すべて要約された精神は――
私達がそれをゆっくり吹いて
幾つかの煙の輪にするがそれが
また他の輪の中へ消えて行く時――一本の葉巻か何かを証明する
それは物知りらしく燃えている
灰がその輝く接吻の火から(end126)
少しでも分離されるならば同様に抒情詩人の唱歌隊は
すぐ唇へ飛びつく
君が詩を始めるなら、現実はいやしいから
そこから排除しなさいあまり正確な意味は
君の曖昧な文学を抹殺するのだ。(西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、126~127; 「すべて要約された精神は……」(Toute l'âme résumée)全篇)
目を覚まして携帯を見ると、七時四〇分だった。部屋は暗い。そとを行く車の音に、水のひびきが少々ふくまれていたかもしれない。布団を横にどかしてあおむけのまましばらく静止。それから胸をさすったりしつつ、カーテンの端をめくってみると空は真っ白だが、その白さをみているとまぶたのひらきがだんだんよくなってきて、きょうは起き上がらないうちにもうChromebookをもった。ウェブをてきとうにみながら脚もほぐす。離床したのは九時半ごろだったか。洗面所に行って顔を洗ったり用を足したり、出ると流しでうがいをしたり。水も飲んで、デスクのパソコンをまえにしながら歯を磨いた。蒸しタオルはわすれたが、屈伸をしておき、瞑想。一〇時五分からはじめて三五分ほど。きょうは脚はほぼしびれず。窓外では保育園の子どもたちがにぎやかにしている。園庭に出ているのか、あるいはきょうは涼しいので窓を開けているのか、多種の声が混ざってざわざわしており、ときおりそのなかから断片的なことばが聞き取れる。保育士が~~組さ~ん、というのにはーいと唱和する声なんかもあり、そのうちにひとりの子どもが果物の名を、たとえばバーナーナ、とかブードーウ、とかいいながらリズムを取って手を叩くのに応じて、ほかの子どもたちもおなじように声を合わせてパンパン叩きながらくりかえす、という遊びがおこなわれて、ひととおり過ぎたあとにドラゴンフルーツもあるよ! という男児の訴えが聞かれた。全員がそれをやっているわけでなく、そのあいだもほかはほかでざわめきがある。そのあとで~~先生、ばいばーい! とみんなでそろって旅立っていくだれかを見送るような、しばらく休むとか離職してもう会えなくなる先生と別れるような、そんな調子の多声がまた聞かれた。それからは声は基本室内にうつって、あいだがはさまれて遠くなった。瞑想を終えると食事へ。きのうのプラスチックゴミを始末しておき、水切りケースを洗濯機のうえから床に下ろして、まな板や大皿をとりだしてサラダをつくる。キャベツ、豆腐、サニーレタス、豆腐、タマネギ。そのほか昨夜とまったく同様に、冷凍の竜田揚げとメンチをおかずに米である。YouTubeでちょっと音楽のライブ映像をみながら食す。そうするとギターがいじりたくなったので、食後は洗い物をかたづけてからひさしぶりに部屋の角に置いてあるケースに寄り(いちばん上部に埃がうっすらとかかっている)、とりだして椅子のうえで少々いじった。しかし手の爪がやや伸びていてうまく弾けないし、たいしておもしろくもない。三〇分もやらずに切って仕舞い、それから音楽を聞くことにした。きのうとおなじく碧海祐人『夜光雲』。"眷恋"、"逃げ水踊る"(feat. 浦上想起)、"hanamuke"、"夜光雲"の四曲。きのうの印象とまとめてここに書いてしまうが、一年前に聞いたときにはこれほぼceroじゃない? とか記していたわけだ。それに引きずられたのか、きのうもそうはおもった。ある作品にふれたときの感想や印象を書くのにほかの固有名詞を出すのはある種ちょっと失礼というか、忸怩たるおもいがもちろんないわけではない。ただいっぽうで、そういう連想が起こるのはよくあるしぜんなことだし、べつにそういう連想じたいがそれだけでわるかったり、作品のとらえかたをそこなうわけではかならずしもないだろうともおもう。それはそれでその作品がふくんでいるものだろう。ceroに似ているとおもうのもおおざっぱな音楽性や声質のところが主で、方向性としては確実におなじ方面にくくられるだろうけれど、具体的にはたとえば三曲目の序盤、ガットギターだかなんだかわからないが弦楽器の音をバックに歌っているあたりは"マクベス"とか、"大停電の夜に"とかをおもいだしたりもする。ただそれはこちらのあたまのなかで主観的につながるだけで、だからといってそれらがほんとうに質的に類似や共通性をもっているかどうかはさだかでないのだが、そういう連想を生んだということも作品にふれた体験のうちのひとつではある。ともあれきのうはceroというなまえをおもいもしたのだけれど、きょうはまったくおもわなかった。一曲目の"眷恋"はこれだけちょっとラフというか、いわば宅録感があるというか、ほかの三曲のほうがいろいろ手を加えられているような気がしたのだが、そういう演出なのかもしれない。たとえばドラムの音とかこれでいいの? とおもうわけだが。二曲目は好きな感じで、二番からC部にうつり、さらにそこからキーを変えてA部にもどる転調の進行のしかたとかよいとおもう。浦上想起というひとはなまえを見たことがあるだけでなにものなのかぜんぜん知らないが、とちゅうで声がちょっと変わっているから歌で参加しているようだし、ジャズっぽいピアノソロもこのひとなのかもしれない。声というと碧海祐人のボーカルは、メロウな音楽性にそぐうてファルセットを多用するけれど、高音に行ったときの歌はぜんたいとしてちょっとだけ弱いかなという気もした。弱いというのは歌声としての響きとか、あと音程とかで、音程ははずれているわけではまったくないのだけれど、声質もあわせてばちっとはまりきっているとは聞こえない。ただそういう、ある種のニュートラルさがこのひとの歌声なのかもしれないし、そう感じたのは一曲目と二曲目くらいだったかもしれないが。ほんのすこしだけずらしたビート感をかもしている四曲目も音楽としては好きで、というか全体をとおして音楽的には好きなのだけれど、歌詞にちょっとだけ気になるところがないではない。このひとは詞としても独自の表現をしようとしているタイプだとおもわれ、まあメディアからは「文学的」と無造作に広告されそうな雰囲気があるのだが、たとえば一曲目からしてタイトルに「眷恋」なんて語をつかっているあたりいかにもとも言えるわけだ。曲中でもそういう要素はおりおりあって、それこそがまさにこのひとの持ち味だというべきなのだろうが、こちらとしてはそこでことばと旋律やリズムの結合がうまく行ききっているのか疑問な部分もある。たとえば二曲目では冒頭が「かたむく月夜にまだ歩くは深夜の国道沿い」だけれど、この「歩くは」といういいかたとかいかにもな感があるし、四曲目でも、序盤では「淫靡」とか、後半では「悲観」「憧憬」「妖艶」とか、フレーズの終わりに体言止めで漢語をもちいつつ一定以上韻を踏ませようという箇所がある。そのへんがやはりいかにもという感じもするし、また、ちょっと硬めのいいかた、ことばのつくりかたとか、ぎゅっと締まって重いような漢語をもちいると、それがメロウな音楽のなかでわずかに浮くというか、なじみきらないような気がした。つまるところ、歌詞と曲とのあいだに葛藤が生まれて、ことばが旋律のながれや音楽性に抵抗しているように感じられたのだとおもう。そのひっかかりこそが、という向きもあるだろうし、それはそれでわかるが。詞とメロディのむすびあいとしてこちらがいちばん印象にのこったのは、二曲目のCにある「魔法の無駄遣い」というフレーズと、そのあとのさいごの転調Aの冒頭、「かすめたからだにひたり揺れるのはなかみのない果実で」の「なかみのない果実で」の部分。ここはきもちがよかったのだが、これであってんのかなといま歌詞を検索してみると、「重ねた体に湿り熟れるのは中身のない果実で」と歌っているらしく、ぜんぜん聞き取れてないやん。「かすめた」はたしかに聞き直してみれば「重ねた」と聞こえなくもないが、「湿り」のぶぶんはどうしても「ひたり」にしか聞こえない。たぶん「湿り」で「しとり」もしくは「しっとり」と歌っているのではないか。でも、「かすめたからだにひたり揺れるのはなかみのない果実で」のほうがフレーズとしてよくない? 「ひたり」は擬態語としてもとれるし(そうするとややいかにも感が生まれる)、「浸る」という動詞としてもとれる。ちなみにそれにつづく部分は「温度すらない風は吹き去って行く」で、「重ねた体に湿り熟れるのは中身のない果実で/温度すらない風は吹き去って行く」、「かすめたからだにひたり揺れるのはなかみのない果実で/温度すらない風は吹き去って行く」とならべてみても、こちらの聞きちがえたフレーズのほうが調和するような気もするのだが。
そのあと六一年のEvans Trioから"All of You (take 3)", "Jade Visions (take 1)", "Jade Visions (take 2)", "... a Few Final Bars"。"Jade Visions"はテイク1がおわるとなぜかそのままLaFaroが低音をしばらく打ったあと、けっこうテンポを落としたかたちでまたはじめるのだが、このテイク2のほうがなんかよいような気がした。テンポが落ちたこともあってか、なにか間のようなものがあり、じっさいLaFaroがミスったのかなんだか知らないが拍頭を抜いた瞬間も一箇所あったし(たしか一回目のB部のあたまだったとおもうが、そうするととたんに左側に空白が生まれてコード感や空間性に欠如が出るので不思議な感じになり、耳にきわだつ)、Motianも全体的によりしずかにやって、音を抜いたり、シンバルの開始を遅くしたりしていたのではないか。さいごの"... a Few Final Bars"は全演奏が終わったあとのたわむれとか会話をおさめた余録で、なんと言っているのかぜんぜんわからないのだけれど、さいしょにEvansに呼びかけているのはOrrin Keepnewsなのだろうか。thirty-secondsがどうのとか言って、Evansもthirty-seconds? と聞き返してからピアノを速弾きするので、たぶん、いまこれまだ録ってるから、三十二分音符のフレーズとかやってみてよ、みたいなことを言っているのだろうか。そのあとは各方面でぼそぼそ会話がなされていて、Can you sit down here? とか聞こえたり、女性の声がtoday'sなんとかかんとかとか言っているが、聞き取れるのはそれくらいでほぼなにを言っているのかわからない。
Evansを聞いたあとAmazon Musicをそのままにしておくと、自動再生でCannonball Adderleyの"Minority"というのがつづいた。その冒頭のドラムのシンバルの打ち方がおぼえのあるもので、これはPhilly Joe Jonesじゃねえの? とおもったがいったん止め、日記を書こうとおもったところが手の爪が伸びていて打鍵もしづらいので、さきに爪を殺すことに。それでその演奏を聞きながら爪を切ることにして、パーソネルを調べようとしたが、『Grand Central with Cannonball Adderley』というタイトルのこの音源の情報になかなか行き当たらない。Coltraneとやったときの音源とかが出てくるが、それではないようだ。Amazon Musicのこのアルバムはコンピレーションのたぐいだったようで、最終的にたどりつくと"Minority"は『Portrait of Cannonball』という五八年のアルバムの一曲目だった。Gigi Gryce作。メンツはBlue Mitchell, Bill Evans, Sam Jones, そしてやはりPhilly Joe Jones。あのシンバルの叩き方はどうせそうだとおもったのだ。Philly Joe JonesかKenny Clarkeかのどちらかだとおもっていた。しかしPhilly Joe Jonesがほかにいったいどこでああいう叩き方をしていたのか、わからない。それを聞きながら爪を切り、Philly JoeからMiles Davisの『Relaxin'』をおもいだしてひさしぶりに聞きたくなったので、つぎはそれをかけながらゆびさきをやすった。そのあときょうの記述をしはじめて、ここまで書くともう三時四七分になっている。あと、文を書くまえにシャワーも浴びたのだった。
*
この日はあと日記を書いたり、夜になって近間のサンドラッグに買い物に出かけたりくらいで、書けるほどのこともそうない。サンドラッグでは会計のさいにすこしだけ緊張をかんじた。まずレジのてまえまで行って、婦人が会計しているのを籠を持ったまま立ち尽くして待っている段階で腹に緊張のちいさな芽生えをおぼえた。パニック障害、すなわち不安障害患者は、基本的に公共領域である一点にとどまらなければならないということが苦手である。いまここで発作が来たらどうしようという不安をつねに潜在的にかかえているからだ。さいしょはそれがはじめの発作にむすびついた特定の場所や状況だけだったのが、だんだんとその対象がひろがってきていわば不安に包囲され、日常生活を送るのが困難になってくるというのがその典型的な症状の推移である。この、とどまらなければならない公的領域、もしくは状況にたいする恐怖を広場恐怖という。会計を待つレジの列にならんでいることができないという症状は、これまでこちらはほぼ経験したことがないが(つまり過去にいくらかはそのかたむきも感じることがあったのだが)、わりとよく聞くものだし、ほかにも美容院が駄目だとか、エレベーターのなかが駄目だとか、いろいろある。じぶんにとってのいちばんはもちろん電車内で、そのほかいまは外食の場だ。ともあれこの夜サンドラッグでもわずかな緊張を感じ、じぶんの番が来てお願いしますとかいっても声がかすれてぜんぜん出ない始末である。なさけないが、とはいえ荷物の整理を終えてわずか数分の夜道を帰ればからだにふれてくる夜気が涼しくてここちよい。