2022/9/27, Tue.

 それでカフカの「本当の意志」はどうなのか? フェリーツェにあてた終りごろの手紙(一九一七年一〇月一日)で、彼は自分のなかに戦っている二つの存在について語っている。この二つのものの戦いが彼なのであり [﹅5] 、その戦いのなかで自分は滅びるだろう。そして、彼の胸のなかで戦う心の数については、いわば自分の都合のいいように、数えちがいをするけれども(そこには多くの戦士がおり、めいめいが戦っているのだから)、作品が問題になると突然始まるのは、いつも二つのものの決闘である。作品については、敵対者たちは有名な二つの役割、ファウストメフィストフェレスの役を、カフカ晩年の疲れた調子ではあるが、たがいに分担しているようだ。いったい作品からなにが読みとれるのか? と一方がきき、永遠に空虚なものこそむしろ望ましいという。すると相手は、地上の生活の痕跡が、もしかして永遠に消えることがないとすれば、それは作品のおかげではないかと、ほのかな希望をこめた疑いをいだく。すると前者が、それにしても、いったいそれがなにになるだろうとたずねる。「でも、かまわないさ!」というのが、カフカの時代的言語的な仲間たちの共通用語だった。しかしカフカは、この無関心の誘惑には、抵抗するほかはなかった。徒労の虚無への傾向と、時間が成就されることへの欲求とは、おなじように情熱的であったから、彼の芸術と生活のどんな瞬間にも、そうした懐疑をいだくことはできなかった。そして芸術と生活のあいだには、この場合ひとつの「と」が無意味な役目を果し、言語上やむをえず連結しているが、あとでわれわれが見るように、その連結は実際のところ同一をも和解しえない対立をも、おなじように意味している。こうしてカフカが、繰返し新たに、調和できない可能性の前に――たとえば、詩人の名誉か忘却の救いか、結婚か禁欲か――立ったとすれば、それはただそのたびに、両者の実現が彼に、ほかならぬ彼に課せられているように思われたからだ。だから彼は、しばしばあれほど烈しくまた集中的に動揺したので、その動揺は遠くからみると、ほとんど確乎としてみえた。そのようなパラドックスのなかに、カフカの風変りな天才は根ざしており、だからこそ、その天才を最初にみとめたマックス・ブロートは、カフカの意志の原文通りに行動しなかったのだ。カフカの意志の? しかし、カフカの意志は原文をもたなかったし、彼の原文は意志をもたなかった。
 彼以前にハムレットが似た状況にあった。だからハムレットの「自己断罪」はおなじ根源から、つまり人間の内なる心が、外的生活からますます離れる方向へ動くよう、始(end11)めからきめられている場合に生じる。フォーティンブラスはなぜ「ハムレットがすぐれた王者の実を示した」と信じることができたのか、とカフカは一九一五年九月末の日記で問う。内部と外部の一致の上にこそ成りたつ「真正な生活」が幻想となり、ためらいが唯一つ「ほんもの」の行動となる場合、王者の実とは? 精神と環境のこの不均衡、ヘーゲルが世界精神の現在の歴史的状況自体に責任を負わせた、世界からの人間の「疎外」を自分自身の責任として、演技とか、いや、虚偽とか欺瞞とか自己非難するのは、倫理的に最も敏感な人々である。その場合、すべての外面的なしるしは――両親の家にたいする拒否であれ、煩わしい職業の放棄であれ、または結婚にふみ切ったり、ただ単に書いた言葉でさえ――内的状況のひどく誤まった表示のようにみえる。カフカが一九一七年一〇月一日の恐しい衝撃的な手紙――自分の病気を「外的」兆候だけでみれば結核だが、「内的」には彼が自ら人生を獲得しようとつとめる武器であるかのように述べ、だから自分はまた「もう決して健康にならないでしょう」と書いている手紙――を婚約者にあてて書く前、つまり彼が「外的な」肺結核すら「うその」しるしと見なすこの手紙を書く前に、彼女はカフカが自分にたいして、いつも誠実であったかどうか、彼にたずねたにちがいない。上に述べたように、彼自身によって避けがたいと見ぬかれている困った状況すら、自分の倫理的過失のせいにする人間の道徳的ヒポコンデリーでもって、彼はつぎのように返答する。自分は「大変少し」しか嘘をつかなかった、ただし、自分には「そもそも〈大変少しの〉嘘というものが存在しうるとしての話ですが。ぼくは嘘つきの人間です、平衡をそれ以外に保ちようがないのです、ぼくの小舟は大変壊れ易い。」 嘘なしには保てない平衡とは、きっと内的ならびに外的条件のあいだの平衡のことだろうし、小舟の壊れやすさは、この舟が、意地の悪いことにカフカがなかで動くようきめられている世界の自然法則にしたがっては、作られていないことから明らかとなる。嘘についてのこの告白は、その「外的な」単純さで「偽って」いるが、そのあとにカフカ独特の複雑化がつづき、真実に近づく。しかし、もうとても言い表わせぬことを、省略符号で表現するようなものである。そうだ、自分はだましたい、「ただし欺瞞なしに」とカフカは書いている。
 ハムレットの「偽装」が、内的人間が外部で行動するやいなや別人となるように強いられるある事情の、舞台向きの暗号にすぎないように、カフカの「欺瞞なしにだますこと」とは、内部と外部のあいだにひらく深淵のふちで支払われる、正直な橋通行税にすぎない。「欺瞞なしにだます」――それは、三年以上も前、一九一四年七月二三日の日記に、ベルリンで最初の婚約解消をしたときの家族の光景を(end12)描いて、「まったく潔白でありながら悪魔的」と自分を呼んだ言葉の、すこしおだやかな言い直しである。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、11~13; エーリヒ・ヘラー「まえがき」)




 七時ごろにいちど覚めたようなおぼえもあるが、たしかにおぼえているのは八時半のほうで、そのとき扉をトントントン、トントントン、と六回たたく音が聞こえたのだ。その音とともに意識がもどったものの、起き抜けであたまもからだもはっきりしていないし、布団から出るのもめんどうくさいからうごかずにいたところ、部屋のそとに気配や声がかんじられないから、こちらの部屋のドアだったのかべつの部屋だったのか、あるいはそもそも扉をたたく音ではなかったのか、よくわからなかった。とはいえ音のちかさおおきさからするとこちらの部屋だったようにおもうのだが。時刻をみると八時半だったのだけれど、その時間からしてゴミ出しにかんすることかな、昨晩出したプラスチックゴミに不手際があったとかかな、とおもったものの、真相は知れない。いまこれを書いているのは午後三時直前だが、気になったので部屋を出てみたところ、扉のまえや通路にはなにも置かれたり通知があったりはしない、階段を下りたところの郵便受けも同様、建物を出て脇のゴミ捨て場をみてみるとごわごわしたネットのしたに袋のもりあがりがみえて、じぶんが出したやつかとおもってみてみればそうではなく、黄色いゴミの袋、すなわち燃やすゴミである。燃やすゴミの回収は月曜日なので一日遅い。だから朝のノックは、ゴミ業者のひとが一日まちがえて出されているこのゴミの主をさがして各戸をまわっていたということではないか。インターフォンを鳴らさなかったのがよくわからないが。
 ノックの音で目を覚ましたとき、からだがけっこう緊張しており、動悸もすこし高まっていて、きのう以来の腹がしくしくする状態がまだつづいていることが感じられた。あおむけの状態で静止してからだを落ち着けたり、手を組んで前に伸ばしたり、しくしくするから刺激しないほうがよいのかもしれないがいちおう腹をちょっと揉んでおいたり、胎児のポーズを取ったりとからだをすこしずつセットアップしていき、九時半ごろに身を起こした。両脚をちょっと揉んで、カーテンをあける。きょうも空は青く、濃く真っ青というよりも雲の粒も混ぜこまれているのかすこしやわらかな質感で、ふつうの洗濯物もすくないしシーツを洗うチャンスなのではとおもいながら面倒がってやらずにいたところ、一時か二時くらいから曇ってきたので、洗ってもけっきょくあまり乾かなかっただろう。水を飲みつつコンピューターをつけてNotionを準備。それから洗面所に行って顔を洗ったり用を足したりし、出るとうがいも。腹がやはりしくしくと痛む。腹のなかの内壁が一部削れているような感じ。それに応じて喉もとに痰があがってくるような、押し出すような圧迫感もつねに少々ある。寝床に帰ると日記の読みかえしをサボってしばらくウェブを閲覧し、一〇時半ごろにまた起き上がると瞑想をした。瞑想はそんなにわるくない。やはりからだを活性化して活力をこめるというよりは、非能動性のなかで心身を調律し、おちついたしずかな調和を得るとともにちからを抜くことで、存在することじたいを楽にしていったほうがよさそうだ。そうでないとどうやら営みも生も健全につづかない。
 そのあとちょっと体操するがこれも瞑想方式でしずかにやる。呼吸を操作しないということがいちばん肝要な点ではないかという気がする。見るだけでふれないということ。食事は腹がよくないので、先日実家からもらってきたキュウリに味噌をつけて食うのと、あと豆腐、それだけではしかしなんなのでタマネギの味噌汁をつくることにした。それで鍋に水を入れてコンロに置き、火にかけるとあご出汁と鰹節を振り入れる。タマネギを切ると投入して熱しておき、そのあいだにキュウリを切って大皿に乗せ、ボトル型の味噌をかけて一品、豆腐は椀に入れたうえに鰹節とのこりほんのわずかだった麺つゆ、それだけでは足りないので醤油もかけて、生姜を乗せた。火をやや弱めてタマネギをじっくり煮ているあいだにそれを食べ、ころあいのところで灰汁を取ったり味噌を入れたり。味噌汁も一杯食した。腹にものがはいったほうがかえってしくしくする感じがすこしなくなるような気がする。内壁が一部えぐれたような微妙な痛みと喉もとの引っかかりが生じるのは、空腹時やそれにちかいときのほうが大きいようだ。ヤクを一錠飲んでおき、洗い物をすませると、食後はウェブをみつつしばらく休んだ。一時ごろから音楽を聞く。碧海祐人 [おおみまさと] の『逃避行の窓』をまた。一曲目の”Tragedy (intro)”だけ、サビにあたる部分でのファルセットの歌声がちょっとだけ弱い気がするというか、ほんのすこしだけフラットしているような気がするのだが。しかしそれがこのひとや音楽の雰囲気に合っていないかといえばそうは言えず、アンニュイな感じを微妙にかもしていると取れなくもない。ほかの曲で気にならないのはコーラスの添えられかたとか、歌い方じたいとか、ボーカル音の質感や配置によるのだろう。一曲目いがいのそういうサビのファルセットによる長音は、決してふくよかではないとしてもかんぜんにペラペラになることもなく、軽やかに気体的でさらさらと伸びるその質感は、先日も書いたけれど、ひとつのスタイルもしくはニュアンスにいたっているような気がする。たぶんコーラスのつけかたも大きいのではないかとおもうが。このときは六曲目の”Atyanta”まで聞いて、さいごの七曲目だけなぜかのこした。六曲目では後半の、ちょっと雰囲気を変えて歌いかけるように、転調もはさみながらゆったりと歌うあたりのながれが気になっている。このアルバムにかんして、これはこういう音楽だなとか、じぶんに引っかかってくる箇所とかはだいたいのところつかめてきており、だから理解や把握がそこそこできてしまっている(というつもりになっている)と言えばそうなのだが(そしてそれは決してあまり良いことではないのだが)、それはそれとしてまだもう何回かは聞いてみたいとおもっている。『夜光雲』のほうも聞き返したい。
 そのあとBill Evans Trioを”All of You”だけちょっと聞くかというわけでテイク1のみ聞き、それで一時半くらいだった。そのあとどうしたんだったかな。またウェブをみたり、ストレッチをしたり、瞑想をしたりというのをすこしずつやった。またもうひとつ、国民健康保険料を払わなければということをおもいだして、先日送られてきた封筒を取り、クレジットカードで払えるということをもう知っていたので、その旨記した紙を出してF-REGIというくだんのサービスにアクセスした。クレジットカードと納付書を用意して手続き。国民健康保険料は第3期から第9期までの七つ分で九八〇〇円、ひと月一四〇〇円で、これで令和五年の三月三一日期限の分まで払えるわけだが、所得によってたしょう変動するにしても一年でおおよそその倍、二万円くらいだとすれば、そのくらいならなんとかやっていけそうだ。F-REGIでもう第9期まで一気に払っておいた。納付書情報を入力する欄が最大で四つまでしかなく、二回やらなければならなかったが。なかなか体調が万全にならずまた収入が減りそうな見込みだが、そろそろひと月の家計を、口座振替とかクレジットカード分とかも合わせてきっちり正確に算出し、平均的な支出をもとめてどのくらいの金があればやっていけるのかをたしかにしておかなければならない。ならないのだが、めんどうくさくてやる気にならない。
 三時前くらいから書き出して、ここまで記すと四時半直前。きょうはカフカ書簡を図書館に返さなければならない日で、それでおもいだしたが音楽を聞いたあとはこの全集一〇巻の書抜きもしばらくやったのだ。そのとき、Amazon Musicで碧海祐人を検索したさいに出てきた『S.W.I.M. #1 -polywaves-』というコンピレーションをBGMにながした。メロウな曲がおおくてどれもわるくないのだけれど、わるくない止まりという感じで、またややイケイケなやつもはいっていてそれはあまり惹かれない。ぜんぶながしたわけではないが、強いていえば二曲目のYOHLU “&I”というやつがよかった。六曲目のasmi “anpan”というのは、DAOKO ”水星”とか、『化物語』のキャラクターソングのひとつである”恋愛サーキュレーション”とかをちょっとおもいださせる感じ。碧海祐人は最終の一七曲目に”夕凪、慕情”がおさめられているのだけれど、このならびだとなんかちょっと毛色違くない? という気もする。そのまえのUNERI “ちょっといいこと”というのもながしてみたところ、ギターの爪弾きからはじまっているこれはけっこうよかった。このひとだけはその作をより追ってみたいとおもったが、検索しても情報はない。Amazon Musicには『Jelly』というアルバムがあったのでこれはそのうち聞いてみるつもり。カフカ書簡はきょうが返却日で、あるいていこうとおもっていたのだけれど、なんかちょっとめんどうくさくなってきている。腹もしくしくするし。むしろこういうときこそあるくべきだともおもうのだが、一日くらい過ぎてもたいした罪ではないだろうしあした行こうかというなまけごころが生じてきている。


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 いま八時前。食事を取りつつ(……)さんのブログ。九月二三日分から。飯には先日実家からもらってきたゴーヤをつかおうとおもって、それとタマネギとハムを炒めて、その他豆腐と、あと昼間つくったタマネギの味噌汁を食おうとおもったのだが、腹の感じがやはりへんなので味噌汁は食べられなかった。豆腐とゴーヤ炒めを食うので精一杯。とはいえ、気持ち悪いという感覚はない。吐き気ではないのだが、腹がはいってくるものをうまく受けつけずに圧迫する、という感じ。揉むとちょっと楽になるような気もする。あまり刺激しすぎてもまずいだろうが。ブログではしたの樫村愛子の記述がやはりわかりやすい。あまりにも明快で、バランスの良い要約得意すぎでしょ、と。

 精神分析が基本的に確認するところでは、文化的な価値や理想は、幻想とよばれる、主体が自らを支えるための本源的な作用の、一形態である。幻想とは、主体が自己、あるいは自己と世界の関係についてもつ、一つの固定した「良い」イマージュ(像)であり、また、そのイマージュを維持し続ける作用である。このイマージュは、主に言語を通じて形成される自己や世界についての現実認識とは別の場に起源をもち、過酷な現実認識から主体を防衛する。つまり文化的な価値や理想は、本質的に意識や言語とは別の領野、すなわち主体の無意識的・原始的な部分に根ざしており、単にイデオロギー的・社会的なものではない。
 幻想を基礎づける、この無意識的な領野は、フロイト以来、基本的に性的な領野として把握されてきた。ただし精神分析で「性的」というときには、身体諸器官を媒介とした、母との原初的=性的な対象関係も重要な一部である。簡単にいえば、幻想とは、母との密着した関係に支えられ、そこでの充足を再現しようとするような運動だといえるだろう。例えば、人が何かを考え、それを語るとき、厳密に意味や了解可能性の観点から見れば、相手にそれが伝わっているかどうかは確かでないにも関わらず、常に相手の〈好意〉を無意識で前提とし、伝わったつもりになっている。これがまさに「幻想」である。そして一人で考え、行動する際にも、人は必ず、それを認知し、行為を持ち、迎え入れるような抽象的な他者(のようなもの)を想定している。この他者—幻想の根底にあるのが、母との原初的関係であり、それは意識や意味以前の身体的—性的な関係で、幻想はその関係を再現し続けることによって、主体の意識と存在を「裏側から」ずっと支える。そしてこの幻想を、明示的な意味—意識の領野に翻訳したものが、狭義の文化的な価値や理想である。
 したがって、このような精神分析的知見からすれば、例えば、幻想を単に蒙昧なものとする啓蒙主義イデオロギーは、幻想を支える意識以前の力動を看過するゆえに、全く非科学的である。幻想は、啓蒙という意識の水準では解体できないし、そもそも啓蒙とは、意識の水準にすべてを包摂しようとする抑圧の作用であり、それ自体一つの幻想である。他方、すべての知—科学を幻想とみなすようなポストモダンイデオロギーも、同様に批判されるだろう。すなわち意識—言説と無意識の力動の関係を無視する限りで、このイデオロギー近代主義の一類型である。ただし啓蒙主義が性的力動をいわば神経症的に抑圧し、その結果、無意識の力動は科学や政治的改革に向かう欲望=力として、意識の中に症候的に再現されるのに対し、ポストモダンでは性的力動はより根底的に、いわば分裂病的に意識から排除される。そのため意識は、科学的・政治的認識を支える外部世界から完全に切断され、ある種の言説(意識)万能論によって科学さえも不可能となる。これは幻想の最も高度な自己完結的状態である。
樫村愛子ラカン社会学入門』より「性的他者とは何か」p.45-47)

 二四日付冒頭のしたのはなしもおもしろい。

 こうして我々は、主体と〈法〉の関係の核心部にたどり着く。なぜ至上命令を「真実を言いなさい!」という命令に還元してはいけないのか? なぜ〈法〉を、すでに確立された命令の集合体と見なしてはいけないのか? それは、実際に倫理が問われるような諸状況の特殊性を無視することになるから——すべての状況は互いに異なるものであり、我々が考慮しなくてはならない要素は毎回変わるから——ではない。例えば、抜群に性能のいいコンピューターを使って、倫理が問われるすべての状況を疑似体験することができたとしても、だからと言って我々は、それぞれの状況においてなされるべき倫理的判断のリストを作れるわけではない。道徳律における最大の問題は、これが「適用」されるべき状況の多様性ではなく、まさにこの普遍的実体たる〈法〉の確立に際して、主体がどのような位置を占めているか、どのような役割を果たしているか、ということである。責任や自由を肩がわりする義務のリストを作っても、主体を倫理の「構造」から抹消することはできない。それは、倫理的諸状況の個別性・特殊性・特定性がそのようなリストの手に負えないからではなく、自ら義務だと見なしたもののみが主体にとっての普遍的義務となるからである。倫理の核心にあるのは、倫理的問題を引き起こす状況の多様性、玉虫模様などではなく、主体による〈法〉という普遍的実体の確立、何らかの義務の普遍化である。倫理的主体は、普遍的〈法〉の執行人ではない。主体は、普遍的〈法〉の名において、あるいはその是認を受けて行為するわけではない——もしそうであったならば、主体は、誰にでもかわりが務まるような倫理の一「要素」になってしまう。主体は普遍的〈法〉の執行人ではなく、その創造者なのである。もちろん我々は、〈法〉という普遍的実体が常に「主観的」である——すなわち不公平で選択的で偏見に満ちている——と言っているわけではない。ここで問われているのは、普遍的〈法〉の定義ではなく、むしろ主体の定義である。主体とは、普遍的実体が確立されるまさにその瞬間、〈法〉が決定され、形成されるその瞬間以外の何物でもない。倫理的主体とは、所与の道徳的問題に対して主観の詰まったカバンをもってきて、あれこれ好きなように対処するような主体ではなく、そこでなされる決断の中に生まれる主体、この決断の中からのみ現れる主体である。それは、普遍的実体が普遍的実体として決定される瞬間、言わばそれが意識をとり戻す瞬間、まさにその点に他ならないのである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.78-80)

 食い終わったあとも読んでいたわけだがとちゅうで立ち上がり、洗い物をかたづける。フライパンなどつかうと水切りケースがいっぱいになってしまう。ゴーヤ炒めはもともと半分しか食べないつもりで皿に盛っていたので、もう半分を木製皿に取り、不完全になってしまったがラップをかけて冷蔵庫へ。味噌汁も、涼しいとはいえ入れておいたほうがよいだろうと冷蔵庫に保存する。あしたの一食目はこれらでよいだろう。腹はあいかわらず膨満的な感じがあり、喉もとに痰が引っかかるような感じもつねにつづいており、なにかねばねばしたものが胸から下腹まで体内に巣食って内臓のはたらきを阻害しているような、あるいはどろどろしたものが棒のようにからだのなかを横切り通って邪魔しているような感覚だ。それで洗い物を終えるとながしのまえに立ったまま、しばらく腹から胸にかけてを揉みほぐした。目を閉じ、感触を確認してここかなというポイントを見定めつつ、押し込むことはせずにほとんどちょんちょんちょんとふれるような軽さでもって広範囲をほぐしていく。そうするといちおう、それなりに楽になりはする。膨満していた腹もへこみはする。そうして席にもどると(……)さんのブログの二四日分をさいごまで読んだ。
 時間はもどるが、ゴーヤを炒めるにあたって、さっと湯がいたほうがよいのではないか、あるいは塩揉みをするんではなかったかとおもったのだが、湯がくにしても唯一の鍋は味噌汁で埋まっているし、塩はそもそもない。それなのでしかたなく細めに切ったものをザルで洗い、意味があるのかわからないがいちおう椀のなかで水に浸しておいた。タマネギは味噌汁をつくったそのあまりなので少量、ハムは二枚なのでぜんたいとしても量はおおくない。ゴーヤは小さめのものがもうひとつのこっている。タマネギはあとふたつ。実家ではジンジャーエールもくれたのだが、いまの腹の状態ではとても飲めない。はやく飲みたいものだ。
 四時半ごろにきょうの日記に切りをつけたあとは、LINEをのぞいて、すると(……)の音源が届いたというからダウンロードして聞き、コメント。ついでに近況報告として、体調がまたすこし悪くなってしごとをしばらく休むことにした、とにかく胃がめちゃくちゃしくしくしまくり、喉になにかが詰まっているような感覚が消えない、と「(……)」の三人にも知らせておいた。さらにそのまま(……)さんにもメール。きのうはありがとうございました、たびたびご迷惑をかけて申し訳ありませんと言い、同様に胃がめちゃくちゃしくしくしまくり喉も、と症状を説明し、やはりしばらく休みをいただきたい、じぶんとしては長くてすまないが一〇月の一週目、すなわち三日から八日の週まで休ませてもらって、一〇月一〇日から復帰できたらという見込みでいる、ただ復帰後も一〇月はひとまず週一か週二にしてもらって、慎重にはたらいたほうがよいかとおもっている、と述べる。さらには母親からもこのあいだはありがとうというメッセージが来ていたので、それにも返信。おなじように体調がわるくなってしごとをまたしばらく休むと知らせ、胃がとにかくめちゃくちゃしくしくして喉が詰まる、とまったくおなじことを三回も書くことになった。先日行ったときに聞いていたが、きょうは(……)さん(叔母)と(……)さん(母方の祖父の末の妹だからこちらからみると大叔母ということか?)が墓参りに来たのでいろいろ喋ったとのこと。先日(……)に、パニック障害が再発して食事会は厳しいからすまんが欠席させてもらうとつたえたのだが、(……)さんはできればみんなで来てほしいらしい。まあそりゃそうだろうとおもうが、こちらは無理だ。ところが母親も、いま行っている資格講座が毎回きちんと検温したり、また外出したりひとと会ったばあいはそれも報告しなければならないのだったか、ともかくコロナウイルス対策をけっこう厳格にやっているらしく、それもあって出席はしづらいとこのあいだ言っていた。兄もなにか都合があって出られないらしい。となれば我が家から行けるのは父親ただひとりになってしまうけれど、父親だけで行ってもしょうがないだろう。まあそれでも、(……)ちゃん(叔父であり、(……)さんがこちらの母親の妹だから、かのじょは(……)ちゃんの(……)家に嫁いでいった身になる)はこちらの父親のことがなぜか好きで、すばらしいにんげんだといつも言っているので、かれと飲んでしゃべっていれば所在なくなることもないのではないかとおもうが。その(……)ちゃんはむかしのギターを引っ張り出しておやじバンドをはじめたとかいうので、いいじゃないですか、とコメントしておいた。音楽をやるのは何歳だろうが何人だろうが、下手だろうが上手だろうがつねに良いことだ。
 そのあとは約束された安息の地もしくはサンクチュアリである布団に逃げてウェブを見たり、一年前の日記を読んだり。引いておくほどのことはない。そうして七時を超えると起き上がって、飯の支度にかかったわけだ。ここまで記すと九時二五分。図書館はやはりめんどうなのであしたにまわすことになった。きょうあとは、二五日と二六日の記述をまあすすめたいとはおもう。きのうの記事にこの営みじたいがストレスの要因としてじぶんに負荷をかけており、こちらの心身がそれに耐えられていないのではないかと書いたばかりだが、それでもやはり、二五日のことはまだほぼ書いていないし、書かなければなというおもいが身内に生じてくる。そういう固定観念からはなれることこそが、じぶんの心身にとっての幸福や自由や健全さの条件なのかもしれないのだが。とはいえいまのところは、きのうの夜に書いていたときのように胃がしくしくはしていないし、ちからも抜けていて、その点すこしましになったかなという印象だ。


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 いまもう二八日の零時五〇分。二五日分、二六日分の日記をしあげて投稿した。きのうがんばるとまずいみたいなことを書きつつ、けっきょくわりとがんばってしまっている。二五日分のとちゅうまではいい感じだったのだが。ちからが抜けて、たびたびじぶんの現在やからだや呼吸に立ちもどりつつゆったりと書けたのだけれど、だんだん疲労が生じて蓄積してくるにつれてそういう安定と鷹揚さが乱れ、意識もじぶんのからだというよりモニターのほうに向かうし、ほんとうにからだにしたがうならその時点でやめるか、すくなくともいったん中断して休むべきなのだろうけれど、やはりいま、書けるときに書いてしまいたいというこころがまさってそれに牽かれてしまい、ちょっと不安定になったからだを押して二六日分までやってしまったうえ、この日のこともいままたこうして書いてしまっている。腹を揉んだのがよかったのか、胃がしくしくするような感じはないし、喉の詰まりもほぼ感じられないのがすくいではある。ふつうに夕食後にもヤクを飲んだためかもしれないが。ともかくこれでもう休んだほうがよい。ベッドに逃げ、休んでからシャワーを浴び、さっさと寝よう。


     *


 とそうおもって布団に横たわり、だらだら休んでいたのだけれど、よくあることでじきにそのまま意識を失ってしまい、四時をむかえることになった。からだを起こしてあかりを消しに行き、就寝。湯も浴びられず、歯を磨くこともできないままねむってしまった。


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  • 日記読み: 2021/9/27, Mon.