2022/9/20, Tue.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●47~48(「エロディヤード」; Ⅰ 序曲)

     乳母
    (呪文)

 廃滅して、その恐ろしい翼が、その驚きを
 写す廃滅した泉水の涙の中で、裸の黄金の
 羽で深紅色の空間を打ち
 一つの暁は羽の紋章となって
 われわれの納骨塔と犠牲を捧げる女を選んだ
 一羽の美しい鳥が逃げ出た重い墓、(end47)
 空虚な黒い羽がある暁の孤独な気まぐれ……
 ああ腐敗した悲しい地方の領主の館!
 波の騒音もなし! その暗い水は運命を諦める
 そこには鳥類や忘れられない白鳥の訪れもない、
 水は燃え残りを消し、秋の孤独を写すばかり。
 その時未だ光ったこともない或る古 [いにしえ] の里の
 清い金剛石に悩まされた白鳥の
 頭は蒼白い廟墓か羽の中へ
 姿をかくしてしまったのだ。




 いくばくかの覚醒やまどろみをくりかえし、最終的に起き上がるには正午過ぎまでかかってしまった。午後にかかるまで寝床にとどまっていたのはひさしぶり。昨夜はなぜか明け方までだらだら過ごしてしまったので不思議ではない。雨降りはつづいており、真っ昼間なのにカーテンを閉めた部屋の内は暮れ時いじょうに薄暗い。あけても濡れた白さにたいしたあかるみはない。覚醒してから手をこすったり腹をさすったりしたが、夜更かし寝坊のわりにからだはなぜかそうこごってはおらず、ふだんは寝床にもどって脚を揉んだりするところだが、きょうは時間もおそくなったし水を飲んだり顔を洗ったりしてから、屈伸をちょっとしただけでもう瞑想にはいった。そしてそれでぶれもせず、脚に痛みや痺れも生まれず、だいぶさだかにすわれる。呼吸もすでにいくらかほぐれているような具合だった。息を吐いて吸うたびに行き当たる胸から肩や首すじにかけてのひっかかりがさらに、呼吸の反復のうちでじわじわとほどけてすこしずつながれさっていく。地下に掘り進めた隧道の最前線の突き当たりをちょっとずつ、ほんのちょっとずつ打ちつづけてさらに空間をひろげているような感じだ。雨はつづいており、きのうの夜に吹き荒れていた風はもはやたいしたことはないが、それでも雨粒はかたむいてはいるようで、バラララバラララという蜂の巣製作じみた、あるいは微小量の火薬が音だけで無害に爆発しつづけるようなそんな打音や、物干し棒から垂れたしずくが手すりにあたるのか、カンカンいう高めの音が聞こえつづける。目をあけるとあぐらで乗っていた椅子が気づかないうちに左に九〇度回転しており、視界が目を閉じるまえに正面にあった図とちがったので一瞬ちょっとおどろいた。ぴったり三〇分。体感的にはもうすこしいったような、けっこう充実した感があった。時刻はそれでもう一時なわけである。携帯をみると母親からSMSがとどいており、資格の勉強につかっているらしいなにかのレポートをいちぶ切り取った画像が載せられていて、この漢字がわからないからおしえてくれとあった。「可塑性」だった。かそせいと読むのだとつたえ、もののかたちが変わっていくことができるということ、変形力みたいなことだろうと意味もおしえておく。ついでに二五日に(……)に髪を切りに行くからそのときちょっと寄るわとも言っておいた。「塑」という字にかんしてはおもいだすことがあって、中学校時代にたしか「彫塑室」という美術の部屋が学校にあったとおもうのだ。とうじのじぶんにはみなれないむずかしい漢字だからさいしょは読めなかったはずだし、「ちょうそしつ」と、たぶん教師が言っているのを聞いてそう読むのかと知ったあとも、この「塑」という字はなんなのかと、油断するとすぐに読み方をわすれてしまうようだし、なにかとっつきにくいような漢字だった。母親もおなじく地元の(……)中学校出身なので、おぼえていれば「塑」の字のニュアンス(土をこねてかたちをつくること)がより理解できるだろうとおもったが、たぶんおぼえていないとおもうのでそれはふれなかった。
 それから食事。れいによってそのまえに水切りケースとかコンロのまわりのすきまとかに置いてあるプラスチックゴミを始末する。ほんとうはきょうの朝がプラスチックゴミの回収だったのだけれど、さくばん帰ってくるときに風がすごくて、帰り道沿いにあるいろいろなアパートでけっこうゴミ袋が飛ばされてとおくにころがりだしたりしていたので、これは今夜出してもおなじことになるかな、と今回は見送ることにしたのだった。だから来週まで保管しておかなければならない。食事はもはやキャベツも切れたし、豆腐・大根・タマネギをサラダにして、レトルトカレーを食うほかはない。きょう医者に行くつもりなので、その帰りに買い物もしてこなければならないだろう。野菜ふたつはスライスし、そのうえに豆腐を乗せて、コブサラダドレッシングをかけるとハムものこっていた三枚をつかってしまった。カレーは湯煎。からだや胃のなかが水以外に空っぽなところにタマネギや大根の辛味が来るとちょっととおもって、豆腐を崩してよく混ぜながら口にはこぶ。(……)さんのブログを見た。一七日分の冒頭に引かれていたしたのはなしはこれもおもしろい。引用を読むかぎりではこの本はかなりおもしろそう。ただ、フロイトラカン派の精神分析理論については(……)さんのブログに引かれている文章で断片的にふれているだけで、いまいち体系的に理解していないし細部もよくわかっていないので、いきなりこれに行っても駄目な気はする。シフターすなわち転位語のはなしが出ているが、これはエミール・バンヴェニストの概念で(バンヴェニストだけではないかもしれないが)、このへんの理論や思想にたいする構造主義言語学の影響ってやっぱりかなりおおきいよなとおもう。ソシュールはもちろんそうなのだけれど、それよりはとりあげられることのすくないバンヴェニストもかなりおおきいのではと。バルトなんかもろにそうだし。『一般言語学講義』だったか(『一般言語学の諸問題』だった)、あれもだからやはりいずれは読みたい。二つ三つ版があったとおもうのだけれど、みすず書房のやつは七〇〇〇円とかして高いんだよな。もっとしたかな?

 「脱-心理学」という点では、ラカン構造主義の旗にしたがう——曰く、「無意識は言語のように構造化されている」。これが意味するのは、原則として我々は、主体の症状や行動に解釈(フロイトの言う「解読」)を加え、その起源を探ることができるということである。ロマン派的な想像力=創造力をつかさどるものとしての無意識、「夜の神々」の宿る場所、主体の自発性の源泉などと考えられてきたものの内にも、厳密な論理や法則が作用している、というわけである。しかし、構造主義が主体と構造とを完全に同一視するのに対し、ラカンはそこにまさにカント的なひとひねりを加える。彼は、〈他者〉の内なる欠如——つまり、構造が完全に自らを閉じることに失敗するまさにその点——を補うものとして主体を定義する。これには二つの方法がある。第一に、「主体の存在の証拠」として還元不可能な享楽を提示する方法、第二に——こちらのほうが我々の議論にとって重要である——発話行為とそこで用いられる「私」という転位語[シフター]との関係から主体を定義する方法である。「私」とは、その他すべてのシニフィアンの機能を奪うシニフィアン、それらを「不-完全」[パ・トゥ]にするシニフィアンである。なぜなら、それは、意味する(他のシニフィアンへと差し向ける)のではなく指し示す要素、言語の構造の外側にある何か——発話という行為それ自体——を指し示す要素であるのだから。〈他者〉の亀裂を埋める機能のある固有名詞とは異なり、「私」はそこに修繕不可能な虚空を切り拓く。「私」という言葉が用いられるたびに、発話の主体にふさわしいシニフィアンがないことが明らかになる。ミレール——私がここで要約している議論は彼のものである——が彼のセミナー『一、二、三、四』で指摘しているように、「〈他者〉の〈他者〉は存在しない」という命題は、〈他者〉や発話された内容の存在を保証するものは、それらがそれらとして発話されるという偶然性以外の何物でもない、と主張するものである。〈他者〉の機能からとり除くことのできないこの依存関係こそ、〈他者〉の内なる欠如の証拠である。発話の主体は、〈他者〉の構造の中に確固たる場所をもたない、もつことができない。それは、発話するという行為の中にのみ居場所をもつのである。以上、まとめよう。非心理学的に主体について思考すると言っても、主体が(言語であれ、その他のものであれ)構造に還元できると言っているわけではない。ラカンの言う主体とは、「脱-心理学」化が終了した後に残るもの、まさに発話がなされる点、つかまえどころのない「ピクピクする」点なのである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.44-46)

 食後は食器類を洗い、ちょっと音読した。「読みかえし」ノートは、岡和田晃「北海道文学集中ゼミ~知られざる「北海道文学」を読んでみよう!~: 「北海道文学」の誕生とタコ部屋労働(1)~国木田独歩空知川の岸辺」」(2018/9/28)(https://shimirubon.jp/columns/1691732(https://shimirubon.jp/columns/1691732))とか。むかし読んだ文章や情報を時をおいて読み直すというのもおもしろいものだ。そのあと屈伸とかしてから音楽を聞きにはいった。おとといきのうと同様、碧海祐人『逃避行の窓』から、#5 ”Comedy??”, #6 ”Atyanta”, #7 “秋霖”。ふれたいこまかいところもいろいろあるのだけれどいまは書くのがめんどうくさいので全体的な印象だけ述べておくと、『夜光雲』より良いようにこちらはおもうというか、『夜光雲』にかんして述べたことばのいかにも文学っぽい硬さだったり、それと旋律との結合の問題だったりが、ここでは解決されているように感じられるのだ。漢語的な二字熟語とか硬いような言い回しとかは『夜光雲』よりだいぶ減ったようにおもえるし(”夕凪、慕情”のC部だったかでは、行の冒頭で一語ずつそういう熟語を置いていたようだが、後述の理由でそれはぎこちなく響かない)、また、このアルバムではたぶんどの曲も、サビ的なパートで高音にひらきコーラスをかさねたファルセットでながめの音価を歌うというやりかたがとられていたとおもうのだけれど、ことばもそれに相応して漢語からひらかれ、動詞的に伸びやかにながれていたとおもうのだ。だから旋律とことばがひとつの調和にまとめられてゆったりとながれており、かつファルセットや全体的な歌声の、あまりいかにもな歌唱の声としてかためない、素朴さをどこかにのこしたような声質とコーラスの添え方とかがあいまって、ひとつのスタイルがかたちになっているという感覚を得た。それをきもちよくなじみやすくまとまってしまった、という向きもないではないかもしれないが、こちらは好きだし、この伸びやかさはそれとしてとりあげることのできるニュアンスにいたっているとおもう。いっぽうで『夜光雲』でもやっていたように、こまかい連続音で歌う部分も#2や#3にふくまれていて、そこはそこでとちゅうでうごきに変化をとりいれてうまく行っている印象だ。どちらもたしか二回目のAだかBだかで一回目とはちがうこまかなつらなりをとりいれ、かつそれをちょっと展開させるという感じだったはずで、#3ではベースとのユニゾンなんて工夫もされていた。


     *


 いま帰宅後の八時半。夕食をとりながら一年前の日記を読んだ。2021/9/20, Mon.である。「きょうは気温がだいぶ低くて涼やか。天気もきのうにつづいて濁りのない快晴で、一年でもっとも過ごしやすい秋のかるさ」だというが、今年はこういう雲のない、からっとしたような秋晴れをまだみていない。ちょっと晴れる日はあってもだいたい雲がおおく混ざっていて、そのくせ体感としてもひかりがまだ熱く、いかにも秋のさわやかな涼しげな晴れの日だな、という空気の質感に出会っていない。午前中の窓外の描写として、「そとはひどくあかるく、ひかりはどこにも行き渡って満ち、そのために川沿いの樹々や山襞は蔭をかえって濃く溜めて、なだれるように充溢した明暗のコントラストがきわだっており、川沿いの樹壁のなかでいちばんあかるい一部分は泡っぽい希釈水の緑に浮かび上がって、もうすこしてまえではあたりの屋根があるものは瓦の四面を区切る突端の線にひかりをあつめてかがやかせ、あるものはゆるい傾斜の一面をすべて白く発光させている」とあるが、これはなかなかやってんな、とは言ってやれないレベルの記述だ。書きぶりはべつにいつもどおりでわるくはないけれど、見たものをただ順番にならべて書いているだけで、そこにあったはずのなにかひとつのニュアンスをいまのこちらに喚起するまでのちからを持っていない。観察の段階にとどまっており、そこから感応の地へとはみ出せていないということだ。まあそういう意味ではむしろ記録然としたものではあるのかもしれないが。
 「誰も彼もかしこぶり屋の治世では冗談だけが愚者の矜持さ」という一首をつくっている。まあわるくはない。労働から帰宅したあとの深夜はPink Floyd『The Dark Side of the Moon』をながし、「このアルバムは中学生当時に同級生で当時唯一の音楽仲間だった(……)が入手して聞いていたはずで、彼の家でこちらもすこしだけ耳にしたおぼえがある(それで"Money"か"Time"だけその後印象にのこっていたおぼえがある)。やつはほかにたしかYesも入手していた気がするし、もしかしたらKing Crimsonも聞いていたかもしれず、プログレの有名所をいくつか手に入れていたとおもうのだが、たかだか中学生でプログレなんぞ好んで聞いていたとはいけすかない、ませたクソインテリだったなといまさらながらおもった」と友人をけなしている。「それいらいPink Floydをほぼ聞いたことがなかったのだが、いま聞いてみると#2 "Breathe (In The Air)"のバックのサウンドの質感からしてひとつのきわだった雰囲気をかもしだしており、なるほどこれはたしかに、とおもわれ、中学生でこれを聞いていたのはやはりすごい。やつは暑苦しいだけのこちらより数段先を行っていた。FISHMANSも高校当時ですでに聞いていたおぼえがあるし(FISHMANSのライブ盤を聞かされたとき、おまえにはこういうのはわからないだろうが、と馬鹿にされたおぼえがある)。大学ではバンドサークルにはいって、Kurt RosenwinkelとかBill Frisellなんかを真似しようとしていた」というこの友人とは(……)のことで、やつもいまどこでなにをしているのか、もうながいこと会っていない。たしかあたまがおかしくなり体調がわるくなった一八年よりまえに一回くらい会ったおぼえがあるから、たぶん一七年か一六年のことか。「ませたクソインテリだったな」とけなされているが、じっさい国際基督教大学に行ったし(もともとは東京大学を目指していたのだけれど果たせず、そちらに行ったのだが、ICUは自由で風通しのよい校風だとよく聞くので、やつにとってもそっちのほうがよかったのではないか)、哲学思想なんかにもそれなりの興味関心は持っていたようで、こちらが読み書きをはじめてからまだそう経っていないころ、おそらく二〇一五年くらいのことかとおもうが、ある日電車内で会ったときにこちらがウルフの『灯台へ』(みすず書房版の古い訳のやつだった)をもっているのに興味をしめしたのでちょっと冒頭を読ませたらなにかコメントをしたし、そのときだったかわすれたが、ドゥルーズとかにも興味がある、読んでみたい、と言っていたこともあった。それはたぶん別の日にやつの実家の部屋にあそびに行ったときだな。部屋のなかでそういうはなしをしたような記憶があるので。こちらは、ドゥルーズも読みたいがぜんぜんよくわからなそう、おれはバルトだな、あとフーコーも読みたい、とこたえたおぼえがある。ところがそれいらいバルトはともかく、フーコーなど主著は一冊もふれられていない現状である。ドゥルーズもおなじく。
 あとこの日は(……)くんらと通話していて、TENGAのはなしなんかしている。(……)くんがとうじなぜか買おうかなとおもっていたようだ。一年前は検閲しておいたけれど、まあ一年経ったしいいかなと。

あとはTENGAのはなし。(……)くんが、なんのきっかけがあったかわすれたが、TENGA買おうかなとおもってるんですよね、つかいすてじゃなくて、洗って何度もつかえるやつ、といいだしたのだ。TENGAというのは男性向け自慰サポート用器具のたぐい、つまりいわゆるオナホールの有名商品だが、何年かまえにいろいろ種類が出て、たしか「エッグ型」とかもろもろあり、デザインもあからさまでなく部屋に置いてあってもバレにくい、とか言われていたのをおぼえていたが、それいじょうの、あるいはそれ以降の情報がなかったので、いまどうなってるんですかね、といいながらサイトを見物した。オナホールを売っているくせにスタイリッシュというか、スタイリッシュではないかもしれないが、淫靡なかんじがぜんぜんなく、ほがらかに堂々としたサイトで、よく画像を見かけるあの赤っぽいメジャーなやつはつかいすて用のほうらしく、何度もくりかえしつかえるタイプのものはデザインがまたすこしちがっていたが、あまりよく見なかった。ポケットタイプとかいって、ポケットにはいる薄型というものもあり、いつでもどこでも、思い立ったらすぐに、とかいう売り文句が書かれていたので笑う。また、TENGAを推す著名人がコメントを寄せたり質問にこたえたりしているページもあり、ミュージシャンとかラッパーとかアスリートとか変わり種では僧侶とか(仏教は基本、禁欲を奨励するものではないのか?)、かなりの数のひとびとがあつまっていて、なかにはかなりメジャーななまえもあるのだが、TENGAの精神はじぶんがやっていることと共通しています、とか、大仰な褒めかたをしているひとがなんにんかおり、いやただのオナホールやんと笑う。

 どうせだからまじめなはなしも引いておくか。

あと、(……)くんがかたったWoolfとニーチェのはなし。LINEに画像を貼ってくれたのだが、『ダロウェイ夫人』のなかでいきなり漠然とした主体であるoneが出てくる箇所があり、その非人称性というのはニーチェが『悲劇の誕生』でかたっていることにつうじているのではないか、ということで、(……)くんによればニーチェギリシア悲劇や芸術においてアポロン的なものディオニュソス的なものという区分をとらえた人間で、前者は秩序、後者は無秩序とかカオス的なものをあらわすわけだが、ニーチェのかんがえではギリシア悲劇の本質というのはディオニュソスの領域で、なおかつそれは「声」の領分なのだと。作家がものを書くとき、意味が先に来るのではなく、声や音調がどこかからやってきて、それにひっぱられるようにみちびかれるようにしてことばが出てきたり作品が構成されたりする。その「声」の感覚というのはだれがかたっているというものでもなく、出所のわからない非人称的なものなのだが、ニーチェとしては芸術の本源はそれだとかんがえていたらしい。わりとわかるはなしではある。で、だからギリシア悲劇において肝要なのは秩序だった対話の部分ではなく、コロスだと。(……)くんはWoolfがつかうoneなどにもその「声」の存在を見たわけだが、それでTo The Lighthouseのなかにも、ちょうど前回か前々回くらいでやったところにそういう部分があったと。すなわち、Never did anybody look so sad. からはじまる一段で、いきなりやたら詩的な表現になっている箇所なのだけれど、あそこは要するにこの「声」で、Woolfが書いているさいちゅうにこういうイメージとか言い方がどこかから来てしまったのだろう、と。その理解は、こちらとしてもわりと納得が行く。で、そのあとの段落ではpeopleがラムジー夫人のうつくしさの秘密を問う、みたいな内容になっており、さらにつづく段落では括弧にくくられてバンクスがラムジー夫人と電話して彼女のうつくしさをおもっているところが書かれるわけだが、非人称的な「声」のような状態からはじまって、それがpeopleという複数者としてすこし具体化され、さらにそのうちのひとりとしてバンクスが召喚されるというのが(……)くんの整理であり、なるほどたしかに、となった。

ニーチェやっぱすげえな、だいたいのことはニーチェが言ってるな、と(……)くんはあらためておもったというが、これは要するに構造・構造化とその構造から漏れ、はみだし、回収できないものという対比の構図だとおもわれ、それをすこし敷衍すればむろんおなじみの物語/小説図式になり、精神分析的にいえば言語化された世界と現実界ということになる。おそらく西洋の哲学の伝統においてこの図式は、概念や用語を変え、手を変え品を変えてずっと継続し、受け継がれているものなのだろう。すこし種類がちがうが、体系と断片という対比もいちおうそこにくわわるはずで、ニーチェはむろん体系家を糾弾し断片を称揚した思想家の最たるひとりのはずなので、ディオニュソス的なものに惹かれるのは道理だろう。で、こちらは、ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』にもそういうはなしがありましたね、と言った。エクリチュールとそこから漏れる声、という対比で、一〇章・一一章か、一一章・一二章でそういうはなしが展開されていたはずである。エクリチュール、すなわち書くという営みや書かれたテクストは近代西洋世界の根幹をなしているシステムであり、しかしそれによってたとえば民衆文化とか未開地域といわれるような異文化の「声」、要はその他性は秩序化され、解釈され、理解可能なものに翻訳されて西洋のシステムのなかに回収され組み入れられてしまう、というようなはなしだったはず。

 で、こういう構造化・体系化・言語化できるものだったり、秩序的にととのっていたりということをもっともおおづかみにいう西洋的な概念がおそらく「ロゴス」なはずで、だからデリダのしごとのひとつというのはうえでふれたような、西洋思想において「概念や用語を変え、手を変え品を変えてずっと継続し、受け継がれて」きた、秩序(さまざまなかたちの「ロゴス」)とそこから漏れるもの、そこに統合されえないもの、という図式(と、その二項関係におけるつねに変わらぬ前者の優位)をさかのぼってあとづけたものだという理解でよいのだろうか。


     *


 昼間の食後に聞いた音楽は碧海祐人だけではなくて、アルバムが終わったので自動再生を待ってみるとはじまったそれが諭吉佳作/men "くる"という曲で、しばらく聞いてこりゃすごいなとおもったのでさいごまで聞いた。よくこんな複雑なコード進行のながれをつくって、かつポップスとしてしあげられるもんだと。後半ではけっこうわかりやすくメロディしているサビ的部分もあったし、ことばの置き方をふくめてプログレッシヴな要素をいろいろ入れこんでいながらぜんたいとしてはきちんとポップスとしてまとまっている。こういうのにあまりふれたことがないひとが聞いて、なんだこれ、よくわからない曲、へんな曲だとおもったとしても、でもなんかいいなとさいごまで聞けてしまうのではないか。しかも情報をしらべてみるとこのひとはまだ一九歳だというからビビるもので、一九歳でこれつくっちゃうのかー、とおもうと、三二にもなっておれはいっこうになにもつくらずまいにち日記を書くだけでいったいなにをやってんのだろうか、というきもちもちょっと生じないでもない。崎山蒼志と中学時代から親交があるといい、Wikipediaをみてみれば崎山蒼志もまだ二〇歳だ。数年前にやたらすごい中学生シンガーソングライターみたいな感じでテレビに映っていたのをみたことがあるだけで、そのときこれはたしかにすごいなとおもったのだけれど、けっきょくその音楽はまだ聞いたことがない。長谷川白紙ともつながりがあるようだけれど、このなまえは(……)さんのブログでおりおり目にする。あと諭吉佳作/menのWikipediaには、坂元裕二の朗読劇の音楽を担当したという情報もあって、坂元裕二はさいきん古谷利裕の「偽日記」でよくとりあげられ、詳細に分析されている脚本家なので、こういうところがつながるのかとおもった。
 そのあと『Portrait In Jazz』。冒頭からはじめて"When I Fall In Love"まで。Amazon Musicを検索して出てきたのはKeepnews Collectionと書いてあるやつで、さいしょの"Come Rain or Come Shine"("降っても晴れても"という邦題になっているが、たのむからアルバムタイトルを英語でしめしたのなら原題表示をしてほしい)にはテイク5とあり、終盤にボーナストラックとしておさめられている"Autumn Leaves"のモノラル版もテイク9となっていて、そうだったの? そんなにやってたの? ぜんぶ聞きたいんだが、とおもったものの、コンプリート版みたいなやつはたぶん出ていないだろう。こちらがCDで入手して聞いていたやつは枯葉のステレオ版とモノラル版が二曲目三曲目でつづけて収録されていたので、このKeepnews Collectionは三曲目以降のトラックナンバーが記憶よりひとつずつはやいことになる。こちらのもっていた音源には枯葉とあと"Blue In Green"も二テイク収録されていたが、Keepnews Collectionはさらに"Come Rain or Come Shine"の別テイク(テイク4)と、"Blue In Green"も全部で三テイクはいっているので、じぶんの聞いていたやつより二曲多い。そういうわけでいろいろ版があるなかでこれをえらんだ。いろいろ感じたりおもったりはあるのだけれど、いまは詳しく書くのがめんどうくさい。夕食後にも"When I Fall In Love"から四曲、"Spring Is Here"まで聞いたのだが、このときはなんだかねむくて音があまり聞こえず。


     *


 この日は医者に出向いてヤクの追加をもらってきたわけだけれど、その間の消息をこまごまと綴るのもめんどうくさいし、いまもう二三日の夜で日付替わりもちかいくらいだから記憶もさほどのこっていない。(……)に着いたころには(五時半ごろだったが)もう日暮れてけっこうたそがれており、道も青いような薄暗いようななかに民家の塀内で紅色のサルスベリが色をめだたせていたのをおぼえている。医者や薬局では携帯で(……)さんのブログを読み、帰りの電車内ではブランショ『文学空間』を読んだ。診察はいつもどおりで、まあ変化もたいしてないし五分もかからずすぐ終わるのだが、やっぱりどうも電車内だとまだ緊張や圧迫がどうしてもあるということを報告する。とはいえ全体的には体調はよくはなっているとおもわれ、きょう来たときは意外とひとがいなくて、いつも先頭車両の端の四人掛けに乗っているのだけれど(というと先生は三人掛けでしょう、と言ったのだが、たしょう、え? となりつつも、先頭車両のいちばんまえは四人席なのだと返すと、そうなんですか、いちばんまえの車両はあんまり乗らないから、知らなかった、とのことだった)、さっきはその四人掛けの区画にじぶんしかいなかったのでかなり楽だったとか、ひとがいるとやはり緊張する感じはあって、けっこう座っているときなんかは車両のいちばん端に立ってますね、すこしでもこうひとのいないほうに、距離を取って、などとはなすと、じぶんで工夫しているわけですね、と返り、工夫などというものではなくてたんなる防衛反応か逃走本能にすぎないが、そういうことをはなしながらへらへら笑っているじぶんのその笑い方からして、たしかに全般的によくなってきている、心身の状態が底上げされていると言ってもよさそうではあった。いちおうさいごに、いままいにち一錠飲んで、電車に乗る日はもう一錠なんで、とりあえず一錠だけで乗れるようになりたいとはおもっております、と述べておくと、そうなれるとおもいますよ、と軽い返事があったが、まあこちら当人としては、それにはまだそこそこ時間がかかるかなという感触だ。帰路は(……)でスーパーに寄ったはずだが詳細をなにもおぼえていない。往路帰路の空のようすもおぼえていない。医者の待合室のようすというかそこにいるひとそれぞれの特徴というのも詳しく書けばけっこうおもしろいのだろうし、この日もそれなりに見てはいたのだけれど、そうするほどの意欲が起こらない。若い男女のカップルがいて、ふたりともけだるげなようすでラフなかっこうをしており(男性のほうはジャージかスウェットみたいな見た目だったとおもうが、呼ばれて診察室にはいっていったのはかれのほうで、女性は付き添いらしくソファに座ったまま携帯を見て待っていた)、女性はギャルになりきらないくらい、男性はチンピラでもないがすこしだけとがったような、それでいて翳のあるような、やや鬱屈しているような雰囲気で、口調もなんかそんな感じだった。あと精神科とはいえ、体育会系でもないが、会計で呼ばれて受付に行くときの返事やそぶりがはきはきとした感じの中年なんかもいる。ジョギングとか好きそうな、スポーツマン的な雰囲気がないでもなかったが、精神疾患はスポーツ好きだろうがなんだろうがかんけいなくおとずれる。


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  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし1」: 466 - 471, 472 - 483
  • 日記読み: 2021/9/20, Mon.