか複数なのか、それらはわからないが。カフカは、オットラはれいがいとしても、家族とのあいだにはよそよそしい関係しかつくれなかったようで、じぶんの部屋にいても隣からさわがしい声が聞こえてくるのでねむりをさまたげられる、とかたびたび書いているのにそれをまざまざと感じる。「まだ隣りで妹と従妹が子供たちのことを話しており、母とオットラが口をはさんでいます。父と義弟と従妹の夫はトランプをしていて、哄笑、嘲笑、叫び声がおこり、カードを投げ棄てる音がして、ときおり孫の真似をする父の声で中断されるだけです」(233)、「ぼくは日曜日をまずく過し、不満足で、隣りの騒音はそれにふさわしい結末です」(233~234)とか。しょうじき、このへんはちょっと共感してしまうな。自室にいるけれど欲する孤独と孤立が確保できず、他人の存在が侵入してくるというカフカの感覚が身をもってわかる気がするというか、カフカの記述からじぶんのそれが喚起される。れいのゆうめいな、書くためには死者のような孤独が必要なのですと述べる手紙はまだ出てきていないが、一九一三年の一月一四日から一五日にかけての夜に書かれた手紙には(カフカはだいたいいつも真夜中に手紙を綴っている)、「地下室居住者」(226)としてのイメージが登場する(クソどうでもいいが、一月一四日とはこちらの誕生日である)。「ぼくはもうしばしば考えたのですが、ぼくにとって最良の生活方法は、筆記道具とランプを持って、広々とした、隔離された地下室の最も内部の部屋に居住することでしょう。食事が運ばれ、いつもぼくの部屋からずっと遠く、地下室の最も外側のドアの背後に置かれます。食事のところへ行く道、部屋着のまま、地下室の丸天井の下をすべて通り抜けて行くのがぼくの唯一の散歩でしょう」(225~226)と。そしてこの件にかんして、フェリーツェはカフカにたいしてなにか言ったようで、「なるほど、こう書いてある。他の人よりはるかにお前を大目に見てくれるフェリーツェにとってさえ、堅実さと自信の点でお前は不満足な人間なのだ」(231)とかのじょの手紙を読んだときの反応をかれは綴っており、それから、じぶんはあなたに苦悩をあたえることになるでしょう、と表明している。「あなたがぼくから決して純粋な喜びを得ることはないだろうということ、それに反し人が望みうるかぎりの純粋な苦悩を得るだろうということを悟ってください」(232)とかれはうったえているが、こんなことふつう堂々と恋人に言う? とちょっと笑ってしまうようだ。カフカはこれいぜんにも、じぶんはあなたを不幸にするだろうということをなんどか書いていた。それはけっきょく、カフカの性向、じぶんは文学そのものから成り立っているといったり、いちにちものを書かないだけでひどくみじめな気分になったりするほど書くことに傾倒していることや、(おそらくカフカじしんにいわせれば)だからといって書くことにおいてじぶんは有能であるわけではないが、それいがいのことがらにかんしてはほぼ無能そのものである、という自己認識から来ているのだろう。そしてその点は、フェリーツェにはあまりじゅうぶんに理解されていないようだ。すくなくとも、カフカにとってじゅうぶんではなかっただろう。さきほど一部を引いたかのじょの手紙への反応を記す括弧のなかで、「(……)お前には地下室が必要なのだ。フェリーツェはこの必要性を洞察しなかったのだろうか? 洞察できないのか? 彼女は、どんなに莫大な事柄についてお前が無能なのか、分らないのか?」(231)とかれは問うているからだ。それでいてカフカは、
 いまもう八月一二日の午前零時二分で、カフカ書簡についての感想は九日の記事にも書いたし、めんどうくさいというかこの日うえのつづきでなにを書こうとおもっていたのかもわすれてしまったので、ここまでとする。


     *


 あとこの日のことで書いておくべきは通話時のことくらいだろう。五時から。そのまえに腹が減っており、しかし食い物もたいしてなかったので、近間のサンドラッグに行ってなんかパンでもちょっと買って通話前に食おうと外出した。進歩である。いぜんだったらめんどうくさくて部屋内にとどまっていた。道中は印象があったはずだが忘却。コンビニではなくてサンドラッグをえらんだのはエマールの詰替えも買っておきたかったからで、ふたつも買ってしまった。パンのほかには冷凍のパスタや唐揚げも買っておいた。
 通話は(……)くんらとの読書会で、課題書はホッブズリヴァイアサン』のⅡ。(……)
 (……)
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  • 「ことば」: 1 - 14
  • 「読みかえし1」: 235 - 242
  • 日記読み: 2021/8/7, Sat.

帰室後は「読みかえし」ノートを読み、プルーストを書見。143からで、話者が庭で本を読んでいるあたり。小説と、それが読み手の精神にあたえる影響みたいなことについての論がちょっとぶたれたあと、サン・ティレールの鐘が大空にひびきわたる描写がされたり、兵隊の行進をみなが見に行くみたいな場面がはさまれたりして、ベルゴットの話題が出てくる。ベルゴットは古風で特殊な表現が文学好きのひとびとのこころをひきつける作家で、とうじはじぶんのアイドルであったみたいなことがかたられたのち、ある日ベルゴットを庭で読んでいるときに、スワンがやってきてそれに言及したことがあった、とそのひとことだけ書いてのち、いったん、ベルゴットをわたしがはじめて知ったのは学校の友人ブロックを通してだった、とブロックのはなしにそれて、このユダヤ人の級友がむやみに哲学者ぶって、わたしの精神は形而下の事象になどまったく影響されずそれをみとめないので、雨が降っていたかどうかなどあなたにもうしあげることは絶対にできません、などと話者の父親に述べて、あいつは天気のはなしすらできない白痴だな、と軽蔑されたり(ちなみにこのさいに父は、天気ほど人間にとって重要なことはないのに! みたいなことばも漏らしていて、晴雨計を愛好する彼の気象への偏愛がしめされている)、話者の家族にきらわれてまねかれることがなくなる、という迂回的エピソードがはさまったのち、庭にスワンが登場するところにもどって、ベルゴットならわたしと懇意で、夕食を取りにこない週はないくらいですし、うちの娘と仲が良くてよくフランスの史蹟を見にいったりしてますよ、とかたられて、それで話者はまえまえからきれいな少女だといううわさを聞いて興味を持っていたこのスワンの娘(ここではまだなまえが出ていないが、すなわち初恋のあいてジルベルト)へのおもいをなおさらにつのらせる、というところでひとくくりが閉じて、一行空けがはさまれる。このさいごのあたりを一読したかぎりでは、だから、話者のジルベルトへのさいしょの恋心は、ジルベルトじしんの性質の情報というよりは、彼女が話者の偏愛する作家ベルゴットとしたしいという事実によって媒介されているようにもおもわれたのだが、そのあたりはくわしく読んでみないと確実ではない。一行空けのあとは、レオニ叔母(話者の一家がコンブレーにいるあいだその家に滞在している大叔母の娘で、病身で、夫のオクターヴを失って以来一日中ベッドで過ごしている)と女中フランソワーズや、ユーラリーという叔母を不快にさせず当を得た返答をすることに長けた友人の女性や司祭の訪問などについてはなしが展開されるが、レオニ叔母の生活のようすとかフランソワーズやユーラリーと彼女との関係はまえにいちどかたられているので、それもたしか、マドレーヌの場面が終わって全コンブレーが回想されはじめるその冒頭でかたられていたはずなので、ここでそれが回帰してきて、いわば仕切り直しというか、ここからあらためてべつの方向にすすんでいく、というながれになっているとおもわれ、たしかこのあとゲルマント一族のはなしとかにつながっていくのではなかったか。この司祭というひとはなかなかおもしろく、芸術的な興味はまったくもっていないらしいが、しかしフランスのさまざまな地名の語源にやたらくわしくて、レオニ叔母に会いにきてながながと滞在し、病気の叔母を疲労させながら、教会のことを説明するはなしのあいまあいまにこの地名はもともとこういうなまえでこれが訛ったものなのですよ、みたいなどうでもよい豆知識をはさみまくる衒学家である。

     *

この夜に入浴したさいに、夜にもかかわらず窓外でセミがまだ鳴きまくっていて、沢の音か風の音かと混ざり合ってもいたようだが、しかし拡散的に旺盛だった。湯のなかで目をつぶってじっとしていると、首すじとか肩のまわりや胸の上部(肩から鳩尾までのあいだの領域)に汗が続々と湧いてはながれつづけ、肌のうえを愛撫的にくすぐったくなぞるそれらの水滴のうごきかたは大都市中心部の狭い土地を縦横無尽に張り巡らされている道路のうえを行く無数の車集団の軌跡よりも複雑なはずである。

     *

154:

 「おや、ブロックさん、どんな天気ですか、そとは? 雨がふったのですか? おかしいな、晴雨計は上々吉だったのに。」
 それにたいして父はこんな返事しかひきだせなかったのだ、
 「それはあなた、絶対に申しあげられません、ぼくとしては、雨がふったかどうかなどと。ぼくはじつに断乎として形而下の偶発事のそとに生きていますから、ぼくの感覚はそのような偶発事をぼくに通告する労はとらないのです。」
 「いやまったく、あなたにはわるいけれど、白痴だね、あなたの友達は」とブロックが帰ったあとで父がいった。「なんてことだ! あいつはきょうの天気のことさえ私に話せない! いや、天気ほど関心をひくものはないのだからね! あいつは低能だよ。」

     *

185: 「このお産のような非常にまれな出来事以外には叔母の毎日のこまごとにはなんの変化もなかった、と私がいうとき、一定の間隔をおいて、つねにおなじように反復されながら、千篇一律のなかにさらに一種の副次的な千篇一律をもちこむにすぎないような、そんな変化もあったことを言いもらしている。たとえば、土曜日はいつも、午後からフランソワーズがルーサンヴィル=ル=パンの市場に行くので、昼食は私たちみんなにとって一時間早かった、というようなことがある。そして叔母は、そんな週一回の違反にすっかり慣れてしまったので、その違反の習慣を他の習慣とおなじようにたいせつにしていた」


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 (……)さんのブログ、八月三日。

 しかし、この主体と密接な関係にあるヴァイツゼッカーのもうひとつの鍵概念「相即(コヘレンツ)」Kohärenzのことを考えあわせると、事態はそれほど単純ではなくなります。彼が「相即」と呼んでいるのは、生きものがその生存を保持するために、知覚と運動の両面を動員して環境世界とのあいだで保っている接触のことです(同四二頁)。有機体自身もその環境世界も絶え間なく変化していますから、この相即は絶えず繰り返し中断されることになります。しかしそのたびに、それに代わる新たな相即が樹立されて、生きものと環境世界との接触がひきつづき保たれることになります。そうでなければ生きものが生きてゆくことはできません。この相即の中断のことを、ヴァイツゼッカーは「転機/危機」(クリーゼ)と呼んでいます(同二七三頁)。「クリーゼ」というのは、当事者の存亡を賭けた決断のときという意味です。転機と呼ばれるこの危機的な瞬間に、主体はその連続性と同一性をいったん放棄します。そこで再び新しい相即を樹立しなおすために、有機体の内部になんらかの機能の組み替えが生じないかぎり、主体は破滅せざるをえません(同二七五頁)。
 これは要するに、外部的な観点から見て「相即」と呼ばれるような事態が、それによって生存を保っている当事者である有機体の側から見れば、「主体」と呼ばれるということではないのでしょうか。主体は、環境世界との相即が保たれているかぎり、主体として存続することができるのです。そのように考えれば、ヴァイツゼッカーのいう主体とは、それ自体、生きものと環境世界との接触現象そのもののことであり、有機体とその環境との「あいだ」の現象のことだと理解することができます。
木村敏『からだ・こころ・声明』 p.20-21)