2023/1/28, Sat.

  ふかい溜息

 なんと不快な あたらしい信仰だ
 やつらが おれたちから神を奪えば
 呪いだって無くなってしまう
 まったく とんでもないことだ(end255)

 おれたちには祈りなんかなくていい
 だけど 呪いはなくてはならぬ
 敵にぶつかってゆくからには
 まったく とんでもないことだ

 おれたちに神を残しておいてくれ
 愛すためでなく憎むためにだ
 でなければ 呪うことができなくなる
 まったく とんでもないことだ

 (井上正蔵 [しょうぞう] 訳『ハイネ詩集』(小沢書店/世界詩人選08、一九九六年)、255~256; 「ふかい溜息」(Stoßseufzer); 〈詩集補遺〉)



  • 一年前の日記より。ニュース。大学入試共通テストで起こったカンニング事件の続報。

(……)新聞一面に、共通テストのカンニング事件で一九歳の女子大生がみずから出頭したという報があった。大阪在住の大学生で、東京の有名私大にうつることをめざしていたとか。寝屋川市の会場で試験をうけて、実家のある香川に帰っていたところ、母親と祖母に付き添われて丸亀市の警察に出頭したと。魔が差した、と言っていた。袖にスマートフォンを隠して動画を撮影し、それを静止画にして送ったという。たしかにきのうの新聞に出た写真にうつっていた右腕はコートらしきチェックの服につつまれていた。しかし試験中にどうやって加工処理をしたり、多くの文字を打ってメッセージを送信することができたのか、そのあたりを警察は調べると。カンニングの片棒をかつがされた二一歳の東大生は、結果的に不正に加担することになってしまい申し訳ない、あやしいと気づくべきだった、犯人には、まじめに勉強している五〇万人の受験生に悪いことをしたとおもってほしい、とコメントしていたが、この言になんかなあ、というかんじをおぼえた。コメントをもとめられた受験生も、ほかのひとの努力を無にするような不正はゆるせない、合格できたはずのひとが不合格になっていたかもしれない、と言ったり、不正をして大学にはいっても幸福なことにはならないとおもう、けっきょくついていけなくなったりするとおもう、などと言っており、たしょうの寛容さがかんじられる後者はともかく、じっさいに試験にいどんだ受験生がふざけんなよ、ズルすんなよ、と憤るのは、人生もかかっているわけだし、もちろん理解できる。さいしょの東大生の言についても正しいことを言っているとはおもうし、こういうおおきな公式の試験におけるカンニングはとうぜん不公正な行為だから、「悪いこと」でもあるだろう。なのだけれど、それは、「まじめに勉強している五〇万人の受験生に」たいして、ということなのか? というのが釈然としなかった。そういう違和感のみで、それいじょう明晰なかんがえが出てこず、そういういいぶんがまちがっているとも言えないのだが。ただなにか釈然としない感覚があった。

  • 短歌は「いわれなき自分を不幸に見てるからおまえの嘘には愛嬌がない」というのをつくっており、ちょっとだけよかった。短歌、というか詩という感じではぜんぜんないが。
  • 居間からみたそとのようす。いつもはその部分だけ引くけれど、きょう読んだところはなぜかそのまえの家事のながれもあわせてひとつのながれになっているように感じられた。

(……)タマネギとゴボウの味噌汁をつくることにした。それでタマネギを切り、鍋に入れ、ゴボウもみじかめのあまりがあったのでそれをとちゅうまで輪切りにして椀の水にさらした。煮ているあいだに桶を洗って大根やニンジンをスライス。少量のこしておいたタマネギも加え、ゴボウも鍋に投入するとしばらく沸騰させ、野菜をザルにあげて乾燥器のなかに置いておき、しばらくしてからボールにうつしてラップをかけて冷蔵庫へ。洗い物もさっさと済ませ、汁物に味噌も溶かす。完成するとベランダのそば、ソファのうしろに行って洗濯物をかたづける。時刻は四時すぎ、空は雲が溶けこんだやわらかな淡青で、西でも太陽がすこし邪魔されているらしく、窓のそとに見える近所の家々や大気のいろあいは、褪せたまではいかなくともさめざめとした白さであり、ただ暗くはなくてどことはなししとやかさを帯び、退屈と冷淡におちいることからすくわれているのは、東のかなたで緑のあいだにひらいた市街がかろうじてほのあかるさをかけられているからだろう。

  • 往路。質はともかく、じつによく書いているなという感じ。

(……)靴下を履き、手を洗い、居間のカーテンを閉めて出発。もう暮れ方だが、寒さを感じなかった。道のさきのほうでなにかの音が鳴っていた。(……)さんの宅のシャッターが閉まる音だろうかとおもっていると、夫人が家の横にあらわれて戸口につづく階段をのぼるのが見え、あちらもこちらに気づいていたようだが、急がず、こちらがそのあたりに行くころにはかのじょは玄関のなかにはいってしまっていた。音はシャッター音ではなく、まだつづいていた。林のほうからきこえるので、木を斬っているのだろうかと(……)さんの家の裏の斜面をみあげるが、それらしいすがたもない。空には輪郭線がぐずぐずとほつれた青暗い影のような雲が染みついている。十字路の左方、下り坂からは犬を連れた高年がひとりのぼってきて、犬がしばしば道端に立ち止まってひっかかったように動かなくなるのにやや苦労しているふうだった。男性のかっこうは地味なもので、犬のほうは足がほそく、やや貧相に見えるくらいのほそさで、いちぶ茶色におおわれたからだも毛並みはあまりよくなさそうだった。道のさき、西空の下端にはほんのわずか暖色が見受けられないでもないが、白くくすんだ空とだんだんと暗んできつつある空気のなか、むしろ濁ったような、余計な混ざりもののように見える。

坂道に折れると音がちかづき、おおきな掃除機を稼働させているような響きだったので、葉を吸ってでもいるのかとおもっていたところ、反対で空気を放出して葉を飛ばしているのだった。そういう機械を身につけてオレンジっぽいような帽子をかぶった人間がひとり、足もと前方の落ち葉を吹き飛ばしながらぶらぶらゆっくりとあるいている風情で、葉っぱはおもしろいように舞い上がって扇形の線をえがきつつ、だんだんと群れの数を増やしていくが、けっきょくはガードレールのむこうに追いやられる。追い抜かすときにあいてのほうに顔をむけて会釈をかわしたが、もしかしたら小橋のむこうに住んでいる外国人のひとだったかもしれない。そうだとしてなぜ葉っぱ掃除をしているのかわからないが。自主的にやっているのだろうか。

最寄り駅のホーム先に立てばきょうは風が横から寄せて、しかしはやさはゆるいし寒いというほどの摩擦もない。あたりはもうだいぶ明度を落としてたそがれがちかくひろがりつつあり、むかいの細道に右からあらわれる車のライトも左のとおくまで一挙に大気を抜けてはなれた反映をつくる。正面先の丘は樹々の襞がまだ見受けられないでもないがほぼ黒影で、その足もとに立つ二軒の家もふくめてなにも動きは生まれずしずまっており、かたほうの戸口に清水でできたような白い明かりがひとつ丸くかたまっているのが目にとまる。ふと目をうえにふれば丘の上空はおもいのほかに青い、雲の欠けた北空だった。

電車に乗り、座席について瞑目。待つ。降りて階段へ。ホームからそとを見やれば小学校の裏山に接する空は青く、その青さがそのままじわじわとながれおちて大気中にも混ざったような夕闇の色に地上は染まっていた。通路を行って改札を抜け、職場へ。西に雲がおおく染みのように浮かんでいるが、東側はすっきりとひかりをうしなった水色にひらいていた。

  • 帰宅後の両親のようすや家事。このころは家事的行動もいちいちなにをしてどうしてとやたらこまかく記している。そのこまかさにちょっとおどろく。

(……)新聞を読みつつ食べる。母親は風呂。なにか歌をうたっているのがちょっときこえてきた。ストレスがあるのだろう。父親は韓国ドラマを見ている。こちらがあがってきたときにはすでに洗い物がすんでいたが、食膳のなくなった炬燵について酒を飲みながらテレビでも見ているし、その後タブレットでもたぶんおなじ番組のつづきを見ていた。マジでずっとドラマ見てるなとおもう。こちらは食事が終わると乾燥器をいちいち片づけ、またフライパンのアジを皿に取って冷蔵庫に入れておき、汚れたフライパンのほうは水をそそいで火にかける。スライスした野菜とか味噌汁の鍋を入れるさいに冷蔵庫のスペースが足りなかったので、卵を開封して右手の卵用スペースに移しておき、パックは潰し丸めてセロテープで止めて捨て、沸騰したフライパンから湯を捨ててペーパーで掃除。このときペーパーが切れたのだが、それを取り替えておくのを忘れたのにいま気づいた。食器を洗ったあとは流しの排水溝のケースに溜まった生ゴミを袋に入れ、ケースにのこったこまかいやつも素手でかきだして入れ、袋は口をねじって閉じてバケツに封じ、それからケンタッキーのボックスを、上部を曲げて高さを減らして野菜室におさめておいた。そうして蕎麦茶を持って帰室。一服すると入浴へ。湯のなかが暑かった。たいして停まる気にもならず。髪を洗ったあと排水溝カバーをこすってきれいにしておき、出ると帰って、ちょっと日記を書いた。しかし疲れてベッドに避難。英文記事を読みながら、回復したら日記を書こうとおもっていたところがそううまくは行かず、いつか眠っており、きれぎれに覚めながら気づけば五時になっていた。そのまま就寝。

  • 「マジでずっとドラマ見てるなとおもう」というのはこの数日前、一月二二日に母親にたいしてもおぼえた感想で、その日の記事には「着いて居間にはいると母親は炬燵にはいっており、テレビはなんらかのドラマを映していたので、こいつマジでずっとドラマ見てんなとおもった。見ているというか、じっさいにはあまり目を向けてはおらず、ただながしているだけなのだが」とあった。父親のほうはながしているだけではなく、いちおう注視しつづけているのだが。
  • この前日もそうだったし、一年前のこの時期はわりとそうだが、いちにちをひとつづきに詳細に綴っていて、これだけ書けるのだから心身がよほど充実していたようにおもわれる。よほど充実していたのか、それともよほど強迫されていたのかわからないが。
  • 食事時から食後にかけて以下の英文記事を読んだ。Effective Altruismという倫理学の一立場についてはぜんぜん知らず、まえにWilliam MacAskillという、その立場でゆうめいな若手哲学者で、この記事でとりあげられているSamuel Bankman-Friedといっしょにプロジェクトもやっていたらしいひとにかんする記事をひとつ読んだだけなのだが、Peter Singerがオリジネーターとみなされているらしい。要は功利主義の一派で、慈善をするにもチャリティプロジェクトを評価してよりインパクトの高い、最大多数の最大幸福を実現できるような事業を選別して寄付をするべきだというかんがえかたで、またそこから”earning to give”という、生涯をつうじてより多額の金を寄付できるようにより高収入をかせげるしごとをするべきだというかんがえかたも出てくるようなのだが、この記事でそういうはなしを読んで反射的におもったことはしたに引くAlice Craryというひとが寄せている反論とおなじことで、けっきょくそれって慈善という枠組みのなかにも競争主義をもちこむことになって、したがって資本の論理に回収されちゃうじゃん、という素朴な疑問なのだ。実際的にはある程度まではEffective Altruismでよいのだとおもうし、むしろそうするべきですらあるのかもしれない。ただそれを貫徹しようとするとぜったいうまくいかないでしょ、と、とくに論理的で具体的な根拠はないのだが直感的にそうおもう。それは精査されたものではなく、どちらかというとたんにこちらの反感にすぎないのかもしれず、Effective Altruismとか功利主義的立場はまずものごとをすべて、あるいはおおかたは数値的に還元評価できなければなりたたないわけだし、その時点でわりといけすかない感じをおぼえてしまうのがひとつあり、また、うえにふれたようにそのたちばを推し進めるとけっきょくは資本主義内で慈善というものがシステム的にガチガチにかためられて、偶然性のない窮屈な領域になってしまうのではないかというイメージが想起されるとともに、それとだいたいおなじことだが、けっきょくそれはあまりに近代的にすぎるというか、にんげんが理性的に評価判断し選別してことをすすめればうまくいく、すくなくともよりうまくいくし、にんげんはそのような「うまくいく」を生み出すためのただしく理性的な評価判断選別をできるという前提に立っているようにおもわれて、その近代的な人間主体への信用みたいなものに乗り切れない感じも一抹おぼえる。もちろんだからといって理性の価値を無効化したり、信じなかったり、にんげんがそのような判断をできないとかんがえるわけではないが、ただ近代的な人間観にかたむきすぎなのでは? と。Peter Singerもそんなことはわかったうえで、bestではないbetterとして論じているのだろうが。

The American philosopher Alice Crary, a co-editor of the forthcoming collection The Good It Promises, The Harm It Does: Critical Essays on Effective Altruism, suggests we should resist the idea that “moral assessment comes in a quantitative form, so that you can talk about something like the biggest return on your investment”.

In one podcast, Bankman-Fried explained how his consequentialist ethics mean “in the end, you turn things into numbers, and you decide which number is biggest.” Crary argues that though EA’s promises of efficiency are presented as emerging from a “god’s eye” level of abstraction, they can align very neatly with a neoliberalism associated with the injustices that EA advocates decry.

When a movement turns into “mega philanthropy … you’ve got real problems,” Crary says. “One is, it’s anti-democratic. You’re usurping a public space to do things that individuals are making decisions about. You’re also drawing on public coffers because charitable donations are tax free – you’re effectively using public money to do your project.

“And then there’s the deeper question: you’re not asking how it happened that some people have money and other people do not.”

In a recent academic piece, she describes EA as a movement that owes its success “primarily not to the – questionable – value of its moral theory, but to its compatibility with political and economic institutions responsible for some of the very harms it addresses”.

Many critics focus, in particular, on the enthusiasm of some EA advocates for “longtermism”: the argument that, because far more people will exist in years to come, maximising good means allocating a greater importance to the future. For instance, many longtermists identify studying artificial intelligence as a priority: a hostile AI might end the species and wipe out generations yet unborn.

Singer himself rejects those versions of effective altruism directed primarily towards the far, far future. He believes that, in the wake of FTX, longtermism may also become less prominent in EA communities.

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He sees no incompatibility between effective altruism and campaigns for wider social change – so long as the latter can be shown to deliver real outcomes.

“If you say we need social and political and economic change, you need to say how we are we going to achieve it. There’s no point in arguing, yes, that’s what we need – and so you’re not going to give anything to provide bed nets to help kids who would otherwise die from malaria. You need to have some reasonably plausible way in which you can make a difference.”

In a sense, Crary reverses that argument, pointing to Black Lives Matter and other interventions for justice and democracy and suggesting such movements simply aren’t comprehensible in EA’s consequentialist terms. Struggles for liberation emerge from the suffering of the oppressed and can’t be reduced to abstract metrics.

EA, she argues, cannot judge which social virtue might matter at which time: it “doesn’t have the tools to look at complicated social situations and say what’s called for from us at a particular moment”.

Poland will send an additional 60 tanks to Ukraine on top of the 14 German-made Leopard 2 tanks it has already pledged, the Polish prime minister, Mateusz Morawiecki, has told CTV News.

A total of 321 heavy tanks have been promised to Ukraine by several countries, Ukraine’s ambassador to France said on Friday. Vadym Omelchenko told French TV station BFM that “delivery terms vary for each case and we need this help as soon as possible”, while not specifying the number of tanks per country.

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Ukraine says it is setting up drone assault companies within its armed forces that will be equipped with Starlink satellite communications, as it presses ahead with an idea to build up an “army of drones”, Reuters reported. Commander-in-chief Valeriy Zaluzhnyi signed off on the creation of the units in a project that would involve several ministries and agencies, the general staff said.

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Hungary will veto any European Union sanctions against Russia affecting nuclear energy, the prime minister, Viktor Orbán, told state radio on Friday.

Russia is violating the “fundamental principles of child protection” in wartime by giving Ukrainian children Russian passports and putting them up for adoption, the head of the UN’s refugee agency, Filippo Grandi, has said.

Her suggestion was pretty simple. It’s a 21st century update on Thumper’s rule: “If you can’t say something nice, don’t say nothing at all”, adapted to the fact that sometimes you need to say something not nice. It boils down to this: if you’re telling someone they’ve done well, say it in writing. If you’re delivering bad feedback, say it out loud.

In a managerial context, this is incredibly useful. It allows the person to whom you’re giving negative feedback to ask follow-up questions and to defend themselves if you’ve got the wrong end of the stick. It means they can’t read over what you’ve said later as a cudgel to beat themselves with and, from a ruthlessly strategic vantage, it also means they can’t forward unkind words out of context.

When you are saying something nice, it means you’ve left a paper trail, something they can keep, look back on and hopefully feel good about.

  • ウクライナまわりの報道をみるに、ハンガリーポーランドは数年前からナショナリズムをつよめて反EU化する東欧の国としておなじ枠組みに入れられていた印象なのだけれど、ここでかんぜんに分かれたなと。上記のきょうの記事にも双方についてふれられているが、Victor Orbanは戦争開始とうじこそプーチンをいくらか非難していたおぼえがあるとはいえ、その後はロシアに対抗するヨーロッパ諸国のうごきには乗らず、プーチンの友人であることをやめるつもりはないらしい。いっぽうでポーランドにはここでウクライナをできるかぎり支援しないと自国もやばいという切迫が感じられ(隣国だし、ウクライナから避難したひとがいちばん流入しているのはポーランドなのでとうぜんだが)、さいきんではLeopard 2という戦車を提供するようにとドイツに再三つよくはたらきかけつつ、ドイツの許可がなくてもそれに関係なくわれわれはLeopard 2をウクライナに送ることはできるということも言って、じっさい上記記事にもあるように、〈Poland will send an additional 60 tanks to Ukraine on top of the 14 German-made Leopard 2 tanks it has already pledged, the Polish prime minister, Mateusz Morawiecki, has told CTV News.〉なのだ。ハンガリーはいっぽう、〈Hungary will veto any European Union sanctions against Russia affecting nuclear energy, the prime minister, Viktor Orbán, told state radio on Friday.〉というようす。ウクライナポーランドは第二次大戦中のできごとに起因して対立感情をもっていたが、今次の件でそれが解消され、あらたな関係を築きつつあるという記事もまえに読んだ。とはいえだからといってポーランドが親EUのたちばをさだめたとまでいえるのかはよくわからない。また、Victor Orbanはいぜんからプーチンのマブダチみたいな感じだったようなのだけれど(ヨーロッパにもアメリカにも、プーチンを理想的な指導者として信奉するひとびとは多いという)、ポーランドのMateusz Morawieckiがそうだったのかというのは知らない。オルバンのハンガリーEU内の不穏分子として今後もはたらきつづけるのはたしかだろう。
  • 意識をとりもどすときょうは口から息を吐いてからだを活性化させるとともに、胸とか腕とか脚をさすったり、左右の上腕を揉んだりする。時刻をみたのは九時半ごろ。カーテンをあければ快晴の日和。Chromebookで一年前の日記や「読みかえし」ノートを読んで一〇時半をむかえ、起き上がると水を飲んだり、用を足したり顔を洗ったりしたのはしかし覚醒時だったか? どちらでもよいが、床をはなれるとさっそく洗濯をはじめる。越してきてからいままで洗剤はずっとエマールをつかっており、それは実家にいたあいだときどき風呂場でじぶんのシャツとかを手洗いするのにエマールをつかっていたところ、引越し後まだ洗濯機がなかったあいだにそれをおもいだして手洗いで洗濯するのに買ったのが、その後検索してみるとエマールをふだんづかいでつかうひともいるという情報にあたり(環境とか、肌への刺激とか、体質とか洗濯物にのこるにおいとかを気にするひとはけっこうそうするらしき印象だった)、ただしそれだけだと洗浄力が弱いのでワイドハイターをあわせてつかうとあったのでじぶんもそれにしたがって、そこからなんら洗濯洗剤についての知見をふかめておらず確立された習慣を疑問視せずにやってきただけなのだが、たぶんほんとうはもっと安いふつうの洗剤をつかうのがスタンダードなのだろう(アタックとか)。そもそも売り場で洗剤の値段を見比べることすらしていないし、また中性洗剤がいったいどういう質のものなのかというのも理解していないのだが、きょう洗剤を洗濯機に入れるさいに、おおきめの詰替え用のなかみをボトルのほうにうつしていなかったので、その詰め替え用の袋(口は切るタイプではなくて回転式のちいさな蓋がついている)から直接てきとうに目分量でいれたのだけれど、そのさい袋の裏面をなんとなくみやると表示によって洗ってよい服とそうでない服があること、また洗濯機で使用するさいにはドライなどの弱水流のコースで洗うべきことが書かれてあり、そのへんのことはなんとなく認識はしていたのだけれどいままで気にせず無思考にふつうのコースでじゃぶじゃぶ洗ってしまっていたのを、きょうようやくじゃあドライでやってみるかと設定した。その後瞑想にはいったが、洗濯機の出す音がふだんとちがってすくなくとも序盤は黙々とした調子でしずかだったので新鮮だった。瞑想は一〇時五三分から一一時一八分まで。ちょうどきょう読んだ一年前の日記では四八分座ったと言い、過去最長であるとして、しかし脚がほぐれていれば一時間も余裕だとおもうなどとのたまっていたがとんでもない、さいきんのじぶんは椅子に座って脚がしびれることがないにもかかわらず一五分から二〇分ほど、ながくても二五分くらいで満足する。ながくすわればそれでよいというものでもむろんない。とはいえからだがある程度いじょうほぐれてくるのにそのくらいの時間が必要なのもまたたしかだ。座っているとだんだん各所がじわじわと、むずむずするような感じでうごきだし、血がめぐるとともに全身のいたるところが微細動でつつみこまれたような感じになって、そのフェイズでは瞑目の視界のなかもけっこう立ちさわぐ感じがあって、心身の調子によってはそれがあたまにちょっと刺激的にかんじられることもあるのだけれど、そこを抜けるとおおかたからだはおさまってすっきりした感覚になる。腕から手先にかけては比較的ほぐれやすく、漠然としたかたちで組みあわせている両手もしだいに指の一本一本があたたまっていき、組みのかたちがおのずからゆるむようになるのがよくわかるのだが、足先まで血をめぐるようになるのはむずかしい。太ももあたりまではすこし行くが、膝から先だ。足の先まであたたまるくらいになるにはよほど習熟するか、それか時間をながく取ることが必要なのではないか。もしくは事前に足首あたりをよくほぐしておく。あとあたまの先もむずかしい。要はからだの上下の端まで血と酸素がめぐるのはけっこう困難だというとうぜんのはなしだが、首すじから耳の下端から付け根にかけてのあたりまではけっこう行ける。それよりうえとなるとまだ飯を食っていない起き抜けの瞑想でそこまで行くのはむずかしい。肩はいつもかならずさいしょは固くなっていて、呼吸のうごきを上端でブロックするフレームのようになっているが、これは時間をかければけっこうほぐれるところまで行き、左右が下がってきて、人為無介入の鼻呼吸がながく滞空するようになる。
  • 食事はれいによってキャベツと白菜と豆腐をスチームケースに詰めて温野菜にする。電子レンジをまわしているあいだは手を振ったりしながら待ち、加熱が終わるとケースを洗濯機のうえにとりだして、蓋をひらいて蒸気を逃がし(スチームケースはボート型というようなかたちで、左右からカバーをたたみあわせて覆い閉ざすようになっている)いつもは塩や醤油で食っているがきょうはドレッシングをかけた。それから即席の味噌汁を椀に用意して、小袋はすぐに洗って捨てておき、電気ケトルに水を汲んで沸かす。沸くとそそいで椅子について食事。そのほか昨夜に買ったランチパックのハムマヨネーズと二つ入りチーズ蒸しケーキののこり。食後は洗い物をかたづけてすぐに歯磨き。いつも書くのをわすれてしまうが、洗濯物は食事のまえに干しておいた。風はそこそこ。吊るしたものがかたむきはする。あと瞑想のさいちゅうの左右の空間感覚のバランスは、きょうはエアコンをつけておらず(それだけ空気があたたかいということだろう)、また左に洗濯機の音があったので、とくにバランスが悪いとは感じなかった。食後しばらくはやはりからだがおちつかない。全身で皮膚のしたが微振動しているように感じられ、それはたぶん血とか栄養とかがいままさにめぐっている証拠なのだとおもうが、英文記事を読んでいても意味がなめらかに明晰に読み取れて有益ではあるけれど、あたまが加速気味のようにかんじられてちょっとおちつかなかった。加速よりもおちつきのほうがほしい。そういうわけで後頭部や首をほぐしてリラックスしようと背もたれにあずけて左右にしばらくころがした。それもよい。また、そういえば下半身をやわらげるとおちつく傾向があるようだったとおもいだして、英文を読みながら片方の足先をもう片方の腿のうえにもってきて、手でつかんで足首をまわしてみたが、それもよい。甲斐あってだんだんおちついてきたので湯を浴びることにした。タオルや肌着などを用意して室にはいると、明かりが暗くかんじられる。浴室の電気は暗くかんじられる日とあかるくかんじられる日がある。電球がだんだん劣化して光量を落としているのはたしかだとおもうのだが、さいきん暗くなってきたなとおもっていたら、きょうは妙にあかるくはっきりしているなとなる日もたまにある。たんにその日の天気、空気のあかるさによるのかもしれないが。湯を浴びて出てくると二時くらいだったのではないか。きょうの記述にとりかかったが、ここまで記すともう三時半になっており、そんなにかかったのか? とおもう。きょうは天気もよいし(といっていま窓のほうをみてみたら雲が湧いていて、太陽の集束はみえるものの澄んだ青さがなくなっているのだが)このあと書店にあるいていくつもりである。日記はきのう二五日の往路を意外にもけっこうおぼえていてそこそこ書けたし、まあ急がなくていいかなという気分になっている。(……)くん・(……)くんとの読書会が二月一八日で、二冊あるのでもう買って読み出しておきたいのだ。それでここ数日あたらしい本を読むのに踏み切れずにいた。

 なぜ「表現の自由」が全ての中核か、分かりますか? 僕は「鍵のかかった箱の中の鍵」問題と呼びますが、「表現の自由」が制約されていると、どんな表現を制約されたかさえ表現できなくなるので、僕たちは何が制約されたのかが分からなくなるからです。
 例えば、特定秘密保護法を考えましょう。先進各国にも似た法律がありますが、秘密保護期間についての25年ルールや30年ルールがあって、ルールの適用除外を政治家や官僚が勝手に決められないようになっています。日本ではこれが不十分だから恐ろしいのです。
 隠された文書の、所在を永久に言ってはいけないのでは、僕たちは文書の所在を知りようがありません。その結果、社会の実態、とりわけ政治や行政の実態を知らないまま、思い込みを修正されずに、政治体制とそれを支える党派を是認し、「悲劇」が訪れます。
 「法やそれに基づく行政が、憲法の枠内にあるかどうか」を、たとえ事後的にではあれ、人々が適切に判断できるためにも、「表現の自由」がまず第一です。さて、今「法やそれに基づく行政が、憲法の枠内にあるかどうか」と言いました。これが「憲法とは何か」に直結します。
 実際、奥平先生の憲法学がとりわけ強調するのが「憲法とは何か」なのです。共著の『憲法対論』でも「憲法とは何か」を分厚く語っていただきました。日本では「非常識」な人が多いので、「法律の一番偉いのが憲法だ」などと思っていますが、ありえません。
 法律の名宛人は市民です。だから法律は「市民に対する命令」として機能します。対照的に、憲法の名宛人は統治権力です。だから「統治権力に対する命令」として機能します。分かりやすく言えば「市民から統治権力に対する命令」として機能するべきものが憲法なのです。

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 歴史的に言うと、横暴な王政による「悲劇を共有」した人たちによる「統治権力はこういう枠内で作動しないと困る」という覚え書が、憲法です。人々が思い出せるなら、わざわざ書かなくてもいい。だから、イギリスは立憲政治だけど、成文憲法がないのです。
 関連して、憲法が法律と違うのは、統治権力が覚え書の枠内にあるかどうかを絶えずチェックする営みが存在するべき点。覚え書に書かれていても、チェックの営みがなければ立憲政治じゃない。書かれてなくても、チェックする営みがあれば立憲政治なのです。
 大事なので、もう一度申しましょう。「統治権力に対する市民からの命令」として機能しないものは、近代憲法じゃない。では、その市民からの命令によって、市民による統治権力のコントロールが適切になされるために、いちばん必要なものは何でしょう?
 復習ですね。そう。「表現の自由」です。我々は情報を十分に知らなければいけません。統治権力よりも知らなければいけません。だから「表現の自由」があって、それに実質を与えるためにディスクロージャー(情報公開)の必要(知る権利)もあるわけです。奥平先生も重視しておられました。

宇野 私は政治思想史の授業で、自由について講義しています。最初に、古代ギリシア人にとっての自由とは、アゴラ(広場)に出かけて政治に参加することだったと説明すると、学生たちは「ふーん」という感じで、あまり共感しないんです。

猪木 政治参加というのは、いまの学生にとっては理想論というか、建前論のように聞こえてしまうのでしょうね。

宇野 そのようです。で、次にキリスト教の教父、哲学者のアウグスティヌスの話をします。神の被造物である人間に自由意志はあるのか、その自由意志にどれだけの意味があるのか、アウグスティヌスはいろいろ迷いながらも、最後は神の恩寵によってのみ人間は救われると考えた……というような話をすると、学生たちはまったくピンとこないようで、遠い目をしている(笑)。

猪木 なるほど(笑)。

宇野 で、中世に入り、自由を表す言葉に「フランチャイズ」というものがあったと説明します。要するにコンビニと同じで、たとえば「セブン-イレブン」という商標を与えて、本部から情報や商品も送るけど、あとは基本的にそのお店のオーナーに経営を任せる。同様に、中世ヨーロッパでは中央権力が全国を直接統治するのではなく、各地の封建領主たちに「この地域はお前に任せる。支配権を保護してやるから、あとは自由に統治しろ」と言う。これが中世的な自由の観念だ――こう説明すると、学生たちはようやく合点がいくようです。
 つまり、「自分の部屋には親は入ってこないでね。部屋の中では、誰にも干渉されず、安心してまったり過ごしたい」というのが、今の学生たちが考える自由に一番近いということでしょう。

猪木 本書でも引用していますが、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』では、シーザーを暗殺した後にキャシアスが「Liberty, freedom, and enfranchisement!」と叫びます。この3つの単語は、日本語では皆同じ「自由」を意味しますが、じつはそれぞれ微妙にニュアンスが違う。福田恆存は「自由! 解放! 万歳!」と訳していますが、この最後のenfranchisementは宇野先生が指摘された「フランチャイズ」と近いわけですね。

宇野 そうですね。一口に「自由」と言っても、ヨーロッパの政治思想史の文脈から検討すると、実に様々なニュアンスがあります。

猪木 堀米庸三の論考「自由と保護――ラントフリーデ研究の一序論――」では、自由は単なる「無拘束や放縦」ではなく、「自由とはただ護られてのみ存在する価値であり、自由とそれを護る力は不可分の関係にある」とあります。つまり、自由と保護という一見対立しあっている概念が、実は融合していると言う。これも「フランチャイズ」的な自由の考え方ですね。

  • いま日付替わりももうちかくなった午後一一時三八分で、一月二五日の記事を書き終えたところ。往路の終盤から勤務時のことまでひさしぶりにかなり詳細に書くことができた。たぶん二時間弱ほど書いていたのではないか。五時直前に部屋を出て書店まであるいていき、本を買って帰りもあるいてもどってきて、スーパーに寄って帰宅後に本を読みつつ休んでから、買ってきた三元豚ヒレカツや米やサラダで食事を取り、カツがあまりにもうまかったといわざるをえないのだが(あと二切れのこっているのであしたも食える)、食後ある程度からだがおちついてくると二五日の記事にとりかかった。しかしさいしょのうちはまだ首のうしろが固かったのでまた背もたれをつかって後頭部や首まわりをほぐす時間をながく取り、これが功を奏したというか、うえに載せたGuardianのAlyx Gorman, “I’ll never regret following my mum’s best-ever advice: ‘If you’re going to say something nice, say it in writing’”(2023/1/27, Fri.)(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2023/jan/28/ill-never-regret-following-my-mums-best-ever-advice-if-youre-going-to-say-something-nice-say-it-in-writing(https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2023/jan/28/ill-never-regret-following-my-mums-best-ever-advice-if-youre-going-to-say-something-nice-say-it-in-writing))という記事があるけれど、これはGuardianの記者たちがじぶんの人生にとってインパクトをもたらしたことばを紹介するというWords to live byなるシリーズの一記事で、おなじシリーズ中のほかの記事に、文章を書くのに苦戦する記者がもらったアドバイス倫理学の教授だというかのじょの義兄が取っていた方法)として、いちにち三〇分、なにもしないか、さもなければ文を書くという時間を確保する、というやりかたが紹介されており、やはりそういう行為のながれからはずれて浮かび上がった時間が重要なのだとおもったのだけれど、なぜそれが重要なのかというとまえまえからなんども書いてきているとおり、ひとつにはわれわれの生は基本的に能動的行為の連鎖によって構成されており、意識せずにいるとその連鎖はとどまることがなく、そのあいだに積極的な空白がさしはさまることがなく、その能動性の絶え間ない持続が心身を疲労させて生を窮屈に押しつぶし、拘束され束縛され支配されている感覚をあたえるので、そのながれからひととき浮かび上がって一時停止し滞留する非 - 能動性の時間がむしろ自由と解放の時として現成するということなのだが、それはいいかたを変えれば意味 - 方向未然の時間ということなのだ。つまりなにか行為をしているとき、にんげんの意識や心身は基本的にはひとつの(ばあいによっては複数の)方向性をさだめられて、その方向性の枠内に拘束され、それがしめすさきへと向かっているはずである。それは意識や心身の志向性がひとつの目的へ向かっているということで、フランス語において意味と方向とはsensというひとつのおなじ語であらわされるから、方向性がさだまっているとは心身の意味がひとつに固定されているといってもよい。つまり凝り固まっているのだ。方向性がひとつにさだまるとなると、とうぜんながらその方向には属さない要素は排除されて意識のなかにはいってこない。それが集中という精神状態の一般的形態である。ところが創意というものはそのように一方向に凝り固まった心身にはおとずれにくいのだ。意味 - 方向をひとつにさだめた排斥的な意識のなかには創意を受け入れるほどのひろがり、ひらきがないからである。アイディアが浮かんだりなにかをおもいつくというのは到来のかたちを取ったことがらであって、来たるものが来るためにはそれだけの柔軟性とひろがりをもった精神を用意しなければならず、要は意識や心身を目的性の様態から受容性の様態に変えなければならず、もうすこしひらたくいえばmind wandering的な意識の拡散的彷徨が必要で、たとえばアーティスト的なひとびとがよくいう風呂にはいっているあいだにアイディアをおもいついたりブレイクスルーがもたらされることがおおいというのはそういうことだろう。風呂にはいっているあいだ、からだやあたまを洗っているときはべつかもしれないが、湯に浸かってここちよく休んでいるあいだというのはまさしくなにもしていない時間だからだ。そこに創意はやってくる。なにもしない時間というのはこうした意味で、心身や意識の意味 - 方向がいまだひとつにさだまりきっていない無方向的な出発以前の時なのであって、そこでは意味 - 方向は確定されるいぜんの気配や潜在性の状態で無数にざわめきあっている。そこに創意はやってくる。心身の意味 - 方向はみずから能動的に、ある程度いじょう自覚的にえらびとるだけではなく、外界の刺激によって触発されてそちらの方向に引きずりこまれることも往々にしてある。つまり意識は動員されるということで、SNSやネットをはじめとしたさまざまなメディア装置はその最たる例であり、その動員は極端なばあい、SNSによって心身の意味 - 方向を無理やりさだめられ固められたひとがそこからはなれられないというかたちで症候化されている。したがって意味 - 方向未然のなにもしない時間を確保することはそうした志向性の動員にたいする抵抗にもいちおうなりうるはずだが、こちらがじぶんの生活をみるところ、「なにもしない」に該当する時間のありかたはすくなくとも三つある。第一に瞑想である。第二に歩行である。第三に入浴である。瞑想というのはこちらの理解ではまさしくなにもしないことを訓練するたぐいの実践であり、意識の拡散的志向性を観察することでその遊動を包括するような心身がそこでは習熟していくだろう(そもそもニュートラルで本来的な意識の状態とはひとつところにとどまらない飛躍的拡散と遊動なのであって、一点集中的なありかたこそがむしろ特殊なのだということが瞑想をすれば立ちどころに理解されるだろう)。そとをあるくことはまた比類なく豊穣な拡散性のなかに自己を埋没させ人格をうしなった匿名の存在と化しながら世界とすれちがいつづけるというかたちで世界と関係することであり、レベッカ・ソルニットも『ウォークス』の第一章で書いていたとおり、あるくことはなにもしないことにもっともちかい運動である。入浴はうえにふれたとおり。ここではなしをもとの地点にもどすと、首やあたまのうしろを背もたれにあずけてマッサージしているあれもかなりなにもしないことにちかい時間だなとおもったのだった。そしてそこにやってくるのはこちらのばあい記憶である。つまり書くまえに目を閉じてごろごろやっているあいだに、二五日の道行きのこととか職場のこととかがいろいろ蘇ってきたということで、まあそれにくわえてみずから意識的に歩行時の記憶を順番におもいかえすようにもしてしまったので、じっさいにはちょっと能動性がはいってもいたのだが、しかしこのときからだのうごきはあたまが左右にうごくそれだけで、うごきまわるのはもっぱら精神と思念のほうであり、ありていに言って記憶をおもいかえしながらあらかじめあたまのなかでもう書いているような感じになる。くわえて首のうしろをほぐせばそこを起点として肩や腕や背のもうすこし下部までやわらぐし、後頭部をマッサージするとリラックスしておちつきもするから打鍵もしやすくなり、あまり苦労なくさらさら書けるというわけだ。そういうわけできょうは出かけてよくあるいたし、二度目の湯浴みをしようとおもっていたところが、ここまで一時間弱もまた書いてしまって零時半に達した。二五日は完成し二六日はもうよい。きのうの二七日は夜にスーパーに出たときのことだけ書ければよいがそれもさしておおくはない。きょうはさすがに書くことはかなり多いだろうが無理せずあしたいこうにぼちぼちやる。書き抜きもしたい。とりあえずいま湯を浴びてきて、そのあと二五日二六日を投稿しよう。
  • 昼間に日記を書いたあとは寝床でしばらく休み、身支度をととのえて建物のそとに出たのが四時五五分だった。左に踏み出し、公園前を右折して(みあげれば南空にはほころびをふくんだ雲がいくらかかかっており、すでに西陽もない時刻で空はつめたくなってきており、雲をみながら反射的に比喩をさぐるあたまになったがなにのようというものでもなく、そこからすこし左手にはかたちはうすいが色ははっきりした月がはやくも出ており、こちらをみたときには櫛のような、カットされたマンゴーかパイナップルのような、と即座に出てきた)細道をとおると、車道を越えて裏路地をすすむ。小公園の横あたりまで来るとはやくも、最高だな、じつにおちつくなという歩行の感覚になっていた。左方から前方にかけて、南西の方角はひろく雲が占めてよどんだ暮れ方だが、右手をみれば北は池の青さに晴れており、首をそのままうしろに曲げると背後の東方面もおおかた同様だった。左にひらいた路地のまえをすぎると、そこをはしってくる子どもらのはしゃぎ声が聞こえ、だんだんとちかづいてきて、じきにこちらを抜かしたすがたは、あれはダックスフントでいいのか、すこし蛇をおもわせぬでもない低く這うようなからだの茶色犬を連れた男児で、ちょうどそこの家の子らしく戸口に止まって、笑みにほころばせた息をつきながら後続を待っていた。(……)通りに出ると横断歩道をわたってスーパーの脇、最寄り駅前につづく細道を行く。駅前マンションが巨大なすがたでみおろしてくるが、そのまわりの空もやはりすっきりしている。路地を抜けると左折して、踏切りをまたいで西に向かう段だが、その向かいにあるコンビニから女性ふたり、親子らしい年の差距離感の連れ合いが出てくると、なんとかいいながらいそいで踏切りをわたって、そこの細い道路に停めた車に乗りこんでいた。裏道をまっすぐすすむ。そぞ~ろ~、あーるきの~、ということばがメロディをともなってあたまのなかにながれており、これは上田正樹とありやまじゅんじ『ぼちぼちいこか』のたしかさいごの曲だったとおもうのだが、そのあとのメロディや高音含みのコーラスの記憶は出てくるものの、歌詞がわからず、「たのしさよ」とか「むなしさよ」とかだった気がしたが不明で、一連のしめくくりは「道頓堀に日が沈む」だったとおもうが曲名もおもいだせなかった(いま確認したら、”なつかしの道頓堀”だった)。しかしその旋律をしばらくお供にそぞろあるきめいてゆるゆるとした調子で行き、病院も公園も文化施設も過ぎて南北にはしる(……)通りにあたると、ひさしぶりにここから北上して線路したを越えようとおもっていたので右に折れ、車道沿いに行けばすこし湾曲した道路を途切れなくすべってくる車たちの双つ目が、まだきわだつというほどでないがだんだんあかるんできている薄暮の五時半で、そのなか、交差点を越えたむこうにあるホテルの脇で樹氷めいた白い電飾モニュメントがひとつ目に立つ色をしている。周囲の音々、車やひとびと、建物などの目に見えるものたち、それらがおりなす空間性と、一歩ごとのその変容を受け止め受け入れつづけるような心身になっていた。これら無数のものたちと瞬間のうちをじぶんが通過していくと同時に、あちらのほうも絶えず、そしてそこにあって意識野にはいってくるかぎり、こちらのうちを通過していくのだ。交差点で信号を待ってわたり、ホテルの横で緑葉の植込みをみおろしつつ行きながら、このすべてのものたちとの関係のなさをおもった。それは無関係という名の関係であり、ひとであれ車であれものであれ、ただ偶然その瞬間、おなじ時空にいあわせたというだけの、意味や物語の生まれない共存の状態であり、そこになにかの可能性が秘められているのかいないのか、それすらわからないという意味での潜在性を底に秘した、おびただしくも無数のすれちがい、その連続なのだ。たまさか、もっともちいさなコミュニケーションが生まれないこともない。向かいからきたひとのようすや表情、足の向かうさきを見取ってこちらの進路を調節するさいとか、横道から来た車にたいして寸時止まりつつ、会釈をしたり手をかるくあげたりしながらそのまえをとおりすぎるさいなど。歩行の時間は娯楽から芸術まで、風景から思想まで、散漫なおもいつきや記憶からある種学問的な契機をはらんだ知の種まで、社会学政治学や自然科学の断片、それから、齟齬や孤独や不安から親和と他者への接近まで、あらゆる要素を入れ替わり立ち替わりあらわしながら流動的に展開されつづける。ごうごうと車の音がはげしくかしましい立体交差の横を行くと、歩道を縁取る右側の壁にひかりの反映があらわれている。上部にケーキにつかわれるムースかジェルをおもわせる赤さが揺動するそのしたで、白のもしくは黄色のひかりがもっとおおきくうごきをつくり、そこにはくりかえしあらわれては遠くにむかって引かれていく薄青い影もまた組み合わさっているのだが、道路をみやれば左車線ではいま後部の赤いランプをともした車列がいっこうすすまず停滞しており、たいして右側は余裕があって車がどんどんこちらに向かって走ってくるので、赤ランプの反映のうえを対向車のフロントライトが薙ぐように照射されつづけ、かつ車道と歩道をくぎる柵から影をうばって壁に乗せては進行とともに置き去りにしていく、それがするすると引っ張られるように遠ざかっていく薄影の逃走をつくるのだった。さらにすすんで道の合流地点がちかくなってくると、信号のいろも混ざって青緑やら黄色やら、さらに壁の質感も変わって土埃によるものか縦線があいまいにはいっていたり、あるいは壁じたい継ぎ目らしきものをもつようになると、水平にひろがる多種光の色がその垂直線でこまかく切られて襞めきながら波を打ち、ときおり主調を変えながら揺動をやめない混淆的なオーロラのように立っていた。まいにち暮れてたそがれ、この壁がひかりを反映させる暗さになってから朝が来るまでのあいだは、車の群れがここをとおるたびにかならず、このスペクタクルがひとしれず発生しているのだろう。この道路を設計したとき、じっさいに道を通したとき、白壁をそこにつくったとき、このような色彩の狂宴が生まれ出るとは、おそらくあらかじめだれもかんがえていなかったし、だれもこれを意図したわけではないだろう。都市の自然がここにあるとおもった。
  • 立体交差からだんだん坂になった道をのぼりきり、いくつもの道が合流して渡りもすこし複雑になっているところまで来ると、ちょうど青だったので小島を越えつつ向かいの歩道までいたり、そこで左を向いて方角は西、またひとつ横断歩道を待ってから目抜きと言ってよいだろう太い通りの右岸をすすむ。左右とも高いビルがおおく立ちならんだ区画で、飯屋飲み屋コンビニもありつつオフィスや学校やらのビルもおおい。向かうさきは(……)駅北口からまっすぐ出てきたところのおおきな十字交差点、そこにちかづくにつれて周囲の歩行者は数を増し、だれともことばをかわさずあたりの声をきれぎれにひろいながらひとびとのうちのひとりとなってそのなかを行くに、たしかにじぶんはいま人格的な存在であることをやめて、ただまわりから視覚聴覚にやってくる断片たちを受け止めつづけるたんなるひとつのはたらきと化しているかのようだな、とおもった。都市の知覚を吸いつづけるこちらの存在を都市はつつみこむ。その包容のなかで匿名的な無数の存在者のうちの匿名的な一片でしかないということ、都市が底において、まちの大地たる路上においてあたえてくれる祝福とはそれだ。交差点で止まれば前方に伸びていく通りのとおく、両岸のビルのあいだにはさまった夕空には青々と暮れた雲が湧き、遠景にかぶせられたそれはしばし生まれた山の影のようで、(……)のビルは壁の端に赤やら緑やらの電光線を一本、まっすぐゆっくりとながし落として空との境をいろどっており、わたりながら高架上の歩道橋に目をやれば、行くひとびとは黒く沈んだただの影で、歩道上にとりつけられた側灯をうしろにしてもにんげんのかたちがいくらかはっきりするばかり、いつものじぶんのようにそこからこちらを見渡し見下ろしているものがあるのかどうかつかみようもなかった。わたりきれば目的地である書店のはいったビルはすぐ間近、左の車道にはいまや背後になった交差点へと向かう車たちが渋滞気味で列なしてとまっており、たくさんで二車線を埋めているその存在感のつよさ、またそのそれぞれに乗り手がいて、密室内でたがいに交渉なく隔離されながらいまここにあつまっているという事実のつよさが浮かび立ち、こんなにも無数のにんげんがおり、生があるのかとおもった。
  • 階段で高架歩廊上へ。ビルではなくまず図書館に行くことに。リサイクル図書が出ていないかとおもったのだ。それで通路をたどっていったが、すでに閉まっていた。掲示をみると土日五時までとあって、土曜日もそうだったんだっけかとおもいつつしかたないのでとんぼ返りし、側面の入り口から(……)にはいる。尿意がかさんでいたのでまずフロアをあるいてトイレに行き、用を足してきてからエスカレーターに乗って書店に行った。いつもとは反対のがわに出てしまったので目のまえは人文学関連の書架ではない。なんか健康法とかの区画だったとおもう。通路を行き、すると雑誌や日本の文芸のあたりに来たので、海外文学を見ておくかと棚のあいだを抜けて壁際に行き、しばらく見分。目にとまるのはだいたいいつも目にとめているやつなのだが。あたらしいものとしては宇野邦一訳のベケットの、『どんなふうにして』だっけ? 『事の次第』をあたらしく訳したというやつがあったり、あと「ルリユール叢書」という幻戯書房のけっこう高いシリーズでメルヴィルの、タイトルをわすれたがもしかするといままで訳されたことはなかったのでは? というやつが出ていた。その他ナターリア・ギンズブルクの『不在』というのが表紙を見せて置かれてあったり、松籟社から出ているシュティフターの四巻中二巻しかのこっていないのをちょっとのぞいたり、なんとか川のほとりみたいな水声社ロシア文学をみたり、そのちかくにあった工藤正廣の『アリョーシャ年代記』をのぞいたり。未知谷(だったとおもうが)から出ている工藤正廣のこの小説はまえからなんかよさそうなのでは? という雰囲気をかんじている。かれのパステルナークの訳は界隈ではそんなに評価が良くないだったか、あるいは評価が分かれているだったか、むかしそういう言を聞いたことがあるのだけれど、『アリョーシャ年代記』をのぞいてみるに正統派的ながらみずみずしさもふくんでわりとどっしりした文章のようにおもわれるので、これだけ書けるんだったら訳もわるいということはないのではとおもい、ちかくにあったパステルナークのおおきな『ドクトル・ジバゴ』もみてみたが、八〇〇〇円くらいするので買えるはずがない。あとトーマス・ベルンハルトがここ数年でけっこうたくさん出たなという印象で、いままであまり目に留めなかったのも何冊かそろっていた。ベルンハルトみたいな、ああいう改行なしでモノローグがずーっとつづくタイプの小説(といいながら一冊も読んだことがないのだが。みすず書房の『消去』だけもっている)をひとつもしくはそれいじょうやってみたいなというこころはむかしからないではないのだが。あとそう、海外文学の棚にヴェルナー・ヘルツォークの『氷上旅日記』の復刊版があったのでもう買っちまおうと手に保持した。図書館にたぶんはいらない気がするので。いや、いま検索したらもしかしたらはいっているのかもしれないが。
  • また、海外詩の区画をみるに、丸川誠司『ジャック・デュパン、断片の詩学』というものが気になり、なかをのぞいてみてもなんかよさそうだしそこまで高くもなかったのでこれも買ってみることに。帯には、「ランボーとシャールの流れを汲み、/ブランショバタイユと接点を持つ現代フランス詩の巨星」とか、「ツェランと同じく戦後の抒情詩の運命を背負い、/ミロ、ジャコメティ等/20世紀美術の巨匠とつながる詩的宇宙」などと書かれており、つながりすぎでしょというか、いかにもという感じだ。その他めんどうくさいので詳細な経緯ははぶくが、文庫のコーナーを見分して、目的であった中公文庫の『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』と講談社文芸文庫吉田満戦艦大和ノ最期』(この二冊が二月一八日の読書会の課題書である)、それにT・S・エリオット/深瀬基寛訳『荒地/文化の定義のための覚書』(中公文庫)と小野紀明『政治思想史と理論のあいだ 「他者」をめぐる対話』(岩波現代文庫)も買うことに。会計。「(……)」というなまえの、眼鏡をかけており髪がいくらかもじゃもじゃの、まだいくらか新人なのかなという印象の店員があいて。身の程知らずにも一万円いじょうひさしぶりに散財してしまった。
  • いま一月三一日火曜日の午後一〇時半なのだけれど、ここまでたぶん三時間弱くらい書いてきたわけで、ゆびや腕もつかれたし心臓のあたりがときどき痛みもするし、ライティング・パワーがだいぶ枯渇気味になった感があるし、帰路もたいした印象はよみがえってこないのでこの日のことはここまでとする。休みを入れつつとはいえこれくらいぶっつづけで書くとやはりまだ左腕がきつい。背骨にも来るのか胃液感もたしょう出る。


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  • 日記読み: 2022/1/28, Fri.
  • 「読みかえし2」: 1173 - 1177