2023/1/13, Fri.

  火刑

 しぼんだ菫 よごれた捲毛
 すっかり褪 [さ] めた空色リボン(end41)
 ちぎれかかったレターの紙片
 とっくに忘れた心のがらくた

 みんな投げ込め 壁暖炉 [カミン] のなかへ
 見ていてやるぞ 炎と燃えろ
 おれの不幸や幸福どもの
 屑がおののき ぱちぱちいい出す

 愛を誓ったその場かぎりの
 嘘の言葉が ほら燃えあがる
 あの煙突に 煙のなかに
 ちいさな神がくすくす笑う

 燃える壁暖炉のそばに坐って
 ただぼんやりと おれは見ている
 小さな火花がしだいに消えて
 灰になったな これであばよだ

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、41~42; 「火刑」(Autodafé)全編)



  • 一年前の短歌は三つ。「はろばろと地球が疼く春の日に所有欲などゴミにしちまえ」「実存が死期を悟ったこの夜にどこかでだれかがくしゃみをしてる」「祝福は静寂である風よ知れどこまで行っても夜は夜のまま」。どれもまあきらいではない。
  • 「読みかえし2」より。ブコウスキーの書簡の文章はじつにいきおいがよいし、おもしろくて笑ってしまう。

929

 しかし女性は参政権を勝ち取った。公共空間と性をめぐる議論は、最近の数十年間では女性と体制ではなく女性と男性の間で交わされるものになった。フェミニズムの主要な主張は屋内での交渉事に向けられ、住宅、職場、学校、さらに政治機構の変革を達成した。社会的もしくは政治的な目的のために、あるいは実用や文化のために公共空間にアクセスすることは、都会でも田舎でも日常生活を構成する重要な要素なのだが、女性に対しては暴力やハラスメントへの恐れによって制限されている。この主題についてのある専門家の言葉を引けば、女性が日常(end403)で経験するハラスメントは、

女性はすっかりくつろぐことがない、ということを裏書きする。そして性的な存在という自分たちの立場を意識させ自分が男性の手の届くところにいるのだと思い出させる。それはわたしたちが平等な存在だと思ってはいけないということのリマインダーであり、ともに公共圏を参画しつつ自らの権利で好きな時に好きな場所に行き、安全を感じながら自分たちの望むものを追求しているのではないのだという事実を突き付ける。

 金銭目当ての犯罪の対象となったり、報道で犯罪に触れて都会や見知らぬ住人に不安を抱いたり、若者や貧者や無秩序な場所を恐れたりすることは男性も女性も変わりはない。しかし性的な背景をもつ暴力で第一に狙われるのは女性であり、都会のみならず郊外や田舎でもあらゆる年代、あらゆる経済的な立場の男性がその暴力の担い手になる。そして、女性が日常生活の一部として公共空間で遭遇する非礼な言動、攻撃的な交渉、発言、視線、脅迫といったものにはそうした暴力への可能性が潜んでいる。レイプへの恐怖は多くの女性を自分の場所に、すなわち屋内に押し止める。怯えながら自らのセクシュアリティを防護するという自己の意志よりもむしろ物質的なバリアにふたたび依存するのだ。ある調査によれば、アメリカ人女性の三分の二は夜間に近所を出歩くことに不安を感じている。また別の調査によれば、イギリス人女性の半数は日が暮れたあと、ひとりで外出することが不安で、四〇パーセントはレイプの被害者(end404)となることを「とても憂慮して」いる。
 この自由の欠如にわたしがはじめて打ちのめされたのは、キャロライン・ワイバーグやシルヴィア・プラスと同じように十九歳のころだった。郊外住宅地のはずれで過ごした幼少期のころは、子どもがまだそれほど厳重な視線に守られていたわけではなく、わたしは町や野山で自由に遊んでいた。十七歳のときにパリに脱出すると、声をかけてきたり、通りでいきなり手を握ってきたりするような男が大勢いたが、わたしには恐ろしいというよりは鬱陶しく思えた。そして十九歳でサンフランシスコの低所得層の多い界隈に引っ越した。それまで住んでいたゲイの多いエリアに比べると通りは物寂しく、昼間感じていた危険が夜にしばしば現実のものになってしまうということを肌で知った。もちろん、界隈の貧しさや夜の闇だけがわたしに恐怖を感じさせたのではない。たとえば、ある午後フィッシャーマンズワーフのあたりで見なり [原文ママ] のよい男性につきまとわれ、胸の悪くなるような性的な誘い文句を延々と聞かされたことがあった。ついて来るな、と向き直って罵ると男はわたしの言葉に心底驚いた顔をして、おまえにそんな言い方をする権利はないといい、わたしを殺すと脅した。似たような経験のなかで、この一件はただその脅しの重みによって記憶に刻まれている。自分には戸外で人生や自由や幸福を追求することが本当の意味では許されていない、ということの発見にわたしは人生でもっとも打ちのめされた。世界にはわたしの性別のみを理由にわたしを嫌い、傷つけようとする他人が大勢いて、性はあまりに容易に [修正: 原文は「容易が」] 暴力へ転化してしまい、そういったことを個人的な問題ではなく社会的な問題だと考えている者はほとんどいないという発見でもあった。夜には出歩かず、(end405)体の線を隠すような服を着て髪は隠すか短く切る、つまり男のような格好をすること。高級な界隈に引っ越すこと。タクシーを使うか車を手に入れること。複数で移動すること。エスコートしてくれる男性を確保すること。そうしたわたしが受けた忠告は、すべて古代ギリシアの壁やアッシリアのヴェールを現代版にしたもので、わたしと男性の振舞いをコントロールして自分の自由を確保することは社会ではなくわたし自身に課された責務だといっている。自分の町に親しみ上手に社会に適応している多くの女性は、無意識に控え目で群れをつくるような生活をしているのだということもわかった。ひとりで歩くという願望は、彼女たちの心からすでに失われているのだ。しかしわたしにはまだそれがある。
 (レベッカ・ソルニット/東辻賢治郎訳『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社、二〇一七年)、403~406; 第十四章「夜歩く――女、性、公共空間」)

     *

933

 すべて要約された精神は――
 私達がそれをゆっくり吹いて
 幾つかの煙の輪にするがそれが
 また他の輪の中へ消えて行く時

 ――一本の葉巻か何かを証明する
 それは物知りらしく燃えている
 灰がその輝く接吻の火から(end126)
 少しでも分離されるならば

 同様に抒情詩人の唱歌隊は
 すぐ唇へ飛びつく
 君が詩を始めるなら、現実はいやしいから
 そこから排除しなさい

 あまり正確な意味は
 君の曖昧な文学を抹殺するのだ。

 (西脇順三郎訳『マラルメ詩集』(小沢書店/世界詩人選07、一九九六年)、126~127; 「すべて要約された精神は……」(Toute l'âme résumée)全篇)

     *

952

 余白も間違いも、ヒステリーも悲嘆も好き勝手に採り入れようではないか。手品のように手際よく転がっていくボールを手に入れるまでは角を丸くしたりしないようにしようではないか。いろんなことが起こる。司祭が便所で銃で撃たれる。うるさい奴らが逮捕されることなくヘロインを吸う。奴らに電話番号を知られる。女房がカフカを読んだこともない馬鹿者と駆け落ちする。猫がぺしゃんこになって、内臓と割れた頭が路上にへばりつき、もう何時間もその上を車が通り過ぎている。煙まみれでも育つ花。九歳で死ぬ子供と九十七歳。網戸に撃退されるハエたち……形式 [﹅2] の歴史は明白だ。〇から始められると言うのはわたしが最後だろうが、八や九から抜け出して十一まで行こう。わたしたちは繰り返してもいいだろう、これまでずっとそうしてきたように、偽りなきことを。しかも、わたしが思うには、これまでとてもうまくやってきた。しかしわたしは自分たちがもう少しヒステリックに叫ぶのを見てみたい。もしもわたしたちがまともな人間なら。偽っているものについても、そして型にはまっていないもの、決して型にはまらないものについても。まさに、わたしたちはキャンドルの炎を燃え上がらせなければならない。必要とあらばガソリンもぶっかけようではないか。普通という感覚はいつでも普通だが、窓からの叫びというものもある……死滅した都市で息をし続けることによって生じた芸術的なヒステリーの叫び……音楽が止んでしまい四方がゴムやガラスや石の壁の中にわたしたちがお(end63)いてけぼりになってしまったりすると、あるいはもっとひどい場合は、壁がまったくなかったりして、アトランタのど真ん中で極貧のまま凍え切って。形式や論理、「フレーズの形成」に集中することは、狂気の真っ只中では愚かな行為のようだ。
 慎重な若者たちがきちんと計画して徹底的な調査もした自分たちの創作でわたしをどれほど丸裸にしてしまうのか見当もつかない。創作はわたしたちの天賦の才能で、わたしたちはそれに冒されている。わたしの骨を激しく揺さぶり、朝の五時に起こして壁を凝視させた。そして黙想しても誰もいない家の中でぬいぐるみの人形と戯れている犬のように狂気へと導かれていく。よく見ろ、と声がする、恐怖の中心とその先、ケープ・カナベラル〔フロリダ州東部沿岸の岬で米空軍ミサイル試験基地がある〕、ケープ・カナベラルはわたしたちには太刀打ちできない。くそっ、ジャック、今は賢明な時。わたしたちは見せかけを主張しなければならない、奴らがわたしたちに教えてくれたのだ。神々が煙に包まれてはっきりとしない詩の向こうから生き生きと咳をした。よく見ろ、と別の声が言う、わたしたちは掘り出したばかりの大理石を削らなければならない……そんなことはどうでもいいじゃないか、三番目の声が言う、そんなことはどうでもいいんじゃないか? 薄黄色の女たちは行ってしまった、ガーターは脚の上の方。十八歳の魅力は八十、そしてキスは、透き通った銀色を放つ蛇、そのキスはもうされなくなってしまった。誰も魔法のように長くは生きられない……ある朝午前五時に捕まえられてしまうまで。あんたは火を燃やし、プシュケが空っぽの食料品室の中のネズミのように這い回る時に慌ただしく酒を注ぐ。もしもあんたがグレコか、さらには水ヘビだったとしたら、何かが成し遂げられるだろう。(end64)
 酒をお代わり。さあ、両手をこすって、自分がまだ生きていることを確かめる。真面目さなんて何の足しにもならない。床の上を歩き回れ。
 これは贈り物、これは天賦の才能……
 紛れもなく死ぬことの魅惑は、失われるものは何もないという真実の中に宿っている。

チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、63~65; ジョン・ウィリアム・コリントン宛、1961年4月21日)


953

 (……)アートの世界にはほかのどんなビジネスの場所で見つけられるよりももっと邪悪で破廉恥なタコ人間たちがたくさん棲息していて、ビジネスの世界にいる人間たちのちっぽけな想像力は、たいていの場合、せいぜいがもっと大きな家、もっと大きな車、そして特上の売春婦といったところでとどまってしまっているのに、そこではどんなことも厭わず、あらゆる世間体や正直さを突破して、とにかく自分のことを評価してほしいと必死になって叫び声をあげる心の中の歪んだ衝動に突き動かされてしまっているからだ。だからこそこうした編集者(end71)たちの中にはとんでもないゲス野郎たちがいる。やつらは独力では何も刻めないので、まっさらの小さな大理石を叩いたり刻んだりしている人間を見つけてはうまく取り入ろうとし……そういうわけで投稿した原稿がどうなったか問い合わせの手紙を書いてもほとんどのやつらはまったく返事すら寄越そうとしない。やつらの内なる光すべてがやつら自身をとことんだめにしておしまいにしてしまうのだ。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、71~72; ジョン・ウィリアム・コリントン宛、1962年4月)

  • 七時台か八時台に覚めた。カーテンの端からもれているそとのあかるみはあまりあきらかな色ではない。からだを横向きにしてしばらく深呼吸をしたり、またちょっとまどろんだりしたかもしれないが、身を起こして時刻をみるとちょうど九時くらいだった。そこからまたちょっとだけ休んだんだったかな。いずれにしてもまもなく起き上がって布団を腹のあたりまでかけたまま座布団のうえにあぐらになり、首をまわしたり肩をまわしたりする。そうしてカーテンをひらけば空はきょうも水色ではあるけれど、おとといまでのまったき晴天がきのうからはおとろえている印象で、そのながれに沿って粉雲混じりの淡さとみえたし、午後四時現在では白く曇っている。きのうはさっそく立ち上がって腕を振ったがきょうはそこまでやる気力はなく、あおむけにもどってウェブをみたりなんだり。一〇時半ごろに離床した。それで腕を振ったり手首を振ったり、水を飲んだり用を足したり、また背伸びをしたり両腕を前後に突き出したりとすじを伸ばすわけだが、きょうはなぜかストレッチをするさいに、はじめに息をいきおいよく吐いてやってみようという気になって、それでポーズを取りながら口からふーっと、頬をふくらませて呼気の音が出るくらいにいちど空気を吐き、つづけると起き抜けにはくるしいので一回でとどめながらちょっとからだをうごかすというやりかたを取った。するとこれがよい。よくほぐれる。そうなんどもくりかえさずに、各姿勢につきいちどか二度強呼吸するだけでじゅうぶんである。それで身がかるくなるからいつもより念入りになって、各方面を伸ばしているうちにけっこう時間が経っており、瞑想をはじめたのは一一時二三分とかそのくらいだった。洗濯もはじめている。つよい呼吸をやっておけば呼吸につかう筋肉じたいもほぐれて余裕ができるから口を閉じてしぜんな呼吸にもどしても息が楽だし、からだもほぐれているので静止も安定する。すわりながら洗濯機の稼働音を聞いたりしていた。すでに後半にはいっており、ガガガガガガガガと、道路工事なんかで地面を打ちつけつづける機械があるとおもうが、あれをもっと弱く小規模にかつやわらかくしたような連打がひびいていて、その正確な一六分音符を打つ音は二種類あり、ひとつはいくらか拡散気味のふつうの厚い振動音なのだが、もうひとつはチューニングをめちゃくちゃタイトにしたバスドラをツーバスでドコドコやっているのをさらにコンプレッサーで加工したみたいな詰まった音で、そのどちらもまさしく機械的なきわめて正確なリズムで響きをたたきだしている。それがとまると再度注水がなされて、すこしだけ沈黙がはさまったなかにドライアイスからかもしだされた蒸気が空間内に満ちていくみたいな音響がしずかにただよって、それからまたうごきがはじまった。洗濯機もリズムと展開があるから聞いているとけっこうおもしろいんだよなとおもう。電車の音なんかもそのへんのアヴァンギャルド演奏よりよほどおもしろいとおもう。
  • 瞑想は一五分くらいでみじかく切って、食事へ。きのうつくった煮込みうどんがのこっているのでそれをあたためるとともに、キャベツと白菜と豆腐のサラダ。あと肉まん。そしてヨーグルト。皿や容器は適宜かたづけ、済ませると白湯を沸かして歯磨き。口のなかをそこそこきれいにすると湯をちびちびやりながら音読をした。寝床で「読みかえし」ノートを黙読する習慣になっていらいなぜか「ことば」のほうをあまり読む気にならず、Woolfの英文を音読するのもさいきんはサボリ気味で、きのうひさしぶりにやったのだけれど、きょうもそうする気になったので口をうごかしてぶつぶつ読む。くわえて日本語も読む気になったので、いぜんと同様岩田宏の「ショパン」とリルケの『ドゥイノの悲歌』の訳(第九歌)も読んだ。それでもう一時くらいだったかな。それからきのうしまえた九日の記事をブログとnoteに投稿したのだけれど、ところできのうの朝にGuardianをのぞいたときにJeff Beckの訃報があったのだ。七八歳という。Jeff Beckはもちろん唯一無二のすごいギタリストだとはおもうし、『Blow By Blow』と『Wired』はたぶん中学生のときに買ってけっこう聞いたし、Ronnie Scott’sでやったライブもそこそこながしたが、接したのはおおかたその三枚のみで、すごくファンだったわけではない。訃報記事をのちほどのぞいたときに、まあJimmy PageだったりMick Jaggerだったりのコメントが紹介されているわけだけれど、そのなかでOzzy Osbourneが、じぶんの最新作にBeckが参加してくれたのは光栄だったということを言っていて、そんなことやってたの? とおもった。Ozzy Osbourneも検索してみりゃもう七四歳だし、声もそんなに出ないとおもうのだが(再結成したBlack Sabbathの近年のライブ映像をまえにみたことがあるが、さすがにそんなに歌えていなかった)、がんばっているようだ。それで投稿のおともにくだんの最新作である『Patient Number 9』というのをながしてみると、あんななりをして悪魔的なイメージをつくっておきながら一曲目(これにJeff Beckが参加しているらしいが、そちらのソロプレイのほうはたいしてピンとはこなかった)からして妙なキャッチーさがふくまれているところがたしかにOzzy Osbourneだなという感じだった。三曲目までながしたがほかの曲も同様。八〇年のソロアルバム一作目からして、へんにメロディアスであかるい部分があるんだよな。それがよいわけだが。バラードなんかもやたらセンチメンタルなものをつくる。”Goodbye To Romance”とかいまでもけっこうたのしんでしまえるとおもう。
  • 一時半くらいから寝床に逃げて、ホメロス/松平千秋訳『イリアス(上)』(岩波文庫、一九九二年)を読んだ。286からはじめていま334。第十一歌の冒頭。そろそろ上巻も終わりがちかい。すじとしては、トロイエ方の英雄ヘクトルが活躍してアカイア勢をぶち殺しまくり追い詰めたすえにアガメムノンが弱気をみせて、もはや大神ゼウスの加護はなくイリオスは落とせぬだろうからわれらは撤退しようというのにたいし、ゲレニア生まれの老騎士ネストルが、この叙事詩の劈頭で女をめぐって口汚い喧嘩をしたアキレウスにたいして謝罪をするようすすめて、その使節の任をになったオデュッセウスと大アイアスが意図をつたえにアキレウスの陣屋へおもむく。そこでアガメムノンの意向をつたえて莫大な贈り物をならべたてながらいまやアカイア勢が滅ぶか否かの瀬戸際だから戦闘に参加してほしいとうったえるが、アキレウスは侮辱を受けた怒りさめやらず応といわない。使者一行にはポイニクスという者もおり、このひとはもともと国許でアキレウスの育て役みたいな立場にあったのがそのままトロイエまでもついてきたらしいのだが、かれがじぶんのむかしの身の上話や過去の英雄のはなしをまじえつつアキレウスを説得してもいっかなかれはききいれない(そういうふうに、現行のながれとほぼ関係ないとおもわれる過去のエピソードがとつぜんながく語られだすことがおりおりにあってちょっとおもしろい)。翌朝海に船を下ろして帰還の途につこうとまで言っているのだが、それでポイニクスはかれの陣屋にのこし、使節ふたりはアガメムノンのもとにもどって経緯を報告するまでが第九歌である。
  • 第十歌では劈頭、王アガメムノンは不安でねむれず、起き出してネストルのところへ行き、夜警がきちんとねむらず見張りを遂行しているか確認に行こうと誘う。いっぽうで弟メネラオスに指示してアカイアの今後をはなしあうに足る領袖どもを起こしてあつめる手配をしており、道すがらオデュッセウスやディオメデスも起こして、そうしてあつまったみなみなのなかでやはり年の功かネストルが口火を切って、たれかトロイエの陣に忍びこんで情報をさぐってくるものはないかと提案すると、大音声の誉れ高き豪勇ディオメデスがまず名乗りをあげて、かれがえらんでオデュッセウスも同行することになる。そうして諜報へと出立したいっぽうでトロイエ方も謀議を持ってドロンというこずるそうな男をアカイア陣へおくりこむことになるが、このドロンはなまえが出てきたそのそばからまもなくつかまって死ぬことがあきらかにされているし、双方はすぐに遭遇するからじっさいにつかまって死ぬまでのあいだもみじかい。オデュッセウスとディオメデスがかれから情報を聞き取って殺したのち、さらにちかくにあった新来のトラキア人の陣に乗りこんで王もふくめた一三人を殺しつつ馬を奪って帰還するまでが第十歌となる。
  • 三時くらいで立ち上がり、洗濯物をいれた。向かいの保育園の二階の窓辺に男児がひとりいてこちらをじっとみているので、笑いかけたり手を振ったりしてやろうかとおもったが自意識に負け、ただ見返すにとどまる。もれだした薄陽のおだやかさがまったくないではなかったが、曇り空で洗濯物は乾ききっていないだろうからとまだたたんでいない。それから布団のうえでストレッチを少々。朝と同様に一回か二回、息をつよく吐くやりかた。そうしてひさしぶりにいちにちのなかで二度目の瞑想をやる気になって、三時二一分から一五分くらい座った。このときもはじめに一、二回、口からふーっと息を吐いたのちに静止した。その後きょうのことの記述へ。ここまでで五時をまわった。
  • あした一月一四日が三三歳の誕生日なのだが、一一日にLINEをみると(……)くんから、そろそろわれわれの誕生日がちかいが(かれもこちらとおなじ日なのだ)なにかやりたいことはあるかとあったので、特におもいつかないがさいきんやっていなかったしセッションするかということで、あしたは(……)家に邪魔することになっている。(……)くんになにかプレゼントをあげるか? とかんがえてもなにが良いのかぜんぜんおもいつかなかったので、ケーキかなにか買っていくつもりでそう言っておいた。その場で腹のなかへと消え去りいくばくかの満足感をあたえて居座りつづけない、食べ物のそういう持続のなさも良いだろう。兄からも数日前に誕生日プレゼントで炊飯器を贈ろうとおもうからリサーチしてみてくれとあったのだが、きのう追って、なんかあった? と来たもののまったく調べてなどいない。炊飯器などしょうじきなんでもよろしいし、検索する気にもならないので、こだわりはないから兄貴のほうで決めてもらってもぜんぜんよいというふうに返しておいた。
  • そういえば日記を書くまえにまた立位でストレッチをやったさい、手で足首のあたりを持って背面にむけてひっぱりあげるかたちのやつもやったのだけれど、これは引き上げ具合や姿勢のとりかたによって太ももの前面もほぐせるし、腕の付け根、肩甲骨のあたりも伸ばすことができる。左手でそれをやっているときに、息をふーっと吐くわけだが、そうすると収縮していった背面の肉の奥、ちょうど左腕のみなもと付近になにかかたまりのようなこごりがあって行き当たるのが触知されて、やっぱりここになんかあるんだなとおもった。こちらの観察するところではおそらくこれが、嘔吐感とか喉の詰まる感じとかの根本原因のひとつである。内部の筋肉の凝りかたまりかとおもったのだけれど、もしかしたらこれがまさに背骨なのかもしれないなとも追っておもった。ここの背骨が左側に湾曲していて、息を吐いて肉が収縮していくとそれに当たってひっかかるのではないかと。しかしその後またやってみるとさきほどよりもほぐれて当たらなくなっている気がするからよくわからない。
  • きょうはまた買い出しにも出たいのだが、日記もなんとかかたづけたいところ。一〇日は夜スーパーに行ったときのことだけ書ければもうよい。きのうもたいしたことはないし印象もないのでもうしまいとしても良いくらいだが、おとといの一一日が勤務時にいろいろ情報があったしあきらかに書くことが多いんだよな。帰り道もめずらしく(……)さん・(……)さんと同道したし(はじめてのことだ)。逆に言えば記憶がそこそこたもたれるだろうから、そんなに急いで書かなくても良いは良いのだが。『イリアス』の感想もいくらか書きたいとはおもっているができるかどうか。
  • いま一四日の午前零時四八分。三三歳になってしまったらしい。ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)を書き抜きできた。一箇所だけだが。BGMにはSam Gendel『BlueBlue』。きらいではない。
  • 九時過ぎにスーパー行き。そのまえに手首をふりながら音楽を聞いた。Enrico Pieranunzi Trio『Live In Paris』の”Body And Soul”, “I Hear A Rhapsody”, “Footprints”のメドレーというか一連。帰ってきてからつづく”I Fall In Love Too Easily”と、Bert van den Brinkのことをひさしぶりにおもいだし(『Live In Paris』のベースであるHein van de Geynがたしかかれとデュオのライブ音源出していたよな、とおもいだしたからだが)、Jesse van Rullerとやった『In Pursuit』の”Love for Sale”が聞きたくなったのでそれも聞いた。このアルバムはAmazon MusicにはないのでYouTubeだが。感想はこんどまた書けたら。
  • 一一時半くらいに携帯をみるとSMSが来ていて、兄かなとおもえばめずらしく父親で、あした誕生日おめでとうとのことばとともに、NHKの『プロフェッショナル』へのリンクが貼られており、校正とかどう? との問いかけがあった。リンクを踏んでホームページをちょっとだけみてみたところ、同番組で校正者をあつかっていたらしい。礼を返すとともに、校正をやるんだったら基本出版社にはいらなければならないだろう、ネット上であなたが書いた小説読んで正直に感想言います、アドバイスしますみたいなことをやっているひともいるから、そういうのもひとつの手かもしれない、とおくっておいた。それで、現状金も目減りしていくばかりだし、そろそろブログかnoteをつうじて本格的にしごとをあたえてくれたり金をあたえてくれたり支援してくれるひとを募るべきかなあとおもった。noteはフォロワー五人しかいないし、たぶんいままずだれも読んでいないだろうからあてにならないだろう。募るならブログをたよるしかない。いまのブログにうつって何年だったかわすれたが(とおもったがURLを開設日にしておいたのでそれが容易にわかるのだ! つまり二〇一六年の一一月一一日にブログをつくったということなので、そうかんがえるともう六年にもなるのだ)、これまでに集積してきた文章たちがわずかばかりは奇特な読み手を引き寄せるちからを持っていたと信じるしかねえ。そういうわけでここにメールアドレスを載せておくので(Gmailで、20161110fs@~です)、なにか金となるようなよすがもしくはたずきをくださったりなにかしら支援をしてくださるというひとは連絡をください。ほんとうはきちんと記事をつくってトップに載せておいたりするのがよいのでしょうが、まだそこまでやる気が起こらないので、カジュアルな感じで。じぶんになにができるのかちっともわからないので、しごととか支援とかあまりかんがえず気楽に連絡をいただき、ざっくばらんにおはなしさせてもらえればとおもいます。


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  • 日記読み: 2022/1/13, Thu.
  • 「読みかえし2」: 929 - 957
  • 「ことば」: 40, 31, 9, 22 - 24