2022/10/19, Wed.

 (……)しかし、最も秘密な、最も私的で最も内面的な、しかし結局明るみに出される内面性というロマン主義の伝統の、用心深い遅参者であるカフカは、彼自身についてもこうした不謹慎の可能性を夢みたのだ。彼自身、この書簡集も示しているように、自伝的なもの、手紙、日記、告白などの熱心な読者であり、その著者が詩人や作家である場合も、しばしば本来の作品以上に愛好した。たとえば、彼はたしかにグリルパルツァーの短編『哀れな辻音楽師』を――「純粋な文学」としてみるにはあまりに個人的な理由から――愛しはしたが、それ以外の作品については、戯曲より日記を好み、また読むことも多かったと確実に推測できる。
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、8; エーリヒ・ヘラー「まえがき」)




 意識をとりもどすもなかなかからだがうまくうごかず、横向きで鼻から息を吐いたりしながら、心身の覚醒がよりさだかになってうごくちからが寄ってくるのを待った。カーテンの上部から天井にもれだしている色味をみるに、きょうは晴れらしいと判断されて、じっさい端をめくってみれば青い空がガラスの上部を埋めており、電線のとちゅうにとりつけられた白いボール状の接続具かなにかも、光点のつやを一抹得ている。まえにも書いたが、曇りの日などはこれに目がとまらずその存在を認識できず、光沢がなければ意識にのぼってこないので、晴れの日だけ突如としてあらわれたような感じだ。子どもたちの声の量からして、九時台くらいかなとおもわれた。腰をしばらくもぞもぞうごかして、ようやくからだを起こして携帯を見たのが九時五〇分、それからちょっとすると正式に起き上がって、寝間着をジャージに着替えるとまた転がった。Chromebookで日記を読まずにウェブをてきとうに見て過ごしてしまう。脚はむろんほぐしている。一一時ごろに離床。トイレに行って便器に腰掛け、起き抜けで出の悪い小便をちょろちょろながながと排泄し、顔を洗って出ると冷蔵庫の水をマグカップへ、それでボトルが空になったので浄水ポットとともにながしに持っていき、ポットからペットボトルへ補充、そしてポットのほうにも水道水をそそいでおいた。瞑想のまえに踵だけをあげるかたちのその場足踏みをしばらくやる。そうして一一時二三分から椅子について静止。脚をほぐして足踏みもすれば血と酸素はだいぶめぐってからだも安定するので、静止をささえるのにたいしたちからがいらない。脚もあまり痺れない。さくばんのモードがつづいているようで詩片のフレーズがあたまのなかにたしょう浮かんでめぐる。一一時台にしては保育園がしずかだなとおもっていたのは、たぶん天気も良いし公園かどこかに出かけていたらしく、じきに子どもらの声が帰ってきてにぎわっていた。走り過ぎていく車の音も聞く。なかに役所のゴミ収集車らしき重々しい駆動音がすぐそばに停まり、その車から出ているようで、こちらは(……)ゴミ分別係です、とかいう女性の音声が、ただしい分別のしかたを説明し協力を呼びかけている。この声は毎朝聞こえるものだ。目をあけると一一時五四分だったからちょうど三〇分ほど座ったことになる。
 食事は昨晩つくった味噌スープに豆腐とうどんを足すことに。まず水をいくらかそそいで嵩増しし、そのくせ味噌は足さなかったから味はやや薄くなったがべつによい。豆腐をこまかく切り分けて投入、安い生麺のうどんもザルに出してちょっと洗ったあとくわえておき、弱火でじっくりやっているあいだはまたその場足踏みをして待った。そうしてじきにお玉で椀によそって食事へ。お玉ですくうと麺がお玉からも椀からもはみ出してしまい、やりづらく、椀の外面に麺がふれたあとが付着して汚れてしまったので、キッチンペーパーで拭き取った。菜箸も二種くらいほしいところだ。食事中、またそのあとは寝床でサボった日記の読みかえしをした。一年前の一〇月一九日は(……)に出かけて図書館や書店、電気屋をめぐっている。Chromebookを買ったのがこの日である。ニュースは以下。

寒いと言ってもしかしきのうよりは幾分マシか。とはいえ天気は白に支配されてくすんだ曇りである。上階に行き、鮭や味噌汁などで食事。新聞からはいつもどおり国際面。中国で共産党中央委員会第一九期第六総会みたいな大会議がちかぢかひらかれるらしく、そこで習近平がおおきな「歴史決議」をおこなう見込みで、草案がべつの会合ですでにしめされて出席者各人が賛同している旨がつたえられているという。歴史決議というのはいままでふたりしかやっておらず、すなわち毛沢東と鄧小平であり、毛沢東が一九四五年におこなったそれは彼の権力を確立するのにおおきく寄与したし、鄧小平もまた決議によって毛沢東文化大革命を否定してその後の権威をたしかなものにした。三期にはいろうとする習近平も同様にみずからの統治を自賛する歴史認識をしめして、毛と鄧のふたりにならぶような権勢をうちたてようとするだろうと。文化面にはいわゆる「鈍器本」が売れているという話題。あまりきちんと読まなかったが、コロナウイルスで自宅滞在を強いられてそのあいだに読むものとして注目されたとか、あるいは手軽に情報がえられるインターネット時代の反面としておおきな書物を読みとおして体系的な知識をえたいという向きがあるのではないか、などと述べられていたとおもう。具体的な書としては岸政彦の『東京の生活史』(だったとおもうが)、あとブログが有名な「読書猿」の『独学大全』みたいなやつや、著者をわすれたが『読書大全』とかいうもの、そして橋本治の遺稿である『人工島戦争』(ではなくて『人工島戦記』だった)が挙がっていたが、なかふたつはともかくとしても、岸政彦や橋本治のしかもやたら分厚いやつがそんなに売れるわけがあるまい、とおもってしまうのだが。このスケールの本にしては特筆するほど人気が出ている、ということなのか。そのしたには前回ノーベル文学賞をとったルイーズ・グリュックのはじめての邦訳が出るとの報。出版元はKADOKAWAだというので、KADOKAWAが出すの? とおもったのだが、訳者いわく文を何百回も口に出して読み、ことばのひびきやリズムにおもいを凝らしてしあげたということだったので、良いしごとになっているのではないか。

 本の読み方については以下の言。いまも基本はこれで、わからないところはちょっとかんがえたり止まったりしてもわからなかったら、こだわらずに放ってつぎに行く。モンテーニュも『エセー』にそういうことを書いているらしい。二、三回突き当たってみても駄目だったらわたしはそれはそれとしておく、みたいな。どこで読んだ情報かおもいだせないが。

(……)それから書見。ポール・ド・マン/土田知則訳『読むことのアレゴリー ルソー、ニーチェリルケプルーストにおける比喩的言語』(岩波書店、二〇一二年)。この日は出先にも持っていって電車のなかでも読んだが、やはりあまりこまかいところにはいりすぎず、ひとまずこだわらずに読んでいくのがいいかな、とおもった。言っていることや書かれてあることを理解しようとするのではなく、気になる部分やおもしろい記述、くりかえし読みたい一節などを見つける、もしくは見分けるようなかんじで読むと楽だ。わかることを目指すのではなく、要するに書抜きたい箇所を見出すということで、むかしからずっと取ってきた方法であり、そういう姿勢のほうがやはりじぶんに合っている気がした。理解しようとなるとある語をべつの語に置き換えてうまくつながるかどうか試してみたり、明示されている意味の周辺にみちびきだされる領域を問いとして投げかけてみたりして多少の補足をこころみたりしなければならず、こねくりまわすようなかんじになるが、写したいところを見つけるような読み方ならもっと感覚的な意識になる。彫刻の表面を手で撫でて場所によってちがうその質感やまるみの具合を感じ分ける、というような。(……)

 (……)の風景描写は、ぜんぜんたいしたものではないが以下のような感じ。ここで書かれているのはおとといもおとずれた付近である。歩道橋はとおらなかったが。

(……)高架歩廊を北へ。歩道橋にかかると左のすぐ眼下ではもちろん一台一台の車のかたちや種類がよく見て取られるが、右に視線を振ると道が伸びる先は交差点で、左車線をそちらへ前進していく車らはすがたかたちをやや保ちながら尻に灯した赤いランプを五時半まえの青いたそがれにいくつも浮かべ、右車線は交差点のむこうから、車体を黒く呑まれてうしなうとともにふくらみひかるクリーム色の二つ目と化したものたちが続々とながれてくる。近間の電灯のもとで、かえって薄暗いようなオレンジ色のシャワーをかけられた街路樹が葉をふるわせていた。

さらにすすんでいくとホテルの横で通路に天井のついた区画にはいるのだが、頭上を閉ざされ空間の先の左右もビルにくぎられた視界のなかでせまく切りとられた空がそこだけ神妙なように青く、天井の下から出てあたりに立ち並ぶビルのうえに空がひろがれば、なめらかなその青味は着々と宵の濃紺にむかっているようだった。(……)

 図書館の新着図書。マーカス・ガーヴィー方面はちょっと読んでみたい。「やはりじぶんで(……)に住むか、それかそこでしごとを見つけるしかない。(……)を利用するためだけに(……)の職場ではたらく価値は十二分いじょうにある」といっているが、じっさいそういうことになった。

トイレに行きたかったので手を消毒してゲートをくぐり、新着図書を瞥見してから用を足しに行き、もどるとまた新着を確認した。マーカス・ガーヴィーだったか、黒人地位向上協会みたいな、わすれたがそういう団体をつくったひとについての本や、大塚楠緒子全集みたいなやつや、宮沢賢治についての研究本(たぶん生成研究的なやつだったか?)や、中村稔が森鴎外の『渋江抽斎』を読んだ本など。余談だが、『パウル・ツェラン全詩集』とかゲオルク・トラークルとかを訳している中村朝子は中村稔の娘らしい。また、ルネ・シャール全集だか全詩集だかを訳しているひとはその姉妹らしい。新着棚を確認すると退出。(……)はおもしろそうな本があまりにも多すぎてすばらしいことこのうえないのだが、(……)から借りている図書カードはたぶんもう期限が切れていて更新しないとつかえないようになっている気がするし、コロナウイルスのせいであまり行けず、ほとんど利用できず仕舞いだった。また(……)に言って更新してもらうのも手間をかけさせて悪いし。やはりじぶんで(……)に住むか、それかそこでしごとを見つけるしかない。(……)を利用するためだけに(……)の職場ではたらく価値は十二分いじょうにある。ただ、どうなのだろう、「通勤」というのは正社員としてきちんと会社につとめていないと駄目なのか? アルバイトとかで通っているのでは駄目なのだろうか。

 ラーメン屋に行ったあとは胸の痛みを感知している。そして電気屋へ。店員の観察とか、それで余計な気を回しているあたりとか、ちょっとおもしろい。それにしてもいまつかっているDENONのイヤフォンは一二〇〇円だったか。買った直後にも書いたとおもうけれど、いまはもう一二〇〇円の安物でもふつうにいい音を出すようになったなあというか、ヘッドフォンをながくつけていると耳やあたまが疲れるから音楽をとくに聞くのでなければ、つうじょうBGMや動画や通話はこのイヤフォンをつかっているが、一二〇〇円の音でなにも不満を感じない。

胸のあたりに点状のこまかな痛みがすこし生じていたのだが、これは逆流性食道炎というか、胃液が食道まであがってきていたのかもしれない。何年かまえの一時期には深夜に胸焼けでめざめることがよくあった。いまはほぼそういうことはなくなったが(先日、夜食に煮込みうどんをつくって食った日にはひさしぶりにそうなった)、脂っぽくてボリュームのあるものを食べたので一時的に食道が侵されたのではないか。あるいは気づいていないだけで、意外とふだんから傷ついているのかもしれない。それでゆったりあるきながらおもてに出ていき、横断歩道をわたって電気屋へ。(……)である。ものを食べたばかりなのですこしだけ緊張しないでもなかった。つまり、パニック障害時代の嘔吐恐怖のとおいなごりだ。入店してiPhoneなどが売られている横を過ぎていき、エスカレーター脇のフロア案内で三階がオーディオ関連、二階がパソコンの売り場であることを確認し、先に三階へ。イヤフォンを見に行った。いまはもうだいたいBluetooth対応で(青い歯とはいったいなんなのか?)その種の品がプッシュされているのだが、有線の区画に行って見分。棚のあいだにはいったところにちょうどゼンハイザーのものがあって、イヤフォンはべつにZOOMで通話するときにつかうくらいで音楽を聞くにはヘッドフォンをつけるから音質などどうでも良いといえば良いのだけれど、それでもほかにもつかうかもしれないしやっぱりそれなりの音はほしいな、とおもった。それでゼンハイザーなんかいいのではないかとおもったのだけれど、しかしいちばん安い品でも四〇〇〇円はする。三〇〇〇円いじょう出す気にはならなかった。周辺を見回ってみてもそんなにピンとくるものもなく、棚の側面にいろいろ吊るされたなかにDENONの一二〇〇円くらいの安いやつがあり、ケーブルのこすれノイズを軽減するとか書かれてあったので、もうこれでいんじゃね? という気になって、決定。それからオーディオケーブルの場所へ。アンプとパソコンをつなぐケーブルがもう相当にくたびれていて、パソコンに挿すと位置関係上、変に曲がるようなかたちで固定されてしまうからそういう癖がついており、いまのPCだとなくなったがまえはジャックの挿しこみ具合によってノイズも生じていたし、新調することにしたのだ。まちがえないように古いケーブルを持ってきたのでそれを見つつ、この種のものだなと確認。ふつうにピンプラグ二つと、ジャックに挿せる端子がひとつついているもの。音質にこだわりなどないし良いものを買ってもわかるはずもないし、どれでも良かったのだけれど、オーディオテクニカの一品がすべて青く塗られたケーブルでなかなか格好良いようにおもわれた。しかしそれは一メートルだったか一. 五メートルだったかの長さしかない。一. 五メートルあれば充分ではないかという気もしたのだけれど、念のために三メートルの品を買うことにしたのでこれは断念し、その隣にあったもうすこし値段が高くて頑丈そうなやつに決定した。そうして会計へ。

一階下りてノートパソコンを見てまわるが、どれもこれも一〇万とか一七万とかしてはなしにならない。端の一画に安い品がまとまった場所があり、まあこのへんだろと目星をつけた。ならんだなかのいちばん安いやつはいまつかっているPCにくらべるとけっこうちいさめのacerのもので、Chromebookだった。それが三万円強。音楽をながすだけだしもうこれで良かろうとおおかた決めながらその反対側にまわると、そこに眼鏡をかけた若い男性店員がおり、品を見ようとするこちらの動きを受けて失礼しましたと言いながら台のまえをちょっとはなれた。そちらにも安いものはあったが、まあさっきのやつでいいだろうとおもってそちらにもどり、札に書かれたデータを確認していると、先ほどの店員がややおずおずとしたようなかんじでやってきて、なにかパソコンでお困りですか、と声をかけてきたので、音楽をながす用のものがもう一台ほしいのだ、ぜんぜん安くてちいさいもので良いのでもうこのへんで良いとおもっている、と説明し、この品がこのカードのやつですかね、とたずねると、店員はひらいたPCのキーボードがついているほうの面の右下に貼られたシールとカードの番号を見比べて確認したのだが、そのあたりでこのひとは新人なのだなと気づいた。あとで見たところでは腕に「実習中」の腕章もつけていたのだ。それでこれをお願いしますとたのむと在庫を確認してくると彼は言い、そのあいだすわって待っていただく席をご案内します、というわけでエスカレーターそばにあったブースまで行ったのだが、このあたりの案内やその後のやりとりのさいのトークなどもまだまだ慣れておらず、本人の性格としてもおとなしそうでペラペラ営業的な言動ができるタイプではなさそうだし、苦労がありそうだったので、わざわざ愛想よくするわけではないが、冷淡に映ったり落胆させたりしてはいけないと余計な配慮がはたらいて、失礼のないようにお礼などをきちんと丁寧に言うようにした。待っているあいだにアンケートにご協力くださいというわけで紙に記入したが、インターネットの回線契約の種類がどうなっているのかというのが完全に父親まかせなのでわからず、空欄にした。どの業者なのかすら知らない。それで無事在庫はあって男性が箱を持ってきてくれたのだが、このブースはPCを買うひとなどにアンケートをもとにしてさまざまなサービスのセールスをおこなうためのものらしかった。まわりにも何人か店員と相談しているひとがいたし、こちらが腰掛けたスツール椅子のめのまえにあるカウンター上には、半分以上かくれていて仔細にはわからなかったが、なにやら家のリフォームめいた内容のサービスが種々しるされた紙というかシートみたいなものがあり、(……)っていまそんなこともやってんの? とおもった。アンケートは回収されて、男性はカウンターのむこうで先輩らしい女性とちょっとはなしており、回線契約が無回答だったのでそのへん聞かねばならないが新人にはまだ荷が重いと判断されたらしき雰囲気があって、女性のほうが出てきて丁重な態度ではなしはじめた。そんなに慇懃にならなくてもいいとおもう。とうぜん無回答欄について質問されたのでじぶんはぜんぜんタッチしていなくてわからないとこたえ、回線環境自体はあるので利用に問題はないことが確認されたところで男性の案内で会計に向かった。先導されて通路をあるいていき、二、三人会計中のひとがいたのでレジまえで少々待った。このあいだ、店員は箱をかかえてこちらの横に立ち尽くしながらレジのほうを見つめているだけで無言かつ無動の像と化していたし、なにか気さくに声をかけて雑談をしたい気がしたのだが、話題がまったくおもいつかなかったのでこちらも無動ではないものの無言のひとと化した。そうして会計。電気屋の店員の雇用形態とかシステムをちっとも知らないし理解していないのだが、パソコン売り場にいたこの男性はたぶん(……)自体の店員ではなく、どこかから派遣されてきているというかべつの会社に属しながらパソコン相談員的な役割としてこの現場に配置されている人員のはずである。しかしなんの会社に属しているのかはまったくわからない。いずれにせよレジにいた店員とのやりとりなどにもそのあたりが見えたのだけれど、ともかく会計をして品を入手。ポイントが五〇〇〇いじょうあったのでぜんぶつかっちゃってくださいとつぎこみ、二万五〇〇〇円くらいで買うことができた。レジのうしろからおおきなビニール袋を持って出てきた男性にきちんと礼を言い、品を受け取って退出へ。

 食後にかけて2014/3/13, Thu.も。たいしたことはない。「まわりのものにあんまり注意が向かない日だった。注意が向く日は勝手に言葉が生まれる。見ながら頭のなかで書いている。だけど、実際にどう書くかは実際に書いてみないとわからない。だからおもしろい」、「風呂に入りながら風呂に入ったことを頭のなかで書こうとしたけれど、いまはただ風呂に入ったとしか書けないと思った」とのこと。
 味噌味の煮込みうどんは二杯食ったが、そうすると胃がすこしだけ痛むというか、酸味めいた感触も口内におぼえないでもなかったし、これはやはりきのう寿司とパンを調子に乗ってバクバク食ってしまったからではないか。それでもいまこうして文を書けているくらいだからよほど平常に近いが、油断をせずにいたわっていく必要がある。大根おろしもすこし食べておいた。少量ずつでよいので毎食後に腹に入れておくのは良いのではないか。食器を洗い、椅子について歯を磨きながら二〇一四年の日記を読んでいるとちゅう、窓から来るあかるさのためにモニターの文字が見えづらくて、右手を見やればカーテンに白さがひろがりそのうえにさきほどそとに出しておいた円型ハンガーの影がうつっているのに、きょうの写真これでいいやというあたまが起こったので、携帯を取って椅子を下り、歯ブラシをくわえたままで何枚か、角度を変えて撮ったうちのひとつを採用した。20221019, Wed., 130129。部屋の各所をいちにちいちまいずつ切り取って撮っていくような、謎のおこないになってきている。

20221019, Wed., 130129

 口をゆすいだあとはふたたびその場足踏みである。これをやるとじっさいからだはまとまって、胃への負荷もほぼ見えなくなったのだけれど、それはたんにヤクが効いてきただけではないかという気もする。とはいえそれを措いてもここちはよい。先日よりも上体が左右にあまりふれなくなってきたような気がしないでもない。それでもやはり右に揺れるときのほうがその幅がおおきいように感じられるのだが。目をつぶってやっているといつの間にかからだの向きがすこしずれているときもあるからバランス感覚としてはまだまだだろう。踵をあげて脚をうごかすから血はゆるやかによくめぐって、そとでの歩行の代用として室内でも手軽にからだを活性化させ、やわらげて統合させることができる。こちらのばあいは目をつぶるからなかば動的瞑想の気味になり、身体感覚をかんじるいっぽうで、思念がやってきて、そこでも詩片をいくらかめぐらせたり、あと、(……)か(……)あたりに古着屋わりとあるだろうから調べて歩いて行ってみようかなとおもったり、(……)か(……)の古本屋まで数時間かけて長距離をあるいていくようなこともいずれやってみたいなとかおもったりする。うごいているうちに便意が来たのでトイレに入って用を足し、それから電気ケトルで沸かしていた白湯を黒のマグカップにそそぐと、席についてきょうのことを書き出した。ここまで記せば二時二四分。良いペースだ。きょうはとくべつ出かけるあてはない。気分次第だが、日記はきのうのことをちょっと書き足して終わらせるのと、一五日をかたづけたい。そうすれば未筆の日はなくなる。あとは書き抜きがぜんぜんできていないのでそれもやりたいところ。返却日が二一日なのでそれまでに終わるはずがなく、いったん返してまた借りなければならないが。


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 そうしていちど寝床に逃げる。Chromebookをもって、ブログをいちにちずつさかのぼって撮った写真を見たり、noteをおとずれててきとうに閲覧したりしていた。そうこうすると四時ごろ。三時前から薄陽はやってこなくなっており、寝床にうつった時点でもう円型ハンガーは入れて、タオルをたたんでしまっておいた。いま四時半ではいちおう雲が割れて、日が短くなったから室内に西陽ははいってこないが、レースのカーテンをとおしてのぞく保育園の上空では、水色のなかで雲がほのかに、たった一刷毛のみの淡さで暖色を塗られているのがわかる。四時ごろ立ち上がって小便をして、またちょっとからだをうごかしておくと、水を飲んでからきのうの記述にとりかかり、さきほど完成。きょうのこともこの短い一段を加筆。あと一五日だけだ。


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 そういえば、数日前に読んだ(……)さんのブログの一四日付の記事、「記憶」というやつの内容が、鈴木大拙とか藤田一照の言っていることを読むかぎりでは、禅宗がいっているようなこととほぼおなじはなしのようにおもえる。全文引かせていただく。

小石川植物園に立っているスズカケノキは、なぜネットやテレビのニュースを気にしないのかと言うと、そこで報道される内容が、自分の生存と関わらないからだ。いやいや、関わるじゃないか、戦争や災害の影響を受けたら、スズカケノキだって生きられない…というのは、浅はかだ。それを言うなら、スズカケノキが昨日、自らの記憶として思い描いたある感情のほうが、よほど明日の我々を、滅ぼしてしまうかもしれないじゃないか。

我々は我々の目で見て、耳で聞くから、我々なのであって、その知覚射程が、我々であることに先行する。射程がそうでなければ、我々がたまたま、スズカケノキであっても良い。

スズカケノキの関心ごとは、木が生まれるもっと前から、我々に与えられているそれではないものを必要と規定されている。そしてスズカケノキにとっての関心、その知覚対象、彼らの気になることは、おそらく我々とは別の射程にちゃんとある。それを我々人間は、スズカケノキの気持ちになって想像してあげるなど愚の骨頂だから、そうは考えないとしても、スズカケノキが昨晩の時事ニュースと別のところに生きているのは間違いない。

ベルクソン的な純粋記憶は、特定の人格ごとに弁別されてなくて、ある共有領域にひたすら沼のように溜まっている。そこから必要に応じて、参照の呼び出しに呼応するかたちで、個々の記憶が物質化する。自分の今のところの理解としては、その沼こそが、逆円錐モデルにおける平面Pである。これは人間すべてが共有する沼であるばかりでなく、動物も植物も微生物も共有すると考えて良いのだろうか。

その沼は記憶をリクエストしてきた参照元の身元を、とくに意識していないのだろう。人間だろうが、微生物だろうが、呼ばれれば返すだけ。各クライアントが判断、自治、生存するための、イマージュの元となる原基を配信するだけ。

我々人間もクライアントだけど、我々が「私は個別的にこの私」と意識できる知覚さえ、その配信情報をもとにしている(一意のアドレスを付与されているようなものか)だから、実際は、私も誰も彼も一緒くたである。たしかに私は、さすがにスズカケノキとは違うのだが、違うというだけで、根本は変わらないのである。違うということを見なければ一緒なのである。

 いま午後一一時で、また野菜スープをじっくり煮て生み出しているそのかたわら、一五日分の記事をなかばやっつけ的な感じでかたづけた。これでいちおうきのう分までしあがって、きょうのことは四時ごろいこうをまだ書いていないが、籠もってたいした印象もないし、もうほぼ現在に追いついたと言ってよい。正確にはおとといの通話時のことをくわしく書いていないのだけれど、それはまあいいかなという気分になりかかっている。野菜スープは麺つゆとか味の素とかたしょうくわえるのだけれど、最終的にはまた味噌味にした。


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 この日はまた籠もったので、あとたいしたことがらもない。ニーチェ『この人を見よ 自伝集』を読んだり、野菜スープをつくったり。書き抜きはできず。Kanye West関連の記事がまたGuardianにあった。Erum Salam, “George Floyd’s family sues Kanye West for saying he died from drug abuse”(2022/10/18, Tue.)(https://www.theguardian.com/us-news/2022/oct/18/kanye-west-george-floyd-family-sues-drug-abuse-fentanyl-overdose)というやつ。じぶんのポッドキャストで、George Floydは警官にころされたというよりはヤクのオーバードーズで死んだのだという趣旨のことを言ったらしい。反ユダヤ的な発言もしているとのこと。ニーチェにかんしては先日、かれがいう「運命愛」の態度、すなわち分け隔てなくあらゆる生のものごとにたいしておおいなる「然り [ヤー] 」を言って受け止め、肯定するというディオニュソス的精神において、「破壊」とか「破壊の快楽」という語がふくまれているのを問題視し、これはたとえば戦争なんかも肯定されてしまうのだろうかという素朴な問いをもちだしたわけだが、たぶんニーチェとしては、戦争を肯定するしないうんぬんというよりは、戦争などという、言ってみれば偶発的な、いままでいくらでもくりかえされてきた旧来の人間世界の事件よりももっとおおきなスケールでものをかんがえているのだ、という感じではないかという気がした。112ページにつぎのようにある。(『人間的な、あまりに人間的なもの』について)「これは戦争である。ただし火薬も硝煙もない戦争、戦闘的身構えも、激情もなく、手足がねじれたりすることもない戦争である――そんなものがいくらあったって、それはまだまだ「理想主義」だ」。ここでいう「そんなもの」とは、そのまえで述べられているふつうの意味での、いまウクライナでおこなわれているような、具体的な人間社会の事象としての戦争のことだろう。そんなものがいくらおこなわれようが、それではまだ旧来の世界の範疇にとどまらざるを得ず、人間世界に行き渡っている「理想主義」を転覆することにはならない。この「理想主義」の転覆こそが、ニーチェがなにをおいても実現するべきだとかんがえているすべての価値の転換のおおきな部分をなすものだろう。この著作でニーチェはみずからがもちいる術語や概念を懇切丁寧に定義づけしたりこまかく説明したりはしてくれないから、「理想主義」というのもどういうことなのかいまいちつかみづらいのだけれど、テクストを正確に追わずおおまかな印象で言ってみるに、たぶん理性主義とかキリスト教道徳とかにもとづく既存の価値観を支えとしたかたちで人間世界の理想を追い求める姿勢、というようなことではないか。より具体的にはたぶん、いわゆる近代精神の進歩・完成とか、啓蒙的な原理とかがかんがえられているのではないか。ニーチェ古代ギリシア、それもプラトン - ソクラテスいぜんのギリシアに立ち戻って、「自然」の原理とディオニュソス的精神を復活させようとするものである。かれにとって「道徳」とか「善意」とか「聖人」とかいうのは、キリスト教ディオニュソス的精神を抑圧してでっちあげたたんなる嘘なのだ。二〇〇〇年来つづいてきたその嘘にたよることで弱者は強者をいわば馴致してきたとか、道徳というのは弱者が強者をおそれてそのちからを制限するがためにつくりだしたもので、みたいなはなしはニーチェの論としてゆうめいなところだとおもう。キリスト教的な原理、「霊魂」とか「精神」とかはニーチェが称揚しもとづく「肉体」(だからかれはあれほど「生理学」こそが嘘っぱちの精神原理などよりはるかに重要なことなのだと強調する)を駄目にするために捏造されたものだし(具体的にはたとえば、キリスト教は生命の存続原理である性欲やその他の欲望を悪しき罪として制限し、肉体を抑制してないがしろにするとともに、「精神」的価値をその上位に置いてきた)、「隣人愛」とか「無私」の精神というような自己滅却をいう道徳的定言は端的にデカダンス、退廃にほかならない。ニーチェの生にたいする態度というのはまったき肯定、全的な肯定にほかならず、その生がどのようなものであっても「然り [ヤー] 」を言ってそれを敢然と肯定するというもので、これがすなわち「運命愛 [アモール・ファティ] 」である。先日引いた文章のなかでアガンベンも言及していた表現だが、148ページにはツァラトゥストラのことばとして、「過ぎ去ったものを救い [﹅10] 、すべての「あった」を作り変えて「私がそれをそうと欲した!」にしてしまう――これでこそ私の呼んで救済となすところ」という一行がある。いわゆる「永劫回帰」についてはその語じたいはなんどか出てくるものの、それについてのあきらかな説明はこの書ではなされていない。説明というより、その語にまつわる周辺の情報じたいがすくない印象だ。ただこれもおそらく「運命愛」と密接にむすびついているのではないだろうか。つまり、すべてのものごとが永遠におなじようにくりかえされるとしてもわたしはそれを永遠に肯定しつづける、それこそが「運命愛」という態度だ、というふうに。ここでポイントになるのは、ニーチェがいう「生」が人間一般の生なのか、つまり世界で展開される人間存在のさまざまな帰趨をはらんだ人類ぜんたいとしての生のいとなみみたいなことなのか、それともまさしく「このわたしの生」なのかということで、一六日に引いた部分の記述を読み直してみるかぎりでは、ニーチェの念頭にあるのは後者であるようにおもわれる。このわたしが、このわたしの生にふりかかったどのようなものごとであれ、「苦悩に、罪にさえ、生存におけるいかがわしいもの、奇異なるもののすべてに向かってさえ、かまわず、なんの留保もなしに、然り [ヤー] を言う一つの肯定」(96~97)をもつことが最重要なのだ。あくまでわたしの生にふりかかってきたものを肯定し、愛するということで、だから戦争うんぬんをかんがえたけれど、ニーチェはわたしの生にふりかかってきたものではない、一般的な、外部的な事象としての戦争を肯定するかどうかということは問題にしていなかっただろう。ただ、もし戦争の惨禍が我が身にふりかかってじぶんの運命の道行きにあらわれたとしたら、「なんの留保もなしに」、ほかのすべてのものごとと同様にそれにおおいなる肯定をあたえなければならないというのが、まちがいなくニーチェの立場だろう。だからこれは戦争が良いか悪いか、肯定されるか否かというそとから見たばあいの問題ではなく、良かろうが悪かろうがじぶんにそれが来たときにそれを躊躇なく肯定できるか、というはなしなのだ。とうぜんそんなことは平常人には無理である。アガンベンも言っていたとおりだ。たとえばいまのウクライナのひとびとにそんなことを主張するほど馬鹿げたはなしはない。しかしニーチェはもちろん、人類はそういう精神を身につけなければならないとかんがえていただろう。それが「道徳」ではない、それではなんなのかというのはわからないが(「倫理」というわけでもないだろう)、「一切の価値の価値転換 [﹅10] 」(123ほか)のすえに獲得される内実であり、同時にまたそのプロセスでもあるだろう。
 あと些末だったりちょっとした部分に触れておくと、145ではツァラトゥストラの詩文のなかに、「私の嫉妬、それは待ち望むまなこと明るく照らされた憧れの夜な夜なとを見ること」とあって、ここでは「夜々」と書いて「よなよな」と読ませるのではなく、つうじょうの表記がつかわれている。141の17行目には、「箴言は激情に震え、雄弁は化して音楽となり、稲妻ははるかにのびて」うんぬんとあるが、このふたつめの部分には、こういう言い方ができるんだなとおもった。「音楽と化す」ではなくて、「化して音楽となる」。これはじぶんでもいずれどこかでつかえるかもしれない。
 あとはやはりドイツにたいする軽蔑の念がはげしくて笑う。ニーチェって、ナチスの時代に禁書あつかいにされなかったのだろうか?

 だが、ここで、私が少々荒っぽくなって、ドイツ人どもに向かって若干の手きびしい真実を語るのを、私は何ものにも妨げさせはすまい。私でなくて誰がそんなことをしようか? [﹅17]  ――それと言うのも、歴史的な事柄におけるドイツ人のだらしなさだ。ドイツの歴史家たちには文化の行程に対する、文化の価値に対する偉大な視線 [﹅5] がまるでなくなってしまっているということだけでなく、ドイツ人はそろいもそろって政治の(あるいは教会の)道化役になってしまっているということだ。この偉大な視線はドイツ人自身によって追放され [﹅4] てさえいるのである。何をおいてもまず「ドイツ的」でなければならぬ、「人種」ということが大切なのだ、そうであってこそ初めて歴史的な事柄におけるすべての価値と無価値とを判定できるというものだ――つまり価値と無価値とを確定するのだ……「ドイツ的」ということが歴史における一つの論拠であり、「ドイツ国、世界に冠たるドイツ国」が歴史における原理であり、ゲルマン人が歴史における「道徳的世界秩序」なのだ。ローマ帝国との関係においてはゲルマン人は自由ににない手、一八世紀との関係においてはゲルマン人は道徳を、「定言的命令」を再建せる者……ドイツ帝国的歴史記述なるものがある。おそらくは反ユダヤ主義的歴史記述などというものもあるのではなかろうか、――宮廷的 [﹅3] 歴史記述なるものがあって、(end162)フォン・トゥライチュケ氏はこれを恥としていないのだが……ごく最近歴史的な事柄における一つの白痴的判断、すなわち、さいわい今は亡き美学者シュヴァーベン人フィッシャーの次のような一文が、ドイツの諸新聞によって、ドイツ人なら誰でも然りと言わざるをえない [﹅11] 一つの「真理」として喧伝せられている。その文というのは「ルネサンスと [﹅] 宗教改革、この二つがいっしょになって初めて一つの全体をなす。――美学的再生と、道徳的再生。」というもの――こんな文を読まされると私の堪忍袋の緒が切れる。そして私は、すでにドイツ人どもはどんなことに責任があるのか、それを一度洗いざらいドイツ人どもに面と向かって言ってやりたい気がする。いやそれを義務とさえ感じる。四世紀にわたる大きな文化の犯罪に彼らは責任があるのだ! [﹅一文] ……そしてそれはいつの場合でも同じ理由から、すなわち現実性に対する彼らの最も内面的な怯懦 [﹅2] からであり、これはまた真理に対する怯懦でもある。彼らの場合にはもはや本能となってしまっている不誠実から、「理想主義」からと言ってもよい……ドイツ人どもはヨーロッパからルネサンス時代という最後の偉大な [﹅3] 時代の収穫を、その意味を、奪って滅ぼしてしまった。諸価値の一つの高次の秩序が、高貴な、生命肯定的な、未来を保証する諸価値が、それとは反対の没落の諸価値 [﹅6] のおひざもとで勝利に到達し――しかもそこに坐っていた連中の本能の奥にまで達した [﹅24] その瞬間に! ルター、この宿命の修道僧は教会を、いやそれよりも千倍もまずいことに、キリスト教を、それが倒れた [﹅6] その瞬間に再興したのだ……キリスト教、この宗教になってしまった生への意志の否認! [﹅8] (……)
 (ニーチェ/川原栄峰訳『この人を見よ 自伝集』(ちくま学芸文庫、一九九四年)、162~163; 『この人を見よ』; 「ヴァーグナーの場合」)

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 (……)最後に、二つのデカダンスの世紀をつなぐ橋の上に、世界を征覇するためにまずヨーロッパを統一し、一つの政治的ならびに経済的 [﹅7] 統一を樹立しようとするまことに強力な一個の天才と意志との不可抗力 [フォルス・マジュール] が出現した時、ドイツ人どもは彼らの「自由戦争」によって、ナポレオンの存在の中にある意味、その意味の持つ奇跡をヨーロッパから奪って滅ぼしてしまった――こんなわけだから、ドイツ人はその後に起こったすべてのこと、今日なお存在しているすべてのことに責任があるのだ。ありうるかぎりの最も反文化的な [﹅5] この病気と背理、ナショナリズム、ヨーロッパがかかっているこの国民的ノイローゼ [﹅8] 、ヨーロッパの小国分立、卑小 [﹅2] 政治のこの永遠化に。彼らはヨーロッパからその意味をさえも、その理性 [﹅2] をさえも奪って滅ぼしてしまった――彼らはヨーロッパを袋小路に追い込んでしまった。(……)
 (ニーチェ/川原栄峰訳『この人を見よ 自伝集』(ちくま学芸文庫、一九九四年)、164; 『この人を見よ』; 「ヴァーグナーの場合」)

 また173に(「なぜ私は一個の運命なのか」という表題の章だが)、「このような運命、運命そのものが人間になる [﹅12] ようなそんな運命を言い表わすための一つの定式を知りたいと思うか?」として、ツァラトゥストラの一節が引かれている。

 ――善においても悪においても一個の創造者たらんと欲する者、その者はまず破壊者たるべく、もろもろの価値を打ち砕かざるをえない。
 しかるがゆえに最高の悪は最高の善意に属する。だがかかる善意こそは創造的善意。 [この二行すべて﹅]

 ここを読む感じでは、やはりニーチェにとっての「破壊」というのはまず第一に「価値」にかんするもので、そこで具体的なもろもろの事象はひとまずあまりかんがえられていないのかもしれないという気がした。戦争なんてものはまだまだ「理想主義」の枠内にあるにすぎず、そんなことよりも「一切の価値の価値転換」のほうが人類史にとってはるかに重要なのだとかれはおもっているとおもうが、そういうあたり「生理学」だの「肉体」だのを言ってもやはり思想家、観念の賢者だよなとおもう(そもそもその「生理学」も唯物的・科学的というよりも、けっこう独自の具体性に根ざしているようだし)。おそらくかれじしんはツァラトゥストラとじぶんをほとんどおなじものと見なしていたというか、それはたんに作者が作品(とその人物)にたくしてじぶんの思想を語らせているということではなくて、じぶんがツァラトゥストラになり、ツァラトゥストラもまたこのじぶんになるというような認識、端的に言って、わたしはツァラトゥストラだ、わたしがツァラトゥストラだ(ニーチェのこの本を真似して、このふたつの断言全体に傍点を付したいところだ)とかんがえていたような印象をもつのだが、それもあいまってニーチェの筆致、もしくは語りぶりは哲学者とか思想家とか作家とかいうよりも、予言者的なというか、それこそ宗教の教祖みたいな、ヴィジョンのひとというかたむきを得ることがままあるように感じた。
 この日で『この人を見よ』の部はさいごまで読み終えて、『自伝集』のほうにはいったのだが、そのはじめは「一八五六年の記録」として、同年一二月二六日の日記が載せられている。ニーチェ一二歳である。この内容がなんと、「僕たちはいまクリスマスの喜びにひたっています」(193)というもので、前日にどんなすばらしい贈り物がもらえるかと楽しみにしたり、当日たくさんのプレゼントをもらってよろこびに満たされているようすが書かれているのだ。あのニーチェが……。一二歳だからとうぜんなのだが、ここではまだただの純朴そうな少年だ。それから三〇余年を経て四四歳のニーチェは、キリスト教は人類の退廃にもっとも責を負うべき欺瞞的宗教だとかんがえるようになり、じぶんの不倶戴天の敵だと口にするようになる。その四四歳のニーチェの文章が終わって直後に、少年ニーチェがあらわれるので、この落差は印象的だった。にんげん、三〇年もあればここまで変わるのか、と。


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  • 「ことば」: 1 - 5
  • 「読みかえし2」: 221 - 235
  • 日記読み: 2021/10/19, Tue. / 2014/3/13, Thu.


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Pjotr Sauer, Dan Sabbagh, Patrick Wintour, Martin Belam and Guardian staff, “Russia-Ukraine war latest: what we know on day 238 of the invasion”(2022/10/19, Wed.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/19/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-238-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/19/russia-ukraine-war-latest-what-we-know-on-day-238-of-the-invasion))

The new commander of Moscow’s army in Ukraine announced that civilians were being “resettled” from the Russian-occupied southern city of Kherson, describing the military situation as “tense”. “The enemy continually attempts to attack the positions of Russian troops,” Sergei Surovikin said in his first televised interview since being appointed earlier this month, adding that the situation was particularly difficult around the occupied southern city of Kherson.

Kyiv has recently introduced a news blackout in the south of the country, leading to speculations that it was preparing a new major offensive on Kherson. “When the Ukrainians have a news blackout it means something is going on. They have always done this before when there is a big offensive push on,” Michael Clarke, a former director general of the Royal United Services Institute, told Sky News.

People in four towns in the Kherson region were being moved in anticipation of a “large-scale offensive”, the Russian-installed head of Kherson, Vladimir Saldo, said in a video address. Kirill Stremousov, the Russian-installed deputy administrator of the Kherson region, echoed the message on Telegram late on Tuesday: “The battle for Kherson will begin in the very near future. The civilian population is advised, if possible, to leave the area of the upcoming fierce hostilities.”

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The Belarus defence ministry said in a statement that it has begun summoning citizens to check their eligibility for military service, but that it is not planning mobilisation. The military registration and enlistment activities are strictly routine and are expected to be completed by the end of this year,” it said.

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Military advisers from Iran’s Islamic Revolutionary Guard Corps were on Ukrainian soil at a Russian military base in occupied Crimea, the New York Times reports. The Iranians were reported to have been deployed to help Russian troops deal with problems with the Tehran-supplied fleet of Shahed-136 drones, rebranded as Geran-2 by the attackers.

Iran has deepened its commitment to supplying arms for Russia’s assault on Ukraine by agreeing to provide a batch of medium-range missiles, as well as large numbers of cheap but effective drones, according to US and Iranian security officials.

Russian airstrikes have destroyed 30% of Ukraine’s power stations since 10 October, causing massive blackouts across the country, said Ukraine’s president, Volodymyr Zelenskiy on Tuesday.


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Erum Salam, “George Floyd’s family sues Kanye West for saying he died from drug abuse”(2022/10/18, Tue.)(https://www.theguardian.com/us-news/2022/oct/18/kanye-west-george-floyd-family-sues-drug-abuse-fentanyl-overdose(https://www.theguardian.com/us-news/2022/oct/18/kanye-west-george-floyd-family-sues-drug-abuse-fentanyl-overdose))

The mother of George Floyd’s daughter, Roxie Washington, has sued rapper Kanye West for $250m (£221m) after the artist alleged that the 46-year-old man died from drug abuse rather than being murdered by a police officer.

Last Saturday, on the Drink Champs podcast, West, who legally changed his name to Ye, alleged that Floyd died from a fentanyl overdose. In the same interview, which has since been taken down by YouTube, West also made antisemitic comments.

However, Hennepin county chief medical examiner Dr Andrew Baker testified that Floyd’s immediate cause of death was “cardiopulmonary arrest complicating law enforcement’s subdual, restraint and neck compression”, or rather the stopping of Floyd’s heart and lungs that prevented him from breathing.

In May 2020, Floyd’s death sparked international outrage and fueled a global conversation about police brutality in the US after white Minneapolis police officer Derek Chauvin pressed his knee against the neck of the unarmed Black man for a total of nine minutes and 29 seconds during an arrest outside a Cup Foods grocery store.

In April 2021, Chauvin was found guilty on three murder and manslaughter charges and is now serving two prison sentences concurrently of more than 22 years. Three other officers involved in the incident received lighter sentences.


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Jennifer Rankin in Brussels, “How soulmates Hungary and Poland fell out over Ukraine war”(2022/10/18, Tue.)(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/18/how-soulmates-hungary-and-poland-fell-out-over-ukraine-war(https://www.theguardian.com/world/2022/oct/18/how-soulmates-hungary-and-poland-fell-out-over-ukraine-war))

In December 2021, Poland’s ultraconservative, nationalist government hosted some of the biggest names in European far-right politics, including France’s Marine Le Pen and Hungary’s Viktor Orbán. At the close of the Warsaw gathering, the group issued a declaration against “social engineering” aimed at creating “a new European nation” and made promises, largely unfulfilled, to work together in the European parliament.

Only a few months after the Warsaw summit, the governments of Poland and Hungary, who have been ideological soul mates in the EU for years, fell out over Russia’s invasion of Ukraine. While Warsaw has been one of Kyiv’s staunchest supporters, urging tougher sanctions, Hungary’s leader, Orbán, has described Ukraine’s president, Volodymyr Zelenskiy, as his “opponent” and blamed the EU’s Russia policy for inflation and soaring energy prices. Despite a few tentative olive branches, Polish-Hungarian relations remain tense.

The rift became most obvious in April when Jarosław Kaczyński, Poland’s most powerful politician and chair of the ruling Law and Justice party (PiS), described Orbán’s stance on Ukraine as “very sad” and “disappointing”. In private, Polish diplomats have vented their dismay. “For me, this is the country of 1848-9, the country massacred by Russia,” one senior Polish diplomat said in May, referring to Imperial Austria’s call on the Russian tsar to quash the Hungarian Revolution. “Frankly speaking, I cannot understand the logic [of Hungary’s position],” the diplomat said, adding that the Visegrád Group – the alliance of four central European countries, Poland, Hungary, the Czech Republic and Slovakia – no longer existed.

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A recent YouGov poll exposed the gulf in public perceptions of the war between the two neighbours. While 65% of Poles support maintaining sanctions against Russia, only 32% of Hungarians back this EU policy. Similarly, three-quarters of Polish citizens blame Russia for the war, compared with only 35% of Hungarians.