2023/1/16, Mon.

  おお 生活を

 おお 生活を享楽もせず
 おまえの生命を費やすな(end55)
 いのちに別条ないのなら
 撃ちたい奴には撃たせてやれ

 幸福がそばを通りかかったら
 すかさずどこでも摑まえろ
 言っておくが おまえの小屋は谷に建て
 山の上にはけっして建てるな

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、55~56; 「おお 生活を」(O laß nicht......); 「ロマンツェーロ」)



  • 一年前の日記から。共通テストの日に起こった刺傷事件。

(……)新聞からはきのう、大学入試共通テストの朝に東大の門のまえで起こった刺傷事件の報を読んだ。きのうの昼の時点で両親もなんとか言っていたし、職場でも話題にあがったが、朝もはやく八時半から起こったらしく、下手人は名古屋から夜行バスでその早朝に上京した一七歳の私立高校生で、東大の医学部をめざしていたが成績があがらず絶望し、ひとを殺してじぶんも死のうとおもった、と供述しているらしい。ひとを刺すまえに、東京メトロ南北線東大前駅(現場から七〇メートルほど)に木片を四つしかけて火もつけてきたらしく、こちらもたしょうのボヤ騒ぎになったようだが、門前ではまず七二歳の、通りがかりだったか職員だったか、ともかく居合わせた男性を背後から刺し、このひとは命に別状はないものの重症、それからそこにいた受験生の男女(ともに千葉県内在住ではあるが、お互い都内の別々の私立高校の生徒)にそれぞれ切りかかって怪我を負わせたと。それから大学の職員の目のまえでじぶんは生きている価値がないというようなことを叫び、腹にむかって包丁を立てるそぶりを見せたが(切腹しようとおもっていた、と供述にあったという)、職員が落ち着くようにと声をかけると刃物を投げ出し、壁にもたれるようにしてぐったりと座りこんだ、との情報だった。

ほか、Bill Evans Trio『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』をきいた。ディスク2の”Waltz For Debby (take 1)”から、ディスクの終わりの”Milestones”まで。Waltz For Debby, Alice In Wonderland (take 2), I Loves You Porgy, My Romance (take 2), Milestones。Waltz For Debbyは曲もきれいなメロディでとっつきやすいし、このライブのなかではかなりわかりやすいほうの演奏だとおもうが、これもすばらしい。EvansがあがったりさがったりするのをLaFaroがおくれて追いかけるような場面が二回あった。ピアノのフレーズが収めに行くタイミング、呼吸の切れ目みたいなものをうまくつかんでいるのだけれど、そのあたりもうお手の物なのだろう。ベースソロは冒頭からちょっともごもごするような詰め方ではじまり、おりに旋律的に伸びはするけれど全体にそういう音程の取りづらい速めの弾き方もおおい。Alice In WonderlandではEvansの音がやはりすごいと感動した。ときに加速して転がりのぼっていくときのなめらかさとあざやかさはほかにないものだ。まさに鮮烈なきらめきというかんじ。Motianはブラシでシズルシンバルを鳴らしまくっていて、これもあらためてかんがえると変というか、シズルってそんなにつねに鳴らしちゃっていいの? うるさくないの? という疑問はおぼえる。刻みにつかうものなのか? と。しゃらしゃらと持続する響きが絶えず湧き出てピアノやベースのほうまで浸食するかのように空間を埋めているのだが、それはそれで不思議な浮遊感とか気体感を生んでいるのかもしれない。ベースソロになると一転してしずかな刻みになり、テイク1とちょっとやりかたが違うような気もしたが、ベースについていえばAlice In WonderlandのLaFaroのソロはどちらも闊達で、テイク2ではとちゅうMotianとあわせていわば見得を切るような瞬間もあるし(高音部まであがっていって頂上にたどりつくところでMotianが刻みをやめてブレイクが生まれる)、締め方も速弾きでリズミカルに一気にくだっていて、うまく構成されてよくながれるソロという印象。I Loves You Porgyあたりまでは意識がはっきりしていたのだが、そのあとちょっと眠気が混ざってきて、My Romanceからは焦点がそれて音があまりはいってこず、記憶にのこらなかった。

  • 「読みかえし2」から。

1017

 (……)わたしが思うにミラーが引き起こした問題は(彼のせいではないが)、頑張って自分の作品をせっかちに(早めに)出してしまい、それゆえそれが正しいやり方なのだとほかの人たちに思わせてしまったことで、そこで半人前の作家の大隊が押し寄せてドアをノックし、自分たちの才能とやらを見せびらかせて押し売りするようになってしまっていて、それはなぜかといえば自分たちがずっと「見出されていない」からで、見出されていないというまさにその事実に自分たちは天才だということを確信させられてしまっていて、それというのも「世界はまだ彼らに追いついていない」からなのだ。
 彼らの大部分にとって世界が追いつくことは決してないだろう。彼らは書き方を知らないし、言葉や言葉遣いの恩寵もまったく受けたことはないのだ。そうでない者にわたしは会ったこともないし作品を読んだこともない。そんな者たちがどこかにいてくれることを願う。わたしたちにはそんな人物が必要だ。まわりにいるのは、鍛錬していないやつらばかりだ。しかしギターを抱えて現(end228)れた者たちにしても、わたしにわかったのは、いちばん才能のないやつらがいちばん大きな声で叫び、最も下品で、最も自己満足に浸っているということだ。やつらはわたしのカウチで眠り、わたしの敷物の上に吐き、わたしの酒を飲み、自分たちがどれほど偉大かわたしに向かってのべつまくなしに喋りたてていた。わたしは歌や詩や長編小説と短編小説、あるいは長編小説か短編小説を出版する人間ではない。闘いの場がどこなのかはわかっている。友だちや恋人、そのほかの者たちに頼み込むのは空に向かってマスターベーションをすることだ。そう、今夜わたしはワインをたっぷり飲んでいて、訪ねてきた者たちにきっと困惑してしまったのだろう。作家たちども、どうかわたしを作家たちのもとから救い出しておくれ。アルヴァラド通りの娼婦たちのおしゃべりの方がもっと面白かったし、みんな違っていてありきたりではなかった。[…]
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、228~229; ジョン・マーティン宛、1980年[6月か?])

     *

1019

 わたしが何を言おうとしているのかといえば、幸運が巡ってきても、それを真に受けるなということだ。二十代で有名になったりすると、それに押しつぶされないようにするのは至難の技だ。六十歳を過ぎて少しだけ有名になったとしても、うまく対応することができる。エズ・パウンド老がいつも言っていたのは、「自分の仕事 [﹅2] をしろ」ということだった。わたしは彼が言わんとすることを明確に理解していた。たとえわたしにとって書くことが酒を飲むこと以上の仕事になり得ないとしても。そして、もちろんのこと、今もわたしは酒を飲んでいて、この手紙が少しとっ散らかっているとしても、そう、これがわたしのスタイル [﹅4] なのだ。
 あなたがご承知かどうかはわからない。何人かの詩人を引き合いに出してみる。最初からとてもうまくいく者がいる。閃き、燃え上がり、いちかばちかのやり方で書き留める。最初の一、二冊はかなりのものだが、やがて消え去ってしまう [﹅8] ように思える。あたりを見回してみれば、彼らはどこかの大学で創作についての講義をしている。今や自分たちはどういうふうに書けばいいのかわかっていると思い込み、その方法を他人に教えようとしているわけだ。これはむかつく。彼らは自分たちの今の姿を受け入れてしまっているのだ。そんなことができるなんて信じられない。まるでどこかの男がふらっと現れ、自分はおまんこをするのが得意だと思っているから、わたしにおまんこの仕方を教えようとするよ(end246)うなものだ。
 いい作家がどこかにいるとすれば、彼らは「わたしは作家だ」と思いながら、あたりをうろつき回り、あちこちに顔を出し、ペラペラと何でも喋り、やたらと目につくことをするとは思えない。他にやることが何もないからそうやって生きているだけだ。山積しているではないか……恐ろしいことに恐ろしくないこと、さまざまなお喋り、フニャちん野郎たちに悪夢、悲鳴、笑い声と死と何もない果てしない空間などなどが、ひとつになり始め、それからタイプライターが目に入ると、彼らはその前に座って、押し出されていく、計画など何もない、ただ出てくるだけ。彼らがまだついているのなら。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、246~247; ロス・ペキーノ・グレイジャー宛、1983年2月16日)

     *

1025

 ほら、『我が心』はあの頃そのもので、それは奇妙な時で、その時わたしは若くすらなかった。そして今、わたしは七十二年生きてきて、工場やつまらない仕事から何とか抜け出そうとずっと頑張っていたようなものだ。今も書くことはいっぱいあるように思え、言葉が紙に噛み付いていくかのようで、これまで同様書かずにはいられない[…]書くことで救われ、わたしは精神病院に(end295)入ったり、殺人を犯したり自殺をしたりせずに済んだのだ。今も書かずにはいられない。今この時。明日。息を引き取るその時まで。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、295~296; ジャック・グレープス宛、1992年10月22日午後12時10分)

     *

1026

 夜になると、わたしはコンピューターに向かうこともある。そうでなければ、無理をしたりはしない。言葉が浮かび上がってこないかぎり、じっとしていればいい。何も閃かなくてコンピューターのそばに近づかないこともあって、死んでいるのかただ休んでいるだけなのか、そのうちわかることだろう。とはいえわたしは次の一行が画面に現れるまでは死んでいる。書くことは神聖なことではなくどこまでも必要欠くべからざることなのだ。そうだ。そのとおり。その間、わたしはできるかぎり人間らしくいようとしている。妻に話しかけ、猫を可愛がり、そうできる時は座ってテレビを見たり、あるいはもしかして新聞を一面から最後の面まで読んだり、あるいはもしかしてただ早く寝たり。七十二歳になるとは新たな冒険なのだ。九十二歳になったら今を振り返って大笑いすることだろう。いや、わたしはもうたっぷりと生きてしまった。同じ繰り返しはもう勘弁だ。わたしたち誰もがもっと醜くなっていくだけだというのに。こんなに生きるとは思ってもいなかったが、お迎えが来るのなら、わたしは覚悟ができている。
 (チャールズ・ブコウスキーアベルデブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』(青土社、二〇二二年)、296; ジャック・グレープス宛、1992年10月22日午後12時10分)

  • 現在二二日日曜日の昼間で、この一週間前のことはもうほぼおぼえていないので、また職場や通話のことだけやっつけ的にすこし書いておけばよいだろう。(……)
  • (……)
  • (……)
  • (……)
  • 勤務時のことでおぼえているのもすくない。(……)


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  • 日記読み: 2022/1/16, Sun.
  • 「読みかえし2」: 988 - 1030