(……)壁のすべての写真(ベレー帽をかむった一人の男性の分を除いて)の上にあなたを探し、さしあたり三つだけ見つかりました。正しければ、保証してください。まちがっていれ(end161)ば、そのまま信じさせておいてください。(……)
(マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、161~162; 日曜日〔一九一二年一二月一五日〕)
いま夜の七時二二分。きょうの起床は一一時過ぎで遅くなってしまった。晴れていたのでさっそく洗濯をすることにして洗濯機を稼働させ、それから椅子に座って瞑想。なにもしない時間を取るというのが瞑想の本義ではないかというところに立ちいたったというか回帰したわけだが、それなら別段、胡座の姿勢にこだわることもあるまい、脚もしびれるし、とおもって、きのういらい椅子にふつうに腰掛けたまま静止するようになった。そのほうが脚がしびれないからやりやすいし、その姿勢で習慣化し習熟すれば、作業中でもちょっと目を閉じてうごきを止めればそれでもう無動状態にはいれる。そのための特別な姿勢を取る必要がなく(まあそうはいってもたしょうはそれ用の座り方というのがあるが)、もっと日常的な、すぐにできる気軽なものになる。だからわざわざ「瞑想」という語でいうのもそぐわない感じがしてきた。単になにもしないでいるだけ。それによってからだがなんだか調ってなめらかになる効果はたしかにあるのだけれど、それは副産物というか本質ではなく、なにもしない時間を生活のなかにひらくことじたいが行為連鎖の全的占領性からみると、ひとつの自由なのだということだ。だからからだがまとまろうがまとまらなかろうが、その程度がどのくらいであろうが、そこを気にする必要はなく、またそれをもとめても焦点がずれるということになるだろうが、しかしじっさいわりとここちよい効果はあるものだから、このときはけっきょく洗濯が終わるまでずっとながく静止しつづけていた。そうして洗われたものを干す。きのうはひさしぶりにはたらいてワイシャツを着たし、ハンガーが足りず、私服のシャツを吊るしてあったのをはずしてつかったりしなければならない。その後食事へ。またしてもキャベツと豆腐だけのサラダともいえないものをこしらえ、即席の味噌汁と冷凍の豚まん。食い物がそろそろとぼしくなってきた。しかし野菜はまだすこしあるから、きょうのところはまた煮込みうどんをつくって、あした買い物に行けば良いだろうと落とす。
それいこう部屋にこもってわりとなまけているので特段のこともないが、ひさしぶりにストレッチをかなりていねいにおこなった。ていねいにというか、静止の時間をつくることが重要だというところに立ち返った現状、ストレッチもまえにやっていたみたいに、ポーズを取った瞑想になるわけで、ただ姿勢を取ってあとはからだにまかせる感じでまたやってみようとためしたところ、これがやはりきもちよく、それでけっこういろいろやってしまった。合蹠してまえにたおれたときにねむいようになるあれがやはりきもちよい。あと胎児のポーズもかなり万能感がある。洗濯物は寝床でなまけていた四時ごろに入れて、それからまたしばらくしたあとにそうして柔軟をはじめたのだけれど、やっているうちに、硬かったからだが伸びたためにここちよい疲労感が生まれてねむくなってしまい、あおむいてちょっとまどろむ時間もあった。それで六時くらいにいたってしまったのだった。そこからきょうのことをこうして記述。体調はわるくはないしからだに緊張もないが、胃液っぽい感じはやはりある。それがあるということは、良い状態ではないということだ。首のうしろあたりの背骨がピリピリするようでもあって、起きてから時間が経たないうちはそこのこごりがよりつよく、両手を組んで後頭部に当てるストレッチでほぐしたが、そうしたときにいちばん突出するあたりの背骨があきらかに胃と関連している。記述のまえにあれだ、野菜を切って鍋に入れて、いまじっくり煮込んでいる。
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この日のことはもうこれだけで良いが、ひとつおもいだしたのはたぶん起床時に読んだ一年前の日記のことで、この前日に読んだ夜歩きの記述もなかなかだったが、2021/11/11, Thu.もぜんたいにかなり詳細で、母親の車に乗せてもらって地元の図書館まで行き、その後近間の茶屋まであるいて買いに行ったり、ちゃんぽん麺を食ったりして帰ってきているだけの日なのだが、おまえよくこんなに書くねという感じでなんかおもしろかった。ちなみにちゃんぽんを食ってまもないうちに電車に乗ったため、小発作じみた緊張の高まりにおそわれている。
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- 「ことば」: 31, 9, 24, 11 - 15
- 「読みかえし2」: 458 - 462
- 日記読み: 2021/11/11, Thu.