2022/9/10, Sat.

 人が皆、軽蔑の唾を彼等の顔へふきかける時
 価値もない、また雷に祈 [いのり] をささやく髭 [あごひげ] にすぎない
 これらの英雄たちはおどけた不安につかれ

 滑稽にも街燈で首を吊りに行く。

 (西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、15; 「不運」(Le Guignon); 初期の詩; 一八六二年発表)




 いちど七時半過ぎに覚めたのだが、あいまいに寝つき、まどろみをつづけて、だんだんとふたたび浮上。保育園の子どもたちの声が室内にあってそんなに聞こえなかったり、門の開閉する音や送り届けの気配もないことから、たぶんもう一〇時くらいかなとおもって携帯を見るとやはりそうだった。呼吸しつつ身をやしなって、腹や胸や腕や腰をさすったり。一〇時四二分に床をはなれた。洗面所に行って顔を洗い、小便を捨て、出るとガラス製カップでぶくぶく口をゆすいだりうがいをしたり。洗濯ももうはじめることに。ニトリのビニール袋に入れておいたものをひとつずつつまみあげて洗濯機のなかに落とし、注水をはじめると窓辺に吊るしてあったものたちをかたづけた。その後洗剤をそそいで稼働させはじめ、水を飲んだり蒸しタオルで額を熱したり。寝床にもどるときょうも日記の読みかえしはサボってウェブを見回った。天気はそこそこあかるい。一一時半過ぎくらいに立ち上がって、すでに洗濯は終わっていたので洗われた衣服類をハンガーにつけて、窓外へ。このときにはもう陽が出ており、ワイシャツを吊るせばかたむくくらいのながれもあって、よく乾きそうな雰囲気だ。それから屈伸したりしてのち、瞑想。一一時五八分からはじめて、目をあけるとちょうど一二時半だった。寝床で胎児のポーズをやったりなんどか屈伸したりしておいたから、脚が痛くならず姿勢も安定して、三〇分座ることができた。首のすじなんかがじわじわと剝がれるような感触でほぐれていってからだの統合性が高まるのを感じつづける。脚も終わってみればしびれていないわけではないのだけれど、やっているとちゅうはそれを顕著に感じず、さまたげにならない。携帯を見ると電話がはいっており、見覚えのある番号だったがなんだったかなとおもって履歴をさかのぼると過去にかけた記録もあり、地元の美容室か? とおもったがそうではなくて(……)だった。脚のしびれが取れてからかけてみると受付の女性の知った声が出るので、お世話になっております、(……)と申しますが、電話をいただいたようですが、と向けると、いま臨時休診をしていてそのお知らせだということだった。一三日まで休みだというが、ヤクはまだけっこうあるので問題ない。事情は知れないけれど、(……)先生ももうそこそこの歳なはずだし、なんか急に病気になったとかそういうことかもしれないとおもった。あるいは、期間がくぎられているということは身内の不幸とかか。いずれにしても礼を言って切り、それから食事へ。サラダはキャベツとセロリ、豆腐、サニーレタス、大根、ハム。サニーレタスとリーフレタスはいったいなにが違うのか。値段もおなじ税抜き一五八円だったとおもうし。きのう買ったキューピーのごま油&ガーリックドレッシングをかけて食うが、このドレッシングはセロリと合わせるとけっこう風味がよくなる気がする。その他これも昨晩買った冷凍のミートソーススパゲッティ。食後はさっさと皿を洗い、というかサラダをつくったその直後とか、スパゲッティをあたためているあいだとかからすこしずつもう洗っているのだけれど、かたをつけると活動前に音楽を聞くことにした。音楽を聞くというかこれも静止して肉体をやしなおうということの一環で、BGMなしのふつうの瞑想はもういちどやっているし、音楽聞きつつもうすこしからだを落ち着けようみたいなことなのだが。Amazon MusicにアクセスするとおすすめとしてJoshua RedmanBrad MehldauChristian McBrideBrian Bladeがやった『Long Gone』が表示されており、すこしまえに一曲だけ先行公開されていたのを聞いたけれど、これが発売されたらしいので聞いてみようと選択した。“Long Gone”, “Disco Ears”, “Statuesque”と三曲目まで。Brad Mehldauがよい。一曲目も二曲目も、よくこんな旋律つくれるなという音使いで、ふつうにコードに合わせるアプローチはほぼないのだけれど、かといってあからさまにアウトするでもなく(たしか一曲目のほうでは後半に行くにしたがってすこしずつそういう感覚も増えてきていたが)、あいだの絶妙なところを探索している感じがある。じゃあそれはモード的ふるまいなのかというと、そのあたりの楽理はぜんぜんわからないのだけれどたぶんそういうことでもなくて、もっと独自の、別様の旋律体系を持っているんだろうなという気がする。不思議な音使いなのだけれど、ほかにあまりない感覚で、聞いているとある種の快楽が生じる。それに比べるとJoshua Redmanのほうは比較的わかりやすい、尋常なほうに寄った音のつらなりをつくる気がするけれど、二曲目なんかはソプラノでじつになめらかに縦横に行き来して音を埋めていて、そのきっちりしたリズム感での連鎖もきもちがよい。二曲目はすこしColtraneカルテットを連想したのだけれど、それは単に曲調にほんのすこしそんな雰囲気があったというのと、ソプラノサックスをつかったということと、Brian Bladeが広範囲にいろいろ手を出しているのがElvin Jonesをちょっとおもわせたというくらいのことではないか。RedmanじしんはColtraneみたいに音を一気に詰めこんではやく吹くということはほぼやっておらず、むしろうえにも触れたように正確なリズムで八分音符をひたすらつらねていく時間がおおかったとおもうし、MehldauとMcCoy Tynerはぜんぜんちがう。ともあれ格好良いサウンドではあるし、現代ジャズ界のおのおのの方面の最高峰のひとりと言ってよいにんげんたちが揃っているわけだから、わるくなりようがない。ただ、それであるがゆえに、この四人ならまあだいたいこういう感じになるよな、というところはある。そしてそれがやはり、たとえば六一年のBill Evans Trioなんかとはちがうところなのだとおもう。まったく主観的な言い分なので根拠をしめせないが、六一年Village VanguardのEvans Trioには、あの演奏があのように成り立ってしまうということがまるで自明ではないという感覚があり、音楽とはまったく自明の事態ではないということが音楽じたいによって証言され、あかされているような感じを受ける。そこでいつも、When you hear the music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again. というEric Dolphyのことばをおもいだしてしまうのだけれど、音楽が成り立つということはすこしもとうぜんのことではなく、必然的なことでもなく、それはつかのまの、たまさかの成立にすぎないのだと、音楽はtransientなもので、なにかがすこしずれれば立ちどころに成り立たなくなってしまうものなのだと、そういうことを証言しているように感じさせる種類の音楽がときにある。六一年のBill Evans Trioがそうだし、たぶんColtraneカルテットもEric Dolphyもそうなのではないか。それがかれらのようなレジェンドといわれる音楽家たちの特質で、その音楽は、これが成り立つか成り立たないかわからないし、いま成り立っているとしてもなにかがちがえばとたんに崩壊してしまいかねないという危機を踏まえた地点でどうにか成立している、という感覚をふくんでいる。ことは六一年のBill Evans Trioにかぎらない。音楽とはほんらい、すべてそうであり、いま成り立っていることがつぎの瞬間にはもう成り立たなくなってしまうかもしれないという、根拠のとぼしいところでどうかして絶え間なく維持されつづけているもののはずだ。Joshua Redman以下四人の演者たちが演奏中にそれを感じていないわけがない。ないのだが、さきほど聞いた『Long Gone』は、すごい演奏、すばらしい演奏であることはまちがいがないのだけれど、この音楽がこういうふうに成り立つということは自明であり、あらかじめわかっていることだとおもえてしまう。だから聞きながら安心してしまえる。安心してすごいとおもえる音楽だってそれはそれで良いのだけれど、ひるがえってBill Evans Trioを聞いたときには、つねに危機を踏まえながら刻々それが維持され持続されていることの非自明性に感動し、泣いてしまうわけである。じっさいこのあと六一年六月二五日のライブの二枚目から"Alice In Wonderland (take 2)", "Porgy (I Loves You Porgy)", "My Romance (take 2)"と聞いたけれど、一曲につき一回は泣いてしまった。音楽の成立を自明のものとせず、形式との葛藤や角逐のなかで、すこしまちがえばもう崩れてしまうという危機の場所にいる演者としてわかりやすいのは、やはりあきらかにLaFaroで、かれはむしろ隙があれば形式をみずから揺さぶりに行こうとするような、どこまでがだいじょうぶでどこからがもう駄目なのか、その境を探ろうとしているようなおもむきがあり、その振る舞い方は破壊衝動やある種の自殺願望のようなかたちにすら聞こえる。そういう破壊性と対峙しながらEvansはEvansで、それが見えていないかのように、じぶんにできる最高のことをつねに、ほんとうにつねにやりつづけている。じぶんにできる最高のことをやっていない瞬間がない。絶望的にすさまじくすばらしいその一貫性、一定性は、明晰な狂気である。一見ひたすら透明でうつくしいのでそうとおもわれないが、そのじつ狂気としかおもえないほどにきわまったひとつの明晰さである。だれもがきれいだと言い、だれもがうつくしいと言い、わかりにくいこと、不思議なこと、異常なことはそこになにもないとおもうだろう。とんでもない。LaFaroをまえにしながら決して乱れなくつねに維持されているその明快さこそが、Bill Evansというピアニストの、そしてまたこのトリオの、もっとも異常でおそるべきところである。"My Romance (take 2)"のピアノソロは完璧を具現化しているように聞こえてしまう。LaFaroにもどると"Alice In Wonderland (take 2)"はベースソロもすごくて、バッキングのときのような自殺願望的なやりかたとはまたちがうけれど、ソロはソロでベースという楽器に安住していない感じがありありとあって、ベースソロのやりかたはまったく自明ではないという認識をもっていたとしかおもえない。しかもそれでいてすばらしいパフォーマンス、すばらしい踊り方におさまっているわけで、六一年時点でこんな弾き方をしていたというのは、やはりあたまがおかしかったんだろうとおもう。EvansとLaFaroのふたりはいわばそれぞれにひとつの極限にいるのだけれど、そのあいだにあってMotianはあいかわらずなんだかよくわからない。かれにはそういう極限的な、究極的な感じはなく、ふつうなところもありつつときどきひとりだけちがうゲームをやって勝手にたのしんでいるみたいな変なところとか、半端な感じがある。だからこそ、うまく行ったのかもしれない。EvansとLaFaroのふたりだけでは成立しなくて、Motianが単にふつうではなく、かといってぶっ飛んでしまっているわけでもなく、変に中途半端だったからこそ、このトリオが成り立ったのかもしれない。二時半くらいからはじめてここまで記すともう四時一二分。


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 いま九時二二分。五時から(……)と二時間通話して、それから七日の日記八日の日記と書いてしまえたところ。これであとはきのうのことを記せばだいたい済むわけでよろしい。きょうはここまで部屋から出ていない。さいきんは休日でもかならずいちどは歩きに出ていたはずなので、籠っているのはひさしぶりだ。このあと夜歩きに出てもよいし、そうするべきだろうが、その気が起こるかどうか微妙な感じだ。とりあえず腹が減ったので食事を取りたい。


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 (……)との通話でことさら書いておきたいことはそんなにないのだが、ともあれなにかがあたまのなかに寄ってくるか、書き出してみよう。さいしょのうちはこちらがひとり暮らしをはじめたということで、生活はどうかとか、家電は友だちといっしょに買いに行ったとか、部屋はかたづいておらず床の掃除もなかなかできなくて汚いとか、サラダをつくっているだけで調理はまだはじめていないとか、(……)が聞くのにこたえてそんなことをはなした。あちらも(……)で「(……)」の活動、すなわち宣教もしくは伝道((……)本人がつかっていたことばは後者だったはず)をやっているので、そのへんのことをたしょう質問して聞く。いまは週二であつまって聖書をまなぶ会合があるという。(……)はけっこうひろく、人口がたしか四六万人と言っていたとおもうからけっこうな規模で、市内だけで「(……)」のグループが一三〇だかあるとか言っていた。そのうちのひとつに(……)も参加し、コロナウイルスがふるっていたころはオンラインだったが、今年の四月だったかそのくらいから公民館的なところにあつまるようになったと。四六万人の都市とはいえ一三〇もグループがあるとは(しかも一グループで数十人と言っていたとおもう)、信徒はずいぶんおおい。しかも東京や大都市圏ですらない、地方の一都市でそれなのだから、(……)という組織もだいぶの勢力をもっているなとおもうもので、統一教会しかり創価学会しかり、宗教的なものにたいする忌避感がつよいとか、無宗教社会だとかいわれる日本でも、ずいぶんと宗教がちからをもっているなとみえる。伝道をしてみると、(……)は東京よりもひとがゆっくりしていて、はなしを聞いてくれるひとがおおいような印象だということだった。伝道はふつうに訪問をして、聖書をまなんでいるとか、こういった疑問についてかんがえているとか活動を紹介し、誘うようなかたちらしい。実家にいたころうちにも二、三回来たおぼえがある。母親はちょっとはなしを聞いてあげていたようだった(最終的にはがんばってくださいと言いつつことわるわけだが)。
 こちらから(……)の生活や近況などについて聞いたのはそのくらいで、あとはだいたいむこうの質問にこたえるか、なにかあたまに浮かんだことを喋るかという感じだった。後半は(……)が、あれ、まえにも聞いたかもしれないけど、(……)さんは、神についてはどうおもってるんだっけ? と聞いてきたのを端緒に、わりとそういう哲学的だったり抽象的だったりする方面のはなしをいろいろ語った。神にかんしては質問に、実在として信じてはおらず、存在しているのかいないのか端的にじぶんにはわからない、実在というよりは、にんげんがものを突き詰めてかんがえていったときに必然的に行き当たらざるをえない存在のようなものじゃないかとおもう、とこたえると、ひとがあたまのなかでつくりだしたっていう、と来たので、まあつくりだしたっていうか、どうしても出てきちゃってかんがえざるをえないっていうか、と返す。そういう観念としての神はわかるが、この世界をつくった超越的な存在としての神というのは、端的にじぶんにはリアリティをもって感じたり、そこにつながることができない、だからよくわからないというほかないとじぶんの感覚を述べてまとめた。(……)は、じぶんが神を信じているのは(というのだから(……)だってやはり神を「感じる」のではなく、それはあくまで感覚にかかわらず実在を「信じる」ものなわけだ)、まさしくいま(……)さんが言ったようなことで、なにをかんがえるにしても最終的に神に行き当たっちゃうとおもうんだよね、世界でもなんでもいいんだけど、なにかものがあったら、それをつくったものとして神がいないとおかしいとおもう、と言った。たぶん、世界が複雑によくできすぎているから、それがしぜんに構成されたとはおもわれず、それをつくった存在がいないとおかしいという趣旨だろう。のちには、こちらが風景や書くことのはなしなんかをしたあとだが、海とかをみていてもすごくきれいだよね、にんげんがきれいって感じるようにできてる、じゃあそれをつくった神は、まあ……なんかあたたかい、やさしい神かな、とか、と述べていた。この点がすこし不思議なところで、(……)の立場からすれば神は全知全能でわれわれの理解を超えた存在であるはずなのに、それに形容詞をあてて人間的意味に引き下ろし、ある程度いじょう人格化して語ることをするわけだ。神は言語を超越した存在であり、どのような表現や性質もそれをただしくとらえることはできないというかんがえではないのだろうか。あるいは反対に、神は全的な超越者なのだから、すべての比喩を吸いこめる大空のように、どんな言語や形容詞をも受け入れておのれの性質とすることができる、という理屈なのだろうか。どちらでもよいのだけれど、神というものをリアリティをもってじぶんのなかに位置づけることができないということをはなしたあとに、でもいま言ったことと矛盾するようだけど、敬虔な宗教者のそういう感じもちょっとわかるような気もするけどねと言って、じぶんの書きもののいとなみのことを説明した。いままでなんども書いていることなのでめんどうくさいから割愛するが、つまり風景を見たときにおぼえるこれは書くに値する、書きたい、という感覚とか、日記をつづけて書ける範囲がひろがるにつれて、まったくおなじ一日はなくそのすべてがちがった固有性をもった一日であり、それをさらに微細にかんがえるとそもそも生のどの瞬間もほんらいはまったくちがった固有性をもつ一回だけの瞬間だという認識にいたり、そしてそれらすべてが原理的には書くに値するのだという一種の「信仰」をえた、というはなしのことだ。だからいってみればおれにとってはこの世界そのものが神みたいなもんだよね、と言い、それは宗教者が神にたいしていだく感じとあまりちがってないんじゃないかとおもう、と述べた。
 (……)がじぶんの神にたいするスタンスを語ったあとに、こちらとあちらの相違点として、起源をもとめるか否かというところだとおもうと指摘し、じぶんはまあわりと世界はそれじたいとして勝手にあるとおもってるタイプだと言った。それにくわえて、おれはそもそも世界に起源があるということがいまいちわからない、神が宇宙をつくったでもいいし、物理学ならなんかビッグバンで宇宙が生まれてとかいうわけだけど、まったくの無からなにかが生じるっていうことがおれにはわからないから、世界にははじまりなんてなくて、そもそもさいしょからあったし、いままでありつづけてきたし、これからもずっとある、はじまりがないのだから終わりもないという、そういうほうがおれにはわかる気がする、もちろんビッグバンいぜんの世界はいまとはまったくちがうわけだよ、そこにはまだ地球もないし、生命体もないし、星もないしなんなのかよくわからんけど、でもなにかしら世界が世界としてあっただろうと、まったくの無だったというのはわからない、と述べた。そもそも有と対比された相対的な無ではない、それじたいとしての純然たる無そのものをにんげんは思考できないはずだとおもうので、その無と有のあいだにある断絶(文学的に言うなら深淵)におもいあたったり、絶対無など存在しない(なんという語義矛盾的ないいかた!)ということをおもえば、無起源性のほうがふつうに納得行くような気がするのだけれど、まあそういうことをずっとむかしの、古代ギリシャの哲学者で言ってるやつがいて、そのかんがえを読んだときにおれはけっこうしっくりくるとおもったな、とふれたのはパルメニデスのことである。マジで「ある」の永遠的偏在というパルメニデスの論はこちらにはなにほどかのリアリティをもって受け止められている。そういうはなしにたいして(……)は、でもビッグバンよりまえにもなにかがあったし、ずっとありつづけるっていう、そのなにかが神なんじゃない? と言った。宗教者はまあそういうだろう。ただ、そうなるとそれはこの世界そのものと神がおなじだと言っていることになるから、そもそも宇宙と神を区別して宇宙をわざわざ神という(超越的であるとされながらしかしたぶんに人格的な要素をふくんだ)べつの概念に変換する意義があまりよくわからなくなるし、また、この世界そのものを超越した創造主としての神はそこではどうなるのか、という疑問も生まれる。神は総体としての世界を超えて世界内には所属しない世界創造者なのか、それとも世界そのものと一体化している偏在者なのか、ということで、(……)の神把握はこのあいだでぶれがあるはずである。けれどそんなこまかいことをいやらしく突っこんでみてもしょうがないし、ややこしくてめんどうなはなしでもあるのでそれは指摘しなかった。神は人知やわれわれの思惟を超えており全知全能であるという前提からかんがえれば、世界創造者として世界を超出していながら同時に世界内に偏在したり、そこと接続することも可能であるようにもおもわれる。なにしろ全能なのだから。だから神は絶対的創造主でありかつ世界そのものであるという超越論と汎神論の二重化も余裕綽々なはずで、そのほかにもひとびとがおのおの神にたいしていろいろなことを言ったり、それぞれのとらえかたをしていることをおもうと、神っていうのはやはり事実上あらゆる言語や概念を吸いこむことのできるマジックワードとして機能し存在しているよなというところに当たる。これは否定神学とは表面上違うはずである。否定神学というのは、神は言語や概念や思惟を超えており、なになにであると言い得ないものだから、なになにでないという言明しかそれについてはできない、という立場のはずで(ちゃんと勉強したことがないからほんとうにそれで合っているのかわからないが)、だから言語がついにいたりえずその周囲に無数に寄りあつまることしかできないおおいなる穴(深淵、すなわち絶対無?)のようなものとしてある。それにたいしてうえで述べたのは、神は全能者だからどのような言語や概念も受け入れる余地があり、いわばすべてが神であるというかんがえのはずだ。わたしもきみもあなたもおれもおまえもきさまも神である。道端の石ころから火星まで、大海から尻の毛のいっぽんにいたるまでぜんぶ神である。それはふつうにかんがえれば汎神論と呼ばれる立場のはずだ。汎神論と否定神学は表裏なのか? わからないが、ただ、これらのふたつのかんがえは実際上おなじことをいっているようにもおもえる。たぶん、「神は言語や概念や思惟を超えており」まではおなじで、そのあとの道行きがちがうだけなのだ。否定神学で神はおおいなる穴だが、汎神論でもすべてを吸いこむブラックホールのようなものとして比喩化されるだろう。そして後者においてもけっきょく、神の超越性は確保されなければならない。全能であり超越者であるというのは崩れない前提だからだ。だから神はあらゆる言語や概念や事物を受け入れて、すべてが神だが、しかしそのすべてのどれも同時に神ではない、ということになるはずだろう。あらゆるものを吸いこんでなお、神はそのすべてを超えたものである。プロティノスの流出説とかがもしかするとこのへんに近いのか?(流出と吸収だから思考のモチーフとしては逆だが)
 あと、さいきんよくじぶんの死をおもう、まあおれももう三二にもなっちゃったけど、死ぬまであっという間だろうなあっていうか、おれも死ぬ、いつか死ぬなってよくおもう、夜道をひとりであるいてるときとかに、べつにそれいじょうなんもないんだけど、いつか死ぬなっていうだけで、だからがんばって生きようでもないし、逆におれの生なんて無価値だでもないんだけど、ただ死ぬなってことはよくおもう、とはなし、そこかられいのハイデガーの理屈と、その格好良さと、しかし同時にふくまれている危険性とかについて(つまりテロリストを生んでしまいかねないという)ひじょうに大雑把に(そもそもハイデガーを読んだことがないので矮小化してしか語れない)語ったりしたが、このへんはめんどうなので省く。いろいろとペラペラ語ったけれど、(……)が果たしてこういうはなしを聞いてどう感じるのか、おもしろいのか否か、なにか益するところがあるのか否か、よくわからない。いちおうあとでメールで、死についてのはなしはおもしろかったと来ていたが。ただそれに聖書の引用が付されて、聖書でもこういうことを言っていますという紹介がつけくわえられているわけで、キリスト者ならまあとうぜんかもしれないが、けっきょくのところ(……)にとってはすべてがそこに回収されるのだろうし、かれじしん積極的にそうしようとしているだろうとおもう。そんなに積極的に勧誘はしてこないが、たまに連絡が来てこちらとはなすのもたぶん伝道活動の一環で、まあべつにことさら誘う気はないけどできれば組織にはいってくれればとはおもうし、聖書も紹介してすこしでもその意義やその思想による幸福を普及していければ、というくらいのおもいがあるのではないか。もしそうだとするとそれはかえってある意味人間的ではないというか、失礼ないいぶんだがある種プログラム化された自動作用にしたがっている機械のようなイメージもいだくもので、じっさい(……)が送ってくるメールにはほぼかならず聖書の文言やそれに関連することがらがふくまれており、どんなことがらでもそれにむすびつけて解釈され、ある意味聖書を引き合いに出すためのネタになる。これは(いますでに九月一四日の午前零時半過ぎなので)九月一一日の記事に一年前から引いてあるが、母親が米同時テロから二〇年のニュースをみながらそれを再就職しない父親への不満へと連想的にむすびつけたのとおなじようなことで、そこでじぶんはその精神のはたらきを、「『テニスの王子様』にいわゆる「手塚ゾーン」のごとき強烈な引力の磁場が発生しているようでもある」と形容している。なんでも吸いこんでしまうわけだ。そういう意味では(……)にとって聖書はまさしく神なのだろう。ただ、すべてがそういうふうに、ある意味聖書のためのネタに、ある種従属的な、副次的な立場に追いやられるとすると、いやいや聖書によらないおまえのかんがえはどうやねん、おまえの感想は、おまえの感情は、おまえのよろこびや怒りや嫌悪や反発や、理解しがたさや興味深さや他者との齟齬や葛藤は、そういったものはどうやねん、というきもちはちょっといだかないでもない。もちろん(……)にそれらがないわけがないのだが、(……)と通話していていつもこちらからあいての生や生活や近況などについてあまり質問があたまに浮かんでこないのは、たぶんこういう、答えの決まっている感じをうっすらと感知し、予見しているからなのではないかとおもう。(……)にとってはおそらく、まさしく世界や自己の答えはもうわかっているのだろう。聖書のおしえをまなび、できるかぎりひろめていくというのがかれにとっての世界と自己の真理だろう。そういう意味でかれは一種の知者である。だが、こちらは知者ではない。こちらは解を見出してなどいないし、絶対的な解にいたろうなどともおもっていない。じぶんなりに知り、まなぶことと探究をつづけることこそがこちらの望みである。解など、その途上で行き当たるたんなるひとつの結果でしかなく、暫定的な宿りでしかない。アクシデントのようなものではないのか。こちらはじぶんを哲学者だとも思想家だともおもっていないが、はばかりながら知をもとめつづける性向、愛智的性質をそこそこもっているとはおもっている。そういう意味でのフィロソフィア的存在でありたいというきもちはある。つづけようではないか、放浪を、堂々巡りのうろつきを。あるきつづけようではないか、回遊しながらもどってくる、その都度おなじでしかし変容した風に吹かれながら。