2023/1/10, Tue.

 青い空、青い水。やわらかい、あたたかい、青い。ふうわりと陽炎のベールをかぶったアクアマリン色の海。おだやかなサファイア色をした空が吐き出す、あたたかい息吹。あらゆるものがやわらかい、青い、あたたかい。上が、下が、あらゆるところが。わたしを取り巻くすべてが。なだらかな青い丘と谷、それを突き破り飛び出すトビウオの大群。きらきらと、半ば透きとおって、スパンコールの雲のなか、水面 [みなも] をかすめ飛び、飛沫 [しぶき] もほとんど立てずふたたび水中に没する。遠くで潮吹くおだやかなクジラの群れ、それに囲まれて跳ね戯れるイルカたち。ネズミイルカが二頭ずつ、一糸乱れぬリズムを保って波にもぐる、跳ねる、宙返りする。それはそれは楽しげで、陽気で、優雅で、その重たい体は偽りの姿のよう、仮装かなにかのよう。アシカたちは暢気に機敏に、ぬくぬくと日射しを満喫し、青い水の羽布団にくるまれて転がりまわる。そしてわたしは、アザラシたちと並んで泳ぎ、ゆうるりとあたたかく透明なうねりのなかでいっしょにゆらゆら揺れる、くるくるまわる。やわらかさとあたたかさに包まれて、青い海のゆりかごにあやされるままに、わたしはうつらうつら漂ってゆく。いや、あやしてくれているのはあたたかく青い大気か。空の高みでグンカンドリの群れのなか、ハサミの形の尾羽をひらいては閉じしながら、わたしはゆったりと風に乗っているようでもある。あるいは小(end147)さな雲から雲へとすばやく渡り、あるいはアホウドリの翼の一打ちで一日中飛びつづけ。究極の憩い、安らぎ、喜び――これこそは楽園。なんとすばらしい感覚なのか、あたたかくやわらかい青とすみずみまで一体化するのは。なにも知らず、なにも考えず、なにも怖がらず。完璧に安らいで、絶対的に癒やされて、わたしを取り巻くすべてとひとつになって。
 (アンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)、147~148; 「クリスマスの願いごと」)



  • 一年前から。Bill Evans Trioの感想をながながと書いている。

(……)ヘッドフォンをつけてひさしぶりにBill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』をながした。冒頭の”Gloria’s Step (take 1; interrupted)”の最序盤から、ひだりがわのScott LaFaroの音に、やっぱり意味のわからないうごきかたしてるな、とおもった。ふつうこんなふうにうごかないでしょ、と。Scott LaFaroがこういうことをやりはじめたとうじ、はじめてきいた人間とかほかのベーシストとかは、ぶったまげたんじゃないかという気がする。こいついったい、なにやってんの? とおもったんじゃないかと。六一年ならいちおうもうフリーもはじまってはいるから、ほかにも似たようなかんじのひとはいたのかもしれないが。ただやっぱり、すくなくともピアノトリオというフォーマットのなかでのこういうやり口というのはそれいぜんにはなかったのだろうし、それまでの伝統からして拒否反応をおぼえたり、馬鹿げたことをやっていると批判したり、これでは破綻していると判断したりしたひとがとうじいたとしても、不思議ではないとかんじる。

二曲目の”Alice In Wonderland (take 1)”では、対話的な感覚をかんじた。五九年から六一年のBill Evans Trioにまつわっては、「インタープレイ」ということばをともないつつ、それまでのピアノトリオにはないレベルで「対話」がくりひろげられている、みたいなことがほぼかならずいわれる。しかしいままでじぶんがきくところ、あまり「対話」という感覚はおぼえてこなかった。「対話」というと、たがいがたがいのほうを見て、あいてのでかたをうかがいつつ適切なかたちでじぶんの音を返し、調和的なやりとりを積極的に生み出す、というさまがイメージされるのだけれど、Bill Evans Trioの三人は双方のようすをうかがってなどいないし、そのあいだに意図的なやりとりなども生じておらず、三人が三人、バラバラにじぶんの方向をむいてひたすらじぶんの演奏をしているのが、なぜか偶然一致してしまっている、というのがじぶんがいままで主におぼえてきたこのトリオのありかたにたいする主観的な印象だった(もちろんそれはそこに発された音からこちらがイメージしたものなので、じっさいにそこで起こっていたであろう現実を正確にとらえてはおらず、三人もふつうにおたがいの音をきいてようすをうかがったり、それに合わせたり突っこんでいったり、ということはときに意識的におこなっていたはずだ)。しかし今回、”Alice In Wonderland (take 1)”のピアノソロぶぶんをきいたかんじでは、たしかにこれは対話的といってもいいような、流動的な絡み合いかたをしているな、とおもった。Motianはいったん措くとして、主にEvansとLaFaroの接し方なのだけれど、けっこうわかりやすく対位的というか、いっぽうが沈んだところにいっぽうが浮かび上がったり、たがいにかすめながらすれ違ったりする、みたいな動きかたが見られたとおもう。しかしやはり、意図的というかんじや、瞬間的にであれそれを狙って、という気配はうすく、たがいの弾き方をしていればこの曲ではもうしぜんにそうなってしまう、というような、きわめて高度な領域でそれが成立している印象。三拍子の、いわゆるワルツ形式であることも手伝ってか、二者がたがいに手を取ったり離れたりしながら自由に踊りあっているという、ひじょうに陳腐なイメージすらおもい浮かべてしまった。音楽は言語を介さないコミュニケーションであるとか、奏者と奏者の対話であるという比喩(とはいえ、演奏者はじっさいにそれを体感しているだろう)とか、高度に調和した演奏をダンスとして描き出すような演出とかは、ひろく流通しているもので、かなりありがちなものではあるのだけれど、しかしいくらか安易な想像力でそういうふうに描き出されるような事態が、ここではたしかに現実に起こっているな、とかんじた。それにしても、Bill Evansのピアノは洗練されている。音をやや詰めるときのつらなりのなめらかさ、一音一音のおおきさが一定ではっきりと聞き取れるその粒立ちには、ほれぼれしてしまう。たいしてLaFaroは、あきらかに野蛮人である。これもかなり陳腐なまとめかただが、このふたりをほとんど対極的な洗練と野蛮の平等なむすびつきとして語ることは、おそらくできないわけではない。ただ、そうしたばあい、Motianがいったいなんなのか? というのがいつもわからない。Motianがこのトリオにおいてどういう役割を果たしているのか、というのがいつまで経ってもつかめないのだ。おおきな役割を果たしていないわけではない。それどころか、ドラムがPaul Motianでなかったらこうはならなかっただろうという曲や場面は確実にあるのだが、かれのはたらきを整理することばがみつからない。気まぐれ、といちおう言えなくもない。洗練 - 野蛮 - 気まぐれ、の三位一体と。ただ、この六一年段階ではその性質はそこまでつよくはないし、Motianじしんのありかたもそれにとどまるものでもない。

Evans Trioのこの音源をきいていて感じるのは、めちゃくちゃいそがしい音楽だということだ。音楽そのものがせわしないものであるというよりは(それもときにあるが)、きいているこちらの耳がとてもいそがしくなるということで、そこで起こっていることが豊かにありすぎて、それに追いつけない、というかんじ。そういう意味でじぶんにとってこのライブ音源は、聞き終わることのできない音楽である。とりわけやはりLaFaroだが、運動感がすごい。かれだけを注意してきいていても、追いつけないような動き方をしている。それにMotianとEvansもくわわるのだからなおさらである。こんなにも複雑に躍動している音楽はほかにまずないとおもう。”All of You”がむかしから好きなわけだけれど、今回take 1をまたきいて、とにかくすごいな、やばいなとおもった。なにがすごいのか言語化できないが、とにかくすごい。ピアノソロのとちゅうと終盤でなみだの感覚をちょっともよおしたくらいだ。ここでは”Alice In Wonderland (take 1)”のそれとはかなり違ったありかたが成り立っているようにおもう。対話、などというものではない。うえに記した、「三人が三人、バラバラにじぶんの方向をむいてひたすらじぶんの演奏をしているのが、なぜか偶然一致してしまっている」というイメージをもっとも得るのが”All of You”である。バラバラに、とまでいうのは言い過ぎかもしれないが、そうだとしても、すくなくともたがいの顔は見ておらず、おなじひとつの方向をむいている、というイメージが正当であるようにかんじられる。サン=テグジュペリはそれを愛と呼んだ。

“All of You”とおなじくテンポのはやくて勢いの良い演奏は、ディスク1ではあとさいごの”Solar”がある。これもすごかった。テーマからつづくさいしょのぶぶんはいちおうピアノソロという位置づけだとおもうのだが、その前半ではむしろLaFaroが主役のようにきこえ、Evansは、バッキングまではいかないがひかえめに音をつけている。その後、LaFaroがやや低音に引くとともに、Evansが本格的に音をつらねだしてピアノソロ然としてくるのだが、そこからベースソロまでのLaFaroのバッキングはすごく、ほんとうに、ワンコーラスごとに違ったうごき、違ったアプローチをつぎつぎとくりだしている。よくこんなに出てくるな、どれだけ引き出しあるんだ、とおもった。Motianとのデュオになるベースソロもすごい。ある種の執拗さみたいなものをかんじさせる。ほかの曲でもそれはあって、たとえば”All of You”のソロの終わりちかくには瞬間的な連打があったのだけれど、それをきいたとき、なんでこの音楽がたんなるきれいで洒落たBGMとして消費されてしまうのか理解できない、LaFaroのこの音をきいただけでも、そんなことができないのはあきらかではないか、とおもった。

  • 短歌も以下のように連続してつくっていて、すごく良いものはないが全体的にそんなにきらいではない。

 流星の故郷を訪 [と] うた夜以来再創世の予言に夢中

 白銀の雨のすきまのひとひらで天使は踊れ愛を讃えて

 ゆびさきに花びらが降るこの千年恋人たちの夜はかわらず

 万象と肌の溶け合う極夜では炎もなまえもおなじ意味だよ

 嘘つきにまさる美徳のひとはなし想像力が罪となる世で

 ひめやかな大停電の翌朝はならず者らに聖性を見よ

 川水とこずえのあいだを時がゆき光ばかりが恋をとどめて

 犬猫もうさぎも鳥も虫どもも畜生は好きだ自尊がなくて

  • その他以下の言。

一時まえ。さきほどのこした飯を夜食として食いながら、(……)さんのブログを読んでいる。一年前の記事から、清水高志とかK DUB SHINEの件にまつわって、一辺倒に叩く批判ではなく「説得」の必要性やその作法について述べた箇所が引かれている。それを読んだ当時もおもったが、ある程度真正な意味で他人を変えようとおもったら、ある種そのひとに「取り入る」ようなやりかたが不可欠なのではないかと。そしてそれはとうぜん、そのひとに「取り込まれる」危険と密に接しあった場所であるわけだけれど、ほんとうに意味のあるしかたで他者を変えられる契機があるとしたら、そういうやりかたしかありえないのではないか、と。わからん、めちゃくちゃ叩かれまくって目が覚める、みたいなこともあるのかもしれないが。ただ、ネット上では匿名多数のそういう叩きがより集まりひじょうにおおきなちからとなって個人におそいかかり、そのひとの承認を根こそぎ奪い取ってそれまでの生や精神を破壊してしまったり、望ましくないところや取り返しのつかないようなところへ追いやってしまったりする、という例はいままでにいくらでも目撃されているだろう。批判こそが最重要であり敵対者を叩いて事足れりとするひとびとは、そもそもあいてを「説得」したり変化させたりしようとはたぶんかんがえていないのだとおもう(じっさい、「説得」したり「変化」させることを目指すことは、時間的にも労力としてもひじょうにコストがかかることだし、集団を対象としてそれをおこなうことはほとんど不可能だとおもわれ、しかも個人をあいてにしたとしても成功が保証されていないどころか、みずからのたちばを危うくする可能性すらあるから、ほとんどだれも積極的にそういう振る舞いを取ろうとしないとしても不思議ではない。端的に言って、とにかくあいてを批判しているほうがたぶん楽なのだ)。たんに、敵対者をやりこめて、対立するたちばのひとびとがこの社会で活動しにくいようにしたり、その勢いを削いだり、かれらの思想を拡散させたりするのを防ぎたいというだけなのではないか。それが戦略的に必要だったり重要だったりすることもあろうし、そもそもあいてを「変化」させる必要などないのではないか、ヘゲモニー闘争で勝利すればいいだけだ、という意見もありうる(「批判こそが最重要であり敵対者を叩いて事足れりとするひとびと」はそういうかんがえだろう)。ただ、いまはおそらく世界のいたるところで、そのような「分断」が支配的になり、対立者とのかかわりかたがほとんどそれしかないような状況になっているのだとおもう。アメリカ合衆国がそのもっともおおきな例であり、象徴のようなものだろう。

  • 「読みかえし2」から。

「フランス下院選決選投票、与党連合が過半数割れ 2期目のマクロン政権に大打撃」(2022/6/20)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/184508)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/184508%EF%BC%89)

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 【パリ=谷悠己】フランス国民議会(下院、定数577)選挙の決選投票は19日に投開票が行われ、マクロン大統領を支える中道の与党連合は最大勢力を維持したものの、野党の伸長によって過半数を割った。与党連合は多数派工作を進める方針だが、不調に終われば法案審議が困難になり、マクロン政権にとって大打撃となりそうだ。
 仏内務省によると、与党連合は改選前から約100議席減らし245議席にとどまった。与党の過半数割れは下院選が大統領選直後に行われるようになった2002年以降で初めて。
 大統領選で3位だったメランション氏が主導する左派連合「人民環境社会新連合」が131議席で最大野党となった。左派連合は、同氏率いる急進左派「不屈のフランス」を中心に新たに結成された。大統領選でマクロン氏に迫ったマリーヌ・ルペン氏の極右政党「国民連合」は改選前の10倍以上となる89議席と急進し、政党別の第2勢力に。最大野党だった中道右派共和党は61議席にとどまった。
 ボルヌ首相は19日の会見で「かつてない危険な状況だ。多数派づくりに取り組む」と述べたが、連立相手として有力視される共和党ヤコブ党首は「政権に対抗する立場は変わらない」と強調した。
 下院選の決選投票は小選挙区制で、ほとんどが一騎打ちの構図だった。投票率は約46%で、過去最低だった17年の前回選をわずかに上回った。

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863

 歩く場所をめぐる対立が由来していたのは土地の捉え方の違いだった。野山をひとつの大きな体と考えると、土地所有はそれを経済的な単位で分割するという考え方にもとづいている。ひとつの体を内臓や食肉の部位のように分けるということであり、食糧生産のために風景を構造化する堅実なやり方だ。しかしこの考え方では、湖沼や山や森林をも同様に垣根で区切らねばならないということを満足に説明できない。そうやって大地を細分化する土地所有の境界ではなく、循環系のように機能して、全体をひとつの有機体に結びつけている道にこそ、歩く(end268)ことは関心を向ける。その意味で、歩行は所有のアンチテーゼである。歩くことは、大地において、動的で抱えこむもののない、分かちあうことのできる経験を求める。流浪の民は国家の境界を曖昧にし、穴を開けてしまう存在としてナショナリズムに敵視されることが多かったが、歩くことは、私有地というやや小さなスケールの相手に対して同じことをしているのだ。
 家畜用の低い段を踏み越えて牧場を横切り、実利的で、それでいて美しい農地の脇をかすめて歩く。イギリスにおけるウォーキングの愉しみには、たしかにこうした通行権の対象となっている道がつくりだす共生の感覚がある。通行権というもののないアメリカの土地では、生産とあそび [﹅3] の領域がきっちりと分断されている。おそらくこのことが、アメリカの擁する莫大な農業用地がほとんど認識も意識もされていない理由のひとつだろう。市民にもっとひろいアクセスの権利が保証されているほかのヨーロッパ諸国、デンマーク、オランダ、スウェーデン、スペインといった国々の制度に比べれば、イギリスの通行権はそれほど顕著な特徴をもっているわけではない。しかしこの通行権の考え方は、所有権のみを絶対視することなく、小道を土地境界と同じくらい重要な原則に据えるという、土地に対するひとつの別の見方を伝えている。ブリテン島の九割近くの土地は私有されているため、野山に足を踏み入れることは私有地への立入りの問題となる。他方、日曜日に散歩に行くには便利とはいえないものの、合衆国にはかなりの公有地が残されている。それゆえに、イギリスのウォーキング運動家が境界に反抗して闘う一方で、シエラ・クラブは境界を護るために闘った。イギリスでは公衆を排除するために土地に境界が引かれたが、合衆国の土地境界は公有地を公共のままに、手付かずのまとまりと(end269)して保ち、民業の進出を阻むために引かれていたのだ。
 ストウの大庭園を見に行ったときに出会った案内人は、この庭園は教会の周囲の村を取り壊し、「薄汚い村人たち」を一マイルほど移住させて造られたのだと教えてくれた。彼女によれば人びとはのら着 [﹅3] を着なければ庭園に立ち入ることが許されず、その理由は眺めの趣きのためだったという。三時間ほどして、いまや木々と低木の背後に隠れてしまった教会のそばで再びこの反骨精神に富む魅力的な女性にばったり出会い、わたしたちは話し込んだ。通行権についていえば、彼女は幼い頃、「不法進入者は告訴する」と書かれた看板を掲げる農園のそばで暮らしていたという。彼女はそれを死刑のことだと思い込み、他人の首を刎ねるような人間がよく教会に来れるものだと訝しんでいたという。のちに外交官の夫とロシアに住んだが、ロシアでも他所でも、ほとんどの国で不法侵入自体はそもそも考えの埒外だったという。わたしが出会ったイギリス人の多くは、土地の景観は彼らの受け継いだ遺産であり、自分たちにはその場に足を運ぶ権利があるという感覚をもっていた。合衆国ではそれよりはるかに私有財産が絶対視され、その正当化に寄与する存在として莫大な公有地がある。個人の権利を公共の利益に優先させがちなイデオロギーと同じように。
 だからこそ、イギリス文化においては通行という行為が大衆運動として存在し、私有権の範囲がいまだ議論の対象たりうるという発見は、わたしにとって心の震える出来事だった。歩行が所有によって分断された大地を縫い合わせる行為だとすれば、不法進入はその政治的な身振りとなる。自由党の議員だったジェームズ・ブライスは、一八八四年に私有の草原や野山の通(end270)行を認める法案を提出するが、これは不首尾におわった。数年後に彼はこう宣言している。

大地は、我々が限度なく使い尽くすべき資産ではない。大地は、我々が身をおき、生きる糧を得、さまざまな楽しみを得るために不可欠なものである。したがってわたしは、法によって、あるいは自然的正義によって無条件の進入禁止を命じる権能などというものが存在するあるいは認められるということを否認する。

 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、268~271; 第十章「ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争」)


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 マーゴリンの出版社ヘイデイ・プレスには、自社の刊行物と並べて、ほかの小出版社や企画の本が陳列されていた。彼は自分の机から『オファレル通り九百二十番地』と題された本を手に取り、わたしに差し出した。ハリエット・レーン・レヴィが記したこの回想録には、一八七〇年代から八〇年代にサンフランシスコで育った彼女の目を見張るような経験が綴られている。彼女の時代には通りを歩くことはいまでいえば映画を観に行くようなきちんとした [﹅6] 娯楽だった。

土曜の夜には、マーケット・ストリートの遊歩道に街中の人が集まった。この道は幅の広い目抜き通りで、海岸近くからツイン・ピークスまで、まっすぐに何マイルも続いている。歩道も広く、湾に向かって歩く人びとと、太平洋側に向けて歩く人びとの群れがすれ違う。(end184)人びとはまるで、束の間の祝祭を求めるように湧き集まる。すべての街の隅々が住人を吐き出して、洋々とした人の群れをつくりだす。名望ある紳士淑女。その使用人を務めるドイツ系やアイルランド系の娘たち。その腕をしっかりと抱えている恋人たち。フランス系、スペイン系、勤勉な瘦身のポルトガル系の住民たち。メキシコ人。赤味のある皮膚の、頬骨の高いインディアン。誰もがみな、家や店や、ホテルやレストランやビア・ガーデンを空っぽにしてマーケット・ストリートの色彩の河となる。船乗りたちは国籍を問わず岸壁に停泊した船を捨ておいて、大小の群となってマーケット・ストリートへ急ぐ。そして街灯りと賑わいのなかへ、人込みに浮き立つ人の波に加わっていくのだった。これがサンフランシスコなのだ、と彼らの顔は叫んでいた。お祭りだった。紙吹雪の代わりに、空には幾千の言葉が舞い、仮面の代わりに、顔には衒いのない意気が溢れていた。マーケット・ストリートをパウエル・ストリートからカーニー・ストリートまで大きなブロック三つ分下り、カーニーから今度はブッシュ・ストリートまで小さなブロック三つ分を上る。何時間もいったりきたり、ほのかな好奇心が興味に変わり、興味が笑顔を輝かせ、笑顔がなにか別のものへ変わってゆくまで。土曜日の夜には、父とわたしはいつでもダウンタウンに出かけた。やわらかで輪郭を失ったような世界のなか、灯りの点る通りを歩いた。どこにいても途切れることなく、何事かが、なにかうれしくなるようなことが起きていた。……歩いても歩いても、止むことなく新しい何かが湧き出してくるのだった。

 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、284~285; 第十一章「都市――孤独な散歩者たち」)

  • きょうの起床は一一時ちょうど。覚めたのはおそらく八時台で、九時ごろだったか九時二〇分だったかに時間をみたおぼえがある。覚めてからもしばらくは起き上がらずに布団のなかで深呼吸をしたりしていた。身を起こすとカーテンをひらき、首や肩をまわしてからまたあおむけに。そうしていつもどおりChromebookでウェブをみたり、日記や読みかえしノートを読んだり。いくらかまえは覚醒時に左手の肘とか甲のあたりが明確に冷えていたが、さいきんはそうでもなくなってきた。とはいえきのうも勤務中、さいごのほうでいくらか胸苦しくなって喉からなにか出てきそうな感じが起こったし、油断はできない。労働のあいだはものを食う時間がない。そうするとエネルギーも消費されてからだが冷えていくいっぽうだから(時間もおそくなっていって、室内はエアコンがついているとはいえ気温も下がるし、生徒を出迎えたり見送ったりするときに入り口付近で寒風にふれるタイミングもある)、筋肉が収縮して、肩とか上背部がこごってそうなるのだろう。あたたかい飲み物でも保温式の水筒(タンブラー?)に入れて持っていくくらいしたほうがよいのかもしれないが、あまり気はすすまない。それできょうは起きてからは腕振り体操をおりにやって肩周りをよくほぐしている。一一時に離床するとすぐに座布団をそとに出して布団をたたんでおき、水を飲んだり用を足したり体操したり。洗濯もはじめる。洗うものはすくないが。一一時二四分から瞑想。鼻から吐いて吸う深呼吸をしばらくやってから静止。ひだりの背後からは洗濯機の稼働音が、そして右の窓外からははげしい風の音が聞こえてきて、空はきょうも雲ひとつないまったき快晴の青さがひろがっているのだけれど、なぜか風はめちゃくちゃにつよくたびたび吹き荒れ、窓がギシギシ鳴らされる時間もあったし、のちに洗い終わったワイシャツを干したときにもそのかたむきといったらほとんど水平に浮かぶくらいで、竿にまつわりつきそうだったし、しばらくすると物干し棒が片端はずれて落ちていたので、こりゃだめだなとおもいワイシャツは室内に吊るした。レースのカーテンの向こうでカーテンレールにひっかけて、せめてはいってくる陽射しに当たるようにした次第。その他の洗い物は円形ハンガーひとつ分におさまった。
  • 瞑想は一一時四九分だったかそのくらいまで。洗濯がもう終わりそうだったので腕を振りながら待って干した。食事はキャベツがもうないのでサラダは白菜と豆腐とハムのみ。野菜を切ってこしらえつつ、つかったまな板包丁をすぐに洗い、椀に即席の味噌汁を小袋からひり出すとその袋もすぐにゆすいで水切りケースに置いておき、ケトルに水をそそいで台座にセットするとカチッとスイッチをいれる。そうしてまた腕を振っていると血流がうながされるからだろう、便意が来たので、湯が沸いているあいだにトイレにはいって糞を垂れた。首から肩、背骨付近が便通に関係しているらしいことは気づいている。便通というか全般的な体内のながれだろうが、トイレで便器にすわったときに首をまわしているとうながされるのが経験的事実として観察されている。腹をかるくして出てくると味噌汁をつくり、あまった湯もマグカップにそそいで食事。二品いがいにレンジであたためるソーセージのはさまったちいさなナンも。
  • 食後は歯磨きをしたり白湯を飲んだりしつつウェブをみてだらだらしたあとさらに寝床にうつってだらだらした。歯磨きをしようと立ったときに、時刻は一時ごろだったとおもうのだが、窓辺でカーテンにうつっているひかりがとにかくあかるいなと好天の感をえて、それで歯磨きは椅子にすわるのではなくそちらに寄って、たたまれていた布団の端に尻を乗せてレースもちょっと開け、吊るされた円形ハンガーのむこうにかがやく西南の太陽を浴びながらやったくらいだ。窓のした半分は磨りガラスになっているが、こまかいおうとつに加工されたその表面のうち洗濯物の影からのがれた範囲はいたるところ白光が散乱し、上端の一画などほとんどすきまなく詰めこまれた具合で星屑の氾濫のおもむきだったが、よくみてみればあちらこちらのきらめきには赤や青、黄や緑の色味が見逃してしまいそうなかすかさではあれたしかにふくまれていて、こちらの目の位置がうつるにおうじてそれらの色も変容し、イルミネーションをおもわせるようなちょっとあざといくらいの響演なのだが、ガラスというものもよくできているなあとおもった。
  • 寝床でだらだら過ごしたあとはきのうにつづきストレッチもした。あたまが固かったので、合蹠をやったり、あと正座みたいに脚をたたみながら上体もそのまま落として額を前方につけるとともに腕をまえに投げ出す姿勢もしばらくやって、こうすると頭蓋のほうとか首まわりとかに血が行ってほぐれるからきもちがよく、ちょっとねむいような感じにすらなる。あいまに腕を振ったりも。洗濯物も取りこんで即座にたたんでおいた。それで床をはなれてきょうのことをここまで書けばいま四時直前。
  • いま八時一七分で、あとまわしにしていた六日の記事をやややっつけでかたづけた。腕を振っているから上体は比較的ほぐれていてゆびはよくうごくのだけれど、どうしても左肩のあたりがピリついたりざらついたりする感じはあって、それが気になってあまりながく打鍵しようという気にならん。やりづらい。キャベツがもうないし、このあとまた買い出しに行きたいところ。米もなくなったのでそれも買い、夕食のおかずもなんか惣菜を買って米とともにむしゃむしゃ食えばよいのではないか。そういえば昼間にめずらしく兄からSMSが来ており、なにかとおもえば誕生日に炊飯器を贈ろうとおもうというので、それはありがたい、なんだかんだ買わずに来てしまっているので、とこたえておいた。これでようやく米を炊けるようになる。しかしもらっても現状置き場があまりないけれどな。ものの配置を変えなくては。それでおもいだしたがあしたが雑紙の回収日なので、先日紙袋にまとめた連中を買い出しに行くさいに出しておかなければなるまい。

Japan’s government is offering 1m yen ($7,500) per child to families who move out of greater Tokyo, in an attempt to reverse population decline in the regions.

The incentive – a dramatic rise from the previous relocation fee of 300,000 yen – will be introduced in April, according to Japanese media reports, as part of an official push to breathe life into declining towns and villages.

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The payment – which comes on top of up to 3m yen already available in financial support – will be offered to families living in the 23 “core” wards of Tokyo, other parts of the metropolitan area and the neighbouring commuter-belt prefectures of Saitama, Chiba and Kanagawa.

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Families hoping to secure an easy payday before returning to the capital will be disappointed, however. They must live in their new homes for at least five years and one member of the household must be in work or plan to open a new business. Those who move out before five years have passed will have to return the cash.

Officials hope the generous sums on offer will encourage families with children aged up to 18 to revitalise regions and ease pressure on space and public services in greater Tokyo, the world’s biggest metropolis with a population of about 35 million.

In principle, relocating families receive 1m-3m yen per household provided they meet one of three criteria: employment at a small or midsize company in the area they move to; continuing in their old jobs via remote working; or starting a business in their new home, according to the Nikkei business newspaper. After the higher payments are factored in, a family with two children could be eligible for up to 5m yen.

Half of the cash will come from the central government, and the other half from local municipalities, Kyodo said.

The scheme has struggled to capture the public imagination since it was launched three years go, with support provided to 1,184 families in 2021 – the year teleworking became more common – compared with 71 in 2019 and 290 in 2020, the Nikkei said.

The government is hoping 10,000 people will have moved from Tokyo to rural areas by 2027, it added.

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The population of the world’s third-biggest economy suffered a record fall of 644,000 in 2020-21, according to government data. It is expected to plummet from its current 125 million to an estimated 88 million in 2065 – a 30% decline in 45 years.

While the number of over-65s continues to grow, the birthrate remains stubbornly low at 1.3 children– well below the 2.1 needed to sustain the current population size.

In 2021, the number of births totalled 811,604, the lowest since records were first kept in 1899. By contrast, the number of centenarians stands at more than 90,500 – compared with only 153 in 1963.

The manufactured mayhem that tore through the centres of power in Brasília on Sunday should be seen, at least in part, as another front in the war on nature.

One week earlier, the new president, Luiz Inácio Lula da Silva, had marked his inauguration by unveiling what is arguably the world’s most ambitious environmental program.

He and his environment minister, Marina Silva, promised zero deforestation in the Amazon, an end to invasions into any of Brazil’s biomes, and greater participation for Indigenous peoples in national decision making. These are changes on a historically epic scale. Since the invasion of the first Europeans 500 years ago, the economy of Brazil, has been built on destruction of the wilderness and subjugation of the original inhabitants.

This threatened an old – mostly white – elite, as well as those who depend on illegal extraction activities, such as land grabbing and gold-mining in nature reserves and Indigenous territories.

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Among the first 70 or so names of the detainees released by police were figures who will go down as criminal cranks, similar to the “Q-Anon Shaman” and others involved in the Capitol riot in Washington DC three years ago.

Their Brazilian counterparts include William Ferreira da Silva, the self-styled “Weatherman”, who ran for political office in the Amazonian state of Rondonia and posted campaign pictures of himself in military khakis; and Adriano Castro, a visual artist and internet influencer for the right-wing BBB “bullets, bible and beef” movement.

Many were active in politics. One was a member of the former ruling clan: Leo Índio, who is a nephew of Jair Bolsonaro.

More than a dozen were involved in local government or had stood as candidates in October’s elections. Another was the wife of the former Paraíba state governor. Several were security guards on municipal payrolls. Apart from that, the mix was diverse, including a mechanic from the southern state of Rio Grande do Sul, a barber from Brasília, the head of a shopkeepers association from Goiás, and a lawyer from Minas Gerais.

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It is no coincidence that many of these participants are from the Amazon. The vast rainforest region is a hotbed of support for Bolsonaro, along with the far south and wealthy enclaves inside major coastal cities. Many in the “arc of deforestation” profited from the Bolsonaro years, which saw a 59.5% increase in land clearance and impunity for illegal gold mining and land-grabbing.

This criminal activity is threatened by the new government in multiple ways. In his inauguration speech, Lula promised a return of the state to the Amazon: “We will encourage prosperity in the land, but we cannot make it a lawless land, we will not tolerate deforestation and environmental degradation.”

His most progressive initiative was the creation of a new Indigenous affairs ministry, which gives first peoples more power and a greater platform than at any time in the country’s history. This was anathema to many insurrectionists.

All eyes are now on the security forces. The army’s loyalties would seem to be with Bolsonaro. Generals played a prominent role in the last administration and Bolsonaro was a former army captain and enthusiastic supporter of Brazil’s last military dictatorship from 1964-85. That regime started with a coup and focused considerable energy on opening the Amazon to exploitation by sympathetic business groups.

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Quick Guide
Brazil's dictatorship 1964-1985


How did it begin?

Brazil’s leftist president, João Goulart, was toppled in a coup in April 1964. General Humberto Castelo Branco became leader, political parties were banned, and the country was plunged into 21 years of military rule.

The repression intensified under Castelo Branco’s hardline successor, Artur da Costa e Silva, who took power in 1967. He was responsible for a notorious decree called AI-5 that gave him wide ranging dictatorial powers and kicked off the so-called “anos de chumbo” (years of lead), a bleak period of tyranny and violence which would last until 1974.


What happened during the dictatorship?

Supporters of Brazil’s 1964-1985 military regime - including Jair Bolsonaro - credit it with bringing security and stability to the South American country and masterminding a decade-long economic “miracle”.

It also pushed ahead with several pharaonic infrastructure projects including the still unfinished Trans-Amazonian highway and the eight-mile bridge across Rio’s Guanabara bay.

But the regime, while less notoriously violent than those in Argentina and Chile, was also responsible for murdering or killing hundreds of its opponents and imprisoning thousands more. Among those jailed and tortured were Brazil’s first female president, Dilma Rousseff, then a leftwing rebel.

It was also a period of severe censorship. Some of Brazil’s best-loved musicians - including Gilberto Gil, Chico Buarque and Caetano Veloso - went into exile in Europe, writing songs about their enforced departures.


How did it end?

Political exiles began returning to Brazil in 1979 after an amnesty law was passed that began to pave the way for the return of democracy.

But the pro-democracy “Diretas Já” (Direct elections now!) movement only hit its stride in 1984 with a series of vast and historic street rallies in cities such as Rio de Janeiro, São Paulo and Belo Horizonte.

Civilian rule returned the following year and a new constitution was introduced in 1988. The following year Brazil held its first direct presidential election in nearly three decades.

  • いま一一日の零時四五分。九時一五分ごろに部屋を出て買い物に行ってきた。きょうは散歩はせず、ほぼまっすぐ行って帰ってきただけ。惣菜は買わず、食事は買ってきたキャベツとまだあまっている白菜などをつかってサラダと、即席の味噌汁とパン。食べはじめはそんなに空腹でもないなとおもっていたのだが、サラダと味噌汁を平らげたあたりからなぜか食欲が出はじめて、買ってきたパンのうちチョコとクリームが半々になったやつも、ランチパックのハムマヨネーズも食ってしまったし、ヨーグルトとバナナも食った。そうしていまなかなかからだがあたたかく、寝巻きのうえにはおったダウンジャケットのファスナーをひらいたのでちょうどよいが、すこしまえまでは首や肩のまわりがひじょうにあたたまっていてエアコンもつけていないのに暑いくらいで、これはやはり腕振り体操をたくさんやったからということなのだろう。首、肩、背、胸の周辺があたたまればおのずから呼吸も楽になる。ごろごろしながら脚をほぐすのにくわえて、腕振り体操もまいにちやったほうがよさそうだ。零時過ぎくらいから一月六日~八日の記事をブログおよびnoteに投稿した。BGMはAmazon Musicにはいったら出てきたBrad Mehldau, Mario Rossy & Jorge Rossy『When I Fall In Love』。九三年の音源らしい。Jorge Rossyってベーシストのきょうだいがいたのか。ぜんぜん知らんかった。WikipediaによればTete Montoliuのアルバムに参加したのがキャリアのはじめのようで(八八年)、ほかMark TurnerとかGeorge Colliganとやっているがディスコグラフィーはすくなく、バークリーでおしえているらしい。Mehldauのほうをみると『Introducing Brad Mehldau』が九五年だから、正式なデビューよりまえの音源ということか。Joshua Redmanのバンドにいたのが九四年だからそれよりもまえ。最初期。それにしてもMehldauって一九七〇年生まれだったのか。つまり五二、三歳。まだ若いな! とおもった。いつまで生きているか、そして弾けるかわからないが、てきとうに七五歳とかんがえてもまだ二〇年くらいあるわけで、これから二〇年を経てBrad Mehldauがどういう感じになるのかというのはちょっとなんかすごそう。かれだったら余人のいけないところに行くんじゃないか。
  • 投稿作業も検閲があったりnoteのほうにもコピペして体裁をととのえなければならなかったりでめんどうくさいし意外と時間もかかる。めんどうくさいからnoteのほうにはうつさない箇所もある。ぜんぶうつす日もあるが、あくまで本拠地はブログのつもりでいるので、ほんとうはすこし差異化をしたほうがよいんだろうというか、noteは一部でブログのほうではぜんぶ読めるみたいなのがよいのだろうが、そのへん気分で、ブログと同様にぜんぶ載せてしまう日もある。ブログの投稿後の記事は検閲済みなわけだからそこからコピペするのだけれど。ただブログのほうにはまいにち載せている冒頭の引用をnoteにはこれまでまったく載せていないので、そこがいちおう明確な差といえば差だ。
  • きのう、つまり九日のことはまだぜんぜん書けていないのだがこの時間になってから無理をする気はない。あしたも労働で、打鍵すると腕や肩がこごってよくないだろうから、労働前にはそう書く気にならず、だからあしたもなかなか書けないだろう。あさって以降にゆだねる。
  • 風のつよい日だったわけだがスーパーへと出た夜道でもながれはのこっており、アパートから右方向へ路地を出て対岸をちょっとあるいたさきの布団屋ではシャッターが鳴らされていた。そこを過ぎて学習塾前も通り、車道を西にわたると横に移行して(……)通りへ折れる。ここの公園に併設されたちいさな公民館的な施設にクリスマスツリーが飾られてあるのが入り口のガラスのむこうに見えていたものだが、さすがにもうなくなっているのを数日前に確認していた。公園からみて向かいにあたる道の端をあるきつつ、右手をみやれば園のへりあたりに立ったおおきな木が夜の宙にひろげている骨灰色の枝ぶりがあまりに複雑で、もちろんすでに葉は一枚もなく裸をさらした網状線群の、網目などということばではとても表象できない、闇を背後にするから遠近の差もなくなって余計に複線化しているのだろうその、ほとんどこんがらがったような枝の群れが水中にあるかのごとく停止して、浮かび刻まれているのすがたの圧倒的なしずまりだった。ほかの樹々もおなじように、ひりつくような裸のしずまりの内にある。通りを行きながら左右の家に目をやりつつ、自転車がおおいなとおもった。道にすぐ面したちいさな戸口の脇にかろうじて置かれてあったり、一階が学習塾であるアパートらしきビルでは店舗脇の通路にいくつもならんでいたりと目にとまる。じぶんはもうとんと自転車に乗らなくなったが、町の住人はやはり活用するものなのだろう。(……)通りに出ると左折して、車道をはさんで右手、寺の向こうにそびえる駅前マンションの灯りなどみやる。アパートを出てすぐのあたりでは空の色が分明ならず、東をふりむけば満月が皓々とおおきく照って星もいくらか散ってはいたが、夜空は深く黒々としてそれらをつつむようにきわまでひたしているようだったのが、おもてまで来るとながめの方角が西側だからか、マンションやその脇に低く望まれる病院のうえの空にわずかながら青みが出ているのが看取される。時刻はまだ九時半ごろだがあたりの雰囲気は活気に欠けて、飲み屋もひらいてはいるけれどしずかなもので、スーパーもおもてに停まった自転車の数がおもいのほかにすくないなとみた。
  • 買ったのはいつもどおり豆腐とかキャベツとかだったが、エノキダケのいつもよりたくさんはいっている品がなぜかいつもとおなじ一〇〇円だったので、こりゃいいやとおもってゲットし、この二日後に煮込みうどんにすべてぶちこまれることになった。そのほか目立った品もない。会計は(……)氏。きょうの手際はゆっくり目というか、品をひとつずつよく視認しつつ籠のなかをととのえていくような感じで、いちおうつぎの客など来ていたのだけれど、そんなに急ぐようすでもなかった。帰路に特別記憶はない。


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  • 日記読み: 2022/1/10, Mon.
  • 「読みかえし2」: 858 - 882