2022/11/2, Wed.

 またも私が書くのはお答えではありません、問いと答えはそれが思うままに縺れさせておきましょう。(……)
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、85; 〔労働者災害保険局用箋〕〔日付を欠く〕; 一九一二年一一月一六日付の手紙に同封された手紙)




 またしても気づかないうちに意識消失。しかし湯浴みと歯磨きはきちんと済ませたので良い。いちど覚めたのが四時台で、とうぜんまだまだ暗いわけだが、意識は冴えており、天井の明かりとデスクライトを消しても眠気がやってこないので、布団のしたで瞑目のまま深呼吸をしていた。それで五時を越えたあたりでもう起きてしまうことに。起きると言っても寝床でゴロゴロしながらウェブを見ているだけだが。五時過ぎだとカーテンをめくってみてもそとはまだ夜の終幕に居残って暗色であり、掛け布団から脚を出すとちょっと寒いのでエアコンもつけた。そうして背中をほぐしたり脚を揉んだりしながら七時半までごろごろ。朝焼けの色を見たかったが西窓ではそれも望めず、いつの間にかあかるくなっていた。明けてみれば雲のすこしも垂れていない青さがつづく、まったくの快晴である。日記の読みかえしは一年前のもののみとなった。天気の記述。

(……)きょうは寝床にひかりが射しこむ朝ではあったが、空には全面的に淡い雲が溶けこんでおり、太陽もその白さのなかに封じられてすこしく減退を強いられて、肌と目を射る旺盛さとは行かなかった。食卓についたこのときも陽が出たり無色化したりとおりおりだったが、ひかりがとおればけっこうあかるく、炬燵テーブルの天板の隅に白光は宿るし、近所の屋根の瓦もその襞にあわせてこまごま飾られていた。川沿いの樹々に色を剝がして褐色じみたものもいくらかあらわれてはいるが、緑の梢が薄陽を受けて羽根のように淡く抜けつつひかりの触れない内側には濃い翳をはらんでいるのは、一月か二月くらいまえにながめた朝の感触とそう変わりない。

 七時四十分に寝床を抜けて、水を飲み、トイレに行って便器に腰掛けるとちょろちょろ小便をはなち、手と顔もよく洗う。出るとうがいして、電気ケトルで白湯をこしらえてそそぐいっぽう、踵だけあげてつま先はつけたかたちのその場歩きをした。きのう出かけないかわりに室内でこれをよくやっていたのだけれど、そうするとからだはよくあたたまるし、脚もかなりつかわれて血がめぐるのがわかるし、家にいても手軽にできる運動としてこれはよい。やる気も出る。まえにも書いたけれど目をつぶってやっているとまさしく動的瞑想という感じだし、全身が揺れるのがここちよく、つづけているうちに自動的にうごくからだにじぶんが乗っているような感覚になり、小舟で揺られているようなイメージだ。それできょうもおりおりちょっとしたあいまなどによくやっている。切りをつけると椅子に座って白湯を飲みつつ、Notionを用意したり、To The Lighthouseの一節ほかを読んだり。そうして八時四十七分だったかわすれたが、そのへんから瞑想をした。二十二分。わるくはない。窓外では保育園がいつものようににぎやかで、おくられてきた子どもが泣き声をあげつつさみしいの、さみしいの、と嘆くのに、いらだった声音の母親が、わかったから、それはわかってる、でも行かなきゃいけないの、と叱ってなんとか別れようとしていた。
 その場歩きをしてからでも脚はしびれる。左足である。脚のしびれはおいても、ほんとうはやはり椅子ではなく、布団のうえとかでやったほうが良いのかもしれないという気もする。座面がそのほうが広いから、きちんと脚のしたの面に支えられて座っている感が出るのではないか。椅子のうえだと膝は座面に支えられているというより、どちらかというと左右の腕置きに先端があたるのでそこを頼りにしているような感じで、それはほんとうは狭くてよくないのかもしれない。すっぽりはまる感じもわるくはないのだが。ともかく脚のしびれが溶けると、コンロに火をつけ、最弱で加熱して鍋をあたためるあいだ、またその場歩きをしていた。煮込みうどんのほかにキャベツを切って豆腐とハムと合わせたサラダもこしらえて食事。ウェブを見る。食べ終えても皿を机に乗せたままインターネットを少々うろつき、歯磨きをさきに済ませてから洗い物をした。いま正午になる直前だがきょうはほんとうにまったき快晴らしく、絶好の洗濯日和のようだがどうしようかな。いま着ているジャージももうけっこうながく着ているので、やはり洗ったほうがよいか。洗い物ののちは音読したりまた歩いたりした。あと、きのう(……)さんから返信があって、というか朝起きて携帯を見たときにそれを認知したのだが、木曜日、つまりあしたはどうかとあった。しかしきょうのあしただとやはりちょっとひるむところがあるし、スーツ類をきちんと用意したり、菓子折りを買ってきたりと準備もしたいので、来週から復帰としてもらえるよう、一〇時四〇分ごろに返信をしておいた。


     *


 いま午後七時一三分。買い物に行ってきたのち飯を食ったあとは、書き抜きをした。ユーディット・シャランスキー。復活したdiskunionのサイトでジャズ新着を見て、BGMはさいしょ、Bill Jennings『Glide On』というレアグルーヴ方面のやつ。Jack McDuffと組んでいるギター。それが終わると自動再生でながれたのがChristian McBride Big Band『For Jimmy, Wes and Oliver』で、こりゃいいやとおもってアルバムのさいしょからながす。聞いてみてもさすがに強力かつ明快で、ストレートにきもちのよい音で、とくにJoey DeFrancescoのオルガンには乗せられてしまい、からだをうごかしたり首を振ったりする。Mark Whitfieldも、こんなにガンガン弾くギターだったんだという印象。数音単位のおなじフレーズをしつこいようにくりかえすときもあり、Pat Methenyもたまにそういうことをやるが、音楽性に合わせてここでのMark Whitfieldはよりアーシーな感じになっている。くりかえし聞きたいアルバム。書き抜きをしているあいだは肩から首まわりがこごって、双方まわしてやわらげようとしたのだけれどすっきりしきらず、とちゅうでいちど切って寝床に逃げた。ごろごろしているあいだは(……)さんのブログを一〇月三一日分まで読む。あと買い出しに行ってきたあとも寝床で中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』を読みすすめた。一九九二年発行で、意外とまえの本だったんだなという印象。もっとさいきんかとおもっていた。詩句はむろん難解というかよくわからないはわからないので、口に出してなんどか読んでなにかしらひびくものがあるかどうか探るような感じですすむ。詩ってなんかそういうもんじゃないかとおもう。意味を明晰に散文的に解読したとしても、益がないわけではないだろうけれど、それが納得したとか腑に落ちたとかじぶんのうちにおさまったとか理解したということにはならないような。小説もそうといえばそうだが。書き抜きたいとおもう詩篇はおおい。あと、詩こそむしろ字義性が大事ではないかというか、象徴とメタファーのわざであることは疑いを容れないけれど、しかしまずもってそこに書かれてあることばの感触をなるべくそのまま受け取ることが、散文よりもかえって重要になるのではないかという気がした。それを土台としてこそ、そこからひろがるニュアンスの拡張としてメタファー的なものが浮かび上がってくるというのが感受としてありうべき経過ではないかと。ただそのばあい、わかりやすく散文的というか字義的というか、リアリズム的な、あるいはリアリズム的ではないとしても視覚像などに表象されうるような詩句はむろんわかりやすい、つかみやすいのだけれど、そうではなくなんらかの像をむすばない、そういう感覚的表象に翻訳されないかたちで、むき身の意味や観念として受け取らなければならないようなフレーズはやはりむずかしい。哲学的なかたい概念なんかともそれはちがって、哲学なんかの術語のような概念はもともとそういうものとしてあるから、べつの言い方でいうとこれはこの概念と似たようなもんだろうという予想が立ったり、ある意味明晰なばあいもあるのだけれど、詩となると具体的な、ほんらいひとつひとつは表象を再生するはずのことばを、しかしそれに収斂されないような組み合わせでむすびつけたりしているわけで、そこをつかむのは難事だ。
 正午まで文を書いたあとはせっかくの晴天なので洗濯をした。洗うものがすくない状態で洗濯をするのもきらいではない。水と洗剤がもったいないようではあるが。着ていたPumaの白いジャージ、生地がもうごわごわしているようなやつは脱いで洗い物にくわえ、もっとさらさらした素材の紺色のやつによそおいを変えた。日記に取り組む。きのうのこと、おとといのこと、そして三〇日のスーパーへの道のことまで書いた。ほぼ西陽のかがやかしさしか書いていないが。それで、ほんとうに雲がなくてこんなに晴れているのだからいいかげんきょうはそとに出るっきゃねえとおもって、大根もほしかったので買い出しに行くことに。ブルゾンとズボンに着替えて、財布とビニール袋しかほぼはいっていないリュックサックを背負い、マスクをつけてそとに出たのが一時一〇分ごろである。洗濯物は干しておいた。あと掛け布団も、たたんだ状態で柵にかけ、座布団と枕も出しておいたのだ。階段を下りて道を踏むと、三〇日と同様右をえらび、路地をすぐ出て渡って左折。まえにうしろに首を向けながら見上げると、ほんとうに真っ青な凪の液体と化した空が見えるかぎりひたすらつづいている。陽射しは暑いくらいで、昭和に開業したであろう、むかしながらのローカル商店というおもむきの布団屋の前で、旗が弱く身をくねらせている。行き当たる通りの横断歩道がちょうど青だったのでわたると、目のまえの家の戸口では母親と息子なのか、あるいは他人か、高齢の女性と若い男性が向かい合うのではなくて、双方そとにからだの前面を向けるかたちでならびながら会話していた。道端の植木鉢には真っ赤な小花が群れている。それを見下ろしながら過ぎるに、なんかこういう花で蜜を吸えるものがなかったかと、そんな経験があったかどうかうたがわしいのに、こどものじぶんが花をちぎって吸っているような記憶が刺激され、それはツツジか、とおもった。焼き鳥屋の角を折れて駐車場をななめに横切りながら(……)通りにはいる。公園を縁取る木のこずえは風通し良さそうに軽くなっており、下方は緑が多くのこっているけれどそこにも黄色は混ざっているし、樹冠のほうに行くと黄や橙がかぶせられて、整然と巻かれていたはずのコイルがほどけてしまったようにややばさら髪めいた晩秋行きの風情、それでいて陽に憩いながらつやつやと立っていた。公園内には、木と同様憩うているような高齢のすがたがちらほらある。先日はその先で北にひらく路地に折れたが、きょうはふつうにまっすぐすすむ。空気は静止しており、車がなければ意外なほど、耳を引くほどにしずかな道で、そのなかに箒で庭でも掃いている音が聞こえる、とおもったらこれは箒ではなく、そこにある珈琲屋の内で豆を容器にざっとうつす音や、焙煎なのだろうか、なにかの器具が稼働している音だった。おもてにいたるとそのまま左折すればスーパーだが、横断歩道をわたって目のまえにある裏道にはいる。きょうも寺とマンションのあいだの道をあるくこころだったのだ。折れるとマンションの前面やその一帯にはひかりが降りそそいで宙から地まで埋め尽くしており、道脇に立った木の、これも黄色と、オレンジというより橙とか樺色といいたい暖色でてっぺんを中心に飾ったものが、緑の葉のあちこちにひかりを宿らせつややかなる群れをつくり、風がないからその光点をはじき散らすこともなく、さわがずにただ溜めており、葉がひかっているのではなく、ひかり自体が果実としてぶらさがっているかのようで、そのようすをながめるためには視界をながれおちてくる闖入的なかがやきを、額にかざした片手でもってさえぎらなくてはならなかった。陽気にさそわれて羽虫もおおく湧き、路上の宙に渦をつくっているのが見える。風はやはり生まれず、肌にかんじられるながれすら乏しくて、寺の塀から伸びだした野太い幹の木が枝葉の影を地に青く落として神経網のようにえがいているのがふるえることもない。駅前に出ると日陰が消えてあたりは日なたでまっさらとなり、太陽は水色に尽きる空で伸び伸びといきいきとひかりを放ち、身を縦につつみこんでくる暖気が一一月にはふさわしからぬ重さ厚さで、秋晴れというよりも春めいているほどだ。スーパーに出る細道にはいらず、さらに遠回りして、駅のまえを過ぎていった。美容院や居酒屋など数件軒をならべた一角の端に、見た目はあまりカフェらしくもないがそのたぐいらしい店があって、流麗なジャズギターのBGMがながれだしている。出た通りはスーパーのあるそれで、左折してまっすぐ行けば店にいたる。こちらは西側なので沿ってならぶ建物が陰を生み出し日なたはひらかない。スーパーまで来ると、平日の昼下がりでも自転車がけっこうずらりと止めてあり、この時間でも客がわりといるんだなとおもった。入店。手を消毒して籠を持ち、れいによって野菜コーナーから回っていく。大根とかヨーグルトとかトイレットペーパーくらいでそんなに買うつもりはなかったのだが、回っているうちにやはり籠が重くなっている。味噌味の鍋スープやエノキダケもまた買ってしまった。その他ソーセージとマスタードのはさまったパンなど。好天にそそのかされてアイスも買う。会計ははじめて見るひと。昼間に来ることがあまりないからだ。(……)というなまえの、灰色髪混じりの年嵩の婦人。態度はふつうに丁寧で、眼鏡をかけた風貌は一見するかぎりではおだやかそうに見え、品をはこぶ手つきはとくにはやかったり特徴があったりするわけではないが、遅いわけでもない。会計を済ませて荷を整理すると退店。トイレットペーパーとビニール袋を手のそれぞれに提げることになった。横断歩道を待ってわたり、そこの口から裏にはいって、ゆるゆるとした足取りで行く。ここにも羽虫はいるし、あたまのすぐうえを虻みたいな音がぶーんと飛びすぎていくこともあり、家屋のまえでも紫の、綿棒の先をつらねたような房っぽい花があかるかったりしてほんとうに春めいている。のどかというには分厚い陽射しをかぶりながら帰路をたどった。
 それいこうのことはうえに書いたとおりだが、道中のことを書いているうちにどうもからだがこごってきたというか、負荷がかかって緊張しているなというのがわかり、いったんはなれることにした。八時六分だった。マンション脇の木のことまで書いたところである。意識とか精神というものはそもそも厳密には時系列に沿って線的な思考をするようにはできていないから、記憶を順番におもいだしていくというのはその本性を一時矯めて制御することになり、しかもこれだけこまかく分割的におもいだし、かつそれをことばにうつしていくとなると相応に負担はかかるわけで、たんじゅんなはなし精神を一方向に集中させるとあたまのなかがかたくなり、応じて身もこごって緊張を呼ぶ。その心身両面のこごりを散らすには端的にからだをうごかすのがやはり有効で、だから席を立ってまたその場歩きをしたわけだけれど、そうするとさいしょのうちはまだその後の記憶をたどるようなあたまだったがじきにうごきのなかで思念の志向性が拡散してきて、まあ位置はうごいていないとしても足をうごかして移動を擬似しているのにふさわしく、精神のほうもwanderingな感じになってくる。やはりこのwanderlust的な多方向へのすきまある拡散が大事だ。その場歩きをしているときは目をつぶっていて、いぜんは瞑目でうごいているうちにからだの向きがずれていて、手が脇にある洗濯機なんかに当たって気づくことがままあったけれど、さいきんではバランスが身についたのかそんなに向きがぶれなくなった。目を閉じているとからだのうごきがよく感じ取れるが、あたまが左右にふれるのに意識が向いたとき、記憶が引っ張られてきて、それは中学一年か二年のときに生徒会長だった男子のあるきかたのことで、体育館の壇上にあがってマイクのまえまで行くときに、両手はからだの横でぴしっと伸ばしているのだが、あたまと上体を左右にやたらおおきくかたむけながら歩くひとだったのだ。そんなクソどうでもいい記憶がよみがえってきただけでもそこそこおどろきなのだが、さらにつながったのが中二か中三のときのクラスメイトで、たしか楢橋みたいな「楢」のついたなまえだった気がするのだけれど、なぜそちらに通じたかというとこの生徒会長の髪型と、楢橋の髪型が似ていたからで、といって特徴的なものではなく、ちょっと細い卵型の頭蓋のまわりに短めに刈った髪がもこもこしているようなもので、楢橋はひょろりとしていたからその見た目がマッチ棒にじつに似ており、なんかそういう感じのあだなをつけられていた気もする。そのひょろりとしたからだでバネをきかせながら伸び上がったり跳ねたりして、「にょほほほほ!」みたいな笑い方をすることがあったと記憶している。ちょっとおもしろいやつだったが、かれのことをおもいだしたのはマジで中学卒業いらいはじめてなのではないかというくらいで、じぶんのなかにその記憶がのこっていたこと、じぶんの人生の道行きにこういうにんげんがつかの間いたということ、そしてあたまのわずかな揺れうごきのなかにその記憶への通路がねむっていたというか、もともとそこに潜在していたというよりも、このとき偶然にもその道筋が開発されひらいてしまったということに、おどろきを感じざるをえない。プルーストのきもちがわかるような気がする。
 からだがわりとほぐれたところで、日記にもどるまえに煮込みうどんをこしらえることに。買ってきた濃厚味噌スープを鍋にあけて火にかけ、そこにもろもろ切って投入。白菜ののこり、ニンジン、大根、タマネギ、シイタケ。エノキダケも買ったがシイタケがあるからこれはまだいいかなと。そうして弱火で煮る。まな板と包丁をすぐ洗い、あしたが燃えるゴミの日なのでもう出してしまうことにして、ゴミ箱から袋を取り出して押し込み、冷凍庫にたくさん溜めてあった生ゴミ(ラップに包んで凍らせてある)もべつのちいさなビニール袋ふたつに入れて縛り、燃えるゴミと合流させた。口をきっちり縛ってなるべくにおいがもれないようにしておき、それを持ってそとへ。きょうはその場歩きをたくさんしているのでからだがよくあたたまっており、室内でジャージの上着を着ていると暑いくらいで、窓もあけているし、このときも肌着のままでそとに出たが、それで寒さもぜんぜんない。むしろ具合よく涼しかった。もどるとゴミ袋をあたらしくセットして、鍋の灰汁を取る。けっこう灰汁が出るスープである。にんにくの風味がきいている。日記にもどるまえにまたちょっと歩いて、それで九時頃。ここまで加筆すれば九時四九分。あとは三〇日の通話時のことだけだが、きょうはそこまではいいかなというきもちになっている。


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 その後はこともなし。


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  • 「ことば」: 31, 9, 24, 21 - 25
  • 「読みかえし2」: 423 - 428
  • 日記読み: 2021/11/2, Tue.


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Mark Townsend Home Affairs editor, “Roadblocks, soup hurling, superglue … Just Stop Oil protests divide activists on direct action”(2022/10/29, Sat.)(https://www.theguardian.com/environment/2022/oct/29/just-stop-oil-protests-roadblocks-activists-direct-action-climate(https://www.theguardian.com/environment/2022/oct/29/just-stop-oil-protests-roadblocks-activists-direct-action-climate))

Jude Rogers, “TS Eliot’s women: the unsung female voices of The Waste Land”(2022/10/30, Sun.)(https://www.theguardian.com/books/2022/oct/30/ts-eliot-women-the-waste-land-emily-hale-haigh-wood-letters(https://www.theguardian.com/books/2022/oct/30/ts-eliot-women-the-waste-land-emily-hale-haigh-wood-letters))