2022/10/7, Fri.

 最愛のひとよ、今日ぼくは疲れすぎて、自分の仕事にも不満が多すぎて(ぼくの最も内心の意図に従う力が十分あれば、長編小説の書いた部分すべてをまるめて窓から投出すでしょう)二、三の言葉以上のことは書けません。しかしぼくはあなたに書かなくちゃならない、眠る前に書かれた最後の言葉があなたあてであるように、そして目覚めと眠り、すべてのものが、最後の瞬間に、ぼくの書きものからは受取れないほどのある真実の意味をもつことができるように。おやすみ、あわれな、悩まされる、最愛のひとよ。ぼくの手紙には呪いがかかっていて、最も愛のこもった手すらそれを追い払うことはできません。手紙が直接あなたに加えた苦しみが過ぎ去っても、もう一度それは立ち上り、新しい、ひどい仕方で悩ますのです。かわいそうな、いとしい、永遠に疲れた子よ! 冗談の問いにたいして冗談の返答を――ぼくは、最愛の少女よ、あなたが全然我慢できない。外は暴風です! そしてぼくはここに便箋を前にしてぶざまに坐り、この手紙をいつかあなたがその手にとるだろうとは考えることができず、ぼくらの間にある大きな距離の感情がぼくの胸に横たわります。泣かないで、最愛のひとよ! あの晩ぼくが見た落着いた少女がどうして泣くなんてことができようか! そしてぼくが、そばについていないで彼女を泣かせるなんて、どうしてそんなことが! しかし泣く理由なぞないのです、最愛のひとよ! お待ち、明日ぼくは、お母様に読まれたかもしれないぼくの手紙のことでぼくらがどうしたらいいか、最もすばらしい、最も慰めにみちた、最も鋭い考えをきっと思いつくし、そうしなければならない。では、愛情を、つまり魔法を備え、いまベルリンの方に上げられたぼくの手になにか意味があるとすれば、少くとも日曜日のあいだは落着いていてください! ぼくはなにかしてあげられただろうか? ぼくの長編小説にたいしてと同様、あなたにたいしても成果なしにベッドに入るのではないだろうか? もしそうなるのなら、本当にぼくは悪魔にさらわれるがいい、それも外のあの暴風の力でもって。いや、そうじゃない、あなたは今日ダンスでもして、さらに疲れているのかもしれない。(end160)ぼくはなにも非難しているのじゃありません、最愛のひとよ、ぼくはただもうあなたに手助けしたくて、しかもどうしたらいいか分らないです。もちろん本当の助言者は、ぼくみたいじゃないでしょう。おやすみ! 疲労のためぼくはたえずおなじことを書いているのがわかっていて、ただ胸を軽くするため、自分の満足のため、そうしているのです。そして疲れすぎ、泣きぬれた、遠くからのキスで赤くなった眼がそれをまた読むだろうということを考えないのです。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、160~161; 一九一二年一二月一四日から一五日)




 六時台か七時台にいちど覚醒したが、まだだなとおもって目を閉じ、九時過ぎへと移動。昨晩みじかく歩きに出たときは一時雨が止んでいたのだが、この朝はまた盛んに降っている。あおむけで鼻から息を吐き出して深呼吸をはじめる。腹や脚を揉んだりもするのだけれど、それよりもやっぱりうごきをとめて目を閉じ、呼吸をする時間を取るほうが大事なのではないかという気がした。息を吐くのもただ闇雲にながく吐いていればよいということではもちろんなく、瞑想とおなじで、ちからを入れずゆっくり吐いて吸ううごきのなかでからだの各所の変化を観察し、感じること、それによって全身の統合感を増すことが肝要なのではないか。どうしてそうなるのかはわからないが、意識の志向性を向け、感覚を観察することで(そこにおいて(意識によって)見ること=観察することと感じることはひとしくなる)、身体の変化がうながされ、なめらかな統一性が高まる、つまりより調律されるという感じがある。べつにぼけっとしていたり、なにかべつのことをかんがえていたり、外界のほうに意識を向けていたりしても、ながい呼吸をしていれば血がめぐるからしぜんとある程度はまとまるだろうが、(精神による)視線を再帰的に自己(の身体)へと向けることで統合がより増進されるような。で、そういう観察=感覚のはたらきをめぐらせるには、からだをうごかさずにとまっていたほうがよい。ヨガに屍のポーズとか、あとふつうの座位瞑想みたいなやつがあるのもそういうことなのだろう。なんらかの特殊なポーズを取りながらのヨガはどちらかというと呼吸によって身体を柔軟にして活性化させる向きがつよいとおもうのだが、屍のポーズなんかは静的な、要するになにもしない式の瞑想や坐禅とかにちかいものだとおもう。
 とはいえ脚を揉んだり、耳のまわりやこめかみや眼窩を揉んだりもした。あと寝床で呼吸をするときの体勢としては三つあって、ひとつはただのあおむけ(要は屍のポーズ)、もうひとつは足の裏をあわせた合蹠(呼吸によって太ももが伸縮しやすくなるので、血流がよりうながされる)、もうひとつは万歳みたいな感じであたまのうしろへ両腕を投げ出した姿勢(胸郭付近をやわらげることができる)。一〇時過ぎに離床。脛やくるぶしのあたりをちょっと揉んでおき、立ち上がると椅子について水を飲む。パソコンは昨晩、スリープにしただけだった。解除して、Notionできょうの記事を作成。それからトイレに行って用を足したり顔を洗ったり。気候は寒い。まだ血のかよいきっていない手が冷たいし、昨晩あるいたときにもおもったが、ユニクロにでも行ってダウンジャケットを一枚買ってきたほうがそろそろよさそうだ。寝床のうえに横たわっていても、布団をかけないとからだが寒いので、エアコンをつけた。Chromebookで過去の日記を読み返す。新聞から與那覇潤の話題を読んでいる。

(……)新聞は文化面。與那覇潤が『平成史』という本を出したと。平成時代を「子どもの成熟」としてとらえるものらしい。七〇年代あたりから進歩や発展の観念を基盤としたいわゆる戦後の行き詰まりがあらわになってきて、八九年のソ連崩壊および昭和天皇崩御が決定的になり、それはいわば父の死のようなものだったと。その後の平成はまあ子どもとして好き勝手自由にやればいいじゃないかという雰囲気が基調となり、他方であらたな父的依拠点や説得的な物語の構築を都度にこころみたもののうまく行かず、平成の終わり頃にはそれが常態化して閉塞とか疎外をもたらした。父の死もしくはその否定というのはじぶんに先行するものを受け入れないという姿勢とパラレルで、学問の方面でも先行研究を全否定するようなあまりにも「子どもっぽい」態度が見られるようになったらしい。そうした時代風潮には浅田彰がとなえたいわゆる「スキゾ・キッズ」の観念も影響をおよぼしたと。いまはさらにそれがすすんで一種の刹那主義にいたっているというか、現在と地続きであるはずの過去をそんなものはどうでもいいと無視し、いまが良ければいいとして確固たる基盤のない短期的な視点にとらわれる傾向がひろくはびこっており、たとえばSNSで突発的に盛り上がってすぐに消える抗議運動などにもそれがあらわれていると。こういう言説は非常によくいわれるはなしで、インターネットが普及したことで先行する過去の物々や情報が膨大なアーカイブと化し、それに自由にアクセスできるようにはなったものの、それはあくまで無方向的な集積なのでそこから準拠点を見つけたりとか、文脈を踏まえて理解したりとか、統一的な物語をつくりだすことがいまの人間(若者)にはむしろむずかしくなり、つまみ食いのようにしてところどころ単発的にひろいあげては消費するだけになっている、みたいなとらえかたはほかでも目にしたことがある。図式的にながれを要約すると、冷戦とかマルクス主義とか高度経済成長とかもろもろの父的枠組みがまだ強力に存在していた昭和時代にはとうぜんひとはその父的物語のなかにとらわれ、そのながれに制約を受けつつおのおのそれとの緊張関係をかかえ負わされた責任を引き受けながら折り合いをつけてやっていく。平成になるころにはその父的枠組みが失効し、同時にそのまえから枠組みに規定されず多所を(他所へと)移動しまわり分裂的に振る舞うことをとなえるかんがえかたが登場したので、父的責任から逃走し、いわば放蕩息子として自由にやる風潮がたかまり、社会の子ども化がすすんだ。しかしそれはあくまでもそれ以前の父が課してくる重力への反抗としてあったはずで、だからこの時点でもまだ父的観念(いわばその亡霊)は強固に作用しており、子どもはとうぜんながら父の影にとらわれている。令和の現在になるとそうしたオブセッションすら希薄になって、海のごとく無方向的なアーカイブ空間のなかでときにたまさか接近してくる餌を捕食しながらたゆたうクラゲのように、非常に拡散的でかたちをなさない根無し草の様態がつよくなってきている、というようなことではないか。こうした見方にどれだけ有効性があるのかわからないが、新聞記事の紹介を読んだかぎりでは與那覇潤のこの本はいかにも批評家的な時代のとらえかたをかたったものらしいという印象。実証に寄った歴史学者と、より抽象的な思考をする思想家のあいだで、社会にひろくただよっている漠然とした雰囲気とか風潮とか精神傾向のようなものをつかもうとするしごと、ということ。じっさいこの本でも思想家をとりあげた部分もあるらしく、丸山眞男とか江藤淳とか、平成以前の思想家がいまでも現在をかんがえるさいの過去の準拠点として有効だということを再確認しようという企図もふくまれているらしい。丸山眞男はともかくとしても、江藤淳とか浅田彰あたりはアカデミックに手堅い研究者としての歴史学者はたぶんまず口にしないなまえだろう。

 あとしたのようなこと。そういえば去年はよくこの耳鳴りが聞こえることがあって、一時期けっこうながくつづいていたはずだ。あれもストレスとか、心身のみだれのあらわれだったのだろうか。

(……)帰り着いて服を脱ぎ、ベッドにころがってやすんでいるあいだ、耳鳴りに気づいた。左耳で鳴っており、さいしょはパソコンか電灯から発されているノイズかとおもったのだが、立ち上がって移動しても変化しないし、明かりを消しても同様だったのでじぶんの耳において鳴っているものだと確定された。あたまの角度によって半音下がる。そんなにおおきな音ではないし、痛みや苦しみもなにもないが、地味に鬱陶しいものではある。その後疲労から回復するとともに音量がやや下がり、またあたまの角度によって消えるようにもなったのだがこの日はずっとつづき、この文章を書いているいま、一〇月八日の午後一一時現在もつづいている。こんなにながくつづくのははじめてだとおもう。突発性難聴というやつだろうか。めまいはないが、もしかしたらやばいのかもしれない。それにしても耳鳴りというやつはずいぶんと音程がはっきりしており、それが基本的に変化せず、途切れもせずにずっと持続するので機械が生み出している電子音のようだ。倍音をともなうばあいすらあり、いまは三度の音をメインにしてたまに一度がうすく聞こえることがあるし、昨晩は一度と五度の二音が聞こえていた。

夕食のために上階に上がり、天麩羅を電子レンジに入れてまわしているあいだにトイレに行って放尿をはじめたのだが、するとそとを車がとおりすぎていくひびきの直後に窓がガタガタ鳴って、風が吹いたのか、車が起こしたのかと錯覚しかけたところでもういちどガタガタいったので、地震だなとわかった。ようすをうかがいながらも放尿をとめずにいると、まもなく正式な揺れがやってきて室がけっこう揺らされた。小便を終えてもまだすこし揺れがのこっていたのでまたちょっと気配をうかがい、とまったと判断されると水をながした。出て風呂場の母親のところに行き、扉越しに大丈夫だった? と聞くと、地震? とかえるので、けっこう揺れたなとこたえて居間にもどり、テレビをつけて情報を見た。震源は千葉県、埼玉の南部と足立区が震度五強とつたえられ、その後、二三区も震度五強とつけくわえられた。足立区は(……)さんの住んでいる区なので、大丈夫かなとおもった。我が家のあたりは地盤も硬いとよくいわれているし、近年ではいちばんおおきい揺れかただったとおもうが、たぶん震度四くらいだっただろう。

 2014/3/1, Sat.のほうは「(……)」というところに行って読書会に参加している。これは(……)さんというイラストレーターのひとが主催していたもので、どういうやりとりがあったのだったかわすれたが、読書メーターをつうじて誘われたのだった気がする。この日の課題書はボルヘスの『不死の人』。これはまだ持っていて、実家に置いてあるはず。白水uブックス版の、土岐なんとかいうひとの訳。この会はぜんぶでたしか三回くらい参加したが、その後フェードアウトした。たしかおなじころに、(……)という文章投稿サイトで知り合った(……)さん((……)を取って作家活動をしている(……)のこと)というひとなんかとも会合を二、三回もっており、そのほか先日ふれた(……)くんのやつとか、大学の同級生である(……)くんらとやっていたやつ(與那覇潤をめぐって悶着があったやつで、こんどの一五日に(……)くんと(……)くんとの三人で再開する)とかもあったので、社交しすぎだなとおもって絞ったのだ。その後は基本ずっと(……)くんらと月一であつまるだけになったはず。あとたまに(……)さんとふたりで本決めて、代々木あたりで会ってくっちゃべったりもしていたか。この二〇一四年三月一日にもどると、「今回の会の主催者はS.Yさんで、この店のメンバーであり、彼女と、Sさん、Yさん、Oさんの四人は別のイベントなどで顔を見知っているらしかった。EさんとTさんはこちらと同様に、S.Yさんが読書メーターで「スカウト」した人間だった」とある。Sさんというのは(……)さんという、とうじたぶん三五歳くらいだった男性で、結婚していて三歳くらいの子どもがおり、文中にもあるが保坂和志が好きで(「Sさんは保坂和志が一番好きだといい、『未明の闘争』を絶賛していた」)、SEかなんかやっていたはずだが、二四になっても親元でなまけてだらだら生きているこちらにもわりとよくしてくれて、鷹揚なおとなの目線でみまもりつつ小説を書くようすすめてくれる、という感じだった。たしかこの翌月には(……)あたりのなんとかいう公園で花見会があったのだけれど、そのときベケットの『ワット』を読んでいると言っていたおぼえがあり、その会の場には子ども(たしか女児だったとおもうが)と婦人も連れてきていた。ちなみにこの花見の日はとちゅうで雲行きがあやしくなって雨になったのだけれど、その直前というか雨降りにうつるさかいくらいのときに風が荒れて、桜の花びらが宙を川のように高速でながれる鮮烈な情景を目にしてつよく印象づけられたおぼえがある。とうぜんそれは日記に書いた。またこの公園に行くまでの道中でも、道脇の敷地内にあった築山みたいな緑の小山で幼児と母親が三輪車であそんでおり、そのようすをみてやはり印象づけられ、磯崎憲一郎の『肝心の子供』に出てくるブッダと赤子ラーフラが森のなかの広場みたいなところに来たときの場面を意識して描写したおぼえがある。「たしかに、この場所に一歩足を踏み入れたときから、なにか説明のつかない奇妙な気配を感じていたのだ」みたいな一文からはじまって、タマリンドの木(というのがいったいどんなものなのかまったく知らないのだが)とか、牛とか、花びらから飛び立つ蜂とかを描写したあと、赤ん坊が口にいれて出した木苺が唾液に濡れててらてらつやがかっているのを見て、「赤子はすでに、風景の側の存在だった」みたいな一文で終わるやつ。というところで典拠を正確に引いておくが、ブログを検索すると、2019/12/30, Mon.にこの花見会の日(2014/4/6, Sun.)の記事を読みかえしており、そこでまったくおなじはなしをしている。磯崎憲一郎の記述はつぎのようなもの。

 思い返してみれば、確かにこの場所に一歩入ったときから、どこか奇妙に大袈裟な感じはあったのだ。野生の白い牛が三頭、野原のほぼ真ん中あたりに、前脚をきちんと折り畳んで寝そべっていた。彼らはブッダたち一行が近寄って来て傍らを通り過ぎようとしてもまったく動じることなく、三頭がそれぞれにどこか遠くの一点を凝視しながら、反芻する口を長い呪文でもつぶやくように、規則的にゆっくりと動かし続けているだけだった。牛の瘦せた背骨と皮のうえには、何匹もの蠅が留まっているのが見えたが、これらの虫でさえもじっと動かず、春の太陽を浴びて、黄金に光り輝いていたのだ。タマリンドの老木の、分厚いコケの生した大人の両手ふた抱えもある太い幹には、雪崩れるようなうすむらさきの藤の花が幾重にも巻きつき、そのむらさきが途切れるところから下は、桃色や赤や白の芝桜が流れ広がって、ブッダたちの座るまわりまでを囲んでいた。こぼれ落ちそうになりながらスズメバチが必死に、なんとかかろうじてひとつの赤い花にしがみついていたのだが、風に揺れて、とうとう花から振り落とされてしまうと、今度はあっさりと、何の未練も見せず橙と黒のまだらにふくれた腹を曝けながら、直角に、頭上の空へ飛び立って行った。そのまま上を見あげると、木の葉の深緑は強い日差しを受けて反射し、吹くすこしの風にも裏を返して緑の濃淡が混ざり合うそのさまは、まるで渦巻く青粉の沼面を見ているようだった。離れた川岸のほうへ目をやると、冬の間に朽ちた赤茶色の湿った枯葉の残る黒土の地面から、ところどころ新しい芝生が芽を出していた。雲雀の雛たちははじけるような甲高い声で鳴きながら、一瞬小さく飛び上がってはすぐまた芝のなかに隠れる遊びを繰り返していた。さらに向こうには銀色の春の川があった。その、全体として作りものめいた、神話絵巻に描かれた一場面のような光景に見とれているあいだも、ブッダは自分の息子のことを決して、一瞬たりとも忘れていたわけではなかった。水色の服を着たラーフラはすぐ横の芝の上に尻をついて、足を投げ出して座り、正面の何かに気を取られながら、口に苺をふくんでいた。と、口から唾にぬれた赤い実を取り出し、振り返ってブッダに微笑んだ。小さな子供はすでに風景の側の存在だった。
 (磯崎憲一郎『肝心の子供』河出書房新社、2007年、39~41)

 こちらの文章は以下。

 その場面に立ちあった瞬間、たしかにあのつくりものめいた気配が立ちあがったのだ。手前には松が無骨な幹から生えた枝を無秩序に曲げゆがめ、奥には対照的に直上的な木立ちが並び、それらの足下を小鳥たちがさえずりながら跳ねまわっていた。手前と奥のあいだの地面からは小山が盛りあがり、そのふもとでいま幼児が三輪車に乗って遊んでいた。小さな乗り物をまだうまくあやつれない背中を母親が押してゆっくりと丘をのぼっていった。頂上に着くと母は三輪車を借り受けて、不釣合いな大きさの体を器用にサドルにおさめ、足を広げてすべるように丘を降りていき、子はその背中をじっと見つめた。濃淡さまざまな緑に染めあげられた風景に同化した親子は、絵画のなかの人物が生命を持って動き出したようだった。彼らはこちらに気づいていなかった。あちらから見るこちらというものが存在しないかのようだった。

 『肝心の子供』ではこのあとブッダが、ラーフラというこの子を生み出した時点でじぶんの人生はもう終わったのでは? じぶんが人生でなすべきことはすべて終わったのでは? みたいな啓示を得て、それで出家するというながれになっていた気がする。
 三月一日の件にはなしをもどすと、Yさんというのはたしか(……)さんというなまえのひとで、眼鏡をかけた品の良いお姉さんという感じの、たぶんとうじ二八とか三〇とかくらいのひとだった気がする。Oさんはおもいだせない。Eさんというのは(……)か(……)というなまえで、こちらと同年代くらいの若い男性で、まあやや引っ込み思案そうというか気弱そうというか、初対面のひととどんどん積極的に喋ったりするほどの社交性はそんなに持ち合わせていなかった(こちらもひとのことは言えないが)。Tさんというのは(……)というなまえだったとおもうのだけれど画家で、たぶん三五か四〇前くらいだったか? なんか若手の現代画家をあつめたみたいな小規模な展覧会に作品を出したりしていたはず。かれは酒を飲んで酔っぱらってけっこうおもしろい感じになり、「Tさんは隣にいるこちらの脚をやたらと触ってきた」とも書かれてあるけれど、同性愛者だったのだろうか? べつにそういうわけではなく、たんに酔っぱらいの奇行だったのか。
 読みかえしを終えると一一時ごろ。座布団のうえに枕を置き、そのうえに座って瞑想。深呼吸をしてあるから安定性は高い。高いのだけれど、左足はどうしてもしびれる。足がしびれるということはほんとうは、適切に瞑想できるほどのコンディションがまだととのっていないということか、それか姿勢がまちがっているということなのだ。うえにも書いたとおり観察=感覚による身体の統合的調律を実現するにはからだをうごかさないことが重要で、だから瞑想とか坐禅とかいうのはまずはもっぱら姿勢の問題である。道元は調身・調息・調心ということを言っていて、藤田一照によればこれらはどれがさきでどれがあとというものでもなく、三位一体的にどれかひとつがきちんと成立すればほかもととのうし、どれかひとつが崩れればほかも乱れるものだということだけれど、じっさいやるときに三つを一挙に同時にととのえるというのは至難なので、まずはからだのほうからアプローチすることになるのが順当ではないか。安定的に無理なく止まれるベストな姿勢のバランス(それは刻々と微妙に変化していく)を見つけて静止しているうちに息もこころもととのうと。だから足がしびれるのはほんとうは誤っている。まあ起き抜けだからしかたないのだが。二〇分ほど座って、しびれた左足をさすりまくってビリビリくる感じを減らそうとこころみ、しびれが抜けると立ち上がってちょっと背伸びしたりした。冷蔵庫のなかから鍋を取り出して火にかけ、そのあいだもからだをうごかす。椀に盛って食事。クソうまいといわざるをえない。二杯食って鍋を空にした。食事中は(……)さんのブログを読み、食後もそのまま誕生会がおこなわれている五日の記事をさいごまで。高校時代の写真といまの写真の対比はさすがに笑う。
 そうしてクソを垂れたり(尻を乗せる便座もつめたいから、便座カバーをそのうち買ってきておかなければならないだろう)鍋や箸や椀を洗ったりして、日記にかかろうとしたのだけれど、クソを垂れたのになぜかかえって腹がちょっと痛かったり、まだおちつかない感じがして、ものを食べて消化がはじまったばかりだからやはりからだのなかがいろいろうごいて、それがざわめくようでおちつかないのだろうとおもい、ひさしぶりに音楽を聞きつつ身をしずめることにした。ceroの『POLY LIFE MULTI SOUL』。七曲目まで。”Modern Steps”, “魚の骨 鳥の羽根”, “ベッテン・フォールズ”, “薄闇の花”, “遡行”, “夜になると鮭は”, “Buzzle Bee Ride”。じつによろしい。すばらしい。ceroのアンサンブルはいうまでもなく高度だし、緻密に組み合わされていて、かつちょっと変なところもあるというか、変拍子や転調も多いし、コーラスをちょっと妙なふうに入れたりと、なにか独自のセンスをかおらせているのだけれど、それらが全体としてつねに崩れない品の良さにまとめあげられているのがすごいなとおもう。品の良いアンサンブル。いかにもキメるという、突出した見世物的瞬間がなくて、せわしなさをぜんぜん持たない鷹揚な精密さというのが、ceroのアンサンブルの質感ではないかとおもう。#2の冒頭のパーカスの音はとてもよい。ベースも各曲で強力で、#3のA部を聞いたところでは、ぐおーんとしていてずいぶん厚くて、あれ、これウッドか? ともおもったのだけれど、その後の部分はそうも聞こえず、よくわからない。いずれにしてもとうぜんのことだが曲によってトーンは調節されており、#3や#4ではやや悪どいトーンがまろやかなサウンドのなかで際立っているが、そのつぎの#5ではもっとふくよかな、輪郭をやわらかくしてぜんたいになじむような音色になっている。アンサンブルとしてこちらが特に良くおもったのは、#4 “薄闇の花”のAの楽器とボーカルメロディのながれかたで、過去に(……)さんがなんどか、ceroFISHMANSをあきらかに受け継いでいる、その系譜だみたいなことをブログに書いていて、こちらはその系譜性をそんなにつよく感じていなかったのだけれど、この”薄闇の花”なんて聞くとこれはたしかにFISHMANSだな、という感じはする。もっと品よく洗練されて、口当たりのよくなったFISHMANS。ドラムのタイトなビート感や、ベースがシンコペーションできっちり置いていく感じや、裏拍を打つキーボードなど(浮遊感という意味ではあまりないが)。#6 “夜になると鮭は”は一種のポエトリーリーディングだけれど、この鍵盤のフレーズとか引っ込んだ打ち込みの質感とか、こういう雰囲気を見つけちゃっただけでもう勝ちでしょ、みたいな感じがある。
 そのあとBill Evans Trioの”All of You”も聞いておくかとおもい、テイク1と2を聞いた。Bill Evansというピアニストはメロディを弾くときにけっこう左手を右のトップフレーズのちかくで鳴らすことが多いような印象で、テイク1のピアノソロ中前半はそういうやりかたを取っている。そのあいだはトップメロディに光暈のようにして和音の色合いが付属されていて、それがEvans特有のちょっと曖昧な色合いとか、玄妙な質感みたいなものにつながっているんじゃないか。テイク2のイントロ部分がわかりやすいとおもう。ここではいちおうテーマメロディを提示しているのだけれど、それにつけくわえられたコードの色彩は精妙で、こういう色合いの”All of You”をほかに聞いたことがない。だいたいはみんなもっと明快な色にしてやるとおもう。もともとスウィンギーな曲の印象だし。テイク1ではピアノソロの後半でMotianがスティックを持ったところから、Evansは左手をメロディに合わせず、もっとリズミカルに散らすようになり、応じて右手も解放されてながくつらなって上昇する単音連鎖なんかをやるようになる。これは”Solar”でもおこなわれている二段階の推移である。たいしてテイク2のほうは、イントロでは和音の暈をつけているのだけれど、ピアノソロはもう序盤からそれをほぼ外して単音弾きでこまかめにやることが多い。一時もどることもあるのだけれど、そのときはMotianの叩き方もあきらかにそれに応じていて、LaFaroは応じつつ応じずみたいな半分くらいな印象だが、テイク2のピアノソロの前半はそういうふうに、様相が数小節単位で交替するようなやりかたが取られていて、こういうの、事前にこうやろうぜって言っていたともおもえないし、ほんとうにその場の気配でおのおのつかんで演じているのだろうとおもう。テイク2はMotianがずっとブラシで通しているのだけれど、それもたぶんそういうことだとおもうのだ。つまり、テイク1とはちがって、Evansがさいしょから単音主体でやりはじめたものだから、メロディの動きをだんだん大きくこまかくしていくというダイナミズムが生まれず、段階の切り替えを導入するタイミングがあきらかにならないのだ。それでMotianはブラシでの反復的なサポートに徹することになるから、そこにはある種単調さが生まれるのだけれど、その下敷きのうえでEvansはおりおり小回転を入れながら優美に踊ることができるし、LaFaroもそれにたいしてビートをあまり気にせずからんで交渉することができる。あとはテイク2でもMotianはソロでキックをめちゃくちゃ踏みまくっていることをきょうようやく意識した。テイク1に比べると聞こえづらいのだけれど、それはたんじゅんにLaFaroも(なぜかMotianのリズム感からほんのすこしだけ遅れて)合わせを入れているからだろう。そのせいでテイク2のドラムソロはテイク1に比べるとそんなに変じゃないなとおもっていたのだけれど(さいごの、ちょっと間を入れたあとにシンバルをバッシャーンとやるあたりなんかはいかにもMotianらしい)、キックと合わせてかんがえるとやはりだいぶ変かもしれない。そもそもなんであんなに不規則にドンドン踏みまくるのか、その意味がわからない。
 音楽を聞き終えるとたぶん二時前くらいだったとおもう。そこからここまで記してもう四時。からだの感じはよい。喉の詰まり感もない。心身を調律するルーティンとしては、寝床で深呼吸→瞑想→食後に音楽を聞きつつ静止(もしくはもういちど瞑想)が良いような気がしてきた。ただ音楽を聞くと書くことが増えて大変だという事情もある。でも椅子に座ってじっと止まって音を耳に入れているあいだ、からだじゅうがほぐれてすっきりしていくのはきもちがいいんだよな。あと、ねむってしまうとよくないという懸念もある。意識が落ちるとむしろ身が固まるので。深呼吸をきっちりやっておくとねむくならない気がするが。きょうはこのあと図書館に行こうかなとおもっている。カフカ書簡を借りてきたいし、あと勤務への復帰日もちかづいているから、そろそろ電車に乗って具合をたしかめておくべきだろうと。したがって、雨降りでもあるし、きょうは歩いて行かずに電車に乗って行くつもり。行きはともかく帰りは帰宅のひとびとでだいぶ混んでいるだろうから、それをかんがえるとちょっとビビるが。そして帰りにスーパーに寄って買い物をしてくると。とりあえず腹が減ったのでなにか食って、二錠目のヤクを飲みたい。


   *


 いま七時直前。図書館に行こうとおもっていたが、いやーやっぱりめんどうくさいな、寒いし、というなまけごころにかたむいてしまったので、スーパーだけ行くつもりだ。そして図書館はあした。部屋を出て脚をうごかす機会を増やしたほうがよいだろう。うえまで記したあとは冷蔵庫のなかののこりすくない野菜でサラダをつくった。キャベツとトマトと豆腐のみ。いつまでも雨が降っていて気候が寒く、部屋内の空気もつめたいので、冷蔵庫で冷やされたキャベツとかだけだとなんかなあ、あたたかいものも食べたいとおもい、ネギがあまっていたのでそれともういくらかやる気がなくなっている大根を合わせて味噌汁をつくることに。大根を少量細切りにし、鍋の水もすくなめにして、刻んだネギといっしょに煮ているあいだにサラダを食う。そうしてボトルの味噌をくわえたが、この味噌ももうのこりすくなくて薄味になった。しかしあたたかいものが飲めればなんでもよろしい。食後は洗い物をかたづけたあとにすでに完成してある四日、五日の日記をウェブ上に放流しようとおもったのだが、そうしているとやはりなんだか腹がちょっと張って、苦しいまでは行かないけれどなんかいやな感じなので、やはり身をおちつけるのが先決かとおもってふたたび音楽を聞くことに。ceroの『POLY LIFE MULTI SOUL』のつづき、#8 “Double Exposure”から、”レテの子”, “Waters”, “TWNKL”, “Poly Life Multi Soul”とさいごまで。アルバムはぜんぶで五四分らしい。ヤクの二錠目を飲んだからなのか、さきほどよりもちょっと眠気めいたものが混ざるようだった。#10、#11あたりはちょっと変というか、どちらだったかわすれたがA部の歌が、妙なメロディというかそもそもメロディ感があまりないような移行になっているし、ほかの三曲はこういう曲だなというのがだいたいおもいだせるけれど、この二曲はつかみどころがない。しかし、歌詞のこのフレーズはいいなとおもうタイミングが何回かあり、#10か#11のどちらかにもそれはふくまれていた。歌詞のいいなというのはメロディに乗せて歌われたばあいのそれなので、ことばだけで読んだときに良いかというと意外とそうでもなかったりするのだが。どういうコンセプトなのかよくわからないけれどこのアルバムは「川」がひとつのおおきな要素になっているようで、「か・わ・わ・か・れ・わ・か・れ」みたいな、「川」「わかれ」「彼は」(あと「誰」もあったか?)が混然となったようなフレーズがアルバムの冒頭から出てきてとちゅうでも回帰され、さらに最終曲 “Poly Life Multi Soul”にもあらわれる。そのほかにも「川」ということば、もしくはそれにつらなるテーマは曲中におりおり出てきて、ものごとをわすれないということを、「決してレテの水は飲まない」とおもしろい言い方で断言する”レテの子”は、ギリシャ神話で忘却の川とされているレテの川をとりいれているわけだし、#6 “夜になると鮭は”は、夜になると川から出てきて町へ行く鮭のはなしである。そのテーマ的統一性にどういった意味があるのかはわからないが、なんらかのかたちで「川」が通底するようなつくりにはなっているのだとおもう。そしてまさしく「対岸の調子はどう」とか、「雨は水面をたたきつづけ」とか、「暗がりより深く青い水を渡り」とか、”across the river, oh what do you see?”とかはっきり言っている最終曲、”Poly Life Multi Soul”は、たぶん川を渡るはなしなのだろう。この曲はとにかくドラムがきもちよい。
 八曲目からさいごまでなので三〇分弱なのだけれど、そのくらいじっとして音楽を耳に入れていると心身がかなりすっきりする。精神的に風呂を浴びたような感じ。身がじわじわほぐれていくのがきもちよい。飯を食ったあとはどうしてもからだがざわめくので、まいど音楽聞く習慣にしたほうがよいかもしれない。このときはちょっとだけねむかったせいもあるのか、じぶんの存在が消えて音楽だけになっていたかのようなつかの間があった。それが果たして主客合一なのかはわからないが、事後的にそのことに気づくわけである。あ、いま、マジで自己意識がなかったな、じぶんのからだの感覚とか存在をわすれていたな、みたいな。それでいて意識がかんぜんに落ちたり、暗くなったりしていたわけではなく、音楽はずっと聞こえていた。
 そのあときのうの記事に夜歩きのときのことを書き足し、しあげて投稿。それからきょうのことを加筆して、ここまで記すと七時一七分。そろそろスーパーに行くか。


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 古谷利裕の「偽日記」の2022/10/04より。森井勇佑『こちらあみ子』について。

この映画がしていることは、解決不可能な齟齬を、決してあみ子の在り方を否定せず、しかし同時に、善意やきれいごとや「感動」や「共感」でオブラートに包むこともなく(あみ子の加害性をさえはっきりと示し)、価値判断を付与せずにそれ(齟齬)そのものとして示すということだと思われる。あみ子と母との関係が最初から不穏なのは―とはいえ、そこに「不穏さ」を感じているのは一方的に母の方だけだろうが―あみ子が悪いのでも、母の努力不足なのでもなく、ただたんに二人が「相容れない」と言うだけなのだ、というように。しかし、たんに相容れないとは、どうしようもないと言うことでもあり、相容れない二人は引き離すしかない、と言うのが父の選択だ。

 2022/10/01より。

いやいや、この「答え」という発想がそもそも間違っている。表現に先立って、何が一番優れているかを決める外的基準があるのではなく、ある表現がその都度ごとに、どのような組成を持ち、どのような質を持ち、どのような強さを持ち、どのような背景や必然性を持っているのかということだけが問題なのだ。

(高い表現力を持つ人が、優れた表現をするのではなく、優れた表現の中に、高い表現力が認められる、のだ。)

表現に先立って評価基準があり、その評価基準のなかで高得点を目指すのではなく、表現は、その(背景を含めた)表現自体のあり方が自らについての評価基準を作り出す。何にしろ何かしらの表現を受け取る時には、そのようなものとして受け取らなければならないというのが、ぼくにとっての表現に対する倫理だ。

(表現は、背景によってその意味が変わる、というとても重要なことも見逃されがちだ。)

だから、「表現力」といった、予め規定された、定量的に計測できるような力(能力)があるのではなく、表現へ向けてその都度なされる探索への指向と努力、その柔軟さや強さや執拗さがあり、結果としてのその成否があると言うことだ。


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 それでスーパーに買い物に出たのだけれど、アパートのそとに、そして道に出てもうすぐに、わりと緊張しているなという腹のうずきみたいなものと、喉の詰まり感をおぼえるわけである。だめじゃん、とおもった。けっきょくだめなのか? と。ヤクをまいにち二錠飲むようになってもこれなのだから。時は雨降り、時間はまださほど遅くはないので、スーパーのある(……)通りまでつうずる道にはそこそこひとがある。そのひとびとにたいしてとくだんの緊張やおそれをおぼえるわけではないが、からだの感覚が気になって周囲のようすに知覚をひろげることもできない。通りにいたると横断歩道をわたり、わざわざ遠回りをしていったん裏にはいった。寺の塀の角を行き、すぐに左へ折れれば最寄り駅につながる、マンションと寺にかこまれた道である。いちおう駅のちかくまで行ってみて、それで緊張がどうなるかを見てみようとおもったのだ。てくてく進んでいき、駅前の細道にはいるその口の脇に立ち尽くし、白いビニール傘を雨に打たれつつちょっとたたずんで、ちょうど電車が来て駅から出てくるひとびとのようすを、だれを待っているわけでもないのにながめたりする。緊張はとくに変化はしなかったが、やはり喉の引っかかりはある。それから細道をとおってスーパーへ。傘をバサバサやってからたたみ、そこに設置されている台からほそいビニール袋を一枚取って、傘をそのなかに入れるのにもたもた手間取る。入店すると足踏みペダル式の消毒スプレーで手を濡らし、こすったあとにかごをもった。主に野菜を買い足す。今後もだいたい野菜スープとか鍋を食事の主にするつもりなので、その材料となるもの。シイタケもいいなとおもってエノキダケとあわせて買う。鍋スープはある通路の入り口脇、棚の側面にあたる部分に種類がとりそろえられており、そのなかからきょうは味噌味のやつをえらんだ。あと味噌じたいもほぼ切れているので、今回はボトルのではなく四角いパックのやつ、だからすくってお玉で溶かさないといけないやつだがそれを買い、なくなっていた麺つゆも。その他おにぎりや、夕食のメインとしてクリームグラタンを買った。そうして会計。いつもの(……)氏。スーパーを回っているあいだも、会計でのやりとりも、その後の整理台でのうごきからしても、ここでは緊張はうすれていて、精神としてはおちついているのだけれど、ただどうしても喉の詰まりが消えない。
 帰り道にとくだんの記憶はないし、そのあとのこともわすれた。

 
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  • 日記読み: 2021/10/7, Fri. / 2014/3/1, Sat.