2023/2/23, Thu.

 では、 [ヨーロッパ思想の] 第二の礎石であるヘブライの信仰の本質とはなにか。この信仰はユダヤ教として生まれ、キリスト教として世界的に広まったが、その信仰の基本は、第一に、唯一の超越的な神が天地万物の創造主であるという点にある。この基本の含意は、宇宙の中のいかなるものも神ではないということだ。古代世界では、ギリシア人でさえ、太陽や月を神として拝んでいたが、『創世記』はこれらを光る物体と呼んでいる。すなわち、アニミズムの否定であり、世界からの魔神的な力の放逐である。この姿勢が、後にヨーロッパに自然科学が成立する際の精神的背景になっているとは、よく言われることである。
 この信仰の第二の基本は、この神が「自己の似姿」として人間を創造したという点にある。そもそも、神はなぜ世界を創り、その頂点に「己の似姿」としての人間を創造したのだろう(endⅳ)か。それは神が愛だからであり、愛は他者を求めるからである。それだから、神は、愛の相手として、ある意味で己と対等な存在者を、すなわち自由な存在者としての人間を創造したのであった。人間の「かけがえのなさ」とは、人間が「愛をうけうる者」として、唯一絶対の神の似姿であるところに由来するのである。
 (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、ⅳ~ⅴ; 「はじめに」)




  • 一年前。きのうは読みかえしをサボったので、二月二二日と二三日とつづけて読んだ。古井由吉による『ドゥイノの悲歌』の翻訳。

 あらゆる眼でもって、生き物はひらかれた前方を見ている。われわれ人間の眼だけがあたかも前方へ背を向け、しかも生き物のまわりに罠の檻となって降り、その出口をすっかり塞いでいるかのようだ。外に在るものを、われわれは動物のまなざしから知るばかりだ。というのも、子供の眼をまだ幼いうちからわれわれはすでにうしろに向かせ、形造られたものを振り返って見るよう、動物のまなざしの内にあのように深く湛えられたひらかれた前方を見ぬよう、強いているではないか。死から免れている動物。死を見るのはわれわれ人間だけだ。自由な動物はおのれの亡びをつねに背後に置いて去り、前方に見るものは神である。歩めば歩むままに永遠に入る。泉が流れるままに永遠に入るように。
 われわれ、人間たちはわずか一日たりとも、純粋な時空を前にすることがない。花たち(end214)はその中へ絶えることもなく咲いては解けていくというのに。われわれの見るのはつねに世界であり、何処でもなくまた虚無でもない境がひらけることはけっしてない。この境こそ純粋な、誰にも見張られていない時空であり、呼吸されることにより限りもなく知られ、あながちに求めて得られるものではない。子供なら、人知れずそこへ惹きこまれて心を揺すられる者もある。いまどこかで命の終りに臨む者は、この時空にひとしい。死に近づけば人はもはや死を見ず、その彼方を凝視する、おそらく、大きく見ひらいた動物の眼で。恋する女たちも、対者 [あいて] が視界を塞ぐことさえなければ、この境に近づいて驚嘆するのだが。間違いから生じたように、対者の背後から、ひらけるものがあるはずなのだが。しかし対者を超えてさらに先へ到る者はなく、見えるのはまた世界ばかりになる。被造物へつねに眼を向けさせられながらわれわれはただ、自由なものの鏡像、しかもわれわれの眼によって曇らされた像を見る。物言わぬ動物こそ、われわれを見上げながら、われわれを突き抜けて、その彼方を静かな眼で見る。まともに向かう、そのほかのことはなくて、つねにまともに向かう、これが運命というものだ。
 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、214~215; 「23 ドゥイノ・エレギー訳文 8」)


 確かな天性に導かれて、われわれとは異った向きを取りわれわれに近づく動物に、もしも人間と同じ質の意識があるとすれば――。通り過ぎるその歩みによって、われわれをは(end215)っと振り向かせはした。しかし動物にあってはその存在は無限であり、摑めぬものであり、おのれの状態を顧る眼を持たず、純粋なること、そのまなざしにひとしい。われわれが未来を見るところで、動物は万有を見る、万有の内におのれを見る、そして永劫に救われている。

 それでも、鋭敏な温血の動物の内には深い憂愁の、重荷と不安がある。温血の動物にも、われわれをとかく押しひしぐところの、記憶が絶えずまつわりつく。心の求めて止まぬものがじつはすでにひとたび、より近くにあって、より親しく、自身も限りなく濃やかに寄り添っていたかのように。ここではすべてが距離であるのにひきかえ、かしこではすべてが呼吸であった。初めの故郷を見た後の心には、次の故郷は半端で空虚に思われる。
 自然の母胎の内に、懐胎された時のままにひきつづき留まる、微小の生き物こそさいわいだ。合歓の日に及んでも、なお内部で躍る羽虫こそめでたい。母胎は万有なのだ。これにくらべて鳥の、その素性からして毛物と羽虫の双方の心を知る、中途の安心を見ればよい。あたかも古代エトルリアの墳墓の、すでに万有に受け取られながら、生前の安息の姿を棺の蓋に留める死者から、飛び立った魂のようではないか。(end216)

 一体の母胎に帰属する者が、飛び立たなくてはならぬそのありさまは周章に似る。われとわが飛行に驚愕させられたように、宙を裂いて翔ける。茶碗を罅が走るように。同様に蝙蝠のひらめく跡も、夕暮の掛ける釉薬の肌に亀裂を縦横に引く。

 ましてわれわれは脇から眺める者であり、つねに、至るところで、あらゆるものに眼を向けながら、突き抜けて見ることがない。見た物は溢れるばかりに内に満ちる。われわれはそれを束 [つか] ねる。それは崩れ落ちる。また束ねなおす。すると自身が崩れ落ちる。

 それでは初めに誰がわれわれをうしろへ向かせたので、以来、立ち去る客の、あの習いがわれわれの身に付いたのか。古里を去る者は、親んだ谷を最後にいま一度残りなく見渡す丘の上まで来ると振り返り、足を停めてしばし佇む。まさにそのようにわれわれは生きて、絶えず別離を繰り返す。

 (古井由吉『詩への小路 ドゥイノの悲歌』(講談社文芸文庫、二〇二〇年)、215~217; 「23 ドゥイノ・エレギー訳文 8」)

  • 二二日は都立高校入試翌日。

(……)そういえば新聞といっしょに都立高校入試の問題を載せた別版もあって、ちょっとだけみたが大問3は村山由佳の物語だった。なんか曽祖父母といっしょに暮らしている少女ががんばって朝はやく起きて農作業を手伝おうとする場面だった。大問4はたしか大須賀なんとかいう知らないひとで、思考とは、かんがえるとはどういうことなのか、みたいなわりと哲学的な題材をあつかっていたもよう。本文をほぼのぞかなかったが、註にデカルトの名があった。大問5には白洲正子。かのじょとだれかの対談と、そのあとに白洲正子ほんにんの文章もとりあげられていたよう。白洲正子はたしか過去にも問題としてえらばれていたような気がする。大問3の問1だけざっとみたがクソ楽勝な問題で、あきらかにもうこれしかないだろうという選択肢になっていたはずで、中学生でもちょっと本を読み慣れた人間にとっては余裕だとおもうが、じっさいいまはもう本を読む子どもなど少数派だし、このくらいの問いでよいとおもう。選択肢の記述のいちぶがそれぞれ本文に書いてある内容とふつうに事実としてちがっているというつくりになっていたとおもうが、そういうふうに、ここで言っていることはここに書かれていることとちがうよね、という、具体的な箇所を照らしあわせてはっきりとわかる、という読みかたをまずはやしなうべきだとおもう。下手に深読みをさせるような問いは中学レベルでは必要ない。高校レベルでもあまり必要ないとおもう。やるとしても、きちんと記述やことばの組み合わせによって書かれていないことが必然的に浮かびあがってくるようなやりかたにするべきだとおもう。だからある種、パズルのような、ここにこう書いてあるこれはこっちのこのことばとあわせてかんがえるとこういう意味の射程がみえてきますよね、という読みかたをまずはまなばせるのが国語教育の役目だと。いちおうそういうことが意図されているのだとはおもうが、塾であつかう問題をみるとどうもその理路のつくりがよわいというか、なにかしら意味を拡張してとらえなければならなかったり、深読みをしなければこたえられなかったりするような問いがけっこうみられる印象。あまり拙速にそちらにいくのではなくて、まずはそこに書かれてあることばの範囲で順当にここまではわかる、という境界をみさだめるちからをつけさせるのが肝要なはず。データを手もとにあつめて、そのデータの範囲でここまではわかるがここからさきはわからない、という線を引くのが学問的姿勢の基本なのだから。そういう態度をたしょうなりともまなばせないと、たとえば世界のみえないぶぶんを勝手に想像しまくってめちゃくちゃな歴史観を形成するようなことになったり、陰謀論にはまったりすることになりかねない。ひとまずそこに書かれてあることの一次的な意味の射程をとらえるという点にかぎれば、どんな文章の読み方もたいして変わりはしないわけで、だから高校の現代文で「文学国語」と「論理国語」とに課程がわかれるという例のはなしはよくわからないし、ぜんぜん実質的ではないとおもう。小説などを読んだときにキャラクターを実体的にとらえたり、その世界にまつわる想像をふくらませたりという楽しみはあって、それはそれでもちろんよいのだが、それは端的に二次創作の原理なのであって、それとはちがう読みかたがあるよということを紹介し、理解させ、実践的にそれに触れさせるのが教育という制度の役割だろう。

  • いよいよというロシアの動向をネット上で確認。
  • その後どうしたのだったかわすれたが、五時になるといつもどおりアイロン掛けをしにいった。たぶん夕食まえに前日の日記を完成させたのだが、そのさいはてなブログに投稿しようとアカウントにログインすると、話題のニュースとか記事があつまっているトップページに出るのだけれど、そこにロシアがウクライナに再侵攻をはじめたいまどうのこうのみたいな匿名ダイアリーの記事があって、それでついにはじまったのか? とおもった。なかをちょっとだけのぞくと、ウクライナNATOに加盟していればロシアに侵攻されることはなかった、ひるがえって日本では安保法制に反対して日米安保の強化をすすめようとしない政党(立憲民主党)が野党第一党だし、しかも自衛隊を廃止することを公式にめざしている党(日本共産党)と連携している、そいつらのいうことにしたがったさきの日本がいまのウクライナだ、みたいなはなしで、そういう論調はおそらく日本内でもこれからひじょうに活発化してくるだろう。コメント欄ではなかにみじかい反対意見も書かれてたしょう議論めいたことがなされていたようだが、いずれにしてもそれいじょうよくみてはいない。ともあれそこでロシアのうごきを第一報として知ったのだったが、あとで夕食時に夕刊をみてもたしかにプーチンウクライナ東部の親露派地域(「ドネツク民共和国」と「ルガンスク人民共和国」)を独立国として承認する大統領令に署名したこと、また「平和維持」のためとして派兵を指示したことがつたえられていた。それで食後、七時半から八時くらい、また散歩から帰ってきたあとなどは、BBCにアクセスしてしたの記事を読んだ。日本でつたえられているいじょうの情報はさほどないが、テレビ中継されたプーチンの演説の内容がすこしだけふれられてもいる。いちばんしたの記事には、”And, of course, there was his re-writing of Ukrainian history, to claim it has never really been a state. In today's context, that had deeply ominous overtones.”とあり、同記事中のべつの特派員は、”But that didn't make it any less shocking to hear. It underlined, for anyone with any lingering doubt, that Mr Putin is speaking from a very different place. This is not just a different slant on history. At times it felt like a parallel universe.”という印象すらもらしている。ここ数日の読売新聞にも、ウクライナとロシアは歴史的一体性を有しているという(それじたいはおそらく過去なんども口にされてきているだろう)プーチンの発言がつたえられていたおぼえがあるし、どこでみたのかわすれたが、いまのウクライナの大部分をつくったのはソ連だ、というかんがえかれはも表明していたはず。”it has never really been a state”というのはそういうことだろう。テレビにはプーチンの演説だけでなく、そのまえに招集されたThe Russian Security Councilのようすも放送されたようで、そこでは高官たちがひとりひとりマイクのまえに呼ばれて、独立国承認にかんする意見(つまりプーチンの決定にたいする賛成や是認)を述べさせられたという。三つ目の記事のSarah Rainsfordはそのさまを、”a piece of theatre”と形容している。したはその該当箇所と、またひとつめの記事でおなじ場面についてふれた記述。

The Russian Security Council meeting earlier was a piece of theatre in which everyone had their allotted role and their script.

Russia's most senior officials sat in an awkward-looking semi-circle before Vladimir Putin, called upon one by one to step up to the mic and tell him what he wanted to hear.

In the story they spun, Russia was being compelled to step in to protect the people of the Donbas - many of them now Russian citizens - from the deadly threat posed by Kyiv, by giving formal recognition to the breakaway regions.

     *

Groundwork for the controversial decision was laid earlier on Monday, when Mr Putin convened Russia's security council to discuss recognising the self-declared republics as independent.

Mr Putin's top officials were called to a podium to deliver their views, each speaking in favour of the move. Monday's televised meeting was not entirely smooth, however.

Two officials appeared to reference a possibility to "incorporate" the regions into Russia. On both occasions, Mr Putin corrected them.

"We are not talking about that," Mr Putin said, shaking his head in response to one official's use of the phrase. "We are talking about whether to recognise their independence or not."

  • このひとつめの記事にはウクライナ東部の地図も載せられており、そこをみると、親露派が実効支配しているのはドネツクルガンスク州の全域ではないものの、それぞれそのうちはんぶん弱程度の領域を傘下に置いており、またどちらも州都(州名とおなじなまえ)を支配下にふくんでいることがわかる。
  • Paul Kirbyによるふたつめの記事(ちなみにいまみかえしていて気づいたが、更新されたようでタイトルが”Why is Russia ordering troops into Ukraine and what does Putin want?”に変わっている)には東欧地域におけるNATOの勢力図があるが、それをみるとたしかに、ロシアにとってはウクライナベラルーシがさいごの防衛線で、この二国がNATO側にくみすると国境を直接西側陣営と接さなくてはならないわけで(すでにエストニアとラトヴィアにおいて接してもいる)、ロシアがじょじょにかこいこまれているようにみえなくもない。すくなくともプーチンはそういうふうに感じ、怒りや反発や不安をおぼえているのではないか、と想像させる図ではある。今次のうごきはプーチン個人のかんがえにかぎっていえば、ロシアとの歴史的一体性を有する(さらにはロシアという国家の起源の地でもある)ウクライナをとりもどしたい、という欲求や、帝国的な偉大なるロシア(の復興?)への野心などもあるのかもしれないが、NATOの東方不拡大にたいする確言をなんどもつよく要求してゆずらないその執着のさま、聞く耳をもたない神経症的なこだわりぶりには、だんだんと敵がちかづいてきてじぶんのテリトリーを侵食しようとしているとみる者の不安を憶測してしまう。
  • あと、これはきょう(二三日)の朝刊一面にあった情報だが、「ロシアの議会は22日、上下両院がそれぞれ本会議を開き、二つの「人民共和国」との協定について全会一致で批准を承認し、議会での手続きを終えた」という。親露派との「協定」というのは、「友好協力相互援助条約」というものらしく、「「安全を確保する」との名目で、親露派の支配地域にロシアの軍事基地の建設と使用や、相互の防衛義務も規定している。有効期間は10年間で、自動延長の規定もある」と説明されている。議会が全会一致だったということはつまり、今回のプーチンの決定やロシアのうごきにたいして反対の意思をもった人間が議員のなかにただのひとりもいなかったということである。もし内心で反対の意思をもっていたとしても、反対票を投じることはできなかったということだ。いまさらの事実だが、これがロシアという国の政治の現状だということだ。
  • 散歩も。たいした記述ではないが。

ひさしぶりに散歩に出ようという気分が湧いたので、食後三〇分くらいして八時になると出発。さむいよと言われつつもダウンジャケットを着ているからまあへいきだろうとあなどっていたのだが、ふつうにかなりさむかった。せめてマフラーはつけてくるべきだった。序盤はからだがぞくぞくふるえるありさま。これじゃあそうながくはあるけないなとおもいながら行く。昼間は雲が湧いていたがいつか去ったらしく、月のすがたはないものの夜空に雲の影はみつけられず、青みをはらんだ闇の色がふかぶかとひろがって天をのこさずひたし、眼鏡をつけていないからとおいけれど星もいくつも浮かんでいた。表に出て車に横を行かれたらぜったいさむいでしょとおもって街道のむこうの裏にまたはいるルートをかんがえていたのだが、いざ表がちかくなってくると、あえてそのさむさに身をさらしてみようという謎の気概が生まれて、街道沿いの歩道を行った。とはいえ背後から冷気に来られるよりは正面から来たほうがまだいいかなというわけで、南側、つまり東にすすむから右側の道をえらぶ。車に引かれるようにして風が来るからじっさいやたらさむいのだが、それでも道端のシュロや庭木の葉をわずかに揺らすほどのながれすらない。だいたいの時間はさむいさむいとおもうか、あたまのなかになぜか”Bad Junky Blues”がながれているかだった。最寄り駅まえに出たところで折れ、ふだん帰路につかう木の間の坂道をおりた。そのまま帰宅。夜気がちょっとうごくだけでもまさしく肌が切られるような寒気の威力だったが、なんだかんだあるいていると芯はあたたまるようで、とちゅうからふるえることはなくなった。といっても肩はずっとあがっていたが。

帰って九時にいたると入浴。その後はだいたい書見。寝転がって布団をからだにかけながらも邁進。本というのはやはり臥位で読むにかぎる。とてもではないがきちんと椅子に座って机にむかってまじめに気負って読んだりできない。松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)をこの夜で読み終わった。この日で一〇〇ページくらい読んだのではないか。新書だし、複雑なはなしもないからどんどん行けるは行けるが、そこそこたいしたものだ。ゴルバチョフが権力をもってからソ連解体までのながれなど、経緯はぜんぜん知らなかったのでけっこうおもしろかった。おもしろいのはソ連とロシアはちがうのだということで、かんがえてみればあたりまえでもあるのだが、つまりロシア共和国はあくまでもソヴィエト連邦中の一共和国であり、連邦中央政府とロシア共和国の政府はいちおうは別物でもある、という点だ。とはいえ、このふたつはほぼかさなってもいる。というか、ソ連史の初期からその後大部分、連邦政府とロシア政府はほぼ一体化していたのだが、ソ連崩壊直前においてそこの距離と齟齬があらわになる契機があったのがややこしくておもしろいなとおもったのだった。

ロシアとソ連中央の一体性については、27ページではっきり述べられている。「共和国のなかでは領土でも人口でもロシアが圧倒的に大きく、しかもソ連の歴史の大部分の時期においてロシア独自の共産党は存在せず、ロシアの党組織は連邦の党組織と分かちがたく一体化していたという点で(ロシア共産党が全連邦共産党、次いでソ連共産党となったのであり、共和国の党としてロシア共産党が結成されたのは一九九〇年のことであった)、この連邦はまさにロシアを中心とした連邦であった」。革命をとおして実権をにぎったボリシェヴィキが改称していく具体的な年号は24に載っている(「一九一八年にロシア共産党、一九二五年に全連邦共産党、一九五二年にソ連共産党と改称」)。スターリンはもともと、「各ソヴェト共和国を自治共和国としてロシア連邦共和国に組み込む「自治化案」」(25)をめざしていたらしいから、これが実現されていたらおそらく国名もソ連にはならず、全領域をあわせてロシア連邦だったのではないか。そこにすでに発作にたおれて死のちかづいていたレーニンが「対等な共和国の結合」というかたちをもとめて反対し、「諸共和国の平等な立場での連邦結成を訴える書簡を書いた」という。スターリンは反発しながらもけっきょくは譲歩し、こうしてソヴィエト社会主義共和国連邦が結成された。

ゴルバチョフの改革によって一定の政治的自由が確保されるとともに各共和国の改革もうながされ、その結果、一九八八年ごろから諸国で共和国の権限をつよめる「反連邦」のうごきが生まれることになった。とりわけ先鋒となったのはバルト三国であり、たとえばエストニアは一九八八年一一月に「主権宣言」を採択、三国とも九〇年には独立を宣言している(ゴルバチョフリトアニアにたいしてその取り消しをもとめ、拒否を受けて経済封鎖をおこなった)。ほかの各共和国でも同様のうごきがひろがるなか、ゴルバチョフは再統合を模索し、連邦の存続をめざす。九〇年三月の時点では九共和国でおこなわれた国民投票において、いずれも連邦の維持が賛成多数となり(全体では七六パーセントが賛成)、ゴルバチョフは九一年四月、連邦の権限をおおきく削減する「九プラス一合意」をとりかわす。これに了承をあたえていなかった連邦政府の要人らがつよい不満を示し、副大統領、首相、国防相などがゴルバチョフを拘束、八月一九日に非常事態を宣言してクーデターを起こした。ここで、「ロシア共和国大統領エリツィンらロシアの政府・議会関係者が、共和国最高会議ビルを拠点としてクーデタに徹底抗戦する姿勢を示し、多くのモスクワ市民がこれを支援した」(229)とあるのが、うえで言ったソ連中央とロシアとの齟齬という点である。クーデターは三日で鎮静した。(いじょう、223~229)

ゴルバチョフはその後も新連邦条約の実現をめざすのだが、「一九九一年一二月におこなわれたウクライナ国民投票において、独立を求める票が約九割となったことがゴルバチョフの努力に事実上終止符を打った」(229)。つまり、この本の記述をみるかぎりでは、いまプーチンが兵をおくりこもうとしているウクライナの意思こそが、ソ連解体を決定づけたということになる。それにつづく文では、「ロシアは一貫して、ウクライナ抜きの連邦はあり得ないとの態度をとっていたからである」(229~230)と、連邦存続が不可能になった理由が説明されている。ということは三〇年まえにも、ロシア共和国はウクライナにたいしてなにがしかのつよいこだわりをいだいていたということだ(一九二二年一二月にソ連を形成する条約に調印した国家主体も、ロシア連邦ウクライナ、ベロルシア(ベラルーシ)、ザカフカス連邦(グルジアアルメニアアゼルバイジャン)の四者である)。

  • 二三日にも本の感想。

その後、書見。さくばんに読みはじめた井上輝夫『聖シメオンの木菟』(新版)。(……)でなんとなくよさそうだとおもって入手した本だったはずだが、著者は詩人で、主に慶應義塾大学ボードレールなど研究していたようす。在学中に吉増剛造と詩誌を出していたとか。二〇一五年死去。この本は一九七五年にもともと国書刊行会から出たのが、ミッドナイト・プレスという出版社から再刊されたもよう。シリア・レバノン紀行なのだが、冒頭には砂漠とそこに棲んでいる「非人」との遭遇を題材にしたみじかい物語が付されている。はなしの内容や結構としてはめだって特筆するものは感じ取れなかったが、文章はたしかにフランスや海外の詩をやっていそうな、詩人っぽいなという感触がはしばしにふくまれていて、一文一文がしっかり書かれているなという感をおぼえる。書抜きまではいかないとしても、ちょっとメモしておきたい比喩なども散見された。その後、一人称「私」で語る紀行のパートにうつるのだが、ここのはじまりかたなんかもけっこうよいかんじ。物語篇のはじまりも、「いつとも知れず、遠く西暦前のある日のことのように思われる。どことも定かではないある荒涼とした地方が髣髴と浮び上ってくる」(9)となっていて、(……)さんの『亜人』をおもいだした。「思われる」「浮び上ってくる」という文末になっているのが、なぜかすこしよかった。理由はよくわからないが。「思われる」ということは、話者もこの物語の舞台となった時間をさだかに知らないわけで、しかも「遠く西暦前」のこととされているから、そのあいまいさのなかに神話的な距離の感覚が捏造されるのかもしれない。さらにそこに「浮び上ってくる」と自発の動詞がつづくから、読んでいるこちらもそれに同調し、さそわれ巻きこまれるように、イメージの喚起がうながされたのかもしれず、それがよかったのかもしれない。「ある荒涼とした地方」の像が「髣髴と浮び上ってくる」のは、直接的には話者においてのはずであり、だからこのみじかい物語は話者の想念を語っているということが明示されているのだが(その「話者」はこの本の主題(シリア・レバノン紀行)からして著者とひとまず同一とみなされ、そのことは物語篇の題が「序にかえて――「獅子の首」の野の花」とつけられていることからもあきらかなのだが、いっぽうでここではまだ話者のステータスに著者井上輝夫の個人性はほとんどみうけられない)、同時に、自発動詞が提示され受けとられることで、想起の場として「われわれ」(話者+読者)が想定されることとなり、その「想念」は単独の話者を越えた共同性をそなえ、はらむ。ことばのこうした機能がときにもつ侵入的・収奪的な作用については、コロナウイルスのワクチンをいちどめに接種したときのスタッフの言動と、祖母の葬式での演出にまつわって感じたこととして過去にしるした。

  • 以下のような言も。「じぶんの感性はけっきょくのところずっとこれで、これに尽き、ここから出られないような気がする」というのは、ある種の切なさとともにいまもおもう。

つぎの評し方はちょっとおもしろいなとおもった。じっさいにはべつにおもしろくはなく、細部のニュアンスがなんらかの具体性やリアリティを帯びて、編集された物語の構造に拮抗する、というだけのはなしなのだろうが。じぶんの感性はけっきょくのところずっとこれで、これに尽き、ここから出られないような気がする。「テレビは三鷹にあった中華料理屋「味の彩華」が閉店する最後の日々に密着、みたいな感じで、七〇代の祖父母が数十年続けてきた店の幕引きを家族総出で支える、という、非常にわかりやすく良い話。かたちとしては紋切型そのもので、いかにも平和な世界という感じなのだけれど、店主の男性の様子が良かったというか、口にする言葉自体は良い話の枠組みに典型的にはまりきったものばかりではあるものの、それに無理も衒いも大仰さもなく、かといって卑下や皮肉や萎縮もなく、堂々と地に足ついた声音でもってニュートラルに振る舞っており、そういうさまを見ると、要約すればありがちな物語になる話とその提示ぶりではあるけれど、実際にその物語をいままで何十年か生きてきた人間の実質のようなものが感じられるなと思った」

  • 金井美恵子「重箱の隅から: 生活困窮者を前に新しい児童図書館は有効か①」(2023/2/9)(https://www.webchikuma.jp/articles/-/3026(https://www.webchikuma.jp/articles/-/3026))を一食目のまえ、米を炊いているあいだに読んだ。安倍晋三国葬(政府的には「国葬儀」らしい)についてとうじなんの興味もなかったし、アパートにテレビもなく、そのもよおしがあったという情報すらほとんどふれることなく見過ごしてしまった気がするのだが、軍歌が演奏されたとかいう情報はだからきょうここで読んではじめて知り、そうだったのかとおもった。むろん意外性はないが。

 もちろん、この連載エッセイのタイトルから察せられるように、言い方を変えれば不要不急のことについて書いているわけなのだが、それ [、、] が一体いつ [、、] だったのか、その一部分を除いてすぐにはもう思い出すのが困難な、テレビ中継で見た殺害された元首相の、いつの間にか決まって、いつの間にか行われた国葬である。元文部科学事務次官前川喜平のエッセイ(「ユウエンナルスメラミクニ東京新聞 ʼ22年10月2日「本音のコラム」)を読んで、自衛隊の音楽隊が演奏していた儀式用らしき曲の正体がわかったのだったが、国葬について書かれた新聞記事もテレビのニュースでも、それがどういった曲なのか伝えていないのは、やはり感性が鈍化しているからであろうか。
 前川氏が黙祷(もくとう)の際に演奏された「國の鎮め」という軍歌の名を見て「戦慄を覚えた」のは当然として、さらに天皇の使いの拝礼の際に演奏された「悠遠なる皇御國(すめらみくに)」は「これも戦前に作られた曲かと思いきや」と文語体風に驚く以外にないところで、「作曲者は自衛隊の音楽隊員で、初演されたのは二〇一九年」なのだ。どういった場面で演奏される目的で作られた曲なのかは知らないが、前川氏の言うように、「この曲名は戦前の國體思想そのもの」だろう。
 ついでだから前川が引用している「國の鎮め」の歌詞をここにも書きうつしておくことにするが、もちろん、「君が代」との釣り合いが良くとれている。「國の鎮めの御社と斎き祀らふ神霊今日の祭りの賑ひを天翔けりても御覧せ治まる御世を護りませ」というのである。
 ところで、国葬(政府的には、国葬儀 [、、、] というのが正しいらしいが)について、朝日新聞には社会学橋爪大三郎東京新聞には作家で法政大国際文化学部教授の島田雅彦が書いていて、どちらも新聞記者が書いたとしても、この程度のものだろうが、それでも具体的な記述があるという点で二人の女性記者の書いている「記者が見た国葬その日」の方が、大衆読者にとどかねばならないことになっている新聞記事を書くプロ [、、] だけに、まだまともに読めるような気がしたのだったが、記者たちは、まとめること(可能ならば上手に)が本分だと心得ていて、だから、前川喜平のように、演奏された曲の歌詞や、天皇の使いの拝礼時に演奏された、聞いたことのない曲について注意を払うことはないのだが、元首相夫人が現首相に遺骨を託すあたりのところで演奏された「悲しみの譜」という曲が流れると「一気に厳かに。」と書くのだが、この、曲名を初めて知った曲は、映画館で本篇が上映される前に、1、2本の上映があったカートゥーンのシリーズ、「トムとジェリー」や「ポパイ」といった物の中で、悪役がボコボコにやられてのびてしまった時、軽い重々しさ [、、、、、、] で流れるおなじみの、敵の死(負け)を表わすメロディーのはずである。私たちは古いアニメのナンセンスな暴力シーンを思い出し、もちろん、「気品と美しさ」が「国教会の伝統と教義で整えられて」(橋爪大三郎)いるところのエリザベス女王国葬では演奏されない。葬式はクマのパディントンをお茶に招待するのとは違うのだ。東京新聞の記者は国葬(政府的には国葬儀 [、、、] )に「十六億円を超える血税が投入された」ことに疑問を呈しつつ、「黙とう」の時に「国の鎮め」が「生演奏」されたことを伝えるが、それがどういう曲であるかは、3日後の前川のコラムを読むまで、ほとんどの読者にはわからない。その後、舞台の巨大スクリーンにはオリンピック招致のイベントで大好きなゲームのキャラに扮した元首相の「思い入れがあったという東日本大震災のチャリティーソング「花は咲く」をピアノで弾く姿でスタート」で、その意味では全体の構成はバランスが取れ、つじつまは合ってはいる。
 フット・ボール・ワールド・カップの日本代表のユニフォームに使用されているアニメ感覚のシンボル・マークが神武天皇が熊野から大和へ入る際の先導をしたという八咫烏であることだって、相当にあきれてはいたのだった。「国」を代表するとなると、どうも話がおかしくなる。それはそれとして、私としては、知ってはいたがテレビのニュースや新聞記事を見もしなかった吉田茂国葬の時には、どのような曲が使われていたのかも知りたいところで、あの不思議な文章の書き手である長男の健一は、どのような様子で国葬の喪主をつとめたのか、とふと思ったりもするのだが、それはそれとして、安倍元首相の国葬に反対とか賛成と言う以上に、いわば、その様式上のいかにも美しくないいくつかに、私は違和感を持ったのだった。
 その違和感には根拠があることはあるのだが、それは、「明らかに国家神道の歌」である明治の軍歌が「国の機関が行う行事でこのような曲を演奏することは憲法20条3項の政教分離原則に違反している。」(前川喜平)からと言うより、明らかな憲法違反を古めかしい歌や曲を繰り出し、スメラミクニとかなんとか言って犯すからには、多少なりとも様式的な美しさと言うか、軍隊的に訓練された兵士たちの美しい動きを見せる必要があるのではないかという、単純な疑問だ。それだって、ジャニーズの男子たちのダンスよりBTSの男子らのダンス(と見ため)の方が、ずっとマシだし、熱い勇気と感動を日本中にくれた八咫烏のチームにしたところで、冷静に考えれば、スペインとドイツのチームが弱かったからだ、という程度のことにすぎないのだが、たとえば、テレビのニュース番組で、戦時下に法的に制度化された国葬として、山本五十六の葬儀の記録映像が流れていたのを見ると、遺骨や国旗を持って運ぶ兵士たちの動きが、当然と言えば当然、自衛隊員の、正式名は知らないが儀仗兵のような者たちの動きに比べて、あきらかに差がある。吉田の国葬が、安倍の葬儀のように自衛隊式(と言うことは、「國の鎮め」や「悠遠なる皇御國」といった演奏つきの)に行われたのかどうか知らないが、普通にアメリカ映画を見て育った者の眼にはあの応援演説時の児戯にも等しいと見える警備体制に、それは似ているのではないかという印象をもたらすのだ。

  • あとうえの引用中、「その後、舞台の巨大スクリーンにはオリンピック招致のイベントで大好きなゲームのキャラに扮した元首相の「思い入れがあったという東日本大震災のチャリティーソング「花は咲く」をピアノで弾く姿でスタート」で、その意味では全体の構成はバランスが取れ、つじつまは合ってはいる」というぶぶんを読むに、”花は咲く”というあの曲に「思い入れがあった」という情報からして、安倍晋三というひとはやはり感性的には一点の曇りもなく、まごうことなく俗物だったんだろうなとおもった。あの曲はテレビCMなどでよくながれていて、実家にいたあいだは耳にする機会もそこそこあったけれど、とうじのじぶんは端的に言ってあれが大嫌いで、あのいかにも「癒やし」のイメージを提供しますといわんばかりの、最大限にうすめられたかたちでの「希望」や「応援」すらまともに表象できず僭称しているにひとしい楽曲じたいももちろんいやなものだけれど、父親が夜に居間で酒を飲んだあたまでテレビとともにあれを口ずさんだり、ときに感動で泣いたりしているのが胃に来るくらいのストレスだった。醜悪なものをみる気がしたものだ。あの曲とテレビ映像の流通によって、じっさいに「癒やし」を得たり「救い」や「希望」を得たりした被災者や当事者や関係者ももしかしたらいたのかもしれないし、またあれによって募金があつまるということもあったのかもしれない。そういう効果やはたらきがあったとしたらそれはそれでよいだろうし、この世にはああいうものが必要なのかもしれないし、必要不必要にかかわらずああいうものが生まれてしまうのだとおもうけれど、こちら個人の感性からするとあれは、非当事者が感傷的な自己満足とともにカタルシスを得て悦に入るために存在しているようにしかおもえなかったし、父親が一例としてそれを体現しているさまを目の当たりにすると、やはりグロテスクの感をそこにおぼえるものだった(いくらかゆずって楽曲じたいはまだよい。ただ、その楽曲の感傷機能に、まったく抵抗なく、あまりにもやすやすと屈して、なおかつそのようなふるまいを隠そうともせず、(家のなかではあるが)おおっぴらに開陳し、じぶんを恥ずかしくおもうこともないというのは、ほとんど倫理的堕落のようにすらこちらにはおもえた。めちゃくちゃな飛躍であることを承知のうえで言うが、こういうやつ、こういう「善良な市民」が、ナチス時代のドイツではナチ党に入党してユダヤ人を差別していたんだろうな、とおもったものだ)。「感動ポルノ」ということばがたぶんあったはずで、ひとむかしまえなら「お涙ちょうだい」というのがそれに類する表現としていわれていたろうが(「ポルノ」という性的なことばを組みこんだ分、前者のほうがどぎつい表現となっており、じっさい情緒的感動消費と欲情(とあとついでに甘いものへの欲求)には似ている感触があるとおもう)、そういう最大限に抽象化された感情的連帯にたいする拒否反応はとうじの日記にもなんどか記したおぼえがある。美的効果の種類としては、愛をうたいつたえるのに愛してる愛してる、会いたい会いたいとくりかえすしか能がないたぐいのJ-POPとおなじものだろう。それでも癒されるひと、すくわれるひと、希望をもてるひとはいるのかもしれないし、そのことじたいはべつによい。ただ、こちらの感じるところあんな抽象的でスカスカの、なかみのなにもない楽曲に「思い入れがあった」というのだから、安倍晋三というにんげんは最大公約数的ないわゆる「物語」の毒になんの抵抗力も持ち合わせていない人物だったのだろうとおもったのだ。だからかれの右派的傾向というか、傾向などというものではない政治的立場もおそらくは、思想などというよりは、戦前にたいするたんなる憧れのようなものだったり、勇敢にたたかって大日本帝国のために命を散らしていった英雄である兵士たちにたいする自己投影のようなものにすぎなかったんだろう、とこれはもちろん想像でしかないけれど、そのようにおもってしまうくらいではある。ところできのうだかnoteをちょっと覗いたさい知ったことに、どうも『安倍晋三回顧録』なるものが出たようなのだが、むしろちょっと読んでみたいかもしれない。noteのもろもろの記事のサムネイル画像(でいいのか?)によれば、表紙は安倍晋三の満面の笑みがアップになっているようだったのだが、よくもまああんなデザインの本をつくるものだ。もしかして遺影写真とおなじ画像なのだろうか? 追悼の意味をこめたのかな。

Ekaterina Kolotovkina, the head of an advisory group of army spouses and the wife of Maj Gen Andrei Kolotovkin, a high-ranking military commander, was one of the headline speakers at the government-organised memorial. She had a simple message: “We cannot be broken.”

“What happened in Samara had the reverse effect from what our enemies planned,” she said in an interview at Samara’s House of Officers, a military club with a large theatre. “The people have become one whole. We are helping one another. Now we all understand who our true enemy is.”

Kolotovkina’s efforts at inspiring military discipline on the home front go further. She is also the creator of a project called Wives of Heroes, a glossy photo project where Russian women don their husbands’ military uniforms and pose for studio portraits. The idea has sparked similar photo exhibitions across Russia.

“My mission is to raise children. My mission is to support [my husband],” she said. “We are officers’ wives. For the wives of mobilised soldiers, it is much harder … But I think they’re slowly coming to terms with what is happening.”

The project stands in contrast to how many families in Russia have felt in recent months – angry, confused, sometimes abandoned. When asked about the people who have complained, she interrupts.

“Let’s say honestly, who’s writing these complaints?” she said. “Maybe 2% of the mobilised soldiers there? Not everyone is strong. There are men who also behave like children. So what if 10, 20 people there write some statement and create panic? As a person who travels there periodically, I see strong men intent on victory.”

In her speech on 3 January on the square following the Makiivka attack, she said she had spoken to her husband and told him to “get revenge for the orphans, for the inconsolable widows and for the tears of the mothers”.

She defended the use of violence against people that she describes as “brothers”.

“It’s a brotherly people that have become brainwashed,” she said of Ukraine. “What does an older brother do if the younger doesn’t listen? Can’t he hit him about the head? I think that’s completely within his rights.”

     *

In Neftegorsk lives the family of a deceased captain named Alexander, who died in November last year while fighting in eastern Ukraine. A veteran who had fought in Chechnya and Dagestan, he had tried repeatedly to volunteer for the war and even travelled to Ukraine on his own without telling his family before eventually being mobilised in October.

In peacetime, he worked at a furniture company. He never spoke to his family about why he was so eager to go fight.

“He was a reconnaissance officer,” said Natalya, his sister, sitting with her family in their home. “He never showed his emotions. Even the fact that we’re meeting with you now, that we buried him like a hero, he wouldn’t like it. He didn’t like this showing off or bragging. So he didn’t say anything about Ukraine to us. He wanted to defend his homeland like any soldier brought up in this patriotic way.

“Of course, we were upset when he got [the call-up papers],” she said. “We see this is a different kind of war, not like Chechnya or Dagestan. It’s a scary war. When America has turned all countries against Russia. How could any person let their son, husband, brother into that kind of war?

“But it would be a disgrace not to go. You’d disgrace yourself,” she said. “You would be ashamed.”

As the other relatives spoke, Alexander’s mother would occasionally tear up as she spoke about her son. Sasha, as his family call him, was killed in an artillery strike. But his sister admitted that “all we know is what we’ve been told”.

“We don’t even really know if it’s him that we buried,” said Natalya. “The casket is closed. They just gave us some of his personal things and that’s it. So how are we supposed to know?” He was buried in the same grave as his father, she said.

The whole family defends Putin’s announcement a year ago that Russian troops would be sent to Ukraine. The west is to blame for the war, they say. “[Putin] had no choice,” said Maria, another relative.

A year after the war has begun, the family of the dead captain are asked whether their opinion on the Russian “special military operation” has changed.

“More for it,” said Maria. “We support it more.”

  • うえの記事のひとつめの引用部はさいしょ、なるほどやっぱりこういう広告(プロパガンダ)があるのねと(a project called Wives of Heroes, a glossy photo project where Russian women don their husbands’ military uniforms and pose for studio portraitsについて)ちょっと興味深くて目にとまったのだったが、その後、プロジェクト創始者であるEkaterina Kolotovkinaというひとの発言を読むに、〈She defended the use of violence against people that she describes as “brothers”./“It’s a brotherly people that have become brainwashed,” she said of Ukraine. “What does an older brother do if the younger doesn’t listen? Can’t he hit him about the head? I think that’s completely within his rights.”〉とあり、これはクソだなとおもった。国家間戦争と兄弟喧嘩(というか兄の弟への叱りつけ)をこのように同一化するのは比喩の悪用だろう。しかもそこではウクライナが年少の弟であり、したがって権力的に劣ったたちばであることと、判断力を欠いているということ(”brainwashed”)が前提視されている。だからこのひとはウクライナ国を自立的で対等な主権国家とはみなしておらず、同国と同国民を総体として軽侮し、したにみている。どうしてそういうかんがえをもっているのかはあきらかでないが、おそらくはプーチンが唱えていたような「歴史的一体性」言説とか、ウクライナがいままで独立国家だったことはないみたいな主張が根拠としてあるのだろう。
  • 七時半くらいにおそらく覚めて、八時に起き上がって時刻をみた。からだはわりとよい。きのうは夕食後にたしょう文を書いたが、一時をまえにして往路のことを書くのはいまのコンディションでは無理だなとあきらめて、寝床に移行した。その判断は正解だったと言おう。やっぱり寝るまえにも下半身ほぐしておくの大事だろうというわけで、書見をしながらゴロゴロしようとしたのだが、あらたに小野紀明『政治思想史と理論のあいだ 「他者」をめぐる対話』(岩波現代文庫、二〇二二年)を読みはじめたもののすぐに本を置いてダウンしてしまい、そのまま意識を落としていた。何時だったかわすれたが気づくとデスクライトを切って正式に就寝。今朝の天気はいかにも白々とした曇りだった。寝床でウェブをみたり日記を読みかえしたりするあいだにYahoo!の天気情報をみて、東京だと晴れになっているがとおもいつつ(……)もピンポイントでみてみると、正午くらいから晴れてくるようだった。こんな白さでほんとうに晴れるのかなあとおもっていたが、じっさいのちほどひかりは来たので、午後にうつってから洗濯もした。日記は二日分。二日分を読むだけで一時間強かかるというのはどういうことなのか。九時半くらいに離床した。さくばん米を炊いておこうかどうしようかとまよいながらやらなかったのだが、やはり米がないと物足りないとおもわれたので、釜に用意して炊き出した。五〇分ほどかかる。さっさとものを食いたいがまあ瞑想でもやっていれば一時間などすぐだとおもい、しかしそのまえに足首をつかんでまわしながら金井美恵子の記事を読んで、一〇時二分から静止をはじめてちょうど半まで。ひさしぶりに三〇分ほど座れたのでよい。米も炊けて、いつものように温野菜をこしらえる。ところで兄がくれたあきたこまち五キログラムは今回で空になり、おとといスーパーで買ってきたゆめぴりか二キロをつかいだしたのだけれど、二キロではすぐなくなってしまうからこんど行ったときは五キロを買って背負ってこよう。まあAmazonつかえというはなしだが。それで五キロの米の袋はけっこうおおきく、これをプラスチックゴミを入れる袋に転用してみることにした。ルール上半透明の、なかがみえるものという指定があったはずで、その点この袋はデザイン的に見えづらいのだが、一部のぞける箇所もあり、そこをみればプラスチックゴミが詰まっているというのはわかるはずだからゆるされるのではないかと。まあみえない部分になにがはいっているかわからないので駄目となるかもしれないが、一回やってみて怒られたらやめようと。プラスチックゴミの袋はいまほぼスーパーでキャベツなどの野菜を入れる袋にたよっており、あとはトイレットペーパーの空き袋だ。なのででかいやつが確保できるとたすかる。
  • 食後はGuardian。(……)
  • 正午すぎに陽が出てきたのをみて洗濯しようとなり、干したのは一時くらいだったろう。洗い出したころにもう布団をおろして臥位にはいっていたとおもう。小野紀明『政治思想史と理論のあいだ』を読んだ。たいへんおもしろい。講義の内容をまとめた概説書だというので、見取り図豊富。文章がじつにしっかりしているなと、べつにレトリカルにどうという箇所はないのだが、リズムや感触として堅固でちゃんとしているなとおもい、これは論文とか学術方面だけではなくて、文学も読んできた人間の文では? とおもったのだが、べつにそういうわけではないのかもしれない。思想の本ばかり読んでいてもこういうふうにはなるのかもしれない。とおもったがいまWikipediaをみると、『フランス・ロマン主義の政治思想』(木鐸社、1986年)とか、『美と政治――ロマン主義からポストモダニズムへ』(岩波書店、1999年)という著作があるので、やはり文学方面にも一部つうじているのだろう。ちなみに、「ゼミ出身者に芥川賞作家の平野啓一郎。平野と春香の披露宴に主賓として出席した」という。
  • 洗濯物は三時すぎか四時まえには入れた。保育園の気配がなく、窓をあけたさいも向かいの室が暗くなっているなとみていたが、きょうは天皇誕生日なのだとおもいだした。それで休みなのだろう。床を立てば日記を書きたいところだが、腹が減っていたのでさきに二食目。温野菜と納豆ご飯にバナナ、ヨーグルト。食後は、というか食事中からだったが、(……)さんとせんじつ通話したさいに、かれが熊野純彦の『西洋哲学史』(岩波新書の本で、上巻のほう)を電車のなかで読んでいるといってちょっとそのへんをはなしたので、熊野純彦トークイベントの動画があったなとおもいだしており、いぜんすこしみたのだがとちゅうまでだったのでこれをみてみるかという気になった。それで一時間半あったのをけっきょくすべて一気にみてしまった。マルクスも読みたい。廣松渉はじぶんにとって、業績がどうのとかそれいぜんに個人として決定的に魅力的なにんげんだったという。どれくらい決定的だったかというと、かれからの影響をあるぶぶんでは消去しようとしなければならないくらい決定的だったといい、熊野純彦のあのふつうは漢字にするような語までもひらがなにひらく文体というのは、いまではじぶんなりに日本語やその書き方にたいするかんがえがかたまってはいるけれど、はじめはあきらかに反動形成だったと。つまり師匠の廣松渉が「漢文の書き下しより漢字がちょっと多い」ような、本をどこかひらけばページが「真っ黒」になっているような、そういう文章だったので、そこまでは真似たくない、そこだけは逃れたい、みたいな感じがあったのだろうという。
  • その後きょうのことをようやく書き出して、ここまででもう七時になってしまっている。
  • きょうはあと一七日分が書ければいいかなと、またそのくらいのゆるいスタンスでいよう。きのうの往路なんかも書けたら書きたいが。
  • うえまで記したあと、寝床にうつって脚をほぐしながら(……)さんのブログを読んだ。さいきんなかなか読めていない。二月七日から一〇日のとちゅうまで。郡司ペギオ幸夫『やってくる』のはなしがおもしろい。

 〈認識する〉と〈感じる〉のミスマッチは、ミスマッチという段階で完了するのではなく、両者の間にずれ=スキマ=ギャップをもたらし、そこに外部を召喚する。(…)私たちが日常的に感じるリアリティもまた、それと同じ仕組みで外部からやってきたと考えられます。(…)
(…)
 私は、パジャマのような服を着せられた「ねこ」を見たことがあります。それは年老いて毛艶も衰えたねこで、一見すると猫か猫でないか判然としないほどでした。ここでは、現実に存在する目の前のネコを平仮名で「ねこ」と、抽象的な概念としてのネコを漢字で「猫」と表しています。つまり〈感じられる〉ねこと、〈認識される〉猫、です。
 さてここで、「ねこ」がどのように「猫」と判定されたか、思い出してみます。
 まず、縞模様なので「猫である」と判定されました。まれに鳴く声もやはりニャアと聞こえ、「猫である」と判定できる。しかしそのパジャマの着方は堂に入ったもので、まるで人間が着ぐるみを着ているようにも見える。この限りで「猫ではない」と判定できる。また力のない体毛はいたるところで渦を巻き、まるで乾燥した苔のようです。そうするとやはり「猫ではない」と判定できるのです。
(…)
 この多様な属性に関する判断はいずれ打ち止めとなり、そこで「猫である」か「猫でない」かの最終的判断が下されることになります。たとえば、「猫である」とする判定が多数を占めたからとか、猫にとって本質的と思われる属性に関して「猫である」と判定されたからとか、そのような理由で最終的に「猫である」と判断された、ということになりそうです。
 しかし判断すべき属性の数は無限にあります。そのちょうど都合のいいところで判断をやめ、多数決で決めたとも言えます。ならば属性の数を増やせば結果は変わるかもしれません。判断をもう少し繰り返せば、猫にとってもっと本質的である属性が見つかったかもしれません。そうなるとやはり、最終判断は変わったかもしれない。
 つまり、判断すべき属性の数を有限で打ち切ることでなされる「猫である」という最終判断は、「猫である」と判断したいがために属性の列挙を止めた判断、とも言えてしまう。最終判断は、きわめて恣意的で無根拠なものとなってしまう。するとこう言えるでしょう。
 「猫である」と「猫でない」の両者をともに対等に満たしながら、ただ、


「猫ではない」というよりはむしろ「猫である」


 という程度に「猫である」と判断されたにすぎない、と。
(…)
 この議論が年老いた猫にのみ起因する特殊なものではなく、決して一般性を失わないことは明らかでしょう。どんなものであっても、「Aである」と判断しようとすると、「Aである」と「Aでない」の両方が成立してしまう。普通に考えたら決定不能に陥ります。にもかかわらず、《「Aでない」というよりはむしろ「Aである」》という程度に、「Aである」と決定されるのです。
 ではどのように、この「〜というよりはむしろ」を考えればいいのでしょうか。「Aである」と「Aでない」が両義的であるにもかかわらず、決定不能に陥らず、いずれかに最終決定されることをどう理解すればいいのでしょうか。
(…)
 私たちが判断を迫られるとき、注目される文脈が用意されている。たとえばここでは、目の前にいる「ねこ」が猫か犬かの判断を迫られているわけです。この注目されている文脈、つまり「猫か犬」文脈においては、ねこは猫であると判断される。縞模様やニャアという鳴き声は、犬ではないという意味において、猫でない可能性がないのです。「猫か犬」文脈において、「猫でない」は犬を意味してしまいますから、犬でない以上、猫でない可能性は排除される。
 しかし、苔かもしれない、人かもしれない、という意味での「猫でない」可能性も本来はあるはずです。それらがどこへ行くのかというと、「猫か犬」文脈の外部に位置付けられ、無視されるのです。文脈外部に追いやられ無視されるというのは、完全に排除され、消え去ってしまったわけではありません。存在するのにただ無視されるだけなのです。これが、「〜というよりはむしろ」の意味ということになります。
(…)この文脈だけが世界に存在し、それ以外は何もないのなら、この文脈に対する疑いや懸念は一切伴わないでしょう。文脈の外部は存在しないことになります。しかし「猫か犬」文脈が孤立していないことに対する無意識の受動的知覚が、「何か足りない」という無意識の能動的叫びを喚起し、外部に追いやられたはずの「猫でない」可能性をぼんやりと伴わせてしまうのです。
 この潜在する「猫でない」可能性こそが、「猫である」という一つの判断にリアリティを与えるものになる。それは「猫である」と確定しながら、その判断に自身を持てない不安感であり、「猫である」と断定しながら、同時にそのあまりに猫らしくない部分に感じられるおかしみであるのです。潜在する「Aでない」の有する力こそが、「Aでないというよりはむしろ」を表現し、「A」のリアリティを立ち上げているのです。
(…)
 哲学者ライプニッツは、「物事にはすべてそれが存在しない、というよりはむしろ、存在する理由がある」という根拠の与え方として、充足理由律を提唱しました。
 何か論理的な展開、哲学的思惟を進めるときの前提Xは、「XでないというよりはむしろXである」という程度に保証される。だとするとそれは、いつ転倒するかわからない。その転倒の可能性を指摘したのが、近年哲学の新しい潮流として捉えられている思弁的実在論や、新しい実在論です。
 しかし転倒の可能性は、数学や哲学の根本的な部分にだけあるのではなく、日々の私たちの知覚、認知のすべてにあるのです。私が言いたいのは、決定不能性をギリギリ回避しながらも担保される「AでないというよりはむしろAである」の持つ危うさ、ではありません。転倒する可能性だけを危惧していては、まるで空が落ちてくることを心配する者のようです。そんなことはどうでもいい。
 私が強調したいのは、「AでないというよりはむしろAである」は、「AでありながらもAでないを潜ませている」ことであり、その潜んでいるものこそが、リアリティと考えることができるという点です。心配ではなく、リアリティを立ち上げるための肯定的表現として、議論を押し広げることができる。外部を考えるとき、リアリティを積極的に取り込んだ形で、知覚や認知、意識や心を構想できるのです。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』 p.77-83)

  • うえのはなしは禅ともけっこうむすびつきうるのではないか。さらにもうひとつ。

 小学生のころ、日曜日の昼ごろというのは別段どこかへ出かけるというわけでもなく、多くの家庭では家でゴロゴロして過ごしたものでした。小麦粉と葱と紅生姜、鰹節で、関東ではお好み焼きとしてまかり通っていた薄焼きのようなもので昼食をとっていると、近隣の家々から「NHKのど自慢」のメロディが流れ、そこに遠くから製材所で材木を切る音が重なってくる。当時の私にとって、その香りと音の作る空間こそが、けだるい日曜の昼下がりのリアリティを立ち上げてくれるものでした。
 ところがこのリアリティは、それを構成する要素を過不足なく用意すれば立ち上がるかというと、そうではないのです。遠くに響く製材所の音は象徴的な役割を果たしています。それは明確に聞こえるものではなく、意識すれば聞こえるものの、意識しなければ背景に溶け込んで聞こえないものなのです。香りと音の空間外部にあって、この空間に参与する可能性のあるもの——製材所の音はその象徴なのです。
 つまり、リアリティに欠かせないものとは具体的な要素ではなく、いつこの空間に参与するかわからない空間外部の潜在性なのです。窓を見ると、上空を旋回する鳩の群れが視界に一瞬飛び込んでくるかもしれず、遠くから猫の声が飛び込んでくるかもしれない。これらの到来を待つ構えこそが、リアリティを感じる私を作り出していたのです。
 だからリアリティ喪失の直前とは、外部からの到来を待つ構えの喪失であり、外部が遮断される感覚なのです。私の視界や、いまここにある世界から何か失われるというのではなく、逆に、何かがやってくるかもしれぬという可能性が喪失する。これがリアリティ喪失直前の感じなのです。
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』 p.136-137)

「外部からの到来を待つ構え」というのは、中井久夫のいうS親和者(分裂症的主体)の様態と同じだろう。「構え」が0になったとき、リアリティは喪失する。それは外部(出来事/外傷)が存在しないという世界、穴のない閉ざされた象徴世界すなわち記号化された世界ということができるのかもしれない。逆にその「構え」が100になったとき、象徴秩序は瓦解し、主体は臨床レベルでの分裂症者となる(そしてここでいう分裂症者は、実際には、自閉症者に近いものと考えられる)。

  • これはもしかすると、じぶんはめちゃくちゃよくわかる、のかもしれない、とおもった。「つまり、リアリティに欠かせないものとは具体的な要素ではなく、いつこの空間に参与するかわからない空間外部の潜在性なのです。(……)これらの到来を待つ構えこそが、リアリティを感じる私を作り出していたのです」とか、「だからリアリティ喪失の直前とは、外部からの到来を待つ構えの喪失であり、外部が遮断される感覚なのです」とか。「外部からの到来を待つ構え」というのは、おおかた、非 - 能動性に徹する静止的瞑想の様態とちかいとかんがえてよいだろう。ただ、じぶんがここで記述されているような「リアリティ」めいたものとしておもいだすのは、瞑想中の時間というよりも、どちらかといえばやはりスーパーや勤務からの帰りなんかに夜道をあるいているときにおとずれる、諸縁起を放下したような、まさしく自己の存在が自己のみに由来しているかのような自由とおちつきをかんじるあの時間である。あれはまさしくいわゆる「いまここ」に焦点が合って、それいがいはなくなるというか、なくなりはしないのだけれどすくなくとも精神にたいするその影響力が(意識とそれとのつながりが)うすくなるような時間で、そこに解放をかんじるわけだが、あれが象徴的秩序によってなりたっている世界認識が一時的になかば停止して、そのなかに回収されきらないものとしてほどよく浮かび上がった時間性なのだろう。じぶんしかない、「いまここ」しかないかのようというのは、一見すると「外部」がなくなるようにもおもえるのだが、むしろ象徴的秩序のなかにいてこそ一般的意味と記号化からまぬかれたその「外部」は存在せず、「いまここ」しかないかのような時間に遭遇したそのなかでこそ「外部」が到来してくる。もしくはその時間じたいがすでになにほどか「外部」である。じぶんの体験にそくして「いつこの空間に参与するかわからない空間外部の潜在性」をかんがえると、それにはおそらく二種があり、ひとつはそこにある事物にかかわるものであり、ふだんよくみていないまわりのようすに目が行ったり、みたことのあるものがなにかあらたな様相や質感でみえてきたり、あるいはその内実はわからないもののなんらかの実質感をもっているようにかんじられたりするということである。とりわけ三つ目のばあいに、その事物に属する範囲で「潜在性」を察知しているということになるか。もうひとつは、要するにつぎの瞬間のことで、そこにあらわれてくるものを待ち受けるというか、受け止め、ほぼ自動的にひろいつづけるような心身になり、これがまさしく「外部からの到来を待つ構え」なのだろう。「いまここ」しかないかのよう、というのは、絶えずつぎの瞬間のあらわれ、現在の移行が意識されるということで、ふだんの意識のありようよりも時間はこまかく分割されることになる。細分されたその瞬間がしかしあいだになんのすきまも亀裂も生まずに連続して続々とあらたにやってくるながれをなすわけで、この「つぎの瞬間が続々とあらたにやってくる」という、分割的連続とでもいうような感覚が、くだんの時間性においては支配的である。「外部からの到来を待つ構え」になれば、「つぎの瞬間」じたいがひとつの潜在性と化す。なにしろ、つぎになにが起こるのかはわからないのだから(もちろんそこでたいしたことは起こらず、だいたいのところ空気のながれがちょっと身にふれたり、道端になにかものが落ちていたりするくらいだが)。じぶんのばあい、あるいているときにこういう時間性がおとずれやすいというのは、その基本的には線的なうごきの持続、また道という空間のおなじく線条性が、時間という観念にいだかれているリニアなイメージと相応することと、また周囲におおくの事物があって、(あちらのうごきやこちらがわの視座の変化によって)それらのようすや総体としての空間の様相が絶えずうつりかわっていくために、続々とあらたに生じる瞬間群、という感じ方が結実しやすいからではないか。
  • また、つぎの引用も。

 のちにムージルは、ニーチェと並んで「きわめて強い影響を思考に及ぼした」(…)二人のエッセイストを挙げている。ラルフ・ウォルドー・エマスンとモーリス・マーテルリンクだ。ともに一九〇〇年ごろ花開いた、無神論的で言語懐疑的な新神秘主義の、ドイツ語圏ではポピュラーな代表者だった。彼らは読者に、市民的な日常生活ではたいてい覆い隠されている《魂》の秘密を伝授すると約束していた。ムージルは米国の哲学者エマスンを終生評価していたが、ベルギーの戯曲家マーテルリンクの「ろうけつ染めの形而上学」(…)の方は、早々にイローニッシュに反転させられた。例えばマーテルリンクは、ひとは高みを目指して努めるべきだ、山頂では《悪事を行う》ことができないから、と主張したのだが、『テルレス』ではバジーニが、よりによって屋根裏部屋で拷問されるのである。
 この二人がムージルの作品にあたえた影響は、比喩やイメージの選択にいたるまで著しいものがある。エマスンにとって、世界はさまざまな対立関係へと分解しているが、それらの対立は相補(Kompensation)という神秘的な法則により相互に結びついている。そして大勢に順応しようとしない個人は、普遍的な[ウニヴェルザール]精神にのみ義務を負う。ムージルにとってもまた《精神》は——悟性と感情の交互浸透とみなされて——最上位の原理を意味していた。マーテルリンクは『貧者の宝』(ドイツ語版一八九八年)で人間の内にある超越的な魂の存在を教えていた。この魂は、はじめて発現することができる人生の希有な瞬間を待ちわびている。あらゆる表面的行為は、犯罪も含めて、この魂に触れることはない。これは《神秘家のモラル》であり、ムージルの作品の登場人物たちもこのモラルに従うことになる。戯曲『熱狂家たち』で、札付きの不貞妻レギーネは探偵シュターダーに宣言する。「ひとは内部では太陽神アポロの馬のように神聖でいられる。そして外側はあなたが書類にまとめたとおりなのよ」(…)。
(オリヴァー・プフォールマン/早坂七緒、高橋 完治、渡辺幸子、満留伸一郎・訳『ローベルト・ムージル 可能性感覚の軌跡』)

  • ムージルエマソンから影響受けてたの? ということで、エマソンって二〇世紀文学のビッグネームがどいつもこいつも好きだったと言っているイメージがあるのだ。どいつもこいつもと言って、こちらが知っているのはウルフとプルーストだけなのだが(ジョイスはどうなのだろう)、ムージルとウルフとプルーストが(あとニーチェも)そろって愛好していたってやばくない? とおもう。まえに会のなかですこしだけ読んだが、本気で掘ってみる価値があるのかもしれない。
  • うえまで記した時点で九時ごろで、近間のストアに行くことに。マスクがもうなくなりかけていたので。あとトイレの洗剤もほしい。ジャージからしただけズボンに履き替え、モッズコートをまとう。ストールはだいじょうぶだろうと判断、リュックサックを背負い、マスクのさいごのいちまいを顔につけて出発した。建物のそとに出ると空はよく晴れていて星も散らばる。あるきだした直後からもう情報の量が室内にいるあいだとは桁違いで、なにしろじぶんもうごいているし、まわりの空間構成も脈々とうごいている。通りすがりの他人もいる。公園にはちょうど、こちらからみて向かいのほうに若い男ふたりがはいってきたところで、おそらくベンチに溜まって、そこそこ威勢よくなんやかやはなしているのがしずかな夜気のなかにあらわである。ひとりが発言のあいまにおおきなゲップを一回はさんでいた。おもてに折れてもよかったのだが出勤時と同様、まっすぐすすんで南の車道沿いに出ることに。もう建物も門も看板もできてほぼ完成をおもえる福祉施設の横を行けば、黒い柵もしくは格子状フェンスのうえに、道をはさんで向かい、右手の家屋がそとにともしている灯りのいろがほっそりと、曇った窓ガラスをゆびがゆっくりなぞったときのような軌跡でわずかにゆらいだ線となってうつり、端までずっとつづいていた。車道沿い。車の通りはあり、街路樹のあいまからヘッドライトを送りつけてくる。空気はやはり寒くない。コンビニのほうへ渡る横断歩道のまえで右に折れ、太陽の名を冠したストアにはいる。手を消毒し、はいってすぐ脇に積み上げられている籠のいちばんうえを取るのだが、籠の段はこのひとつしかなく、買い物を終えた客もこの塔にもどしていくので、こちらが取った籠も直前に去っていく客がもどしたやつだったのだが、衛生管理の観点からするとあまり意味なくない? とおもう。アイリスオーヤマの箱のマスクと、ルックトイレ洗剤の詰替用を入手。その他食い物。食事が毎食おなじだしなんかパンでも食いてえとおもったがたいしたものはなく、チョコレートのはさまったデニッシュと安っぽいチーズバーガー。ほか、たまにはとスナック菓子や、納豆と豆腐もここでもう補充してしまうことにして、あとは切れていたウインナーと冷凍の唐揚げ。会計へ。すこしならぶ。狭苦しそうなレジカウンター向こうのスペースには店員が三人。ぜんいん女性。会計担当はふたりで、てまえのひとりは男性客がなにで支払うか手続きがなかなかできないでいるようだった。ふたりめがあいたのでそこへ。さいごのひとりはよくみなかったが端でなにかのしごとをしていた。袋はいるかと聞かれたのでいいとことわり、会計して整理台のほうに行くと、さきに会計を終えた男性(さきほどてまえのレジで支払っていたひとで、アレグラFXかなにか、一品だけカードで買ったようだった)がそこに突っ立っているのは、こちらのひとつうしろにいた女性の連れ合いで待っていたのだ。女性も来て、カードで買ったの? とかなんとかはなしている。リュックサックとビニール袋に荷物を詰めると籠をもどして退店。あるきだした直後、行きよりも心身に自由と解放と落ち着きの感覚が濃く、ほっとしたような感じがあきらかに生まれていて、だからやはり買い物という目的に向かっている往路はその義務性が心身に染みこんでいて、その目的を済ませた帰り道は行為を完了させたことから来る解放や安心のような感覚が生まれるのだなとおもった。帰り道というのは、ある目的を軸として折り返されたその裏側、あきらかに余剰の、余計な時間なのだ。だからこそそこにつぎの明確な行為につながるまでのあいだ、行為と目的の連鎖に回収されないひとときの自由が発生する。また、もう緊張と感じるほどではないけれど、そとに出て店をおとずれ他人のあいだをうごいてレジでわずかなやりとりをする、ひとことで言って最小限であれ他者とかかわるというのは、それがどれだけ微細であっても心身にとってやはり負荷をあたえるはずで、その負荷から解放されて道のうえと外気のなかでひとりになったという安心感もあるのだろう。いわばよそ行きのモードから、じぶんひとりのときのモードにもどったと。さらにまたいっぽうで、部屋のなかに籠もっているとそういう他者とのかかわりが生まれないから、からだも精神もおのずと閉塞的になっており、そとに出てきてわずかばかり他者と交流したことで(このばあいの「他者」は人間だけでなくて事物や外空間ぜんたいもふくむだろうが)、閉塞的硬直性が乱されて、意識の風通しが良くなったということもあろう。純粋に身体の面からすればたんじゅんに道と店内をいくらかあるいてきたことでからだがあたたまったこともおそらく影響している。それで帰りの夜道はこころがおちつき、すぐに終わってしまうのがもったいなかったので、ほぼ変わりはしないけれどすぐに裏に折れず、さきまで行って反対の方角から帰ることにした。さきほどのカップルはこちらにつづいて店を出てきてうしろにいたが、じぶんが車の来ない道路を渡ったあとそのまま対岸を行き、とちゅうで裏路地に曲がって消えた(最寄り駅に向かうときにいつも入る道だ)。とくだんに目や耳にとまったものがあるわけではないが、足取りはゆったりしており、呼吸をするだけですこしきもちが良いような感じがあった。交番の角で曲がってアパートのほうへ。まえまで来て見上げるとふたつ隣の部屋から明かりがもれていて、窓のまえに黒い影があるのでなにか服をそこにかけているらしく、だからやはり住んでいるのだけれど、このふたつ隣の部屋の人物を目撃したことはないし、明確にそれとわかる気配も感じたことがない。
  • 帰宅後は夕食。温野菜に納豆ご飯にバーガーも食う。食後のことはよくおぼえていないのだが、日記を書きたかったのにまたいつの間にか椅子のうえで意識を失っていたのだったか? それか寝床にうつったあとだったかもしれないが、いずれにしても半端なことになり、二時くらいでもう就寝したはず。