西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)
●33(「あの苦い休息に厭き……」(Las de l'amer repos))
また賢人の唯一の夢にみられるような死の
静かな落着で私は若々しい風景を選びましょう
それを私は再び茶碗の上にぼんやり描くでしょう。
すらりとした蒼白い蒼天の一線は
裸の磁器の天空の間に一つの湖水になろう
一つの白い雲に隠れた三日月は
波の氷の中にその静寂な角を漬ける、
三本の緑の大きな睫毛の蘆の近くで。
八時ごろ覚醒した。布団をあいまいにのけて、目を閉じたまま鳩尾あたりをさすりだす。保育園の門だか扉が開く電子音がそとからは聞こえ、子どもの声もすこしあるが土曜日なので数はすくない。カーテンの端をめくって空の水色をみながらひとみの感覚をたしかにし、それからからだの各所をさすったりして八時四〇分くらいに起き上がった。しかしきょうはそのまま立たず、紺色のカーテンをあけるだけでもうChromebookを持ち、また臥位で脚を揉みながら日記の読みかえしをした。二日前からサボっていたので、まず2021/9/15, Wed.。このころもいまと変わらず日記が生に追いつかない問題をかかえており、だからこの一年変わっていないわけだが、以下のように述べている。「そもそも日記というのは日々記すものであり、ほんらいその日気になったり印象にのこったりしたことがらをさっと記す程度のものなのだから、当日内かせいぜい翌日までには書き終えているのがただしいありかたであって、一週間経っても一週間まえの記事がかたづいていないなどというのはまちがっている。ただのアホだ」というのはあまりにも正論すぎて笑った。
いまは帰宅して夕食や入浴をすませ、零時を越えたところ。風呂に浸かっているときに、日記もまた一向に終わらなくなっているし、毎日の記事に読書メモを取るのはやはりやめにしようとおもった。かなり糧になるとはおもうのだが、どうしても時間がかかりすぎる。あれのせいで本文を充分に書けないということもあるし。そもそも日記というのは日々記すものであり、ほんらいその日気になったり印象にのこったりしたことがらをさっと記す程度のものなのだから、当日内かせいぜい翌日までには書き終えているのがただしいありかたであって、一週間経っても一週間まえの記事がかたづいていないなどというのはまちがっている。ただのアホだ。アホであることも一興だけれど、もっと楽でたいへんでないやりかたでやっていかなければとあらためておもった。俺の生は生を記すことだけにあるのではない。なるべくたいへんなことを減らし、たいへんだけれど真にやりたいことにリソースを割けるようにしなければならない。したがって読書メモは犠牲にする。完全に取らないようにするのか、読書中に手帳にページをメモするのもやめにするのか、メモだけはしておいて気が向いたときだけやるようにするのか、などまだいくらか迷うものの、基本的にはやらない方向で。本を読み終えたあとの書抜きのみで行く。読書メモというより、本文にとりあげたり組み込んだりするくらい印象にのこった部分があったら、日記本文の記述として書いておく、という方針がやはり良いのではないか。書抜きは書抜きであり、日記ではないのだから、日記とは独立させてやっていくべきである。
往路の記述はわるくない。
往路にすでに日なたはなくて林に接していれば道の上はすずしいが、左手の家並みのむこう、低みにあって見えない川も越えた先は山や町が浮遊するがごときおだやかな黄褐色をまだ寄せられている。公営住宅まえに出ればこちらでも陽の色がひらいて、ひかりのなかにはいればにおうような暖気がやはり暑い。前方にはカラスが一羽、路上の陽のなかにたたずんでおり、くちばしにときおりひかりを溜めて銀色に磨かせながらゆっくりすこしずつうごいてフェンスにのぼり、そこからさらに公団の棟のうえにバサバサ飛んでいって、それを視線で追いかけたところに頭上からもう一羽の鳴き声が降ってきて、見上げれば黒影の先の空は水色だった。坂道にはツクツクホウシの声がかろうじてのこっている。駅にはいると階段通路でもまぶしさが射してきて顔やからだを薙ぐのが暑く、ホームに移るとしばらく日陰で汗をなだめて、アナウンスがはいるとともに先頭のほうにゆらゆら移動した。
2021/9/16, Thu.は冒頭の熊野純彦のレヴィナス解説が目にとまる。
だが、「感性的なものが固有に意味することがら」を、脱 [﹅] 感性化されたことば、知 [﹅] をかたどる用語でえがきとることはできない。それは、「享受や傷といったことばで記述されなければならない」。どうしてだろうか。まず「享受」(jouissance)という面からみておこう。
感覚されたものは、さしあたり生きられるのであって、認識されるのではない。感覚そのものがただちに知であるわけではない。初夏の緑に目をやり、秋の夕日をながめるとき、「この葉の緑、この夕日の赤といった感性的性質を、ひとは認識するのではなく生きる」。「感覚するとは〈うちにある〉こと」であり、あたえられて在る [﹅2] ものにたんに満足 [﹅2] することだ。「感受性とは享受なのである [註127] 」。――だがそれにしても、感性的性質を生きる [﹅3] こと、純粋な感受性の次元にとどまっていることが、認識ではない [﹅6] のはなぜだろうか。
たんなる感受性とは、「実詞を欠いた《形容詞》」を、「基体を欠いた純粋な質」を享受する [﹅4] ものであるからである [註128] 。空の青さ、風のそよぎ、光のかがやきは「どこでもないと(end212)ころから到来する」。しかも「不断に到来する [註129] 」。空の青さはなにかの基体 [﹅2] に貼りついたものではない。一瞬ふきわたり、吹きすぎる風は、存続する [﹅4] 実体ではない。光はふと煌いて、過ぎ去ってゆく。ひとはそれらのすべてをたんにひととき享受するだけである。そこでは同一的なものについての知、さまざまにことなって現出するなかでおなじ [﹅3] でありつづけることがらにかんする認識がいまだ成立していない。抜けるような青さや微かな風、あえかな光は、意味づけのてまえで [﹅4] 生きられている。
《風景を味わう》(jouir d'un spectacle)、《目で食べる》(manger des yeux)といった表現は、たんなる「比喩」ではない(109/133)。食べ物を口にし、文字どおり享受するとき、現に享受へと供されているものは、咀嚼され、輪郭をうしなってゆく。食べる [﹅3] とは、享受されるものとのさかいめ [﹅4] を不断に抹消してゆくことである。だが、感覚的に享受することが一般に、「隔たりを食いつくす」ことなのだ(117/142)。空の青さにこころを奪われるとき、空はへだて [﹅3] られて、かなたにひろがっているのではない。私はふかい青さのなかに吸い込まれてゆく。凪いだ夏の一夕に吹きわたる風が、からだを吹きぬける [﹅3] ことをこそ、私は享受 [﹅2] する。揺らめく陽光に身をあずけているとき、光の煌きと私とのあいだに〈距離〉などありうるだろうか。
享受のさなか、隔たりは「近さ」のなかで、「接触のなかで睡ろんでいる」(122/148)。この近さそのものは意識されることがない。近さがめざめ、近さが意識されるとき、近(end213)さはむしろ消失し、かえって対 [﹅] 象との隔たりが生成されているからだ。緑が葉の緑として [﹅4] 、赤が夕日の赤として [﹅4] 意識されるなら、〈近さ〉は〈隔たり〉に、享受は知に変容している。(……)(註127): E. Lévinas, *Totalité et Infini*, p. 143 f. (邦訳、二〇〇頁以下)
(註128): *Ibid*., p. 173. (邦訳、二四三頁)
(註129): *Ibid*., p. 150. (邦訳、二一〇頁)(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、212~214; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)
ニュースも。
ほか、ブリンケン国務長官とオースティン国防長官がバイデンにアフガニスタンからの早期撤退はやめ、慎重に、何段階かにわけておこなうべきだと具申していたという。ワシントン・ポストのボブ・ウッドワード(ウォーターゲート事件の報道者)がPerilという新著をここで出すというのだが、そこに政権の内幕がいろいろしるされているらしい。三月か四月くらいにこのふたりがバイデンに意見を述べていたとのこと。きのうの夕刊だか朝刊にはこのおなじ本の内容としてドナルド・トランプ政権時のこともつたえられていたはずで、いわく、政権の終盤、昨年一〇月ごろから、マーク・ミリー統合参謀本部議長(米軍制服組のトップ)がドナルド・トランプの暴走を危惧して中国側の高官に、米国が中国をとつぜん攻撃するという事態はない、もし攻撃することになっても事前に通知する、とつたえていたという。一月にトランプ支持者が米連邦議会議事堂を占拠した際にも、米国の状況は完全に安定しており心配はないと伝達したというし、また、選挙で負けたトランプが「正気を失っている」という判断をもとに、トランプが核攻撃の命令をくだしてもかならずじぶんを通すように、と部下に指示していたと。
ゴーヤを食べながら新聞の一面をすこし読んだが、北朝鮮がきのうの一二時半すぎに弾道ミサイル二発を発射していたらしい。日本海側の排他的経済水域内に落ちたと。変則的な軌道を描くミサイルで、いちど下降したあとに再上昇して飛距離が伸びるものらしい。そちらのほうが迎撃はむずかしくなるわけで、北朝鮮はさいきんこのタイプの開発をすすめているようだ。北朝鮮のミサイル実験によって漁船とか航行している船とか人間に被害が出たことって、たぶんいままでないのだとおもうけれど、万が一、偶然落下地点付近にひとがいて巻きこまれた場合、北朝鮮はどうしようとおもっているのだろう? そんなの知ったこっちゃねえということなのか、衛星とかで予想落下地点のようすをしらべてからやっているのか。もし仮に日本人が巻きこまれてしまった場合、日本国内のムードはまちがいなく北朝鮮をぶっつぶせぶっ殺せという報復戦争論のたかまりが支配するだろうし(たぶん、二〇〇一年のテロの直後のアメリカとおなじようなかんじになるだろう)、自衛隊はそれができないいじょう(もしかしたら安全保障関連法を拡大的に解釈して「存立危機事態」だかなんだかのたぐいと認定するかもしれないが)、米国に要請して頼るほかはない。米軍がなんらかの攻撃を北朝鮮にしかけたとして、そこで万が一金正恩が血迷って核兵器をつかったらもう終わりである。
そして2021/9/17, Fri.はコロナウイルスのワクチンを接種しに行った日である。「そういえば副反応はたしかにあって、打った左腕が痛い。腕を伸ばしたり肩よりうえにあげようとすると痛む。筋肉痛にちかいかんじでもあり、たとえばボルトのようなものが組織や繊維のなかに無理やり埋めこまれて、ひっかかり妨害しているかのような痛みだ」とのこと。外出したのでなかなかよく書いており、ワクチン接種会場である体育館のようすとか詳細で、全体的にいきおいがあったので、往路から接種時のながれ、その後の図書館やシュナックの感想までながながと引いておく。
駅につくころにはやはり暑く、汗をかいていたので、ホームの先に行くとブルゾンを脱いだ。それで風を浴びつつ立ち尽くして電車を待つ。めのまえの線路地帯を越えたむこうは線路沿いの細道になっており、さらにその先は段があってなだらかにのぼるひろい土地が丘のふもとまでつづいており、おそらくそこの家のひとがいろいろ畑をやっているのだが、この日立った位置の正面では段の端でヒマワリが群れていて、といってもう時季を終えてことごとく花びらを落とし顔を黒いのっぺらぼうと化しながらうつむいた群れであり、葉っぱはまだ枯れながらものこっているものがおおいもののなかにはそれももはや腐らせて屍衣となした花もあり、うなだれの角度もより深いそれは根もとからいちばんうえまですべて焦茶色のほそくかすかな立ち姿で、総じてちからをうしないながらも倒れることを決してゆるされず、消耗の果ての死を待ちながら強制的な行進や労務に耐えている囚人のごとく映った。
*
良い時間になったところで立って上階へ。トイレに寄った。いちばん端で小便をしているとあたまのすぐ左が窓になり、ひらいたそこからやはり風がつよくはいってきて顔が涼しい。改札をぬけて南側へ。こちらがわもかなりひさしぶりに来た。通路を行き、左に折れて階段をくだろうとすると下には小学生の男女らがいて、なんとかはなしたあと三、四人いた男児がてんでにおおきな声をあげながらバタバタ激しい動きで階段を駆けのぼり出し、それをしたで見ていた女児ふたりは笑ってからあとを追っていた。すれちがって降り、駅を出ると居酒屋の入口で店員がしゃがみこんで口になかばはいるようなかたちで掃除をしており、その先、ロータリーのまわりでは杖を一本ずつ両手について支えとしながら、腰のあたりからおおきく背をかがめて一歩一歩あるくだけでも難儀そうな老人がのろのろすすんでいた。その横をゆっくり追い抜かしていき、南へとむかう。(……)に行くときは曲がってしまうので、こちらのほうに来るのはほんとうにいつぶりかわからない。体育館をおとずれた記憶が成人式のそれしかないのだが。もしそれが最後だとすると、もう一一年まえということになる。さすがにそのあといちどくらいはなにかで来た気がするのだが。南へ伸びる道の脇にはサルスベリがそれぞれ白と紅の泡を枝先に湧かせている。交差点の横断歩道でとまると、飛び立ったカラスが宙をわたって正面の、(……)自動車の店舗の最上、おおきな看板のうえに降り立ち、それをしばらくながめていたがカラスは奥のほうに行って見えなくなり、視線をおろせば店内では母娘なのか中年女性と若い女性がテーブル席についている。右方、西空のほうに目を振ると遠くにはまだしも淡い水色が見えないでもないが、頭上付近は灰と白の混ざった雲でなめらかに覆いつくされ閉塞されている。信号が変わると渡り、ひきつづきのろのろとした足取りですすむ。そのあたりには意外とカフェとか飯屋が数件ならんでいて、こんなところにこんな店があったのかとおもったが、体育館で運動をしてきた帰りの客をつかまえようということだろう。
体育館に到着。看板にしたがって入る。入ってすぐ右に折れた先、スポーツホールでワクチン接種がおこなわれていた。中学校のときに卓球部だったのでその当時はけっこう卓球をやりに来たが、それ以降ホールに来たのはマジで成人式しか記憶がない。ホール入口にちかづいていくと女性スタッフがまだ距離のあるうちからこちらをみとめてうごきだし、あいさつを送ってきたのでこたえかえし、あちらへすすんで検温をと左手をしめすのでそちらに折れてまっすぐ、すると棒の先にスマートフォン的な小型機械をとりつけたかたちの検温機がいくつか設置されているのでやや身をかがめて顔をちかづけ、36. 4の表示を得た。その先には椅子がならべられた一角があり、案内のスタッフがここの列で奥にずっと詰めてすわってくださいというのでそれにしたがって奥へ。とちゅう、消毒済という表示のあるバインダーが置かれた一席があった。こちらのひとつ先、左隣にすわっていたひとは、さいしょちかづいたときなんだか目つきが悪いというかにらみつけてくるような印象をえたのだが、べつに敵意があったわけではないとおもう。よく見なかったがこのひとは外国人だったらしく、たしかにすこし浅黒いような肌色をしていたおぼえがあるが、マヌエルだったかなんだかそんなふうな名が聞こえたので、たぶんスペイン系だったのではないか。椅子に座ると文庫本をとりだして読みながら待つ。まもなくスタッフが来て声をかけてきたので持ってきた書類をバッグから用意。身分証明のパスポート(父親が定年になって保険証が回収されたのでいまこれしか手軽な身分証明がない)と、事前に記入してきた予診票と、封筒でおくられてきた接種券。その三点をわたすと女性スタッフがバインダーにはさんでまとめてくれ、予診票を見ながら先ほどはかった体温を聞いてくるので(家でも測って37.0の値を得ていたが、いちおう空欄にしておいたのだ――しかし、家で測ったときとここで測ったときと、数値が違いすぎないか?――たぶん、腋で測るのと距離を置いて額で測るのとでけっこうちがうのだとおもうが――さいきんはストレッチやマッサージをよくするようになったので体温が上がり、だいたい36. 8か36. 9くらいにはなる)こたえ、その他はOKらしかったので日付と署名を記入するようもとめられた。きょう、ボールペンはお持ちですかとたずねられて、手帳をつねにたずさえているので持っていたのだが、なぜかお借りしてもいいですかとこたえてしまい、すると職員はもっていた消毒ティッシュみたいなやつでペンを拭いてからわたしてくれたので、日付となまえを記入、それでひとまずの手続きは終わりだった。この中年以上の年齢だった女性スタッフはけっこう自信がなさそうというか、なにひとつ失態をおかしてなどいないのにつねに申し訳無さそうに焦っている、というかんじの声色や振る舞いをしたひとだった。
待っているあいだにホール内のようすや各区画の配置を見回したので記述しておくと、横にながいかたちの長方形として俯瞰したとき、いちばん右下の付近がはいってきた口であり、そこから下辺に沿って左には観客席があって、その脇をとおるかたちで検温機まですすみ、その先、ホール内の左方に椅子がならんだ待合スペースがもうけられていた。椅子の列は、きちんと数えはしなかったが、たぶん一〇列かそれに満たないくらいだったのではないか。こちらが来たときには五列目かそのくらいから埋まっていて、じぶんはたぶん六列目か七列目あたりについたのだとおもう。それで順次呼ばれてひとが減っていくと、こんどは空いていた先頭の列から来たひとがとおされて、というかたちだった。待合スペースの正面、上辺は舞台になっているがそのまえには書類を詳細に確認する区画があって、長テーブルに何人かのスタッフがついており、そこから右にすすみ、さらに右に折れてさいしょの入口付近にもどってくるかたちで各段階が用意されており、それらを通過していくことになった。ホール内にはおおきな扇風機もしくは送風機がいくつか設置されていたようで、座っているあいだこちらの背後からも風が来ていたが、見上げれば高いところをめぐっている窓はひらかれず黒い暗幕で閉ざされており、また左右の壁にはおおきな筒状の口、その開口部に縦横の格子がわたされさらにそのまわりをケースめいておおわれている口がいくつかあって、あれは換気扇もしくは換気口なのか、そうだとしていま機能しているのかは見分けられなかった。
しばらくして高年の男性スタッフが、ひとりずつ、お待たせしました、どうぞ、とうながしはじめたので本をしまい、じぶんも立って前方へすすむ。まずやはり年嵩の女性にバインダーを出して接種券をコンピューターに読みこんでもらい、名を言われるのではいと応じ、そこから右にはいって長テーブルの問診へ。あいては女性。ここですでにいくらか医師めいた雰囲気がないではなかったのだが、この区画のひとはたぶんまだ医師ではないとおもうのだが。あるいは医療スタッフだったのか? ふつうに市などの職員だとおもうのだが。女性はパスポートをひらき、しばらく迷うようになり、それから身分情報を指で追いながらこまかく見ていたのだが、住所が確認できるものってお持ちですか? と聞いてきた。それでパスポートに住所がしるされていないことに気づいた。パスポートなどぜんぜんこまかく見ていやしないし、まったくかんがえていなかった。いま見てみると、いちばんうしろに所持人記入欄というページがあって、ここを書いておけば良かったのだろう。しかしこのときは知らなかったので、いちおう探すそぶりをしながらも、住所はないかもしれないですね、とつぶやくと、じゃあいま口で行っていただければ大丈夫です、となったので姿勢をなおし、住所情報を暗唱してOKとなった。あと、さいきん医師の診察を受けましたかみたいな質問のしたに、かかりつけの医師からワクチンを接種して大丈夫だといわれましたか、みたいな質問があって、医者に行っていないから言われるもなにもないのだがとおもいつつよくわからなかったので「はい」をチェックしていたのだが、そこは「いいえ」に直された。それで通過して、医師の問診へ。医師は今度は簡易テントというか、半分くらい白い幕でかこわれ区切られたスペースにおり、そのてまえで若い男性スタッフがまちかまえていてバインダーを受け取り、角度の関係上こちらからはまだすがたの見えない医師に対象者が来たことをおしえ、それからこちらが着席する。しかし問診は一瞬で終わった。医師は髪が灰色になったやはり年嵩の男性で、すこし(……)先生に似ていないでもなかったが、すわったこちらを見て体調悪くないですね、と確認しただけで、あとは予診票をさっと見てすぐさま署名をしていた。やっつけ仕事じゃないか。しかしじっさい問題はないので署名をもらうとつぎに進み、ついにワクチン接種だが、そのまえにも先ほどよりもすくなめではあるが番号の付された椅子のならんだスペースが用意されてあり、座って少々待った。先ほどの俯瞰図でいうと、ここは室の右上の付近である。椅子のなかには男性スタッフがひとりおり、ワクチン接種所があくとつぎのひとに声をかけてうながす役目と、医師の診察を終えてきたひとにむけてわかりやすいよう手をあげ、何番の椅子にお願いしますと誘導する役目を果たしていた。ワクチン接種スペースはAからDまで四つもうけられていて、こちらが受けたのはたしかCかBだったがどちらだかわすれた。接種所は先ほどの医師の簡易テントとおなじようなかたちで、待っているひとからはなかのようすが見えないように配置されており、すすんで角を曲がると荷物を置く用の椅子がいくつかあり、その向かいにもろもろの道具が置かれていて医師用と接種者用に椅子がひとつずつあるという感じだった。ここでの担当は比較的若い、三〇代か四〇そこそことおもわれた女性で、柔和で人当たりが良く、はいっていくと荷物をそちらに置いていただいて、打つのは左腕でいいですか? と聞いてきた。了承して鞄を置くとともにブルゾンを脱ぎ、Tシャツの左腕をまくって上腕を出して椅子に座ると、女性はすぐに用意をして打ってくれたのだが、そのさい、声のかけかたが、肩の力を抜いてくださいね~ではなく(丁寧な命令法)、肩の力を抜きましょうね~でもなく(誘いの文言をつかったうながしで、ここまでは発話者と呼びかけられたひととは確実に分離しており、一人称の主語が想定されるとしてもそれは複数(「(私たちは)肩の力を抜きましょうね~」)でしかなく、したがっていまだ主語の複数性がなりたっている(話法上、呼びかけられる「あなた」の位置と存在は消え去ってはいない))、肩の力を抜きますよ~というかんじで、こちらが主体である行動についてあたかも彼女自身が主語であるかのように呼びかけてやわらかくうながす、という話法をもちいていたので(ここにおいて呼びかけているひと(「わたし」)と呼びかけられているひと(「あなた」)の分離はあいまいになり、「わたし」が主体としての「あなた」の位置にはいりこみ(つよく言えばその位置に侵入して地位を奪い)、いわば主語を肩代わりしてあらかじめその行動を代弁することで誘導するような言い方になっている)、これはふだん子どもか老人(つまり、主体としての確立がまだ不十分であるか、心身のおとろえや認知症などによって主体の確立がみだれてきたあとのひとびと)をおおくあいてにしているのではないか、とあとでおもった。看護師というのはわりとみんなそうなのかもしれないが。
丁寧な命令法(「肩の力を抜いてくださいね~」)では「わたし」が主語になることはできない。誘い - うながし(「肩の力を抜きましょうね~」)では、「わたし」が主語になることはできないが、「わたしたち」はいちおう可能である(おそらく英語でいうところのShall we的な誘導?)。「肩の力を抜きますよ~」では、文言だけを取ってみると「わたし」も「あなた」も平等に主語の位置を占めることができる。この場面ではこのことばがめのまえの対象であるあいて(すなわちワクチンを接種しているこちら)への呼びかけとして投げかけられているので、明言されていない暗黙の主語は「あなた」であるはずだが(おそらく、催眠術師的な話法に近い(「あなたはだんだん眠くなる……」))、しかしそこで「わたし」の影が潜在的可能性として同時につきまとっているため、観念的混線が起こるか、すくなくともそれが起こりうる余地が生まれる。主語の座が即座に直接的に「あなた」に収束するのではなく、選択肢が二つあることで、言表理解および主語決定プロセスにおいて一段階の余剰というか幅が生じ、そこにひらかれた中間的な余地のなかで「わたし」と「あなた」が癒着してかさなりあうことになる。こういう事態そのものの意味解釈や各人にあたえる印象はさまざまなものでありうる。たとえばこの看護師(ワクチン接種スタッフ)の側にフォーカスすれば、彼女はじぶんが接するあいての気持ちや立場に(まさしく)「なる」(それを肩代わりする)ということを言語上で実践していることになり、そういう姿勢はおそらく医療現場においてつねに不可欠なケアの作法のひとつだろうし、このひともふだんからじぶんがはたらく職場でそういう言葉遣いや振る舞いをこころがけているのではないか。その作法を受けるあいて(この場合はこちら)からしてみれば、ものすごく大げさに言えば、主体としての自分の地位が侵害され奪われた、という感覚が生じるということも、完全にありえないわけではないとおもう。じぶんの「わたし」が他者によって言語的に先取りされ、奪われ、まぎれもなく「わたし」に属する述語であるはずなのにそこに「わたし」がいない、ということになる。もしこういう場面で被発話者が違和感をおぼえるとすれば、それはおそらく主語と述語の関係におけるそのずれが原因である。これはあくまで主語が明示されない日本語のやりとりにおいて成立している事態であり、「あなたは肩の力を抜きますよ~」と二人称「あなた」が明言されれば、その時点で「わたし」(発話者)と「あなた」の分離は決定的に確立するから、そうした混同的な違和感は生まれない。主体の混線には潜在性という余白的領域が必要なのだ。
注射自体はまったく痛くなく、ほとんどちくりともせずに一瞬で終わったので、めちゃくちゃ簡単っすね、と笑うと、女性は、そうですね~、でもあしたあたり痛くなるとおもいます、とこたえ、だいたいみんなそうなっていると言った。それですぐ終え、礼を言って退出するとまた職員のみちびきにしたがってつぎの区画の椅子についた。長方形の右上からすこし下に移動したあたりだが、ここはなんの役目を果たしていたのかよくわからない。待つ人間がすわる椅子のむかいには長テーブルが用意されてそこに職員が何人かついており、実質予診票に接種券を貼りつけるくらいの仕事しかないような気がするのだが、いちおうたしかに接種したということを確認し、認定する、ということなのだろう。ここに座っているあいだかその前後、たしかワクチン接種を終えて出てきたあたりだった気がするのだが、なにかドシーン、というかんじの鈍い音がひびいたあと、甲高いホイッスルが聞こえ、なんだとおもっていると担架が出てきたので、どうやら接種を終えて待っているひとのなかに倒れた人間がいたようだった。よく見えなかったが、たしかにならんだ椅子のなかにひとつ、たおれているものがあった。こちらはそことは違う待合スペースにとおされた、というのは先ほどたおれたひとがいたあたりは二回目の接種後の区画で、それは長方形の右半分のうち中央にちかいあたりだが、こちらは一度目なので入口にちかい右下の端のあたりに誘導され、長方形の右辺を正面としてならべられた椅子のひとつに座った。待ち時間は三時四二分までだった。しばらく渡された用紙にかかれてある注意事項(アナフィラキシーショックや、迷走神経反射によって気分が悪くなったり意識をうしなったりすることがありますとか、副反応としてどのようなものが出やすいか、といったことだ)をまじめに読み、それからふたたびシュナックを書見。そのうちに年嵩の女性がやってきて、まだ説明されてないですよね? と、つぎつぎやって来る接種者に追いつかない疲れと焦りをあらわにしながら問うてきたので肯定すると、こちらのうしろに座った女性といっしょに、用紙をよく読んで注意すること、またこのあと待ち時間のあいだにつぎの予約についてはなしがあり、紙をわたすので持ち帰ること、などを伝達された。待っているあいだいちどだけ、とつぜん顔が熱くなってやや息苦しさをおぼえ、やばいか? とおもったときがあったのだが、これは気持ち悪くなるかもしれない、倒れるかもしれないという可能性によって一時的に緊張しただけのことだったのだろう。要するにパニック障害のかすかななごりで、なれ親しんだ事態ではあったし、すぐにおさまった。
二度目の予約はサイトを見たときには一度目を終えてからとあったのでもういちど取るのだとおもっていたが、もう自動的に三週間後のおなじ時間に設定されるというはなしがその後あり、一〇月八日金曜日の一五時からと記された用紙が全員に配られた。周囲でこちらと同様に待っているひとびとのあいだには、本を読む人間は少数派だとしてもスマートフォンを見ている者も意外とすくなく、手になにも持たずなにもせずにただぼんやりと時間がすぎるのを待っているひとが多い印象だった。四二分が来ると知らされたので立ち上がり、ひかえていた職員に礼を言って退出。退出口は入口とはべつで、入口をはいってすぐ右手の、右辺の壁から、というかたちだった。そこからそのままそとへと通じていたので出たところで、救急車がサイレンを鳴らしながら体育館のまえにあらわれ、とまった。先ほどたおれたひとを搬送しに来たのだろうかとおもい、喉がかわいていたので先ほどはいったときの入口脇にある自販機に目を留めてそちらにちかづいていったのだが、それはじつのところ、救急隊員のうごきを見物したいという野次馬根性によってなかば意図的にその場にとどまる理由をつくり、時間をかせいだかたちだった。雨がぽつぽつ降りはじめているなか、自販機に寄って見たが、やはりとりたてて飲みたい気になるものもなく、救急車にほうに視線をおくりながら帰路のほうに向かいはじめると、隊員たちは意外とのんびりしていて、車のうしろから担架をおろしてキャスターつきのそれを押しながらあるきはじめた三人はまったく急ぐようすもなく、日常的な悠長さそのもののスピードで体育館にむかっていった。
来た道を駅へともどる。あるくあいだ、陰謀論者にいわせればこれで俺もマイクロチップを埋めこまれて政府に管理される愚民の一員となったわけだが、まずもってワクチンとともにマイクロチップが体内にはいりこんだとしてそれはどこにとどまることになるのだろうとか、そのマイクロチップはどのくらいの大きさと想定されているのだろうとか、そういった極小の(ナノレベルの?)高度技術はそもそもいま可能なのか、可能だとしてどれくらいのことがそれにはできるのか、「管理」というけれどその「管理」とは具体的にどういうことなのだろう、人体のデータを収集するとしてどのようなデータが送られるのだろう、位置情報とかなのか? などもろもろの疑問が湧いて、陰謀論支持者はそのあたりをどのくらい具体的にかんがえているのだろうな、とおもった。たぶんそんなに具体的にかんがえられてはいないのではとおもうし、そんなに具体的にかんがえてられてはいなくても(ことによるとそれがゆえに)信じることが可能なのだろう。駅前につづく通りの途中には茶屋が一軒あり、行きにもちょっと目に留めていたが、帰路は住居とつながっているらしいその店舗の横で男女の幼子がふたりしゃがみこんで遊んでおり、おそらく店主か店番だとおもわれる年嵩の女性がすぐそばで水道からバケツに水を汲むかなにかしていた。駅前ロータリーにはいって行っていると前方に、来たときにも見かけた老人、両手杖で背がおおきく曲がりあるくのが難儀そうな老人を見つけて、あれはさっきのひとじゃないかと見れば老人はゆっくりタクシーに乗りこむところで、どうもすぐむかいの薬局から出てきたらしく、その隣には「(……)」という医院があるので、行きに見かけたときはここの医者にはいるところだったんだな、それで診察を終えて帰るところなのだろう、とはかった。駅舎にちかづきながら、それにしてもやっぱり外出して町に出るとそれだけで書くことがむこうから勝手にいくらでもやってきておもしろいなあ、毎日それだと書かなければならないことが多くなりすぎてきついが、とおもった。
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ひさしぶりにここまで出てきたついでに図書館に寄っていくつもりだった。特に借りたい本といっておもいつかなかったが(強いていえばウルフ『波』の新訳くらいだった)、新着図書や入荷本を見ておきたかったし、また見ていて借りたくなったときのためにいちおう図書カードは持ってきてあった。それで駅の北側へ。高架歩廊に出てすすむ。前方にはカーディガンを羽織ったすがたの男子高校生がふたり、特有の気楽そうなようすでいたが、すぐにコンビニのほうにおりる階段に折れていった。(……)の建物は、北へ伸びる表通りに面してながくつづく側面がすべてシートで覆われそのなかに足場が組まれてあり、なにか改装をするもようだった。ビルにはいって手を消毒しながら図書館のゲートをくぐる。いぜんは入口で図書カードを見せて職員に確認してもらい、滞在は六〇分までなので時間のかかれた紙を受け取っていたのだが、いまはもうそういう対応はなくなったようで、入口付近にはだれもおらず、自由にすすんでいけた。CDの新着を一瞬だけ見て(崎山蒼志のなんとかいうアルバムがあったはず)、上階へ。新着図書の文学や小説のところにもなにかしら目に留めて手に取りひらいたものがあったはずだが、と書いておもいだしたが、作品社から出ているジェスミン・ウォードのあたらしい翻訳があったのだ。ジェスミン・ウォードという作家についてはなにも知らないが、『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』というタイトルが格好良くて書店で目に留め、名をおぼえていたのだ。ほか、岩波文庫では熊野純彦が訳したカッシーラーの『国家と神話』だったか『国家の神話』だったかそんなやつがはいっていたし(カッシーラーとカントーロヴィチがなぜかいつもごっちゃになりがちなのだけれど、たしかカッシーラーだったはず――『王の二つの身体』がカントーロヴィチであることは明確におぼえているのだが)、三島憲一などが訳したベンヤミンの『パサージュ論』の何巻目かも二冊はいっていた。そのほかはわすれた。エリザベス・ボウエン小説集、みたいなやつが一冊あったのはおもいだした。新着図書の見分を終えると哲学の区画に行ったが、ここにはあまり目新しいものはない。ふりむいて精神分析のあたりも見てみると、松本卓也がなんとかいうひとと共訳したなんとかいう学者の『HANDS』という本があり、これはなかなかおもしろそうだった。手というものの社会文化的な歴史記述みたいなかんじだったよう。出版社はたしか左右社だったはずで、いちばんうしろのほうにティム・インゴルドの『ラインズ』となにかもう一冊、さらにレベッカ・ソルニットの『ウォークス』が広告されているページがあって、これらもまえから気になっている書物ではある。
海外文学へ。そのまえに日本のエッセイの区画のさいごのあたりを見たところ、古典の日記文学の註釈集成みたいなシリーズがあったり、近世紀行文集成みたいなやつもあったりでこれらも興味を惹かれる。註釈集成はかなり専門的だろうからともかくとしても、古典紀行文集成みたいなやつはふつうに読みたい。そこからずれて海外文学のほうにはいっていくと、最初はアジアや中国なのだけれど、ここに赤い本の漢詩集(たしか集英社だったような気がするのだが――一巻目の出版年は一九九六年だったとおもう)が何冊もならんでいて、腐っても日本、腐っても図書館だなと称賛した。漢詩集のほうが、『失われた時を求めて』よりも冊数多く棚に出ている(こちらは鈴木道彦が訳した集英社の水色の単行本で二巻目までしか書架には出ていない――むかしはもっとならんでいたのだが――とはいえ、岩波文庫版はたぶんぜんぶ出ているはずだ)『楚辞』も『詩経』もふつうにあったので、さっさと読みたい。とはいえ全集だとやはりたいへんだから、まずはやっぱり岩波文庫ということになってしまうか。それかアンソロジーのたぐいか。はるかむかしに一冊だけ入門書みたいなものを読んだことはあるが、なにもおぼえていない。
そのまま横に移行していって英米文学のはじめのあたりに来たところで、村上春樹が訳したレイモンド・カーヴァーの詩集とか、マーガレット・アトウッドとか、ニール・ホールという黒人詩人とかに目が留まって、詩を読もうという気持ちになった。それでまずこの三冊を借りることに。マーガレット・アトウッドが詩も書いているとは知らなかったが、『サークル・ゲーム』というのがあったのだ。そしてまちがえたが、借りたのはレイモンド・カーヴァーではなく(村上春樹訳のそれは三冊あって、それも多少目に留めはしたが)リチャード・ブローティガン『ブローティガン 東京日記』だった(平凡社ライブラリーの福間健二訳で、いぜんから良い評判はたまに見かけている)。あと『ただの黒人であることの痛み ニール・ホール詩集』というやつで、このひとはかなりさいきんのひとのよう。詩は五冊くらい借りようとおもった。そんなに借りて、期限内に、読み終えるのはともかく書抜きまで済ませられるかこころもとなかったというかほぼ無理だろうが、勢いにまかせてとりあえず借りるだけ借りようというわけで書架のまえを移っていき(ウルフの『波』新訳はなかったので誰かが借りているらしい)、ドイツまで来たところで神品芳夫訳の『リルケ詩集』を借りることにした。土曜美術出版とかいう会社が出している世界現代史文庫みたいなシリーズの一冊で、これはそうとうにむかしにいちど読んだことがあるが、もういちど読むことにした。あとはひとり、日本の詩人をだれか借りるかというわけでいったん棚のあいだを抜け、日本の詩の区画へ。見ていき、須賀敦子と、高見沢隆だったか、『ネオ・リリシズム宣言』というやつがわりと気になったのだけれど、今回は須賀敦子に決定。だから日本人とはいっても海外文学にだいぶちかい日本人になってしまった。『主よ一羽の鳩のために』という河出書房新社の本で、クリームっぽい薄水色のカバーで端正な、こじんまりとまとまった瀟洒な小家みたいなすてきな雰囲気の書である。
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それで機械で貸出。トイレに寄って放尿すると退館へ。あとのことはとりたてておぼえていないし、面倒臭いので省略しようとおもう。(……)のホームにやはり風が盛んでよくながれさわいでいたのと、シュナック/岡田朝雄訳『蝶の生活』(岩波文庫、一九九三年)をこの日で一気に読み終えたことくらい。借りてきた詩集をはやく読みたかったからである。シュナックのこの本はまあまあというかんじで、マジで蝶好きすぎでしょ、というものだが、記述じたいはたぶん典型的にロマン派的なものだとおもわれ、つまりいかにも文学的、というかんじの比喩や描写が多く、そしてことばえらびとしてそのロマン派の典型性からはみだす瞬間はほぼなかったとおもう(それでもメモしようとおもう比喩などはいくらかあったが)。特徴的なのは蝶の存在をつねに太古とか悠久の時みたいな人間未然の歴史とむすびつけたがることで、翅の模様や色はそういう時を反映していると想像され、またいっぽうで、非常に頻繁に自然や地理的様態(太陽とか、夜とか、月とか、島とか、海とか)になぞらえられる。だからシュナックにとっては蝶の翅のなかに地球の歴史が刻印され自然の縮図があらわれているような印象で、具体的な箇所を多少ひいておくと、たとえばまだ個々の種の記述にはいるまえの総説的な「蝶」のさいごのほう(21)で、「物の本質を見通す眼の持ち主には、蝶の羽の多様な斑紋や、神秘的な翅脈の文字が、何万年にわたる地球のさまざまな体験のしるしであることがわかるだろう」とか、「氷の光に彩られた蝶もいるが、それは氷河の流れが反映したものにちがいない……」とか言われている。この後者のひとことは「蝶」のさいごの一文だが、そこからページをめくると具体的な蝶種の記述に移行して「コヒオドシ」のパートがはじまり、そのさいしょは先の一文を受け継ぐようにして、「コヒオドシは、その緑色の血の中に壮大な地球創成時代の記憶をもち続けている蝶のひとつである。コヒオドシは氷河時代とその短い夏を忘れることができない」(22)ということばからはじまっている。で、類似の部分はその他もろもろあるのだけれど、一気に飛んで終盤(「ヒトリガ類」の章)に、こういうメタファー的認識、メタフォリカルなかさねあわせをより直截に、まるでまとめのようにして述べた一連の箇所と、その中核となるべき要約的一語があって、その一語とは「神秘説」(311)である。いわく、「大きなものが小さいものの中にあるように、天上の世界が地上にあるように(……)太陽が地球にとって代わるように、星々の形が、星々の色が、星々の出会いが蛾の羽の秩序と天空の中に織り込まれたのであろう」(309~311)というわけだし、そのつぎの段落では火星、水星、金星等々と、それぞれの星の色と性質がどのように蛾の羽に反映されているか、想像的記述の具体的な展開がなされ、そのあとで行が変わるとそのはじめに、「このようにして宇宙の刻印を押された蛾」(310)という縮約的一節がある。その段落のさいごで、「もしも私が私のささやかな蛾の神秘説を語ったならば、親方は首を横に振ったことであろう」(311)と「神秘説」という語をつかって一連の記述がまとめられるのだ。「親方」というのは蝶の絵を描くのが非常に巧みなガラス職人の親方で、シュナックの蝶仲間のひとりなのだが、手工業者ということはおそらくそんなに抽象的思考になじんでいなかったと推測され、シュナックもそういう認識でいるようで(面倒臭いので引かないが、全篇のしめくくりちかくにもその傍証がある)、だから彼はこういう「神秘説」には「首を横に振っ」て、否定の態度か、よくわからない、理解できない、という反応をしめすだろう、ということではないか。ちなみにシュナックの主要な蝶仲間としてはもうひとり、レアンダーという蝶博士が出てきて、このひとは博士と言われているとおりじっさいの専門的学者のようだから、インテリである(ちなみにおもしろいことに、このひとの弟はビジネスでアトラス山脈のほうに行ったときに現地のベドウィンの族長と懇意になり、族長の死後その地位を継いでベドウィン族の一員になったといい、そこからめずらしい蝶をレアンダーにおくってくれるというはなしだ)。全篇はそれぞれ独立した関係としてかたられていたこのふたりがシュナックをあいだにはさんではじめて邂逅し、レアンダーの屋敷の温室ではなしたり蝶を見たりする挿話でしめくくられている(そのあと、「あとがき」として蝶の研究に心血をそそいできた先人たち(そのひとりめはアリストテレス)の紹介がみじかくあるが)。全篇は三部にわかれており、第一部は「第一の書 蝶」、あいだに間奏曲的な、蝶をモチーフにした幻想譚みたいな小物語が三つはいり、後半は「第三の書 蛾」で、種別に章が用意されているのでわりとどこから読んでもいいタイプの本ではあるが、ただ完全に断片的というわけでもなく、うえに触れたように全体の認識的基盤は統一されて冒頭と終盤ちかくで対応しているし、ある章の一部がべつの章の一部やまえに出てきた挿話を参照することもあるし、一連のエピソードのとちゅうで章が変わってべつの種の説明にうつることもあるし、終わり方も意をこらしてあるから、意外と物語的な構成や連続性は考慮して書かれたのだとおもう。あと、蝶についてはわりとどの種も記述が詳しくて、翅の模様の配置や構成を詳細に書いたり、それにまつわる体験的挿話をはさんだり、幼虫や蛹についてつらつら説明したりするのだが、蛾の部ではなかばをすぎたあたりから記述が簡素化してやっつけ仕事みたいになってきて(一、二ページでさっと終わるものが多くなる)、そこから多少もちなおしてさいごにつながる、というかんじなのだけれど、やっぱり蛾については基本夜のものだからあまり見たことがなくて情報がなかったり、単純に蝶のほうが好きだったりしたのだろうな、とおもった。
一〇時をまわったあたりで離床。顔を洗ったり用を足したりといつもの行動連鎖を取りつつ、洗濯機も準備して服をあらわせはじめた。注水のあいだとか、蒸しタオルを電子レンジでつくっているあいだとかは屈伸をして脚をかるくする。そうして一〇時三五分くらいから瞑想をした。鳩尾をよくさすってやわらげておくとやはり呼吸が楽なようで、そうすると全身的にもすこしコンディションが向上する気がする。酸素と血液がよく届くようになるということなのか、肩とか脚とかがはやくもほぐれているような感じがある。呼吸の楽さは明白で、ちからを抜いてからだにまかせたときに、いつもより周期がゆっくりになっているし、息を吐くときも、能動性をはたらかせていないので吐くというよりは抜けていくような感じだが、じぶんにも気づかれないかのようなかすかな感触でじわじわと進行していくそのうごきの先端がどれくらい沈むか、また吸うほうにうつるまえにほとんど停止したような宙吊り状態がどれくらいのこるか、というところにすでにしてからだがいくらかやわらいでいるのを感知する。とはいえ座ったのは二〇分少々。Notionできのうの支出を記録しておき、LINEをのぞくと、というかさくばんすでにのぞいていたが、おくられてきた(……)の件で一八日に通話したいと呼びかけられていたので、きょうあしたけっこういそがしいのですまんがおれ抜きで進めてくれと言っておいた。しかしのちほど、けっこう悩んでいてできればはなしたいとあったので、それならとやはりあしたの夜に通話することに。それから地元の美容室に電話した。いったいどこで髪を切ればよいのか情報収集もせずに先延ばしにしてモサモサ放置している現状だが、かんがえてみれば地元の美容室には高校のときいらい一五年いじょうも世話になったわけだし、それだったらさいごに一回行っておいて、なおかつ菓子折りでもあげてありがとうございましたとあいさつしておこうかという気になったのだ。ずっと世話になっていたのに、とつぜんなんの音沙汰もなくなるというのもわびしいものだろう。そういうわけで電話をかけ、あいさつをして来週の営業はどんな感じかと聞くと、何曜日がいいかと来る。火木が休みなんでというと、いまは予約の客のみになってたぶん営業日もけっこう減らしているのではないか、二九日になってしまうというので、それだとなあと笑い、土日ではと聞くと二五日の日曜と来た。それでいまようやく実家を出まして、と報告し、(……)にいるので行くのにちょっと時間がかかるからと午後一時からにしてもらった。そうしてあいさつを言って切り、食事へ。いつもどおりプラスチックゴミを始末して、床に置いてある水切りケースからまな板などとりだし、サラダをこしらえる。主食はレトルトカレーにすることに。鍋に水を入れてコンロにかけ、パウチを加熱する。シーザーサラダをかけたサラダをバリバリ食いながら(……)さんのブログを読んでいるうちに鍋が沸騰してきたので、レンジでパック米をあたためて、木製皿に出したうえからカレーをかけて、パウチはもうその場ですぐにゆすいでおいた。まな板などもすでに洗ってある。そうして椅子にもどって米をかき混ぜ、口にはこぶ。読んだブログ記事は九月一〇日と一一日。一〇日の序盤は先日もう読んでいたが、ここに記してしまうと、冒頭の夏目漱石の文章はやっぱりさすがだなとおもった。この観察はちょっとすごい。「退屈のあまり、ぼうんを聞いて器械的に立ち上がった」にせよ、「羨ましい女だ」にせよ、おお、とおもう。
高柳君は雑誌を開いたまま、茫然として眼を挙げた。正面の柱にかかっている、八角時計がぼうんと一時を打つ。柱の下の椅子にぽつ然と腰を掛けていた小女郎(こじょろう)が時計の音と共に立ち上がった。丸テーブルの上には安い京焼の花活(はないけ)に、浅ましく水仙を突きさして、葉の先が黄ばんでいるのを、いつまでもそのままに水をやらぬ気と見える。小女郎は水仙の花にちょっと手を触れて、花活のそばにある新聞をとり上げた。読むかと思ったら四つに畳んで傍(かたわら)に置いた。この女は用もないのに立ち上がったのである。退屈のあまり、ぼうんを聞いて器械的に立ち上がったのである。羨ましい女だと高柳君はすぐ思う。
(夏目漱石「野分」)
あと(……)さんの本文が、「アバズレビッグフットの歌声が耳栓を貫通する! こいつはワギャンランドの末裔か?」ではじまっているのにはさすがに笑う。かれが前回東京に来てあそんだとき、(……)さんと三人で昭和記念公園をぶらついたが、だだっぴろい「みんなの原っぱ」にはいってあるいていると、めちゃくちゃ咆哮している男子高校生がいて爆笑し、ワギャンランドっていうゲーム知ってる? あれおもいだすわ、とはなしたのをおもいだす。
食後は即座に椅子から立ち上がってはやばやと洗い物を済ませて、それから椅子にもどって水を飲むかなにかしているさいちゅう、右手の窓のほうを見てカーテンの白さを確認したときに、やべえそういえば洗ったのに干してなかったわとおもいだした。それで水切りケースを洗濯機のうえから下ろして洗濯物を干す。そとは白っぽい薄雲空でひかりもあまりさだかでないが、窓をあければおだやかで、薄陽がとおるときもないわけではない。タオルは一枚しかなかったし、肌着のパンツとシャツもめんどうくさいのでいっしょに集合ハンガーに留めて吊るした。その他ワイシャツやバスタオルやハーフパンツ。土曜日のため保育園には園児がすくなく、一階のほうからすこしだけ声が聞こえるものの、おなじ高さで真向かいの二階の室は、ふだんは子どもらがわちゃわちゃしているところを、いまはあかりも消えて窓辺に雑巾らしきものがいくつかまとめて干されているのがみえる。そうして席にもどると、きょうは音楽を聞くのではなく「読みかえし」ノートを読み返す気になった。きのうの夜も読みかえしたが。Andrea Moro, "Why you can 'hear' words inside your head"(2020/9/30)(https://www.bbc.com/future/article/20200929-what-your-thoughts-sound-like(https://www.bbc.com/future/article/20200929-what-your-thoughts-sound-like))の記述からで、下部にうつしておいたが、声を出さずにことばを読んだときにブローカ野に発生する電気信号の波形と、じっさいに声を出して読んだときに観測される物理的音の波形が一致するというはなしでおもしろい。そのつぎは古井由吉訳ムージルからの引用。ここもさすがにすごい文がいろいろある。429の一段落目は声に出して読んでみると、なんかリズムが完璧かもしれないとおもった。431の着物の比喩がいきなり出てくるのもすごい。434の終盤もすごい。
429
二人して戸外を歩むと、二人の影はごく淡くて、歩みを地につなぎとめる力も失せたかに、だらりと足にまつわりつき、そして足の下では堅い地面がいかにも短く、たえだえに響いて、葉を落した灌木が凝然と空を突きさした。この途方もない鮮明さにおののくひと時の中にあっ(end28)て、もの言わぬ従順な物たちがいきなり二人から離れ、奇妙なものになっていくかに感じられた。物たちは薄い光の中に屹立し、まるで冒険者、まるで異国の者たち、まるで現 [うつつ] ならぬ者たち、いまにも響き消えていきそうにしながら、内側ではなにやら不可解なものの断片に満ちていた。その不可解なものは、何ものにも答えられることなく、あらゆる対象からふるい落され、そしてそこからは一閃の砕かれた光が世界へ差し、投げ散らされ、まとまりもなく、ここではひとつの物の中に、かしこではひとつの消えていく思いの中に、輝きでるのだった。
そんなとき彼女は、ことによると自分はほかの男のものにもなれるのかもしれない、と思うことができた。しかも彼女にはそれが不貞のように思えず、むしろ夫との究極の結婚のように思えた。どこやら二人がもはや存在しない、二人が音楽のようでしかなくなる、誰にも聞かれず何ものにもこだまされぬ音楽にひとしくなるところで、成就する究極の結婚のように。それというのも、彼女はそんなとき自分の現在の生活というものを、錯綜した沈黙の中で自分自身を聞きとるためにぎしぎしと刻みこんでいくひとすじの線のようなものにしか、感じられないのだ。そこではひとつの瞬間が次の瞬間を呼びだし、そして彼女は自分のおこなうとおりのものに、たえまない瑣末なおこないどおりのものになり、しかも、彼女にはどうしてもおこなう(end29)ことのできない何かがのこる。自分たちはことによると、ものぐるおしいまでに心こまやかに響いてくる、かすかな、せつない音色を、そんな音色を耳にすまいとする声高な抵抗によって、ようやく愛しあっているのかもしれない、という思いにおそわれながら、彼女は同時にまた、いっそう深いもつれあいを、途方もないからみあいを予感するのだった。それは言葉がとだえてあたりに音もなくなるその時、ざわめきの中から涯 [はて] もない事実の中へ目ざめて、意識されぬ出来事のもとにひとつの感情をいだいて立つ、その瞬間に生れるからみあいだった。そしてそれぞれ孤独に、平行して高みへ突き入っていくという苦痛とともに――そうなのだ、これにくらべればほかの行動はすべて、おのれを麻痺させ、おのれを閉ざし、ざわめきたてながらまどろみ入ろうとする試みにほかならないのだ――このような苦痛とともに、彼女は夫を愛した。最後の苦しみを、重い重い苦しみを彼にあたえなくてはならないと思うそのとき。
(ムージル/古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)、28~30; 「愛の完成」)
431
雲間にかすかな風が起り、雲を一列にととのえてゆっくりと引いていくように、じっと動か(end36)ぬふくよかな感情の中へ、この実現の動きが吹きこんできたのを、彼女は感じた。内には受けとめられず、かたわらをかすめて……。そしてさまざまな事実が不可解にも流れ動きはじめるとき、感じやすい人間たちがおおくそうであるように、彼女はもはや精神のはたらきをもたぬことを、もはや自分ではないことを、精神の無力と、屈辱と、受難とを愛した。ちょうど弱いものを、たとえば子供や女を、かわいさのあまり叩いてしまって、それから着物になってしまいたい、着物になってたった一人で自分の痛みを人知れずつつんでいたいと願うように。
(ムージル/古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)、36~37; 「愛の完成」)
434
彼の言わんとしたところのものは、そのころにはおそらく、ときおり岩石の中に形づくられるあの紋様のようなもの――それが暗示しているものはどこに棲息しているのか、また完全に実現されたとしたらどんな姿となるか、誰ひとりとして知らないそんな紋様、あるいは城壁に、雲に、渦巻く水に見られる紋様のようなものでしかなかった。あるいは、それはちょうどとき(end104)おり人の顔に浮かんで、当の顔とはすこしも結びつかず、あらゆる目に見えるものの彼方にいきなり推しはかられる異なった顔と結びつくあの奇妙な表情と同様に、まだここにはない何かからとらえがたく由来するものでしかなかった。あるいは喧騒のただ中を流れるささやかな旋律 [メロディー] 、人間のうちにひそむ感情。そうなのだ、彼の内には、言葉によってそれを求めればまだとうてい感情とはいえぬ、感情があった。それは感情というよりもむしろ、あたかも彼の内で何かが長く伸びだして、その先端をすでにどこかにひたし、濡らしつつある、そんな感じだった。彼の恐れが、彼の静けさが、彼の沈黙が。ちょうど、熱病の明るさを思わせる春の日にときおり、物の影が物よりも長く這いだし、すこしも動かず、それでいて小川に映る姿に似てある方向へ流れて見えるとき、それにつれて物が長く伸びだすように。
(ムージル/古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)、104~105; 「静かなヴェロニカの誘惑」)
そのあときょうのことを書き出し、ここまでで一時半にいたっている。きょうは勤務。六時半には職場にいる必要がある。ふつうに行くなら五時半ごろの電車。ただ、月一のミーティングの日だから、せっかくなので(……)で菓子を買ってみなに配ろうかともおもっており、とすればその一、二本前で行ったほうがよいか。じぶんくらい同僚に菓子をあげているにんげんもあまりいないとおもう。だれかがシフトを追加してくれたときとかは、タイミングがあえばじぶんのかわりでなくてもわりとあげている。それはひとつにはふつうに感謝とねぎらいをつたえる素朴な善性の発露であり、ひとつには好感と信頼をかせいで関係構築を容易ならしめようとする打算の産物であり、またひいてはそういう局地的なはたらきかけによって職場ぜんたいの雰囲気をなんとなくちょっと気楽なものにして、所属者相互のコミュニケーションを円滑ならしめようとするささやかな一戦術でもある。
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出るまえにまたちょっと「読みかえし」ノートを音読して、そのときのメモ。
439
彼女はあのころ、一頭の大きなバーナード犬の、毛が好きだった。とりわけ前のほう、広い(end128)胸の筋肉がふくらんだ骨の上で犬の歩むたびに二つの小山のようにもりあがる、そのあたりの毛が好きだった。そこにはいかにもおびただしい、いかにも鮮やかな金茶色をした毛が密生して、見渡すこともできぬ豊かさ、静かな果てしなさにとても似ていて、たったひとところにひっそりと目を向けていても、その目は途方にくれてしまう。そのほかの点では、彼女はひとまとまりの強い親愛の情、十四歳の少女のいだくあのこまやかな、物にたいするのと変りのない友情を感じていただけであったのにひきかえ、この胸のところでは、ときおりほとんど野山にいる気持になった。歩むにつれて森があり、牧草地があり、山があり、畑があり、この大きな秩序の中にどれもこれも小石のようにじつに単純に従順におさまっているけれど、それでもそのひとつひとつを取りわけて眺めると、どれもこれもおそろしいほどに入り組んで、抑えつけられた生命力をひそめている。それだもので、感嘆して見つめるうちに、いきなり恐れにとりつかれるのだ。まるで肢をひきつけてじっと地に伏せ、隙をうかがう獣を、前にしたときのように。
ところがある日、そうして犬のそばに寝そべっていると、巨人たちはこんなじゃないかしら、と彼女はふと思った。胸の上には山があり、谷があり、胸毛の森があり、胸毛の森には小鳥た(end129)ちが枝を揺すり、小鳥たちには小さな虱が棲みつき、そして――それから先のことは彼女にはわからなかったけれど、それでおしまいにすることはなく、すべてはまたつぎつぎに継ぎあわされ、つぎつぎにはめこまれ、そうして強大な力と秩序に威 [おど] されてかろうじて静止しているかに見えた。そして彼女はひそかに思ったものだった。もしも巨人が怒りはじめたら、この秩序はいきなり幾千様もの生命へ、大声をたてて分かれてしまい、恐ろしいほどに豊かな中身を浴びせかけてくるのではないかしら、と。さらに巨人が愛に駆られておそいかかってきたなら、山鳴りのように足音が轟いて、樹々とともにざわめいて、風にそよぐ細かな毛が自分の肌に生えて、毒虫がもそもそと這いまわり、言いあらわしようもない喜びにうっとりと叫ぶ声がどこかに立ち、そしてそのすべてを彼女の息は虫や鳥や獣の群れのようにひとつにつつんで、吸い寄せることになるのではないかしら、と。
(ムージル/古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(岩波文庫、一九八七年)、128~130; 「静かなヴェロニカの誘惑」)
いま帰宅後の一時半過ぎ。きょうは職場のミーティングで、終了後も(……)さんとながくはなしたりして、家に着いたのは零時を過ぎていたのだけれど、なぜかこうして文を書きつけておく気力がある。やっぱり鳩尾の解放じゃないでしょうか? 職場ではある意味けっこうおもしろいことがあり、きょうの記事はなぜかやたら引用もしているし盛りだくさんになってしまう。職場でのできごとはブログを読んでくださっているひとびとにはつたえられないが。さきほど一時ごろから食事を取った。こんな時間にカレーとか食べておまえはだいじょうぶなのか? とおもったものの、ふつうにサラダをこしらえてレトルトのカレーも食った。さらに食後にこのあいだドラッグストアで買ったソフトサラダ煎餅まで食っている。あいまは(……)さんのブログを読み、九月一四日分まで。したのはなしはおもしろい。
まず、「形式主義」というラベルは、カントが合法性と呼ぶものにこそふさわしいと指摘しなくてはならない。合法性という観点から見て問題となるのは、ある行為が義務を果たすかどうかだけであり、その行為の「内容」——義務を果たす真の動機——は無視される。そのようなことは問題ではないのである。しかし、合法性とは異なり、倫理は意志の「内容」を問う。倫理は、行為が義務を果たすことのみならず、義務を果たすこと自体がその行為の唯一の「内容」あるいは「動機」であることを要求する。実際、カントが形式に力点をおくのは、倫理的な行為に向かう動因の所在を明らかにするためである。彼は、倫理的行為においては、「形相」が「質量」によって占められていた場所を占めなければならない、形式それ自体が動因として機能しなければならない、と言っている。形相が意志を決定するためには、形相それ自体が質量としての負荷をもつ余剰として作用しなくてはならないのである。くり返そう。カントの主張は、道徳的意志の土壌からすべての質量の痕跡を排除しなければならないということではなく、むしろ行為の駆動力となるためには、道徳律の形式=形相それ自体が内容=質量のように作用しなくてはならないということである。
このように考えた時、「純粋」に倫理的な行為の可能性に関して、解決されるべき二つの問題あるいは「神秘」が我々の前にたち現れる。第一の問題は、通常我々がカント倫理学に関連づける問題である——どのようにしたら我々の行動からすべての「病的」な動機や誘因をとり除くことができるのか? どうしたら主体はすべての利己心を、快楽原則を、自分自身や近しい人々の幸福に対する配慮を、棄てることができるのか? どのような怪物的な、非人間的な主体をカント倫理学は想定しているのか? これらの問いは、主体の意志の「かぎりない浄化」という問題、およびそれに付随する「どれだけ頑張っても、いつももうひと頑張り必要だ」という論理へとつながっていく。第二の問題は、カントの議論が要求する「倫理的主体化」とでも呼ばれるべきものに関係する——どのようにしたらただの形式を、実質的効果をもつ動因に変えることができるのか? この問題は、第一のものより重要である。なぜなら、その答えには、第一の問題の答えが必然的に含まれるからである。どのようにしたらそれ自体「病的」ではないもの——つまり、快楽や苦痛の表象とは関係のないもの、主体内における通常の因果律とは関係のないもの——が主体の行動の原因または動因となることができるのか? 問題は、もはや動因や誘因の「浄化」などよりもはるかに根源的だ——どうしたら「形相」は「質量」となることができるのか? どうしたら主体の精神世界の中で原因となるはずのないものが、突然原因となることができるのか?
これこそ、倫理のもたらす真の奇跡である。カント倫理学が提起する最大の問題は、「どうしたら意志からすべての『病的』な要素をとり除き、それを全く含まない義務の純-形式をとり出すことができるのか?」ではなく、「どうしたらこの義務の純-形式が『病的』な要素として、つまり我々の行動の駆動力、誘因として機能しうるのか?」である。もしこのようなことが起こるとしたら、もし「義務の純-形式」が実際に主体の行動の動機として作用するのであれば、もはや我々は、「意志の浄化」や「病的」な動機の排除などに気を揉む必要がないであろう。
しかしそうなると、この主体にとって倫理とは言わば第二の天性であり、もはや倫理であるとは言えないのではないか? もし倫理的に行動することが単なる動因の問題であり、何の努力も必要としないのであれば、もし倫理的な行動が犠牲や苦痛や自制を要求しないのであれば、もはやそれは美点、美徳と呼ばれるに値しないのではないか? 実際、カントもそのように考えた。彼は、そのような状態を「意志の神聖性」と呼び、人間主体には到達できない理想であるとした。この理想に到達してしまったら、善とは全く陳腐なものとなるだろう——ハンナ・アーレント流に言えば、「完全善の陳腐さ」とでもなるだろうか。しかし——これを示すことが、この本の最大の目的のひとつなのだが——このような分析はあまりにも手際がよすぎ、それゆえ何か大切なものを見落としている。そもそも我々がここで倫理について考える大前提は、人間行動の神聖性や陳腐性に堕することのない倫理を動因=欲動(ドライヴ)という概念の上に築き上げることができる、ということなのである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.29-31)
あと、なんにちかまえの記事に授業時の写真が載せられていたけれど、あれを見たとき、これすげえな、事前情報なにもないひとがこの写真みても、ぜったい大学で授業してるってわからないだろうな、とおもった。(……)さんはすげえ柄のシャツ着てたし、スクリーンに表示されていた画像は浜辺ででかい犬のしたに両手をかかげたちいさな(……)さんがいてなんかスイカもある、みたいなやつで、どういうことなのか意味がわからんし、それを指示棒で(……)さんが指しているというわけで、大学の授業どころかなにをやっているところなのかがふつうにみるとぜんぜんわからん。あれがシュルレアリスムというやつか。
きょうは外出前までで一四日の記事をしあげて投稿し、きのうの往路のことも書き、一五日もちょっと書き足してもう投稿できるし、こうしていまも書いているわけでなかなか勤勉でわるくないしごとぶりだ。職場でもそこそこのしごとをしたとおもうし、個人的におもしろいこころみもあった。あとはうえのように書いておきたいできごともあったし、やはりにんげんが複数あつまって関係を構築すればそれだけでいろいろ書くことはあるわけで、組織というのはなかなかおもしろいですなあ。そういうこともあるし、また塾講師のしごとは子どもたちとの関係もある。おとなとまったく同様に子どもたちもひとりひとりまるでちがったにんげんなので、かれらのことを書くのもまたおもしろく、ふだんじぶんは世界にたいしてなんら恥じることなく堂々と、なるべくはたらきたくないし一年中ずっと休みであるべきだと断言してやまないにんげんだが、それにもかかわらず、仮に金をかせぐためにはたらく必要がなくなったとしても、週一か二くらいは塾講師のしごとをやるかもしれないとおもうし、なんらかの現場をもってそこに属するかもしれないともおもう。
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勤務のことを記しておこう。(……)
(……)
(……)
(……)
(……)帰宅は零時を過ぎていたはず。
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- 「読みかえし1」: 425 - 435, 436 - 446
Andrea Moro, "Why you can 'hear' words inside your head"(2020/9/30)(https://www.bbc.com/future/article/20200929-what-your-thoughts-sound-like(https://www.bbc.com/future/article/20200929-what-your-thoughts-sound-like))
425
Let us now turn back to our experiment. Sixteen patients were asked to read linguistic expressions aloud, either isolated words or full sentences. We then compared the shape of the acoustic waves with the shape of the electric waves in the Broca’s area and observed a correlation (which was not unexpected).
The second step was crucial. We asked the patients to read the linguistic expressions again, this time without emitting any sound – they just read them in their mind. By analogy, we compared the shape of the acoustic wave with the shape of the electric wave in the Broca’s area. I should note that a signal was indeed entering the brain, but it was not a sound signal – instead, it was the light signal carried by electromagnetic waves, or, to put it more simply, a signal conveyed by the alphabetical letters we use to represent words (ie writing) but definitely not an acoustic wave.
Remarkably, we found that the shape of the electric waves recorded in a non-acoustic area of the brain when linguistic expressions are being read silently preserves the same structure as those of the mechanical sound waves of air that would have been produced if those words had actually been uttered. The two families of waves where language lives physically are then closely related – so closely in fact that the two overlap independently of the presence of sound.
The acoustic information is not implanted later, when a person needs to communicate with someone else, it is part of the code from the beginning, or at least before the production of sound takes place. It also excludes that the sensation of exploiting sound representation while reading or thinking with words is just an illusory artifact based on a remembrance of the overt speech.
The discovery that these two independent families of waves of which language is physically made strictly correlate with each other – even in non-acoustic areas and whether or not the linguistic structures are actually uttered or remain within the mind of an individual – indicates that sound plays a much more central role in language processing than was previously thought.
It is as if this unexpected correlation provided us with the missing piece of a “Rosetta stone” in which two known codes – the sound waves and the electric waves generated by sound – could be exploited to decipher a third one, the electric code generated in the absence of sound, which in turn could hopefully lead to the discovery of the “fingerprint” of human language.
426
The very fact that the majority of human communication takes place via waves may not be a casual fact – after all, waves constitute the purest system of communication since they transfer information from one entity to the other without changing the structure or the composition of the two entities. They travel through us and leave us intact, but they allow us to interpret the message borne by their momentary vibrations, provided that we have the key to decode it. It is not at all accidental that the term information is derived from the Latin root forma (shape) – to inform is to share a shape.
- 日記読み: 2021/9/15, Wed. / 2021/9/16, Thu. / 2021/9/17, Fri.
2021/9/17, Fri.より。
視覚は見られるものを、聴覚は聴かれるものを「愛撫」する。「接触」はおしなべて「存在へと曝されていること」(128/154)なのだ。見ることができる眼は、同時に [﹅3] 、強烈な光線に射抜かれる器官でもなければならない。先天性の視覚障害者の開眼手術の記録がしめしていたように、視覚の対象もまずは文字どおり目にふれ、ときに視覚器官に傷を負わせる [註134] 。〈傷つきやすさ〉こそが、おしなべて感覚をそれとして可能にしている。だか(end219)ら、第二の異論にかんしていうならば、〈傷つくことができる〉ということが、かくて視覚それ自体をもふくめて、感覚的経験一般が可能となる条件である。「感受性とは〈他なるもの〉にたいして曝されていること(exposition à l'autre)なのである」(120/145)。(……)
(註134): 哲学史的にいえば、これはいわゆる「モリヌークス問題」にかかわる論点である。最近の論稿としては、古茂田宏「魂とその外部――コンディヤックの視覚・触覚論によせて」(『一橋大学研究年報 人文科学研究』第三四巻、一九九七年刊)参照。
(熊野純彦『レヴィナス――移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫、二〇一七年)、219~220; 第Ⅱ部、第二章「時間と存在/感受性の次元」)
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あとは帰宅後に、英米豪の新たな協定についての報も読んだ。AUKUS(オーカス)というと。オーストラリアのAと、UK、USをそのままならべただけの命名である。東シナ海および南シナ海で傍若無人にふるまっている中国に対抗してオーストラリアの抑止力をつよめたいということで、米国が原子力潜水艦の技術をオーストラリア側に提供するらしいのだが、原潜の技術は米国の軍事技術のなかでも最高度の機密にあたり、いままでに供与されたのは一九五八年だかに協定をむすんだ英国だけで、米側関係者は今回一度かぎりのことだと言っているらしいが、だからそれだけ切羽詰まっているというか中国にたいする米国の焦りがうかがわれる、という趣旨だった。
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Maya Yang, Vivian Ho, Martin Belam and Michael Coulter, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 206 of the invasion”(2022/9/17, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/17/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-206-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/17/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-206-of-the-invasion))
United Nations member states have voted to make an exception to allow Volodymyr Zelenskiy to address next week’s general assembly by video, despite Russian opposition. Of the 193 member states, 101 voted on Friday in favour of allowing the Ukrainian president to “present a pre-recorded statement” instead of in-person as usually required. Seven members voted against the proposal, including Russia. Nineteen states abstained.
Virtually all the exhumed bodies in Izium had signs of violent death, Ukraine’s regional administration chief said of the mass burial site discovered after Kyiv’s forces recaptured the east Ukrainian town. Exhumers had uncovered several bodies with their hands tied behind their backs, and one “with a rope around his neck”, Oleg Synegubov, head of Kharkiv regional administration, said on Friday. “Among the bodies that were exhumed today, 99% showed signs of violent death,” he said on social media.
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Russia has accused Ukraine of carrying out targeted strikes in the cities of Kherson and Luhansk against top local officials who have been collaborating with Moscow. At least five Himars missiles crashed into the central administration building in Kherson, which Russian troops have occupied since March after arriving from Crimea. Video from the scene showed smoke pouring out of the complex. In the eastern city of Luhansk, a pro-Russian prosecutor died with his deputy when their office was blown up. The cause of the explosion was not immediately clear. President Volodymyr Zelenskiy’s senior adviser, Mikhailo Podolyak, said Ukraine was not behind the blast.
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The Russian president, Vladimir Putin, made his first public comment since his troops were forced to withdraw from the territories they held in the north-east, a move that prompted unusually strong public criticism from Russian military commentators. Putin said he invaded Ukraine because the west wanted to break up Russia. He grinned when asked about Ukraine’s recent military success, saying: “Let’s see how it develops, how it ends up.” Putin said nothing had changed with the ultimate goal of Moscow’s “special military operation” in Ukraine, which was to capture the Donbas.
The United States department of defence has announced it is providing an additional $600m in military assistance to Ukraine to meet the country’s “critical security and defence needs”. In total, the Biden administration has committed about $15.8bn in security aid to Ukraine – $15.1bn since the beginning of Russia’s invasion in February.
Switzerland on Friday aligned itself with the European Union in suspending a 2009 agreement easing rules for Russian citizens to enter the country. “The suspension of the agreement does not mean a general visa freeze for Russians but rather they will need to use the ordinary visa procedure to enter Switzerland,” the country’s federal council said in a statement. The EU took a similar step earlier, suspending a visa facilitation deal with Russia but stopping short of a wider visa ban in response to Moscow’s invasion of Ukraine.