2023/1/18, Wed.

  娘が天国のよろこびを

 娘が天国のよろこびを
 声をふるわせて歌い 弾いているあいだに
 ぼくのトランクは
 プロシャの税関吏どもにしらべられた

 何から何までかぎまわし
 シャツやズボンやハンカチまでいじりまわし
 やつらはレースや宝石をさがした
 それから発禁の本を

 馬鹿者め トランクのなかをさがすなんて
 そんなところに何も見つかりはしないぞ
 ぼくが旅に持って出た密輸品は
 頭のなかにしまってある(end65)

 そこにはレース [シュピッツェ] もしまってある
 ブリュッセルやメッヘルンのものより上等だ
 ぼくの諷刺 [シュピッツ] の荷を解こうものなら
 おまえらを突き刺し こきおろすだろう

 頭にぼくは宝石類をもっている
 未来の王位のダイヤモンドを
 あたらしい神の 偉大な未知の神の
 神殿の宝物を

 それに 本をたくさん頭のなかにもってきている
 おまえたちに はっきり言おう
 ぼくの頭は没収されたいろんな本の
 さえずりさわぐ鳥の巣だ(end66)

 そうだ サタンの文庫にも
 これより悪い本はありえない
 ホフマン・フォン・ファラースレーベンの
 本より危険な本ばかりだ

 ひとりの旅客がぼくのそばに立っていた
 ぼくに言った プロシャの関税同盟が
 偉大な税関の鎖が
 いま ぼくの目のまえにある と

 「関税同盟は」と その男は言った
 「わがドイツ国民の基礎となるでしょう
 それは四分五裂の祖国を
 むすびつけて一つにするでしょう

 それはそとの統一をわれわれに与えます
 いわゆる ものの統一を(end67)
 精神上の統一は検閲が与えてくれます
 真に思想上の統一は

 それは内の統一をわれわれに与えます
 思想や精神の統一を
 外も内も統一した
 統一ドイツがわれわれに必要です」

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、65~68; 「娘が天国のよろこびを」(Während die Kleine von Himmelslust......); 『ドイツ 冬物語』)



  • 現在、二二日日曜日の午後七時半である。いまNotionでこの記事をみてみたところ、おどろいたことになにひとつしるされていなかった。過去日記ほかからの引用すらない。とくに目に立った記述はなかったようだ。記憶はとうぜんとぼしいので、このいちにちもみじかくすませるが、まずおぼえているのは勤務へむかう往路の一幕だ。ルートはいつもどおりアパートから南方の車道に出て西にまっすぐ、しかし工事現場を避けるために草の空き地のまえでいっぽん裏に(つまり最寄り駅のそばのほうに)曲がったのだが、そこの道をとおると草っ原を埋め尽くしている直立志向の穂草のたぐいが、おもいのほか琥珀めいた色をためていろどりとなっている。しかしそれをあきらかにみたのは月曜日のことで、というのもその日は雨降りか雨後で穂が濡れていたために色が意外なほどに濃くうつりだしていたのだ。先日ひとの気配がかんじられず新設で稼働前なのか? とおもった(……)学童保育所は、ふつうにまえからあったようでこの日は子どもらのすがたや声がみられた。裏通りにうつって病院や公園、文化施設の脇を行くあいだ、遠くの青い空やそこにはめこまれたように立つマンションに視線をはなったり、すれちがう小学生の男女や公園にあそぶ子たちをながめたりしていたが、なにとはなしに身中の奥底に不安が芽を出しつつあるような、不可視の内奥かとおくかなたからおびやかされているような、つぎの瞬間になにかが起こるのではないかと待ちうけているような感覚があった。おおげさにいえば世界の崩壊や破局、すくなくとも破壊をおもい、つまりこのいま目のまえの秩序がいつこわれても原理的にはおかしくはない、というような感覚だったのだが、ウクライナでは現実にそういう状況が起こっているのだと、まわりにある建物やものたちが破壊されたイメージをそこにかさねつつ、しかし無常というのはほんらいたぶんそういうことなのだよなとおもった。実在的なもの、変化せずに永続するものはなにひとつなく、すべてがかりそめのすがたであって生成流転のなかをうつろうていくというのは、原理的にはつぎの瞬間に世界が根本的に変化してもおかしくはないということだろう。そして変化とはそれがどれだけささやかなものであれ、いまあるものがなくなることを意味するのだから、ひとつの否定性である。時間のながれとは否定の連鎖にほかならない。にんげんが変化にたいしていだく恐怖はその否定のちからからくるのかもしれず、ひとはそのような恐怖を馴致してそれとようよう渡り合いやりすごしていくために、なにか永続するもの、確実なもの、絶対に揺るがない足場のようなものをもとめる。それが神であり真理だ。無常観というのはそうした確実性をまさしく否定し、この世がその根本からして不確実で無根拠であることを見据え受け入れるという認識のありかたで、それをまともに受け止めるならば多かれ少なかれ、おそらく不安は避けられない。その不安を受け止めることこそが無常を知り、受け止めることである。
  • ところですべては無常である、唯一絶対のことがらや永続的な真理や普遍的本質はないといったときに、それでは「すべては無常である」というその世界のありかたは真理であり本質ではないのか、という再帰的な問いがすぐさま生じる。全称命題によくある逆説のアポリアである。これを言語や論理のうえでのみ出来する問題だとしてしりぞけ、この問いがどうであれまたこたえがどうであれ、この世界のありかたじたいは現にそうなのだからことばの領域にあまりかかずらうことなく、言語ではないばしょでその当体を、実際を、心身で感じるまたは観ずるのだというのが、おそらく禅仏教もしくは仏教一般のたちばだとおもう。それはそれでよいとして、あくまで言語と論理のうえで問いをつづけてみるならば、「すべては無常である」というのが再帰的にも真だとすると、「すべては無常である」というその世界のありかたじたいもまた無常であり、永続するものではないということになるはずだ。つまり無常だったはずの世界もまた無常でなくなることがある。いわば有常の世界にうつりかわるわけだが、無常でないとは絶対的なことがら、普遍的な真理が存在するということである。「すべては無常である」という法則じたいもまたかりそめのものだとすると、あるときには無常が成立するがあるときには成立しない、確実な真理がある状態とそれがない状態を世界はまったく理由もなく偶然的に行き来するということになる。無常という観念をメタ的に折りたたんで、いわば二重にしてかんがえるとそういうことになるとおもうのだが、ただしそこでわれわれに感知されたり認識されたりする世界の様相ががらりと変わってしまうのか、それとも表面的には変化のないようにみえる世界の底で、そのように形而上学的なゆらぎが生じたり生じなかったりしているのかはわからない。ともあれ、つまり世界にはあるときは真理がほんとうに存在しており、あるときにはそうではないのではないかとおもったのだが、一見すると、有常において成立していた真理が無常において成立しなくなってしまうのだから、それはそもそも普遍的永続的な「真理」などではないではないか、とおもえる。しかしそれはおそらく、有常と無常の二位相をメタ的に、俯瞰的にみる視点を仮構しているからそうおもえるだけであって、じっさいにはこの世界は、あるときには「真理のある世界」になっており、あるときには「真理のない世界」になっているのではないか、ということだ。「真理のある世界」の範疇ではあくまでも普遍的真理が存在し、成立しているわけである。よく知らないがカンタン・メイヤスーが世界の原理的無根拠性と、それによるまったき偶然の理由なき全的変容を言っているらしいのだけれど、それはたぶんこういうことをかんがえているのではないか。そしてまた、荘子のいう「物化」もこれにちかいかんがえかただとおもわれる。中島隆博『悪の哲学』のなかに「物化」はたしょうふれられていたし、(……)さんのブログでも読んだが、まだ書き抜きをしていないので書中から引くのはめんどうくさい。
  • 無常についてのそういった考察は往路のうちにもいくらか芽生えていたかもしれないとはいえ、だいたいあとでおもったことなのだけれど、あるいているさいちゅうはつぎの瞬間からなにかおびやかされているかのような漠とした不安感がかすかながらあったので、あんまりこういうことかんがえないほうがいいな、精神衛生にわるそうだとおもって抽象的な思考から目をそらそうとした。それでもけっきょくそのあと、交差点をわたって商店街的通りのなかを行くあいだに思考が回帰してきていたおぼえがあるので、やはりあとでおもったのではなく、往路のうちにだいたいかんがえきっていたのかもしれない。いずれにしてもそのはなしはそれでよいとして、あとは勤務時のことだが、しかしこれもだれに当たったかすらほとんどよみがえってこない。(……)
  • 帰路の記憶はとくにはないが、この日はヤクを二錠だけで終わりまで問題なく行けたのだった。ただしやはり退勤して電車に乗ったあたりで、左肩の周辺があさくえぐられ溝を掘られているような、ひっかかるようなこごりが生じており、ゆられているあいだに深呼吸したりしたのだがかんぜんには改善しなかった。とはいえいぜんにくらべると重くはない。また、最寄り駅からの帰途でスーパーにも寄ったのだった。キャベツとかがなくなってしまっていたので。いつもより一時限分はやくからの労働だったから帰りもそれだけはやめで、そうするくらいの気力があったということだ。ただしものを食ってから時間が経ってエネルギーも水分も枯渇にむかっていたのでからだはたよりなく、電車内でだいじょうぶだったくせにスーパーのレジで店員が値段を読みこむのをまえに待っているあいだに背がちょっと緊張して呼吸が苦しくなった。


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  • 日記読み: 2022/1/18, Tue.
  • 「読みかえし2」: 1041 - 1050
  • 「ことば」: 40, 31, 9