ぼくの義弟についてまた書きます、マックスについても、レーヴィについても。なにについて書くかは結局ぼくにはどうでもいいことなので、ただ一語一語でもってあなたに、最愛のひと、かかわりをもつと思えることにだけ価値があるのです。(……)
(マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、227; 一九一三年一月一五日から一六日)
目覚めてから深呼吸。万歳したり、足裏を合わせたりといろいろ姿勢を変えつつ。保育園は活気づいている。カーテンの上端からもれでている外気のいろは白く、そうひろくはなく、晴れの日のはやい時間か曇天か見分けづらかったが、園児や保護者が続々とあつまっていることからして曇り日らしかった。気温も低いように感じられる。身を起こしてカーテンをひらくとやはり真っ白い空で、時刻は九時半前。Chromebookでウェブをしばらく見てから一〇時ちょうどに起床した。水を飲み、トイレに行って排便するとともに洗顔。出ると手首をぶらぶら振ったり、椅子について首をゴロゴロやったり、あと布団にリセッシュを吹いてたたんでおいたりして、一〇時半くらいから瞑想。きょうはまた無動式にもどる。深呼吸は起きたときに布団のなかでやってしまうのがいちばん手っ取り早くて良い気がする。座ってとまっていたのは二〇分弱。良い感じではある。リラックス感はある。そうして椅子を立つと背伸びしたり腕を伸ばしたり、屈伸したりしてから水切りケースのなかをかたづけて食事へ。キャベツがもうないので(先日買ったのは安くなっていた品で、ふだん買うものよりすこし小さな玉だったので)、白菜をざく切りして分割した豆腐を乗せる。胡麻ドレッシング。その他インスタントの味噌汁に、パック米と冷凍の唐揚げ。ウェブを見つつ食事。「偽日記」や(……)さんのブログなど。「ドーハの悲劇」のはなしなどおもしろい。ものを食べ終えると大根おろしをサラダの皿に少量つくってドレッシングの残滓とともに吸いこみ、ヤクを一錠飲んで皿洗い。ヨーグルトも食す。いつも味噌を溶かすのにつかう湯のあまりでマグカップのなかには白湯がはいっている。それをちびちび飲みつつNotionを用意したり。歯も磨き、きょうはたぶん(……)くんの授業があるとおもうので(金曜日に振替分もやると聞いていたが、それがきょうのをずらしたのかべつの日のものなのかがわからない)、(……)大の過去問をちょっと読む。一時ごろになるとシャワーを浴びた。きのうでかけたし、洗濯物がけっこう溜まっているがこの曇天では洗ってもしかたがない。あしたが晴れるのかどうかそれも知らない。湯浴みからもどるときょうのことを書き出してここまでだが、けっこうリラックスしている感はあったのに、やはり打鍵をはじめると身内がみだれて緊張とうずきのような感覚が生まれ、肩とかも重くなる。なにが原因なのか。腕や指や手首の位置関係なのか。精神的なものがかかわっているのか。ともあれきょうは労働もあるし、無理せずこれいじょう書くのはひかえたほうがよいだろう。回復はまだまだぜんぜんだなとおもう。はやく違和感なく書けるようになりたいものだ。
*
- この日のことであと書いておきたいのは(……)さんのことくらい。箇条書きを再開するという件については、来たる一二月六日火曜日の記事を参照せよ。(……)かのじょはそのへん、少数精鋭タイプなのだ。はなしていても、すごく暗いわけではないが、ひととつつがなく談笑するのは得意ではなさそうだし、こちらがなにか質問をしても、え? とか困ったり、こちらの問いをくりかえしたりして、すぐにぱっとかんがえてこたえがかえってくるわけではない。だからいかにも女子高生的なノリにはたぶんついていけないのだろう。じぶんはそういうところであいてのペースに合わせて発言を待ったり、もうすこしこたえやすい質問をかさねたりすることができるから、そのへんがかのじょに合ったのだとおもう。まえにアンケートで、じぶんに合う先生としてこちらの名を挙げてくれており、そこに理由として、ゆっくりしゃべってくれるのでわかりやすいということばが書かれてあった。こちらはとくに意識してゆっくりはなしていたつもりはないが、生徒が説明を理解しているのかとか、こちらのひとつひとつの発言にたいしてどういうようすを見せているかとか、そういったことを確認しながらじぶんのことばやふるまいを調節するというのは意識するまでもなくふつうにやっているわけで、その点、(……)さんにはうまく合わせられていたようだ。こういったことが真なる意味でのコミュニケーション能力というものだろう。おもしろいはなしができるかとか、うまいことが言えるかとか、あいてを誘導することができるかとか、じぶんの主張をとおすことができるかとか、そんなことではない(それらのちからもときには必要だが)。コミュニケーション能力とは、観察と同期と尊重のわざである。あいてを置き去りに、置いてけぼりにしてはならない。とりわけ一対一で、対面で生徒とやりとりを交わすこちらのようなしごとでは。しかしそのあたり、新人の講師などはとうぜんながらやはりなかなかうまくはやれないだろうし、うえのようなことを自覚的にかんがえたりもあまりしないだろう。ありがちなのは、ここまでやらなきゃとか、授業内でなにかしらたしかにおしえなきゃとかいう焦燥から、早口で説明をしてしまい、生徒が腑に落ちていないままになってしまうという事態である。それは駄目である。それはこちらの都合でうごいているにすぎない。生徒のペースをつかまないと。こういったこと、つまり生徒を置き去りにしていないかということを、新人講師ほかにどこかではなして意識してもらうのもひとつ必要だろう。
―――――
- 「ことば」: 31, 9, 24