2023/1/5, Thu.

 今いる部屋は独特のにおいがした。かすかな、とらえどころのないにおい。なんともいいようのない、それでいて鼻につくにおい。その顧みられない歳月と埃のにおいから逃れることはできなかった。いや、においというより、没個性的でわびしい挫折の空気か。この手の安ホテルの部屋――あまり清潔でない、寒々しくて風通しの悪い部屋には、そうした空気がつきものだ。家具はほかの部屋で廃棄処分になったものが、向きも不向きもおかまいなしに集められ、ゴミ山行きの道すがら、わずかな時(end60)間ここで最後の務めに励む。廃馬処理場へ送られる前に今一度こき使われる老いぼれ馬を思わす、誰を責めるわけでもない諦めきった辛抱強さのようなものを、そうした家具は吐き出した。そこここに散らばる二、三の私物は、失われた幸福な時代から救い出されはしたものの、品のない無数の品々に囲まれ、本来の価値を主張することもままならず、部屋全体の貧弱さのせいでその悲壮感さえ曖昧になって、心細げで怨めしげだ。
 (アンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)、60~61; 「幸福という名前」)



  • 一年前より。このときはロシアがほんとうにウクライナに侵攻するとはおもっていなかった。

ハムエッグを焼いて食事。新聞で国際面。香港で「不偏不党」をかかげた民主派系メディアの衆新聞というのが運営停止に追いこまれたと。もちろん当局の取り締まりによるもので、記者たちの身の安全をまもるためにやむをえない選択だったと運営者は会見。民主派メディアは軒並みやられており、壊滅状況で、立法会では政府がフェイクニュースと認定した報道を取り締まるための法が企画されているともいう。ウクライナ情勢も不穏で、かなり緊迫しているらしく、ウクライナは東部国境にあつめられたロシア軍が攻めてきたときのために、三月だか二月末までにだったか、女性らに徴兵登録を義務づける法を制定したという。有事になったばあいは戦闘行為以外のしごとに従事してもらうと。しかしロシア軍は総力約九〇万、ウクライナは二一万だったかで勢力の差は歴然であり、国境部にはもちろん総軍がいるわけではないにしても、米欧やNATOにたよらなければとてもでないがウクライナは持ちこたえられない。米CSISが昨年に出した報告では、ロシアの精鋭が投入されて本気でウクライナを落としにかかったら、キエフは数日だったかで陥落するだろうと。バイデンもきのうだかおとといだか、ロシアがもしウクライナに侵攻したら相応の措置をとるみたいなことを言明していたはずだし、まるで第二次世界大戦前夜をおもわせるような、という印象をいだくのは避けがたい。

(……)新聞。沖縄県で新規感染者が六〇〇人超と。米軍基地内のオミクロン拡散から市中へひろがったものだろうとのこと。米国では元日に一日あたりの新規感染者が一〇〇万人を超えたとあって、すさまじい規模。いままで最大だったのはインドの四〇万人くらいだったらしいが、その倍いじょう。(……)

  • 往路。パニック障害再発の可能性をかんがえている。その後現実のものに。

(……)道に日なたはもうない。南の山の色も残り陽を受けつつもさほど橙に浮かんではいない。とはいえその淡いくゆりでも色を変えて見慣れぬおだやかさをおびている家壁も道沿いにあり、空はかっきり晴れてあかるく、十字路がちかづけば立ち木のこずえのすきまがそのさきの西陽にきらきら満たされて粒っぽく、正面では空の下端に雲のすじが一本引かれ伸びていた。

坂道。出口ちかくのすこし曲がったところで風がふくらみまえからからだをつつんでくるが、まださほど寒くはない。このわずかなカーブで風に出会うことはおおい。脇の木立ちが鳴らされるくらいのいきおいで、葉擦れのざわめきのなかに動物の鳴き声のようなひとのうめきのような音が弱く混ざっていたが、あれはたぶんしなった竹の幹がすれあう音だったとおもう。駅に行き、電車に乗って移動。きょうも車内ですこし緊張し、嘔吐恐怖をかんじて動悸がたかくなった。さいきんけっこうある。今後パニック障害が再発するということもないとはいえない。しかしそうなったとしてもたいした事態にはいたらないとおもっているし、乗り切る自信もある。とりあえず生きてりゃなんだっていいし、死ねばそれまで。

  • 帰路はなかなかよく描写している。「身ごころ」なんてよくつかったもんだ。一般的にはない言い方だろう。「心身」もしくは「身心」だとかたすぎたのか。

八時一五分ごろ退勤。駅へ行って乗車。最寄りへ。ゆっくり歩いて帰る。風が生じており、この時刻になるとさすがにつめたく、往路とはちがってつめたさのなかに染みるような感触がまざっている。とはいえ木の間の坂のあいだは周囲はしずかで樹々の内でなにかが落ちる音や、しずしずとした沢のひびきが浮かんだし、したの道に出てからも空気はあまりうごかず、脚をはやめずともすんで、ひさしぶりにあたりの音に耳をすませるような身ごころになった。道のさきにむかって定期的に配されている電灯のひかりが、距離の差によって横に三つならびつつ、歩みやからだのぶれに応じてどれもおなじ動き方で尖ったような黄色いすじを何本かひとみに伸ばし、また光源のまわりに回転させて円状の暈を生んでいる。風もなく、落葉の時節はすぎて林から音も立たず、まだいくらか散らばるものがないではないが、道のうえはおおかたさらされて、アスファルトが薄いゴムのような質感で黒い表面をみせながら視界の奥へとつながっていた。

  • 「読みかえし2」より。

751

 先に述べたように、一九五〇~一九七〇年代に市民の提案や申し立てを重視し、その権(end213)利を保障する決定が何度もなされていたが、必ずしも実現していなかった。ゴルバチョフの右腕としてペレストロイカを推進したヤコブレフは回想で、一九八五年末にゴルバチョフに提出したメモで次のように述べたと記している。「国家機関の行為に対する不服申し立てを含め、あらゆる問題で個人の権利を保護すること。国民は行政機関と官吏に対して訴訟を起こす権利を与えられなければなりません。行政訴訟を扱う行政裁判所が必要です」。
 この指摘からも、国家機関と社会団体に対して活動改善を提案する権利や不服を申し立てる権利に関する憲法の規定は、この時点まで事実上紙の上のものにとどまっていたと言えよう。これは主に、批判をおこなった者が、職場の所属長や党機関・労働組合の幹部、さらには国家保安委員会によって抑圧されることがあったからである。しかし、憲法に規定された権利は、ペレストロイカが始められたことによって実質的な意味を持つことになった。ゴルバチョフは一九八七年一月に、「下からの統制」の重要性を訴え、腐敗や職権濫用を批判し、グラスノスチと批判の必要性を強調した。ゴルバチョフは、批判された者が保身に努め、批判者に対して締めつけや抑圧をおこなう例がめずらしくないことを指摘し、マスメディアの力を強めることが必要だと述べた。ゴルバチョフは、社会を活性化し、「停滞」から脱却する武器として「下からの統制」を活かすため、人々による批判を奨励(end214)し、マスメディアの役割を強調したのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、213~215)


754

 一九八五年秋にゴルバチョフは、アメリカ合衆国との核の量的均衡ではなく、合理的十分性を主張するようになり、核廃絶も訴えて一時的一方的に核実験を停止した。一九八六年一月にはゴルバチョフは、ヨーロッパ配備の米ソの中距離核戦力(INF)の全廃を提(end222)案した。以前合衆国が提案し、ソ連が拒否していた「ゼロ・オプション」を逆提案したのである。この提案を出発点に米ソはINFをめぐる交渉を重ね、一九八七年一二月に、地上発射の中距離核ミサイルを全廃するINF条約に調印した。ミサイルの撤去ではなく廃棄を定めた点、相互の現地査察に合意した点で、この条約は前例のない画期的なものであった。廃棄の対象となるミサイルが合衆国の八五九に対しソ連は一八三六と量的に大きな差があるなかで合意にこぎつけたことの意味も大きかった。ゴルバチョフの「新思考」への信頼を高め、米ソが再び緊張緩和を迎えることにつながったのである(一九八八年五~六月にはレーガンの訪ソが実現した)。
 「新思考」外交は「全方位的」で、アフガニスタンからの撤退、中国との関係改善、朝鮮戦争以来絶えていた韓国との国交回復も実現した。東側陣営の東欧諸国には改革を促すとともにソ連の介入はないと約束した結果、一九八九年夏から年末にかけて各国で体制転換が相次ぐ「東欧革命」が起こった。こうして、一九八九年一二月には米ソ首脳により「冷戦終結」が確認されるに至った。第二次大戦後、米ソ関係さらには世界を拘束してきた冷戦が終結に至ったことへのゴルバチョフの役割は大きく、ゴルバチョフは一九九〇年にノーベル平和賞を授与された。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、222~223)


755

 独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づきソ連の勢力圏とされ、まもなくソ連に併合されたバルト三国では、その歴史的経緯に加え、多くのロシア人が移住していたことによって現地の民族が危機意識を強め、反連邦の急先鋒となった。一九八八年六月、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの各国で人民戦線が結成された(リトアニアではサユディスと称した)。いずれも民族的価値を尊重し、グラスノスチによる民主化を進め、共和国の権限を強化することを目指すものであった。バルト三国の共和国共産党内でも、これに同調する「改革派」の動きが活発化し始める。
 一九八八年一一月、エストニア共和国最高会議は主権宣言を採択するとともに共和国憲法の改正を決定し、連邦の法令は共和国最高会議の批准によって効力を発すると定めた。共和国側の拒否権を定めたのであるが、この時点では、エストニア最高会議内でも独立を追求する者と、連邦内での主権国家を求める者とが入り混じっていたと言われる。ソ連最(end226)高会議幹部会は、この決定は連邦憲法に違反し無効であると宣言したが、翌一九八九年にはリトアニアとラトヴィアも主権宣言を採択した。この年の一二月に連邦の最高権力機関であるソ連人民代議員大会が、それまで存在しないとされてきた独ソ不可侵条約付属秘密議定書の存在を確認して非難したことは、バルト三国ソ連加入自体の正当性と合法性を疑わしいものとした。バルト三国は一九九〇年には独立を宣言するに至った。
 とはいえ、これによって独立が達成されたわけではない。最も急進的なリトアニアに対しゴルバチョフは独立宣言の取り消しを求め、拒否されると経済封鎖に踏み切った。一九九一年一月にはリトアニアとラトヴィアで、連邦の治安部隊と独立派市民たちとが衝突する事態も起こった。
 他の共和国においても一九八九年から一九九〇年にかけて同種の憲法改正や主権宣言が次々となされていき、一九九〇年には連邦の中心的存在であるロシア共和国までが主権宣言を発するに至った。主権宣言は、連邦の存在を一応前提としていたが、連邦法に対する共和国法の優位が主張され、両者が矛盾した内容を持つ「法の戦争」とまで呼ばれる状況となったことは、この時進められていた市場経済化への取り組みの混乱と困難を増大させた。そのためゴルバチョフは、新たに連邦と共和国との関係を規定する「新連邦条約」の締結によって、連邦を維持し、共和国との関係を整序することを目指したが、共和国が自(end227)立性を高めることによって連邦中央はその存立基盤を掘り崩されていき、国家連合的な性格を強いられていく。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、226~228)


756

 一九九一年三月一七日、連邦の維持をめぐる国民投票が、ロシア、ウクライナベラルーシ(ベロルシアが改称した)、カザフスタンウズベキスタンキルギスタントルクメニスタンタジキスタンアゼルバイジャンの九共和国で実施され(独立を目指すバルト三国アルメニアグルジアモルダヴィアはボイコットした)、いずれの共和国でも賛成多数、全体では七六%が連邦の維持に賛成票を投じた。後述のようにこの年の末には連邦解体を主導することになるロシア、ウクライナベラルーシでも約七割が賛成した。この投票で賛否が問われた「平等な主権共和国の刷新された連邦」がいかなるものかは必ずしも明確ではなかったが、ともかくも七割以上の賛成票を得たことは、連邦維持を目指すゴルバチョフには大きな得点となった。
 これを受けて、一九九一年四月には、連邦の権限を大きく削減することで「九プラス一合意」(「国民投票を実施した九共和国の首脳」プラス「連邦首脳」の合意)が実現したが、ゴルバチョフの譲歩は連邦の政府と議会の諒承を得ないものだったため、連邦政府の要人たちはこの合意に強い不満を示した。合意に基づく新しい連邦条約は八月二〇日に調印される予定であったが、不満と危機感を抱いた連邦の副大統領、首相、国防相らが、ゴルバチ(end228)ョフを拘束し、八月一九日に国家非常事態委員会を組織して非常事態を宣言するクーデタ(八月クーデタ)を起こした。
 国家非常事態委員会の宣言はもっぱら秩序維持を訴えるもので、社会主義やソヴェト体制維持を主張したものではなかったが、国民の多くは、クーデタはペレストロイカ以前への回帰を目指すものと受け止めて強く反発した。首都モスクワでは、ロシア共和国大統領エリツィンらロシアの政府・議会関係者が、共和国最高会議ビルを拠点としてクーデタに徹底抗戦する姿勢を示し、多くのモスクワ市民がこれを支援した。国家非常事態委員会は軍隊を掌握し切れていなかったこともあって、クーデタは三日で失敗に終わった。
 ソ連共産党はこのクーデタに直接関与したわけではなかったが、エリツィンがロシア国内での活動を停止させたため、ゴルバチョフも党書記長を辞すとともに党中央委員会に解散を勧告し、共産党の政治的な力は失われた。
 八月クーデタにより新連邦条約の調印は流れ、共和国の独立宣言が相次いだが、国家連合形式での連邦条約締結を実現させようという努力をゴルバチョフはなおも続けた。「九プラス一合意」に加わった共和国の首脳たちにはこれに応ずる動きもあった。しかし、一九九一年一二月におこなわれたウクライナ国民投票において、独立を求める票が約九割となったことがゴルバチョフの努力に事実上終止符を打った。ロシアは一貫して、ウクラ(end229)イナ抜きの連邦はあり得ないとの態度をとっていたからである。
 一九九一年一二月八日には、一九二二年に連邦を結成する条約に調印した四者のうちの三者、ロシア、ウクライナベラルーシの首脳が会談し、一九二二年の連邦条約の無効と独立国家共同体(CIS)の創設を宣言したことによって、情勢は連邦解体へと一気に動いた。カザフスタンなどは、この三国のみによるCIS創設宣言に反発を示したが、結局これに合流することを決め、一二月二一日にはバルト三国グルジアを除く一一カ国がCIS結成で合意した。一二月二五日にはゴルバチョフソ連大統領の職務停止を宣言するテレビ演説をおこなった。ソ連という国家は、連邦を構成していた共和国によって解体される形で消滅したのである。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、228~230)

Russia’s defence ministry on Wednesday blamed the illegal use of mobile phones by its soldiers for a deadly Ukrainian missile strike that it said killed 89 servicemen, raising the reported death toll significantly. Moscow previously said 63 Russian soldiers were killed in the weekend strike on Makiivka. Although an official investigation has been launched, the main reason for the attack was clearly the illegal mass use of mobile phones by servicemen, the ministry said. “This factor allowed the enemy to track and determine the coordinates of the soldiers’ location for a missile strike,” it said in a statement issued just after 1:00am in Moscow on Wednesday.

     *

The Ukrainian deputy defence minister said significant Russian losses meant Moscow would probably have to announce a second partial mobilisation in the first quarter of the year.

Further strikes deep in Russian territory should be expected, the head of the Ukrainian military intelligence, Kyrylo Budanov, has told the US TV network ABC. He added that the attacks would come “deeper and deeper” inside Russia, without specifically saying whether Ukraine would be behind them.

     *

Ukraine’s military general staff said Russia had launched seven missile strikes, 18 airstrikes and more than 85 attacks from multiple-launch rocket systems in the past 24 hours on civilian infrastructure in three cities – Kramatorsk, Zaporizhzhia and Kherson. “There are casualties among the civilian population,” it said. The reports have not been independently verified.

The number of populist leaders around the world has fallen to a 20-year low after a series of victories for progressives and centrists over the past year, according to analysis from the Tony Blair Institute showing the number of people living under populist rule has fallen by 800,000 in two years.

The research claims 2023 could be an equally decisive year for populism, with critical elections in Turkey and Poland. Those two elections could see two of the most influential populist governments in the world fall, though that may yet require divided opposition parties in both countries to form clearer coalition programmes than they have managed so far.

Of the populists who lost power, Brazil’s Jair Bolsonaro and Slovenia’s Janez Janša were defeated in relatively close elections in 2022, while Rodrigo Duterte of the Philippines was limited to one term in office and could not run for re-election. In Sri Lanka, Gotabaya Rajapaksa was driven out of office by protests.

The report says 1.7 billion people were living under a populist leader at the start of 2023, compared with 2.5 billion in 2020. It says that populism on both left and right is defined by two claims – that a country’s “true people” are locked into a moral conflict with “outsiders” and, second, that nothing should constrain the will of the “true people”.

     *

The report broadly defines populism in three categories: cultural populism, which has a rightwing ethno-nationalist appeal; socioeconomic populism, which appeals to those on the left; and anti-establishment populism, which focuses on targeting elites.

It says cultural populism still has major sway in US politics, regardless of the defeat of Trump-endorsed candidates and doubts over the prospects of the former president in 2024, pointing to the views of Ron DeSantis, likely to be another key contender. “Even if Trump loses, cultural populism is likely to remain strong within the Republican party,” it says.

  • 「読みかえし2」より。帰宅後にまた読んだ範囲から。

橋本努×若森みどり「自律を超える善き生(ウェルビイング)の理想を探る――橋本努『自由原理――来るべき福祉国家の理念』をめぐる対談」(2022/4/20)(https://synodos.jp/opinion/society/27929/)(https://synodos.jp/opinion/society/27929/%EF%BC%89)

773

若森 ナッジを熟議・民主主義に取り入れているという特徴も指摘しておきたいと思います。「熟議の民主主義」を提起する政治思想史家の宇野重規は、民主主義には熟議が必要である、と論じています。まったくそのとおりなのです。しかし、「熟議の民主主義」が「熟議のための熟議」となってしまっていては、人々は失望してしまう。それに対して橋本さんは、「ナッジが熟議を刺激する」という表現をしています。ナッジそのものが、価値の普遍化や多元主義を超えるというわけではありません。しかし、ナッジを民主主義を活性化する「仕掛け」として組み込めば、自由や福祉国家の理念についての熟議も刺激される可能性がある。政治についても言えることだと思います。

橋本 背景から説明すると、経済思想では「自由市場に任せるか、政府が介入するか」の対立があり、それに対してキャス=サンスティーンはリバタリアンパターナリズムの立場から、「介入とは自由のために行われる」という、真ん中を取りに行く議論をしました。私はそこから一歩進んで、「どういう自由のための、どういう介入がいいのか、要するにどういうリバタリアンパターナリズムがいいのか」に焦点を当てています。

というのは、リバタリアンパターナリズム自体は、「効用が高まりさえすればいい」という社会的厚生主義の立場なので、それ自体では介入の仕方は何でもありの議論になってしまう。ですが、本書でも論じるように、功利は数値で測ることができるものもあるけど、わからないことのほうが多い。それがわからないのであれば、争点とすべきはやはり価値なのです。

その価値にはいろいろな議論があり、熟議もその一つですが、一番重要なのは、私たちが市民社会を築くにあたって、「理性的に考える時間を増やすのか、それとも創造的になる時間を増やすのか」ということです。これまでの議論の考え方とは「みんなが理性的に熟慮すれば、もっといい社会になるだろう」という発想です。これは、自分が無知であることを知り、無知を理性的に克服するということですが、私は必ずしもそうとは思わない。

もちろん議論の過程で他人の意見も聞くわけだから、自分の無知はある程度相対化されます。でもそれは、その他人が自分より知識があればの話ですし、議論したってわからないということも十分あり得る。

例えば、将棋を指す人と解説する人を考えてみましょう。将棋を指す人には、理性的・反省的に考えていると却(かえ)って前に進めないことがあります。むしろ、ある種のクリエイティブな直感を頼って、それを切り開いていくような行為でもって前に進んでいく。これは、ハンナ・アーレントのいう活動(action)ですが、それは理性的で自律的な営みとしての仕事(work)とは違う。自分がどうしたらいいのかわからないなりに前に進んでいくことができる、善き生とはそうした活動(action)の形でありうる、といえるのです。

ある「一手」を指すための直感は、議論の中では鍛えられないんですよね。もちろん、なぜその一手がいいのか、議論し、やはりいい手だったと納得することはできるけれど、「じゃあ君、指してみてください」って言われても、熟議でそれが身につくわけではないですよね。スポーツや音楽、演劇、あるいは多くの場面で、熟議しても身につかない能力はたくさんあります。私が本書で論じているモデルは、こうした理性を超えるような能力を引き出すことを、社会的にどう奨励するかという話です。

その時、ある人たちをロールモデルにして憧れを抱く。その人になれるわけではないけれども、自分の中のロールモデルを増やしていく、そういうあり方が、一つの人的な資本形成になる。これが私が考える介入の正当化、つまりロールモデルを増やす仕方で活動的な生(vita activa)を支援し、福祉国家を作っていくべきというものです。

  • いまもう六日の零時がせまる午後一一時四九分。携帯のボイスレコーダーで録音してnoteに投稿したじぶんのギター演奏をききながらウェブをみたり、ブランショの書き抜きを一箇所だけやったりした。ギター演奏一一番はたしかうまく弾けなかったので投稿しなかったのではなかったかとおもっていたが、聞いてみれば意外にもけっこう弾けていて、たのしく、ひかるフレーズもときおりないではない。きのう録った一二番のほうがぜんたいてきに安定しているような気はするが。なんというかコードの鳴らし方とかに一一番よりも堂々とした感じがある。いずれにしてもいつも録ってみておどろかされるのは、弾いているとちゅうにじぶんで聞いているよりも弾けているように聞こえることで、そこそこたのしめてしまえる。じぶんで弾いて聞くじぶんをたのしませることができるのだからたいしたものだ。素人のてすさびとしてはまあまあ良い味なんではないか。このまま独奏しているときのMonkみたいになれたらいちばんよいのだが。『Thelonious Alone In San Francisco』を去年だったか、まえにあらためて聞いたときに、Monkが家にいるときだれもみていないところでただひとりで日常的に弾いている演奏、何百回とくりかえしてきたであろうような、そしていまも日々弾いているし、これからも弾きつづけていくであろうような演奏をおさめているかに聞こえて、そこにMonkとピアノという楽器や音楽との関係があらわれているようにもかんじられて、かなり感動したのだけれど、じぶんなりにああいう演奏ができるようになったらもういいな、満足するなとおもう。
  • なんにせよもうとんと曲を弾いたり、他人のプレイをコピーしたりしていないから、似非ブルースも似非インプロも手数がすくなすぎる。聞いてみると、これよく弾けたなというフレーズもたまにあるのだが。
  • きょうは労働で一時四〇分には出るつもりだったので、それまでは気力体力を温存して文を書かず。出がはやいので七時には覚めたいとおもっていたが、そのおもいどおり、アラームをしかけていなくても六時四五分くらいにおのずから覚醒し、七時直前にははやくも身を起こした。いつもどおりそこから二時間くらい寝床にとどまってもろもろの文を読むわけだが。さくばんはここのところいつもそうであるように、半端なかたちで意識をうしない(夜にまた買い出しに出て、スーパーで買ってきたロースカツをおかずに夕食を取ったのだが、カロリーをたくさん摂取したためか食後はてきめんにからだが重くなり、一時間くらい椅子のうえでうごけなくなったあげく、寝床に逃げるといつの間にか死んでいた)、二時四〇分ごろにいちど現世に帰還し、そこで正式に就寝したのだ。
  • 本は大沼保昭著/聞き手・江川紹子『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』(中公新書、二〇一五年)をはやくも読了。はやい。読みはじめたのは三日、おとといなので、三日で読了している。きょうは145からはじめてさいご、242まで。しかしあれだ、いちばんうしろに載せられている「資料」(東京裁判の憲章とか、サンフランシスコ平和条約の抜粋とか、村山談話の全文とか)は読んでいないので、これも読んでおいたほうがいいな。参考文献もこまかくはみていない。
  • この新書はけっこう質の高い、良い本だったのではないか。基本的な知識や視座の提供という役割はじゅうぶんいじょうに果たしているようにおもえるし、すでにいちおう知っていることがらでもながれのなかで出てくるので、そうするとこういう文脈のまとめかたになるのかとおもったり、そこでちょっと細部がつけくわわっていたりして、もろもろとにかく参考になって、ほとんど毎項目ごとに書き抜きページとしてメモしたような調子だった。印象にのこっているのは、一九七〇年代の初めまで日本の国民は加害者としての戦争責任をかんがえることはできなかったというはなしで、戦後すぐは空襲もあり広島長崎の原爆もあり生活も困窮してとにかくひどい戦争だったという被害者意識が圧倒的だったと。それは不思議なことではない。また戦後しばらくのあいだも、敗戦によってこうむった国家の衰退から立ちもどるために高度経済成長のなかで必死にはたらき、国やおのれの家庭や生活を立て直すということで余裕がなかったのだろう。76ページには、「戦争が終わってから一九七〇年代初めまでの約二十五年間、日本国民は、日本から侵略され、殺された側の人々のことを考えることはほとんどできなかった。一般に尊敬されている優れた学者や作家などにも、そういう意識は驚くほど欠けていました」とある。「戦争の責任を問う議論は、敗戦のすぐあとに出て」くるものの、「この時期の戦争責任論は、ほとんどが敗戦責任論」、すなわち「なぜ負けたのか、負けた責任は誰にあるのか」という問題で、「他国に対してどれだけ甚大な被害を与えたのか、それに対する責任を日本はどう負っていくのか、という発想はまずみられない」という。数少ない例外が映画監督の伊丹万作と経済学者・思想家の大熊信行だったと。しかし、かれらの「視点は例外中の例外であって、一九七〇年代までのほとんどの戦争責任論で国民は暗黙裡に被害者として位置づけられて」おり(77)、「日本国民自身が侵略戦争を戦ったのだ、侵略戦争の一端を担った国民にも責任があるのではないかという議論は、非常に乏しかった」(77~78)。「一九七〇年代まで日本による加害の事実がまったく伝えられていなかったわけではありません」ともいうが、「客観的な事実はある程度知っていても、それが戦争責任という思考の枠組みのなかに入ってこなかったのではないでしょうか」(78)と推測されている。
  • これはけっこう意外だったというか、たんにじぶんが無知で想像力がなかっただけなのだけれど、こちらも一九九〇年に生まれて戦後教育を受けてきたにんげんとして、日本は一九一〇年に朝鮮半島を植民地化して三〇年代からは中国東北部を侵略していったという「歴史認識」はふつうに常識的に共有しているから、なんとなくもっとむかしからそれが常識的な見方として根づいていたようにおもっていたわけである。おもっていたというか、そもそもそういう「歴史認識」、右派のひとびとは「自虐史観」と呼ぶであろうものだけれど、それが「常識的な見方」かどうかははなれても(この本によれば満州事変にはじまる日本の国家行為が、とうじの国際法に反する違法な侵略戦争だったことはうたがいなく、世界中の学者に共有されている認識だと述べられているが(21))、そういう「歴史認識」がいつごろから広範に成立していたのかという疑問をいままでもつことがなかったのだ。なんとなくそういう見方は漠然としたむかしからあったのだろうくらいの、意識というか無意識としての意識でいて、だからその点右派にいわせればまさしく日教組の「洗脳」教育がなげかわしくも成功し蔓延しているあかしだということになるかもしれないが、それにたいして右派的な反対の見方もおなじく漠然としたむかしからあったのだろうと、あらためてかんがえてみるとそのくらいのあいまいな認識でいたようだ。しかしとうぜんそんなわけがなく、認識や解釈には、それをただしくたずねられるかどうかはべつとしても起源はある程度あるわけだし、神話や常識とは起源がうしなわれて自然化された文化のことである。「八〇年代には、一方では日本のアジア諸国に対する侵略戦争、韓国、北朝鮮に対する植民地支配の意識が、歴史認識としてようやくメディアでも大きくとりあげられ、「戦争の被害者日本」という支配的な意識に対して、とくにアジア諸民族との関係で「加害者でもあった日本」という認識が徐々に広がってきたように思います」(88)という。だから八〇年代がひとつの画期だったわけだが、ということはとうぜん右派的見地にとってもそれはひとつの画期でありまた勃興の契機だったわけで、「他方、そうした傾向に反撥し、九〇年代から本格的に展開される「右寄り」の思想や運動の準備がされていく時期でもありました」ということになる。「教科書問題」は、(一九六五年に家永教科書裁判がありつつも(ちなみに中学の同級生である(……)は大学時代に、家永三郎の孫が同級生にいると言っていた))もともと八二年に起こったことらしいし、「新しい歴史教科書をつくる会」の活動がはじまるのはWikipediaをみると九七年だ。九〇年代から小林よしのりなんかもふくめて右派的動向が活発化したというのは認知していたが、それは八〇年代以降に日本の加害者意識が「徐々に広がってきた」ことにたいするバックラッシュだったわけだ(かんがえてみればあたりまえのことだが)。だから、「自虐史観」と呼ばれるような「歴史認識」にしても、またそれに対抗する史観にしても、その根はぜんぜん浅いというか、こちらが漠然とかんがえていた(というよりはかんがえないでいた)よりもかなりさいきんのものだな、という印象を得た。
  • これとおなじことが言えるのが「人権」についてで、「「人権」は、今日では誰もが知っていて、逆に「人権、人権といって義務や責任はどうなのか」という反撥があるくらい、あたりまえのことばになりましたが、それほど日本社会に広まったのは一九七〇年代以降、本格的には八〇年代以降のことではないかと思います」(118)とあり、これもそうだったのかとおもった。うえとまったくおなじで、義務教育のなかでは「人権」という概念は日本国憲法の三大原理のひとつ、「基本的人権の尊重」において遭遇するわけで、だからぼやぼやしていると、憲法ができた直後はさすがにそうではないとしても、だいぶむかしから常識的に共有されていたかのような漠然とした感覚的認識になってしまい、いったいいつからそうだったのかという疑問を持つことがない(なかった)。この西暦二〇二三年、ロシアと中国を筆頭に、「人権」にもとるとしかいいようがないさまざまな状況は世界にいまだあまたあるいっぽうで、二一世紀というのはこれまでになく「人権」意識が高まっている時代でもあるとおもう。しかし、その思想的歴史はより古いとしても、それがじっさいに市民社会において一定以上ひろく確固たるものとして共有されたという歴史は、やはりぜんぜん浅いのだ。そもそもアメリカだって六〇年代に公民権運動をやっているわけだしな。人権思想じたいだって、どこをひとまずの起源的画期とするかは難題だけれど、フランス革命からかんがえたって二三〇年程度でしかない。社会権からかんがえればたかだか一〇〇年でしかない。「民主主義」だって同様で、すくなくとも近代的なものとしてのそれはやはりせいぜい二〇〇年程度の歴史しかいまだ持ち合わせていないわけだ。
  • 一時四〇分ごろアパートを出発。こんなに昼日中からそとに出たのはひさしぶりのこと。時間がはやいのでひかりは路地にもよく通り、日なたがひろく生まれているが、建物を出るとすぐ道脇の日陰のなかにはいったのは、携帯でシフトメールをみてきょういっしょにはたらく面々を確認しておきたかったからだ。日陰にはいっても画面は見づらく、片手をかざして暗さを強化しながら文字を読み取る。そのあいだはさすがにすこし冷え冷えとするが、小型機械をしまってあるきだし、ひかりのなかを行けば首もとをまもっていなくとも問題のない大気のおだやかさで、南の車道に出て西へ向かうと街路樹なり落ち葉なり家屋建物なり通行人の服の色なり、どれも冬らしくおさえた色調で鮮烈なものはないけれど、しかしそのどれもあかるくくっきりと、とりどりで穏和に目に立って、ロマン派詩人にされてしまいかねない好天だった。コンビニまえで四囲をあおぎ見れば雲はほんとうに一粒もない。まったき青さのしたをあるいていくと、(……)通りに当たるまでのあいだにある住んでいるのかいないのかわからない一軒の、塀内から道の頭上に伸びだしている緑樹のこずえに、わずかに青みがかって暗い色の粒立ちが無数に見えてきて、これはベリー類の木だったのかとはじめて気がついた。その暗い色ですらあかるさをふくむ。
  • 道のすじを変えずにそのまま空き地や病院のまえを過ぎてまっすぐ行った。(……)と病院のあいだにはさまる公園の入り口には大樹が一本とベンチがいくつか置かれてあり、付近の地面をハトが何匹もうろついている。みればスレートっぽい灰色の体色にあまり乱れがないようで、首もとの碧も水面を点ずるようによくみえて、なんだか地元でみる連中より土っぽさがないな、やはり街のハトということなのか、粋を気取るかに堂々としてやがるとおもった。午後のはやくなのですれ違うひとはおおい。休憩に出たような雰囲気のサラリーマンや、男児を連れた母親など。あいまにはさまる路地の入り口にかかるちいさな横断歩道を、あるところでは首をまわしながらきちんと待ち、あるところでは赤を無視して通り抜けながら、(……)通りを行った。駅へと曲がる交差点のそば、対岸には駐輪場がもうけられていて、無数に詰まった自転車の群れのそこここに光点が宿ってきらめきを返し、その前の歩道を三〇代から四〇代とみえるスーツの男女が、おなじ職場の同僚らしくかたまって、といってあまり横にならばず前後で列をなしながら、急ぎもせずそぞろ歩きのスピードでてくてく進んでいるのが、車道をはさんだ真横からみると子どもの行進のように絵になって、そこにバスがやってきたので一時かれらはかくれたのだが、信号が変わって車が去ればその向こうから変わらず一定の速度ですすむ四、五人がするする復活し、この一幕だけでもう映画だなとおもった。
  • 電車内、勤務中とも緊張や不安に刺されることなく、つつがなく済んだ。電車は時間がはやいからひともすくなかったし。ヤクのブーストをせずに二錠だけで帰宅までほぼ問題なく過ごすことができた。パフォーマンスとしてはたいしてよくは感じなかったが。さいしょのうち、説明中にすこしだけ息が続きづらいような時間もあった。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)

―――――

  • 日記読み: 2022/1/5, Wed.
  • 「読みかえし2」: 751 - 762, 763 - 782