2022/10/16, Sun.

 しかしまたどうしてぼくが、どんなにしっかりした手を持っているとしても、あなたへの手紙にぼくが達成したいと思うことすべてに到達できるでしょう――あなたにこの二つの願いの真剣さを同時に納得させること、「ぼくを愛しつづけてください」と「ぼくを憎んでください!」と。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、310; 一九一三年三月一七日から一八日)




 いちど覚めると早朝、六時台で、しばらくまどろんでからふたたびあいまいな意識をとりもどし、ちょっともぞもぞうごめいてからカーテンの端をめくって、白い空をみつめることで覚醒をたしかなものにした。それでしばらく腰を左右にうごかしたり、布団のしたで脚をゆるく振ったり。たしょうからだがねむりから覚めると、水を飲もうといったん床を抜けて、冷蔵庫の水をマグカップに半分ほどそそぎ、それを飲み干すとまた臥位にもどった。うえは肌着だけのかっこうだったが、起き抜けはいくらか肌寒さに寄った曇天で、エアコンをほんのすこしだけつけたいくらい、しかし我慢してジャージを身につけて、カーテンもひらいておいた。そうしてまた掛け布団をかぶり、Chromebookを持って布団をはさんで胸のうえに置きながら、ウェブを見たりじぶんの文章を読みかえしたりした。2021/10/16, Sat.からはニュース。

(……)朝刊の国際面を見た。タイの各地で大雨による洪水被害が起こっているが、政府は無策で手をこまねいていると(ちなみに文中では「手をこまぬく」になっていて、もともとはこちらの言い方をしていたのが音が転じたらしい)。タイは雨期の終わり、一〇月から一一月くらいにかけて毎年水害が起こるらしいのだが、今年のそれは大規模で、たしか全国で一都七六県だかそのくらいあるうちの、四割いじょうだったかそのくらいの範囲で冠水が確認され、被害を受けた世帯は三〇万にのぼるとあったとおもう。二〇一一年にも非常におおきな洪水被害があって、そのときは四〇〇万世帯が被害にあったと書かれていたとおもうが、当時の政府がその大災害を教訓として治水計画をすすめていたところ、二〇一四年に軍のクーデターが起こって中断し、その後の軍部主導の政府もあたらしい計画を立てるだけは立てたもののじっさいの建設などにはとりかからず、そうして放置しているうちに今回の水害をまねいたというわけで、政府になんの備えもなかったことが露呈し、とうぜん批判を浴びていると。プラユット・チャンオーチャー首相は九月に被害現場を視察に行ったのだが、そのときも市民たちから「役立たず」とか「帰れ」とか罵声を浴びせられたと言い、政府がおこなっている支援は避難所に食料をとどけるくらいのことで、肝心の洪水の収拾にかんしては雨期の終わる一一月になって自然と水が引くのを待つしかないという「お粗末ぶり」だといわれていた。ある地域では水位が基本的に一. 五メートルくらいの高さに達しており、場所によっては三メートルにもなると。だから一階が完全に浸水した家も多いようだし、二階まで水が達している家もけっこうあるとおもわれ、住民たちはおのおの板を渡したり、ボートで水のないところまで移動してから出勤したりと難儀な生活を強いられているようだ。そんななかでアユタヤの一画にある工業団地だけは二〇一一年の件を受けて独自に対策を取り、高さ六メートルにもなるコンクリートの堤防をつくっていたので今回も浸水はまったく起こっていないという。この水害で現政権への不信はとうぜんたかまったはずで、そうなると洪水がいちおうおさまったあと、くわえてコロナウイルスの感染も下火になって集会がまたできるようになれば(いまはまだ一日一万人くらいの感染者数があるらしいが)、若い世代による反政府抗議活動が再開され、コロナウイルス対策および洪水被害への対応で批判をまねいた政府への抗議はいぜんよりちからをえるはずである。そこでもし政権が市民を無理やりおさえこんで黙らせようとすれば、ミャンマーみたいなことになる可能性もかんがえられるだろう。そのミャンマーではちなみにアウン・サン・スー・チーをさばく特別法廷がはじまっているのだとおもうが、スー・チー側の弁護人が国軍からメディアへの発言などを禁じられたという報がこの日かきのうの新聞にあった。

 2014/3/10, Mon.、この日が(……)さんとさいしょに顔を合わせた日だった。やはり東京大空襲の日付だったのだ。新宿に行っている。先日の記事で「黄金珈琲」とかいう店ではなかったか、と書いたのは、「珈琲貴族」という喫茶店だった。(……)さんとさきに合流して待ち合わせたのは新宿駅の東口で、夕刻か宵ごろと記憶していたが、そうではなくてまだ昼間のうちにあつまっている。「京都から来たMさんとは初対面だった。灰のジャケットにセーターで、イメージよりもシックな装いをしていた。元気で気さくでにこにこ笑ってばかりいる人だった」とのこと。(……)さんといっしょに来ているが、そういえばこのとき(……)さんは、とうじ玉川上水だったか東大和だったかそのへんにあったかれの部屋に泊まっていたのだ。
 先日もふれた珈琲貴族での一幕にかんしてはつぎのようにある。「テーブルの上の砂糖入れは金色に輝いていた。Mさんはよくしゃべる人でもあったが、落ちつかなさやせわしなさは感じなかった。風景書くときだけ文体ちがうよねと言われて、やはりわかるものだよなあとうめいた。目の前のここにあるものを書くのが一番難しい、とつぶやいたMさんが机上に落とした目線の先、Hさんの右手指はほとんど絆創膏で包まれていた」。そのあと五時を過ぎてからハンバーグレストランに行って飯を食い、紀伊國屋書店にくりだして海外文学あたりをいろいろ見ている。こちらは岩田宏石原吉郎と多田智満子の現代詩文庫を買っている。いまだにたしょうなりともなじんだことのある詩人の幅が、この三人、というか実質前者ふたりからほぼひろがっていないというのはどういうことなのか? 現代詩文庫いくつかもっているけれど、買っただけでぜんぜん読んでいない。そんなことでは駄目である。小笠原鳥類とかさっさと読むべきだ。
 別れのまえには夜空とひかりにふれつつ、わざとらしい叙情めいた、いくらかくさみのあるような記述をしている。「広い車道をはさんで立ち並ぶビルの足下に人々が蟻のようにひしめき合っていた。夜闇のなかにけばけばしく浮かび上がる色とりどりの看板を見てMさんは、うわあ、きれいやなあと声を上げた。東京の空はせまいとかよく言うけど、空を見上げとるわけやん、それってこのビルの線を目がたどっていくんやないかな。地上と夜空を画するビルの輪郭は光をまとって膨張し、それが余計に空をせまく、夜を薄くしているように思われた。アルタ前の交差点でHさんと二人になって空を見上げた。地上の光は星の光を飲みこんで、それから逃れたのは一番星だけだった。そのなかでもひときわ光の強い星が月のかたわらに寄りそっていた」。
 帰りの電車内では居合わせた乗客のようすを盗み見ている。「扉のきわに陣取れなかった。そこをとった中年のサラリーマンはコートの内側、スーツの右ポケットから十枚ばかりの小銭をとり出し、ひとつずつ左手指で触れては裏返し、眺めていた。最後に、二枚ある五百円玉のうち一方を左手に握って残りをポケットに戻した。男がいなくなったあとは若い女性がそこに居座った。脇目もふらずメールを打っている様子に誘われてのぞいてみると、彼氏かあるいは意中の男性に今しがた新宿であったごたごたについて報告しているのだったが、その文量が四十行はあろうかという長文だった。打ち終えると思い人から送られてきた二行のメールを読みかえし、自分のメールも最初から確認したあとに送信した。(……)駅で降りるとすぐに笑みをうかべながら通話していた」と。ちなみにこのころはまだ出先で音楽を聞いていて、このときながしているのはPat Methenyだというが、三人と合流するまえにはディスクユニオンジャズ館に出向いて、口座預金が八万くらいしかなく月収もいくらでもない腐れフリーターのくせに散財している(いまもおなじだが)。「Theo Bleckmann『Twelve Songs by Charles Ives』、Carla Bley『Live!』、World Saxophone Quartet『Live In Zurich』、Stephane Furic『The Twitter-Machine』(パウル・クレーの同名の絵がジャケットになっている)、Brandon Ross『Costume』、Paul Motian『On Broadway, Vol.3』、Paul Motian Trio『At The Village Vanguard』、Leon Parker『Above & Below』、Dave Santoro Trio『Live』、Robert Hurst『Underhurst, Vol.2』、Craig Taborn『Junk Magic』、Steve Lacy & Mal Waldron『At The Bimhuis 1982』の計十二枚を一万円ほどで買った」とのこと。これらのどれも、いちおうあれだな、ああいうやつだなと茫漠とした印象が出てくるくらいには聞いたが、とてもではないがきちんと聞いたとはいえない。
 日記の読みかえしをしたあとはGuardianでまたウクライナまわりの情報をまとめた記事を読み、そうして起き上がったのがちょうど九時ごろだった。便所に行って糞と小便をいっしょに排出し、顔を洗うと、ちょっと屈伸したり、首をまわしたりしてから瞑想。九時二〇分に開始。臥位でふくらはぎや太ももをほぐすわざをまたよくやるようになったので、からだは軽く、座っていてもよくしずまる。ストレッチとか深呼吸とかいろいろためしたけれど、けっきょく、養生法としては寝転がって脚を揉むのがいちばんな気がしてきた。原点回帰だ。なにしろ楽だし、全身に効くし、やりながら本も読める。あと、きのうながく通話したさい、ずっと座っていたので後半で疲れてくると、やはりからだが上擦るような、輪郭がずれてちょっと気持ち悪いような、空虚な圧迫感が腹の内からもたげるような、そんな感覚が生じたのだけれど、背もたれに首をあずけて左右にころがすことをやっているとそこそこ楽になったので、首をこうしてほぐすのも大事そうだときょうは寝床でも椅子に座っているときにもときおりやっているのだけれど、やはりそれはよさそうだ。背骨や、肩甲骨まわりから肩、そして首、後頭部にかけての範囲が、おそらくじぶんのからだのなかのクリティカルポイントになっている。いぜんはよく臥位で脚を揉んでいたからその効果があって、緊張とか不安にもけっこう抵抗力ができていたのだろう。ところがなぜかさいきんあまりやらなくなっていたので、それでからだがかたまってゆがみ、胃や喉の変調とそれとむすびあった緊張感をまねいたというかたちではないか。やはり横になってだらだらするにかぎるのだ。椅子に座っているのはなにしろ疲れる。夏目漱石の小説の登場人物らと同様に、臥位こそが我が体位である。それか歩行。
 瞑想はわりとよろしい。きょう読んだ一年前の記事に、「瞑想をした。かなりいい感覚ではあったのだが、やや眠気が混ざって一五分ほどで切ることに。停止感というか、なにもしないという非能動性の感覚にかんしてはもうお手の物というくらいに習得してきたつもり。しかしそういうときにこそ、じつはできていないということが往々にしてあるものだが。ともかくもすわって、ある程度のあいだすわりつづけていれば身体と精神のうごきがどうあれもうそれでいい、というこだわりのなさになってきている。きのうの記事に書いた、生きていればだいたいなんでもいい、というのとおなじこと。状態を言語化したときに、「すわっている」という言述のほかに実質的にはなにもない、そのそとがない、というのが瞑想もしくは座禅であり、只管打坐ということではないのか。ある程度の時間すわってじっとしていれば、もうそれで良いわけである。質は問題ではない」とあったが、ここに立ち帰るべきではないか。からだが楽になるのは事実だが、それをことさらもとめず、すわってじっとしていくらかの時間を過ごせばともかく成立、というところに。二七分ほど座った。そうしてまたちょっと屈伸したりしてから、食事へ。サラダをつくる。キャベツを切り、豆腐とハムを乗せる。ドレッシングは柚子胡椒風味の胡麻ドレッシングだが、これはそんなに好みではない。その他冷凍のちいさな肉まんをふたつと、即席のお吸い物。肉まんは尽きた。食べるあいだ、そして食後は(……)さんのブログを閲覧。以下のはなしはきのう引いたものとあわせてよくわかる。

 崇高の経験において、主体は不安・不快の感情からある種の快楽を得るが、このことはユーモアのメカニズムを思い起こさせる。ユーモアとは、フロイト曰く、苦痛のあった場所に快楽を生じさせるメカニズムである。それは、ジョークや滑稽なものとは異なり、カントの崇高と全く同じ論理にしたがうものである。フロイト自身があげている崇高なユーモアの例を見てみよう。ある月曜日、処刑されるべく絞首台に向かう死刑囚が言った——「うん、すてきな一週間の始まりだ」。確かに、ジョーク、滑稽なもの、そしてユーモアにはいくつかの共通点があるのだが、ユーモアにはその他のものにはない特徴、フロイト曰く、「ある種の威厳、気高さ」がある。崇高の感情と同様、それは「明らかにナルシシズムの勝利、自我は不死身であるという勝ち誇った宣言である」。以下、さらに具体的にユーモアのメカニズムを見ていこう。
 ユーモアとは、(脅威的な)〈もの〉にトラウマともなりかねない近さで対峙する主体が、そこに新たな距離をもち込む過程である。主体は、極めて重大なことに対してある種の無関心、まさにカントの言う無感情という情念を身にまとう。フロイト曰く、この距離を支えるのは超自我である。主体は、「心の重心を自我におくことをやめ、これを超自我に移す。こうして膨れ上がる超自我にとって、自我はちっぽけなものであり、またその利害はとるに足りないものである」。このようにして主体は世界に対して距離をとり、その結果「より高い」視点から世界を、またその中の自己を、見ることができるようになる。言わば、超自我が強くなればなるほど、主体は崇高の感情を抱きやすくなるのである。
 崇高の感情のメカニズム、「財産、健康、生命など、我々の自然な関心の対象をとるに足りないと見なす力」を我々の内に見出す過程は、これと全く同じである。崇高の感情は超自我の内に生まれる——これは驚くべきことではない。主体が自分自身を、その自然的存在を超えるということは、まさに超自我が、現実の要請にもかかわらず自らの幸福に反する行為を主体にさせるということ——利益、要求、快楽など、主体を「感性の世界」に縛るものすべてを棄てさせるということ——に他ならない。
 もうひとつ触れておこう。崇高は、滑稽に隣接しているとしばしば言われる。我々は、「見方によっては崇高でもあり、また滑稽でもある」などといった表現をよく目にする。先に見た映画『人生狂騒曲』の一場面からもわかるように、「中立的な」観察者の視点から見れば、他人が抱く崇高の感情は、単なるお笑い種である。このように、対極にあるはずのものが一致するとはどういうことなのか? 答えは簡単である——超自我の視点から見て崇高なものは、自我の視点から見れば滑稽なのである。
(『リアルの倫理——カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ・著/冨樫剛・訳 p.177-178) 

 食器類を洗ってかたづけると電気ケトルで白湯をつくり、それを飲みながら音読をいくらか。あいまにまた背もたれに首をのせて左右にゆっくりころがしておく。これはじっさい、きもちがよい。首はとうぜんのこと、そこから肩や肩甲骨のあたりにも波及する感覚があって背中がほぐれるし、もしかしたらもっとひろい範囲にも効いているのかもしれない。というのも、首のうしろというのは見た目からもわかるように、あきらかに人体の結節点で、ここをあたためると全身の血行がよくなるみたいなはなしも聞いたことがあるし、首を背もたれに乗せたときにそのへんの背骨の出っ張った部分が当たるかたちになって、あたまを左右にやるととうぜんそこが刺激されるので、その一点を経由して背骨、および背骨につながっているいろいろな部分にまでうごきがつたわって楽になるのではないかと。しばらく時間をかけながらゆっくりやっているとちょっとねむくなってくるようなリラックス感があって、風呂にはいっているときのような感じをおもわせた。風呂はいりてー。このひかえめな狭い部屋に移ってきていらい特段の不満もいだいていないが、ゆいいつ不満があるとしたらまいにち風呂にはいれないということだな。いちおうシャワーで湯を溜めればできないこともないのだろうけれど、水を大量につかうからなんかそれももったいない感じはするし。でも、週に一回くらいはその贅沢をゆるしてもよいのかもしれない。
 そして、きょうはこのまま書きものに行けるんじゃないか? という感じがあったので、きょうのことを記述してみることにした。するとさいしょはちょっと腹が痛んだりしたが、いちおうこうしてここまで書けている。いまは正午過ぎである。ゆびもなめらか。文を書こうとするとからだがいやがるというのはたぶん、ふつうにあたまに負担がかかるということもありながら、キーボード上に両手をのせるというこの腕をもちあげる姿勢が、腕じたいや首とか肩とか背とかに圧力や負荷を強いるということなのではないかと推測する。それにいままではなんかやっぱり足の裏がきちんと床についていないとやりづらいなとおもって椅子をいちばん低い状態に下げていたのだけれど、それもよくないのではとおもわれたので、ちょっと高さをあげて、腕がそんなにもちあがらないようにした。足はこれまでよりもややまえに出すようにすれば、ぴったりとまではいかないにせよじゅうぶん床につく。それでここまで書いてみたところいちおうこれで行けそうである。しかしこのままおとといきのうとまでは行かず、疲れたのでいったん布団に逃げる。疲れたらもう、すぐに逃げてだらだらする。


     *


 いったん布団に逃げてだらだらしているあいだは、もちろんふくらはぎや太ももを膝および踵でほぐしている。ちからをぜんぜん入れずに、揉むというよりはやさしくなでるような感じですこしずつやるのがむしろよい。背中のほうまで、だんだんと血が全身をめぐっていき、からだの各所があたたまってくるのが感じられる。いま六時三五分、日はすでに暮れて、入り口のほうの天井にあるくぼみにはいったやや暖色の電灯と、このパソコンを置いた机上でアンプのうえに乗せられてあるデスクライトとがこの部屋にあるただふたつの光源であり、どちらもぼんやり黄色とオレンジの中間のような色味をもったそれらの明かりがひろがって部屋の角のほうでは吊るされたワイシャツやギターケースの影を白い壁にうつしている、とそういう薄暗さでもあり薄明るさでもあるような空間のなかから右手の窓をみやっても、すでにたそがれを越えて宵にはいっているだろうそとの大気のようすは、白いレースのカーテンのむこうに透けては来ずに、ただ向かいの保育園の一階の部屋を埋めているらしき蛍光灯の白いあかるみが、かろうじて布と分かれた白さの層としてみえるばかりだ。うえの段落まで書いていったん逃げたあと、飯を食ったあとにもういちど逃げて、それでさきほどまでニーチェの『この人を見よ 自伝集』(川原栄峰訳・ちくま学芸文庫)を読んでいたのだけれど、なにが言いたかったかというと、けっきょく寝転がりながら脚のまえうしろをやわらげるこの方法がやはり最強の養生法なのでは? ということで、これをしばらく、といっても三〇分とか一時間とかだからけっこうな時間だが、それくらいかけてすこしずつつづけているとからだがてきめんに楽になり、肉体じたいが一種の快活さを帯びてくるしだいで、肉体が快活になればとうぜん精神も晴れやかな解放にかたむき、したがって本を読むのもおもしろくなる。ニーチェのこの本はそれでなくてもおもしろく、笑ってしまうような箇所がいろいろある。大言壮語の自尊ぶりと、ドイツ人やドイツ的精神にたいする、批判というよりもまさしくたんなるディスり、軽蔑のさまに笑ってしまう。たとえばつぎのような箇所だ。「(……)本と言われる本の中で私の著書ぐらい自信に満ちて、しかも洗練されたものはほかには絶対にない――私の著書はあっちでもこっちでも、地上で到達できる最高のもの、すなわち犬儒主義 [ツィニスムス] にまで達している。こういう本を読みこなしてわがものにしてしまうためには最もしなやかな指をもってすると同時に、最も勇敢なこぶしをもってしなければならない。魂に少しでも欠陥があったらもうだめだ。絶対にだめだ。消化不良でさえだめなんだから。神経など持っていてはいけない。腹の中がすっきりと快調でなければならない。魂が貧困であったり、魂のすみっこの方に濁った空気が残っていたりするともちろんだめだが、そればかりでなく、内臓に怯懦なものや不潔なものやひそかに執念深いものなどを持っているとなおさらだめだ。私は一語で相手の劣悪な本能をすっかり顔に浮かび出させてあばいてしまうことができる。私は若干の知人を実験用動物にしている。それで私の著書に対する反応が人によってどんなに違うものかが手に取るようによくわかり、教えられるところがはなはだ多い。私の著書の内容にまでは触れたくない連中、たとえば私の自称友人たちは、そんな場合いやに「紋切型」になって、またまた「こんな本を書くまでに」なられてよかったですね――それに、調子がずっと明るくなっているのも一つの進歩ですね、などと言う……完全に罰あたりな「精神」ども、かの「美わしき魂」でも、つまり根っからの嘘つきどもは、私の著書をどう解してよいのやらかいもくわからない――ゆえに彼らは私の著書を自分たちよりも低い [﹅2] と見る。これがすべての「美わしき魂」どもの美わしき論理なのだ。私の知人の中の鈍牛、失礼ながらこれはつまりただのドイツ人どものことなのだが、この鈍牛が、必ずしもあなたの意見に賛成ではないが、しかし時には……などとほのめかす。ツァラトゥストラに関してさえこんなことを言う者がある……」(83~84)。ドイツやその文化、そこのひとびとの精神性にたいする侮蔑と嫌悪だけをとってみても、ニーチェナチスと親和的であるなどとかんがえることはできない。かれはゲルマン民族にたいするこころからの軽蔑をもっている。そんなかれはむしろパリを称揚してフランスにしたしみをおぼえる人種で、「ドイツ式に考え、ドイツ式に感じる――私はなんでもできるが、これ [﹅2] だけは私の手にあまる……私の恩師リッチュル先生は、君は文献学の論文をさえ、まるでパリの小説家のように――ばかにおもしろく書くね、とまで言いたもうた」(82)と述べており、好きなフランスの作家をあげさせれば、「ポール・ブールジェ、ピエール・ロティ、ジプ、メーヤック、アナトール・フランス、ジュール・ルメートゥル」といった調子で、さらには、「この強い種族フランス人の中でたったひとり私が特に惚れこんでいる人、生粋のラテン人をひとり選び出すとしたら、ギィ・ドゥ・モーパッサンの名をあげよう」(56)とのことである。モーパッサンなんていうなまえはいまの日本でわざわざ口に出すひとはもはやとぼしいはずで、じぶんは読んだことがないからなんともいえないけれどまあ小洒落たというか、小綺麗な短篇の名手という世評のイメージで、大仰尊大なニーチェの性質とは背理しているようにしかおもえず意外な評価だ。ピエール・ロティ(いまはつうじょうロチと書かれるはずだが)なんていうのもそんなに派手な作家だとはおもえず、これも読んだことはないけれどロラン・バルトが批評して、なんだったかハーレムのあるトルコの街を舞台にしたある作品のすばらしいところはその天気の描写であるみたいなことを言っていたおぼえがあるから、地味なタイプの小説ではないのか? 繊細美妙な、短篇的巧手のわざみたいなのがニーチェは小説としては好きなのだろうか。それは良いとして、フランスいじょうにニーチェがしたしみをおぼえる人種というのはもちろん古代ギリシアのひとびと、それもソクラテスのいぜんの哲学者たちで、ソクラテスにかんしてはつぎのような否定的評価が述べられている。「この本 [『悲劇の誕生』] で初めてソクラテスギリシアの解体の道具、すなわち典型的デカダンだと看破された。本能に逆らう [﹅3] ソクラテスのあの「理性主義」。生の足もとを掘り崩す危険な暴力としてのあのあくなき「理性主義」!」(95)と。ギリシアの悲劇にみられる原理をいわゆるアポロン的精神とディオニュソス的精神に分割して、後者を称揚しまくるのがニーチェという理解なのだが、そのふたつの精神とは(これも著作そのものを読んだことがないので聞きかじりのふたしかな認識だが)、要は知性や理性によって形態化・構造化・体系化されうるものやその操作と、ものごとのかたちをさだめようとするにんげんのそうした精神作用によって追いつくことのできない領分、いわばつねなる、そして妙なる生成変化のはたらき、というのがこちらの理解である。かたちになるものとかたちにならないもの、それはちょっと言い換えれば言語化可能なものと言語化できないものという二分法に変化するわけだけれど、この対立は西洋哲学の、そしておそらくは西洋のみならずおよそにんげんの思考において古来ずっとさまざまなかたちで変奏されてきた根本的原理のひとつなのだとおもう。ニーチェディオニュソスのほうにつくにんげんだから、典型的なイメージの、それこそかれじしんもけなしているけれどドイツ哲学者のような、かたい概念をならべてつなげて、きっちりとさだまった堅苦しい思考体系を構築しようとする思想人種ではなく(それも容易にできる能力はもちろん持ち合わせていたはずだが)、どちらかといえば芸術家や文学者や詩人のようなタイプである。この本は論文的なものではなくて自分語りだからということもあるけれど、文章からしてもそれはあきらかで、初版が一九六七年のわりに古臭さを感じさせない川原栄峰の訳もあいまってじつになめらかによくながれる書きぶりになっており、二五歳でバーゼル大学員外教授の職をえているという意味のわからん偉才だけれど、アカデミズムのなかでやっていくのに合ったにんげんという感じではぜんぜんない(いまの、しかも日本の、さらにはじっさいそこに属したことのないこちらがいだくアカデミズムのイメージと、とうじのドイツやスイスのアカデミズムの実態とではだいぶちがうかもしれないが)。ディオニュソス的精神というのは古代ギリシアのいわゆる「自然」概念とむすびついたものであり、それはニーチェにあっては、生成変化、そして生の肯定、ということはつまりれいの「運命愛 [アモール・ファティ] 」とほとんど同一のものとしてあるようだ。そしてまた「悲劇的」という概念もかれにとってはこの系列にある、もしくはやはりほぼおなじ意味のものであって、『偶像の黄昏』をみずから引くかたちでかれはつぎのように書いている。「生の最も異様な最も苛酷な数々の問題に悩まされていても、なおかつその生に向かって然りと肯定すること、生への意志、ただし生としては最高の部類に属するものどもを犠牲に供し [﹅5] ながら、なおかつ自らの無尽蔵を喜びとするような――これこそは [﹅5] 私が呼んでディオニュソス的となしたところのものである。私はこれを悲劇的 [﹅3] 詩人の心理を知るための橋と解した。詩人が悲劇を書くのは驚愕と憐憫とから逃れるためではない [﹅2] し、猛烈な爆発によって一つの危険な心の動揺を自ら浄化するためなどではない――アリストテレスはそう誤解した――。そうではなくて、驚愕と憐憫とをのり越えて自ら [﹅2] 生成の永劫の快楽たらん [﹅3] がためであり――破壊の快楽 [﹅5] をさえも含んでいるあの快楽そのものたらんがためなのだ……」(98)。こうしたディオニュソス的精神と「生の過剰 [﹅4] 」(100)、「苦悩に、罪にさえ、生存におけるいかがわしいもの、奇異なるもののすべてに向かってさえ、かまわず、なんの留保もなしに、然り [ヤー] を言う一つの肯定」(96~97)という精神原理が、プラトン - ソクラテスキリスト教などによって抑圧され、破壊され、解体され、いわば「退化 [﹅2] 」(96)されてきたというのがかれの歴史認識であり、それを復活させなければならないというのがかれの使命のようだ(「百年先のことを考えてみよう、そして二千年にわたった反自然と人間冒瀆とに対する私の暗殺計画が成功した場合を仮定してみよう」(99)とかれは言っている)。いかにも雄々しい精神であり、あえていえば英雄的とさえ容易にいわれそうな態度であり(しかしニーチェじしんはどこかで「英雄崇拝」を否定していた)、そこがニーチェの、たとえばナチスに悪用された点であり、俗流的にたんなるマッチョイズムとむすびつきかねない点なのだろう。ニーチェの発言のなかにはあきらかに危険な要素が、そのまま受け取れば、もしくは受け取り方によってはまずいことになってしまうようなものがふくまれている(89~90では、現代の女性観からはまちがいなく受け入れられないようなことを書いている)。生成変化にかんしても、さきの引用にもあらわれているように、「破壊」の一語がともなっている。ヘラクレイトスにふれた箇所でも、「流転と破壊と [﹅4] の肯定、これこそディオニュソス的哲学なるものにおいて決定的なことだ。対立と闘争とに対する肯定、「存在 [﹅2] 」という概念をさえ徹底的に拒否して、あえて説く生成 [﹅] 」(99)と言い直している。ヘラクレイトスはたしかに箴言のかたちで「対立と闘争」を説いただろうし、生成変化とはある状態がべつの状態に変わっていくことだから、たしかにそこにはまえの状態の「破壊」がふくまれているとは言わざるをえない。ただ、「流転」のなかにあえて「破壊」という語をもちこむことによって、そしてそれをも肯定することによって、そこに不穏なニュアンスが忍び込んでくることは避けられない。この「破壊」をより具体的なかたちとして、どう理解するかという点が肝要になってくる。だれでもおもうことだろうが、ニーチェの言い分において、それではたとえば戦争は肯定されるのか、という問いが即座に生じてくるだろう。そこに「運命愛」がむすびつけば、いまウクライナのひとびとが味わわされている苦難までもが一足飛びに、一挙に肯定されてしまう。ニーチェがほんとうにそういうことを言っているのかという点には、最大限に慎重にならなければならない。また、ニーチェじしんがたしかにそのようにかんがえているとしても、それを受けたわれわれが賛同するのかしないのかはまたべつのはなしだ。じっさい、『アウシュヴィッツの残りのもの』のなかでアガンベンは、ジャン・アメリーを援用しながら、収容所のような極限状態に置かれたひとびとにとって、ニーチェのこの「運命愛」はどうしたって採用しようがないということを考察していたおぼえがある(あるいは、引かれたジャン・アメリーの文章がそのように言っていたのだったか?)。というわけで典拠をさがしてきたが、その論述は、こちらがうえで述べたポイントよりもさらに、一歩深いところに踏みこんでいる。プリーモ・レーヴィというひとは、やはり重要な作家なのだ。

 二十世紀の倫理は怨恨[ルサンチマン]のニーチェ的な克服をもって始まる。過去にたいする意志の無力に抗して、いまでは取り戻しようもなくかつてあったものとなってもはや欲することができなくなってしまったものにたいする復讐心に抗して、ツァラトゥストラは、後ろ向きに欲すること、すべてが反復されるよう望むことを人間に教える。ユダヤ - キリスト教的な道徳にたいする批判は、二十世紀にあっては、過去を完全に引き受ける能力、罪をやましい良心からきっぱりと解放される能力の名のもとに、果たされる。永遠回帰とは、なによりもまず、怨恨[ルサンチマン]にたいする勝利であり、かつてあったものを欲する能力、あらゆる「このように在った」を「在ることをわたしはこのように欲した」に変容させる能力、つまりは運命愛(amor fati)である。
 これについても、アウシュヴィッツは決定的な断絶を告げている。『悦ばしい知識』のなかでニーチェが「もっとも重い重荷」というタイトルをつけて提案している実験のまねをしてみることにしよう。すなわち、「ある日、もしくはある夜」、悪魔が生き残りのかたわらに這い寄ってきて、かれにこう尋ねるとしよう。「おまえは、アウシュヴィッツがもう一度、そしてさらには数かぎりなく回帰して、収容所のどの細部も、どの瞬間も、どんなささいなできごとも、永遠にくり返され、それらが起こったのとそっくり同じ順番で休みなく回帰することを欲するか。おまえはこれをもう一度、そして永遠に欲するか」。実験をこのように単純に組み替えてみただけでも、それをきっぱりとはねつけ、こんりんざい提案できないものにするのに十分である。
 しかしながら、アウシュヴィッツに直面して二十世紀の倫理がこのように挫折するのは、そこで起こったことが残酷すぎて、だれもそれをくり返すことを欲することができず、それを運命として愛することができないからではない。ニーチェの実験においては、恐怖ははじめから計算に入れられており、悪魔の聞き手におよぼすその実験の最初の効果はまさに「こう語りかけた悪魔にたいして歯をむいて呪う」よう聞き手を仕向けるというものである。かといって、ツァラトゥストラの教えの失敗は、怨恨[ルサンチマン]の道徳をただ単に再興させることを意味するわけでもない。犠牲者にとって、その誘惑は大きいにしてもである。たとえば、ジャン・アメリーは「起こってしまったことは起こってしまったことだと認めて受け入れる」(Améry, J., Un intellettuale a Auschwitz, Bollati Boringhieri, Torino 1987., p.123)ことを単純に拒否する正真正銘の反ニーチェ的な怨恨[ルサンチマン]の倫理を定式化するにいたった。

支配的な実存範疇としての怨恨は、わたしの怨恨について言えば、個人の歴史的な長い進展の結果である。〔……〕わたしの怨恨は、罪人にとって罪を道徳的な現実にするために、かれに自分の悪行の真実を突きつけるために、実存する。〔……〕わが身に起こったことについての省察にささげられた二十年をとおして、わたしは、社会的圧力によって引き起こされる免罪と忘却が不道徳なものであることを理解したと思う。〔……〕じっさい、自然的な時間感覚は傷口が癒着する生理学的過程に根ざしており、現実についての社会的表象に関与するにいたっている。まさにこの理由により、その感覚の性質は道徳外のものであるだけでなく反道徳的である。あらゆる自然的な事象にたいして同意を表明しないこと、ひいては時間によって引き起こされる生物学的な癒着にたいしても同意を表明しないことは、人間の権利であり特権である。起こってしまったことは起こってしまったことだ。この文句は、真理であるとともに、道徳と精神に反している。〔……〕道徳的人間は時間の停止を要求する。わたしたちの場合、それは罪人をその悪行の前に釘づけにすることである。このようにして、時間の道徳的な逆行が起こってはじめて、罪人は自分に似た者としての犠牲者に近づくことができる。(pp.122-24)

 プリモ・レーヴィには、こうしたものはまったくない。たしかに、かれはアメリーが内輪でかれに付けた「赦す人」というあだ名を拒否する。「わたしには赦す性癖はなく、当時のわたしたちの敵のだれも赦したことはない」(Levi, P., I sommersi e i salvati, Einaudi, Torino 1991., p.110)。しかし、アウシュヴィッツが永遠に回帰するのを欲することができないのは、かれにとってはまた別の根拠をもっており、その根拠は起こったことの新しい前代未聞の存在論的内実を含んでいる。アウシュヴィッツが永遠に回帰するのを欲することができないのは、それは起こることをけっして止めておらず、つねにすでにくり返されているからなのである[﹅一文]。(……)
 (ジョルジョ・アガンベン/上村忠男・廣石正和訳『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』月曜社、二〇〇一年、132~134)

 書いているうちに浮かんできたことをつなげてながながと書いてきたが、このくらいにして、ただあと些末なことにふれておくと、87ページに、「私以前の人は、一体ドイツ語で何ほどのことが可能であるか――そもそも言葉というものを使って何ほどのことが可能であるかということを知っておらない」という文があって、そこは「おらぬ」じゃないんかい、とおもった。まえにTwitterでこの言い方をみかけたおぼえがあるけれど、じっさいに本でつかわれているのははじめてみたわ。あと、94には「寒い九月の夜々 [よなよな] 」という表記があって、おお! となり、これはじぶんでもどこかでつかえるかもしれないとおもった。「夜々」はいままで「よよ」と読むしかないとおもっていたのだけれど、それだとどうもリズムとか響きがなあ、というときがあったので。まあ「夜な夜な」のほうが表記的には良いような気もしないではないけれど。
 いまもう八時一六分になってしまっていて、これからまた野菜スープをこしらえようとおもっているのだけれど、布団に逃げたあいだにはウェブ記事もいくらか読んでおり、下部に引いてあるが、中国についてや統一教会まわりのものもふくむ。あとなぜか唐突にフォン・ノイマンというなまえをおもいだし、「人間のふりをした悪魔」みたいな評し方をした新書がまえに出ていたからなのだけれど、検索するとその著者の記事があったのでそれも読んだ。そうして二回目の食事を取ったのは四時ごろで、キャベツと豆腐のサラダは変わらないが、このときは冷凍のハンバーグとパック米をひどくひさしぶりに食った。ようやく肉を食ってもだいじょうぶそうだなというからだの感覚になったわけだ。あと、(……)さんからメールも来ていて、今月いっぱい療養させてくれないかときのう送っておいたその返信だけれど、問題なく了承された。ただ、あした(……)くんの面談があるということで、そのためにいくらか質問や相談をされたので、これはこたえておかなければならない。ほんとうはこの面談も(あと(……)の面談も)こちらが同席する予定だったのだが、すまないことになってしまったし、こちらじしんとしても残念である。
 したがながながと書いたメール。

(……)


―――――

  • 「ことば」: 6 - 10
  • 「読みかえし2」: 188 - 194, 195 - 203
  • 日記読み: 2021/10/16, Sat. / 2014/3/10, Mon.


―――――


Miranda Bryant, Martin Belam and staff, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 234 of the invasion”(2022/10/15, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/15/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-234-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/15/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-234-of-the-invasion))

The US and Germany are to deliver sophisticated anti-aircraft systems to Kyiv this month to counter attacks using Russian missiles and kamikaze drones, Ukraine’s defence minister said. Oleksiy Reznikov said Ukraine would receive the Iris-II air defence system from Germany this month.

     *

A Russian submarine has reportedly been spotted off the French coast and escorted by the French navy. The submarine was spotted sailing on the surface off the Brittany coast at the end of September, the French navy said on its Twitter feed. It said British and Spanish warships had also been involved in monitoring the submarine’s movements.

Putin has called for the humanitarian corridors for Ukrainian grain to be closed if they are used for “acts of terror”. At a news conference in the Kazakh capital of Astana he also said there was “no need” for talks with the US president, Joe Biden.

A Ukrainian member of Kherson’s regional council has condemned Russia’s “evacuation” of the occupied city, saying it is in fact a “deportation”. The council member also said it was an evacuation for collaborators, urging residents to go to Ukrainian-controlled territory if they could.

     *

The UK Ministry of Defence said that “Russia continues to prosecute offensive operations in central Donbas and is, very slowly, making progress”. The ministry said that “in the last three days, pro-Russian forces have made tactical advances towards the centre of the town of Bakhmut in Donetsk Oblast” and “likely advanced into the villages of Opytine and Ivangrad to the south of the town”.

―――――

Emma Graham-Harrison and Helen Davidson in Taipei, “The most powerful man in China since Mao: Xi Jinping is on the brink of total power”(2022/10/15, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/15/china-xi-jinping-communist-party-congress(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/15/china-xi-jinping-communist-party-congress))

Despite pouring huge amounts of money into modernising China’s military, foreign analysts believe it is not yet capable, in technical or strategic terms, of seizing Taiwan by force. An amphibious landing on a well-protected island is among the most ambitious of military manoeuvres, that requires close coordination between air, land and sea assets.

But Beijing is approaching the moment when it may be possible. Earlier this year, the deputy director of the CIA, David Cohen, said that while China’s leaders – particularly Xi – would prefer a bloodless route to control of Taipei, they want the military to be capable of seizing Taiwan by 2027.

“It’s not good news if Xi can stay in power because he will definitely be more ambitious,” said Admiral Lee Hsi-Ming, the former head of the armed forces for Taiwan and its former deputy defence minister.

“He has already asserted his power, he will have a stronger intention to achieve the so-called great Chinese rejuvenation.”

Taiwan’s military and intelligence will not only be listening to Xi’s speech for clues about his plans for their island, but also parsing new appointments to the Central Military Commission.

Lee said those appointees’ “backgrounds and attitudes towards Taiwan” could signal Xi’s plans.

Recent Chinese military drills targeting Taiwan after a visit by US speaker of the House Nancy Pelosi were concerning. “They’re more assertive and confident about doing that kind of thing. Especially with some threats which we probably hadn’t focused on, like long range rocket systems … You can see they’re more confident about the political mission,” he added.


―――――


西村晋「《日本人が知らない中国共産党》末端組織が「生活者の愚痴」を吸い上げる“手強い”社会システム」(2022/10/15)(https://bunshun.jp/articles/-/57941(https://bunshun.jp/articles/-/57941))

 中共といえば、日本の報道では習近平主席や政治局常務委員などの超幹部ばかりに注目が集まる。しかし、こうした党中央は氷山の一角どころか、組織の頂上でしかない。中国において中共の最重要とされている組織は、末端の「党支部」だ。一つ一つの党支部は50名未満のメンバーで構成される小さな組織でしかない。2021年末の時点で434.2万の党支部が存在する。
 中共の組織は中央・地方・基層に大別される。「基層」とは、地域や職場など社会の末端部分を指す。中央の対義語である。だが、この基層という言葉に「下流」「底辺」「三流」といったマイナスイメージはない。あえて日本語で近い言葉を挙げると「現場」「草の根」あたりであろうか。この「基層」に根をはっていることこそ中共の強みである。
 中共中央組織部によると、2021年末の時点で中共党員は9671.2万名存在し、毎年、増加傾向にある。党員のほとんどは政治家でも官僚でもなく、農家やサラリーマン、工員、教師、退職者、そして学生である。何らかの幹部ではなく、また党務専従者でもない一般の中共党員は、ほぼ全員が、村、都市の地域コミュニティ(社区)、企業、軍や学校などに設置される党支部に所属している。日本の政党の支部は各地域に設置されているが、中共の党支部は地域に設置されるものよりも職場に設置されるもののほうが多い。また、村や社区の党支部に所属しているものは少数で、多くの党員は職場の党支部に所属している。
 入党を希望するのは大学生など若者が中心で、その動機は、純粋に党活動に興味があるとか、国有企業への就職に有利になるから、と様々だ。学生の場合、学内の党活動を通じて他学部の学生と交流し、恋人や友人を見つけるといった出会いの側面もなくはない。時には職場などで模範的な活躍をしている者を末端幹部が党に勧誘することもある。中共の勧誘を嫌がるインテリや中産階級も最近は珍しくない。

     *

 入党希望者は大学や職場などの党支部で数年かけて研修と審査を受ける。そのプロセスで重視されるのは政治的な知識や思想・態度以上に、日ごろの学習態度や勤務態度、協調性やコミュニケーション能力等の面で、周囲の模範であるかどうかだ。
 一般党員は、党支部で一体なにをしているのか? というと、定期的に集まって勉強と話し合いをし、さらに、ボランティア活動を行う。
 党支部の学習はとても重要な機能だ。党員は政治思想や党内法規や党中央の新しい方針などを学習し続けなければならない。政治思想は指導者が代わるたびにアップデートされるし、党の規約もたびたび改正されるので、入党後も学習を続けなければならない。これは若い党員に限った話ではなく、中高年の党員でも、新しい知識や思想を学習し続けなければならない。
 また、特に企業内の党組織では、政治思想のみならず、経済知識や事業活動に必要な技術的な知識なども学習する。これは業務時間内に行われる社員教育とは別個のものである。国有送電会社の国家電網の一般党員の場合、1か月に6時間以上の学習と、年間2篇のレポート提出が課される。更に党課と呼ばれる集中講義を年1回受講する。
 ボランティア活動は党の規則などで義務化されているものではないが、殆どの基層党組織にボランティア活動があると見て間違いなく、また、ボランティア活動をしたことがない中共党員というものもほぼ存在しない。
 もちろん、中共党員のボランティア活動には、社会一般からの党や党員への信頼を高めるという効果も見込めるだろうが、これはおそらく副次的なものである。ボランティア活動は党組織の「建設」活動と見做される。ボランティア活動を通じて党員の意識や協調性を高め、また、組織の団結をはかるという教育・訓練の効果を重要視しているものと思われる。災害時のボランティア活動のほかに、平時でも公共スペースの掃除などのボランティア活動を行う。


―――――


「国民に知られたくない統一教会公安警察の本当の関係 昔は頼もしい存在だった?」(2022/10/15)(https://www.dailyshincho.jp/article/2022/10151131/?all=1(https://www.dailyshincho.jp/article/2022/10151131/?all=1))

 日本の公安警察は、アメリカのCIA(中央情報局)やFBI(連邦捜査局)のように華々しくドラマや映画に登場することもなく、その諜報活動は一般にはほとんど知られていない。警視庁に入庁以後、公安畑を十数年歩き、数年前に退職。昨年9月に『警視庁公安部外事課』(光文社)を出版した勝丸円覚氏に、統一教会の関係団体である勝共連合公安警察の深い関係について聞いた。

 国際勝共連合は、旧統一教会を母体として、教祖・文鮮明が1968年1月に韓国で創設した政治団体である。同年4月には、日本でも創立された。当時、日本船舶振興会(現・日本財団)の笹川良一会長が名誉会長を務め、政財界の黒幕と呼ばれた右翼の児玉誉士夫が支援した。

勝共連合の目的は、『地球上から共産主義を完全に一掃する』ことでした」

 と解説するのは、勝丸氏。

勝共連合北朝鮮や中国、旧ソ連の情報収集能力に秀でていたので、韓国の大韓民国中央情報部(KCIA)は共産主義国家の情報を勝共連合から引き出していました」

     *

 勝共連合が設立されてから2年後の1970年、日米安全保障条約の自動延長を巡り、第二次安保闘争が起きた。
「学生や労組の左翼運動が最盛期で、日米安保に反対する大勢の学生や労働者が過激なデモを行い、右翼は押されっぱなしでした」

 そんな中、安保闘争で機動隊と闘っていた新左翼(世界革命を目指した反体制運動家)に真っ向から立ち向かったのが勝共連合だった。

「機動隊の近くで、新左翼とまともにぶつかり、殴られても逃げなかった。そのため右翼の人間は、統一教会のカルト的な教義を棚に上げ、彼らを頼もしい組織と見なしていました」

 勝共連合は、機関紙として月2回刊行の「思想新聞」、月刊誌の「世界思想」を発行している。また統一教会の関連会社の世界日報社は日刊新聞「世界日報」を発行している。

思想新聞世界日報は、反共的立場から緻密に取材し、共産党の腐敗や矛盾を鋭く追及していました。共産党の内部事情にも精通していて、時には、共産党内部に協力者がいるのではないかと思われるような記事もありました」

 そのため、警視庁公安部や公安調査庁は、思想新聞世界日報の記者などから情報を収集していたという。

「公安部は統一教会をカルトと認定しているので、監視対象にしています。ですがその一方で、彼らを協力者にしていたのです。公安の捜査員は1970年代から、勝共連合の機関紙や世界日報の記者や編集長と会食していました。『あの記事、なかなか良かったね。記事にしなかったことで面白い話ある?』などと言いながら、話を聞いていました。記者や編集長はさすがに情報源までは明かさなかったものの、情報提供にはかなり協力的だったといいます」

     *

 世界日報は設立当初、全国紙を目指していたこともあり、いくつかスクープをものにしている。

 例えば、1984年8月4日、朝日新聞南京大虐殺が事実だったと生首が転がる写真を添えて報道。これに対して1985年12月28日の世界日報は、「朝日、こんどは写真悪用 南京大虐殺をねつ造」と報じたのだ。朝日が掲載した写真は1931年、朝鮮で市販されたもので、中華民国遼寧省で中国軍が馬賊を処刑したものだった。

 さらに勝共連合は、日本で国家機密へのスパイ行為等の防止に関する法律「スパイ防止法」制定のための署名運動を行っていたことも、公安関係者に好意的に見られていたという。

勝共連合は1979年、『スパイ防止法制定促進国民会議』を発足し、有識者懇談会も行っています」

 1987年には、スパイ防止法実現のために、北朝鮮のスパイ活動を描いた映画『暗号名 黒猫を追え!』を制作、全国各地で上映した。


―――――


高橋昌一郎「コンピュータ、原子爆弾を開発…フォン・ノイマンの天才すぎる生涯 マッド・サイエンティストの素顔とは?」(2021/2/8)(https://gendai.media/articles/-/79538(https://gendai.media/articles/-/79538))

ジョン・フォン・ノイマンは、1903年12月28日、オーストリア・ハンガリー帝国ブダペストで生まれた。

ハンガリー王国は、西暦1000年、ローマ教皇からの王冠授与によって建国されたカトリック教国である。13世紀にモンゴル帝国に侵略され、16世紀にはオスマン帝国に占領されたこともあるが、17世紀に神聖ローマ帝国の一部となって国土を回復した。

その後は国土拡大を繰り返し、最大領域は、現在のハンガリースロバキア共和国の全域、さらにクロアチアセルビアルーマニアオーストリアの一部にまで達している。

中央ヨーロッパは古くから「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、今も多民族国家間でさまざまな国際紛争が生じている。しかし、1867年、ハプスブルク家オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねるオーストリアハンガリー二重帝国が成立し、それ以降は、この地域に安定と繁栄がもたらされた。

この平和は、1914年に第一次世界大戦が勃発するまでの50年ほどの短期間しか続かなかったが、ノイマンは、この幸運な時期に誕生し、優雅な少年時代を送ることができたのである。

ブダペストは、1873年ドナウ川を挟む西岸ブダと東岸ペストが合併して、ハンガリー王国の新しい首都となった。ノイマンの生まれた1903年ブダペストの人口は80万人を超え、ロンドン、パリ、ベルリン、ウィーン、サンクト・ペテルブルクに次ぐヨーロッパ第6位の大都市だった。その美しい景観は、当時から「ドナウの真珠」と呼ばれている。

20世紀初頭のハンガリー王国の小麦粉輸出は世界一を誇り、ブダペストの経済成長率はヨーロッパ第一位だった。パリのシャンゼリゼをモデルに作られたアンドラーシ通りの地下には、ヨーロッパ大陸初の地下鉄網が張り巡らされた。

当初ロンドンの地下鉄を走っていたのは蒸気機関車で、ブダペストの電気式地下鉄は世界でも類を見ない光景だった。街並みには600を超えるカフェがあり、ヨーロッパ最高峰の高等教育で知られるギムナジウムが3校もあった。

後にアメリカ合衆国ノイマンと一緒に「マンハッタン計画」を推進したレオ・シラード(1898年生)、ユージン・ウィグナー(1902年生)そして「水爆の父」エドワード・テラー(1908年生)という三人の物理学者、さらに「暗黙知」で知られる哲学者マイケル・ポランニー(1891年生)、「ホログラフィー」を発明した電子工学者デーネシュ・ガーボル(1900年生)、「放浪の天才数学者」ポール・エルデシュ(1913年生)も、オーストリアハンガリー二重帝国時代のブダペストで生まれ、3校のギムナジウムどれかの卒業生である。

     *

1940年9月、ノイマンは、陸軍兵器局弾道学研究所の諮問委員に就任した。士官採用されなかったとはいえ、試験成績は最優秀だったため、厚遇されたのである。

ノイマンが弾道学研究所に提出した機密論文「逐次差分の発生確率誤差の評価」では、標的に弾丸を当て損なった場合、次にどのような狙いをつければよいか確率計算する方法を示している。

現在の戦闘機から発射されるミサイルは、地上で動く人間を狙えるほど精度が高いが、その方法もコンピュータ自動制御理論も、ノイマンの導いた原理に基づいているのである。

ヨーロッパ圏ではナチス・ドイツ、アジア圏では日本が進撃し、連合国側の戦局は悪化しつつあった。1941年12月、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃した。日米開戦後、プリンストン高等研究所は、合衆国の「国家非常事態管理局」に全面協力することになった。

ノイマンは、戦争省から「科学研究開発庁」の公式調査官に任命され、爆発研究の科学技術面の最高責任者となった。これによって、ノイマンは、陸軍・ホワイトハウス・戦争省に直結する3つの機関の重要関係者となったわけである。

1942年になると、海軍兵器局の顧問に就任したノイマンは、機雷戦に対処する方法から出発して、衝撃波の研究を行うようになった。

機雷の衝撃波を検証するためには、連続的に変化する非線形の衝撃面の状態を記述する偏微分方程式が必要であり、その方程式を解くためには、膨大な計算が必要になる。そのためにノイマンが中心になって進めたのが、コンピュータの開発だった。

一方、この年の9月に46歳のレズリー・グローヴス准将が原子爆弾プロジェクトの責任者に任命され、彼は38歳のカリフォルニア工科大学教授ロバート・オッペンハイマーロスアラモス国立研究所の初代所長に任命した。

オッペンハイマーは、アメリカ各地の大学や研究機関を廻って、トップクラスの数学者と物理学者を集めて、「マンハッタン計画」を開始した。そこでノイマン、ウィグナー、シラード、テラーの四人の天才ハンガリー系科学者が集結したのである。

人間離れした高度な知能から「火星人」と呼ばれた彼らがいなければ、原爆開発は短期間では成功しなかったに違いない。

ここでノイマンが中心となって推進したのが「爆縮型」原爆の設計である。これはノイマンが発見した重要な理論の一つだが、原爆の威力を最大限にするためには、落下後に爆発させるのではなく、上空でプルトニウムに点火させる必要があった。

そこでノイマンらが考えたのは、臨界点に達していないプルトニウムの周囲に三二面体型に爆薬を配置して、一定の高度で爆薬に点火、その爆発の衝撃によってプルトニウムを臨界量に転化させる方式である。

彼らは、この一連のプロセスを正確に制御するための複雑な数値計算を半年かけて行い、その設計は1944年末に完成した。

1945年7月16日、ニューメキシコ州ソコロの南東48キロ地点の砂漠で、人類史上最初の核実験が行われた。関係者の多くは、その威力に半信半疑だった。テラーは、TNT4万5000トン程度と強気だったが、オッペンハイマーは控え目にTNT30トン程度と見積もっていた。

結果はTNT2万トン近くの破壊力で、「人口30万〜40万人の都市を焼け野原にできる威力」と表現された。ノイマンは、核実験の準備がうまくいった時点で満足して、すでにプリンストンに戻ってコンピュータ開発に取り掛かっていた。