2022/11/13, Sun.

 (……)そこで、ぼくらの考えと心配を単純化して、つぎのように言いましょう、彼女は手紙を読み、彼女だけでなく妹さんも読んだかもしれないと。妹さんの電話での受け答えは、少くともあなたの説明に従うと、ぼくにはあまりにも簡単で疑わしくひびきます。だからぼくは、お母さんはあなたの部屋に稀にしか入らないのだから、妹さんが最初手紙を見つけ、それからお母さんを呼んだのだと思います。そしてあなたの電話で中断されるまで、二人は読んだ。最初に電話に出たのはだれですか? そして普通だれが出るのですか? それは全部の手紙ですか、一部だけですか、そしてどの部分ですか? ぼくはいま(ぼくの精神状態では当然ベッドにねているべきであり、あなた以外の人に書く勇気はとてもありませんでしたが、ぼくの状態すべて、最悪のも最良のも、みなあなたのものではありませんか?)とにかく読みにくい字で書かれた手紙がお母さんや妹さんにあたえた印象を想像することができません。とくに彼らは、ぼくらがぼくらの全生涯で一時間以上は会っていず、それも最もフォーマルな仕方で一緒になったということをおそらく信じるでしょうし、またたしかに手紙でも実証されているのに気づくでしょうから。いかにしてこの事実と手紙の内容に関係を、少くともありきたりの関係を彼らがつけることができるか、それこそぼくには、より以上の徴候がなければ、推量もできないことです。最も明白な、最も簡単な、だから全く確かとはいいかねる仮定(end162)はつぎのようなものでしょう――彼らはぼくを気違いに近いと思い、あなたはぼくにうつされたので、だからしかし二倍もいたわりが必要であると考え、その場合あなたは全くやさしく取扱われるでしょうから、ぼくの手紙の結果は悪くないともいえましょう。しかしもちろんそれは一家のなかでは最も粗野な侮辱をも含むかもしれません。とにかくぼくらは待たなくちゃならない、ぼくらの間のバランスもまだ完全ではないので、というのは、お母さんからまだぼくは手紙を頂いていないのです。かわいそうな、最愛のひと、容赦のない厄介者と監督のきびしい家族の間に挟まれて。(……)
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、162~163; 日曜日〔一九一二年一二月一五日〕)




 覚醒したのは七時半ごろのはず。布団のしたでしばらくもぞもぞしたり、両手をあたまのうえに掲げた姿勢で止まって胸郭がほぐれるのを待ったりする。万歳した手のあたりに置かれているハンディスチーマーにゆびがあたり、それをどかしても、すぐそこがもう南の壁だからあまりまっすぐ伸ばすかたちにはならない。身を起こして携帯をみると八時すぎ。カーテンを開ける。空は青いものの、うっすらと濁りの混ざっておさえられたような水色である。布団をかぶったままChromebookを持ってNotionできょうの記事をつくり、ウェブを瞥見したのち過去のおのれの日記を読んだ。一年前の描写的な部分は以下のような感じ。とにかく晴天のさわやかさが喚起されて、たいした記述でなくてもよくかんじてしまう。トンビはとうぜんながらこの地では声を聞くことはないな、とおもった。最終文で、「俺の日記って、だいたいなにを読んだかと風景しか書いてなくないか?」ともらしていて笑う。いちおう職場のあれこれも書いてはあるのだけれど、ブログにはそれを公開できないので。

九時台後半から覚めて、一〇時二〇分に離床。きょうもまったくの快晴で、雲の一滴もなく水色に凪ぎわたった空のまんなかにふくらみ浮かんだ太陽を顔にじりじり受けながら、喉やこめかみを揉んで深呼吸をした。脚をマッサージしながらすこしだけ書見も。起き上がると水場に行き、洗顔やうがいや用足しをしてもどり、瞑想。きょうは二時には家を発たなければならず、いつもより猶予がすくないので焦る気持ちがあったのだろう、一五分強でみじかく終わった。窓をあけなかったが、ひゅるひゅるというトンビの鳴き声がガラス越しに何度か聞こえてきた。

(……)ものを食べ終えると食器を洗い、風呂も。きょうも風呂場の窓をあけてみると、きのうと違ってとなりの空き地の黒っぽいシートのうえには無数の落ち葉の黄色が点じられてあるが、そのほかは、道路をすべて覆っている日なたの池といい、石塀のうえに投影された電柱の分身(子どもがクレヨンをつかって船のマストとその周りの付属具を描いたように見える)といい、きのうとおなじである。(……)

(……)天気はきわめて良い。T字の縦棒(そのさきに駅がある)の根もとを横切るかたちの横断歩道がいま青になっていたが面倒臭いので脚を急がせずにそこまで行き、赤になった信号がもういちど変わるのを待った。通りのむかいには数人そぞろあるいているなかに、T字の上の横線を縦にわたる方向の横断歩道を待っている若い夫婦があって、ベビーカーをともなっているので夫婦とわかったのだが、そういうすがたや穏和でのどかそのものといった空気のあかるさを見ていると土曜日の昼下がりというにおいがかんじられてくる。右手の南にむけて視線をはなてばかなたの山のすがたはほとんど薄れても濁ってもおらず、まなざしがそこまでいたるあいだに無数の大気の積層が分厚くはさまれていることをかんじさせず、空気の透明さ澄明さがよく理解される。真っ青にひらいたそのうえの空はじぶんがいまいる通りの近間にそびえたマンションのきわまで夾雑なしでひとつながりにつづいているが、そのねずみ色っぽいビルの輪郭も水のように明快な青にせまられくっきりかたどられている。信号の変わった横断歩道をわたっていると、祭りで鳴らされる鉦みたいな、なにか金物の打音が聞こえて、すぐに、たぶんここのビルだな、喫茶店でなにかやっているのかもしれない、と目の前の二階に音源が同定されて、直後に太鼓的なパーカッションも聞こえたが、ビルの入り口のまえを通り過ぎるときに視線をやってみると、サルサバンドが演奏をするという看板が見えた。駅前に配されたイチョウの樹はまだおおかた緑をのこしていて、変色しているとしても端がわずかに褪せてきているのみが大半だが、パン屋の目の前あたりにある一本だけ、よそおいをほぼ黄色くあらためていた。

 2014/4/3, Thu.もみた。ウルフのKew Gardensの翻訳に取り組んでいるらしい(あと(……)さんの『亜人』のbotをつくってもいる)。翻訳はいまとおなじで神経質に細部にこだわって悩み、出勤路でも文言を「心中でぶつぶつと反芻しながら歩いている」と。「とりあえずこんなものだろうという訳をつくってさっさと先にすすむということができず、わかっている単語でも英英辞典まで使っていちいち意味を調べ、おのおのの順序、節のつなぎ方などを考え、自分にとってもっとも好みの日本語を模索してしまうのだった。日記を書くときよりもはるかに言葉にこだわっていた」とのことだが、それはそういうものだろう。じっさい二〇一四年の時点でよくやったなといまからするとおもう。
 そのあとGuardianを閲覧。ウクライナの概報。ヘルソン市は解放でお祭りムードだったようだが、ゼレンスキーは「歴史的な日」だと祝いつつも、さらなる進攻のための軍事的配置はつづいているとも冷静に述べている。ヘルソン地域でみるとまだ七〇パーセントがロシアの支配下にあるからだ。とはいえヘルソン市の奪還はこの戦争でもっとも重要な戦略的達成だろうと記事にはあり、イギリスのBen Wallace防衛相は、“In February, Russia failed to take any of its major objectives except Kherson. Now, with that also being surrendered, ordinary people of Russia must surely ask themselves: ‘What was it all for?’,”と述べたという。二月にロシアが獲得できたおおきな成果はヘルソンだけだったのに、それが明け渡されてウクライナの手にもどってしまっては、世間一般のロシア人たちは、いったいなんのためだったのか? と自問するだろうと。これでロシア国内で厭戦気分が高まって(すでにけっこう高まっているように推測するのだが)、プーチンが交渉と停戦をかんがえざるをえない、という方向につながればよいのだが。トルコが先般から和平交渉の仲介を申し出ているようだし、エルドアンの手腕がためされるというか、同国のうごきが鍵となるのかもしれない。そのほか気候変動や、ニュージーランドのテロ抑止政策や、アメリ中間選挙ウィスコンシン州での動静についてなど。とちゅうで小便をしたくなったのでいったん床を立ってトイレに行き、用を足すとともに顔を洗ったが、そこで離床しきらず、またもどってごろごろしながら英文を読みつづけた。起床は九時四〇分。洗濯をする。雲がちな日とはみていたものの、いちおうやさしげなひかりのもれる時間もあったので、まあ行けるかなとおもったのだが、正午をまわった現在では空はつめたそうな雲に一面占領されて、雨に向かいそうな空気のいろになっているのでミスったかもしれない。Yahooの天気予報をみると、三時半くらいからこのへんにも薄雨が来そうだ。とはいえ洗ったものはすくない。洗剤がもうなくなっていたので詰替え用のパッケージを開封し、洗濯機に注水しているあいだにそれをボトルにそそぎかえる。そうして洗剤と漂白剤とそれぞれ入れて蓋を閉め、椅子に腰掛けると瞑想。ヴァルザーをパクった小説をひとつ書きたいとまえからおもっており、そのなかで半自動筆記的なことをやろうかなとももくろんでいるのだけれど、あたまがそっちの方向に行って脳内でやりはじめてしまい、しばらくそれがつづいていたのだけれど、静止中はやっぱりもっとからだにフォーカスしたほうがいいからとここではいっとき意思を介入させて志向性をからだのほうに向けかえて、そうすると自動筆記は止まっていちおう肌を追うような感じになる。なにもしないことが瞑想の本義だとあらためて喝破したところだが、そのじぶんはいまなにもしていないという実感が静止中は意識のどこかしらにちいさくても常在していたほうがよい気がするというか、あるいはたびたびその実感にしぜんに立ちもどることになったほうがよい気がする。そのときに焦点になるのは、呼吸でもよいのだけれど、やはり脚とか下半身、床についている足の裏の感覚とか、椅子に接している尻とか腿裏の感覚とかをみると、じぶんはいまうごいていないな、行為をしていないなという実感がたしかにえられる気がする。


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 一〇時二二分くらいまで座っていた。そうして食事へ。洗濯機はまだガタガタいっており、さいごの数分の行程にはいっている。食べ物はとぼしい。揺れる洗濯機のうえにまな板を置いてキャベツを刻むほかはない。豆腐もない。ごま油&ガーリックのドレッシングをかけて、ハムを三枚乗せるだけ。そして即席の味噌汁とヨーグルト。ウェブを見つつ食べる。ふくらはぎをよくほぐしたので食後のからだの感覚はわるくない。すぐに皿も洗うし、まな板と包丁はキャベツを切り終えたあと、ケトルで湯を沸かしているあいだにさっさと洗っておいた。洗濯物を干す。このころにはもう曇っていたが干さないわけにもいかない。またきょうはひさしぶりに風がめっぽうつよい日で、窓のそとを精霊のうなりめいたひゅんひゅんいう響きがひっきりなしに通過していく。それでも干したあとは網戸にしており、それで寒くもなくてちょうどよいくらいなのだが、そとの道をあるいていく女児と母親の連れ合いも、風がつよくてどうのとはなしていた。白湯をあらたにつくってひととき音読。「ことば」ノートのみ。それで一一時半くらいになったはず。からだの感覚が良いのできょうはもう日記を書いてみることに。そこそこ行ける。きょうのことを綴り、しかし正午を越えてうえの瞑想時のことまで書いたあたりで、肩甲骨のあいだの背骨がひりつきはじめたので、無理せずいちど中断することにして、たたみあげていた布団をもとにもどし、シーツの縁をしたに入れこんで、出してあった枕や座布団もなかに回収して臥位となった。あしたひさしぶりに(……)くんの授業だし河合塾の英語長文700を読んでおかなければとおもいだしたので読む。さいしょからグローバリズムについてのやや抽象的な文章で、基礎的な概説にすぎないのだが、具体例とか具体的な手触りのある節がほぼ見当たらないので、(……)くんにはこれもむずかしかったのではないかとおもった。たいていの高校生にはだいぶむずかしいだろう。もっともこちらが休んでいたあいだに、塾の授業ではここはもう終えているのだが。しかしさかのぼってわからないことを聞かれることもままあり、むしろそうしてほしいので、一番の文章から順番にすべて読んでいく。起き上がってここまで書き足すといま一時過ぎ。きょうはきのう寄る気にならなかった書店に行ってソローキンなどを買おうかなとおもっているのだが、買い物もしなければならない。しかし(……)まであるいていってその帰りにスーパーに寄っていろいろ買うのはたいへんだから、いったんさきに近間のストアで買えるものは買いに行ってしまおうかなともおもっている。豆腐とか。漂白剤ももうのこりすくないし。洗濯物はもうそろそろ入れてしまうか。


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ジー×稲田豊史「ファストな文化は誰が作ったのか?稲田豊史と読む『ファスト教養』」(2022/11/11)(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/regista_inada/21947(https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/regista_inada/21947))

稲田 そういえば先日、公開している僕のメールアドレス宛てに、「早送りされて当然の作品を作ってる監督をなぜかばうのか」といった内容のお怒りメールが届きまして。1行目が「おい、稲田」だったんですけど。

ジー 『おい、小池!』みたいな(笑)。

稲田 指名手配犯扱いです(笑)。要は、その方にとって「無駄なシーン」なんて飛ばされて当然だという主張なんですが、そのシーンに込められた意味をその方が汲めなかっただけ、という可能性は考えもしない。ただただ「わからないものを作った奴が悪い」と苛立つ。もちろん、昔から「わからなかった、なんだこれ」という感想を持つ人はたくさんいましたが、それを世間に対して発信する方法は非常に少なかった。今はインターネット、SNSがあるので「わからなかった=つまらない」という声を広い範囲に向けて誰でも可視化することができる。その声が相応数集まれば“民意”となり、作り手側もわかりやすく作らなきゃという気分になっていく。

ジー たぶん「わからなかったと言うのが恥ずかしい時代」から、「自分がわからないものを発信するなんておかしいと感じる時代」になっちゃったんでしょうね。

稲田 社会に出る前の若者がそういうことを言うのはいいと思うんです。僕もそうでしたが(笑)、若い時分は全能感の塊だから、自分が興味のないこと、自分にとって価値を認められないものを「無価値だ」と断定しがち。広い世界や多様な価値観に触れていないので致し方ありません。でも今って、いい大人もそんな態度を取るじゃないですか。30歳、40歳を過ぎても自分が理解できないことがあるのを恥ずかしいとも思わず、むしろ「わかるように表現しないお前らが悪い」と食ってかかる。

そういう人たちが好むしぐさのひとつに、『ファスト教養』でも言及されていた「ハック」があると思うんですよ。正当な手続きを踏み、相応の時間をかけて学び理解するというプロセスを億劫がる。だから既存のシステムには乗らずハッキングする、つまり他人を出し抜くという考え方に至る。にしても「出し抜く」って相当なパワーワードですよね。昔ならアニメの悪役がやってたことですよ。

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稲田 現実問題として「ハック」しないとシンプルに損をするということは、仕事や生活で往々にしてあります。僕は個人事業主ですが、税金って本当に「知らない」と損をする。ただ言われたとおりに申告すると莫大な税金を払うことになるけど、ちょっと工夫するだけで節税できたりする。そういうことを公的機関は教えてくれない。

同じように、ビジネスの領域で効率や費用対効果や最短距離を求めるのはまったくもって正しいと思うんですよ。最小のアクションで最大の利益を生み出すのがビジネスですから。それは否定されるべきことじゃない。ただ、それがビジネスの領域を超えて文化にまで侵食してきていることに違和感があるんですよね。そのはしりが、2010年代からよく言われるようになった「ライフハック」礼賛の風潮だったような気がします。

ジー 本来「鑑賞」するものであるはずの文化やカルチャーについても、ビジネス的に向き合うみたいな態度が広がってきてる感じはありますよね。それこそコスパやタイパを意識するというか。

稲田 ある種の人にとって「倍速でも物語が理解できるのにわざわざ等倍速で観る」のは、「エクセルが計算した結果をわざわざ電卓で検算する」みたいな、意味のない前時代的な振る舞いと同じように見えてるんじゃないでしょうか。「時短できるのに、なんでわざわざ?」って。

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稲田 あと話しておきたいのは、よく言われる「ファストなものも“入り口”としてはいいんじゃないか」論ですね。たとえば歴史学習の入り口としてなら、中田敦彦さんのわかりやすい動画は悪くないんじゃないか、とか。

ジー 僕の本をちゃんと読んでくださった方からもそういう意見をいただくことはありますね。ただ僕の印象だと、入り口にはならないことの方が多いんじゃないかと思います。ファスト的なコンテンツって、「これを押さえれば、もうあなたはこのジャンルについていっぱしの語りができます」みたいな感じで、入り口のすぐ先に免許皆伝があるんですよね。

稲田 この10冊さえ読めばOK、的な。

ジー 本当に入り口になるならもちろんいいんですけど、どうも僕はその意見には同意しきれない。

稲田 良い入門コンテンツって、触れるとすぐ「次」にいきたくなるんですよね。本なら、「次に読むべき本はこれだ」というのが、読んでいるうちから自然とリストアップされる。映画も、すごい映画を観てしまうと必ずと言っていいほど同じ監督の別の作品も観たくなる。あるいは俳優の別の出演作を観たくなる。でもファストコンテンツは逆で、「そこから先はもう観なくていいよ」という語り口になってるように思います。「この10冊、この10本でOK。それ以上必要ない」というような。


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 この日はけっきょく書店に行くのはやめた。『親衛隊士の日』はたぶん会の日までに読み切れるだろうし、べつの日でいいやと。昼間にいちど近間のストアに買い物に出てそこで買える豆腐とかヨーグルトとかは買い、夜の八時だったかに散歩がてらスーパーにも行った。野菜がほしかったので。踏切りを越えて空き地のほうをまわり、迂回して店へ。ひろびろとした空がみたかったのだ。そのほか『パウル・ツェラン全詩集Ⅰ』を読みすすめたり、河合塾のやっておきたい英語長文700をけっこう読んだり。五課まで読んだ。同志社だの早稲田だの旭川医科大だのから取っているだけあって、さすがにそこそこ読みごたえのある英文がそろっている印象。夜は夕食後にからだが重くなってしまい、寝床にうつってそのうちに意識消失。いちど覚めたときに零時二六分だったのをおぼえているので、かなりはやくから意識をうしなったようだ。そのまま就寝したので寝がはやい。じっさいこの翌朝は六時にはもう起きた。いまその翌一四日月曜日の午後三時過ぎで、これから復帰後二回目の勤務に向かわねばならず、たしょうの緊張を身におぼえている。この日にかんしては外出路のことをあしたいこうに綴りたい。あと、「血糖値スパイク」について調べたりもした。(……)をみて、ドキュメントにほんのすこしだけコメントしたりも。


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 昼間、すぐそばのストアに行ったのは二時くらいだったとおもう。ブルゾンと青灰色のズボンで軽いリュックサックを背負ってそとへ。風がやたらとつよい日で、裏路地を行くあいだも正面からすばやい圧力が押し寄せてくるものの、だからといって寒くはない。公園の樹々はそれにかきまわされて音を吐いていた。こちらがあるいている道から見て向かい、敷地の反対側に何本かならんでいるこずえたちはもうなかば葉を落としてころもをうすくしながらも、赤みのつよいけれど艶はあまりない橙や、黄色や、渋めの緑を混淆させたすがたで立っており、振り揺らされるその三色はしかし曇り日のひかりの弱さと老いのすすみでいくらか濁りの印象をあたえ、小中学校の図工美術でつかうなかを四角くくぎられた筆洗の、何色か筆の絵の具を吸い落としたあとの濁り水をおもわせるようなくすみだったが、けれどそのなかにたしかになにがしかの調和をえている。園内の地面には葉っぱがいくらでも落っこちており、濁り水のこずえのしたで男性とまだちいさな男児と、親子らしいのがそれぞれ箒を持って掃き掃除をしていたのはこの日だったか? 行く道にも薄い褐色の葉っぱが端に寄っておおく散らばって、風が吹けばそれらがみじろいではこばれる音が立つ。右に折れておもてへ。出た歩道を左折。ここでも風はまっすぐに吹いてくる。道端にひとつ、植木鉢に植わったちいさなまるい黄色の花、マリーゴールドをおもわせるような見た目のものがあったが、低みに位置するその花も風にすくわれてふるふるとなっている。空はほぼ一面の曇天、路地から出るときには西にあたる正面にわずかばかり水色ののぞくほころびがあったもののあとはすべて白であり、また灰色や水っぽさの色、水気を吸った綿や布のような青みをふくまないでもない沈下色であり、白さのなかにあるかなしかの断層線もみえるがいずれ多重の雲で視線が空にいたらない。ストアの建物のかなたにはそうした陰気な白っぽさを背景に、直線をかたく編みあわせたすがたの小型電波塔が突き立って、そこから左右に数本の電線がなだらかな傾斜ではしっており、そんなところにそういう小塔があるのはこの日はじめて意識した。道路を渡ってストアの駐車場に踏み入り、はいってきた車を避けながら入り口まで行き、足踏みペダルでアルコールを手に出して消毒。はいると籠をもつ。日曜なので午後二時でも客はけっこうおり、入店時もレジには列ができていたし、じぶんが支払うときもちょっとならんだ。まわるとなんだかんだいろいろ買ってしまう。豆腐やヨーグルトやワイドハイターの詰替のほか、冷凍のスパゲッティに唐揚げとか。あとパンも。会計の列にならんで籠を床に置きつつ、リュックサックをいったん背からはずして財布を取り出してなかみを確認したり、ゆるいズボンを引き上げたりする。レジは三人態勢になっていた。まんなかの男性のところへ。ならんでいるあいだは緊張をおぼえなかったのに、支払いを終えてお釣りとレシートが出てくるのを待っているあいだに、立ち尽くして顔を上げて男性の顔やその手のあたりをながめていると、そこでなぜか緊張のうずきをかんじた。釣りとレシートを受け取って礼を言い、籠を持ってはなれる。整理台は入り口のすぐ脇にあるが、いちどにふたり、がんばって三人しかつかえないくらいの小規模なものである。いったん床に籠を置いてレシートを折ってポケットに入れたり、リュックサックに財布をもどしたりし、それから台にうつって荷物を整理。持ってきたビニール袋もつかう。そうして退出。駐車場をまた横切っていき、ふたたび道路をわたって、しかし入る口はさきほどのものより一本てまえ、角にキンカンの木が生えているところである。ここのキンカンは実家にあるものの記憶より、オレンジの照りがややつよい気がする。折れれば前方には父と男児の親子連れ、子どものほうがピカチュウの、ぬいぐるみなのか風船人形なのか、いずれにしてもかるそうなそれを左手にともなっており、先端をもっていたはずだが手か腕にくっついているかのような見た目だった。かれらはすぐそこの家の住人らしく、道のとちゅうで曲がって自宅にはいっていく。角まで来るとまた公園で、ふたたび濁り水のこずえが風に吹かれてしゃらしゃらなっているのを見ながら過ぎ、アパートに帰還した。


     *


 夜にももういちど外出。かっこうは昼間とおなじ。アパートを出て左へすすみ、さきほどは公園のところで折れたけれどこんどはまっすぐ路地を行く。さすがに昼間に比べれば空気は冷たいが、それでもあきらかに寒いとかんじるほどではなかった。公園のさきには福祉施設かなにか建設中の敷地があって、街灯のひかりを宿らせるつるつるとした白い壁にかこまれているが、そのあたりまで来ると路地の出口の向こう、南の遠く(と言って二区画ほどさきにすぎないのだが)に灯火をならべたおおきなマンションがあらわれて、夜のこのすがたもひさしぶりに見るなとおもった。黄色っぽい灯とはっきりした白とぼやけた白と、三色で整然と列がおりなされている。路地を出た目のまえは車道で、青と赤の信号灯が夜につつまれた空間のなか、宙にしずかに浮かんでいるが、まえにかんじたような静寂のつよさ、日常のなかにひととき忍びこむ一種の聖性のひろがりのような感じはきょうはなく、世俗的な生活空間の延長としての変哲のない道である。時間がまだそこまで遅くないから、夜闇が薄かったのかもしれない。マンションの灯を見やりながら出た歩道を右に曲がり、西方面へ。夜が薄く聖化されていないと言っても、車や通行人がいなければ歩道も車道もずいぶんひろびろと見え、しずけさは満ちており、足もとにはヒトデのようなかたちの、辛子色にくすんで乾いた大きめの葉っぱが落ちている。そのもとである街路樹のこずえはそばから電灯をあてられて、黄色と薄緑を混ぜた葉っぱたちがひかりをかこむ籠のように浮かび上がっている。まっすぐ歩道をすすんでストアやコンビニのまえを過ぎたさきにはお好み焼き屋があるが、夜にここをとおるといつも香ばしくてうまそうなにおいがする。踏切りを越えて空き地のすこしまえには中華料理屋があり、日曜日の夜ということで店をおとずれていたらしい家族連れのこどもがそのへんをぴょんぴょんうろついていたり、店のまえに立つ若い男らの笑声が聞こえたりする。草っ原のほうまで来たのはそのうえにひろがる巨大で開放的な空を見たかったからで、雲の多い夜であり、秩序なく不規則なかたちではびこっているその色が、青みをはらんだ地との対照でよく見て取られ、茂みの空き地から駅前のマンションや病院まであたり一帯を覆って見下ろす夜空のひろがりは圧倒的だが、雲はところによってぶつぶつとした、疱瘡めいた鱗状の段をつくって伸びているいっぽう、その延長が分かれて細りながらとぎれたあたり、暗んだ青さが雲に差し入りながらひらいているさまは隈取りのようで、こんどは雲が皮膚となるのではなく、そこからのがれた深青のほうが巨大なひとつの顔貌と映る。青さの一角、雲との境付近に、赤みをわずかに帯びた星がひとつ、明瞭だった。そうしたさまを見上げ見上げ空き地の縁をまわるように、病院手前で裏に折れてそこから来たほうに引き返し、さきほどよりも駅にちかい位置の踏切りを越えると、まだ飯屋のまえにひとがいたり、魚料理を出す店のなかが談笑的だったりする。最寄り駅を過ぎてマンションと寺にはさまれた暗い道を行きながら、その日の空と雲のあんばいで、またそれを大小どう切り取るかによって、無数の顔が天にふくまれているのだろうとおもった。顔ばかりでない。にんげんがあるかたちをべつのかたちと比較し、あるものとべつのものとの差異と類似を理解する脳を手に入れていらい、つまりメタファーの原理が人類の意識に生じていらい、古代からひとびとはあらゆるものを空に見出してきたにちがいない。空はすべての比喩を受け入れる。サン=テグジュペリが『星の王子様』の冒頭で、おおきな山高帽のような雲をれいにとりあげて、おとなはこれを帽子としかみないけれど、子どもの目には獲物を丸呑みにしてふくれた巨大な蛇とみえる、そういうはなしをしていなかったか? とおもいだしたころにはすでに表通りを行ってスーパーが目前だったが、あれは雲ではなくてたんにそういうかたちの絵だったかもしれず、それを雲とむすびつけたのはこちらじしんの経験から、つまり過去に似たような雲をみてあの物語をおもいだしたことがあったからかもしれない、とも直後におもった。
 スーパーの店内で特段の記憶はないが、買ったのはまた鍋スープだったり(濃厚味噌と鶏白湯)、具とする野菜だったり、パックの米だったりうどんだったり。帰路は裏路地にはいってまもなく家並みの向こうに濃い黄色をみて、あれは月ではないか、ほぼ満月ではないかとその後もさがしたのだが、まだ出たばかりでかなり低いらしく、つねに家々にはばまれて一向にすがたをあらわすことがなく、ちょっと見えたとおもったら一瞬だけですぐまたかくれてしまう。アパートそばの公園まで来ても同様で、方角はわずかに北寄りの東側、道の折れ目の口から黒いこずえの枝のすきまにあるなと見たところが、そのこずえから離れると同時に家の裏にそのまま入る。すこし橙が混ざったような、味の濃いバターのような色だった。


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  • 「ことば」: 31, 9, 24, 21 - 25
  • 「読みかえし2」: 470 - 473
  • 日記読み: 2021/11/13, Sat. / 2014/4/3, Thu.


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Christine Kearney, Martin Belam and Samantha Lock, “Russia-Ukraine war at a glance: what we know on day 262 of the invasion”(2022/11/12, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/12/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-262-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/12/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-262-of-the-invasion))

Russia’s deputy foreign minster, Sergei Vershinin, has been quoted by state news agency Tass as saying talks with UN officials had been useful and detailed but the issue of renewing the Black Sea grain export deal – which expires in one week – had yet to be resolved. Vershinin was quoted as saying that restoring access to the Swift payments system for the agricultural lender Rosselkhozbank was a key issue.

Turkey is committed to seeking a peace dialogue between Russia and Ukraine, President Recep Tayyip Erdoğan said on Saturday, according to Turkish media. “We are working on how to create a peace corridor here, like we had the grain corridor,” Erdoğan was quoted as telling reporters on a flight from Uzbekistan. The president said he would not be proposing a specific timeframe for any extension of the grain corridor deal – which expires at the end of next week – but said he wants it to run “as long as possible”.

The Russian state-owned news agency Tass is reporting that Russia has banned the passage of ships loaded outside the Russian Federation through the Kerch Strait to the Sea of Azov. Tass cited the ministry of transport in Turkey for the information.

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Ukraine is building a wall at its northern border with neighbour Belarus, a key ally of Russian president Vladimir Putin. The concrete wall is already 3km long.


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Damian Carrington, Paul Torpey and Paul Scruton, “The climate crisis explained in 10 charts”(2022/11/4, Fri.)(https://www.theguardian.com/environment/2022/nov/04/the-climate-crisis-explained-in-10-charts(https://www.theguardian.com/environment/2022/nov/04/the-climate-crisis-explained-in-10-charts))

Charlotte Graham-McLay in Wellington, “New Zealand revamps deradicalisation program as anti-authority terror threat rises”(2022/11/4, Fri.)(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/04/new-zealand-revamps-deradicalisation-program-as-anti-authority-terror-threat-rises(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/04/new-zealand-revamps-deradicalisation-program-as-anti-authority-terror-threat-rises))

Chris McGreal in Milwaukee, “How Republicans’ racist attack ads wiped out Democrat’s lead in Wisconsin”(2022/11/4, Fri.)(https://www.theguardian.com/us-news/2022/nov/04/wisconsin-republicans-racist-attack-ads-democrat-mandela-barnes(https://www.theguardian.com/us-news/2022/nov/04/wisconsin-republicans-racist-attack-ads-democrat-mandela-barnes))