2022/10/3, Mon.

 最愛のひとよ、そんなに苦しめないで! そんなにぼくを苦しめないで! あなたは今日土曜日も手紙なしで、ぼくを放っておきました。夜のあとに昼がくるのと同様確実に来ると思っていたその今日。しかしだれが一体手紙を要求したでしょうか、ただ二行、一つの挨拶、一つの封筒、一枚の葉書でいいのです。四通の――そしてこれが五通目ですが――手紙に対して、ぼくはまだあなたの一言も見ていない。なんということ、これはいけない。どういうふうにぼくは、長い昼を過し、働き、語ったらいいのか、そして人がぼくから要求することをしたらいいのだろう。なにも起らなかったのかもしれない。あなたはただ時間がなかっただけなのだ。芝居の稽古が、下相談があなたを引きとめた。しかしサイドテーブルに行って、鉛筆で一切れの紙にフェリーツェと書き、ぼくに送るのを妨げることのできる人間は一体だれか言って下さい。そうして貰いさえすれば、もうぼくは十分なのだ! あなたの生命の一つのしるし、生きたものに寄りすがった冒険のなかの一つの落着き。あすは手紙がくるでしょうし、くるにちがいない。でなければ、ぼくはどうしていいか分らない。そうすれば、また万事よくなり、もうあなたにたびたび書くよう頼んで悩ますことはないでしょう。しかしあす手紙がくれば、月曜日の朝こんな訴えで、あなたにオフィスで挨拶することはないのです。しかし、ぼくはそうせざるをえない、あなたが答えない場合、あなたがぼくから顔をそむけ、他の人々と話し、ぼくを忘れたのだという、理性では除去できない感情をぼくは抱くのです。それなのにそういうことを黙って、ぼくは我慢しなければならないのでしょうか? また、ぼくは始めてあなたの手紙を待つわけではないのです(ぼくの確信に従えば、それはあなたの罪ではありませんが)、同封した古い手紙がそれを証明しています。
     あなたの

 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、84; 一二年一一月一五日〔一九一二年一一月一六日〕)




 いま午後一時九分。通話を終え、野菜をごった煮した汁物とヨーグルトで食事を取ったところ。食べながら過去の日記を読みかえした。2021/10/3, Sun.にはしたの風景描写。たいしたものではなく、さらっと軽いが、「陽射しはあたりいっぱいによくとおって同時に風も絶え間なく」とか、「周囲の洗濯物や眼下の緑がざわめいて」とかを読むだけで、涼しくさわやかな空気の感触が喚起されてしまい、ああいいなあとおもった。一粒の官能性。シーツを「ひとりであそんでいる猫」にたとえる比喩もわるくない。

(……)湯をそそいで待っているあいだ、ベランダに出てすこしひかりを浴びた。夏っぽく暑い晴天の日で、雲はぽつりぽつりとスポイトで落とされたようなものが青空のなかに散っているのみ、陽射しはあたりいっぱいによくとおって同時に風も絶え間なく、日なたにしゃがんで肌に熱を吸っているあいだ、周囲の洗濯物や眼下の緑がざわめいて、柵に干されたシーツなどひとりであそんでいる猫のように風にふくらんではみずからすれあって音を出していた。

 ニュース関連は下部に。直下の記述はQueen & Adam Lambertについて。

豆腐やおにぎりを用意してきて腹を満たした。それからデスクについて書抜き。夕食後で下階にいるあいだ、トイレに立ったさいに上階のテレビで音楽がかかっているらしき音が聞こえ、それがたぶんじっさいには違ったとおもうのだがなぜかQueenに聞こえて、『News of the World』をおもいだすところがあり、Amazon MusicQueenを検索してしかし『News of the World』ではなくて『Queen Rock Montreal』をながしたのだけれど、そのさいQueen & Adam Lambert『Live Around The World』という音源を発見してこんなもの出ていたのかと目にとめており、それでいまこれをながした。Adam Lambertというひとはなまえをちょっと聞いたことがあるくらいでなにも知らなかったのだけれど、『アメリカン・アイドル』のオーディションでゲストとして来ていたBrian MayRoger Taylorに見留められてその場でいっしょにやろうと打診されたらしい。聞いてみると非常に若々しいボーカルで、なんというか生意気ざかりの少年みたいな甲高さをどこかにのこしたような声で、歌はやたらうまく、かなり高いところまで出て音域的にはFreddie Mercuryを(彼がたまにアウトロとかでやっているファルセットの超高音を除けば)ふつうにカバーしているし、声をあぶなげなく制御する力でいえば安定性はたぶんMercuryよりもうえで、こいつはステージに立つと華があるだろうな、というかんじ。Wikipediaによれば一〇歳から舞台俳優として活動し、ミュージカルもいろいろやってきたようだが、そういわれると納得感がある。ミュージカル、やってそう。なんというか、そつがない。そしてそのそつのなさがちいさくまとまるのではなくて、おおきくたかめられて花開いているかんじ。"Somebody To Love"で終結部にはいるまえにアカペラで高音まであがったあと「ラーアアァアァゥアーアァァヴ……」と観客にうたわせるおなじみの箇所があるが、あそこで悠々と、たっぷりの張りで最高音を出していちど観客にうたわせたあと、まだまだ足りない、みんながもっとクレイジーになってるのを聞きたいんだ、みたいなことを言ってもういちどおなじことを余裕で反復しているのにはすごいなとおもった("Under Pressure"のシャウトなんかもすごい)。ちなみにそのあと、この"Somebody To Love"の終結部は三拍子をやめて、いくらかテンポをはやめた四拍子のロック調になっており、このアレンジははじめて聞いたがAdam Lambertの若々しさに合っているとおもう。書抜きしながら聞いていただけだが、二曲目の"Now I'm Here"など聞くにRoger Taylorのドラムがおもいのほかにパワフルで、もうけっこうな歳のはずだがまだまだすごいなとおもわれたし(この曲は二〇一四年、日本のサマソニでのパフォーマンスらしく、その時点でRoger Taylorは六五歳くらいだったはずだ)、ほかの曲を聞いてもギター・ベース(はジョン・ディーコンではないが)・ドラムとも全体になんだか乗っていたりキレていたりするようで、活力をかんじる。いかにもAdam Lambertによって若い風が吹きこまれたというようなかんじ。それにしても"Don't Stop Me Now"という曲の、あのメロディのつくりとかながれかたとかはすごいなとあらためておもった。歌詞の無敵感と見事に一致している。Paul RodgersはPaul Rodgersで歌がうまく、安定性や節回しのなめらかさじたいはやはりFreddie Mercuryよりまさっていたとおもうが、とうぜんながらPaul Rodgersに若さはなかった。歳をおいても彼は色気の人間であり、そもそも二〇歳くらいでFreeをやっていた時点でも若さはあまりないというか、たかだか二〇歳の若者があんな音楽をやってけっこう受けていた七〇年代ってなんなの? どういう時代だったの? という疑問は湧く。

 2014/2/25, Tue.も。したの一段はちょっとだけおもしろかった。

 風呂を出て、タオルを頭にかぶってごしごしとやったあとに体をふき、下半身から下着をはき、アンダーシャツを着て、ドライヤーを手に取り最大出力にして左側頭部から右側に髪を撫でるようにして乾かしはじめ、前髪を左から右に流し、後頭部をばさばさとやったあとに全体をととのえ終わるとドライヤーを所定のフックにぶら下げ、横開きの扉の取っ手は小さなへこみで右手にいくらか力を入れなくてはあかず、リビングの物干し竿にかかっているワイシャツをハンガーの右側から外し、それを右肩にかけたまま階段をおり、洗面台からとった歯ブラシを一瞬濡らしてから歯磨き粉をその上に絞り出し、口に突っこんでしゃかしゃかとやりながら短い廊下を渡って部屋に入り、シャツをベッドに投げ出す、これら一連の行動が見事なまでにパターン化されていることを椅子に座った瞬間に意識した。アイロンをかけている途中からなんとなく適当な鼻歌をもらしていたら、それがいつの間にか"Waltz For Debby"のメロディにかたまり、風呂を出てからも頭を離れなかったので、歯を磨いて着替えるあいだBill Evans Trioの演奏をくり返し流した。

 以下で言っていることは(……)さんと、はじめて会ったときだか二度目だったかわからないが(たぶん最初のときだとおもうが)、こういうことおもってんですよね、おかしいなって、とはなしたおぼえがある。そのとき(……)さんは、言語ってのはそういうもんやからね、とこたえたはず。たぶんそれとおなじときだった気がするが(それももうかなりまえなのでわからんが)、喫茶店のテーブルで向かい合いつつ文章を書くこと、描写のはなしなんかをしているあいだに(……)さんが、いまこうやって目のまえにあるものを書くのがいちばんむずかしいからねとテーブルやそのうえのものを手でしめしたことも記憶している。たしか(……)兄弟もいたはず。あれではないか、新宿の、なんといったかわすれたが、「黄金珈琲」みたいな、そんななまえのやたら高そうな喫茶店にはいったのではなかったか? それともそこは、こんなとこよういかんわっつって避けたんだったかな。いずれにしても新宿だったらさいしょに会ったときのはず。そのときにしたのようなことを語ったおぼえがあるということは、(……)さんとさいしょに会ったのはここからまもなくのことではないか。書いているうちにおもいだしたが、三月か四月のよく晴れた日で、「東京の西の端から東まで、雲をひとつも見ない日だった」みたいな書き出しで、ちょっと演出がかった書き方をしたのではなかったか。三月一日か、四月一日だったかもしれない。それか三月九日か一〇日だったかもしれない。東京大空襲の日だったかもしれない。

 労働はつつがなく終わって、帰りは電車に乗った。駅から坂道をおりて空を見上げると、夜空の色が淡い気がした。水を混ぜて薄く伸ばした墨で塗ったような色で、そのせいか星もあまりはっきりとは見えなかった。駅からわずか十分ほどの道のりだったのでマフラーをつけなかったが、風もなく、寒いとはいえ凍えるほどではなく、体の表面をつたう冷気が内側にまでは入りこまず、むしろ内奥でわだかまる熱を感じられるほどだった。帰宅して食事を済ませ、風呂に入ってくつろいだ。ぼけっとした頭で、毎日飽きもせずに日記をつづっているけれど、せいぜい二千字から三千字くらいにしかならない、最近では多くても五千字いくかどうか、過去もっとも書いた日でも一日で一万五千字というところで、その日一日という時間を過ごしてきてそのあいだに無数の出来事があるはずなのに文章にするとその程度にしかならず、それを読むにはさしたる時間もかからない、これは当たり前のことだが不思議なことで、こうして湯に浸かっているときだって三十分かそのくらいはかかっているはずだが、それが風呂に入った、のわずか一言で済まされてしまう、言葉にするとそんなにも圧縮されてしまう、それはおかしいのではないか、一日という時間を書いたウルフの『ダロウェイ夫人』でさえ三百頁程度で、しかも複数の視点をあつかっている、一日という時間をそのまま入れたような小説、読むのに実際に二十四時間かかる、とある一日の小説、そういうものがあってもいいはずだ、と考えた。一時間五十頁として、二十四時間で千二百頁、千二百頁でわずか一日のことを語る小説。それはおもしろいのかどうかわからなかったし、どのように書けばいいのかもわからなかったし、仮に実現可能だとしてどういうものになるのかもわからなかった。

 (……)といままでじっさいに会ったことがあるのは一回につき二日三日連続のセットで計三回だったはずで、さいしょがたぶんこの一四年中の新宿。二回目はドナルド・トランプが大統領に当選したときだから、二〇一六年の一一月七、八、九あたりだろう。このときは『囀りとつまずき』が出たばかり、ではなかったかもしれないが、それが最新作だったので、行きの電車で読みかえして(たしか再読だったはず)、読んでいるうちにああいい小説だなあとおもって胸がどきどきしてきて、それを(……)さんに会ったときにつたえたら、だいじょうぶか、また発作起こるぞみたいなことを言われたが、だからちがうか。『囀りとつまずき』を読みながら行ったのは、三回目のとき、一八年中の不調から回復したあと、一九年の二月四、五、六、あたりか。(……)さんと(……)さんと会食し、二日目はどこだっけ、恵比寿だったかの写真美術館みたいなところで杉本博司の展覧会を見て、三日目は荻窪で(……)さんと合流して、とこれもちがうか。たぶん三回目の二日目が荻窪で(……)さんと合流して、ささま書店に行ったときだな。それで三日目に昭和記念公園に行ってワギャンに遭遇する。杉本博司の展覧会を見たのは二回目のとき、二〇一六年のときだ。たぶん。そのあと恵比寿のそこでカフェにはいって、蓮實重彦とかのはなしをして、でもぼくも読み書きはじめて三年ですけど、こうやって、はなしわかるようになってきてますからねと自画自賛したところ、たいした成長ぶりやねと褒められた記憶がある。二回目のときはまた上野になにかの展覧会を見に行ったはず。たぶん国立西洋美術館で、印象派ゴッホかなにかだったはずだが。その後上野公園から駅前のほそい下り坂をとおってちかくのあれだ、通りの向かいにいろいろ飯屋がならびつつ、こちらがわにも飯屋がたくさんはいったビルがあってその一階にあった喫茶店にはいって、そこでロラン・バルトが「ニュアンス」という概念について言っていることをおぼろげにはなして、『囀りとつまずき』は「ニュアンス学」の実践として取れるんじゃないかみたいなことを言ったので、だから一六年はやはりこの作品が出たばかりだったのだ。あとたぶん一六年のときだったとおもうが、(……)さんもまじえてワタリウム美術館ナム・ジュン・パイク展も見に行った((……)さんはたしかあのときはいなかったんだよな?)。そこでエレベーターのなかで(……)さんが、プラトンだったかソクラテス関連の本をなにかもっていて、さいきんちょっと興味あって読んでるんすよ、と言っていたのをおぼえている。上野に行った日も(……)さんもいた気がされて、たしかかれのすすめで美術館ではなくて国立科学博物館に行ったのだ。それでクジラの腸のなかだかにいるクソながい寄生虫がどーんとばかでかく展示されていてめちゃくちゃグロテスクだったのとか、最上階にあつまっているでかい鹿とかの剝製を見て、やっぱり角ってのはかっこいいよねとか言い合ったのをおぼえている。しかしバルトのはなしとかをしたときには(……)さんはいなかった気がするので、一六年のときは上野に二回行ったのだろうか?


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 ついに六時に覚醒するような、早起きは三文の徳スタイルになってしまいましたよ。とはいえそこではまだ起床に向かわず、目を閉じてもうすこしまどろみ、七時一〇分に正式な覚醒をむかえた。さっそく鼻から息をゆっくり吐きはじめる。起き抜けはやはりからだぜんたいが睡眠モードで停止したあとなので、抵抗がおおきくてなかなかひろがっていかない。すぐにおもいだしていったん身を起こし、布団の脇に置いてあったペットボトルを取って何口か水を飲んだ。それからあおむけにもどってゆっくりじっくり呼吸。腕をまえに伸ばしたり、反対に万歳をするようにして枕をこえてうしろにもちあげ、胸郭をひらきやすくしたりする。あいまにてきとうにこめかみなどを揉んだり。カーテンをめくって空をみてみるときょうは真っ白な曇り。のちには穏和そのものという、木もないのに木漏れ日のような、シャボン玉めいて透明な球状にかたどられて浮かぶかのような、そんな陽のいろもカーテンにみえたが、午後二時現在では曇っており、空気のいろにどことなくあやしい先行きがふくまれているようにもみえる。そうこうするうちに起き上がってみると八時一〇分になっていた。カーテンをひらいて脛の側面などを揉む。椅子について水を飲みつつ、ティッシュと消毒スプレーでパソコンを拭いてNotionを支度。トイレに行ったり顔を洗ったりしたあと、きょうは寝床にもどらずもう瞑想をしてしまうことにした。深呼吸でからだがわりとセットアップされているので。このさいしょの瞑想のときのことをなぜかぜんぜんおぼえていないし、何分くらいやったかもおぼえていないのだけれど、たぶん二〇分か二五分程度だろう。おそらくまずまたいくらか息をゆっくり吐いてから静止したのではないか。喉の詰まり感はかんぜんにないわけではないが、よほど楽にはなった。深呼吸をするあいだも、静止しているあいだも、喉とか腹とか、喉奥に液体があがってくるかとか、そういったからだの諸相を観察しつづける。あがってくる感じはまったくないではないが、かなりかすかではある。それで瞑想を終えると食事へ。ひとつはきのう椀に取って保存しておいたあまりの煮込みうどん。それにサラダもすくなめにつくることにして、キャベツの半玉が終わりにちかづいているのでてきとうにザクザク切り、あと豆腐とトマトとハムを合わせた。和風しょうゆドレッシング。食べているあいだは一年前の日記を読みかえしたが、わりとすぐに食べ終わるのでそう読めず、食器類を洗ってかたづけると、一〇時からの通話まであと三〇分ないくらいだった。それで野菜スープをつくっておくことに。通話をしているあいだに煮ることができるので。水切りケースに入れたばかりのまな板と包丁をもういちど取り出し、タマネギひとつ、エノキダケを半分、ニンジン一本、大根少々、ネギの余りを切ってザルに入れ、鍋に油を垂らして熱すると炒めはじめた。れいによっていっぺんに入れると炒められないので、ある程度分けながら投入し、木べらでかき混ぜて熱を通す。このくらいかなというところで水をそそいで最弱の火に。あとは放置。そうすると九時五六分くらいだったので、通話前にすこしだけでも心身をおちつけようとおもい、椅子にすわって目を閉じ、左右の腕置きに腕を乗せて静止した。三分でも五分でも、じっと止まってからだをしずめる時間をつくるのは大事である。目をひらくと一〇時を越えて三分になっていたのでZOOMにログイン。あいさつ。通話中の会話はれいによってあとで。きょうからUlyssesを読む。
 一二時で終了。通話中、トイレに立ったついでに鍋の灰汁を取って出汁や鰹節を入れておいたが、それにくわえて鶏ガラスープの素とか醤油とかを少々混ぜて、またしばらく。過去日記をちょっと読んでからボトル型の味噌をお玉になんどか出して混ぜ入れた。野菜を切ったザルを見たときには、エノキダケの白さもありニンジンとネギの色が対照にもなり、これはやっぱり味噌かな、ほんとうはもっと白っぽいいろの、薄色の味噌をつかえば、スープがさらさらとした黄土色というか、辛味のまったくないからし色というか、そんな傾向のあかるさになって、そこに透明な影のような油の微細円が浮いて、野菜のいろとあいまってうつくしいのだろうが、とおもったけれど、長時間煮まくってくたくたになるので、そうすると色のあざやかさなど失われてしまい、けっきょく関係なかった。それを椀に盛り、一年前の日記をしばらく読んでやや冷めるのを待ってから、やわらかくほくほくと煮えた野菜を箸でつまんで口のなかで崩しはじめた。うまい。二杯食べる。食後もまあかんぜんに違和感がないわけではないけれど、かなり平常に寄ってきたと言ってよいだろう。わすれていたが、通話を終えたあと、一二時四分からまた瞑想したのだった。深呼吸と静止をセットにしてやるのがいちばんよいのではないか? とおもい、さいしょにしばらく息を吐いて、てきとうなところで静止。呼吸中も静止中も、いちどめの食事の消化によって生み出されたのか、ゲップまではいかないけれど胃のなかの空気がのぼってきてぎゅるぎゅるぐうぐう音を立てることがつづき、これはむかしからよくあることだけれどさいきんはなかった。これはこれであまりきもちよくはないのでなくならないものかとおもうが、とりあえずそういう水準、そのくらいの胃のはたらきまでもどったと見るべきなのかもしれない。起き抜けに深呼吸するようになったからだろう。ただ呼吸法だけだとどうしてもからだが活動的になりすぎるというか、血のめぐりや脈動の響きがつよくなるので、静止して身をおちつかせる時間もつくらないとバランスがよくない。だから瞑想するときに両方セットにすればよいのではないかとおもったのだ。まえも一時期そうしていたが。いずれにせよいまヤクを一日二錠飲むようになり、養生法もそういうかたちにしてだんだんよくなっている感はあるので、一週間後にはたぶんしごとに復帰できるだろう。電車に乗ってどうかというのがちょっと不安だが。ともあれヤクはけっきょく対症療法でしかないので、運動したりとか、適したからだのメンテナンス法を見つけて鍛錬し、心身の健全性を全体的にあげていくというか、体質改善みたいなことをやっていかないと根本的な解決にはならない。
 ここまで記すと二時半。窓はあけている。野菜スープを食っているときやそのあとは汗がかなり出て暑いが、いまは曇天の地味な空気が部屋内でもほんのりと涼しい。保育園の子どもがそろそろ目覚めていて、おはよう! と女児が言っているのが聞こえた。数日前からちかくで工事、もしくはなにか建設をしていて(昨晩の散歩で見かけたあれか)、トンカントンカンいう音とか、ビシィジジジジみたいな加工的な音響とか、人足の声が聞こえる。きょうは書店に行って、鈴木大拙『禅』を買ってきたいとおもっている。いちおう九時までやっているはずなので夜でもよかろうが、おあつらえむきに曇りなので、暮れないうちに出ても良いかもしれない。あとは一〇月一日、二日をしあげられれば。


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 いま五時四七分。(……)さんのブログ。九月三〇日から。

 (……)教室の鍵をあずかっていたわけだが、到着してみるとすでに開錠されており、さらに中には(……)さんと(……)さんの仲良しコンビが先着していて、ふたりなかよく椅子にすわってフルーツを食っている。こちらも混じる。ふたりが食えとフルーツを差し出してみせる。よくわからないフルーツ。こぶりのりんごくらいの大きさで、外観の色合いもりんごに似ているのだが、にんにくの芽みたいに先端がちょっととんがっている。あるいはちょっと桃みたいなかたちをしているといったほうがわかりやすいかもしれない。それを半分に割ると、なかに赤いつぶつぶがたくさん埋まっている。いわゆる蓮コラとかが苦手なひとは「うげ!」と思うようなアレかもしれない。ひと粒食う。ひかえめな甘さ。ときどき苦いのも混じっている。(……)さんが検索して名前を見せてくれる。ざくろ。あー! これがざくろなのね! という感じ。

 ざくろと見て、小学生のころに校庭に生えていたザクロの木から実を取って食ったことがあったな、とおもいだした。たぶん禁止されていたのだが。また、まえにも書いた気がするけれど。(……)小学校はわりとひろびろとした校庭のいっぽうに石段が何段か積み重なっており、そのまんなかあたりに二股に分かれた階段通路ができていて、そこをのぼって段上にある校舎の正面昇降口にいたることになっていた(校庭のいちばん左のほう、というのは西側だが、そこには学童保育などがおこなわれていた小棟があり、その脇に奥につづく階段があって、最上段からいくらか下がった位置に校舎の一部としてつながったまたべつの棟があり、そこにも昇降口があった。低学年のころはそちらからなかにはいっていたのかもしれない)。で、その階段がちょうど左右に分かれる地点にザクロの木が生えていて、こずえのうえは校舎がある最上段の昇降口のまえ、水道が設置されていた位置になるが、その木に成っていたザクロの実を、たぶん小学校五年生くらいのあるとき、なかまとさそいあわせて採って食ったことがある。酸っぱくてうまかった。たぶん二、三回やったのではないか。それとはべつで、小学校五年か六年のときに「総合」の時間という授業があり、あれはたしかいまや悪名高いゆとり教育の一環としてとりいれられた科目だったはずで、まあなにをやったというのも説明しづらい科目だけれどだいたいのところまとめ学習的なことをやったはずで、あるときなんかでかい画用紙に情報をまとめて記事みたいにして体育館で展示するということがおこなわれた。そのさいにザクロにまつわる怪談(たぶんザクロの実が人間の顔で、それを食べるとじぶんもザクロになってしまう、みたいなやつ)を、こちらの班がまとめたのだったかべつの班だったかわすれたが見たおぼえがある。
 したは中国事情。

 で、大渋滞の裏町をまた引き返す。日本であれば確実に一方通行になるだろう路地、というか車両禁止になってもおかしくない路地であるのだが、一方通行ではないし、それどころか路駐している車まである。夜になればそれにくわえて道路の一部をしめる屋台まであらわれる。当然車がすれちがおうとする場面では困難が生じるわけだが、そういう場面にでくわすたびにいつもすごいなと思うのは、とりあえず車がすれちがうことのできるように、たとえば後続するバイクがいったん後ろに下がるとか歩行者らがスペースを空けるとか、そういう気遣いをする気がマジでだれひとりないことであり、それどころかむしろ硬直状態におちいった車のその脇や前を、水が石をさけて流れるように、ひとも自転車もバイクもみんなガンガン通り抜けていく。結果、車はますますその場から動けなくなる。でもそれでドライバーが怒るわけでもないのだ。なんかもう、全部が全部出たとこ勝負で、ぐちゃぐちゃなのだ。

 したは一〇月一日冒頭。食事とともに一〇月二日分まで読んだ。

(…)我々は、カントが最高善と「最高悪」を構造上全く同じものにしたことを批判するのではない。むしろ、彼がこの構造的同一性に気づいていなかった、あるいはこれを認めようとしなかったことが問題なのである。カントにしたがって——と同時に、彼に反論して——我々は次のように主張する。悪魔的な悪、最高悪と最高善とは区別することができない——これらはともに、達成された(倫理的)行為の定義に他ならない。言い換えよう。倫理的行為の構造の内に善悪の区別は存在しない。形式的には、善も悪も全く同じなのである。
 このように、カント倫理学における倫理的行為の形式的構造は、何らかの善(の概念)を前提として成立しているのではなく、むしろそれを定義する。善とは、行動の形式的構造の名称にすぎない。この点についてはラカンも言う、「実在するどのような合法性の基準であれ、ある行動原理が普遍的規則としての地位に就くことができるかどうかを決定することができない。なぜなら、最終的にこの地位は、それをすべての合法性の基準に対立させかねないからである」。倫理一般に関する最大の逆説は、倫理を打ち立てるためには、我々はすでに倫理を、善について何らかの概念を、もっていなければならないということだ。カント倫理学の最大の課題は、この逆説に陥ることを避けることにある。カントは、道徳律はそれ自身としてのみ成立すること、善はこの道徳律があって初めて善となることを示そうとしているのである——その代償は、けっして小さなものではなかったのであるが。
「君の意志を決定する行動原理が、いつであろうと、普遍的な法を生み出す原理としても成立しうるようなかたちで行為しなさい」——このように公式化された至上命令に内在する逆説は、その「定言的=無条件的[カテゴリカル]」な性格にもかかわらず、この命令がすべてを広く開放したままにしていることである。もし善(つまり普遍的に望ましいと考えられるもの・こと)に関する何らかの考えに初めから導かれているのでなければ、どうして私に私の行動原理が普遍的な法を与えるものかどうかわかるというのか? 経験とは無関係に存在する普遍性の基準など存在しないというのに? 確かにカントは、この基準を無矛盾の原理の内に見出したが、この基準の脆弱さについては多くの批評家たちが指摘する通りである。ヘンリー・E・アリソンが言うように、うまく公式化しさえすれば、あらゆる行動原理は普遍化のテストを通過することができる。あらゆるものが普遍的原理となりうる、つまり、何ものであれ前もって倫理から排除されることはないのである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.112-113)


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Martin Belam and Guardian staff, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 222 of the invasion”(2022/10/3, Mon.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/03/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-222-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/03/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-222-of-the-invasion))

Volodymyr Zelenskiy confirmed Ukraine has “fully cleared” Russian forces from the key eastern city of Lyman, a day after Moscow admitted its troops had pulled out after they were encircled. Ukraine’s president thanked serving Ukrainian troops for liberating Lyman.

Lyman’s recapture by Ukrainian troops is Russia’s largest battlefield loss since Ukraine’s lightning counteroffensive in the north-eastern Kharkiv region in September. Russian forces had captured Lyman from Ukraine in May and had been using it as a logistics and transport hub for its operations in the north of the Donetsk region.

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The US and its allies would destroy Russia’s troops and equipment in Ukraine and sink its Black Sea fleet if Russia uses nuclear weapons in the country, former CIA director and retired four-star army general David Petraeus warned on Sunday.

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Ukraine is starting to believe it can take back Crimea, according to Zelenskiy’s top representative in the region. While there’s no suggestion that Ukraine is close to being in a position to regain the annexed region, Tamila Tasheva and her team spend their days discussing the logistics of what would happen should Kyiv regain control.

Patrick Wintour and Haroon Janjua, “Iranian students defy security forces as anti-regime protests continue”(2022/10/3, Mon.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/03/iranian-students-defy-security-forces-as-anti-regime-protests-continue(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/03/iranian-students-defy-security-forces-as-anti-regime-protests-continue))



Justin McCurry in Tokyo, “Japan consul ‘blindfolded and restrained’ during FSB interrogation in Russia”(2022/9/27, Tue.)(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/27/japan-consul-blindfolded-and-restrained-during-fsb-interrogation-in-russia(https://www.theguardian.com/world/2022/sep/27/japan-consul-blindfolded-and-restrained-during-fsb-interrogation-in-russia))


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 いま日付が変わって一〇月四日の零時九分。さきほど一日の記事を終えて投稿。きのう、二日の分もあとは夜歩きのことを書くくらいなのでこのままやってしまってもよいのだけれど、それより文を読みたいきもちのほうがあるので、書くのはあしたにしようかとおもっている。からだの感じはだいぶよい。飯を食ったあともほぼ平常という感覚なのだけれど、しかしおそらくそれはじぶんがそう感じているだけで、からだじたいはまだまだ平常などではないとおもう。というか、じぶんのいままでの平常がたぶんそんなにレベルが高くなかったというか、胃と食道につねにちょっと不調をかかえながらみたいな感じだったはずで、これを機にからだ全体の健全性をよりあげていかなければならない。昼過ぎに二度目の食事を取ったあとはやっぱりからだと内臓に負担がかかって、身のなかはざわざわした感じでよくうごめくし、輪郭もこまかい波打ちがつねにつづいているかのようで、どうしてもちょっと上擦るよなとおもい、音楽を聞いて身をしずめることにした。それでceroの『POLY LIFE MULTI SOUL』をながしたのだけれど、早々にねむくなってしまってほとんど聞けず。ただ冒頭曲なんか聞いているあいだ、きのうはこのアルバムのルーツがわからんみたいなことを書いたけれど、これはやっぱりあれなのかな、Robert Glasper以降の音ということになるのかな? とおもっていた。ドラムとか、ベースのうごきの感じとかにそのへんおもわないでもなかったのだが。GlasperとかThundercatとかDerrick Hodgeとか、あのへんがなければやっぱりこういうのは出てこなかったのかな? という。ぜんぜんわからんが。それで五曲くらいながしたけれどちっとも聞けず、ヘッドフォンをはずしたあとも椅子についたまま目を閉じてじっとしているとまどろみに刺されて、気づけばあたまがうつむいているし、なんと肌着の黒シャツによだれをちょっとだけ垂らしてしまうようなありさまだった。そんなことは近年絶えてなかったぞ。その後も布団に逃げてちょっと休んで、おかげでだいぶからだはすっきりしたのだけれど。きょうは書店に行って鈴木大拙の『禅』を買ってこようとおもっており、もともと夕刻に行こうかなとおもっていたが、腹も減ってきていたし、外出するならやはりヤクをもう一錠飲んでからにしたいとビビりごころがはたらいて、それで食ってから出ることにしたのだが、さきほどつくった野菜スープにまたうどんを入れるわけである。これがとにかくうまい。この食後あたりからからだの感じはなかなかいいなとなってきていた。鈴木大拙の『禅』はけっきょく書店になかったので帰宅してからAmazonで注文したのだけれど、七時一五分ごろに出てとうぜんあるいていき、帰りもあるいてちょうど二時間くらい、書店にいた時間をのぞいても一時間半くらいはあるいたはずで、きょうの歩みはめずらしく意気軒昂という感じでずんずんすすみ、きもちがよく、いろいろ印象もあってそれも書きたいがあしただ。ただふだんゆったりあるいてばかりいるくせに急に軽々とはやく歩を踏んだものだから、書店にいるあいだに左足の甲がちょっと攣ったが。『禅』はなかったのだけれどせっかく来たからにはという余計な精神がはたらいて、しごとを休んでいて金もとぼしい身なのにバタイユとかニーチェとか気になった単行本とか買ってしまった。本は『禅』が来るまでまだあるものだから、それならもう図書館で借りたアンナ・カヴァンを読み出してしまおうというわけで、『草地は緑に輝いて』をはじめた。冒頭のタイトル作はみじかいがまとまっているしけっこうおもしろかった。まあちょっとだけシュルレアリスムというか、カフカっぽいといわれそうなモチーフがはいったりもしている。つぎの「受胎告知」というのはそんなに、まあふつうかな、というところ。


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 うえまで書いたところでシャワーを浴びたが、そのまえに髭を剃った。ついでに顔ぜんたいも。髭が伸びてくると、たぶん毛や毛穴に脂が溜まるからだとおもうのだけれど、顎とか口のまわりとか顔がちょっとかゆくなってくるのが鬱陶しいんですよね。一九世紀の知識人とか芸術家とか政治家とか、ああいう連中はそういうことをかんじなかったのだろうか? かれらの髭にたいするあのオブセッションはいったいなんなのか? マルクスもそうとうなものだけれど、エンゲルスとか画像検索してみるとかなりやばいので、興味のある向きはぜひ。さすが、一九世紀後半から二〇世紀以降の世界に最大の影響をあたえたひとりである偉大なるマルクスのパートナーというわけか、髭もぜんぜん負けていなくて、マルクスがライオンスタイルで勝負だというなら、エンゲルスは、まあまあ顔の側面などは置いておいて、おれは口もとと顎に一点集中だという感じで、顔の下端にたわしか触手か、森の地面から土ごと取ってきた巨大な苔のかたまりをつくって育てたみたいな密生ぶりで、ここで虫飼えますよね? という感じ。
 湯を浴びたあとはアンナ・カヴァンをいままた読んでいるのだけれど、翻訳はけっこう良いというか、アンナ・カヴァンじしんがすくなくとも文や語のレベルでそんなに凝った表現をする作家ではなく、過不足なく、という感じを基本にしつつ、うつくしいイメージとかをときおりまじえていく印象だけれど、翻訳文は日本語としてリズムがきちんとしているし、違和感なくよくながれ、ときどきじぶんはこれつかわないなという語彙もあるからそういう部分は書きぬこうとおもう。あと、46ページで「けっきょく」と、「結局」をひらいているのはおお、とおもった。じぶんもひらくので。けっきょくをひらく書き手はかなり少数派だとおもう。そうでもないのか? こちらなんかはこういう種類の文章だから好きにひらけるけれど、ちゃんとした作品で、本になってる文章で、というときにけっきょくをひらくのはけっこうおもいきりがいるんじゃないか。


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 後藤繁雄「Re-think 現代写真論――「来るべき写真」への旅: 第02回 進化するパイオニアたち① エグルストン」(2018/3/30)(https://www.webchikuma.jp/articles/-/1231(https://www.webchikuma.jp/articles/-/1231))をどこかしらで読んだ。

 当時、イメージプロセッサが普及して、カラーのプリントをラボに発注しなくても写真家が自分のスタジオで制作できるようになったのだ。それまでは雑誌や広告の写真入稿は全てポジだった。
 高橋恭司は、日本のニューカラーフォトグラフの先導者として、1990年代初頭に突如出現した、何の文脈からも独立した異才だった。この異才から日本の90年代写真の全てが始まったと言ってもよいぐらいだ。
 エグルストンは、ダイトランスファーという、ある種、写真を版画的にプリントする手法を使っていて、それが日時風景を微妙に変換させていた。この秘密を、僕と高橋恭司とでよく話し込んでいたのを思い出す。
 (…………)
 「カラー写真は、アートにならない」という論争は、以前から写真家アンセル・アダムスとエリオット・ポーターの間でも交わされていて、カラー写真の色の「不安定感」が主因とされていた。
 確かに、1976年にニューヨーク近代美術館において、カラー写真で、初めて個展が行なわれたのはエグルストンであったが、彼の評価は、まだまだ定まっていなかったというのが正確だろう(この展覧会に合わせて出版されたのが彼の初期代表作を集めた写真集『William Eggleston's Guide』である。長く絶版だった)。

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 『現代写真論』の冒頭において、シャーロット・コットンもまたエグルストンとショアを取り上げる。
 そしてエグルストンについて適切な分析を行なって、こう書く。

「エグルストンの写真は、構図が戦略的であり、取るに足らない対象や視点を迫力ある視覚的形態へと緻密に変容させた。まずはエグルストンがカラーを使った作品を制作し始めたのだが、その試みも当時はまだ、造形美術として確立された写真の領域には受け入れられなかった。だが、1976年になると、彼の作品(1969年から71年にかけて制作されたもの)がニューヨーク近代美術館で展示され、カラーを主体とした写真家の個展としては初めての展覧会となった。ひとつの展覧会がアート写真の方向性を決定付けたなどと事態を簡略化するつもりはないが、この展覧会によりエグルストンの手法にある可能性が時宜を得て紹介されることとなったのである。その後30年間にわたり、彼の評価は上昇の一途をたどる。エグルストンは依然として「写真家」を先導する存在としてアート写真の分野に大きく貢献し続けており、現在でも世界中の本や展覧会で取り上げられている」

 シャーロット・コットンの視点は的確だ。彼女はエグルストンを70年代の半ば以降、写真を作家の自己表現的に捉える「モダニズム」から、われわれがどのように世界を見ているか、その「まなざし」の制度を逆手に取った「ポストモダニズム」のエッジーなものとして写真が再定義され、つくられるようになったと考えている。
 エグルストンの写真の秘密は、日常的なものを、あたかも初めて見たような気分にさせる視点、色、構図にあると言うのである。
 オーバーに言えば、世界を「平等 [デモクラティック] に」捉え、世界を「再発見」すること。それがエグルストンの発明なのだということになる。意味と無意味、美しいものと汚いもの、文化的文脈と切断、全体とフラグメント化。それらのイメージをないまぜにしながら、イメージの強度を生み出す力。
 彼以前の写真家の多くが、「決定的瞬間」というクライマックスを「写真の力」の秘密の回路にしていたのに対し、エグルストン(やショアも)はアンチクライマックスでありながら、かつ、絵画的な物語性やイメージの引用に頼らない方向を選択した。

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 僕は1992年にメンフィスで、2005年、2010年に東京で、彼にインタビューしたが、そのときこう言った。

「自分を越えて外に出なきゃならないのさ。そうしなければ、ずっと同じ道を運転しているようなもんだ。外国人になろうとするってことは、アンユージュナルな見方をすることだ。例えば、この冷蔵庫の写真。いつもの冷蔵庫がいまだかつて見たことないように見えるんだ。急に見たこともないものに見えたら、写真を撮る。そして、それは風景写真じゃないんだ。クローズオブザベイションって言ってもいい……観察だ」(1992年)

「メキシコへ行っても、東京へ来ても、全く同じさ。いつも、事前に何が起こるか、何もわからない。何を期待していいのかさえわからない(笑)。全く撮らない日もあれば、プロジェクトによっては、行った先で数百枚撮ってしまうこともある。撮影は直感的、インテューティブなものだ。それに撮影は考える間もなく早いし、ときには被写体を見ないこともある。もう、ただ撮る(笑)。……何が動かしているのか。写真がどういうカタチで来るのかわからない。いやわかるんだけども、コトバにするのは難しい……」(2005年)

「今、何が起こっているのか、写真とは今を捉える手段なんだ。日常、生活に一番関心がある。わたしの写真を見て“映画的”とか感想を言う人がいる。それは、全てのものは、絶えず変化してゆく。“映画的”に見えるのは、常に動いてゆくものを撮るからだろう……別に物語を伝えたいと思っているんじゃない。まず、写真ありき。写真は、写真であるということだけだ。そのコトバに付け加える必要は何もない」(2010年)

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 インタビュー中に、エグルストンは、具体的に写真を指でなぞりながら、「ここのところだ。ここが気になる。写真も現実の様々な重なり合いを撮るものだ」と説明した。
 「風景ではなく、観察」。事物が重なり合ったとき、ただイメージの強度がぐっと来る。彼はそのぐっと来る「今」に対してシャッターを押す。彼にとってドローイングは日々の快楽、そのトレーニングの痕跡なのだ。そのことを、インタビューして気づいた。
 写真は絵画をなぞってきた。風景写真やポートレートはそれだ。アブストラクトフォトだって、抽象画をなぞったものはダメだ。なぜなら、写真でしかできないことに向かわない限り、写真がコンテンポラリーアートとして進化していくことはできないからだ。
 それは一体何だろうか。
 エグルストンの戦略は、流動化する世界と並走し、「イメージの今」「イメージの純粋強度」を生け捕ることだ。その快楽の強度は、ドローイングや音楽によって日々身体化されてきたものに違いない。
 写真でなければできないことと、アートであること。
 その2つを満たす解をエグルストンは、シンプルに見つけることができた。彼の強さはそこにある。
 再度言うが、今エグルストンが重要なのは、われわれの日常生活の見方を再考させる「まなざし」を与えたことにとどまらない。それならば過去の偉大な写真家の1人に過ぎない。
 彼の重要さは、全てが流動化する中にダイブし、意味や無意識すらもデモクラティックに超えて、イメージの強度がクロスしたときに、それを「撮る」ということを徹底してやり続けることの有効さを体現したことだ。そこには、まなざしの制度化を逆手にとったアート戦略も、物語性の捏造も、キレイさっぱりない。


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 書店にむけて外出したのは七時一五分ごろ。服装は赤褐色みたいな幾何学図形のTシャツと、いつもの青灰色のズボン。アパートを出ると左折して南へ。Tシャツ一枚では肌寒いかとおもったが、そうでもなかった。とはいえもちろん、ひたひたと涼しく、汗の気配のとおい宵ではある。散歩してもらいながら道の脇にとまってなかなかすすもうとしない犬を見下ろしながら、おもての車道沿いに向かって行く。出ると右、西へと折れてまっすぐすすみ、若い女子らが声を交わすストアやコンビニあたりを越えて、街路樹のならぶ歩道を行った。空は雲がひろく占めているもののひび割れも無数に走って疵だらけの平面から暗い青さがのぞいており、会館駐車場のまえで見上げると天上がずいぶんとおおきくて、断裂だらけの雲膜のいろとひろがりがあきらかだから、なおさらその広大が印象深い。下端のほう、これから行く手の西のさきでは暗んだ青がより見えて、いくらか晴れているようだった。赤の横断歩道にかかったが来るものがなかったので無視して悠々渡り、踏切りも止められることなく越えて、病院てまえの空き地に来ればフェンス内に詰まった草の丈がいっそう伸びているようにおもわれた。細い渡りを越えるとそこは病院の敷地縁、正面入口はまだ先だがそれを知らせる看板の脇、ヒマワリが一本、この一〇月にまだ堂々と、背をすっと伸ばし顔もすこしもうつむかせずに、来るものをまっすぐ見据えてむかえ入れるかに花ひらいている。そこで道を折れて横から振り見た花の厚みはパイのようだ。病院の裏側に来ると道の向かいはひろい駐車場で、先日巨大なトラックにたとえた駅そばのマンションはきょうは灯よりも窓の暗い箇所が目につく。月曜で時刻がまだはやいから、帰宅前のひとがおおいのだろうか。駐車場の果てには街並みのなかから高めのビルが何本か突出してここではもう青い空を後景とし、おそらく自動車教習所のものとおもう紅白の電波塔のあたりをよく見れば、雲は湯気のようにうつりづらい希薄さでみだれた帯状にながれていくらか混ざっているようだ。駐車場縁の木々はどれも枝を剪定されて葉はとぼしく、いちばんしたの枝に一枚だけついたやつが微風にぱたぱたひたすら往復していたりする。あゆみにつれて前景と後景がそれぞれの速度でうごき交錯する、そのような空間性は目にたのしくて、わりと好みだ。深呼吸のおかげだろうが、いつもよりよほど速い脚のはこびだった。からだのテンションもあがっているようでしぜんと脚がするするうごき、呼吸もかるい。病院や文化施設の裏をあっという間に過ぎて車のながれる幹線に来ると、北向きに進路を変える。車道にかかる電灯はれいの不穏なようなオレンジ色で、いまは信号も赤、暖色というには安堵感のないいろたちが路面や宙に希薄にひろがり、青い色はといえばもうすこしさきの交差点の角に立つホテルの前面、アルファベットで名がしるされたうえの、なんの花なのかわからないけれど、ロゴマークのそれのみだった。信号が変わればその青碧色がオレンジの粉のなかでいかにも涼しい。交差点では横断歩道につかまった。立ち尽くし、目のまえを横向きにひとびとや、車や、信号が変わってもロスタイムで無理やりとおりぬける自転車二台などが、左右におのおのの速度でながれていくのを目にゆだねる。街をあるいていてよいのは信号待ちでときどき立ち止まる機会があることで、そうすればじぶんがどういう場所にいるのか焦点が合い、周囲の建物によるその場の空間性や、そこで生まれるうごきを、見るというより、しばらくうごかずそのなかにあることができる。まえにもいちど書きつけたけれど、それは音楽における休符のようなもので、歩行の道行きに別種のリズムを導入してくれるつかの間だ。通りを渡ってホテル脇をすぎれば立体交差にかかって、おおきな擦過音を撒き散らしながら走ってくる車たちのライトは歩道を画してまもる柵のすきまからまっすぐ漏れて足もとをながれ、車の進行と角度の変化によってこちらの観察を待つこともなくつぎつぎと、ひかりが、というよりはながい棒となった柵の影が、生まれたそばから回転運動の軌跡で靴のちかくを離れ去っていく。右側はそのうえにこれもホテルなのかマンションなのか、ともかく高い建物を載せた段が白壁をなしており、その表面にも車のライトが、白さのなかのさらなる白さの影となって、なにともつかない刹那のかたちをひらめかせながら生まれてすぎていく。頭上を電車が通る位置に来ると車道のほうも屋根が閉ざされて、あちらもこちらもまたオレンジ色の灯にひたり、すこし眼下に位置する車道との境はときおり柱のあいだにある開口部を無骨で太めの柵が埋めているが、コンクリートらしいものの長年の土埃が溜まって鼠色を濃くしつつ古びたそれは、年季のはいった石でできているかのような風合いだった。抜けると目抜き通りのてまえのいくつもの道の合流地、まず横にこまかく三回渡ってから、縦の横断歩道を待つ。行く手は通りの左右に浮かぶ街灯の丸い白光やら、車の尾赤灯やら、大交差点の信号の青赤やらであかるくはなばなしい。渡って歩道を西にすすめばだんだんとあかるさが増し、ひとの数も増えてきて、交差点まわりはいかにも雑踏、横断歩道をわたる脚また脚のそれら独自の速度をもって不規則におびただしいうごきだけでひとつのスペクタクルめいている。ここでもまた止められた。この目抜き通りは車道のまんなかに木が植えられているから、立ち止まっているこちらのまえで落ち葉が一、二枚、かすかに地をこすり、また宙にひらひらはなれるのもあって、そのへんの端に散らばっている葉のなかにくわわっていく。渡ってまたまっすぐすすめば(……)のビルはもうそこ、高架歩廊にのぼって二階からはいり、時刻は八時でつうじょうフロアはちょうど扉が閉ざされているころなので、エレベーターで上階に行った。降りて入店。鈴木大拙『禅』を買いに来たので、ともあれ文庫の区画に向かう。端からはいって選書を横目にみやり、行き当たった平凡社ライブラリー岩波現代文庫岩波文庫のピックアップを瞥見し(岩波現代文庫ブレイディみかこ『ロンドン・コーリング・リターンズ』(だったか?)はすこし気になった)、講談社文芸と光文社古典新訳も一瞬だけ立ち寄って、それから壁際角にあるちくま学芸を越えてちくま文庫へ。しかし鈴木大拙はなかった。学芸のほうじゃなかったよなとおもってそちらもみてみるが、やはりちがう。しかたがないのでAmazonで買うことにした。無駄足といえばそうだが、あるく時間を取れたのでよい。金もないし勤務も休んでいるから収入も途絶えているのに、せっかく来たからなにか買って行こうと、そうはたらくのがものを読む者のこころである。というかこれいぜんに、文庫区画に行くまえに、降りたエレベーターの近間が語学や学習参考書のコーナーだったものだから、そういえば(……)くんの授業のために河合塾の英語長文700を入手しておく必要があるんだったとそれをさいしょに確保していた。すると、それだけ買うというのもなんだしなあ、となるわけである。それで海外文学を見に行って、ベケット(『ワット』とか)なんか買っちまうか? とおもったが踏み切れず、フロアをとんぼ返りして思想の書架を見分し、ハンナ・アーレントの『エルサレムアイヒマン』も読みたいんだよなあとおもいつつ四五〇〇円とかだから踏み切れず、ティム・インゴルドとか、水声社のあの真っ赤な、「人類学の新展開」だったっけ? あのシリーズに、フィールドワークにもとづいて「自然」と「文化」の対立を越える思考を理論化したみたいな本もあってそれなんかもすごく読みたいが、なにしろ金がかかる。そのうち、山口尚『人間の自由と物語の哲学 私たちは何者か』という本に行き当たり、「哲学と小説の往還」なんて書かれてあるものだからおもしろそうじゃないですかというわけで、値段も税抜き二八〇〇円だからこのレベルなら踏み切れるぞとこれを買ってしまうことにした。しかしそれで満足せずさらにみていると、バタイユの『内的体験』の河出文庫版を発見する。新訳だろう。まえはたしか平凡社ライブラリーで出ていなかったか? 訳者は江澤健一郎で、この名は(……)くんから聞いたことがあり、いましらべてみるとディディ=ユベルマンの『イメージの前で』というのを訳しているから、たしかこれにまつわって聞いたのではなかったか。ちがうひとだったかもしれないが。メインはバタイユのひとのようだ。それでこの新訳も買うことにして、あと、ニーチェしょっぱなからじぶんはなぜこんなにもあたまがいいのかみたいなことをふかしている『この人を見よ』もおもいだして、買ってしまおうという気になったので、文庫のほうにもどってちくま学芸からそれを取り、そうして会計へ。袋は不要。受け取って移動し、台のうえでリュックサックに入れて、帰路に向かう。
 帰路についてはたいした印象もおぼえていないし、おおかた割愛したい。ルートはとちゅうまで来た道をもどった。立体交差を越えたあとから、病院裏はこのあいだも帰りにとおったしとおもい、ホテルのある角を渡らずに曲がって、(……)の実家のある通りを直進、(……)通りの入り口まで来て折れて入り、小学校のまえを通るとそのうえの空に雲のあいまで星がひとつあかるんでいた。そのあとは(……)通りに曲がって、ふだんよく通るかたちで帰宅。

 
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  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし2」: 56 - 59, 60 - 74
  • 日記読み: 2021/10/3, Sun. / 2014/2/25, Tue.

(……)新聞を読んだ。書評欄には『ベケット氏の最後の時間』みたいな本が紹介されており(評者は長田育恵)、伝記かとおもったところがそうではなく、史実と作品をもとにベケットの終末を仮構した小説らしい。右ページの三冊はどれもおもしろそうで、中島隆博は岩内章太郎というひとの普遍性についての書をとりあげ(評価はあまり芳しくはなさそうだったが)、まんなかの列では木内昇だったかが渡辺浩『明治革命・性・文明』という東京大学出版会の新著を紹介し、上段では国分良成が『暁の宇品』というノンフィクション作品を史料や聞き取りの調査も構成も文体もあわせて第一級だと称賛していた。さいごのものは広島は宇品にあった陸軍の輸送部門やその司令官らを物語った書で、「暁部隊」と呼ばれたその名は広島県令のなまえの一字にちなんでつけられたという。その司令官だったなんとかいう中将が、物資や軍備の状況から見て中国大陸から東南アジアに南進するのは無謀だと上層部に注進していたというのだが、聞き入れられず解任され、日本は情勢判断の甘さをかえりみず対米戦争にはいって敗戦する。南進にともなって輸送線もながく伸び、米国はとうぜん補給路を断つために輸送艦を狙い撃つので多くの船が破壊され、ある島では隊員同士で食料をうばいあう生き地獄が現出したという。のち、広島に原爆が落ちたときの司令官は、本土決戦もありえるなか独断で全部隊員を市内の救出にふりあてたらしい。

     *

(……)台湾南西の防空識別圏に中国機が三八機だったか一日で侵入したという報があって、そんなに? とおもった。一日の数としては最多だという。二〇機と一八機で時間をおいてわかれていたようだが。あとこれは昼間に読んだのだったとおもうが、先のロシアの下院選で与党がいろいろ「奇策」をもちいたという情報があった。モスクワの選挙区のうち三つくらいで、共産党の候補と、プーチン政権がしかけたとおもわれるなんとかの共産主義みたいななまえの新勢力の候補が、同姓だったのだという。ミスを誘い、野党共産党の票を分散させて与党を勝たせようとしたのだろうと。また、プーチンの出身地であるサンクトペテルブルクでは、野党候補に顔がよく似た人間をわざわざ同姓同名に改名させてぶつけたとかで、阿呆みたいなことをやっているがじっさいそれで統一ロシアが勝っているわけである。こうなると共産党が主張していた電子投票の不正も信憑性が出てくるが、なんでもネット上に、選管スタッフが用紙をたくさんまとめて投票箱に入れている映像がながれもしたらしい。電子投票の不正というのは、電子の開票が遅れていたところ、いざ開票されるとそれまで二番手だった与党候補が追い上げてつぎつぎと一位にあがって当選、という事態がたくさんあったことからいわれているらしい。ふつうにやっていておかしくなさそうとはいえじっさいどうなのかわからないが、すくなくともうえのような「奇策」をろうしておきながらも、プーチンは選挙は民主主義に則ってただしくおこなわれたと言っているわけである。

あと、習近平が、元司法部門の長だったか、正確なところをわすれたが、警察・司法方面の幹部を摘発しにかかっているというはなしもあった。このひとはもともと習近平の側近で、政敵を排除するのにも功があったらしいのだが、そんな人間まで排除するあたり強権姿勢がますますつよまっていると。たしかこの幹部は江沢民方面にもパイプがあるとかで、彼やほかの大御所の影響力を完全に排除しようという腹なのだろう、みたいなことが書かれてあった。それで単純な疑問なのだけれど、こういう習近平によって追放されたり粛清されたりしたひとが、裏切ってアメリカにわたったり、わたるまでいかなくともアメリカ側の人間と接触して情報をながすみたいなことはないのだろうか? そういうのもやはり監視されていてできないのだろうか?