2022/9/28, Wed.

 創作、作品の成就と名誉にたいする彼の関係は、結婚にたいする関係と変らなかった。だからフランツ・カフカの「真の」遺言執行人は魔術師、一連の神話的場面を監督できる者でなくてはならなかっただろう――焼却が行われたあと、灰のなかから比類のない純粋さと美しさで、浄化された作品が、「ただ、光、自由、力のみを示し、翳りも限界もない作品」がふたたび現われる。そういう言葉で、ドイツ文学史上もう一人の純粋主義者が、あるとき彼の最高の詩人的要求を表現し、その実現には、自らまったく消磨しつくすとしても、彼の資質の「全能力と天上的部分のすべて」をあげて当ろうとした。シラーが一七九五年、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトにあてて、そう書いたのだ。そしてカフカは、その短編『田舎医者』を書きおえて、一九一七年九月末の日記に、こういう仕事の完成は「しばらくの満足」を与えてはくれるが、幸福になれるのはただ、「世界を、純粋で真実で不変のものに引き上げることのできる」ときだけだと書いた。カフカはそれ以外の意志はもたなかったように、しばしば思われるが、その意志はしかし、意志の世界の否定であるような世界、あの「精神的世界」にむけられていた。それは彼がかつてそれしか存在しないといった世界だ――「我々が感覚的世界とよぶものは、精神的世界の悪である……」 そして芸術が、ただ一つ真の世界である精神的世界を、そのなかの悪から浄める――言語的内実の絶対的完成によって――ことこそ、芸術への、自分の芸術への、けっして止むことのない彼の要求だった。たしかに言語は人間相互間のまったく普遍的なもので、ねずみ族のどれもが鳴くように、だれもが話す。しかしカフカの芸術家、ねずみの歌姫ヨゼフィーネが鳴くときだけ、「鳴くことは日常生活の束縛から離れ、我々をもしばしの間解放する」のだ。フローベールカフカにとってきわめて重要な意味をもっていたので、フェリーツェあての葉書(一九一六年一〇月二六日)でストリンドベリについていったことを、彼にもいえたであろう――「眼を閉じさえすれば、自分の血がストリンドベリについて講義します。」 そして、「まったくなにものをも扱わない本、外的世界に少しも関係をもたず、その文体の内的力によってのみ成立しているような本を書くこと」を、かつて夢みたのはフローベールだった。フローベールの場合しかしまだまったくの審美主義だったものが、カフカにおいては絶対芸術の仮面をぬぎ、あからさまに彼の宗教的相貌を現わしている。カフカはその書きものを、かつて祈りの一形式と呼んだし、(end14)自分が結婚できないことをフェリーツェに説得しようとするとき、ほとんどいつも作家としての生活を、それが修道士的な結婚禁止の掟への服従に依存してでもいるかのように、引きあいに出したのだ。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、14~15; エーリヒ・ヘラー「まえがき」)




 覚めて携帯をみると七時四五分ごろだった。意識はわりあいさだかだったのでそのままもう腹とか脚の付け根とかを揉んだりしはじめて、カーテンの端をめくって青空のあかるさを目に入れて覚醒をさらにたしかにしておく。そのあと腹や胸を丁寧にこまかく揉みほぐしたり、両手を組んで腕をまえに伸ばしたり、腹以外にも眉間のあたりやこめかみ、腰や肩甲骨付近などの背面もそれぞれかるく揉んで、からだをセットアップしていった。一時期さするほうがいいかとかおもっていたが、やはり弱いちからでポイントを突くようにこまかくなんども揉んだほうが肉がやわらかくほぐれる気がする。筋のおおい豚肉とかを切るまえに包丁でちょこちょこ突いてやわらかくするようなものではないか。からだの感じはきのうに比べるとだいぶよかった。胃がしくしくする感じはないし、喉の詰まりも一見してあからさまにはかんじられない。天気も晴れていて雲がなく、ひさしぶりにやや暑いとはいえさわやかだし、ようやくやってきた真正の秋晴れという感じで、のちほどシーツを洗うまえに窓をあけてバサバサ埃を落としたときに、ながれる風がきもちいいなと、ほとんどほがらかな、晴れやかなような気分をかんじた。寝床では胎児のポーズもやっておき、セットアップに意外と時間がかかって起き上がるころにはもう九時半くらいになっていた。紺色のカーテンをひらいて部屋をあかるくする。横になっているあいだには保育園の送り迎えの声がたびたび聞こえて、やだやだ言ってなかなか園にはいろうとしないらしい子どもを母親が、どこどこ行くんなら保育園行かなきゃ、行く? 行かないと、どこどこには行かないよ、とたしなめていたり、ゲンキ! ママのいうこと聞いて! そっち行っちゃあぶないでしょ、注意しないと死んじゃうよ、と子どもに呼びかける声があったりした。ゲンキくんはおそらく車が好きで、たびたび通りがあるおもての道路のほうに惹かれていたのだろう。そのほかおかえりなさいと迎えられている女性の保護者がひとりあり、すごくお疲れでしょうとか保育士のひとがかけるのに、もうほんと、めちゃくちゃ疲れましたね、感染対策でなんとかかんとかで~、とかわりあいラフな、気の知れたような調子ではなしていたのは、看護師のひとなのかなと推測した。いまおかえりなさいと言われているということは夜勤だったということだろうし、ちかくに(……)病院もあるので。感染対策ということばも医療の場を連想させたのだ。
 起き上がると椅子について水を飲み、昨晩シャットダウンしなかったパソコンを立ち上げて用意する。ログインまえの画面は毎回世界の風景とか景勝地みたいなやつが映し出されて、検索をうながすちょっとした文言が表示されるけれど、それにしたがってサーチマークのところを押してみると、きょうの森林はタイにあるドイ・なんとかかんとかみたいななまえの国立公園だった。チェンマイ県にあるとあったので、チェンマイといえば(……)さんが行った土地じゃないかとおもった。水を飲んだあとは歯を磨き、便所に行って用を足したり顔を洗ったり。そうして寝床に帰り、Chromebookをもってウェブを見たり、一年前の日記を読んだり。2021/9/28, Tue.では以下のようなことを言っている。

その後、「読みかえし」ノート。そうして、ニール・ホール/大森一輝訳『ただの黒人であることの重み ニール・ホール詩集』(彩流社、二〇一七年)の訳者あとがきを読んで読了すると、こんどはポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)を読みだした。図書館で借りた詩集はあとふたつ、マーガレット・アトウッド須賀敦子のものがのこっているのだが、これらはいいやということにして、手持ちのド・マンを優先した。なぜか読みたくなったのだ。言っていることはおおまかにはわかるつもりだが、やはりこまかいところで、これどういう意味なの? という文や、論理の接続がよくわからない部分がある。精読のしかたをまなびたいというか、ひとがテクストを愚直にていねいに誠実に読んでいる実例を見て参考にしたり手本にしたりしたい、とおもってこういう文芸批評とか文学理論とかを読むのだけれど、批評となるとやはりどうしても一般性にむかったり、理論を志向したり、統合的見解を構成したり首尾一貫的な読みの物語を生まないといけない。こちらが見たいのはほんとうはそれとはすこし違うことで、具体的な部分をとりあげて、ここからはこういうことがわかる、ここまでは言える、ここの意味の範囲はこうだ、というようなことをいちいちこまかくあきらかにしていき、それをひたすらくりかえすような、かならずしも統合性を志向しない身ぶりであり、いわば批評未然の読みを見たい、ということになるか(保坂和志が小説論でやっていたようなことがちかいのかもしれないが、あれよりももっと観察 - 分析的で、テクスト側につくようなものが知りたい)。そういうかんじでひとつの作品のさいしょからさいごまで精読しているような例がほんとうは見たいし、じぶんでもそういう記述 - 記録をやりたいとおもっているのだけれど、なかなかそういう読解の例はない。よく選書とかになっている、「精読~~」みたいなやつとかはそういうかんじなのかもしれないが、文学テクストにたいしてそれをやっている本はあまりなくて、選書で出ているのはどれも哲学書についてのものだったとおもう。

というか欲をいえばほんとうに一文ごとに機能とか意味の射程とか技法とか全側面から分析しているような読解が見たいのだけれど。バルトが『S/Z』でやったようなことがわりとそれにちかくはある。

 二度目の臥位のあいだもそとで園児たちがにぎやかにしており、んああー、んあ、マァマ、ママがいぃ、うあーんあー、みたいな感じで泣きながら母親をもとめる子がいたが、その子どもがときどきはさんだんあっ、んあっ、んあっ、という短い泣き声のリズムは、切迫してきたときのツクツクホウシとか、セミの鳴きをちょっと連想させないでもなかった。保育士の女性のやさしげでほがらかな声におうじて、海に棲む生きもののなまえをみんなでいいながらリズムにあわせて手を叩く、という遊びもおこなわれていた。サ・ン・マ、イーーカ、ターーコ、ク・ジ・ラ、とかいう調子だ。これはすこしまえは果物のなまえとか花のなまえでおなじことがおこなわれていたはずで、こういうふうに遊びながらもののなまえをおぼえていくというやりかたなのだろう。そのうちにまた、何組さーん、あつまって、聞いてください、という声を皮切りに、「パンダ公園」はきょうはどうこうどうこうなので、きょうはなになに公園のほうに行きます、とかいう説明があったあと、園児たちがいくらか連れ立って公園へと旅立ったようだった。バイバーイ! バイバーイ! といって熱烈な、今生の別れのようにそれを見送る声もいくつも聞かれるが、これは室内か園庭にのこるほうの子たちなのだろう。たぶん園庭で遊んでいた子らが、そとの道を行く子どもたちに向けて呼びかけていたのではないか。それで、すこしまえにもおなじ声を聞いて、あのときは離任してもういなくなってしまう先生を見送るかのようなとおもったが、これだったのだな、とおもった。
 それから瞑想。一〇時二〇分からはじめて、三〇分ほどだった。わりとよろしい。胃の痛みがなくなったのがたすかる。椅子から立つと体操的に、屈伸したり背伸びしたり、流し台を支えにして前後に開脚したり、収納スペースの壁にひらいた手のひらもしくは拳を押しつけて前傾し、腕の筋肉をほぐしたりする。そうして食事へ。きのうつくったタマネギの味噌汁と、ゴーヤ・タマネギ・ハムの炒めものがのこっているので楽である。それらをあたためて食す。食すあいだは(……)さんのブログを読んだ。最新の二六日付。「極右政党が勝利したイタリア総選挙、イタリアの“マンマ”も短命に終わるか」(2022/9/27, Tue.)(https://news.yahoo.co.jp/articles/66777cd6e93284c7cb39b06a079f27d794014a52)という記事が引かれていたので、その元記事も読んだ。
 

 (土田 陽介:三菱UFJリサーチ&コンサルティング・副主任研究員)
 イタリアで9月26日に総選挙が行われた。大方の事前予想の通り、極右政党である「イタリアの同胞(FdI)」を中心とする政治会派・中道右派連合が勝利した模様だ。
 同会派にはFdIをはじめ、同じく極右である同盟(Lega)に、中道右派フォルツァ・イタリア(FI)と中道右派の少数政党による会派「われらに中道を」(NM)が参加している。
 10月にも新首相に就任する見込みであるFdI党首のジョルジャ・メローニ氏は、筋金入りの保守派として知られる。
 学生時代にはネオ・ファシスト政党であるイタリア社会運動(MSI)の青年組織に所属しており、近年はファシスト期を率いたベニート・ムッソリーニとはやや距離を置いているが、もともとは熱心なムッソリーニ支持者である。

     *

 イタリアでは長年の間、経済の停滞が続いている。そしてその元凶ともされる肥大した公的債務(GDP比の150%程度)の圧縮について、EUから常に圧力を受けてきた。
 さらに、最近は他のEU各国と同様にインフレの加速にも苛まれている。生活が困窮する有権者にとって、メローニ氏が訴える大規模な経済対策の実施は魅力的に映るはずだ。
 しかしながら、その実現を許さないのが金融市場である。
 世界的に上昇する長期金利だが、イタリアの長期金利の上昇ピッチは速く、欧州で最も信用力が高いドイツの長期金利とのスプレッドは足元で拡大基調を強めている(図)。新政権による財政拡張の可能性を嫌気した投資家が、イタリア国債を先んじて手放していることの表れである。
 ECBは7月の定例理事会で、金利が急騰した国の国債を買い取る支援策(伝達保護措置、TPI)を設けると発表したが、これは当該国がEUの財政ルールを順守する場合に限って発動される。つまりイタリアの新政権がEUの定めたルール以上に財政を拡張し、それが金利の急騰につながった場合、イタリアはECBによる支援を望めないわけだ。

 イタリアと同様に重債務国であるスペインとギリシャもまた、ドイツとの間で利回り格差が拡大している。ただ、スペインの場合は1%ポイント台前半にとどまっている。
 ギリシャの場合も、イタリア以上にドイツとの利回り格差は拡大しているが、EUのルールに背いているわけではなく、その意味でECBによる救済対象になる。
 このように、イタリアの新政権は、ECBによって財政拡張にあらかじめ強い制約が課されているのである。
 (……)
 財政拡張を主張するFdIだが、少なくとも年内はドラギ前政権下での予算の履行が求められるし、来年の予算で財政拡張を図ろうとしても、それはEUの定めたルールの下での拡張に限定される。EUが財政ルールを抜本的に緩めるか、あるいはイタリアがEUから離脱しない限り、イタリアが自由に財政を拡張することなど不可能である。

     *

 LegaはかつてEU離脱交渉を準備し、独自通貨の発行を目指すと主張した。コンテ政権下での2019年にも「ミニBOT」と呼ばれる、一種の政府紙幣の発行を提案するなどしたが、いずれも現実というハードルに阻まれてとん挫し、同党は徐々に支持を失うことになった。
 メローニ新首相もまた、就任当初は意気揚々と財政拡張を打ち出してくるだろう。それが市場の金利急騰という逆風と、EUとECBの冷たい態度を前に、軌道修正を余儀なくされる。その姿に対して、FdIのみならず、首長が近しいLegaからも厳しい批判が浴びせられる。そして、中道右派連合の足並みが乱れ、政権運営が停滞する。
 イタリアは本来、政権の安定を重視するため、前倒し総選挙の実施には慎重な国である。今回は例外的に、ドラギ前首相の辞任もあって前倒しで総選挙が行われたが、メローニ新政権が議会満期の5年を満了することはまず考えにくい。この間にも、新首相が擁立されては退場するサイクルが、イタリアでは数回生じるのではないだろうか。

 イタリアでは九〇年代の選挙制度改革に端を発して混乱がつづき、近年も短期政権がつぎつぎに交替しているらしいが、そのへんのはなしを要約した新聞記事をいぜん書き抜いておいたので、参考にそれも付しておく。

読売新聞2021年(令和3年)2月20日(土曜日)朝刊

解説(9面)

■ドラギ政権誕生

【伊の政治改革 理想遠く/選挙法 党利で変更/「代議制否定」政党台頭】(編集委員 伊藤俊行)

 イタリアが戦後に共和制となってから6例目の「非国会議員」の首相に、マリオ・ドラギ前欧州中央銀行総裁が就任した。1990年代前半、日本に先駆けて「政権交代可能な2大政党制」を目指した選挙制度改革を行ったイタリアの現状を、どう評価するか。同国を「民主主義政治の実験場」と見る村上信一郎・神戸市外国語大学名誉教授に聞いた。


 「1993年の選挙法は法案提出者セルジョ・マッタレッラ氏(現大統領)にちなみ、マッタレルム法と呼ばれました。国民投票で83%の支持を得て、従来の比例代表制に代えて小選挙区比例代表並立制(並立制)を導入しました」

 ――並立制でも多党化が進み、また制度を変えました。

 「2005年のシルビオベルルスコーニ政権下での法改正です。法案を出したロベルト・カルデローリ上院議員自身がポルチェルム(豚のフン)法と呼ぶほどの悪法でした。国民投票の民意を裏切って比例代表制の復活を図ったばかりか、下院では過半数がなくても最大多数を得た政党連合に全議席の54%を与える『プレミアム条項』まで設けられました。右派政権が劣勢を覆すために仕組んだ選挙法による"クーデター"です」

 「皮肉なことに06年総選挙は、僅差で1位の中道左派が同条項で下院の圧倒的議席を得ました。ただ、上院のプレミアム付与は州単位なので、全体では2議席差しかない基盤の弱さから2年足らずで不信任となります。同法には、そんな地雷が仕掛けられていたのです。08年の繰り上げ総選挙ではベルルスコーニ氏が圧勝、絶頂期を迎えます」

 ――その後も選挙制度改革が続いたのはなぜですか。

 「14年憲法裁判所判決として同法の一部、特にプレミアム条項が違憲とされたため、17年のロザテリウム法で並立制が復活したのです。ただし小選挙区比例代表議席配分はマッタレルム法の3対1から約4対6になりました」

 「悪法が12年間も続く間、重大な出来事が三つ起きました。第一は『疑似大統領制』の成立です。09年に始まった欧州金融危機アンゲラ・メルケル独首相とニコラ・サルコジ仏大統領から統治能力を疑われたベルルスコーニ首相が、11年に屈辱的辞職に追い込まれます。イタリア大統領は平時には政治権力を行使しませんが、ジョルジョ・ナポリターノ大統領はベルルスコーニ氏が求めた繰り上げ総選挙を認めず、大学学長のマリオ・モンティ元欧州委員に組閣を命じ、全党に『一時休戦』を求めたのです」

 「大統領の『例外状況』での『決断』は、政治改革の失敗と政党政治の敗北を意味します。私はこれを、疑似大統領制と名付けました。ドラギ新内閣も本質は同じです」

 「第二は、『反政治』を唱えて代議制を否定する『五つ星運動』の台頭です。13年総選挙は国政初挑戦にもかかわらず大躍進し、モンティ氏の中道政党は惨敗しました」

 「第三に、同国史上最年少の首相、マッテオ・レンツィ氏の登場です。13年総選挙後、再び大統領を後見人とする一時休戦内閣として大連合政権ができますが、政権内で政策の違う勢力間の対立で膠着が続き、ナポリターノ大統領は14年、『壊し屋』の異名をとる39歳のフィレンツェ市長・レンツィ氏を首相に任命、状況打破を図ります。レンツィ氏は16年に上院改革を主眼とする憲法改正国民投票を仕掛けて政権浮揚を図りますが、失敗しました」

 「阻んだのは五つ星運動です。18年総選挙でマッテオ・サルビーニ氏率いる右派『同盟』と並ぶ勝利を収め、共にジュゼッペ・コンテ氏を首相とする連立政権を樹立、19年に同盟が離脱すると左派『民主党』と組んでコンテ政権を支えますが、レンツィ氏の離脱で政権は崩壊しました」


 「ドラギ政権は、昨年9月の国民投票議員定数を大幅に減らす憲法改正が70%の支持で成立したため、またも選挙法を変える必要があります。(……)」

 食後はしばらく腹を揉んでこなしたりして過ごし、正午あたりにいたって窓のほうをみるとレースのカーテンに陽のあかるみが差していたので、シーツを洗うチャンスだとおもった。これいぜんに母親からSMSが来ており、そこに体調に気をつけてということばとともに、きょうは暑いくらいだけどシーツを洗うチャンスかもねとあったので、それが影響したのだろう。母親がそういうことを言ってきたのは先日実家に行ったさいに、ほんとうは洗ったほうがよいのだけれどシーツをなかなか洗えない、ふつうの洗濯物を洗うとそれで干し場が埋まってしまうから、洗濯物があまりなくてなおかつよく晴れた日じゃないと、さいきんはあんまりはっきり晴れるっていう日がなくてすぐに曇ってきたりもするし、とはなしたことが前段にある。ちなみに母親は不調ならいつでも帰ってきなと言い、きのう体調を報告したさいにも父親が、いったんアパートはそのままにしておいてしばらく実家にもどってきて静養したらと言っているとあったが、実家にもどったからといって体調がより回復するとはかぎらず、あちらはあちらでまたストレスがあるだろうし、むしろひとりのほうが断然気楽である。それなので、まだ全然そこまでの状態じゃないから、とりあえず様子を見るとかえしておいた。今後、体調がさらに悪化してひとりで暮らすことができないような状況になれば、そのときは帰らざるをえないだろう。そういえば美容室では(……)さんに、じゃあこんど来るときはいい報告を期待してます、と言われて、それはおそらく結婚しましたみたいなことを指していたのだとおもうが、いやー、むしろ出戻ってきたとかじゃないですかね、と笑って返したのだった。体調いかんによっては出戻りになってしまう可能性もじゅうぶんにある。
 寝床からシーツを取って、窓外の柵上でバサバサやって塵を散らしているときに、ひかりと風と大気の質感に晴れ晴れとしたような気分になったのはさきほど記したとおりである。それから洗濯機にもっていきつつも、シーツのただしい洗い方ってなんかあるだろとおもって検索すると、洗うまえにガムテープなどで付着している埃を取ったほうがいいとあったので、なるほど、とおもった。具合よくクラフトテープがある。買っていらい開封すらしていなかったが。それで寝床にシーツをもどし、テープをちぎってはベタベタと埃やゴミを取っていく。ある程度のところで洗濯機へ。コースは毛布コースとかがよいらしく、またたたんで洗濯ネットに入れたほうがよいともあったが、残念ながらシーツがはいるほどのおおきさのネットはもっていない。それなのでたたんだだけで放り込み、毛布コースではじめた。注水のあいだやその後はついでに敷布団のほうもおなじように埃を取っておこうとおもい、テープをひたすらちぎってはベタベタやってゴミ箱に捨てまくる。その布団も陽に当てることに。ほんとうは柵にかけるのがよいのだろうが、布団バサミがないのでちょっとやりづらいから、柵と窓のあいだの狭いスペースに横向きに立ててやるのが関の山だ。布団が消えたあとの床上も箒で掃いて掃除した。そのまま周辺、椅子のしたとかコットンラグにもながれたところで、このラグの掃除もテープでやればいいじゃないかとおもいあたった。かんたんなはなしだが、いままでまったくおもいつかなかった。箒でやるとなかなか埃が取れずたいへんだし、テープのほうがこまかいゴミまでよくとれる。そういうわけで机のしたにしゃがみこんだり膝をついたりしてベタベタベタベタ、また椅子のしたの保護シートもベタベタ、さらに椅子をどかしてそれを裏返し、裏面やそのしたの床もベタベタベタベタつづけ、床のほうは掃き掃除もたしょうしておいてようやく一段落である。腰が疲れたので背伸びして上体を左右にかたむけたり、すじを伸ばしておいた。
 シーツが洗い終わるとさきに陽にあてていた布団を入れる。一時間程度にもならなかったとおもうが、シーツを干すとかぶってしまって邪魔だろうから。そうして洗濯機からシーツをとりだし、たしょうバサバサやると、Y字ピンチを手もとに用意しておいて、窓外の物干し棒にかけた。前後のバランスを調節して支柱の位置を適正にすると、さきに左端をととのえてピンチをふたつ留める。そこからそのまま右端に行くには窓が邪魔で、名ばかりの狭いベランダに出て乗ることはできないので、窓を左側に移動させて、こんどは右から顔を出し、右端の皺やたるみをととのえておなじようにピンチで留めた。座布団と枕も出しておく。敷布団のほうはまたちょっとテープで埃を取ったかもしれない。
 その後はLINEを見たり。(……)音源について(……)や(……)が言っている、歌が出すぎて伴奏をもっと聞かせてほしいというのはこちらの印象とはけっこうちがっていて、感受性のちがいもありながら、たぶん聴取環境がかなりちがうのだろうなとおもったのだけれど、そこで、Chromebookのほうで聞いたほうがいいんじゃないか? とおもいあたった。いまメインでつかっているLENOVOのやつはいくらかは古いとおもうから(といってもそんなに何年も経っていないから)、サウンドボードというのかよくわからないが、PCじたいの音質環境がよくないのではないかと。それで(……)がバランスの参考としてあげていた"Is It Any Wonder?"という曲を、LENOVOChromebookと双方でヘッドフォンをつかって聞いた(アンプにつなぐケーブルをその都度挿し替えなければならないのはわりとめんどうくさい)。そうすると、Chromebookのほうがたしかにぜんたいにクリアで締まった音質になっているかな、という気がした。そのままそちらで(……)のほうも聞いてみたところ、参考音源と照らしてかんがえると(ちなみにこの曲は息のおおい男性ボーカルが歌うまあまあエモーショナルな、つまり哀愁叙情みたいな風味のロック/ポップスで、(……)によればギターレスでキーボードがギターっぽい音を出しているということだったが、この感じなんか聞いたことあるな、KEANEかな? とおもって検索してみたところ、やはりそうだった)、まあ歌がちょっと出過ぎでというのもたしかにわかるなとはおもった。ボーカルの音量の上下についても、KEANEのほうがあきらかにどの箇所でも一定してまとまっているのでわかる。あと低音がもうすこしほしいというのも。しかしいずれにしてもきのうつたえたとおり、こちらがもはや気になったりこだわったりするような段階ではないので、あとの細部の詰めはまかせるわ、という感じ。じぶんはあまり音質とかそのバランスに厳密にこだわらないタイプなのだとおもう。五〇年代四〇年代のジャズとか三〇年代のブルースとかでもふつうに聞けるし。まあまたそれは枠組みがちがうので、べつのはなしかもしれないが。
 そのままEvans Trioの"All of You"もテイク1と2を聞いたが、Chromebookのほうが音質がよいのか、このときはよくわからなかった。ちがいがあったとしても、それをばっちり確信をもって聞き取れるほどの耳の性能ではない。それにこのときは食後で消化中だったためなのか意識がやや鈍く、ねむいまでは行かないとしても意識野の縁のほうが冴えずにぼやけてなんかそのへんよく聞こえないぞという感じだったので、たいした印象もえられなかった。
 その後、たぶん三時くらいからこの日のことを書き出したはずである。きのうの分はひとこと足してもう投稿しておいた。ほんとうは現在時に追いつくまで一気に書いてしまうつもりでいたのだが、なんだかとちゅうからはやばやと疲れてきて、具体的には瞑想前、園児たちのことを書いているあたりでもう疲れていたのだが、やはりまだ本調子ではないのだろう、内臓が疲労しているのだろう、これはからだにしたがって休んだほうがいいかなとおもいつつ、とりあえず便所に行ってクソを垂れた。便器のうえに腰掛けてやや固めのクソを尻から吐き出しているあいだ、きょう図書館に行くとき、通っていた高校のほうをとおってみようかな、とおもっていた。というか目当てとしては母校よりも、先日もふれた、そこから図書館に向かったことのある裏路地のほうがより主で、高校はそのついでなのだが、おもいのなかで断片的にそのあたりの道や空間の記憶が表象としてよみがえってきて、このあいだ見かけたような制服姿のああいう一〇代らがそのへんをあるいているんだろうなと想像され、まあ行けばたぶんなにがしかのノスタルジアを受け取ることにはなるんではないかとおもい、おもえばとおくへ来たもんだ、などということばがあたまのなかに出てくる。それから高校時代から経過した時間を、このときは一五年ほどとか数的にはっきりと計算はせずばくぜんとかんがえ、それとおなじくらいの単位の時間があと何回かひょいひょいっと過ぎていってそのうち死ぬのだろうなと、いつもながらのメメント・モリにいたった。ただしまえにも述べたとおり、じぶんがそのうち死ぬということのこの再認識は、それだけでそれいじょうなににもつながらず、いまの生のほうになんの意味をも送ってこないわけである。おれも死ぬな、とおもうだけ。それで止まって、そのあとがなく、死ぬからそれまでにやりたいことをやらなくては、がんばろう、とか、死ぬからせいぜいそれまで人生を暇つぶしとしててきとうに渡っていこうとか、どうせ死ぬしなにやっても意味ないからはやく死にたいとか、そういったもろもろの気分はまったく生じない。ただじぶんがいずれ死ぬという事実を再確認したというだけのことである。こういう場面において、いずれ来たる死(の事実性?)といまここで生きている生(の事実性?)はまったく等価で平等な感じがするな、とおもった。死というのは、生の各瞬間に、いわば対面しているものではないかと。つねにすぐそこに浮遊している存在のようにして、各瞬間と顔を合わせて、それに対しているもののような感じがした。それは生と死は表裏一体だとか存在の両面だとか、いついかなるときにも死ぬ可能性が可能性としてはあるとか、そういうことではない。じぶんが生きているという事実とじぶんが死ぬという事実がまったく対等なものとして、気づいたときならどの瞬間にもむすびあわされており、そういうかたちで死は、不安や未来や概念としてというよりは、へんな言い方だが漠然とした事実、いわば不定の事実として、生のあらゆる瞬間に付随して(というよりは対等で平等なあいてとして)つねにそこにあるということなのだろうか。こういうことばだとあたりまえのことしか言っていないような気がされ、このときじぶんが感じたなにかしらの実感にいたっていない気がするのだが。
 ともあれクソを垂れているあいだにそういう思考がめぐり、それでケツを拭いて水をながして手を洗って室を出ると、え、暗っ、とおもった。部屋のなかが急に、ずいぶんと暗くなっていたのだ。陽のいろがまるでなくなり灰色が混ざりだしており、おもわず便所の扉の脇の電灯スイッチをつけたくらいだったが、窓に寄ってみるといつのまにか空は白い雲に全面閉ざされていて、弱々しく収縮した赤子のような太陽が織りなされた雲の絨毯のなかで白さの局部的変質でしかないという具合にひとひらかろうじて浮かんでいるばかり、これじゃあしかたないとおもってシーツを取りこんだ。乾きはよい。しわくちゃという感じもない。そのまま寝床にセット。それにしても、トイレにはいってクソを垂れていたわずか五分くらいのあいだに、そんなに急速に雲が大挙して空を覆ったはずもないから、じっさいにはそのすこしまえから暗くなっていたのに、日記を記すことに意識が向いていて部屋の暗さに気づかなかったのだろう、とおもった。おどろきだった。ついさっきまで、レースのカーテンがひかりのいろを敷いてシーツの影を浮かべていたのに。
 それで疲れていたのでセッティングした寝床に避難してウェブを見たり。腹もかなり減っていた。しばらく休息すると、もう飯を食うことに。時間はたぶん五時半くらいだったか? そとは薄暗さにたそがれの青のいろが忍びはじめていて、料理のにおいや熱を逃がそうと窓をあけると保育園に子をむかえにくる男女らのすがたがいくつかみられる。ちいさめのゴーヤがひとつのこっているので、またそれで炒めものをつくることにした。こんどはタマネギを多めに切り、豆腐もくわえる。強火でざーっと炒めたが、豆腐に焦げ目もついたし、けっこういい感じになった気がする。味つけは醤油とあご出汁。つくったそれをさきに木製皿によそり、湯気を立てているのを机に置いておいて、それからタマネギの味噌汁のさいごののこりをコンロで加熱。それも椀にそそいで食事。食事中はwebちくまで金井美恵子の連載を読んだ。食後も。「「コロナ後の世界」には女はいない、あるいは、分別と多感①」から、「墓場とユリカゴ②」のさいしょのちょっとまで。「重箱の隅から」という連載である。引いておくほどのことはないけれど、けっこうおもしろく、まさしく重箱の隅感もないではないほうぼうへの突っこみや疑問や違和感の表明はもとより、悪文のたぐいとまえに評したことがある文章の書き方もするするいかないそのひっかかりがかえってちょっと快楽を帯びる。じぶんにはぜったい書けない文体だなとおもう。どういう感覚で書いているのかよくわからない。主語が無造作にはぶかれていたり、てにをは的な接続がきちんとしていないように見えたり。おもったことをだーっと書くとおのずとこういうふうになるタイプなのだろうか。たぶん的を射てはいないが、読点をおおく打ち(しかもそれがまた妙なタイミングで打たれていたりする)、かつ括弧も多用してだらだらながくつづくその文章は、なんか古典文学的なニュアンスもちょっと感じるかもしれないというか、古典文学の随筆とかってもしかするとこういう感じだったのかもしれない、という気もちょっとした。こういうのって推敲したりするのか疑問なのだが。いちおう推敲してこれなのか、直しはもう編集側の校訂にまかせて基本書きっぱなのか。パソコンもスマホもないと記事中のどこかで言っていたから、手書きという条件がおおいに影響しているとはおもうのだが。ところで、蓮實重彦もwebちくまで「些事にこだわり」という連載をやっていて、金井美恵子に影響されたのか? というようなタイトルだが、さいしょのふたつくらいを過去に読んだときにはふつうにつまらなかった。こんなことわざわざ蓮實重彦がやらなくてもいいでしょ、とおもったくらいだ。最新の記事は、「政府は、いざという瞬間に、国民の生命を防衛しようとする意志などこれっぽっちも持ってはいないと判断せざるをえない」といういかにもなながさのタイトルで、ここでも蓮實重彦にはめずらしく、ごくごくふつうのこと、ふつうの正論しか言っていない。こういう時評的エッセイって向いていないのだろうか。『随想』はけっこうおもしろかった記憶があるのだけれど。
 その後、カフカ書簡の書抜き。きのうが返却日だったけれどめんどうくさいからと横着してきょう行こうとおもっていたところが、きょうもやっぱりなんだかめんどうくさくて気が向かず、さらに先延ばしして罪を増やしてしまったありさまである。あしたはなんとか行きたい。BGMには碧海祐人『逃避行の窓』をChromebookでながす。そうすると、イヤフォンではあるけれど、サビのファルセットの質感がより曲ごとにはっきりひびいてくるような気がしたので、やはりChromebookで聞いたほうがたぶんよいのだろう。アルバムが終わったあとの自動再生もそのままながしていたが、それでながれたのはCRCK/LCKS "demo#01"、高井息吹 "瞼"、showmore "snowflakes"、君島大空 "午後の反射光"、PAELLAS "Orange"。どれも洒落ていたりひねってあったりして、さいきんの邦楽ほんとにレベル高くてとにかく洗練されてるよなあとはおもうが、より追ってみたいというほどのものは、さいしょのやつくらいかな。このバンド(?)のなまえは(……)さんのブログでよく見かけた。さいごのやつも音楽的にはちょっと気になったのだけれど、ボーカルの発声と歌い方が、妙にぐねぐねしているというか、ゆがんだ色気みたいな感じで、それはあまりなじまない。
 書抜き後にきょうのことを書き出して、ここまで記すと一〇時前。図書館には行かなかったが、スーパーに買い物には行きたいとおもっている。ついでに余分な夜歩きも。


     *


 買い出しに出た。また病院のほうまで行って、三〇分くらいぶらぶら回ってきながらスーパーに行こうとおもっていたが、時間も遅くなってしまったし(すでに一一時前だった)、身体的にもそこまでの気力がなかったので、まっすぐ店に行くことに。とはいえアパートを出ると左に折れるのではなく、右の通りに出てほんのすこしだけ遠回りをする。かっこうはうえが肌着にジャージを羽織っただけ、したもジャージでもよいのだけれど、そこはなけなしの美意識でもって灰青色のズボンを履いた。部屋を抜けると通路の端をとおしてそとからなにか音が立っていて、雨をおもいつつも降りのない夜をうたがわないでいたところが、建物の入り口まで来て道に出るとポツポツ来ているものがあり、降っていたのかと引き返して傘をもった。そのさい、扉をあけたまますぐ脇に立てかけてある三本からひとつ取るのに、ほかのを倒してしまい、アパート内はもうしずまっている午後一一時だというのにおおきな音を立ててしまった。そのビニール傘を差して右の通りに出れば、頭上を叩く音はつよくはないけれどそれなりのリズムで、車線があいまいな幅広の通りはひと気をなくしてひろびろとしている。そこに裏路地から咳払いが聞こえ、自転車がやってきた。よく見なかったし暗さでよくも見えないが、中年のサラリーマンと見えた。道を渡って西向きに折れると暗いなかに正面の信号のいろがきわだち、その向こうの家の二階にともった明かりは薄バター色をしているから、先日もあったことだが視界の端にのぞく一瞬、月を錯覚する。水が散っている夜気はむろん涼しい。残り香をもらしている焼き鳥屋のまえをすぎて(……)通りに折れると、この時間でも対向者がいくらかあらわれる。自転車に乗って三人、若い声を発しながら来たのは、女子高生か、それかおそらくは近間の女子大の学生だろう。あるきながら腹が、しくしくするまではいかないけれど、薄っぺらなようないかにもたよりないような感じがしてちょっと緊張を感じ、とうぜんのことだがまだまだ本調子ではないなとおもった。根本的にはけっきょく、たぶん胃がどこかしら弱いのだ。弱いを越えて悪いのかもしれない。とはいえしばらくあるいているうちに頼りなさが減って、すこし安定してきたのだが。二車線がきちんと用意されてある(……)通りに当たるころには路上の浅い起伏に信号の灯がやどって、青緑色の薄氷を貼ったように鈍く発光していた。左折する。風がまえから来て、ああ風だとおもう。道沿いのコインランドリーは中央右の機械がひとつまわっており、でもひとはいないのかと目を振ると左端にべつの機械のまえで入れるか取るかしているひとりが立っていて、長い黒髪に薄手の黒い服をつけて腕を出したそのうしろすがただけでは、男性とも女性とも見分けられない。髪の黒さがつややかだったところは女性のようでもあるが、肩幅や背の感じからするとヘヴィメタルでも愛好していそうな男性のようにもおもえた。しかし体格のややおおきい女性だっていくらでもいるだろう。横断歩道まで来ると渡って、閉ざした傘をバサバサやって袋に入れると入店。手を消毒して籠を持つ。野菜がなかったので順番にそれを確保していく。鍋で調理ができるようになった現状、野菜をいろいろぶちこんでじっくりくたくたになるくらいに煮ただけのスープを食いたいなとおもって、いつものサラダ用のものだけでなく、ニンジンとかネギとかも確保する。味つけは味噌でも醤油でもその他でもなんでもよいが、雑多な野菜のあたたかなスープが食いたい。胃にもよいだろうし、それにうどんを入れたってよい。調味料はそもそも塩がなかったのでそれと、味の素と鶏ガラスープの粉末を買っておくことにした。コンソメも買ってもよかったかもしれない。あと、切れた麺つゆを補充するのをわすれてしまった。その他豆腐や、やはりなくなっていたドレッシングや、ランチパックふたつ。会計。はじめて見る女性だった。いつも当たっている愛想のそこそこよい白髪の男性((……)氏)や、それよりもベテランらしい婦人(なまえはわすれた)よりもてぎわがよく、愛想はなくしずかだけれど黙々とはこぶ手のうごきに無駄がなくて、品物を読みこませたあともうひとつの籠にうつすさいに、たびたび読みこみ機のしたにいったん待機させながらしかるべきタイミングで移動させており、また籠のなかの配置をなおしたり調節したりするにもやはり無駄なくなめらかなうごきで、作業をしながらベストな配置のしかたがこれは見えているな、という印象のうごきかただった。機械で会計を済ませて整理台にうつり、リュックサックとビニール袋にそれぞれものを入れて退店。もう降っていなかったので傘はひらかず。横断歩道を渡って目のまえの口から裏にはいり、そこそこ重くなったビニール袋を片手のゆびにくいこませながら夜道を行く。道はほとんど濡れてはいないが湿り気がわずかにふくまれた大気は涼しく、風もときに駆けずながれて、伸びたじぶんの影がさきの電柱の下端にひょっとあたまを浮かばせて消えたとおもいきや、もう足もとからあたらしい濃い影が湧いていて、それもしだいにずるずる伸びていってまもなく地に溶けて吸われる。しずかである。公園にもなんの気配もない。アパートのそばまで来るとジャージの裏の背にほんのすこし汗の感がないでもなかったが、水になるどころか淡く湿りを帯びたというだけのことである。
 帰り着くと買ってきたものをすぐに冷蔵庫に入れ、そのあとの夜はたいしたこともせず。ユーディット・シャランスキー『失われたいくつかの物の目録』をちょっと読んだり、だらだらしたり、シャワーを浴びたり。寝たのは二時四〇分ごろだったか? わすれた。


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  • 「ことば」: 5 - 10
  • 「読みかえし2」: 12 - 20
  • 日記読み: 2021/9/28, Tue.