2022/10/10, Mon.

 非常に遅いのです、最愛のひと、それでもぼくは、それに価しないのに、床につくでしょう。そう、眠りはしないで、ただ夢を見るでしょう。たとえば昨日のように。ぼくは夢のなかで橋か河岸の欄干に向って走り、たまたまその手すりの上にあった二つの電話の受話器をつかみ、耳にあて、ひたすら「ポントゥス」からのニュースだけをきこうとしましたが、悲しげで、力強い、言葉を含まぬ歌と海の(end238)さざめきしか聞こえませんでした。こんな音のなかを人間の声が貫いて聞こえることは不可能だと、よく分っていたのですが、ぼくはやめもせず、立ち去りもしませんでした。
 長編小説は三日前からほんのわずかしか書いていません。そのわずかなものも、丁度まき割りにふさわしいかもしれないような能力、いやまき割りどころか、せいぜいトランプ遊びにふさわしい程度の能力で書かれたのです。そう、ぼくは最近(これは自己非難ではなく、自己慰安にすぎません)書くことから足を抜いたのですが、これからまた頭で掘り込んでいかねばなりません。
 最愛のひとよ、泣いているのですね? それがどんな意味なのか、お分りですか? それは、あなたがぼくに絶望しているということです。本当にそうなのですか? いや、最愛のひと、そうしないでください。あなたはもう、ぼくが循環運動の状況にあるという経験をしたではありませんか。ある一定の、たえず回帰する場所でぼくはつまずき、叫び声を上げています。助けようと駈け寄らないでください(一体、あなたはぼくの書いたものが読めるのですか? いくらか遅すぎる質問です)混乱にまきこまれないでください、ぼくはもう、自分にできる限り、起き上っています。泣くのではありません、最愛のひとよ! あなたがそう書かなくても、泣いたことはぼくに分ったでしょう。インディアンがその敵に向ってするように、ぼくはおそらく昨日の手紙でもあなたを苦しめたでしょう。お慈悲を、最愛のひと、お慈悲を! あなたはたぶん秘かに、最愛のひとよ、ぼくが自分の気紛れをあなたに対しては、あなたへの愛から自制することができただろうにと考えたでしょう。そう、しかしあなたは御存知でしょうか、最愛のひと、ぼくがそうしなかったかどうか、それも滑稽ではあるけれどすべての力をあげて?
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、238~239; 一九一三年一月二二日から二三日)




 いま18:33。日記にとりかかるのが遅い。もうすこしはやくしたいが、まあきょうは通話もあったし、訳文添削もあった。覚めたのは七時過ぎで、きょうは深呼吸もしたけれど、きのう背骨をほぐすのが肝心という人体の真理にいたってしまったので、いちど起き上がるのではなく後半はそのままChromebookを持ち、さっそく腰とか背面を座布団にもぞもぞこすりつけてやわらげながら、ウェブを見たり日記を読みかえしたりしていた。離床したのは九時二〇分くらいだったか。そのまま瞑想し、一〇時の通話開始まで一〇分強あまったので、サラダをこしらえて食ってからZOOMにはいった。通話のことはれいによって余裕があったらあとで。
 過去日記、一年前は中学の同級生である(……)と、地元のコンサートイベントを見に行っている。やつからは先日もまたライブに行こうと連絡があったが、日程が合わなかった。中学の同級生でいまだにそうして(一年に一回か二回くらいだが)連絡をくれるのは(……)だけで、それはなんだかんだいってありがたい。まあ読み書きとか芸術とか学問とか、そういうことに興味のある人種ではないし、中学時代からいまにいたるまでずっと基本ヘラヘラしていて(「貫禄」ということばがあれほど似合わないにんげんもそういない)、まあ(友情と親愛をこめて)軽薄なアホと言ってしまってもそんなにさしつかえはないのだけれど、こちらがいまよりもはるかに陰鬱で自意識をこじらせていた中学時代からなぜか仲は良く、馬が合ったということなのだろう。そんな(……)も一年前には職場の騒動に起因して精神をやられてSSRIを飲むところまで行っている。新聞記事については以下。

(……)新聞には興味を惹かれる記事がけっこう多かったが、鶴原徹也がはなしを聞いてプラープダー・ユンが寄稿していたので、それを読んだ。プラユット・チャンオーチャー政権のもとで市民の政治的自由が弾圧され、軍部がのさばる体制はここ数年変化していないと。ただ二〇年に起こった学生たちの抗議、君主制の改革をうったえたそれには衝撃を受けたといい、君主制や王室について批判するのはいままでのタイではあきらかな禁忌で、じぶんの世代では想像もできなかったので(プラープダー・ユンは四八歳だというから七三年の生まれだろう)、あたらしい世代のあらわれをかんじたと。ただしその後、運動は軍政批判派と君主制改革派にわかれていきおいをうしなっているらしい。タイで真の民主化が起こるには社会構造的に根ざした既得権ネットワーク、社会の全域に張り巡らされている軍部や王室や経済界などのむすびつきが障害で、そうした伝統的・前近代的な要素をあらためなければ民主化は達成できないが、禁忌に挑戦した若い世代には力の後ろ盾がない。タイ王室が立憲君主制に転換したのは一九三二年くらいだったようだが、そのときなぜそれができたのかというと、西洋からまなんだ改革派勢力が軍部のなかにあって、彼らが決起したからだと。いまは国際情勢を見ても強権体制が勢力をえており、東南アジアは個々の国のちがいはあってもおおかた全部権威主義体制と見て良いらしい。ミャンマーは言わずもがなだし、それらの国のなかで統治者にとっていちばんモデルとなるのが、強権的に市民を統制しつつ経済をうまくまわして利益をえているシンガポールだという。東南アジアの領域を超えれば、とうぜん中国が理想的なモデルということになる。記事のさいごのほうでは幼少時の体験も踏まえて、絶望に抵抗する希望をあたえる芸術のちから、想像力のちからを信じたい、と語っていた。プラープダー・ユンは、『ゲンロン』にやや哲学的なエッセイもしくは紀行文的なものを寄稿している作家というイメージしかなかったのだが(といって読んだことがないのだが)、映画をつくったりデザインをやったりと多才らしい。物語を読むこと、映画を見ること、絵を描くことが大好きな小学生だったといい、学校の写生のときにひとりだけ空を青く塗らなかったら、そのときの先生が、これはすばらしい、幸福な偶然です、あなたには想像力がある、良い画家になれます、と褒めてくれたらしく、芸術的想像力によって別様の世界をかんがえること、そして「幸福な偶然」としての希望の存在を信じたい、みたいなはなしだった。

 また、おとといの読みかえしでもふれたが、ワクチン接種会場だった体育館を出たときの一文について。

いま八時半まえ。帰宅後、八日の記事をしあげて投稿した。投稿しながら、体育館から出たときの西陽の描写、「三時四五分ごろだった。夕刻がちかづいてかたむきくだった太陽が西の空にはえばえとおおきくひろがっており、あまやかな色味をやや増したひかりは地上をななめにさし駆けて水のように身のまわりをながれていた」というところを読んだのだが、この一文(「夕刻が」からの一文)はわれながら良い。特に物珍しい表現もないしすごくちからがはいっているわけでもないのだが、よくながれており、なにか気持ちの良いかんじがある。これこそ文だ、というかんじの一文。ちからのこもりかたとかがんばりの度合いでいうと高架歩廊から見た雲を書いた一段落のほうがあきらかにつよいのだが、ちからがこもっていたりがんばったりしていれば良い文になるかというとそういうわけでもない。こちらの感覚ではうえの一文はなめらかにながれているのだが、もうそのあたりのじぶんとしてのリズム感覚というのは確立しており、うまくながれる語のえらびというのは書きながらだいたい自動的にさだまるし、じぶんで言うのもなんだが形容修飾もしくは個々の部分への情報の付加のバランスも端正にととのっているとおもう。そして、それがつまらん、とおもうこともときにないではない。こちらのこういう描写文というのは世の基準からしてだいぶこまかく分割的に書くということはあるにしても、ながれかたとしてはあまりガタガタしておらず癖のないものなのではないかとおもうのだけれど、その癖のなさがつまらんということもひとつないではなく、ただもうひとつ、癖のなさうんぬんよりも、こういうじぶんのリズムがもうかたまって慣れてしまったのでいつもおのずとこういうながれかたになってつまらん、ということをたまにかんじないでもない。いつもおなじ口調、おなじ語り口じゃないか、と。ちゃんと文体を設定してやる作品ではなく日記なのでそれでいいのだが、それにしても、こちらはじぶんなりにうまくながれるとかんじる文をつくりつづけた結果いまのかんじにいたっているわけだけれど、おなじようにじぶんでうまくながれるとかんじる文を追究してもそれがまるっきり破綻としか見えないようなかたちになるひともたぶんいるはずで、そうかんがえるとやはりおもしろい。

 この日の風景というか天気の描写はしたのものくらいだが、このくらいのさらりとした感じのほうがむしろもういいんじゃないかという気もする。

(……)空に雲はおおく、とくに西空のほうにはもくもくとひろがって太陽をとらえていたものの、ひかりのあかるさをうばいつくすほどではなく、坂道をのぼっていけば足もとからじぶんの影がうっすらと生えていたし、太陽が雲をはなれてもっと日なたが生まれるひとときもあった。たぶんかなり汗が出る暑さだろうとおもっていたのだが、意外とそこまで暑くもなく、すこし蒸してからだは湿るものの、ブルゾンを着ていても袖をまくれば過ごしやすい。行く先の東のほうには青さが見えて、雲もそちらの低みでは白さが濃くて凝集したような立体感がよく見て取れるのは、直上にちかいものらとくらべて横からひかりに照らされてかたちがきわだっているということか。(……)

 ライブについては以下だが、これは(……)の知人がやっていた(……)というバンドのことではなく、そのまえにやっていた(……)というひとたちについてである。”Perfect”っていうあの曲はいかにもポップで切なさもちょっとあってなかなかよくて、サビのメロディが容易によみがえってくる。

じきに(……)の演奏がはじまった。年齢層はたかめで、四〇代から五〇代というかんじか。見た目からすればキーボードの男性がいちばん年嵩だったようで、このひとは六〇代に行っていたかもしれない。編成はボーカル、ギター、ベース、ドラム、キーボードでボーカル以外は男性。ギターのひとはボブっぽいようなすこしながめの髪で髭を生やしており、だからわりと音楽家っぽい風貌で、フルアコセミアコかわからないがあの方面をつかっていた。ベースのひとはあまりおぼえていないがたぶん短髪だったはずで、Tシャツかなにかラフでかるいよそおいだったとおもう。キーボードのひとがこちらが聞くかぎりではこのバンドのなかでいちばん実力者なのではないかという気がした。ソロの量もいちばんおおかったはず。ドラムのひとはボーカルとかぶってほぼ見えず。ボーカルの女性はMCに素人っぽさあるいはすこし抜けているのかもしれない性格を垣間見せており、あいまあいまでひとりごと的なつぶやきを口に出してマイクに乗せたりしていたが、こんな田舎町の小規模なイベントなのでなにも問題はない。コロナウイルスでみんな外出も旅行もできなかったところようやくこうして演奏することもできるようになったので、きょうはみなさんを音楽で世界一周の旅に連れていきたいとおもう、という前置きで、いろんな国の曲をやる趣向だった。さいしょとさいごは日本の曲だが、この二曲がじぶんたちのオリジナルということだろう。一曲目は"(……)"というタイトルで、さいごのほうは題をわすれたがロックンロール風の軽快なものだったので、両方ともそういう軽いブルース方面のかんじだった。二曲目は"Dreamer Little Dream On Me"(アメリカ)、三曲目は南米に飛んでコロンビアといっていたが、"Sabor a Mi"というこの曲はWikipediaによればメキシコのひとがつくったらしいので、まちがいか、それかもとにした音源がコロンビアの歌手のものだったのかもしれない。四曲目はブラジルで、曲名を言わなかったがElis Regina風味がつよかった。女性ボーカルで軽快にボサノヴァをやればだいたいElis Reginaになるかもしれないが。聞き覚えがあって、たぶんスタンダードの一曲だなとおもってのちほどいろいろ聞いて同定をこころみたのだけれど、これだなという一曲は見つからなかった。五曲目はイギリスのむかしのヒット曲だといって"Perfect"というやつをやったのだが、曲名を聞いただけではピンとこなかったものの、これも聞き覚えがあった。しかししらべてみるとFairground Attractionというバンドの八八年の曲で、全英一位を取ったらしいがぜんぜん知らない。聞き覚えがあったのは気のせいか。むかしのヒット曲、というし曲調を聞いても六〇年代くらいのやつなのかなとおもっていたが、意外とさいきんだった。これがいい曲で、サビで"It's got to be ...... Perfect"という一単位がさいしょに出てきて、それをベースに多少変形させながら四回くりかえすのだが、beのあとをながく、二小節分伸ばしたあとにperfectは調にたいして二度→三度というメロディで解決する。ながいあいまをはさんでperfectの語が強調されるとともに三度の音にさわやかに着地するのが、It's got to be perfectのフレーズが喚起する完全性や万能感と調和していて良かった(ほかの部分の歌詞を読んでみるとそんなに万能的多幸感にあふれたものではなかったが)。サビの終わりでこのフレーズが再度終結としてつかわれるさいに、"perfect"の部分は今度はバックとあわせて二拍三連を二度くりかえすかたちで強調されていたのだが、これはすこしだけくどいような感触をえた。とはいえオリジナルもそうなっていたし、うまく収束させるにはやはりこれくらいやったほうがいいのだろう。六曲目はイギリスからスペインに行って、ビールかなにかのCMにつかわれていたような気がする有名曲が演じられ、あのバンドなんつったかな、スペインでたぶんいちばん有名なグループの曲だったはずだが、とおもいだせなかったのだが、Gipsy Kingsである。"Volare"。ところがおどろいたことに、Wikipediaを見るとこのバンドはスペインではなくてフランス出身だった。南仏のスペイン系ロマの一家が出自だというのであまり変わらないのだろうが。

 会話はしたのようなことなど。

あとのはなしはおおかた中学時代の同級生の噂とか、こちらの生活やしごとについてとか。なにかのときに、ゲームとか動画方面の話題になって、YouTuberとか俺ぜんぜん見ないけど、いまの若いひとの娯楽ってそれだよね、職場の同僚でも、YouTuberっていうかなんかそういうのの動画見るとか、ゲームやったりゲーム実況見るとかそういうかんじだわ、むかしはさ、むかしって昭和のことだけど、けっこうみんなラジオ聞いてたらしいじゃん、ラジオがいまそういうのになったかんじなんじゃない? というと、(……)もラジオを聞くと言った。radikoというアプリ(なまえだけは見たことがある)をつかってスマートフォンで聞いているという。だれの? をきけば芸人の、というので、まなんでんの? とつづけると、べつにそうではないという。おもしろい冗談のいいかたとかまなんでんのかとおもった、といったが、いまちょっとおもったのだけれど、もしかするとこういう、なんでも学びにむすびつけるというか、じぶんの糧にするみたいな発想はこちらの特質なのかもしれない。芸人のラジオを聞こうというひとの大半は、たぶんふつうに娯楽としてたのしんで聞いているだけで、話術をまなぼうとかトークの参考にしようとかはそんなにかんがえないわけだろう。この会話のときに、まったく意識せずともそういう発想が即座に出てきたあたり、じぶんの性分が知れるのかもしれない。それで芸人といって誰かと問いをつづければ、かまいたちとかいくつか挙がっていたので、ギリギリわかるわ、そのへんだとまだギリギリ顔が出てくるな、と応じた。

 それから2014/3/4, Tue.だが、道をあるいていて車がなにかの拍子にじぶんに突っこんできて死ぬんじゃないかという不安に言及している。この心理はむかしはけっこうよくあった。

 わずかに傾斜した坂の地平を眺めれば三月だというのに陽炎が立つのを知ったが、その向こうからしだいに大きくなってくる車を見ていると、その鼻先がともすればこちらに向いて車道をそれてくるのではないかという不安とすら言えない妄想が一瞬よぎる。車線いっぱいの幅を持つ大型トラックが後方から何台も連なり、一層激しい風切り音とともに影がこちらの足下をかすめていけばいくらか身の縮むような心地もする。破壊的な馬力を持った鉄のかたまりのそれぞれが整然と並んで平然と通りすぎていくことがほとんど奇跡のように思えてならないときがある。実際にはこのよどみない流れの十全さがどこかで破られない日は一日だってない。その現場におのれが居合わせること、それこそむしろ奇跡に近い確率かもしれないが、しかしどうして招かれざる奇跡が起こらないなどと言えるのか? いつか起こるに決まっている、それどころかいま不安を抱えること、それ自体が未来の悲運を引き寄せてしまう、そんな気がするのは、不安障害患者時代の論理の名残りである。

 あとしたの記述など。ここの「いっそあけすけなまでの晴天に白雲が数滴垂れ流れているのは冬のそれと変わりはなくとも」なんていうはじまりかたのリズムは、いまのじぶんの書きぶりともう変わらんな、という印象。たぶんとうじのじぶんとしてはだいぶちからを入れてがんばっている。本文ぜんたいをみても量はおおくなく、書くことをしぼっている感じがあるから、印象にのこったことについてしっかりとした文を成型しようとしていたのだろう。このときは記録につくのではなくて、かっこういい、ととのった、ちからのある文を書くというほうにかたむいているわけだ。ところでここで想起されている二〇歳のころの塾生というのは、なまえはもうわすれてしまったが、たしか佐々木か佐久間みたいな名字だった気がする。三文字だったような気がする。ハーフだったとおもわれ、やや彫りが深いような、中学生にしては背丈やガタイのよさ(女性につかうには失礼だが)もあってちょっと大人っぽいような風貌の女子で、その後も地元をあるいていて何度か見かけたおぼえがある。八年前のじぶんはとうとつに「みずからの若さを自覚」しているが、三二になったじぶんはさすがにもう、四〇までまだ八年もある! というおどろきに撃たれることはない。じぶんをまだ若い存在としてみる認知もさすがにないが、だからといってとりたてておっさんだという自己認識もないな。世間的にみれば、また塾生などからみればかんぜんにそうではあるのだろうが。でも、こちらよりも、いくつか歳下であるはずの(まだ二十代ではなかったか?)(……)先生なんかのほうが、生徒にたいしてよく、おれもうおっさんだからさあ、とか言っている。そういうふうにみずからわざわざおっさんぶってみせるというのも、やりかたにもよるけれど、それはそれでなんかなあという感じもじぶんにはなくもなく、要するにいかにも年上風、先輩風を吹かせているみたいなニュアンスになりかねないわけだ。(……)先生はたぶん、むしろそういう文化圏のなかでそだってきて、それをコミュニケーションの一手段もしくはテクニックとして身につけているのだとおもう。

 いっそあけすけなまでの晴天に白雲が数滴垂れ流れているのは冬のそれと変わりはなくとも、空気に鋭さはなくなり、丸みをおびた柔らかさが代わりに身を包んだ。そこここで白と紅の梅花がひらきはじめていた。前からやってきた大柄の女子小学生にどことなく以前の塾生の似姿を見つけた。彼女は十五歳、こちらは二十歳だった。こちらが二十四になったいま、彼女は十九である、そう考えるとそのあいだに思ったよりもひらきの印象がないことと同時に、まだ二十をこえてから四年しか経っていないことに気がついた。まだ四年だ。今まで、もう、だとばかり思っていた。そうではなかった。まだ二十四、まだ二十代のなかばをこえてすらいない。三十まではまだ六年もある。六年! 不思議なことだが、そう考えてはじめてみずからの若さを自覚した。時間は無限にあるわけではないけれど、吹けば飛ぶほど重みのないものでもない。

 通話はちょうど一二時ごろに終わって、そこからはまたしばらく約束された安息の地である布団にかえり、書見した。アンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』。あと、昼頃にいたって曇り空の白さがすこし明度を増してきていたので、洗濯もしたのだけれど、きょうはけっきょくぜんぜん晴れなかった。午後から晴れるという予報をみたのだが。洗濯が終わったころにはもとの薄暗いような曇りにもどって、窓辺から眼下の道をみやればきのうの雨の水気もまだまだのこっていろが沈んでいるし、まだ降ってきてもおかしくなさそうという空気の質感だったので、室内に干さざるをえなかった。


   *


 (……)さんから返信があったので、以下を再返信。

(……)


   *


 いまもう一一日の零時二〇分。さきほど八日の記事をしあげて投稿。そういえば書きわすれていたのだけれど、八日にはnoteのほうで「(……)」さんという方からサポートが来ており、メッセージをみてみればいぜんnoteに日記をあげていたときも読んでくれて、ときおり言及もしてくれていた「(……)」さんだという。それで翌九日にお礼の返信をしておいた。そのさいNotionの記事に文章を書いて、それを送信フォームにコピペしておくったはずなのだが、Notionのほうに文がのこっていない。コピーではなくてカットしてしまったのか。それでnoteにいまアクセスしてみたところが、noteのメッセージ欄は改行が反映されない仕様らしく、こちらがきちんと三部分に分けたながいメッセージがぜんぶひとつながりで表示されてしまっている。おれがしっかり二回の行開けにこめたリズム感覚と話題の転換がぜんぜん反映されていないぞ。以下がサルヴェージしたそのメッセージ。

(……)


     *


 またこの日、(……)くんの訳文添削のしごとをしたのだが、食後、三時前からとりかかったときにはやはりとちゅうで胃がひりつくような感じになってきて、無理はしないほうが良いといったんはなれてごろごろした。ものを食べてすぐ、腹のなかがまだあまり消化されていないときに文を書こうとするとそうなるようだ。日記の文でもわりとなるし、添削は公的なしごととしてやるので、おそらくそれよりも精神がかまえて負荷がおおきくなるのだろう、余計に症状がつよい。ごろごろして背面なんかをほぐしてから取り組むと感覚はほぼ問題なくなっており、しあげることができた。いちおう時間はしたにメモしておく。いつ職場にいけるかわからないが、給与申請につかうので。
 けっこうごろごろしてアンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)を読みすすめたりなんだりしたのだけれど、夕食後にはまたからだのなかが妙にうごめくような、なんか粘りのある液体がどろどろ緩慢に回遊して蜘蛛の巣のようにはびこっているような、そんな感覚が生じた。部屋にこもっていてもよくなかろうとちょっとしてから夜歩きに出たのだけれど、背面や腰をよくほぐしたから脚のうごきははやくて、いつになくずんずんとすすむ。けれど体内の感じはやはり粘っており、痰が喉の奥にあがってきて引っかかったり詰まったりするような感じもつづいた。それでこの日の歩行はあまり周囲を見聞きするということはなく、体調やからだについてかんがえながら足をすいすいすすめてただあるくというような感じになり、ルートはいつもどおり病院などのほうを回ってきて四〇分くらいだったはず。アパートを出てすぐ夜空をみあげると、月が薄雲のなかにまもられて多色の暈をひろげながらひかっているのがそこにあり、おお、とおもって道をすすみつつなんどかみあげると、雲のおかげで色と宿りをえた光暈は二重の円で、月にいちばんちかい内側は黄とも緑ともつかない淡色、高級な和菓子につかわれる白餡をおもわせるようなきわめつきのなめらかさが塗りひろげられ、その縁をいったん薄い赤が受けながらもひかりはそこでとどまらず、もう一円がより幅広に押しひろがって、その縁は黄ともつかない暗い淡さと、赤ともつかない暗い淡さが接し合って閉ざされていた。雲のそう多くはない空で、星の粒もいくつか見かけたおぼえがある。大気は寒さにいたらない涼しさで、風も記憶にのこっていないから、それくらいなじんでいたのだろう。


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  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし2」: 113 - 128
  • 日記読み: 2021/10/10, Sun. / 2014/3/4, Tue.
  • 和訳添削: 14:50 - 15:26 / 16:56 - 18:06


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 あと、さいきんなぜか、毎日いちまいなにかしらの写真を取ってそれを日記といっしょに添えていくのがなんか良いんじゃないかというきもちが湧いており、とりあえずやってみようかなとおもったので、この日は手はじめにそのとき読んでいた「読みかえし」ノートをうつしたパソコンの画面を撮った。なんでもいいし、構図とか質とかどうでもよいので、まいにちいちまいなにかしら撮ってあげるというのをつづけてみようかなとおもう。むかしは、ゼーバルトなんか読むと写真が添えられるってのもおもしろいなとおもいながらも、じぶんの日記にかんしてはテクスト的存在になりたいというかテクストになりたいというか、実存としてのじぶんをもとにしつつもそれとはちがう位相で、言語としてのみ現前したいというような欲望がわりとあったので、写真を載せるなどということはかんがえられなかったが、まあじっさい生身のにんげんとして存在はしているわけで、もういいでしょ、と。文章とはべつで、というか関連しても関連しなくてもよいのだが、いちにちのある瞬間やある事物やある風景などを、これはこれでこういうかたちで記録するというのをやってみようと。

20221010, Mon., 142739

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