2022/11/24, Thu.

 哀れな、哀れな最愛のひと、ぼくが愚かしく書きなぐっているこの惨めな長編小説を、どうか読まなくちゃならないなどと感じないでください。小説がその姿をどんなに変えることができるか、恐しいくらいです。重荷が車の上に載っておれば(なんという弾みでぼくは書いていくことか! インクのしみがなんと飛び散ることか!)、ぼくは上機嫌で、鞭のうなりに有頂天となり、殿様然としています。しかし重荷が昨日、今日のように車から落っこちると(それは予見もできず、防ぐこともできず、黙秘することもできません)、ぼくの貧弱な肩にとってその荷は法外に重く感じられ、そうするとすべてを投げ出して、その場にすぐ墓穴を掘りたくて仕方がなくなります。結局のところ、自分の小説よりもすばらしい、完全な絶望によりふさわしい死場所はありえないのです。(……)
 (マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、208; 一九一三年一月五日から六日)




 九時過ぎに身を起こしてカーテンをひらくことができた。ゆめをいくつか、けっこうたくさんの種類みたのだが、もうおぼえていない。しかし覚醒後のひとときとはいえ、ゆめの感触がのこっていることじたいがひさしぶりだった。天気は晴れ。開けたカーテンのむこうにみえる空は雲なく青く、窓ガラス上には結露がいくらかできている。Chromebookを持ってウェブを見たりしつつ、腰を寝床にこすりつけてやわらげる。一年前の日記は往路をよく書いている。またこういうふうに書きたいが、なかなかできない。

(……)そうして三時一〇分ごろに出発。近間の路上に日なたはもうないけれど、澄明さそのものである淡い青空に真っ赤に焼けたカエデのこずえがきわだって、くっきり印された赤のかたまりから垂れさがった葉っぱの下端はあるかなしかのながれにゆらいで水色にかこまれながらちらちらしている。見上げれば林の上方、なだれる竹の葉の緑にはまだひかりもとどいており、坂道の入り口あたりにも金色がすべりこんでいた。川のそばに立っているイチョウの木はみごとに東側だけ葉を散らして色をはんぶん剝がされており、肉がだんだん風化して消えていきつつあるむくろのようだった。川水の色も緑の濃さはなくなってもはや鈍い。

坂道をのぼりきって街道にむかえばその先にある北の丘の樹々が色変わりしていて、毎年おなじイメージをえるけれど、色つきの砂をまぶして彩色したような、子どものあそびどうぐとしてあざやかな砂で絵を描くものがあるとおもうけれど、そういう質感にかわいて赤や黄を帯びており、その赤さはしかしほんとうは赤とも橙とも直言しがたいような微妙な色あいで、弱くおだやかな赤褐色というところだった。(……)さんの家のまえをすぎればカーブの角付近にススキが群れているそれもみんな穂をゆたかに生長させて、さきがややカールしている洒落ものたちがこぞって道へと張り出しており、なかには足もと低くから生え出てしどけないように路上に伏しているものもある。曲がっておもてにむかうあゆみの脇には斜面のしたから杉の木が伸び上がっているが、その葉は西の陽をあびてずいぶん鮮明な緑につやめいていた。合流点のそばの家にも真紅に染まった木がいっぽんあって、ふつうにあるいてまわりを見ているだけで緑やら赤やら空の青やらどれもくっきり対照しているこの晩秋、こんなに色めいてちゃどうも参るなとおもった。

とちゅうで通りをわたり、裏路地へ。眼鏡をかけているとやはり目のまわりやひたいあたりに負担がかかるような気がするけれど、サザンカの葉のひとつひとつやそこに付されたピンクの花や、丘のほうの樹々のすがたなど、格段に明晰に映るのでそのほうがむろんおもしろい。道に沿ってある家々の庭木の葉の色と粒立ちを見ているだけでわりと充足するようなかんじがあった。空は青のみ、雲は家並みのあいだにときおりひらく南の低みにモールス信号めいてみじかくほそく浮かぶのがひとつ、まっすぐ頭上や北側は、目から飲めるようなという比喩がにつかわしい、無償の青きみずみずしさにみちていて、路上にとおるひとや車もたまにあるしカラスも鳴いてうごきがないわけではないのだけれど、あたりはしずけさと停止の感覚におだやかで、『灯台へ』に書きつけられたウルフのことばを借りるならば、人生がつかの間ここに立ち止まったかのようなみちゆきだった。すこし土手っぽくもりあがったうえをとおる線路のむこうでは林縁から丘のうえまでくすんだ緑がひろがって埋めているが、葉群のおりなしが密なために樹々が遠近に分かれていてもおなじ面でとなりにあるようにしか見えず、奥行きの差をうしなった緑の壁がただざらつきばかりを目につたえてくる。そのうちに男子高校生ふたりの声がうしろから聞こえてきた。いっぽうがたほうに、あしただかアルバイトの面接を受けるというようなはなしをしており、だれもぜんぜん知らないとこならさいあくいつでもやめられるじゃん、いきなりいなくなってもさ、関係ないひとたちだし、とバックレを肯定しつつ、すでにひとつはたらいているのかあるいは過去のことなのか、あそこのバイトはだれだれの紹介で、だれだれのきょうだいもいたし、知り合いがけっこういたからさ、やめらんないよね、しごとぜんぜんつまんないんだけど、みたいなことを言っていた。白猫はくだんの家にいたが、敷地と道路のさかいから奥のほう、家の戸口ちかくにある台のうえに乗っていて遠かったのでかまわず過ぎる。上体を伏せて尻のあたりを持ち上げるという、前方後円墳もしくはひょうたん島的なかたちを白いからだでつくっていた。

とおりすがりに目にする樹々の葉のどれもひかりをかけられて妙にあざやかで、もうほとんど冬にはいりかけている時季なのにと不思議なくらいで、熱と湿気をはらんで水っぽくぎらぎらした夏の色のつよさではなく、かわきながらも密に充実した表面だった。(……)

 (……)さんのブログからおもしろいと言って引いている松本卓也の解説はこんかい読んでもまたおもしろかった。

 このような分析の終結のモデルは、ジェイムズ・ジョイスによって与えられている。ラカンによれば、ジョイス精神分析を実践することなしに、「精神分析終結に期待できる最良のものに直接到達した」(AE11)。というのは、特に『フィネガンズ・ウェイク』に顕著なように、ジョイスの実験的な作品はもはやその意味を理解することや翻訳することが誰にも不可能であり、むしろその作品からは「それを書いた人物の享楽が呈示されていることが感じ取れる」からである(S23, 165)。つまり、ジョイスの作品は、作品の意味を呈示しているのではなく、作者であるジョイスの特異的=単独的な享楽のモードを呈示していると考えられるのである。ここで表現されている特異的=単独的な享楽は、他の誰の享楽とも共約することができない自閉的な享楽であるが、それでも私たちはジョイスの作品を読むことによって、そこに普遍的な文学と呼びうるものを発見しうる。分析の終結においては、このような享楽のあり方、治癒不可能性の肯定化が実現されるとラカンは考えたのである(…)。
 反対に、論文「抵抗」のなかではっきりと述べられているように、デリダにとって分析はつねに終わりなき分析である(Derrida, 1996b, p.49/66頁)。ラカンが述べるような、各主体のそれぞれにおいて異なる絶対的差異(S1)や、症状における特異的=単独的な享楽のモードは、象徴的な知の水準における形式化を免れてはいるものの、それでもひとつの起源を設定する思考であるとデリダなら批判するであろう。そう、デリダが分析に終わりがないと言うのは、「分割不可能な元素や単純な起源などというものはない」と彼が考えるからである(Ibid., p.48/64頁)。デリダは、このような分析の終わりのなさを、症状における「痕跡」というフロイトの――そしてデリダ自身の――概念に見出している。フロイトは、抑圧された表象の痕跡に対してヒステリー者の注意を向けさせようとしたときに、そこに抵抗を感じとっていた。この抵抗は、症状を生み出す原動力であるとともに、その症状を除去しようとする分析の作業にとっての抵抗にもなる。それゆえ、痕跡は分析不可能なままに残りつづけることになる(Ibid., p.45/59頁)。終わりなき分析が要請されるのはそのためである。
 先に晩年のラカンの理論を確認してきた私たちにとって、ここでデリダが述べている事柄に、症状がもつ象徴的/現実的な側面という二分法が現れていることに気づくことは容易である。症状の象徴的な側面を取り扱うだけでは、分析は終結にいたらない。この点は、ラカンデリダの両者がともに同意するところである。ラカンデリダの相違点は、前者が症状の現実的な側面に主体の特異性=単独性を見出し、それを分析の終結の積極的な条件と考えるのに対して、後者が症状の分析において不可避的に出会われる抵抗と、その抵抗を生み出す痕跡を分析の終結不可能性の理由と考えることにある。
 このように、分析の終結をめぐる両者の違いは明らかである。しかし、驚くべきことに、分析家の共同体や、来るべき精神分析のことを考えるとき、ラカンデリダの意見はふたたび共鳴しはじめる。
 ラカンにとって、分析主体が自らに特異的=単独的な享楽のモードに対してうまくやっていくことができるようになったとき、分析は終結する。そして、このまったく特異的=単独的な分析経験が、その分析主体が所属する分析家の共同体のなかで共有できるものであるかどうかを確認する装置が、「パス」と呼ばれるラカン派の装置である。言い換えれば、パスにおいては、そもそも定義上、他者へと伝達することができず、それまで普遍的なものとされてきた分析理論から外れるものであるはずの特異的=単独的な分析経験が、分析家の共同体のなかであらたな普遍として伝達されることができるかどうかが問われているのである。この仕組みは、分析家の共同体のなかで、精神分析というものがつねに新たなものへと変化していくことを可能にするために設けられている。つまり、ラカン派の分析家の共同体とは、ラカンの理論に杓子定規に従いながら精神分析を行う分析家の集団なのではなく、ラカンのつくったパスという装置にしたがって精神分析をたえず書き換えていく集団なのである。あえてデリダ的な言い方をすれば、パスとは、他なるもの(特異性=単独性)を迎え入れることによって、分析家の共同体や精神分析そのものを異なるものへと変化させうるという意味で、ひとつの歓待の原理なのである。ラカン派において分析の「終わりなさ」が存在するとすれば、それは各個人の分析経験のなかに存在するのではなく、むしろ分析家の共同体における精神分析の不断の書き換え、すなわち来るべき精神分析の到来を待ち望む、精神分析永久革命にこそ存在すると言えるだろう。
 では、デリダにとって分析家の共同体とはどんなものでありうるだろうか。デリダの読解によれば、精神分析における「抵抗」の概念は、統一的な意味をもたない。それゆえ、精神分析は抵抗という概念のもとにひとつのまとまった統一体をつくることができない。しかし、この不可能性は、精神分析にとって悲劇ではなく、チャンスでもある。デリダは次のように述べる。

分析への抵抗の概念が……統一されえないということが事実だとすれば、その場合には、分析概念も、精神分析的な分析概念も、精神分析という概念そのものも、同じ運命をたどることになるだろう。……精神分析が一つの概念ないし一つの使命のうちに結集されることはけっしてないだろう。抵抗が単一でなければ、単数定冠詞付きの精神分析――ここではそれを、理論的規範のシステムとして、あるいは制度的実践の憲章として理解していただきたい――もないのである。/事情がこのようであるとしても、この状況は必ずしも挫折を意味しない。成功のチャンスもまたそこにあるのであり、芝居じみた嘆き方をするには及ばない。(Derrida, 1996b, p.34/44頁)

 デリダにとって、抵抗が分析の終わりのなさとして残りつづけるかぎり、精神分析は――立木康介(2009)の優れた表現を借用するならば――「抵抗の関数」として存在することになる。それゆえ、さまざまな抵抗の数だけ、精神分析は複数的に存在することになるだろう。つまり精神分析は、抵抗の概念とともに、つねに他なるものへと開かれているのである。ここに、来るべき精神分析が到来する可能性が確保される。
 いまや私たちは、ラカンデリダの相違点をより明確に把握することができる。一方では、ラカンはそれぞれの分析主体の分析経験という個人のレベルと、「精神分析なるもの」を定義づける分析家の共同体のレベルを峻別している。そのため、個人のレベルにおける特異性=単独性が、共同体のレベルにおけるあらたな普遍性として伝達されうるかどうかが問題となる。他方では、デリダは個々の分析経験における抵抗の複数性を「精神分析なるもの」の複数性へとダイレクトに接続してしまう。ここでデリダが「抵抗」と呼んでいるものが、痕跡が差異を含んだ反復によって他なるものの到来を可能にするという意味でのデリダ的な特異性=単独性の思考と肉薄していることを考慮に入れるなら、両者の最終的な相違点は、やはり特異性=単独性という概念の取り扱いにあると考えることができるだろう。
 (松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』 p.424-428)

 その他Guardianでウクライナの報と、Kanye WestKanye Westのはこの記事(https://www.theguardian.com/music/2022/nov/23/kanye-west-explicit-photos-adidas-ye-employees(https://www.theguardian.com/music/2022/nov/23/kanye-west-explicit-photos-adidas-ye-employees))だが、デザイナーとしてブランドパートナーにむかえられていたAdidasの社員たちに、前妻Kim Kardashianの”explicit”な写真をみせていたり、じぶんの”sex tapes”を聞かせたりしていたというはなしで、かんぜんにただの軽蔑すべきクソ野郎なふるまいを取っていたようだ。Rolling Stoneが報道したと。Adidasの経営陣にむけた”The Truth About Yeezy: A Call to Action for Adidas Leadership”というオープン・レターも証言者である従業員たちから出されているという。〈The letter urged Adidas board members and senior leaders to address “the toxic and chaotic environment that Kanye West created” and “a very sick pattern of predacious behavior toward women”.〉と。
 寝床からはなれるとリセッシュを撒いて、座布団や枕は窓のそとへ。布団はたたんでおき、洗濯もさっそく。その他水を飲んだり用を足したりして、からだをちょっとうごかしてから、一一時八分より瞑想。目をあけるとちょうど一一時三〇分なので二二分。布団のなかにいるあいだから手指のストレッチをしておいたが、手をほぐすのはやはりよさそうな感じ。打鍵もしやすくなるし。あと二分で洗濯が終わるところだったので待ち、干しにかかる。座布団を出したり布団をたたんだりしたのはこのときだったかもしれない。洗ったのはタオルや肌着一セットにジャージでそう多くはない。いつもまず円形ハンガーにつけられるもの、タオルや、タオルの数がすくなくて余地があればパンツや、それに靴下をとりつけていちばんさいしょに出す。吊るすのは棒のうえではなく、壁から出ておりその棒がとおっている支え具みたいなものの穴にである。陽射しは時間を追うにつれて左(つまり南)のほうに逃げていくので、すこしでも洗濯物を左にあつめられるようスペースを確保しているのだ。それから肌着のシャツを吊るしたが、きょうもこのとき右から左へと吹く風に布がとらえられて、横にかたむいて泳ぐうごきの圧力が手につたわってきた。洗濯物を干し終えると食事へ。もうレトルトカレーしか食うものがない。それなのでそのキーマカレーを鍋であたためる。あときのう実家からもらってきたジャガイモ(小粒のやつをソテーしたようなもの)もあったので、それも。鍋が沸騰してころあいになるとパック米をレンジで熱し、ぜんぶ一皿にあつめようというわけで木製皿にジャガイモを載せ、あたたまった米を皿にあけるまえにジャガイモを加熱。そうして米をそのわきに乗せてスプーンでちょっとほぐし、レトルトパウチを湯のなかから救出して開封すると米にかけた。椅子についてウェブをみながら食事。食後はロラゼパム一錠を飲んでおき、皿を洗ったあとにヨーグルトも食べようとおもっていたところがわすれた。白湯をつくってひきつづきウェブをみつつ手をほぐしたり、とちゅうで立ってちょっと体操したり、便意が来たのでクソを垂れたり。歯磨きもした。そうしてさきほど二時からきょうのことを書き出して、これで二時二四分。天気はおもったよりは快晴にいたらない。米にカレーをかけているときなどはレースのカーテンがひかりをよく吸って、そのむこうで洗濯物たちがけっこうおおきく揺らされているのが透けて映っていたが、雲混じりのよわいあかるみに落ちることもおおく、いまもそうなっている。さくばんやっと日記を書く態勢になったぞ、一九日を終わらせようとおもったところがやはりとちゅうでちからつきてそのままねむってしまったので、きょうは一九日を終わらせ、その後もできるだけすすめたい。しかしまた買い物にも行かなければならない。


     *


 いま午後一一時四五分。日付替わりがちかい。きょうはひさしぶりに日記をけっこうたくさん綴ることができた。一九日から二二日まで。そのうち二〇日と二二日はもう書いてあった分で済ませたが、一九日は職場の会議のこと、二一日は通話時のことと勤務時のことと、それぞれ公開はできないものの分量としてはそこそこ書いている。よろしい。やはり手をほぐすのはよさそう。手指のストレッチだけでなく、手首からプラプラ振る運動もおりおりやっているのだけれど、そうすると指とか手のひらの骨だかすじとかもちろん手首のすじとかがよくほぐれて、また手を振るのにともなって肩とか背中のほうまでその振動が波及するから上体が全体的にほぐれるような感じになり、からだがかなりあたたまる。そうして手があたたまってじんわりと熱を持つとなにかきもちよく、心身としてもおちつくところがある。きのうの電車内でもそうで、きのうは行き帰りともceroで耳をふさぎながら目を閉じていると、ちょっとねむくなるくらいで、ここさいきんはとんとなかったレベルのリラックス状態がおとずれたのだった。もっとも帰路、(……)に着いて乗り換えたあとは緊張もしくは予期不安があったけれど、発車してからそれがおもいのほかにたいしたことなくおさまったのも、実家にいるあいだも適宜ストレッチをして手指をほぐしておいたことの効果がもしかしたらあったのかもしれない。いずれにしてもともかく打鍵は非常にしやすい。たんにゆびがよくうごくというだけでなく、あたまのほうにも血が行くのか、文章じたいもだいぶすらすらと書ける。ただあまり血をめぐらせすぎると飯を食ったあとなど胸の鼓動の響きがからだにたいしてややきつくなって、ちょっと苦しいような感じもしてくるが。消化がある程度すすむとそうなるのかもしれない。さきほど九時ごろだったかに日記を書いているとちゅうにからだがそのように昂進的になってきたので、そのときは寝床にうつって臥位を取り、目をつぶってちょっと休んだり、ソローキンを読んだりしていた(松下隆志訳『親衛隊士の日』河出文庫、二〇二二年)。ソローキンは200を越えてそろそろ終盤。やはりじぶんにとってビビッとくる点とか、よいにせよわるいにせよ目立った評価ポイントとか、これはなんだろうという困惑とか、たんじゅんなおもしろみとかを見出せていないのだよな。いろいろギミックがあったり、話者やそのなかまであるオプリーチニク(親衛隊士)が隠語的な独特なことばづかいをおりおり混ぜていたりとか、皇帝制が復活したロシア国家の設定とかが細部で凝っていたりとか、そういうおもしろさはすこしあるのだけれど、それは要するにしょせんはリアリズム的なおもしろさであって、ここでいうリアリズムは現実を的確にうつしとっているという意味ではなくて、表象によって構成される世界(とイメージされるものもしくは仮想的領域)の秩序がしかるべくととのっているという意味だけれど、だからそれはどちらかといえばことばの問題ではない。べつに小説がことばの問題でのみなければならないとはおもっていないのだが、そうはいっても、この小説にたいしては、残虐なことが書かれていたり、滑稽なことが書かれていたり、ときには(物語の内容としては)過剰なことが書かれていたり、残虐さのなかにもなにがしか滑稽味が感じられたりもして、そういうところはふつうにおもしろく読めるといえば読めるものの、総じてあまりピンとこないし、個人的なうまい受容のしかたを見出せないとともに、この小説のおそらく社会的意義とされるような側面、ロシア国家の来たるべき現実をえがいたみたいなはなしは、むろん理解はできるのだけれど、やはりピンとこないというのがしょうじきなところだ。この小説が仮に(結果的に)「皇帝化するプーチンを予言した」(というのは帯の文句だが)というのが真実とみなされるとして、だからなんなのかと。原著は二〇〇六年に書かれたらしく、プーチン政権下でこれが出版できたというのはひとつすごいことなのだろうが。しかしべつに、たとえば作中の皇帝とプーチンがなぞらえられているような記述や要素は、作中にはふくまれていないのではないか(作者の意図としてはもちろんそういうことがあったかもしれず、また、そういう記述をふくんでいたらむしろ出版できなかったかもしれないが)。あと、作中には天眼女プラスコーヴィヤという予言者的な人物が出てくるのだけれど、そのセリフが「雄々しき益荒男ミハイルの心と麗しの乙女タチヤーナの心は千代に八千代にくつくつくっつくつくつくぼうし。くつくつくっつくつくつくぼうし。(……)」(162)などというもので、これ原文どうなってんねんというのはおもしろかった。翻訳はけっこうそういうところで難儀したとおもわれ、工夫を凝らしたのだろうなという気配が感じられる箇所ははしばしに見出され、よいしごとになっている感はある。


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  • 日記読み: 2021/11/24, Wed.


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Helen Sullivan, “Russia-Ukraine war at a glance: what we know on day 274 of the invasion”(2022/11/24, Thu.)(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/24/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-274-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/24/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-274-of-the-invasion))

A Russian court on Wednesday extended by six months the detention of opposition politician Ilya Yashin, who risks being jailed for 10 years for denouncing president Vladimir Putin’s assault on Ukraine. The 39-year-old Moscow city councillor is in the dock as part of an unprecedented crackdown on dissent in Russia, with most opposition activists either in jail or in exile. He faces up to 10 years behind bars, if convicted.


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Edward Helmore, “Kanye West reportedly showed explicit photos to employees at Adidas”(2022/11/23, Wed.)(https://www.theguardian.com/music/2022/nov/23/kanye-west-explicit-photos-adidas-ye-employees(https://www.theguardian.com/music/2022/nov/23/kanye-west-explicit-photos-adidas-ye-employees))

Timothy Garton Ash, “The best path to peace is not talks with Putin, but helping Ukraine to win this war”(2022/11/23, Wed.)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/nov/23/peace-talks-putin-helping-ukraine-win-war-kremlin(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/nov/23/peace-talks-putin-helping-ukraine-win-war-kremlin))