2023/1/23, Mon.

  ぼくは笑ってやる

 ぼくは笑ってやる 山羊面をしてぼくをじろじろ見ている
 あの野暮な間抜けどもを
 ぼくは笑ってやる 腹をすかして
 陰険にぼくを嗅ぎまわり 口をあけて眺めている狐どもを

 ぼくは笑ってやる 高邁な精神界の審判者のつもりで
 いばっている博学の猿どもを(end207)
 ぼくは笑ってやる 毒にひたした武器で
 ぼくをおびやかす卑劣な悪漢どもを

 たとい 幸福の美しい七つ道具が
 運命の手でこわされて
 ぼくらの足もとに投げ出されても

 たとい心臓が体内で引き裂かれ
 引き裂かれ ずたずたに切られ 突き破られても
 うつくしい甲高い笑いはのこるのだ

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、207~208; 「ぼくは笑ってやる」(Ich lache ob......); 『歌の本』)



  • 一年前の日記からはEvans Trioの感想を。

(……)Bill Evans Trioの六一年のライブをひきつづきすすめる。ディスク2のさいごの”Milestones”からはじめてディスク3へ。”Detour Ahead (take 2)”, “Gloria’s Step (take 3)”, “Waltz For Debby (take 2)”, “All of You (take 3)”まで。ディスク3は夜の部の演奏なのだけれど、全体的にLaFaroの威勢がいいような印象を受ける。ふつうに弾いていてもちからのこもった、アグレッシヴな感じがあるというか。録音の感覚ももしかしたらディスク1, 2と違うのかもしれない。”Gloria’s Step”はテーマの冒頭からしてとち狂ったような三連符での上下運動をくりかえしているし、その後も水を得た魚。この曲はLaFaroの作曲で、硬質なつめたさの、ECMをおもわせるかんじの雪白的な端麗さなのだけれど、Evansがさいしょのメロディをきれいにしずかにかなでだしたその直後にいきなりLaFaroがぐわんぐわんやっていて、いや作曲者としておまえはそれでいいのかと、おまえはどういうつもりでこれをつくったんだと、この曲の色調から期待されるプレイではぜったいにないだろう、とつっこみをいれたくなる。曲そのものはまちがいなく、しめやかな方向の、端正にととのったありかたを要求しているとおもうのだけれど、LaFaroはみずからそれを積極的にかき乱し、野蛮さと粗暴さでぶち壊しに行っているようにきこえる。”Waltz For Debby”ではやはりピアノとベースの分離感というか、おのおのの独立感をつよくかんじた。Bill Evansのフレーズがはまるべきところにいちいちはまりきっていてすごいのだけれど、かれの冷静沈着さがとにかく異常で、LaFaroがあんなふうにやっているのにじぶんのペースをまったく乱さずにたもてるってどういうことなの? とおもう。LaFaroをほぼ完全に無視しているように、Evansにはかれのプレイがきこえていないかのようにきこえる。ピアノがEvansでなければLaFaroはたぶんあそこまでできなかっただろうし、このトリオはこういうかたちでは成り立たなかっただろうな、とおもう。Bill Evansの徹底的なおちつきこそがLaFaroを解放してかれにおどることをゆるし、ピアノの周辺にはげしくうごめかせているのであって、LaFaroがあそこまでやってもまだEvansには追いついていないとすら言えるかもしれない。”All of You (take 3)”はひさしぶりにきいたがマジですごかった。ここでのEvansには神がかり的なものをおぼえた。ソロの後半で暈つきの厚いブロックコードに移行するのだけれど(それじたいはEvansのいつものながれである)、そのコードが打たれたときにその鮮烈さにびっくりして、ちょっと感涙してしまった。ベースソロももしかしたら三つあるテイク中のベストかもしれない。フレーズのながれかたや、こまかなメロディの立ち方や、おのおのの箇所でなにをやりたいのかというのがはっきりしていない部分がない。はじめから終わりまでながれがととのい、統一されている。Evansは序盤のとちゅうから黙って、LaFaroとMotianだけの、なんというか色調がうすく骨っぽいような時間がしばらくつづくのだけれど、もどってきたバッキングのさいしょのつけかたが絶妙で、複音を二セットにしてテロンテロンとカードをめくっていくような単位がシンコペーション的なリズムで段階的に上昇していくかたちだが、ここはもちろんいままでなんどもきいてきたのに、こんなふうにつけられるの? と今回脱帽した。

  • したは(……)さんのブログより。この記述の後半を読むに、ウルフの『波』やかのじょがそれについて日記に書きつけたことば(『波』の帯から引いておくと、「私が今やりたいのは、あらゆる原子を生きいきさせることだ。(…)詩というのはつまり、いきいきしたもので満たされ切っているものだ。(…)その中にはナンセンスも、事実も、きたないものも入っていなくてはならない。しかもなお、透明なものにしなくてはならない」)を思い起こさせるなとおもった。

 一九〇八年一二月、アンリ・マティスは「画家のノート」という文章を発表して自らの制作方法を表明した。そのなかに、「布置(disposition, disposer)」という語が二度現れる。

私にとって、表現とは顔に溢れる情熱とか、激しい動きによって現される情熱などのなかにあるのではない。それは私のタブローの布置(disposition)の仕方全体のうちにある——人体が占めている場所、それらを取りまく余白の空間、釣合いなど、そこでは一切が役割をもっている。構図(composition)は画家が自分の感情を表現するために布置する(dispose)さまざまな要素を装飾的な仕方で整えるわざである。

 「布置(disposition, disposer)」という語が「画家のノート」のなかで使われるのはこの二か所のみだ。それは頻度において、「構図(composition)」や「表現(expression)」といった語のはるか後方に位置するマイナーな用語でしかない。しかしマティスにとって、この「布置」という操作は原理的な意味を持っている。

白いカンヴァスの上に青、緑、赤などの感覚をまき散らすと、一筆加えるごとに前に置かれた(posées)タッチはその重要さを失ってしまう。室内を描くとする——私の前には戸棚があり、実にいきいきした赤の感覚を私に与えている。そして私は満足のいくような赤を置く(pose)。この赤とカンヴァスの白との間にある関係が生まれる。そのそばに緑を置き(pose)、黄色で寄せ木の床を表現しようとする。[……]だが、これらのさまざまな色調はお互いを弱めてしまう。私が使ういろいろな記号はお互いを殺さないように釣り合いがとれていなければならない。

 マティスは、白いカンヴァスの上に、赤、緑、黄の「感覚」をまき散らす——ばらばらに置いていく(poser)。ばらばらに置かれた諸感覚を、後から装飾的な仕方で整えていく枝が、「構図(com-position)」である。だが、筆が加えられるたびに全体の構図は一つのまとまりに向かう一方、まき散らされた個々の感覚は「その重要さを失ってしまう」。いったい一つの画面として完成しており、同時に、そこにまき散らされた感覚のそれぞれもまた生彩を失わないような絵画はいかにして描きうるのか? すなわち一つであると同時にばらばらであるような絵画はいかにして描きうるのか?
 たんに一つにまとまっているだけの絵画なら、どんな凡庸な画家でも描きうる。問題は、一つであると同時にばらばらであること、画面に置かれた諸感覚の離散的な自立性を、絵画の最終状態にまで持ち込むことだ。「布置」、すなわち「離れて-置く(dis-poser)」という語が指しているのは、この離散化の操作である。マティスのあらゆる「構図」すなわち「共に-置く(com-poser)」ことの基底には、「離れて-置く」ことのアナーキーな運動がうごめいている。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第3章 マティスの布置」 p.81-82)

  • したの一段はクソ笑った。

 帰宅。テンションが死ぬほどあがった状態でキッチンに立つ。どれほどテンションがあがっていたかというと、調理中にアニメ『幽遊白書』のエンディングテーマである「アンバランスなKissをして」をわざわざApple Musicで検索して流すほど。むかし、(……)や(……)や(……)とカラオケでオールしたとき、後半だんだんダレてきてどいつもこいつもよく知らん歌やむかしのアニメの歌を歌いはじめたその流れでこちらがこの曲を入れたのだが、曲がはじまる直前、モニターに表示されるアニメのなかに桑原——あるいはコエンマだったかもしれん——が出てきたらその場で歌唱終了するぜ! みたいなことをなんとなく宣言したところ、イントロの時点でまんまと登場したのだったか、あるいはサビの手前で登場したのだったか、とにかく死ぬほどおもしろい完璧というほかないタイミングで登場し、あえなく歌唱強制終了になったことがあった。しかし当時、われわれのあいだでは、だれかがなにかものすごく面白いことを口にしたり、あるいはなにかものすごくおもしろい事態が発生したりした場合、それがおもしろければおもしろいほど絶対に反応しないという妙なゲームが流行しており、このときも、こちらが歌い出そうとした瞬間——あるいはサビで気持ちよくなる瞬間——にまんまと桑原ないしはコエンマが画面に登場、かたわらにいた(……)がそれにすぐさま反応して真顔かつ無言のままリモコンで強制終了し、それを受けたこちらもなにくわぬ顔ですっと着席して次の人間にマイクを渡すという一連のふるまいを笑いもツッコミもいっさい不在のまま演じきったのだったが、あれからもう15年ほどになるのか、神々をわれわれを試そうとしていたとしかおもえないほどなにもかもが爆笑の瞬間のために整えられていたあの出来事は、いまだにだれの笑いも引き起こさないまま宙吊りになっているのだ。まるで幻覚のなかでいまでも妖狐蔵馬とたたかいつづけている戸愚呂兄のように。なんやこの比喩! 死ね!

  • 窓外の気配からして七時台かなというころにいちど覚めたのだが、それだとねむりがすくなすぎるとおもって寝つきにはいり、その後時刻を確認したのは九時二三分。天気は曇天。寒々しい空気の白さ。いちど立って水を飲んだり用を足したり腕を振ったりしてからまた布団にもどり、Chromebookで過去日記や読みかえしノートを読む。離床は一〇時半ごろだった。滞在がみじかくなってきている。しかしほんとうはもっとだらだらして脚をよく揉んだほうがよい。また腕を振ったりストレッチをしたりしてから瞑想。一〇時五二分から一一時六分だったか。だから一五分くらいでみじかいのだが、腕振りとかでからだがほぐれているからそれでもかなりやわらぎ、静止の感覚もじつにしっかりとしている。
  • 食事は温野菜、煮込みうどん、母親が持ってきてくれた冷凍のソーセージ。飯を食うあいだは(……)さんのブログを読み、食後も読んでいたのだがそうしているとすこしストレスじみた不安のとおい芽をまたかんじる。きのうの記事にも書いたとおり、ここ数日で不安の感触が抽象的なものとなってきており、それは二〇一八年初を反復しているかのようにある種の狂いにたいするおそれをはらんでいるのだけれど、またべつの見方をすると、それはおそらく人間的な意味の充満から来る圧力にたいする反応でもある。この点は二〇一八年初の時点ですでに解釈していたはずだ。いとうせいこうがひところやはり鬱症状を呈していたことがあるらしく、ちょっとよくなってきたころに、友だちのだれだかが、ひとりでばかりいるのもよくないだろうし自然のなかにでも出かけようとさそってくれて山のほうにハイキング的におもむいたところ、蝶が目のまえを横切ったのを見て「あ、蝶だ」とおもった、ただそれだけの意味にも耐えられずに吐きそうになった、と、たしか千葉雅也との対談で語っていたおぼえがあり、とうじそのはなしを引きながら、じぶんもこれとおなじような感じなのだろうと日記に書いたとおもうのだが、それが小規模なかたちで回帰してきているようにおもわれる。言語はもちろん人間的意味の媒体そのものだから、それを読んで負荷を感じるのは順当なことだ。しかし言語のみならず、部屋のなかのものもの、周りの空間をみても同様の圧迫をすこし感じる。それはこの部屋という囲われた領域、そしてそのなかにあるものがすべて人間的な意味を帯びているからで、比喩的にいってみればじぶんの体臭にまみれきっているようなものなので、じぶんに関係づけられたものしかないというその自閉的密室のような感覚が、精神的に窮屈で圧迫をもたらし、その圧迫によって不安が惹起されるということだろうとおもう。二〇一八年初の自生思考および疑似統合失調症騒ぎというのは、いまからふりかえってみるとけっきょくのところそうした意味にたいする拒否反応だったのだろうとおもわれ、あたまのなかの思念が恐怖の対象となった結果、それがコントロールをうしなっているように感じられたのだろうが、そのときと似た感触が、とうじよりははるかにちいさなものではあれ、ここ数日芽生えはじめている。人間的な意味からのがれた領分というのは、ありがちなはなしだが端的に言って自然ということであり、自然だってもちろん人間的意味に回収され還元されずにはすまないのだけれど、ただまだしもその濃度がうすく、また意味に回収されきらない余地をはらんでいることはうたがいない。それで空とかみるのがやっぱいいのかなとおもって、一時椅子を下りて窓辺に寄り、たたんであった布団に尻を乗せつつレースのカーテンをひらいて真っ白な曇天をしばらくみあげてみたのだが、そうするとたしかにすこしおちつくような気はした。
  • さいきん体調は、というかまさしくからだのほうはよくなっており、だいぶ安定していると言ってよいのだけれど、それによってかえって形而上学的な精神領域が浮き彫りになってきて、抽象的な不安が目に見えて対象化されてくるというのはきのう書いたとおりだ。もうひとつ分析をつけくわえておくと、からだのはたらきがよくなるということはとうぜんそれだけ心身が活発化するわけで、あたまのはたらきも活性化されるから、瞬間瞬間に意味をひろいあげるあたまの機能や思考能力もそのぶん高まるとかんがえられ、それによって精神への負担がおおきくなるということでもあるのだろう。なにかの接近めいたとおいおびやかしを、かすかながらもひしひしと感じる。それが一八年のときのように発狂騒ぎにいたるのかどうかわからないが、そうだとしてもじぶんでどうにかなることがらではなく、その接近を止める手立てもとおざける手立ても明確には存在しない。とはいえすでにいちど通過したことがらではあるし、なにより今回はヤクもあるので、またああいうことになったとしても前回よりはひどくならないだろうとおもっているが。ただしひとの精神は未知で、精神疾患とは不意を撃ってくるものなので、またなにかしらあらたな症状が発生しないともかぎらない。気づいてしまったのだが、二〇一八年に変調が起こったのも年初から三月にかけて、ちょうどいまとおなじ時期であり、三月末に不安症状はピークに達して、四月からは鬱様態に変化した。順当に解釈すれば、あれは意味をひろいあげる精神の過剰なはたらきによって消耗した意識が、防衛としてそれらの機能を一時停止させ、あたまや心身を休ませたということになるのだろう。だからなにもかんじないという鬱的様態になったし、読み書きもできなくなった。感じること、知覚や情感と意味の読み取りとは理論的にはべつのことがらになりうるはずだが、現実にはなにかを知覚することのなかにはすでに意味がはいりこんでいる。目のまえの事物ひとつをみるだけでもじぶんは意味をひろいとっている。ただしその意味はじぶんでそれと意識したり、明確に言語化して確定できるものとはかぎらない。興味深いのは、引っ越ししてまもなくのパニック障害再発からいまにかけて、症状の推移が、一九歳のときにはじめてパニック発作におそわれていこう一八年に鬱状態を体験するまでの個人史を、より小規模に、時間的にも圧縮したかたちで反復しているようにみえることで、もしこのさきも症状が過去の経過を忠実になぞるのだとしたら、もういちど鬱的様態がきて読み書きができなくなるということになるはずだ。
  • かすかな不安とともにそういったことをかんがえつつ、というか不安に触発されてそういう思考が自動的に展開してしまい、じぶんの症状を分析しようとするのだが、意味による圧迫と不安をかんじながらも、しかしこの思考、この解釈をはやく書きつけておきたいともおもっているわけで、そのあたりけっこう業が深いようにおもえる。それはやはり一種の悪魔祓いみたいなことなのだろうか。じぶんの症状をある程度理解可能なものとしてかたちづけておくことで、急襲を防ぐという。一二時半を過ぎたあたりでシャワーを浴びた。髭を剃りたいとはおもっているのだがめんどうくさくてまたなまけてしまい、出てくるとウェブをちょっと見たりしてから、一時を越えて寝床へ。はやく書きたいとはおもっているがいそいでもよくない、まずだらだらして心身をおちつけるのが先決だしばあいによっては帰宅後とかあしたにするべきだというわけで、あおむけでだらだらしながら(……)さんのブログを読んだ。きのう夜歩きに出たあとはすっきりしておちついたので、脚をうごかすのがいいのかなとおもったが、寝床で脚を揉んでみてもやはりおちつくというか、そのあいだはべつに文を読んでいてもどうともないので、腕を振るのもよいが下半身もやはり大事なのかもしれない。東洋医学の理屈に沿うならば、あたまのほうにばかり血が行ってもよくない、いわゆる丹田とか腹(肚)、下方に気血が充実しないと心身は安定しないというはなしになるだろう。ほんまかいなという気もするのだが、そのあといまこうして書いているあいだはおびやかしのようなものを感じていないので、ひじょうに形而上学的な精神の問題でも、食事もふくめてバイオリズムと同期している側面はたしかにふくまれているようだ。それだけがすべてではないが、そういう部分もあると。
  • そのほか瞑想実践とはつまり方向性(意味)が確定するまえの段階にとどまりつづけることだとか、したがってアテンション・エコノミーということばがさいきんあるようだが、そういう注意(意識の志向性)の動員にたいする抵抗の訓練にいちおうなりうるとか(きのう読んだGuardianの記事でジェニー・オデルが(かのじょじしんは瞑想やマインドフルネスについてはほぼ言及していなかったとおもうが)言っていたのもだいたいそういう趣旨だが)、そういったいつもながらのことをかんがえもしたが、いまもう三時直前だしそのあたりはまたこんど。
  • あとそうだ、個であるとは恐怖であるとか、自身の存在(性)にたいする不安とは死にたいする不安と同義だとおもうのだが、それはいいかえれば有限性にたいする不安であるというはなしなども。帰宅後かあしたに書けるかどうか。
  • したは(……)さんのブログから。

 『シネマ2』が扱うのは、主に第二次世界大戦以降の「現代映画」である。イタリアのネオ・リアリズムに同書がその出発点を置く「現代映画」において、人は限界を超えた光景に直面していかなる反応もできなくなる。そうして感覚-運動の連鎖が断ち切られ、「純粋に光学的・音声的な状況」が現れる。これが、すべての始まりである。
 運動から切り離された純粋に光学的・音声的な状況において、「対象」はいくつかの特徴に還元されて、たんなる光学的・音声的な「描写」に変わる。次いで、「このイメージが呼び覚ます「回想イメージ」と関係を結ぶ」。この議論の展開は、ベルクソンの『物質と記憶』第二章における、「再認」の議論からもたらされている。
 ベルクソンによれば、くり返し経験されたものは、習慣化した運動機構の作動によりそれと意識することなく自動的に再認される。しかし人が見慣れないもの、すぐに思い出すことができないものと出会うときには、運動機構の自動的な作動が停止するとともに、注意深い観察によって目の前のものの感覚的特徴が際立たせられ、それと結びつきうる特定の回想イメージを通して再認がなされる。『シネマ2』が語る〈感覚-運動系の切断〉→〈純粋に光学的・音声的な状況の出現〉→〈特徴化された光学的・音声的描写〉→〈回想イメージとの結合〉という展開は、このプロセスに対応している。
 特徴化された「描写」と、それに対応する「回想イメージ」の結合は、映画においてまず「フラッシュバック」として表現される。そこで「回想イメージ」は、「純粋回想」(ベルクソン)と呼ばれる潜在性の地帯から現働化される。
 ベルクソンによれば「純粋回想」には、あらゆる過去が即自的に、あらゆる細部にわたって保存されている。それは決して、私たちの内部に蓄えられるような記憶ではない。ドゥルーズはこう説明している。「潜在的イメージ(純粋回想)は、心理状態や意識ではない。[……]知覚するためには事物の中に身をおかなければならないのと同様に、われわれは回想をそれがあるところへさがしにいくのであり、一飛びに、一般的な過去の中へ、時間の流れとともにたえず保存され続ける純粋に潜在的なこうしたイメージの中に身をおかなければならない。われわれがわれわれの夢や回想をさがしにいくのは、即自的にある過去、即自的にそれとして保存される過去の中であって、その逆ではない」。
 私たちは、世界のなかで事物を探すように、意識の外にある「純粋回想」の中へ、過去一般の中へ、目の前のものの特徴と結合する回想を探しにいく。しかし「純粋回想」には、特定の過去の想起を不可能にするような性質も同時に備わっている。問題は再認に失敗し、思い出すことができないときだ。そのとき、現在の光学的・音声的知覚は、特定の適切な回想イメージの現働化へと辿りつくことに失敗したまま、「純粋回想」の潜在性と結びついて不特定化する。「思い出すことができないとき、感覚運動的延長は中断されたままであり、現働的イメージ、現在の光学的知覚は、運動的イメージと連鎖せず、接触を回復させることになる回想イメージとさえも連鎖しない。それはむしろ、真に潜在的な要素と関係を結ぶのである。デジャヴュや過去「一般」の感覚(私はすでにどこかであの男に会ったはずだ……)、夢のイメージ(私は夢の中でその男を見たような気がする……)」。つまり思い出すことができないとき、特定の回想イメージではなく、不特定の、一般的な、横滑りする想起が動き出すのだ。回想のたがが外れる。記憶喪失、錯乱、夢の世界が開かれる。
平倉圭『かたちは思考する 芸術制作の分析』より「第8章 普遍的生成変化の〈大地〉」 p.197-198)

  • ドゥルーズの『シネマ』のはなしはときどき見聞きしながらもまあよくわからんのだが、それがふまえているベルクソンの「純粋回想」のはなしなど、どゆこと? そんな理屈ある? みたいな感触で、まえに(……)さんがブログで、ベルクソンは読めば読むほどなんというかトンデモみたいな感じをおぼえもするのだけれど、そのいっぽうでなにかのっぴきならないものをも感じてしまい、一九世紀末から二〇世紀初頭あたりの美術家とか芸術家とかは、やはりこういうベルクソン的な言説になにがしかリアリティをおぼえて、期せずしてそこに取り組んでいたのかもしれない、みたいなことを書いていたおぼえがあるけれど(かなり不正確なトレースだが)、それはこういう部分なのだろうか? などとおもった。

Germany’s approval for the re-export of Leopard 2 tanks to Ukraine is of secondary importance as Poland could send those tanks as part of a coalition of countries even without its permission, the Polish prime minister, Mateusz Morawiecki, said on Monday. “We will ask for such permission, but this is an issue of secondary importance. Even if we did not get this approval … we would still transfer our tanks together with others to Ukraine”, Morawiecki told reporters.

German foreign minister Annalena Baerbock’s comment on Sunday, that her country would not “stand in the way” of Poland sending Leopard tanks to Ukraine, is causing some confusion in Berlin. It remains unclear whether her remarks are indicative of a shift in the government’s position. Baerbock did not repeat her comment when pressed on the matter on Monday morning. “It’s important that we as an international community do everything to defend Ukraine, so that Ukraine wins”, she told press at a meeting of the EU’s foreign affairs council in Brussels. “Because if it loses Ukraine will cease to exist”.

German chancellor Olaf Scholz on Sunday promised that Germany will “continue to support Ukraine – for as long and as comprehensively as necessary”, adding: “Together, as Europeans – in defence of our European peace project.” Germany’s new defence minister, Boris Pistorius, plans to visit Ukraine soon, he told a German newspaper.

     *

Norway’s army chief has estimated 180,000 Russian troops have been killed or wounded in over the course of the conflict, while the figure for the Ukrainians is 100,000 military casualties and 30,000 dead civilians. Norwegian chief of defence Eirik Kristoffersen gave the figures in an interview with TV2, without specifying how the numbers were calculated. The figures cannot be independently verified.

  • いま、二六日木曜日の午後八時一七分。二一日分をかたづけて二二日といっしょに投稿したあとだが、この二三日月曜日のことも職場の記憶だけで手を抜いてさっとやっつけてしまおうかな。まだ三日前だし、がんばれば往路などたぶんたしょうの印象を発掘できないこともないのだとおもうが、さっさと現在時に追いつける、あるいはすくなくともまだ記憶が比較的たしかなきのうのことにちからをついやすのを優先して。電車内では問題がなかったはず。二錠で緊張なし。労働中もそうで、さいきんははたらいているさいちゅうにいやな感じだなとなったときに、わざわざ場をはなれてロッカーまで行き、財布のなかにはいっている薬とペットボトルの水をとりだして飲むのがわずらわしいので、あらかじめヤクをちいさなパッケージをスラックスの右ポケットに入れておき、水のペットボトルももともと出しておいて机上に置いておくのだが(それなので勤務中にわずかながら水分を補給するようになった。いぜんはまったくなにも飲まずにずっとはたらいていたので)、いまのところ幸福なことに右ポケットのヤクをとりだす機会には恵まれていない。(……)
  • (……)
  • 帰宅後は翌日がプラスチックゴミの回収日だったので、いちど部屋にはいってからリュックサックをおろしただけでストールも取らないままビニール袋をかかえて階段をくだり、ゴミを出しておいたのだけおぼえている。そのさい、アパートから出た瞬間に道のわずかに先に女性のすがたが見え、このアパートにはいってくるような雰囲気だったので、同階のひとかなとおもいつつゴミ出し場で袋にネットをかぶせていたのだが、そのあいだに建物にはいる者もなく、しかしこちらが部屋にもどってから階段をのぼってくる気配が聞かれたのでやはりそうだったらしい。このひととは前日、夜歩きに出て帰ってきたさいにも、階段をあがったところで出くわしたのだが、段をあがっていくあいだに扉からひとが出てきた音が聞かれて、なんとかじゃない、みたいな声もしたのでさいしょふたりでいるのかなとおもったのだけれど、こちらが通路に出た瞬間くらいにあいては即座に踵を返して部屋にもどっていったので、たぶん通話をしていてちかくなるまでこちらの気配に気づいていなかったのではないか(ふつうにひとりごとだった可能性もあるが)。そしてわざわざ引き返して部屋内にもどり、こちらが部屋にはいってからまた出てきて出かけていったというのは、やはり警戒しているのだろう。いちおうなんどかすれちがったりして、こちらからは基本あいさつをかけてはいるが。夜だったし、あちらは女性でこちらは男だし、狭い通路でそばをとおらなければならないわけで、それだけで不安をおぼえるというところがあるのかもしれない。おそらくなるべくかかわりたくないのだろうとおもう。


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  • 日記読み: 2022/1/23, Sun.
  • 「読みかえし2」: 1117 - 1130