(……)今朝、起床前非常に不安な眠りのあと、ぼくはたいへん悲しく、悲しさのあまり窓から身を投げるというのではないけれど(それはぼくの悲しさにとってまだ元気がよすぎることだったでしょう)自分をちびちびとこぼし出してしまいたいくらいでした。
(マックス・ブロート編集/城山良彦訳『決定版カフカ全集 10 フェリーツェへの手紙(Ⅰ)』(新潮社、一九九二年)、236; 〔労働者災害保険局用箋〕一九一三年一月二一日午後二時半)
いま午後四時五分。覚醒は一〇時ごろで、離床したのは一一時半ちょうど。布団のなかであいまいに覚めて手や腕をさすったりしているあいだ、園児たちがいくらかそとに出てきていることからして、九時台かなとおしはかっていたがそのとおり。その時間で天井にもれているのがこのあかるみではきょうもきのうとおなじ曇天だろうと、天気の予想も当たりである。保育園では子どものひとりが泣いており、靴下履いて、靴下履いてください、という保育士のもとめになかなかこたえないでいたようだ。それでなんとかかんとか言い聞かせるような、怒るまで行かずおだやかな声だがちょっと叱るような説得の響きもあった。そのいっぽうでたぶん園庭にいるのか、べつの女児がたのしそうにきゃーきゃーさわいでいるのも泣き声のあいまにはいってきて、泣いている子へのそのまったくの無関心に残酷さをみた。いや、ばしょもいくらか離れていただろうし(靴下どうこうの園児と保育士がいたのはたぶん門からはいってすぐのところで、部屋のそとの道に接したテラス的なスペースに幌みたいなものがかけられて見えないようになっているのだけれど、おそらくそこだったのではないか)、だれかしらがひっきりなしに泣いているのだろうし、そういうものだろうが。
寝床をはなれると手や腕をさすり、用足しほか。布団もたたみあげておき、椅子に座ってあたまをすこし左右に転がすと瞑想。一一時五一分から一二時二〇分までだったからちょうど三〇分ほど。瞑想もその日その日でどういう感じでやろうかという意識もしくは気分がちょっとちがって、深呼吸してみることもあるし、もっぱらからだに意識をむけるようにしてこまかく観察してみることもあるし、そうした顧慮は不要だという無為のしぜんさをめざすこともある。きょうはさいごの感じ。身体観察もことさらやろうとせず、細部をあまり見ようともせず、おのずから意識野に感覚情報が生じて見えてくるにまかせ、それよりも心身をもっとぜんたいてきに、大雑把にとらえるようなゆるめの無能動をたもち、統合をかんじようという姿勢になった。それもよい。手や腕をさするのはじっさい有効でやはりこれによって肩から背にかけてはだいぶ楽になる。
食事は即席の味噌汁にパック米とレトルトカレー。フォン・ド・ボー仕込みのビーフカレーとかいうやつ。鍋で湯煎。待つあいだはウェブをのぞく。(……)さんのブログに停まった電車内で一時間半待たされたときのことが書かれてあって、(……)さんが書いていることとはまったく関係ないのだけれど、いまのじぶんの状態でこういうことがあったらふつうに小地獄というかかなりやばいだろうなとちょっと薄ら寒い感じになった。むかしもそうだったし。とつぜんの停止というのは苦手で、そもそも密室で逃げ場がないところが不安要因のひとつだから、駅に着いたときはまいかいまさしくちょっとだけでも息をつける瞬間というか、ダンジョンのとちゅうにある小回復ポイントみたいな感じで断続的なそれをたよりに密室をやりすごしているのだけれど、予想外の事態で急に電車が停まって密室時間が増えると、それは一気に動揺する。むかしは(……)のまえでけっこう一時停止することがあって、それでバクバクなっていた。
鍋が沸騰してくるとさきに電気ケトルで湯を沸かして味噌汁を用意。それからパック米を電子レンジであたため、木製皿にとりだしてスプーンでほぐすと、コンロの火をとめてパウチをとりだし、洗濯機のうえに立てながら横から鋏で開封。ゆびさきを火傷しないようにひらいて米にかける。折りたたんでソースをしぼりだし、パウチはきょうはそのまま燃えるゴミのほうに入れてしまった。きのうはゆすいでプラスチックゴミとしたのだけれど、しょうじきゆすいでも油分がそんなに取りきれるとはおもえないし、カレーの種類によっては無理そうなばあいもある。そうして食事へ。味噌汁をまずはいくらか飲んで腹をあたためてからカレー。食べるあいだは一年前の日記を見返す。たいした記述はないが、好天らしく、それにふれた部分をみるとちょっとした描写でもいいなあとなってしまう。「窓外はこずえの緑がひかりをはらんでなかに蔭をこめながらも総体としてかすんだようになっている例のあかるさで、屋根もいくらか白さを乗せられて水面となり、朝陽は空中のぜんたいに浸透している」とか、「こずえの緑がひかりをはらんで」だけでもういいなあとなる。「ひかりをはらむ」というこの言い方だけでもうよくなってしまうのかもしれない。この日はまた短歌を四つつくっているが、どれもきらいではない。無償性は好きなのでひとつめのやつはこの時期けっこう気に入っていたもので、その後も夜道をあるいているときにおもいだしたり、日記に書きつけたりした。
われわれは生きるのだ無償性のみを夜はそうしてかがやきとなり
旅人は誇りを欠くなかれだけが彼我のあわいを知っているのだ
なまぬるい雨をつたって時が来る夏のありかをたしかめるため
シャツはまだきみの記憶をすすがれず午前八時の風にまぶしい
カレーを食べ終えた時点ですぐに皿を流しにもっていって、流水とスプーンで滓を始末したあと(排水溝のカバーや物受けが汚れるとめんどうなので、洗い物のときはだいたいいつもあらかじめそれをはずしている)、洗剤をちょっとだけ垂らし、水をそそぐとともにスプーンでかきまぜる。そうして漬けておき、味噌汁ののこりを飲んで、大根おろしを椀にすって摂取。洗い物もわりとすぐにかたづけた。どうでもいいはなしだが、いまつかっているスプーンは皿と同様木製のやつで、まえはもうひとつそれよりもちいさい、銀色のスタンダードなものがあってもっぱらそっちをつかっていたのだけれど、このスプーンはすこしまえに皿を洗っているとき、ちょっとした拍子で排水溝に落ちていき、排水溝は流しからすこしくだると穴がちいさくなっているのだけれど、見事というほかないあっけなさでそのちいさな穴にすぽんとはいりこみ、そのままとちゅうでひっかかるでもなく見えないしたまで落下していった。いちおう割り箸をつっこんで探ってみたのだけれど当たらないし、じつにスムーズに下水管にまで達したようでその後の消息は知れない。そういうかたちで失われてしまったので、もうひとつの木製スプーンをつかうしかなくなっている。
食後はひさしぶりに読みかえしノートを音読。あいまに手や腕もさする。そのままきょうのことを書けないこともなさそうだったが、からだを優先して二時くらいだったかでいったん寝床へ。ウェブをみつつ脚をほぐしたり胎児になって左右に揺れたりして、三時過ぎで垂直位に復帰した。それでまたちょっと音読し、ここ数日読んだ英文記事を確認して読みかえしノートに追加したあと、きょうのことを記述、のまえに書抜きもしたのだった。パウル・ツェラン全詩集Ⅰ。それでおもいだしたが起きてすぐ、腕をさすっているときに、きょうは一一月三〇日ということは図書館の本の返却日だわとおもいあたって、その場ですぐ貸出延長をしておいた。まあツェランいがいの二冊はもう書抜きも終わっているので、べつに延長せず、きょうはどうせ買い出しに行くようだしそのついでに返してきてもよかったのだが。でもいちおう三冊とも延長。書抜きのBGMはOutkast『Aquemini』というヒップホップで、先日GuardianのListening diaryの一記事で知った名であり、あまりにも濃くてあくどすぎるジャケットからしてもreturn of the gangsterとかうたっていることからしても、イケイケオラオラのほうに分類されるのだとおもうが、そんなにきらいではない。(……)くんに言ったら意外とおもわれる気がするが。なにを言っているのかはもちろんぜんぜんわからないけれど、マシンガン的なラップはふつうにかっこうよくてそのこまかいリズムもわりときもちがよいとおもうし。ここまで記すともう五時手前。
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(……)さんのブログを三日分読んだ。一一月二〇日から二二日まで。したの夏目漱石の文がやはりすごいなと。
この作者は趣なき会話を嫌う。猜疑不和の暗き世界に、一点の精彩を着せざる毒舌は、美しき筆に、心地よき春を紙に流す詩人の風流ではない。閑花素琴(かんかそきん)の春を司どる人の歌めく天(あめ)が下に住まずして、半滴(はんてき)の気韻(きいん)だに帯びざる野卑の言語を臚列(ろれつ)するとき、毫端(ごうたん)に泥を含んで双手に筆を運(めぐ)らしがたき心地がする。宇治の茶と、薩摩の急須と、佐倉の切り炭を描くは瞬時の閑(かん)を偸(ぬす)んで、一弾指頭(いちだんしとう)に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔しより廻転する。明暗は昼夜を捨てぬ。嬉しからぬ親子の半面を最も簡短に叙するはこの作者の切なき義務である。茶を品し、炭を写したる筆は再び二人の対話に戻らねばならぬ。二人の対話は少なくとも前段より趣がなくてはならぬ。
(夏目漱石『虞美人草』)
とにかくどういうときでもかれの文章はリズム、文調がやたらとよくて、音の面のみならず文章総体として独特のありかたで律動的なのだが、それは措いても、ここだと、「閑花素琴(かんかそきん)の春を司どる人の歌めく天(あめ)が下に住まずして」とか書けないでしょと。漢文・漢語の素養がもはやうしなわれてしまったいまの時代に書けないのは不思議でないとしても、とうじのひとびとだってこうも書けるにんげんはそうそういなかったのではないか。「歌めく」とかこちらもつかいたいわ。あとは、「(……)一弾指頭(いちだんしとう)に脱離の安慰を読者に与うるの方便である。ただし地球は昔しより廻転する」というこのおおきな展開のしかた。すこしまえにやはり(……)さんのブログで読んだ夏目漱石のほかの文章にもこういうところがあった気がするが(具体的なことはわすれたが)、とつぜんスケールをはなはだしく拡張してみせる、このぱっとひろがるうごきの軽やかさ。それでいて大仰さにすべっていない。
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いま一〇時四〇分。「読みかえし2」ノートより。ここを読んで、形式主義的な文芸(芸術)批評の端緒って、すでにカントにはらまれているのだなとおもった。
525
カントは当面の議論のなかで、形式 [﹅2] の合目的性と純粋さ [﹅3] とを繫ぎあわせて考えている。純粋な [﹅3] 趣味判断とはなにかを考えておくことが、美は目的の表象を欠いた合目的性であるとする発想の根底にあるものを考察してゆくうえで有効な補助線となるだろう。「完全性」の概念が美の規定根拠としては斥けられたのちに、あらためて導入される定義に注目してみる。
美にはふたつの種類が存在する。つまり「自由な美」と「付随的な美」である。前者は「対象がなんであるべきか」についての概念を前提とせず、後者はそれを前提とし、かくしてまた当の概念にしたがう「対象の完全性」を前提としている(228)。たとえば男性の美、女性の美、あるいはまた馬の美、建物の美であるならば、それぞれが「なんであるべきか」を規定する「目的の概念」を前提としており、それゆえにこれらに帰属するのは付随的な美にすぎない(230)。それでは、自由な美の例としてカントが挙げるのはどのようなものであったのか。ちなみに、以下の引用で途中を省略した部分にかんしては、すでに本章・第一項の末尾で言及している。花は自由な自然美である。〔中略〕多くの鳥(オウム、ハチドリ、ゴクラクチョウ)、海の多数の貝類はそれだけで美であり、この美は、その目的にしたがって規定されている対象にはなんら(end31)帰属するところがなく、自由にそれだけで意にかなうものである。おなじように、ギリシア風の(à la grecque)線描や額縁や壁紙などに見られる唐草模様は、それだけではなにごとも意味することがなく、なにものも表象せず、かくて、なんらかの規定された概念のもとにあるようないかなる客観も表象するところがないにせよ、それでも自由な美なのである。くわえてまた音楽にあって(テーマを欠いた)幻想曲と名づけられているもの、そればかりか歌詞をともなわない音楽のぜんぶも、おなじ種類の美のうちに数えいれられうることだろう。(229)
自由な [﹅3] 美、つまりなにかの目的や、なんらかの概念に――それが「なんであるべきか」に――依存し、それに付随することなくそれだけで [﹅5] 美しいものを、しかもその対象の「たんなる形式」にしたがい判定するさいに、趣味判断は純粋なものとなる。すなわち目的なき合目的性をとらえていることとなるだろう。そこでは「構想力の自由」がなんの目的にも拘束されず、どのような概念にも束縛されることもなく、ひたすらみずからとたわむれているからだ(vgl. 229f.)
美しいものは無償 [﹅2] である。とりわけ自然は、多様な美しさのうちで「ぜいたくなまでにじぶんを濫費している」(243)。自然のこの意図なき贈与 [﹅2] にこそ、美がうまれる根源的な根拠がある。美が目的を欠いた合目的性であるのは、自然が惜しみなく美を与えるからなのである。
(熊野純彦『カント 美と倫理とのはざまで』(講談社、二〇一七年)、31~32; 「第1章 美とは目的なき合目的性である」)
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- 「ことば」: 31, 9, 24, 26 - 30
- 「読みかえし2」: 510 - 514, 515 - 519, 520 - 526
- 日記読み: 2021/11/30, Tue.
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Guardian staff and agencies, “Russia-Ukraine war at a glance: what we know on day 280 of the invasion”(2022/11/30, Wed.)(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/30/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-280-of-the-invasion(https://www.theguardian.com/world/2022/nov/30/russia-ukraine-war-at-a-glance-what-we-know-on-day-280-of-the-invasion))
Ukrainian forces struck a power plant in multiple attacks on Russia’s Kursk region on Tuesday, causing some electricity outages, the local governor said. “In total, there were about 11 launches. A power plant was hit,” Roman Starovoyt, the governor of the Kursk region, said on the Telegram messaging app. Ukraine has not claimed responsibility and made no immediate comment.
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Ukraine has detained a deputy head of newly liberated Kherson’s city council on suspicion of aiding and abetting Russian occupation forces, Ukraine’s state prosecutor has said. The official, who was not named, cooperated with the occupation authorities and helped with the functioning of public services under the Russians, according to the prosecutor.
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Pope Francis has sparked fury in Russia over an interview in which he suggested that Chechen and Buryat members of its armed forces showed more cruelty in Ukraine than ethnic Russian soldiers. He said soldiers from Buryatia, where Buddhism is a major religion, and the Muslim-majority Chechnya republic, were “the cruellest” while fighting in Ukraine.