2022/9/25, Sun.

西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)

●60(「エロディヤード」; Ⅱ 劇; 乳母)
 貴女の寵愛の財宝が待つ神が異常に
 和し難いものであり、神自身哀願者である
 ということは、暗い恐怖心からでなければ
 想像出来ない! (……)




 いまもう日付が変わって九月二六日の零時二八分。きょうは七時のアラームで覚めてうだうだ起床し、一一時過ぎに家を発って(……)まであるいては菓子などを買ってから地元に移動して、美容室に寄って髪を切りあいさつしたあと実家に行った。アパートに帰ってきたのは六時過ぎくらい。さきほどきのう、二四日の記事を書き終えて投稿したところで、きょうのこともさっさと書いておきたかったのだが今夜はもはやその気力がない。おれももう三二だし、からだをいたわって無理をせず、夜は休んだほうがよい。ストレッチなどをきちんとなるべくまいにちやったりよくあるいたりして身をやしなわないとこの営みもつづけていけないぞ。いちおうまだ死ぬその日まで書くつもりでいる。髪型はぜんぜんたいしたものではなく、いつもどおりまわりを刈って全体的にただ短くしただけで、まあ言ってみればオールバックではない、貧弱そうな覇気のないグラハム・ボネットみたいな感じですね。顔とあたまのかたちはたぶんけっこう細長いんだよな。したはどこかのタイミングで読んだ(……)さんのブログからで、「カップ麺を食いたいから」という言い訳にはさすがに笑う。たしか去年この記述の引用元当日で読んだときもおなじように笑った気がするが。そしてもしかしたら去年のそのときにもおなじように「さすがに笑う」と言及していたかもしれない。

(……)さん、まさかの100分通話……。長すぎる。さすがに疲れた。端的にいって、めちゃくちゃ甘えたような声で、かなり媚びてきてるなという感じがあった。これは正直予想外だった。60分ほど通話したところで、さすがに夜も遅いし、一方的にあれこれしゃべりまくっている感じもしたから、ぼちぼち切り上げ時だろうと思って会話を終わらせようとしたのだが、そこで「もうちょっと……」と言われたときには、あれ? こいつ共産党から優秀教師のもとに送り出されたハニートラップか? と思ったものだ。 100分経ったところで、「カップ麺を食いたいから」という、われながらひどすぎる理由で通話をなかば力ずくで終えたのだが、そのあとも微信は届くし、「もう食べた?」と、食べ終わったら通話再開しましょうという含意のありそうなメッセージも届くし、いやいやいや、おしゃべりの相手くらいならいつでもしますとはいったものの、連日これだったらかなりきついぞと思った。


     *


 出発したのは一一時過ぎ。道に日なたもひらいているが、日陰にはいってながれも来ればばあいによっては肌寒いような、涼しげな秋の陽気だった。公園前で折れて車道に向かい、渡ると左折して、ストアやコンビニのある南へすこし。空には青さがおおく、頭上にある雲はいくらかつながっていたものの、それもそうひろくはなく、ほぼみんなちぎったような丸めたような、輪郭がほわほわした感じの独立雲としてあいだに青をそそぎながら浮かんでおり、それらに太陽がひっかけられて日が出たり出なかったりという調子のあかるい昼だった。一路西へ。ネコジャラシがまだまだ緑を濃く溜めて茂っている一角がある。踏切りをわたって病院方面、きのうも脇をあるいた空き地は昼間に見れば一面草で、コオロギ類の鳴き声がところかまわず湧いている。土地の南辺にあたるそこに沿ってすすむと、病院前の角で右折、すなわち北上したのは昨晩とちがってさいしょから敷地裏側のルートで行くためである。裏に向かうあゆみの右かたわらにも草はらがひろくひらけており、エンマコオロギがヒュルヒュルヒュルヒュル声を送ってくるそちらをみれば、ほんとうに浅い緑の全一というか全覆というか、背の高い低いや種のちがいはいくらかあるにしても、みわけられるのは近間の草くらいで、ちょっと距離がはさまればともかく緑、あざやかでもつややかでもなくこれから老いの季節をむかえるおだやかな緑のひといろだった。つきあたると左にわたって病院裏の道をふたたび西へ、昨晩も見た駅そばのマンションは昼の空気のなかで壁の茶色がよりあらわであり、窓にひかりはともっていないがベランダをかくす磨りガラスらしき腰壁が、薄青いようで、昼は昼でひかえめに装飾されている。対岸にもうけられた駐車場のいちばんてまえにあたる縁には木が何本か立っており、なかのひとつが幼児でもつかめそうなほどに垂れ下がった枝先を中心にこずえをゆらゆら風にあそばせているさわやかさをいぜん目にしたところだが、どの木も枝を切られて葉はとぼしく、無骨なすがたをさらして固く、とりわけくだんの一本は幹だけになるとこんなに太かったのかと、飾りを廃した裸形がかえってこんどは堂々と充実していた。紅のサルスベリがすでに散った自転車レーンではちいさな女児を連れた父親が、自転車の乗り方をおしえようとしている。なんとか高い声をあげながらもたもたしているその子の顔をみやりながら過ぎると、乗り出してまもなくたおれていたようだった。(……)通りにあたると横断歩道で少々待ち、涼しいとはいえこのころにはたしょうの汗も生まれていたはずだが、止まって立った背に球がころがるほどではない。渡るとそのまままっすぐ、やや繁華な区域をすすんでいく。とちゅう、右手向かいに建物が解体されたあとの、すこしふくらんだような白いフェンスに囲われた一画があり、フェンスのさきでとおくにショベルカーの黄色がのぞいているけれど地面がどうなっているのかは見えず、敷地のむこうにはマンションがいくつか接して立っているので、あそこのひとは、おそらくは瓦礫が散乱しているだろう荒涼とした図を俯瞰一望できるだろうなとおもった。左は左でこちらも白さに包囲されながら高いビルを建設している。駅前まで来ると駅舎にあがる階段のてまえでちいさな横断歩道がある。そこに止まればとおくの空の水色などみているうちにこちらにもあちらにも続々とひとがあつまってきて、みな信号が変わるのを待つのだが、そんななかでひとりだけ、白い日傘を差した女性が、信号を意に介さず道に踏み出し、まったくいそぐではなくゆったりとした、ほとんど優雅なような速度と足取りで、両岸の人群れのあいだを先んじてしずかに渡っていった。だれもがかのじょに注目していたわけではないが、まったく単独の位置に立ったそのすがたは目には立っただろうし、すくなくともこちらの目は惹いた。まもなく信号も変わってみなわたりだしたが、行きつつ見上げれば駅舎につづく階段をすでに中途まであがった女性の足取りはあくまでゆるやかで、記憶があいまいだがうえは日傘とおなじで白の装い、したが紺色のボトムスではなかったかとおもう。ちいさなバッグを身にたずさえていた。こちらは階段にはいらず、小便をしたかったので駅舎下にある駐輪スペースのまえを沿うて公衆トイレに行き、用を足すと駅舎入口部分に横からあがる、左右端をエスカレーターに縁取られたひろい階段からなかにはいった。だれもがエスカレーターをえらび、ながめの階段をのぼる者などひとりもいないが、こちらがそのひとりになってやる。そうしてそのままひとのながれのあいだを抜けて(……)へ。はいると手を消毒し、フロアをすすんで「(……)」。美容室のふたりにはよく買っているクッキー詰め合わせのプティガトーと、タカノフルーツパーラーの粒状チョコレートがいっぱいはいったやつでよかろうと。実家にはなんか三つ入りの濃厚ショコラみたいなやつと、たまには菓子ではなくてなんか佃煮とかそういうのでも買っていくかとおもい、(……)家にもこのあいだあげた味噌のこんどは赤だしではなくて「あさげ」という種類の品と、あとアサリの生姜煮みたいなやつをえらんだ。籠に入れたのをレジに持っていき、会計。手提げを三つ入れてもらう。そうして店を出るとレシートとか財布とかをかたづけ、紙袋を提げてフロアのとちゅうから改札内へ。ホームに下りて(……)行きに乗った。FISHMANSを聞いたはず。
 電車内のことはとくべつおぼえていない。だいたい隅のほうに立っていた。(……)に着くと(……)行きがすでに来ていたので乗り、席でしばらく瞑目したのだったか、それとも携帯で(……)さんのブログでもみたのだったか。すこし待って発車し、実家の最寄りに降りると駅を、ふだんは南側に出るがたまには逆から行くかと北側に抜けて(通路のとちゅうにハイキングにでも来たらしき若い夫婦と子どもふたりがいる)、線路沿いをあるいていった。おどろくべきことにツクツクホウシがまだ一匹、林のなかにのこっている。じつにおちつく空気だった。緑の濃さをまだまだのこした丘がすぐそこに見え、林も木々も同様、そしてなにしろひとがおらず、正確には家の縁側でなにかいじっている年寄りがいたがそれくらいで、しずけさのひろい大気のなかに虫の音やカラスなんかの声があきらかで、ほかに気配もたいした音もない。おちつきは場所のおだやかさへの安逸でもあろうが、なじみの土地に来た安堵感もまたあったのだろうか。踏切りを越えて街道沿いに出ると美容室「(……)」はすぐそこ、はいってあいさつすると(……)さんのすがたはなく、(……)さんひとりである。荷物を置いて洗髪台へ。その後切ってもらうあいだ、ようやく実家を出て(……)にいるとか、とくに不満なくやっているとか、とはいえ環境が変わってストレスがあったらしくパニック障害がすこし再発したとか、そういったことをはなす。次回はあちらであたらしい店をみつけようとおもうが、ずいぶんながいあいだお世話になったのでこれはきちんとあいさつをしておかねばならんと、それできょうは土産もあるので、と意図を告げた。散髪中の会話にたしょうの印象もあった気がするのだがよくおもいだせないので割愛し、五か月分だか伸びた髪をばっさばっさ落としてすっきりしたあとは、会計を済ませてから手提げ袋にクッキーとチョコレートを入れて、礼を言いながら渡した。(……)さんはもちろん、そんなのいいのにわざわざ、ありがとうございますーという感じの反応で、いくらか身をただしたようにして受け取ってみせた。(……)さんはきょうはもう上がったらしいが、かのじょの分もあるのでと言ってもう一袋わたし、こんど来たときにあげてくださいと言っておく。会計のさいにそういえば、じゃあカードをここまでで回収していいかなとなり、引き換え品としてシャンプーの詰替パックをもらった。nano suppli Green appleというやつ。ありがたい。シャンプーにこだわりもないので、いまつかっているやつがなくなったら、ボトルはちがうが詰め替えてつかおう。
 それで退店。陽射しがまぶしい街道を渡り、木の間の坂をおりて実家へ。父親が家の南側にいるようだった。玄関があいているのではいっていくと、母親は居間のソファでうとうとしていたが、こちらの気配に正気づいておかえりというので、どうもどうも、と受ける。土産を渡し、飯をもらうことに。焼きそばがあると。ケンタッキーフライドチキンもあるというので食いてえなとおもい、しかし胃をおもんぱかっていちばんちいさなやつにして、米も少量にする。その他味噌汁。食っているあいだはこのまえも聞いたが、母親が行っている資格講座のはなしなどを聞いたはず。むずかしいというので、そりゃ勉強するなんて高校以来でしょう、と受ける。母親ははっきりいって、学力的には馬鹿の部類といってまちがいないのだが、しかし六〇を超えてあらたにものを学ぼう、ここからあたらしいことを知ってやってみようという意欲があるというのはうたがいようもなくすばらしいことで、なかなかだれにもできることではないので、その点は帰りの車のなかで、すごいじゃない、たいしたもんだと言っておいた。飯を食ったあとはみずから食器を洗い、アイロン掛けを待っているシャツやハンカチなども居間の片隅に置いてあったので、せっかく来たしこれもやってやろうと家事にはたらく。そのあとは自室におりて部屋のかたづけも。机の引き出しのなかに幼少時から溜まって放置されているこまかく雑多なものたちを主に始末し、燃える燃えないプラスチックにわけたり、いらない用紙書類として溜めておいたものをシュレッダーするものしないものに分けたりなど。これで四つある机の引き出しのうち、もっとも幅広のひとつと、右手に三つかさなっているうちのいちばんうえの中身はかたづけることができた。二番目三番目はまたこんど。母親もとちゅうで部屋に来て、お父さんが死んだあとこの家がのこったらかたづけどうしようっておもうよ、とおなじみの嘆きをくりかえすので、だからいまこうしてやってんじゃないかと笑う。かたづけに切りをつけたあとは持っていく本を選別。ちょうど土産を買ってきた紙袋があったのでそれに入れていけばよいというわけで、机のうえに乗った棚の右側に開口スペースがあるそこに積まれていた単行本を主に持っていくことに。いちおう持ってきたやつを記しておくと、城戸朱理訳編『エズラ・パウンド長詩集成』、エリザベス・グロス『カオス・領土・芸術 ドゥルーズと大地のフレーミング』、ガタリの『分子革命』、菅野昭正『セイレーンの歌』、河出書房の『古井由吉 文学の奇蹟』、ガタリの『カオスモーズ』、ブレンダン・ウィルソン『自分で考えてみる哲学』、あと『現代思想』のBLACK LIVES MATTER特集と、『ユリイカ』の蓮實重彦特集。まあ持ってきたところで置く場所もあまりないし、一向に読めもしないのだけれど。
 母親が焼きそばとか持ってく? というのでいろいろもらっていくことに。焼きそばにチキン、カボチャの煮物、あと母親もプティガトーを食べたくて買ったというのでそれを少々分けてもらったのと、たぶん自家製のゴーヤ。五時ごろになるとそれらも袋にまとめてリュックサックにおさめ、荷物を整理してそろそろ行くかというころあいだったのだが、どうも疲れがあってねむかったのでソファにすこしだけ身をあずけた。それで出発。母親が(……)駅まで送っていってくれる。父親はぜんぜんなかにはいってこなかったので発つまえに顔をあわせておこうと、玄関を出ると家の南側へ。自作の木製テーブルが設置された部分、やはり木板でできているその床をブラシでゴシゴシこすっていた。ちかづいていって手をあげ、もう行くよと告げる。いろいろ買ってきてくれたみたいでありがとうねというので、味噌を買ってきたから料理につかってくれと返し(さいきんは母親がいそがしくしているから父親が飯を用意することもわりと多いらしく、母親にいわせれば「主夫」をやってくれているとのことだった)、体調はまあぼちぼちという感じで、どうもやはり胃がなんか連動しているようでよくないのだが、まあなんとかやっていると言っておく。それで別れて小坂をのぼり、家のまえに出て母親の車に同乗。駅まで行くあいだはまたおなじみの繰り言で、父親について、家事をやってくれるのはありがたいがなんではたらかないのかっておもう、お金がどんどんなくなっちゃうじゃん、山梨行けばガソリン代とかだってつかうし、あとなんかいろいろ道具とかも買ってさ、やっぱりにんげん、はたらけるうちははたらいてお金取ってこないと、いまいそがしいと、そうすると休みの日がほんとになんか休みだーっていう感じでありがたい、休みのありがたさがわかるね、みたいなことを母親はつらつらしゃべる。まあ典型的な、はたらかざるもの食うべからずの価値観と言ってよいとおもわれ、こちらじしんはまいにち一生休みであるべきだとおもっているにんげんだからもちろんそのような価値観に同意しないが、いぜんはまいにちのようにこれを聞かされて苛立ちの種となり、ときにはその苛立ちから無駄だと知りながらも反論を口にしてしまったりしていたけれど、こうしてたまに聞かされるくらいならまあどうということもない。ところでこの日帰り道か帰ったあとにおもったのだが、母親の嘆きや不安の対象というのはあくまで現世的なことがらなのだ。つまり、かのじょはじぶんの死にたいする不安を口にしたことはいままでいちどもない。母親が不安におもうのはあくまでもこれからの、将来のじぶんの生にまつわることがらだ。母親の繰り言の主題としてここ数年つねに二大巨頭の地位をえているのは、まずひとつ父親に再就職してほしいということ、もうひとつが、父親が死んだあとにのこされた家のかたづけや処理をどうすればいいのかわからないということである。ひとつめの点は、父親にはたらいてほしいというのは、家にいられると鬱陶しいとか、じぶんの夫が(定年したとはいえまだはたらける年齢なのに)はたらいていないのは世間的に恥ずかしいとか、にんげんはやはり労働をして社会とかかわるべきでそうしてこそ生き生きできるのにいまの父親はそれがないからいかにもしょぼくれたようで髭も剃っていないし、もうほとんど「終わったひと」(これは内館牧子原作の映画で、舘ひろしがその「終わったひと」の立場を演じているらしい)みたいになってしまっているから、このまま終わらずにまだまだもっとかがやいてほしいみたいな、こちらからすればアホかみたいな、じぶんの勝手な理想を他人に押しつけるような傲慢な観念がいくつかあるのだとおもうのだけれど(こちらにも理解でき、同意されるのはさいしょの「家にいられると鬱陶しい」だけで、ほんとうのところこれが本質で、その他の理屈はそれをはっきり言わないためにあとづけで見出された文化的虚飾だと穿って見ているのだけれど、この日帰ったときには、やっぱり家にずっといられて年中顔を合わせてると気が詰まるっていうか、おたがいに、だからそれもあって資格講座に行くようになったんだよね、ということを言っており、それをはっきり言うようになっただけよかったのではないか)、それにくわえてやはりたんじゅんに金銭の問題、はたらかないでいると金が減っていくばかりだし、まだはたらいておかないと今後の生活でお金が足りなくなるのではという不安があるのだとおもう。だからそれは母親の老後の生活にまつわる現世的な不安である。ふたつめの点も同様で、なぜかわからないが母親のなかでは父親のほうがさきに死に、じぶんがもろもろの後片付けをすることになるというのはもうほぼ確定された未来としてなかば事実化されているようなのだ。かのじょは、じぶんがさきに死ぬかもしれないということや、じぶんが死ぬということそれじたいを不安におもっているようにはまったく見えない。そういう思念がふとよぎる瞬間がないようにすらみえる。たぶん、ほんとうにそうなのではないか。母親だってこのじぶんがあと二十年か三十年かわからないが、そのうちに死ぬということはもちろん知っており理解しているはずだけれど、母親のあたまにその事実がなんらかのかたちで浮かぶことはないようにみえるし、よしんば浮かんだとしても一定以上とどまることは絶無におもえる。かのじょはじぶんの死にたいして不安をおぼえていない。かのじょがおぼえる不安はすべて、じぶんの生にたいするものである。そういう、思考において抽象的領域や超越との関係が形成されないという点で、母親はじつにすぐれた意味で世俗的なにんげんなのだとおもう。ハイデガーならおそらくは、これこそまさしく頽落した非本来的な人間のありかただと言ったのではないか。母親が資格講座に精を出したりしているのも、おのれの死と存在の本来性に直面せず、それを忘却せんがための気晴らしだということになる。この世俗性はこちらにとってひとつの、確固とした他者だ。身近に接するにんげんのなかで、こちらにとっていちばん他者度が高いのはおのが母親である。だからかのじょの思考傾向やメンタリティを観察したり分析したり理解したりするのはけっこうおもしろい。まえにも記したが、一種の文化人類学的な興味がある。となるとそこに、母親というひとりの身近な他者を書くネタにして、自己の知的優位をうたがわない立場から分析したり解剖したりすることの道徳性もまた、ひとつの問題としてちょっと生じるわけだが。
 それで駅まで送ってもらうと礼を言って別れ、電車へ。この日ののこりのことはあと特段におぼえていない。もらってきた焼きそばを食ったり、書抜きをしたり日記を書いたりという感じだった。


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  • 「ことば」: 11 - 15
  • 「読みかえし1」: 585 - 600, 601 - 606


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金井美恵子「いつの間にか忘れられてしまうこと③」(2021/6/10)(https://www.webchikuma.jp/articles/-/2426(https://www.webchikuma.jp/articles/-/2426))

 ところで、少し横道に逸れるのだが、園児というものは、スモックと呼ばれる木綿のゆったりしたシャツのようなものに、白い丸襟、、のついた制服を着せられている。何年か前までは男女で色分けされていたような気がするが、園児たちより、子どもを送り迎えする母親たちが騒々しい園の門前を見ていると、現在は男女ではなく冬用のネイビー、夏用の水色に分けられている園もあるようだが、変わっていないのはスモックのシルエットと白い丸襟である。白いステンカラーやシャツ襟ではなく、白い丸襟というものは、姉に言わせると、男は卒園後一生身につけることのないアイテムではないかと言うのだ。60年代後半のピーコック革命に始まった、サイケデリックと混じり合うことになる男性ファッションには、白い大きなウサギの耳のように垂れた先のほうが丸い襟の派手な色彩のシャツがあったし、今でも襟先が丸くカットされた柄物のシャツを着るタイプの男はいるけれど、それらにはネクタイとスーツがセットされていて、あの形だけは無性的な園児用スモックとは違うし、あれを2年だかの間着せられたのが、一種のトラウマになっている男というのがいるのではないか。タモリは幼稚園でスモックを着せられ、さらに幼稚な恥ずかしい歌に耐えていたのだろうか、と言うのである。

     *

 朝日新聞の「介護とわたしたち――2025年への課題」という特集記事(’20年12月13日)には、「認知症の人の数 [、、、] (患者 [、、] ではなく、人 [、] と書かれていることに注意。傍点は引用者による)が600万人以上と推計される中、国が認知症施策推進大綱で掲げた柱の一つが「共生」だ」が「一方で、岩盤のような偏見は今も社会のあちこちで見え隠れする」と記事を書きはじめる。「認知症の人と家族の会」の家族会員の一人は、新型コロナウイルス感染症への偏見は認知症とも重なる課題だと言う。「どちらも、誰もがなる可能性があり、決して本人のせいではない。否定的に受け止めるのではなく、なっても安心して暮らせる方向につなげることが大事ではないか」
 そのとおりではあるけれど、それはわざわざ病気を選ばずに言えることのはずだ。どちらも誰もがなる可能性があり、決して本人のせいではない [、、、、、、、、、、、、] 病気がある一方で、たとえば生活習慣病 [、、、、、] と、その原因は個人の自己責任の範疇にあると、執拗と言おうか過剰に暗示 [、、] されたり明示 [、、] される病気(かつて野坂昭如は、この病名について、全部お前の悪しきデタラメな生活習慣のせいだと言われているようだと書いていた)があることを認めた上での、本人のせいではなしに罹患したにもかかわらず偏見にさらされる病(あえて、やまい [、、、] 、とやまと言葉がおどろおどろしい印象の言葉を使うことにしよう)があり、それはどうやら、1946年に世界保健機関(WHO)が定義した「健康」の概念に発しているらしい。たとえば、≪健康優良児≫を表彰する制度があり、子どもの頃、周囲にそういう子どもがいたかどうか記憶にはないのだが成人した後年、元健康優良児だったという人物は見たことがある。それはそれとして、生活習慣病という言葉が定着する以前に、老人たちが医療費が無料であるのをいいことに [、、、、、] 、必要のない薬品をもらったり、仲間同士で病院にたむろして時間をつぶしていると批難する風潮があり、そうした事態から脱却するための「国民健康づくり対策」が当時の厚生省から提唱されたのが78年で、「自分の健康は自分で守る」自覚が重要とされたそうだが、(’20年10月10日朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄)、こちらとしては年齢のせいもあって、まるで馬耳東風だったが、ふと思い出して『昭和家庭史年表』を開くと、77年のデータの一つとして「良い医師、悪い医師」のアンケート調査(中川米造「よい医師像」『医学教育』第8巻2号)が載っていて、病気にかかれば、私たちは、とりあえず医師と出会うことになるのだが、そのアンケートの翌年に厚生省は「自分の健康は自分で守る」自覚が重要だと言っているものの、認知症とコロナ(知的人物はこうした曖昧な通称 [、、] を使わず、COVID-19とちゃんと病名を書く、と、いとうせいこうはパオロ・ジョルダーノのコロナ本の書評の中で断言していたが)は、どちらも誰もがなる可能性のある、決して本人のせいではない病気なのだ、という言説が存在する。それはどこか、なんの罪も科もない者に降り掛かった災厄を嘆く言葉に似ていて、それでは罪や科(とが)のある者に同じ災厄はふりかかっていいのか、といういかにも幼稚な疑問を呼び起こすのだ。