2023/1/2, Mon.

 いつしかわたしは濃密な静寂に耳を澄ませていた。不気味なしじまのなかに、雷鳴がとどろく直前にも似た不穏な兆しがうかがえた。どこからもなんの音も聞こえなかった。通りに動くものの気配はまったくない。闇が集いはじめているのに、明かりのひとつもまだ灯らない。早くも周囲の家々は明確な輪郭を失い、ひとかたまりに融けあって見えた。なにかを待って不安げに目を凝らし、息をひそめているようにも思える。霧と薄闇に色という色は拭い消され、形という形はぼやけてあやふやだった。そのせいで、凛と緑に輝くあの草地が驚くほど際立って見えた。消えてしまった昼の光を妖しいまでに留めおき、小さな長方形のなかに凝縮して、連なる屋根の上に浮かぶさまは、まるで華やかな緑の旗だった。
 ほかではいたるところに見えない夜の軍勢が集結して、家々に押し寄せ、黒い木々の下に黒々とわだかまっていた。あらゆるものが息を殺して夜が来るのを待っていた。ところが、闇の前進は草地の外れで鈍り、ぴたりと止まった。あの燃えさかる緑が全力で行く手を阻んでいた。きっとすぐにも夜が攻撃を開始して、草地に押し寄せ、蹂躙するだろうとわたしは思った。それなのに、なにも起きない。ただ、草地が夜の侵略に対抗すべく無数の草の刃を構えた緊張だけが感じ取れる。あの草地の草にどれほど強大な力があるか、どうやって太古の昔からつづく夜の進撃を押しとどめることができるのか、わずかながらようやくわたしにもわかりかけてきた。さっき聞いた話から考えるに、あそこの(end14)草があんなにも傲慢に、強靭すぎるほど青々と育つ理由は想像に難くない――あの忌まわしい草地は腐敗を食らって肥え太り、一枚刈り取られるたびに数百、数千の、強く新しい葉の刃をいっせいに芽吹かせるのだ。
 つぎの瞬間、群がり生える刃が――無数の刃、何百万何千万という草の刃が、絶え間なく増殖し、なにものにも抗えぬ超自然的な力で上へ上へ黙々と大地を切り裂きながら、一分刻みでさらに千倍にも数を増やしてゆく光景が、まざまざと目に浮かんだ。あんなちっぽけな草地ひとつに寄り集まり、自然の理をことごとく無視して、力強く破壊的に、破壊を糧に蔓延ってゆくさまの、なんという凄まじさか。はち切れんばかりの生命力を秘めた何百万とも知れぬ草、それが夜の侵略に抵抗すべく、戦う備えも万全に、びっしり群がり集っているのだ、槍のように、林のように、森のように。
 漆黒の闇にも紛う深い夕闇のなかで、あの小さな緑の一画の輝きはいかにも不自然で、不気味だった。ずいぶん長いこと見つめていたせいか、やがて草地が震え、脈打ちはじめたように感じられた。これほど遠くからでも、途方もない生命力のうねりが脈動を速めるのが、実際に見える気がした。その容赦ない生気に、闇が怯えていた。いや、それだけではない。わたしの心の目には、はっきり見えた――あの草地がつねに全神経を研ぎ澄まし、草の生長を阻もうとする懸命の努力がゆるむ一瞬に絶えず目を光らせ、おりあらば境界という境界を越えて一気に芽吹こうとひたすら待っている姿が。(end15)はっきり見えた――あの草地があたかも巨大な緑の死のごとく頭をもたげ、おのれが食らった腐敗で膨張し、あらゆる境界線を侵蝕し、あらゆる方向に広がり、あらゆる生物を滅ぼして、世界を輝く緑の棺衣 [かけぎ] で覆いつくし、その棺衣の下で生きとし生けるものが朽ち果てるようすが。戦わねば、戦わねばならない、あの毒の緑と。切り払い、切り倒さねばならない、あの毒の緑を。毎日、毎時間、なにがなんでも。あの草の刃の狂暴な増殖を食い止める術は、ほかにはない。血で膨れあがり、邪悪に猛々しく茂り、毒気と復讐に燃え、凶悪な疫病さながらに、草が、草だけが地表を覆いつくすまであらゆる場所で、あらゆるものを覆いつくそうとするあの草の刃に対抗する手立ては、ほかにはない。
 (アンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)、14~16; 「草地は緑に輝いて」)



  • 一年前の日記より。ベランダに出て掃き掃除のあと、日向ぼっこをしている。じつに天気がよさそう。今年もきのうきょうと正月はしずけさにひたって晴れやかだ。

(……)終えると日なたにすわりこんでぬくもりに浸った。太陽はまだ西空で林の上端にも引っかからずひかりをひろげており、それを正面にして視界の上半分をまぶしさに浸食されながら目をつぶっていると、からだにかかるあたたかさが服を越えて肌や細胞へと染み入ってくるようでここちがよい。風はすくなく、ときおりながれればつめたいがすぐに途切れ、シュロの葉はほとんど絶え間なく身じろぎしてその影が枝先に赤味の粒を溜めはじめている梅の裸木のうえでなにかの内臓器官のように伸び縮みし、また柚子の木もときに樹冠を虫の翅のようにこまかくふるわせるけれど、吹くというほどのものは生じず、視界にうごきもとぼしく、聞こえる音といってかなたの川からのぼってくるさざめきくらいのものである。眼下に日なたはそこそこあってあかるいものの、二時ともなれば道や家壁に蔭もまたひろく、あかるさのなかやその裏に青さがひそんでしずかに冴えているようなひかりのおもむきで、空間の色合いに冬の昼というよりも春の暮れをおもわせるようにもかんじられた。空はほんとうに雲が一粒たりとも見えない完全な晴れで、山際から直上まで均一に満たし稀有な無垢にまっさらなその水色はふしぎなくらいで、電子機器かなにかによってつくりあげられたとおもったほうがまだしも納得のいくようなあざやかさだった。

  • 西谷修『不死のワンダーランド』をこの日で一気に一三〇ページくらいすすめたらしくいきおいがあり、内容の要約をしているがそれにもいきおいがある。こうであってほしいものだ。もっとも記事のさいごでは、またこんなことをやって時間をかけてしまったみたいな述懐をもらしていたが。

部屋にもどると書見。西谷修『不死のワンダーランド 戦争の世紀を超えて』(講談社学術文庫、一九九六年)をすすめる。おもしろい。四時半くらいまで読み、夕食前と夕食後にもまた読んで、きょうは107ページからはじまって現時点で235まで一気にすすんでいる。第Ⅲ章から第Ⅴ章の後半まで。第Ⅲ章「ハイデガーの褐色のシャツ」は八八年にフランスで出版されたヴィクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』という著作の内容、ひいてはハイデガーのナチ加担についての事実の概観と、ファリアスの著書の評価。ハイデガーとナチとのかかわりをめぐっては、いっぽうにかれのナチ党参加は時勢を考慮したやむをえない(あるいは政治的に無見識な素人による)一時的な逸脱で、かれの思想の真実には関係のないことであり、われわれは歴史的状況による汚染からはなれてその真理をこそ聞くべきだというハイデガー信奉者の擁護があり、たほうにはハイデガーとナチとのむすびつきをことさらに強調して公共圏からその思想を排除することをめざす政治的な糾弾者の動向がある。そういうなかで『ハイデガーとナチズム』は出版され、この本は出版前からおおきく話題を呼び、哲学的専門家の界隈だけでなく大手マスメディアにもさかんにとりあげられて一種センセーショナルなできごととなったらしい。著者は一二年かけて各地の公文書館をまわったり、こまかな資料を執念的にあつめてハイデガーはナチだったということを事実の面で論証しようとしており、そのこころみはおおかた成功しているようだ。つまり、史料に根ざした現実的で具体的な事実の観点でみて、ハイデガーが一九四五年までナチ党員だったことはうたがいがないと。いわゆる「黒ノート」の存在もあかるみに出た現在、ハイデガーナチスと親和していたということはもはやゆるぎない事実として認定されているはずである。しかしかれにナチであるというレッテルを貼って公共圏からその思想をやすやすと排斥して事足れりとする政治的な態度は誤っており、むしろナチだったからこそハイデガーは読まれなければならず、その思想の意味についてかんがえぬかれなければならないという西谷修の言には全面的に賛同の念をいだく。うたがいなく二〇世紀最大の哲学者(のひとり)とみなされる人間が、同時にナチと親和性をもったという事実こそが、二〇世紀の西洋史哲学史におけるもっともクリティカルな(危機的な)問題のひとつであるはずで、ほんとうはそこをとおらずなんらかのかたちで徹底的に清算することなしに、われわれは二一世紀にはいることなどできるはずがなかったのだ。西谷修のこの本はそういうこころみのひとつだといえるだろう。ファリアスの著はとうじのフランスの「知識界」で論争をまねき、悪意のある書だとか哲学的には著者は無能力だとかいわれて、たとえばデリダもはげしく批判したというが、西谷は著者の偏向や意図的な操作を指摘するのは容易だとみとめながらも、この本の意義を肯定的に評価している。まずそもそものコンテクストとしてこの著作は、ハイデガー信奉者から発せられた、かれがナチだったという確かな証拠を提示せよというもとめにこたえて出版されたものなのだから、同書がこまごまとした事実の提示に終始して哲学的な思想分析を欠いていたり、批判者にいわせれば「品のない」「事実の暴露」に終わっていたりしても、それは難癖をつけられるべきではなく、そもそもハイデガーにたいしてまじめな関心をもっており、かれにまつわる事実にかんしてもある程度まで知悉していて、それを踏まえながらもその思想の意味を問うという「高尚な」しごとに従事していた哲学者たちは、いままでだれも、こうした「品のない」「どぶ浚い」のような「労苦」をひきうけることはなかったのだと。思想を問い考究するまえに、前提として個人にまつわる事実は事実としてあきらかにされ、また共有されなければならない。ファリアスの本は霧につつまれていたその事実の領域をほぼ確定し、つまり「ハイデガーはナチだったのか?」という単純かつ妨害的な問いに終止符を打つことに貢献し、それによってようやくわれわれは、かまびすしい論争にわずらわされることなく、くもりのない環境でハイデガーの思想がわれわれの現代にとって持つ意味をかんがえることができると。そしてそれはとうぜんながら、かんがえつづけられねばならないことなのだ。なぜなら、ハイデガーが直面した時代的環境、かれがそこから(著作内にそのことは明示されてはいないにしても)『存在と時間』を生み出し、のっぴきならない切迫感をもって思考を編んだ歴史的状況は、ハイデガーをナチだと断罪するとともに視界のそとに追いやって解決するようなことがらではなく、大戦後に消え去るどころかむしろさらにその度を深めているとすらかんがえられるからである。それはいってみれば「数と凡庸」の時代であり、第Ⅳ章の表題は「数と凡庸への否と諾」とつけられている。すなわち人間が平準化・公共化され本来的固有性をうしなわざるをえない近代という時代の必然的条件に抗して、死への直面を経由して存在忘却を克服し、のぞましき共存在性たる「民族」のなかでおのれの「宿命」に覚醒し、たんなる「数」であることを脱して本来的な実存として生きるようになるというのがハイデガーのえがいた現存在のドラマであるのにたいし、レヴィナスバタイユブランショといったような、ハイデガーから多大な影響を受けつつもそのドラマを是としない思想家たちは、かれが「頽落」として弾劾した「日常性」「公共性」という、だれでもない「ひと」が生きる無名の「凡庸」さをこそむしろ積極的に肯定し、そこに人間の解放や別様の共同性のありかたを見定めたというのが、第Ⅳ章のもっとも中核的な対比の要約である。ハイデガーが語る現存在のドラマの筋立てにおいて、死を経由したそれじたいとしては空虚でありうる形而上学的な「決意」(あるいは覚悟)に具体的な(かつ本来的な)内実をあたえて、共存在性(ハイデガーの用語でいえば「共生起」)として現存在の「運命」だと規定されるのが「民族(Volk)」という概念なのだが、この「民族」は、ドラマの理路それじたいの展開や、『存在と時間』のそれまでの記述のみちゆきからはけっしてみちびきだされえない要素だという指摘は決定的にクリティカルなものである。つまり、「民族」は『存在と時間』において問い直されることのない、ハイデガーの盲目的な前提だったということだ。かれは「土着性」を本質的なものだとかんがえた。『存在と時間』における「存在忘却」は、「技術」と現代のかかわりを思考した後年の著述においては、「土着性の喪失」「故郷喪失」とかさねあわされている。したがってかれがかんがえるところでは、現代の危機は「技術」の進展によって人間から「土着性」や「故郷」がうしなわれたことに端を発しており、この時代においていかにして「土着性」を回復し、「存在」とのあるべき関係をとりもどすかということが急務の問いになるわけだが、『存在と時間』から戦争を経てその三〇年後まで、こうしたかれの思考はその本質的なぶぶんでは変化せず、軌を一にしている。「故郷」やおのれが生まれ、根ざした場をはなれ、「本来的」なものから分離された人間のありかたとは、ハイデガーにとっては「不気味なもの」であり、かれがえらんだこのことばの意味合いと、その読み替えが第Ⅴ章「〈不安〉から〈不気味なもの〉へ」の中心的な主題となる。現代の人間のありかたを端的に表示することばを形而上学の歴史をさかのぼって古代ギリシアにもとめたハイデガーは、ソフォクレスアンティゴネー』のなかでコロスが口にする「デイノン」という一語を発見する。「不気味なもの(デイノン)はいろいろあるが、人間以上に不気味に抜きん出て活動するものはあるまい」という一行からはじまり、嵐の吹き荒れる海に漕ぎ出て自然を征服していく人間の暴力的な活動性をかたるこの合唱は、とうぜんながらハイデガーによる注目もおおいに寄与していまではかなり有名なものになっているとおもうのだが、「ものすごい」という原義をもつこの「デイノン」をハイデガーはドイツ語の「ウンハイムリッヒ(unheimlich)」=「不気味な」ということばに翻訳した。「ハイム」とは「家」のこと、要するに英語でいう「ホーム」のことだったはずで(だから積水ハイムの「ハイム」はこのドイツ語なのだろう)、したがってそれはまた「故郷」であり、「ウンハイムリッヒ」とはだから「故郷」からはなれてあること、「非 - 故郷的」な状態のことである。そのように「故郷」という要素を含意する訳語を選択したことに、ハイデガーの創意とその思考の一貫性がまざまざとあらわれているのだが、ところで『アンティゴネー』における「デイノン」は、英語では「wonder」と、そして日本語(呉茂一訳)では「不思議なもの」と訳されている。西谷修はこの「wonder」や「不思議さ」のはらむあかるく肯定的な意味合い(いうまでもなく、英語のwonderfulとは「すばらしい」という意味をあらわすことばである)を積極的にひろいあげ、ハイデガーが「不気味なもの」として慨嘆した「ウンハイムリッヒ」とは、それじたいとしてかならずしも負の意味をさだめられている状態ではないとかんがえ、故郷にないこととはたんに異郷にあることであり、それは外へと出てゆくふるまいだとしてその意味を中性化するとともに、さらにそこにとどまらず、レヴィナスが肯定した人間の宇宙空間への進出に象徴的に言及しながら、もはや大地に画された地平の存在しない無辺際で未知の広大な「開け」に飛び出してゆく体験とは、たしかに「不気味」だったり「危険」だったりすることもあるだろうが、同時に「wonder」に満ちて「不思議な」、「驚くべき」、「すばらしい」ものでもありうるだろうと読み替えて、未知の領域と外への漕ぎ出しにたいする肯定を呼びかけるのだ。

  • 覚醒後の寝床ではまた「読みかえし2」ノートも読んだ。したの記事は勉強になる。

Jason Stanley, “The antisemitism animating Putin’s claim to ‘denazify’ Ukraine”(2022/2/26, Sat.)(https://www.theguardian.com/world/2022/feb/25/vladimir-putin-ukraine-attack-antisemitism-denazify(https://www.theguardian.com/world/2022/feb/25/vladimir-putin-ukraine-attack-antisemitism-denazify))


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Ukraine does have a far-right movement, and its armed defenders include the Azov battalion, a far-right nationalist militia group. But no democratic country is free of far-right nationalist groups, including the United States. In the 2019 election, the Ukrainian far right was humiliated, receiving only 2% of the vote. This is far less support than far-right parties receive across western Europe, including inarguably democratic countries such as France and Germany.

Ukraine is a democratic country, whose popular president was elected, in a free and fair election, with over 70% of the vote. That president, Volodymyr Zelenskiy, is Jewish, and comes from a family partially wiped out in the Nazi Holocaust.


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Fascism is a cult of the leader, who promises national restoration in the face of supposed humiliation by ethnic or religious minorities, liberals, feminists, immigrants, and homosexuals. The fascist leader claims the nation has been humiliated and its masculinity threatened by these forces. It must regain its former glory (and often its former territory) with violence. He offers himself as the only one who can restore it.

Central to European fascism is the idea that it is the Jews who are the agents of moral decay. According to European fascism, it is the Jews who bring a country under the domination of (Jewish) global elite, by using the tools of liberal democracy, secular humanism, feminism and gay rights, which are used to introduce decadence, weakness and impurity. Fascist antisemitism is racial rather than religious in origin, targeting Jews as a corrupt stateless race who seek global domination.

Fascism justifies its violence by offering to protect a supposedly pure religious and national identity from the forces of liberalism. In the west, fascism presents itself as the defender of European Christianity against these forces, as well as mass Muslim migration. Fascism in the west is thus increasingly hard to distinguish from Christian nationalism.

Putin, the leader of Russian Christian nationalism, has come to view himself as the global leader of Christian nationalism, and is increasingly regarded as such by Christian nationalists around the world, including in the United States. Putin has emerged as a leader of this movement in part because of the global reach of recent Russian fascist thinkers such as Alexander Dugin and Alexander Prokhanov who laid its groundwork.

It is easy to recognize, in Putin’s invasion of Ukraine, the roadmap laid out in recent years by Dugin and Prokhanov, major figures in Putin’s Russia. Both Dugin and Prokhanov viewed an independent Ukraine as an existential threat to their goal, which Timothy Snyder, in his 2018 book The Road to Unfreedom, describes as “a desire for the return of Soviet power in fascist form”.

The form of Russian fascism Dugin and Prokhanov defended is like the central versions of European fascism – explicitly antisemitic. As Snyder writes, “… if Prokhanov had a core belief, it was the endless struggle of the empty and abstract sea-people against the hearty and righteous land-people. Like Adolf Hitler, Prokhanov blamed world Jewry for inventing the ideas that enslaved his homeland. He also blamed them for the Holocaust.”

The dominant version of antisemitism alive in parts of eastern Europe today is that Jews employ the Holocaust to seize the victimhood narrative from the “real” victims of the Nazis, who are Russian Christians (or other non-Jewish eastern Europeans). Those who embrace Russian Christian nationalist ideology will be especially susceptible to this strain of antisemitism.


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By claiming that the aim of the invasion is to “denazify” Ukraine, Putin appeals to the myths of contemporary eastern European antisemitism – that a global cabal of Jews were (and are) the real agents of violence against Russian Christians and the real victims of the Nazis were not the Jews, but rather this group. Russian Christians are targets of a conspiracy by a global elite, who, using the vocabulary of liberal democracy and human rights, attack the Christian faith and the Russian nation. Putin’s propaganda is not aimed at an obviously skeptical west, but rather appeals domestically to this strain of Christian nationalism.

  • 覚めて息を吐いたり腕をさすったりして、携帯をみると七時過ぎ。なかなかよろしい。一〇時から通話があるので余裕をもって起きようと八時にアラームを設定していたが、それを待たずはやくも覚醒がさだめられた。ちょっともぞもぞしてからからだを起こすとカーテンも開けて、結露で空の青さと雲の白さをぼやけさせている窓ガラスを露出させ、エアコンもつけて腰とか脚とかをやわらげながら読みもの。日記を読みかえし、「読みかえし」ノートもたくさん読み、さらには三島由紀夫金閣寺』(新潮文庫)も読みすすめた。きょうは131からはじめて、いま午後一時四〇分だが、178まで行っている。まあブランショにくらべればたいがいの小説はひどく読みやすい文章でできていると言ってよいだろう。すすみははやくなるはず。
  • 九時ごろに離床した。トイレに行ったり、手や腕を振ったり。スワイショウをまたやってみると、やはり腕や背や首あたりをまとめて活性化させることができるのでよさそう。それから鍋に水や麺つゆを補充して、豆腐とうどんを入れて最弱の火で加熱した。そうしているあいだに瞑想。九時二〇分からはじめて二〇分弱。さいきんは覚醒後に脚もほぐしているし、座った時点でけっこうからだは楽になっているから、さいしょに深呼吸をせずにすぐに静止にはいることが多い。あらかじめからだをほぐしておくとやはり瞑想中のほぐれもひとしおだ。椅子を立つとあたたまったうどんを椀によそり、食事をはじめた。パソコンはすでにつけ、Notionもセットアップ。うどんを取るまえにLINEにも担当箇所の訳文を載せておいた。うどんは二杯食って、椀や箸もすぐ洗っておき、ロラゼパムを一錠飲んだあたりでちょうど一〇時にいたったので、ZOOMにアクセス。(……)さんももう来ていた。明けましておめでとうございますとあいさつされるので笑いながらおめでとうございます、と返す。きょうはけっこう本篇まえの雑談がながくつづいて、一一時くらいまではなしていたのだけれど、話題は近況なんかもありつつこちらは日記に書いたような『波』とか『文学空間』の感想を語り、そこからかんがえを交わし合ったり。カントーロヴィチのはなしなんかがあちらからはあった。
  • 詳細はのちに書けたらということにして、通話はちょうど正午ごろに終了した。そこからまた寝床にうつってごろごろしながらGuardianをみたり、三島を読んだり。太ももやふくらはぎをほぐしつつ、あいまに胎児のポーズを取って左右にからだをゆらしたり。天気はよろしい。いまは雲が太陽をかくし、また勢力としてもおおきくなってきているようで陽射しが明瞭でなくなっているが、正午を過ぎてしばらくはレースのカーテンにあかるみが宿って空の青さは明晰だった。書見に切りをつけて起き上がったときには、ひかりにさそわれて座布団二枚と枕を窓外に出しておくとともに、喚起してさわやかな外気をとりいれようかなとカーテンもひらき窓もひらき、しばらく網戸のままで冷涼な大気を部屋にとおしていた。ここまで書いて二時まえ。
  • きょうはおとといのことを書きたいのと、「(……)」さんへの返信も書きたい。二九日、三〇日も書くことはたくさんあるのだけれど、そちらはもういいかなというあきらめ見捨ての態度がじぶんのなかに醸成されつつある。日記のやりかたはきのう記したとおり、いぜんと同様、その日のことはその日付の記事にさかのぼって書くやりかたにもどそうかなとおもっている。まあけっきょくどんなやりかたをしたところでじゅうぶんに書けなどしないのだ。じゅうぶんに書けなどしないのだが、しかしなんとかじゅうぶんに記録したいという欲求を捨てきれず、回帰的にそれにとらわれてしまう。
  • うえまで書いたあとは、ともあれ腹が減っていたので食事。煮込みうどんにくわえてキャベツと白菜、豆腐とベーコンを合わせたサラダをこしらえ、実家からもらってきたソーセージも木製皿であたためる。そのあとさらにおととい(……)にもらった亀田製菓の塩味の海老あられもバリボリ食ってしまったが、胃の調子はだいじょうぶそうだ。しかしものを食べてすぐはやはり打鍵する気にならないので、Woolfの英文を音読したり、GuardianでNik Turnerについての記事を読んだりして時間が過ぎ、消化がすすむのを待つ。四時にいたるといったんまた布団に逃げて休みつつRichard Longの記事を読んだ。Richard Longというなまえをはじめて知ったのはそうむかしのことではなく数年前、詩人の管、なんていったっけ? あのひとの『ストレンジオグラフィ』という本のなかで、歩行を芸術作品にまでたかめたアーティストとして名があげられていたのだった。もうひとり、たしかハミッシュ・フルトンというなまえも同系統の芸術家として紹介されていたはず。管啓次郎だ。まあしょうじきこういう、あるくことを芸術的にたかめるとか、もしくはある種のフィールドワーク的な記述活動とかしてみたいなとおもう。日記でそとをあるいたときに書く文がそれのたぐいだと言えないこともないが、もうすこしなにかしらのものがほしかったり、あるいはもっと頻繁であったりしてほしい。Longの記事中にある写真をみてもああいいなあという感じなので、記述するのも良いけれど、写真を撮るのもいいよなあという気もちょっと起こる。とはいえいぜんまいにちいちまいでいいからなんらかの写真を撮って日記に付与するというこころみをおもいつきではじめたときも、そうながくつづかずいつの間にか頓挫してしまったし、たぶんじぶんはそっちのほうではなくて、やはり言語で記述するほうをより探究するべきだということなのだろう。むかしたしか(……)さんが自作の小説のなかに書いていたことばだったとおもうが(それかブログ上だったか)、わたしの写真の腕はわたしの目を超えることはないだろう、というわけだ。
  • 五時くらいまで休み、それからヘッドフォンをつけてEnrico Pieranunzi Trioの『Live In Paris』をBGMにしつつ、目を閉じたまま立位で手をぷらぷら振りつづけた。”Body And Soul”, “I Hear A Rhapsody”, “Footprints”。たいした演奏だ。冒頭の”Ouverthree”からここまで四曲、ぜんぶメドレー式にあいだを切らずに推移しているのだけれど、切り替わりのところとかよくあわせられるなとおもう。さすがにあらかじめ曲目は決めていないとできないよな? あるいは進行の変化とか、メロディの提示でもう即応できるのだろうか? それにしてもおそろしいことに、立って手を振っていても、目を閉じて耳をふさいでいるとだんだんねむくなってくるというか、意識がちょっとぐらつく瞬間がある。
  • この日のその後はおおかた一二月三一日の記事を書くのについやされた。一一時ごろにはほぼ完成という状態にいたっていたはずで、あいだに休みをはさみながらではあるが、だいぶの時間を書きものに充てた日という感覚だった。三一日の記事もひさしぶりにながくなり、これはほぼ充分に書けたと言ってよいだろう。ただ、だからといって達成感とか満足感とか充実感はべつにないなと書き終えたあたりでおもったが。あるとしたら、ほのかな安心のようなそれだけだった。あといきおいよく書いているうちにやはりからだはこごって、いぜんとおなじ、背や胸のなかがねばつくような、空洞化されたなかになにかがひっかかっていてばあいによってはそれがのぼってきかねないような、疲労とともにそういう感覚が生じて、それはやはりゆびとか腕とかのすじを打鍵によってうごかすのが背のほうに波及してそうなるのだろうが(とくに左腕の肘から肩までのあたりが影響しているような気がする)、脚をほぐす習慣によりからだがまえよりまとまっているのでその威力はだいぶ弱ったとはいえ、こんな調子でまいにち書いていたらそりゃからだをこわすわとおもった。そういう状態になったら寝床に逃げてごろごろせざるをえない。
  • 深夜に完成にいたったのだが(またいとなみのなかに「完成」が生まれてしまった!)、おどろいたことに、それをブログに投稿しているとちゅう、フォームのなかにペーストされた文から検閲箇所をひろって(……)に置き換えているとちゅうに、椅子のうえで意識をうしなっており、気づいたら午前三時半ごろになっていた。とちゅうでつかれたのでからだを背後にあずけ、あたまを左右にころがしていたところがそのままねむっていたのだろう。なんとか投稿だけはすませ、noteのほうへはあしたやることにして、寝床へ。しかしすぐにはねむらず、ウェブをみつつ脚や腰をやわらげてから、四時半ごろにデスクライトを落とした。半端にねむってしまったために意識を落とすまでには時間がかかり、右を向くかたちで横向きの姿勢になったり(ひだりを向くと左腕が圧迫されるからよくないかなとおもって)、あおむけにもどったりして、たぶん五時過ぎくらいまではあいまいな状態でいたとおもうのだが、そののち無事に寝つくことができた。
  • 三島由紀夫金閣寺』(新潮文庫)はこの日247まで行き、はじまりが131だったので一〇〇ページいじょう読んだわけで、なかなかいきおいが良い。けっこうおもしろい。
  • (……)
  • この日の通話でよくおぼえているのは(……)さんがカントーロヴィチのはなしをしてくれたことで、今回はこちらは通話前に食事を済ませていたのでさっそく本篇にはいってもよかったのだが、まあつねのながれに沿って雑談がはじまり、さいしょにあちらがいくらか近況とかをはなしたとおもうのだけれどどんなことだったかわすれてしまったな。ひとつあったのは、塾だとしごとは四日からとかですか? ときかれたので、教室じたいはそうで、ぼくは五日がさいしょのシフトですねとこたえたところ、(……)さんのほうもそのくらいからはじまるはずなのだがいつからなのかがわからないという。(……)
  • それでかれがさいきんのことをしゃべったあとに、すいませんじぶんばっかり言いたいことしゃべっちゃって、(……)さんもなんかあったら、というので、さいきんは本をよむことができており、ウルフの『波』も読んだしきのうブランショの『文学空間』も読み終えた、と言って、日記に書いたような感想をながながと語った。あらたな(というわけでもないのだろうが)主体性についてじぶんなりにかんがえたいというはなしだ。そこからナショナリズムなんかに会話がながれたのは、存在融合的な一即全(他)の論理にたいするこちらのアンビヴァレンスにたいして、(……)さんも、むかしは共同性についてかんがえていたので、よくわかります、という応答をよこしたからで、そのへんからカントーロヴィチのはなしになったのだ。(……)さんは卒論でカントーロヴィチについて論じたというからすごいな、と笑う。そんなやつなかなかおらんでしょ。日本じゃカントーロヴィチっていったら、『王の二つの身体』、終了! みたいな感じで(と冗談めかし)、ほかにぜんぜんイメージとか情報ないですもん、と。(……)『王の二つの身体』ではなく、なんだっけ、祖国のための死についてみたいな、そんな著作だが。(……)さんはまさしくそれを卒論であつかったのだとおもうが、カントーロヴィチはユダヤ系のひとで、その論の筋道はハイデガーとだいたいおなじような感じなのだけれど、ハイデガーが主体の本来性の根拠として「民族」への覚醒という土着的なものをえらぶのにたいし、カントーロヴィチはそこがもうすこし抽象的で、「国家」になるのだと。「国家」も「民族」もあまり変わらないような気もしてしまうというか、近代の国民国家ナショナリズムにおいてはそこが密着的にほぼ同化して結合していることもままあるはずだが、ただカントーロヴィチのばあいは、直接的にはその「国家」はドイツなのだろうけれど、それは「民族」などからはなれてもうすこし抽象的な感触のするものだという。そして、戦場で死んだ兵士らの死は「国家」によって意味づけされ、むくわれなければならないという、じつに右翼的なことを論じているらしいのだが、「民族」ではなく「国家」に行くというのは、やっぱりユダヤ系だっていうことが関連しているんでしょうね、とこちらは受けた。ユダヤ人っていうのはじぶんたちのアイデンティティユダヤ性が、人種・民族、要は血ですよね、それなのか、それとも宗教なのかっていうところがあるじゃないですか、で、近代のそれこそナショナリズム国民国家の時代なんかはそのへんの問題が顕在化してくるし、そのあとすこしするとシオニズムがはじまりますから、そのあたりで宗教なのか、民族なのかっていうのはたぶんユダヤ人たちは相当議論したんだとおもいます、そういうはなしからカントーロヴィチもたぶん影響を受けているんじゃないか、と推測を語る。聞いていてさらにおもしろかったのはカントーロヴィチの伝記的な情報というか、右翼であるものだから、ローザ・ルクセンブルクスパルタクス団をぶち殺しに行ったりもしていたらしく(一次大戦後だよな? 一九一九年くらいか?)、それでいてアメリカで公民権運動が起こったさいには賛同しているのだと。だから人種差別、民族差別には反対だったということなのだ。あくまで「国家」と。そのへんの思想的特徴もおもしろいが、ローザ・ルクセンブルクから公民権運動というこのふたつの用語がつづけざまにあげられるというこのタイムスケール(あるいは空間スケールも)にこちらはちょっと面食らうようになったというか、え、それを両方とも経験してるひとなの? というのがおもしろく、けっきょくユダヤ系だからナチスによって公職追放されて、以後はアメリカにいたらしく、晩年に公民権運動に遭遇しているのだと。時代的にはだから二〇世紀初頭から六〇年代まで生きていたということになり、べつにそういうにんげんはいくらでもいるわけだけれど、なぜかローザ・ルクセンブルク、そして公民権運動というこのながれが耳にめずらしく、くわえて上述したようにカントローヴィチなんて日本じゃ『王の二つの身体』という書名くらいしかほぼ聞かないわけだから(西洋中世史とかやるにんげんでなけりゃなまえを聞く機会がないだろう)、そんな感じだったんだ、そういう生の道行きだったんだというのはおもしろかった。くわえてさらに興味深いのは、師匠がシュテファン・ゲオルゲだったらしく、詩人のゲオルゲが師匠でそんでもって歴史家ってへええというところだが、(……)さんいわく、ゲオルゲゲオルゲ・サークルというのをつくっており、そこはひじょうにマッチョな、男性主義的なあつまりで、筋骨隆々とした男どもが薄着で詩をつくったりものを読んだりしているような濃ゆい空間だったようだが、ゲオルゲには一時期、年下の若い弟子(マクシミリアンというなまえだ)がいて、同性愛関係があったかどうかは確定できないといわれているが、その若い弟子が死んでしまう。とうぜんながらゲオルゲはいたくかなしみ、むせび泣き、かれは天使だった、救世主だったみたいなことを言って詩にも書いているというのだが、(……)さんの推測では、カントーロヴィチはそういうところからも影響を受けていたのかもしれないということで、つまり死は意味づけされなければならないという発想が共通しているようにもおもえると。ゲオルゲというのがそういう感じだったのかというのははじめて知ったのでこれもおもしろかったが、男性しかおらずしかも年若の少年をかわいがっていたとか聞くともろに古代ギリシャ的で、しかしそのさきで天使だの救世主だの言いはじめるとこんどはキリスト教になっているなとおもった。あと、一時期まで、カントーロヴィチとカッシーラーの区別がつかなかった(どちらもエルンストなので)、どっちが『王の二つの身体』のひとだっけ? って、とこちらは笑った。(……)さんも、わかります、どっちもユダヤ系で、時代もおなじくらいで、と受ける。あつかってることももしかしたらちょっとかぶるところがあるのかな? カッシーラーってのはシンボルの哲学とかをやったひとなんですよね、それがたぶん有名なんですけど、ただ去年だったかに『国家と神話』みたいなやつが出てたはずなんで(岩波文庫熊野純彦が訳していたはず)、もしかしたらナショナリズム的な問題とか、かさなるぶぶんはあるのかもしれないですね、とはなした。Wikipediaをみてみたかんじではカッシーラーはもろに哲学者という感じで、科学史なんかもやっていたらしく、著作もおおくて範疇もひろい。アインシュタイン相対性理論をとりあげながら、いっぽうでルネサンス精神史をやっていやがる。すごい学者だ。ゲーテ、シラー、ヘルダーリン、クライストと文学方面をとりあげた著作もある。「1919年に新設されたハンブルク大学の教授に就任。当地にあった「ヴァールブルク文化学図書館」に衝撃を受ける(カッシーラーは「この文庫は危険です。わたしはここを避けるか、あるいは何年もここに閉じこもらねばならないでしょう」と述べたと報告されている)。1923年には当時クロイツリンゲンの診療所で精神治療を受けていたアビ・ヴァールブルク本人を訪ねる」ということで、ヴァールブルクとのかかわりもある。木田元が『哲学散歩』みたいなゆるいエッセイ本を出していて、そのなかで写真記憶的能力をもっていたと書いていたのがたしかカッシーラーだったような気がするのだが、記憶がさだかではない。その学者は、ある本の何ページにこういう記述が書いてあるというのをそらで引用することができたということで、カッシーラーがそういう能力を持っていたとすると、これだけいろいろ著作を書いてひろいしごとができたというのもうなずける気がする。こちらがもっているのは岩波文庫の『人間』というやつだけで、これは数か月前に本屋に行ったときに重版であたらしくなっていて、なんか気になったので買っておいた。


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  • 日記読み: 2022/1/2, Sun. / 2014/6/1, Sun.
  • 「読みかえし2」: 680 - 700
  • 「ことば」: 40, 31