2023/1/11, Wed.

 その島は中央に山を擁している。火山だが、森に覆われ、あたりには猿やインコの声が響く。近寄りがたく見える山で、それこそなにが起きてもおかしくない気配を宿している。雲を戴く峰々が環状にとりまくのは湖だ。真っ青な湖と、峰々と、雲と。いかにも神秘的で、この世のものとも思えない光景。このようなところにこそ荒ぶる山の神々は住まうのだろう。
 山からおりると気温はどんどん上がり、やがて暑いくらいになって、ココ椰子林と水を張った田圃と村があらわれる。島は美しい。陽光と不思議と良い精霊と悪い精霊があふれ、死者と生者が同じように歩きまわる。神々が退屈してよそへ行かないようにと、ここではさまざまな祭りが執りおこなわれる。
 黒々と魔法めいてそびえる山が睥睨する棚田は、鏡のようにきらめき、シギやサギが歩き、水から突き出す稲苗は、この世のなによりも緑が濃い。棚田のところどころに小さな台座を付けた杭が立ち、神々と悪霊に捧げる供物として花や果実や貝殻がのせてある。夜にはそこに蠟燭か、色鮮やかなペーパーランタンが灯される。風に吹かれてくるくるまわる風車と紙の吹き流しが、魔物どもを追い払う。
 島民は陽気でありながらも細心の注意を払って暮らす。僧侶の家には複雑怪奇な暦があって、どの(end171)日に歯を削るといいか、どの日に結婚するといいか、どの日に田植えをするといいか、そうしたことがわかるようになっている。絵画は不安を誘うものが多いが、滑稽だったり美麗だったりするものもあり、それらを見ていると、同じ人間のみならずこれほどたくさんの精霊といっしょに暮らすのがどんなに厄介なものかがうかがえる。とはいえ、大人の女と幼い少女の屈託のない様子を見るかぎり、それもさほど深刻なものではないようだ。女たちは胸を露わにしていたり木綿のブラウスを着ていたりする。スカートがずり落ちないのはまさに魔法としかいいようがない。
 島の村は埃っぽく、混沌として、猥雑で、和やかだ。村人は夕方近くから家の外で三々五々集まっては夜通しすわりこんでいる。闘鶏用の雄鶏はふてぶてしく、超然として、輝くばかりで、一羽ずつ竹籠に閉じこめられたまま、残忍で崇高な運命をひたすら待つ。小川で泳ぐ家鴨の群れは、子供が手にした羽の旗に目を奪われ、催眠術にかかったように後を追う。寺院の外では、名のある舞人の男が村の幼い少年たちに稽古をつけている。紫と緑を纏った舞人は、真面目顔の裸の少年の背後で敷き物にしゃがみこみ、細い腕にはめた腕輪を滑らせながら、少年の体に舞いの型を取らせ、頭に舞いの魔法を植えつける。伴奏の島の音楽は澄みわたって物悲しい。夢のなかで聞こえることがありそうな音楽でもある。ただ、それを正しく理解するには、年旧 [ふ] りて崩れかけた灰色の石に刻まれている忘れられた幻獣を、四つ辻に立つ両性具有の神を、腹が地面にこすれそうな豚を、ねじれた灰色の大木を、(end172)その大木の裸の枝に魔法のように燦爛と咲き誇る花群 [はなむら] を、まず夢に見なくてはならない。
 (アンナ・カヴァン安野玲訳『草地は緑に輝いて』(文遊社、二〇二〇年)、171~173; 「寂しい不浄の浜」; 書き出し)



  • 「読みかえし2」より。ひとつめの引用は完全無欠に同意というか、おれの経験をみごとに言い当てて記述してるやん、という感じだった。

883

 ひたむきな都会の歩行者が知っている、ある捉え難い状態がある。孤独にひたっている状態とでもいえばよいだろうか。その暗い孤独には、夜空に星が煌めくように思いがけぬ出会いが散りばめられている。田舎の孤独は地理的なものだ。すなわち完全に社会の外側にいて、その孤独は地理によって生々しい説得力をもつ。そこでは人間以外の事物との交歓さえ生まれる。一方、街では見知らぬ人びとが織りあげる世間によってわたしたちは孤独になる。見知らぬ者たちに囲まれ、自らも見知らぬ存在となってゆくこと。行き交う人びとに自らを重ね、それぞれの抱える秘密を思いつつ押し黙って歩いてゆくこと。それはもっとも飾り気のない贅沢のひとつだ。未知のままのアイデンティティと、そこに秘められた無限の可能性。この都会暮らしの徴は、家族や共同体的な目算からの自由を求める者、あるいはサブカルチャーアイデンティティの探究者を解き放つ。それは一歩身を引き、冷静の感覚を研ぎ澄ませた観察者の状態であり、熟慮や創造を行なう者に適した状態だ。憂鬱と疎外感と内省は、少量であれば人生のもっとも精妙な愉楽となりうる。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、310; 第十一章「都市――孤独な散歩者たち」)



886

 ド・セルトーと [ジャン=クリストフ] バイイははるかに穏当ではあるが、彼らが抱く未来像もドゥボール同様明るいものではない。ド・セルトーは『日常生活の実践』のひとつの章を都市の歩行に割いている。都市は歩くためにつくられたものであり、歩行者は「都市を実践する者」であると彼はいう。都市はひとつの言語であり可能性の貯蔵庫であって、歩くことはその言語を発話し、可能性から選択を行なうことである。まさに言語が語りうることを局限するように建築は歩行を局限するが、歩く者は異なる道筋を創案する。なぜなら「横断や漂流といった歩行という特権の即興的発露は、空間的な要素を変貌させ、あるいはまったく放擲してしまうから」。さらにド・セルトーは、「通行人と歩いて行き違うことから生じる一連の転進や迂回は、〈言い回し〉や〈文体のあや〉に相当する」ともいう。ド・セルトーのメタファーは身のすくむような可能性も示唆する。仮に都市が歩行者によって語られる言語であるとすれば、歩行を過去のものとした都市は単に沈黙するだけではなく、死語となる危機に瀕する。仮に形式的な文法が生き延びたとしても、口語表現や言葉遊びや悪態は消え去ってしまうだろう。バイイはこの自動車にあえぐパリに暮らし、その衰微を報告している。ある解釈者の言葉を借りれば、バイイは次のように述べている。

〔都市の社会的・想像的な機能は〕低劣な建築や空疎な計画の横行によって危機に瀕しており、これには都市の言語の基本単位である街路と〈言語 [パロール] の流れ〉、すなわち街路に生気を与えるおわりのない物語への無関心も加担している。街路と都市を生かしつづけることはそれ(end359)らの文法を理解し、糧となる新しい発話を生成することにかかっている。そして、バイイはこのプロセスの主たる手段は歩くことであるといい、それを〈両脚の生成文法〉と呼ぶ。

 バイイはパリを物語の集積として、街路の歩行者がつくり上げるそれ自体の記憶として語っている。歩行が損なわれてゆけば、この集積体は読まれぬものに、あるいは読まれ得ぬものになってゆくだろう。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、359~360; 第十二章「パリ――舗道の植物採集家たち」)

  • 食事中に読んだ(……)さんのブログから。『ストーナー』もいい小説だった。終盤のここもたしかにすばらしい。「肌が火照り、顔にかかる光と影の繊細な重みがわかるような気がした」! なんてことだ……。しかしたしかにそういうことはあるかもしれない。

 イーディスが部屋に入ってきた。ゴードン・フィンチは立ち上がり、邪魔が入ってほっとしたように、おおげさな励ましの言葉を口にした。
「イーディス、きみがここに坐ってくれ」
 イーディスは首を振り、ストーナーに目をやった。
「ウィリアムはよくなっているよ」ゴードンが言う。「先週よりうんと元気になっている」
 イーディスは初めて彼の存在に気がついたように、ゴードンと向き合った。
「ああ、ゴードン。ひどい状態だわ。かわいそうなウィリー。先はもう長くないのではないかしら」
 ゴードンは殴られたかのように、青ざめ、一歩あとずさった。「何を言うんだ、イーディス!」
「あまり長くない」イーディスはまた言って、小さな笑みを浮かべた夫にしげしげと見入った。「わたしはどうすればいいのかしら? この人がいなくなったら、どうすればいい?」
 ストーナーは目を閉じ、すると誰もいなくなった。ゴードンが何かささやくのが聞こえ、やがて遠ざかる靴音が聞こえた。
 驚かされるのは、それがとてもたやすいということだった。どんなにたやすいかをゴードンに伝えたかったし、それについて語るのも考えるのも苦にならないことを訴えたかった。なのに、できなかった。今はそれがまた、どうでもいいことに思えた。台所での話し声、低く張り詰めたゴードンの声と、恨みがましいイーディスの声が聞こえた。ふたりは何を話しているのだろう?
 ……突然、痛みが前触れもなく襲ってきて、備えのない体を暴れ回り、ストーナーは音をあげそうになった。シーツをつかんでいた手をゆるめて、徐々にわきテーブルのほうへのばしていく。痛み止めを何錠か取り、口にほうり込んで、少量の水で呑み込んだ。額に冷たい汗がにじみ、ストーナーは痛みが和らぐまでじっと横たわる。
 また話し声がした。ストーナーは目を開かなかった。ゴードンだろうか? ストーナーの聴力は肉体を離れ、宙空を漂って、あらゆる繊細な音を拾い届けた。けれど、言葉を正確に聞き分ける力はもうなかった。
 ある声――ゴードンか?――がストーナーの人生について語っていた。言葉は聞き取れず、ほんとうに言葉が発せられているかどうかも定かではなかったが、ストーナーの知力は、手負いの猛獣のように夢中でその主題に飛びついた。否応なく、自分の人生が他人にどう映るかが見えてきた。
 冷静に、理詰めに、ストーナーははた目に挫折と映るはずの自分の来し方を振り返った。ストーナーは友情を求めた。自分を人類の一員たらしめてくれる篤い友情を。そして友をふたり得て、ひとりは世に知られることもなく非業の死を遂げ、ひとりは遠い生者の戦列へと撤退していった……。ストーナーは二心(ふたごころ)のない誠意と変わらぬ情熱を捧げる結婚を望み、それも手に入れたが、御しかたがわからず持て余しているうちに、それは潰え去った。ストーナーは愛を求め、愛を手にして、やがてそれを可能性の泥沼に放り投げた。キャサリン。思わず名を呼ぶ。「キャサリン
 そして、ストーナーは教師であることを求め、その願いをかなえたものの、人生のあらかた、自分が凡庸な教師だったことに思い至って、それはまた、前々からわかっていたことでもあるような気がした。高潔にして、一点の曇りもない純粋な生き方を夢見ていたが、得られたのは妥協と雑多な些事に煩わされる日常だけだった。知恵を授かりながら、長い年月の果てに、それはすっかり涸れてしまった。ほかには、とストーナーは自問した。ほかに何があった?
 自分は何を期待していたのだろう?
 目をあけてみると、あたりは暗かった。窓の外の空が、深い紫紺の空間に見え、細い月影が雲間から差した。夜もずいぶん更けてきたに違いない。明るい午後の光のもと、ゴードンとイーディスがそばに立っていたのは、つい先刻のことに思えるのに……。それとも、遠い昔? 自分でも判然としなかった。
 体力の減退に伴って、気力も萎えていくことはわかっていたが、これほど急に来るとは思っていなかった。肉体は強い。誰の想像も及ばないほどに。それはいつも先へ先へと進みたがる。
 声が聞こえ、光が見え、痛みの去来が感じられた。イーディスの顔が目の前にぬっと現われ、ストーナーは思わず笑みを誘われた。ときおり気がつくと、自分の声がしゃべっていて、それは筋の通った話に聞こえたが、そう言い切る自信はなかった。イーディスは夫に手を触れ、その体を動かし、全身を拭いていく。妻はふたたび子どもを手に入れたのだ。ようやく、自分で構うことのできるわが子を。ストーナーはイーディスと話をしたかった。言うべきことがあるように思う。
 何を期待していたのか。
 重いものがまぶたを押していた。その力にわななきが生じた瞬間、ストーナーはぱっちりと目を見開いた。光が、午後の明るい陽射しが感じられた。まばたきをし、窓の外の青空を、そして日輪のまばゆいへりを、眺めるともなく眺めた。これが現実だ、と心に決めた。手を動かすと、動きにつれて、宙から舞い降りたような力が加わった。深呼吸をする。痛みが消えた。
 ひと息ごとに力が増すように感じられた。肌が火照り、顔にかかる光と影の繊細な重みがわかるような気がした。ストーナーはベッドに身を起こし、半坐りの状態になって、背中を壁に預けた。これで室外が見渡せる。
 長い眠りから覚めたような爽快な気分だった。いまは晩春か、もしくは初夏。外のようすから見て、初夏らしい。裏庭の楡の巨木は、みずみずしい緑の膜に葉を覆われ、かねて知る深く涼しい木陰を与えている。空気は濃く、その重みが草や葉や花の甘い香気を孕んで宙に漂っていた。ストーナーはもう一度深く息を吸った。耳障りな呼吸音がして、夏の香気が肺に流れ込んだ。
 と、同時に、体の奥で変化が起き、何かが妨げられて、頭を動かすことができなくなった。だがやがてそれは収まった。なるほど、こういうものか、とストーナーは思った。
 イーディスを呼ぶべきだと思ったが、自分がそうしないことは承知していた。死者はわがままだ。子どものようにみずからの時間を独占したがる。
 ストーナーはふたたび息を吸い、体内に、名づけようのない違和感を覚えた。自分は何かを、何かが明らかになるのを待っている。そう感じたが、時間はまだいくらでもあるように思えた。
 かなたに笑い声が聞こえ、ストーナーはその源を振り返った。どこかへ急ぐ若い学生の集団が裏庭を横切っていく。三組のカップルだ。娘たちは手足が長く、薄地のサマードレスをまとっている。男たちは幸福そうにその優美な姿に見とれていた。三組は軽々と芝を踏み、そこにいた痕跡すら残さず、飛ぶように去っていった。そのあとも長いあいだ、夏の午後の静謐に、屈託のない笑い声が遠く弾けていた。
 何を期待していたのか、ともう一度問う。
 夏風に運ばれてきたかのように、歓喜の情が押し寄せてくる。挫折について――それが重要な意味を持つかのように――考えていたことをうっすら思い出した。いまはそのような考察が、自分の生涯にふさわしくない、つまらないものに思える。意識のへりにぼんやりとした影がいくつも集まっていた。姿は見えないが確かにそこに存在し、しだいに力を増して、見ることも聞くこともできないが、はっきりした形をとろうとしているのはわかった。自分がそこへ近づこうとしていることも。しかし急ぐ必要はない。無視したければそうしてもよい。時間はいくらでもあるのだから。
 柔らかさがストーナーを包み、四肢にけだるさが忍び込んでくる。ふいに、自分が何者たるかを覚り、その力を感じた。わたしはわたしだ。自分がどういう人間であったかがわかった。
ジョン・ウィリアムズ東江一紀・訳『ストーナー』)

  • さくばんはまたしても寝床にうつって休んでいるうちに、エアコンとデスクライトをつけたまま意識をうしなっており、いつ復活したのだったかもおぼえていない。覚醒ははやめで、カーテンの端からもれるそとのいろがまだ色づいておらず、醒めたような青灰色につめたいようで、くもっているのかとおもったくらいだ。保育園の入り口のロックが解除される電子音がなんどか聞こえつつも、会話や子どもたちの声はないからまだ七時台だろうと判断する。そうして布団のしたできょうは口から息を吐いたり、腕をさすったり伸ばしたりしたのち、時刻をみたのが七時四五分とかそのくらいだったとおもう。起き上がると首や肩をまわし、そのまま立ち上がってきょうはもうさっそく腕振り体操もしておいた。それからカーテンをひらくのだがレースまでひらいて窓を露出させるとまだだいぶさむい時間なので二枚目は閉ざしておき、エアコンをつけて再度あおむきウェブをみたりなんだり。息を吐きつつ膝や踵で脚を揉んで血をめぐらせる。起床したのは九時一五分だったか。水を飲んだりまた腕を振ったり、立位でのストレッチをいくらかやったり。便所に行って小便。鏡にうつった顔はここさいきんのなかではまあ比較的しっかりしているかなという感じ。髭があまり伸びないうちにあたってしまいたい。あしたやる気になれば。室を出て水を飲み、椅子につくと首や肩をまわして、静止しはじめたのが九時四〇分だった。窓外からは幼児の声がちらほら。寝床にいるあいだだったとおもうが、マ゛~~マ゛~~~~というかんじで、マに濁点がついたようなひびきなのでバとほぼ区別がつかなくなっているような泣き方の声も聞こえた。ひさしぶりに耳にしたが、この子はたぶん数か月まえにもおなじ泣き方をしていたその子どもと同一人物のはず。数か月を経てもきっと連日泣いているのだろう。そのほか、先生が先頭! という女児の声もきこえて、それに保育士の女性が、あ、よくわかったね! 先生が先頭っていったのだれ? とこたえていた。瞑想の終わりはいつだったかおぼえていない。座っていたのはたぶん二〇分か二五分くらいだったとおもうが。
  • したがって一〇時過ぎから食事の支度。キャベツ。いままでキャベツはつかいはじめに半分に切ってそれぞれつつんでしまっていたのだが、今回はおおきな玉のまま皮を剝いでつかっている。それはなぜかというと、前回キャベツを買ってきたさいにちょうどラップが切れていたので、保存の観点からすると断面をつくらないほうがよいだろうと玉のままでつかっていたながれがなんとなくつづいているのだ。あまりにもどうでもよいはなしだが。キャベツのほかにきのうスーパーに行ったときに値下げ品のラックにあったパプリカ(黄色; 二つセット)もさっさとつかったほうがよいだろうということで使用。表面がすでにかすかに皺っぽくなっていて、包丁が通りづらく(パプリカのせいではなくて包丁じたいが鈍いのもあるとおもうが)、一部分から刃がすっとはいっていくのではなくて、接している線の全体が一気に落ちてぶつ切るような感じになる。豆腐もくわえてごま油&ガーリックドレッシング。即席の味噌汁も用意。湯を沸かしているあいだはまた腕を振っている。そうして(……)さんのブログをみながら食い、パック米と冷凍の唐揚げも追加。朝からそれらを食う気になるあたりなかなかよろしい。
  • 食後は食器をかたづけ、さくばん洗って放置してあったドレッシングの空ボトルも袋に入れておき、歯磨きもして、ブログを読みつづける。そうこうするうちに正午くらいに。シャワーを浴びようというところだが、そのまえにまた床をすこしだけ掃除しようとおもい、テープでコットンラグや保護シートのうえをぺたぺたやっておいた。このあいだやったばかりのはずだがもうこまかい埃やカスがたくさんくっついてきてテープの粘着面は宇宙デブリの墓場みたいな感じになり、いったいこの世はどうなっているのか? 浴室兼便所も壁際に埃が溜まっているのがすこしまえから気になっていたのでここですこしきれいにしておいた。同様にテープをペタペタやったりペタペタやりすらせず床のうえをすべらせたりするだけ。その後タオルや肌着を用意して服を脱ぎ、入浴へ。バスタオルは浴びてから浴室を出てすぐつかえるように扉の脇に(いまは先日買ってきたトイレットペーパーが置いてあるそのうえに)置いておき、あらたな肌着は椅子のうえ、ジャージもその脇にたたんでダウンジャケットは椅子の背もたれのうえ。フェイスタオルひとつとともに裸体で室にむかうと湯の蛇口をひねり、浴槽の栓をしめて、熱湯が出るまでしばらく待つ。そのあいだは鏡にうつっている生白くて軟弱なじぶんの上半身をみながらちょっと背伸びしたりしている。じきに熱湯が安定的に供給されるようになって湯気が湧き、鏡がくもるので、そうするとふたつの蛇口を調節して湯の温度を熱すぎないレベルに落とし、手で確認してから浴槽内へ踏み入る。足がわりと冷えているのでよく刺激される。さいしょに壁にとりつけたままのシャワーの湯を両手ですくって顔をよく洗い、それから取ってからだを脚のほうからながしていく。それでそれぞれ洗剤を取って素手でからだをさするように洗ったり、あたまをこすったり。
  • シャワーののちは服を着ると髪をかわかし、LINEを確認しておくと、腕を振って肩まわりがそこそこほぐれているからきょうは行けるんじゃないかとおもって日記の記述をはじめた。そうしてここまでで一時二六分。行けるは行けるのだが、やはり打鍵しているうちにからだがすこしおちつかない感じになってくるなというのはあった。なので立ってまたちょっと腕振りしたり。後頭部から腰にかけてを不可逆的に軟質化したいのだが。タコか卓球の厚めのラバーのように。にしても天気良すぎ。また無雲の快晴。ロマン派詩人になったつもりで晴天をたたえる詩でも一篇つくるか? 無窮の青にささげる讃歌。Ode to Endless Blueと英語にするとなぜかとたんに安っぽくなる。書き出しは、晴天よ、そなたは飲みこむが良い……とかなんかそんな感じ。そしてどこかにかならず「嗚呼!」をいれる。わたしがゆるせる全体主義は唯一そなたの凪の色のみ、占領せよ、晴天よ! 夕暮れの白き靄が、くれないの艦船がそなたを奪いにやってくるまでの長く短い真昼の時を、無音の青のいただきで! とかなんとか。そして役柄は交替するのだ、拳銃の弾倉の回転に似て、地球とともに、星々の運行のつづくかぎりは……みたいな。
  • この日は労働。それまでのことはわすれ、出発したのは四時ごろだった。けっこう余裕を持っていたような記憶がある。往路はきのう(ではなくておとといだ)と記憶がかさならないようにちがうルートで行こうとおもい、公園前を右折したのだけれど、南の車道に出てからはそれをすっかりわすれていて、ほんとうは(……)通りに当たったところで踏切りへと直進せず、右にすこし移行して(……)駅そばの踏切りを越えるつもりだったのだけれど(そのまままっすぐ行けば病院や施設の裏側を通ることになる)、あるいているうちにとんと忘却しており、二日前とおなじように直進してしまい、踏切りを越えて草場の空き地のまえに来てから裏に折れた。なんだかんだでこのすじを通るのははじめてだとおもわれる。空き地のとちゅうに学童保育所があって、こんなところにこんなもんあったのかとおもったが、ひとの気配がまったくしないので、空き地になったあとにつくったばかりなのか? と疑問した。まえからあったのだろうか。それで裏通りに行くと左折して西へ一路。道中さしたる印象もないし、さっさと職場に飛ぼうとおもうが、あるいているとやはり小便がしたくなるもので、(……)のところまで来ると敷地にはいり、建物内に踏み入ってトイレに行った。さいきんはここで用を足すのが習慣になっている。しかもこの日はくわえて(……)駅でも小便した。電車内は問題なく二錠で行けた。この日は(……)まで立っていたんだったかな。たしか。
  • 勤務時のことにうつろう。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 退勤は一〇時過ぎくらい(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 帰路や帰宅後は書けることがなにもなし。忘却。


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  • 日記読み: 2022/1/11, Tue.
  • 「読みかえし2」: 883 - 904
  • 「ことば」: 40, 31