2023/2/28, Tue.

 ギリシアの彫刻は、エジプト的な重い素朴さからしだいに軽やかな繊細さへと発展してゆくが、少なくとも紀元前四世紀にいたるまでは、個人を表現しようとはいささかも試みていない。つねに運動選手とか英雄とか神々を表現しようとしているのである。なぜだろうか。(end14)
 それは、ギリシアの芸術家たちがつねに理想を表現しようとしたからである。彼らはつねに普遍的なもの、形相的なもの、法則的なもの、理念的なものを追求している。芸術の課題は、可能なかぎり最高の美を表現することだ。もし、個々の人間が不完全なもの、劣ったもの、醜いものであるならば(もちろん、現実の人間は多かれ少なかれそういう者であるわけだが)、彼らは表現されるに値しないのである。これが、ギリシアの彫像が理想的な美のみを追求し、個人の個体的特徴に注目しない理由である。
 ギリシアの彫像は美しいが、すべて同じ表情をしている。ここには、不完全なものはいわば存在の資格において劣っているという感覚がある。この感覚にもとづけば、個体はいかなるものでもそれ自体において価値があるという思想は生まれないだろう。
 (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、14~15)




  • Steven Rosenberg, “Ukraine invasion: Would Putin press the nuclear button?”(2022/2/28)(https://www.bbc.com/news/world-europe-60551140(https://www.bbc.com/news/world-europe-60551140))。このひとはBBCのモスクワ特派員。いままで、かれのようなプロのジャーナリストでも、いくらなんでもそんなことはしないだろう、とおもうことをプーチンはことごとくやってきたと。記事中、すさまじいとしかいえないプーチンの過去の発言が引かれている(二〇一八年のドキュメンタリー中のコメントだという)。"…if someone decides to annihilate Russia, we have the legal right to respond. Yes, it will be a catastrophe for humanity and for the world. But I'm a citizen of Russia and its head of state. Why do we need a world without Russia in it?”である。「……もし何者かがロシアを壊滅させると決断したときには、われわれにはそれに応ずる合法的な権利がある。もちろん、それは人類や世界にとって破滅的な大惨事となるだろう。だが、わたしはロシアの市民であり、さらには国家の長である。ロシアが存在しない世界など、必要あるだろうか?」というかんじだ。さくねんのノーベル平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフも、「かれは何度もこう言ってきた。もしロシアがそこにないなら、地球など必要だろうか? と」と述べている。

"Putin's words sound like a direct threat of nuclear war," believes Nobel Peace Prize laureate Dmitry Muratov, chief editor of the Novaya Gazeta newspaper.

"In that TV address, Putin wasn't acting like the master of the Kremlin, but the master of the planet; in the same way the owner of a flash car shows off by twirling his keyring round his finger, Putin was twirling the nuclear button. He's said many times: if there is no Russia, why do we need the planet? No one paid any attention. But this is a threat that if Russia isn't treated as he wants, then everything will be destroyed."

In a 2018 documentary, President Putin commented that "…if someone decides to annihilate Russia, we have the legal right to respond. Yes, it will be a catastrophe for humanity and for the world. But I'm a citizen of Russia and its head of state. Why do we need a world without Russia in it?”

  • Moscow-based defence analystのPavel Felgenhauerによれば、ロシアの経済が崩壊すればプーチンにのこされた選択肢はすくなく、ひとつはヨーロッパへの天然ガス供給を停めること、もうひとつがイギリスとデンマークのあいだの北海あたりで核兵器を爆発させ、どうなるかみることだという。

"One option for him is to cut gas supplies to Europe, hoping that will make the Europeans climb down. Another option is to explode a nuclear weapon somewhere over the North Sea between Britain and Denmark and see what happens.”

  • もしプーチンがマジで核兵器をもちいると決めたとしても、それをとめるにんげんはまわりにいないだろうといわれている。

If Vladimir Putin did choose a nuclear option, would anyone in his close circle try to dissuade him? Or stop him?

"Russia's political elites are never with the people," says Nobel laureate Dmitry Muratov. "They always take the side of the ruler."

And in Vladimir Putin's Russia the ruler is all-powerful. This is a country with few checks and balances; it's the Kremlin that calls the shots.

"No one is ready to stand up to Putin," says Pavel Felgenhauer. "We're in a dangerous spot."

  • Yuval Noah Harari, “Why Vladimir Putin has already lost this war”(2022/2/28; 06:00 GMT)(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/feb/28/vladimir-putin-war-russia-ukraine(https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/feb/28/vladimir-putin-war-russia-ukraine))も読んだ。これはしょうじきそんなになんかなあという内容だった。プーチンは戦闘に勝ってウクライナを征服することはできるだろうが、戦争には負ける、つまりロシア帝国を再興するというかれのゆめを達成することはできないだろうと。なぜなら、そのゆめはつねにかわらず、ウクライナという国家は実質的には存在せず、ウクライナ人というひとびとも存在しないという謬言にもとづいているからだと。ところが今次の戦争でウクライナのひとびとはこれいじょうなくウクライナ人であることを示し、プーチンの虚言を反証した。ロシアにたいする憎しみはウクライナにおいて世代を経てつたえられていくだろうし、また、民族というものは物語にもとづいて形成されるものだが、今後何十年も語りつたえられるような物語がすでにたくさん生まれている(ゼレンスキーがWe need ammunition, not a rideといってアメリカの避難提案をしりぞけたことや、ロシア軍に降伏を勧告されながら”go fuck yourself”といいはなって死んでいったSnake Islandの兵士たちや(ちなみに、この兵士たちは戦死したとおもわれていたのだが、その後どうも生きていることが判明した、という報道もあった)、ロシア軍の戦車列に生身でむかっていって止めようとした男性のおこないなど)。したがってウクライナ民族は今後、ロシアへの反抗という要素においてみずからのアイデンティティを定義することになるだろうし、そのかぎりにおいてプーチン=ロシアはかれらを征服することはできても、hold(掌握する、くらいに訳せばいいのか? 人民にみずからの支配権をみとめさせてその領域を名実ともに所有する、というかんじだとおもうが)することは決してできないと。言っていることはそのとおりだとはおもう。

China has “very clearly” taken Russia’s side and has been “anything but an honest broker” in efforts to bring peace to Ukraine, US department of state spokesperson Ned Price said at a news briefing on Monday. China has provided Russia with “diplomatic support, political support, with economic support, with rhetorical support,” he added.

Russia has given a lukewarm response to a Chinese peace plan to end the war in Ukraine but said it was paying “a great deal of attention” to the detail. Kremlin spokesperson Dmitry Peskov said any initiatives that might bring peace closer were worthy of attention and Beijing’s voice should be heard, but the nuances of the proposal are important and, for now, he didn’t see any signs suggesting a peaceful resolution could be achieved. “Any attempt to formulate theses for reaching a peaceful settlement of the problem is welcome, but, of course, the nuances are important,” Peskov told the Izvestia daily.

Russia will not resume participation in the Start nuclear arms reduction treaty with the US until Washington listens to Moscow’s position, Kremlin spokesperson Dmitry Peskov said in remarks published on Tuesday. Russian president Vladimir Putin last week announced Russia’s decision to suspend participation in the latest Start treaty, after accusing the west of being directly involved in attempts to strike its strategic airbases. Peskov told the daily Izvestia in an interview that the “attitude of the collective west”, led by the US needs to change towards Moscow. “The security of one country cannot be ensured at the expense of the security of another,” Peskov said.

Alexander Lukashenko, the president of Belarus, is due to visit Beijing on Tuesday for a meeting with China’s president Xi Jinping, in a high-profile trip symbolising the widening gulf between the US and China over the war in Ukraine. Xi’s meeting with Lukashenko, a close ally of Putin, is seen internationally as a sign of where Beijing’s sympathies lie.

     *

Poland has announced a joint initiative with the European Commission to trace Ukrainian children who have been abducted and taken to Russia during the ongoing war in Ukraine. The aim of the scheme is to track down the missing children and to “ensure those responsible are brought to justice”, Poland’s EU affairs minister Szymon Szynkowski vel Sęk said. “We need to return the abducted children to Ukraine and punish Russia for its crimes,” Shmyhal said.

A Ukrainian Nobel peace laureate has called for the swift creation of a special tribunal to try Vladimir Putin and his associates for the crime of aggression, Oleksandra Matviichuk, the head of the Centre for Civil Liberties, told the Guardian that a speedy start to war crimes trials against the Russian president and soldiers it could have “a cooling effect” on atrocities committed by the Kremlin’s invading forces.

  • 米国はバイデンが中国の和平仲介は明確に拒否し、国務省報道官もうえのように言っているわけだが、まだ当該記事を読んでいないものの、ゼレンスキーは中国の和平案にたいして警戒しながらも歓迎の意を表明したようだ。
  • 時刻を確認したのは八時五〇分ごろ。それいぜんに覚めてあいまいな時間がいくらかつづいた。窓外から聞こえる保育園のやりとりの数からして、たぶん九時くらいか? とおもっていた。天気は晴れとわかるあかるさ。たいそうひさしぶりに夢を記憶していたのだが、記憶していたといって覚めた時点でのこっていたのはほんのすこしで、ブログを読んでくれているひとからメールをもらったというもので、そのなかで、詳細な文言をわすれたが、いつもおなじことばかりくりかえし書いているじゃないか、興味の幅がせまいみたいな、そういう苦言がふくまれていた。この匿名的な読者はそれいぜんにもいちどメールを送ってくれており、そのさいしょの一通では好意的なことを書いていたようなのだが、のちに来た二通目ではそのように一転してがっかりしたみたいなトーンになっていた、という主旨。
  • しばらく過ごして九時過ぎに起き上がった。きのう、緊張をほどいて心身をリラックスさせるには腕を振るのがよい、というか反対で、腕や肩まわりがかたくなっているとからだが緊張していやな感じになるということを再認識したけれど、とくに上腕部がそれに寄与しているような気がした。あとは肘関節もそうかもしれないが、とりわけ上腕が鈍くなっていやすい気がして、きのうは出勤路や行き帰りの電車内などでよく揉んでいたのだが(いぜんもあるきながらときどき揉んでいたが)、それで起きたときから腕の感触は比較的やわらかかった。水を飲み、腕振り体操をさっそくいくらかやる。洗濯はまだ。ながしにはさくばん放置した洗い物ものこっていたが、起き抜けだとさすがにまだ手が冷たいのでそれも洗わず布団にもどり、Chromebookでウェブをみたり一年前の記事を読んだりした。あとGuardianも。ベラルーシのルカシェンコがきょう訪中して会談するというはなしだし、戦争開始から一年を経て中国が本格的にうごきだしているのかな、というような印象。
  • 最終的な離床は一〇時二〇分ごろ。窓ガラスを開けて座布団二枚をそとへ。掛け布団を足もとのほうに寄せてたたみ、枕とクッションがわりにしている(臥位で本を読んだりウェブをみたりするときに、胸のうえに置いて腕とのあいだにはさみ支えにしている)旧枕もそちらにうつして、敷布団をたたみあげる。寝間着からジャージにきがえて、洗濯の準備。すくないのでいま着ているダウンジャケットも洗うことに。薄水色のやつ。かわりにダウンベストをはおる。しかしきょうはさほど空気が冷たくない。四時半現在だと画面左下の天気情報が18℃を表示しているがほんとうにそんなに高いのか。洗濯をはじめさせ、洗い物も始末し、煮込みうどんがまだたくさんのこっている鍋に火を入れる。とうぜんながら麺が汁気を吸って鍋のなかは粘りを帯びてやや停滞したような感じになっている。水を少々足してほどいておき、弱火で加熱するあいだは腕を振って待つ。一食目はこのうどんだけで、麺を三袋分ぜんぶつかったからたくさんのこっていたが、賞味期限を一〇日も過ぎていたわけだしさっさと食ってしまったほうがよいだろうとおもい、三杯分をぜんぶかたづけた。きのうは飲みこんだあと、味の奥にやはりどことなく酸味っぽさがほんのかすかなごるような気がして、腹に大丈夫かなというのも気になってあまりニュートラルに食べられなかったが、きょう食ってみればふつうにそこそこうまい。きのうはやはり胃がたしょう弱っていたのではないか。それで平らげると鍋は水をそそいで漬けておき、洗濯物を干す。干してまもなくは風がぜんぜんないなと、レースのカーテンの向こうに透ける影がまったく揺れないなとおだやかな昼にみえたのだが、その後三時くらいからけっこう吹く時間もあった。
  • 食後は椅子についてパソコンのまえで足首をまわしたりしながらしばらく過ごし、なぜかギターが弾きたかったので、そのうち弾きはじめた。ちょっといじってから録音。れいによってAブルースをてきとうに。腕振り体操をやって腕や肩まわりがほぐれており、手先もそこそこあたたまっているので、ゆびがけっこううごかしやすい。なんというか統率的にうごく。それでもふつうに多くミスるが。ブルースをつづけるけれどいつものことでいったいどこで終わればよいのかわからず、このままなんとか終わるかそれとも似非インプロに移行するかとまよっているうちに後者にながれて、さいしょのうちは煮えきらなかったがとちゅうからけっこううまく行ったような気がした。さいごはまたAにもどり、その後なぜか最終的にEで終わった。二五分。録ったあとも興が乗ってそのままけっこうひきつづけて、また似非インプロをやっていたのだけれど、録らなかったこっちのほうがうまくいく瞬間がおおかったような気がする。
  • ギターを集中して弾いているときのじぶんは姿勢がわるく、まえかがみになって首もたぶんかたむいているのだが、それはおそらく無意識に耳とあたまを指板にちかづけて、音をよく聞くとともにポジションおよびゆびのうごきのイメージをよくつかもうというはたらきがあるのだとおもう。それで弾いたあとはとうぜんからだがこごっていて疲れる。ギターをしまうと背伸びしたり開脚したり腕を振ったりして、そのまま寝床にうつって書見。小野紀明『政治思想史と理論のあいだ 「他者」をめぐる対話』(岩波現代文庫、二〇二二年)。ハンナ・アーレントのはなし。アーレントってやはりかなり重要な学者だというか、哲学者なのだけれどじつに地に足ついた哲学者だというか、永続的なゆいいつの真理を観念論的にもとめるのではなくて、政治というのは複数性の場であって、複数性としてあるにんげん同士が対話によってその都度事実的な真理をつくりあげていくのが政治という実践的営みであるというはなしだとおもうのだけれど、こうしてまとめてしまうとめちゃくちゃふつうのあたりまえな、つまらない見解にもおもえてしまうが、さすが哲学者でそういうとらえかたを構築するための分析とか人間存在の掘り下げとかが犀利で、この本ではアーレントじしんの文はもちろんそう多くは紹介されていないが、それらを読んでみても哲学者らしくほかの章で出てきたひとびとの所論よりももっと根本的なところから政治という営みをかんがえようとしている印象を受けるもので、やっぱりどうもものがちがうなと、読まねばならんなとおもった。ちくま学芸文庫の『革命について』はそうとうむかしにたしかブックオフで買ったボロいやつを持っており、あとは『責任と判断』と、もうひとつ『政治の約束』だっけ? ちくま学芸で出ている文庫本を持っていて、『責任と判断』のほうはむかし読んだ。もういちど読みたい。あとはやはり『全体主義の起源』をさっさと読みたい。この本の文もすこしだけ引用されているのだが、いわく全体主義現象に巻きこまれたにんげんは根無し草の、見捨てられた存在としてあると。というのはどういうことかというと、端的に他者が不在だということで、つうじょうにんげんは世界のなかに他者と共同的に住まう存在としてあり、孤独状態にあってもそれは変わらず、むしろ孤独というのはそもそも他者とともにある共同存在であることを前提としながらそこからの一派生態としてあるものだが、孤立感はそれとはちがい、そこでは他者や世界が喪失されている。それと同時にじぶんじしんのアイデンティティも喪失されるのだが、そもそも私が私であるということも、意識内に「他者」や「世界」が注入されていることと不可分であるからだ。みずからのアイデンティティがどのようにつくられるかというと、まずもって他者からの承認が必要なのだが、他者によって承認されるのはあくまでも社会的な役割に過ぎず、そこにはつねに回収されきらない、取りこぼされるぶぶんがのこる。その両者の結合がアイデンティティであり、他者は社会的役割としてのわたしを承認することで、同時に回収されきらないぶぶんをも(それがあるということを?)承認している。だから自我にはこのようなあるとないの両義性(この文章を書いているじぶんはたとえば、塾講師であるじぶんと塾講師でないじぶんとの結合態である)が、内部分裂や「内的距離」が不可避的にそなわっているのだが、これを拒否するというのはその分裂のよってきたるもとである他者を否定するのと同様であり、「全き全体性としての私」(184)をもとめることにつながる。ところで思考というのもまた他者の存在を要請し、根本的に他者との対話としてあるものである(たとえひとりで孤独にかんがえていたとしても)。そして世界内存在として生きるにんげんにとって世界の実在性を保証するのは、他者とのあいだでその都度共有される蓋然的な真理であり、哲学者のおいもとめる絶対的な真理はむしろ世界の外部からの視点に依拠しなければならず、それは世界喪失にひとしい。「結局、古代ギリシアに誕生した哲学的思考とそれが近代的に変容した科学・技術的理性という観想的態度が、必然的に「他者」を要請する実践的態度を貶しめ排除したという西洋精神史の趨勢にこそ、問題の根源が見出されるべきなのである」(186)と。この直後にひかれたアーレントの文のなかには、「大衆がひたすら現実を逃れ、矛盾のない虚構の世界を憑かれたように求めるのは、混沌とした偶然が壊滅的な破局の形で支配するようになったこの世界にいたたまれなくなった彼らの故郷喪失の故である。しかしそれと同時に、隙間のない首尾一貫性を求めるこの憧れの中には、本質的に人間のものである悟性の能力――それがある故に人間が単なる出来事より立ち勝っている能力、つまり出来事を混沌とした偶然的な条件から救い出して、人間の理解や制御を可能にする相対的に統一ある道筋をつけることのできる能力――が現れてもいる」(186~187)という説明がみえ、また、引用後のはじまりで筆者は、「にもかかわらず、工作人(homo faber)である近代人は、常に曖昧で両義的たらざるをえない蓋然的真理に飽きたらず、論理的首尾一貫性を求めてますます観想的能力に頼ろうとするであろう」(187)と解説をつづけている。そこに「世界の確実性を保証するかに見えるイデオロギーという「氷のような論理」が忍び込」み、あいまいさに耐えられないひとびとはそれと同化することで安心を得、またいっぽうでは「テロルという「鉄の檻」」のちからをもって連帯が強制されることで全体主義が構築されるというわけだが、はなしとしてはエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』をかさなるぶぶんもおそらくあるのだろう(めちゃくちゃむかしに読んだのでもう内容をおぼえていないが)。アトム化した個人が他者と共同世界を喪失し、その不安からのがれて安心するために首尾一貫した(そのひとにとっては首尾一貫して見え、世界の(それこそ)「真理」を説明してくれるようにおもえる)言説をもとめそれと同化するというのは、あきらかに現在も通用する分析で、要は陰謀論者とかはこのようなかたちでそうなったひともおおいだろう。したがって陰謀論はすくなくとも一面では承認の、あるいは実存的問題であり、だからこそ陰謀論者は過激化する。じぶんの存在、じぶんのアイデンティティがそこにかかっているからであり、陰謀論的にんげんは合理的な反論を受けたとしても聞き入れようとせずむしろ反発をつよめることがままあるとおもうのだが(現実にそういうにんげんと出会ったことがないのだが)、それはかれらにとって陰謀論が実存的問題だからだろう。「論」や「意見」や「言説」ではなく、みずからの存在の一部としてそれがあるからではないか。だからみずからの抱いている認識に反論を向けられた陰謀論者は、たんに「反論」を受けたのだとはかんじず、じぶんの存在じたいが「攻撃」されたと感じるだろう。そこに「信仰」との差はほぼ見受けられないようにおもえる。ある言説があるひとにとって「信仰」であるか否かは、程度の差はあれそのひとのアイデンティティがその言説と一体化しているかどうかが尺度になるのではないか。ところでうえのアーレントの所説は、物語論とのからみでもかんがえることができるはずだ。「現実を逃れ、矛盾のない虚構の世界」などというあからさまなことばもみられるけれど、より注目すべきは、「隙間のない首尾一貫性を求めるこの憧れ」だとおもう。「隙間のない首尾一貫性」というのが、もっとも経済的な、いわば効率のよいかたちでの「物語」の特質だからだ。いわゆる「物語」と呼ばれるようなものごとの整序的構築のありかたでは、すべてのぶぶんはなんらかの役割をもち、あるいはほかのぶぶんと有意味なかたちでつながっており、もろもろの対応関係を内部に張り巡らしつつ、全体としては矛盾や余剰がない状態で統合され、したがってなによりも完結している。完結しているというのはたんに終わりがあるということだけではなく、構造的に均整が取れて欠如がなく、まさしく首尾一貫しているということだ。だからそこに「物語」じたいにとって不必要なものは(理想的には)なにもふくまれておらず、ノイズや夾雑物はあらかじめ排除されている。理想的な「物語」にはまさに「他者」がない。そして、「悟性の能力」にもとづいた「哲学的思考」や、「それが近代的に変容した科学・技術的理性という観想的態度」のもとめる「絶対的真理」(186)とは、「理想的な「物語」」の別名とかんがえてもよいだろう。だからアーレントの論はあきらかに近代批判だというか、あるいはすくなくとも西洋の蓄積してきた精神性をその一面において批判するものだとおもうのだけれど、『啓蒙の弁証法』もこういうはなしをしているのだろうか?
  • 二時半くらいに立って、二食目は温野菜に納豆ご飯、バナナにヨーグルトと回帰した。食後しばらく過ごし、洗濯物を入れてたたんだのが三時四〇分あたり。きょうはほんとうはヤクの残りがすくなくなってきているので医者に行こうとおもっていたのだが、ギターを弾いたりしてなんかもう遅くなってしまったし、億劫なのでいいかなとなって、ただしつぎ午後に診療しているのは金曜日なので、薬の量としてはわりとギリギリになる。不測の事態にそなえてきょう行っておくべきだったのだがしかたがない。またいっぽう、(……)さんがさいきん面談なども多いからいそがしいようで三月シフトがまだ送られておらず、きのうの授業後にこれからやってきょうじゅうに配信したいとおもうんですけど、と言っていたけれどけっきょく果たせなかったようで、金曜日に勤務がはいっていると行きづらいなというあたまがあったのだが、きのう職場のパソコンで見たかぎりではじぶんの勤務日ではなさそうだった。とはいえ事務しごとで呼ばれる可能性もないではない。それでシフトを待っているとじきにメールが来ていたので確認し、金曜日は休みだったのでOK。毎年そうだが、受験を終えた中学生がここでほとんど辞めてしまうので、三月というのは一年でいちばんしごとのすくない月で、はやい時間だと生徒ひとりこちらひとりしか教室におらず、空間をぜいたくにつかってかんぜんにマンツーマンで気楽にやるという、春の遅い午後のあのおだやかな時間がじぶんはけっこう好きだったが、そういうわけできのうも(……)さんに、週3はちょっと……週2……ならなんとか、といわれて(体調がもうかなりよくなったので、週3ペースにもどしてもらうよう要望しつつ、しかし授業需要がおおきく減るという事情はもちろん知っているので、週3はいれなくても問題ないとつたえてあった)、いやそう、そりゃそうでしょ、と笑い、ぜんぜん大丈夫ですよ、休みが増える分には問題ないんでと破顔したのだった。しかしいまあらためて確認してみると、いちにち一時限の日も多くありつつも、いちおう週三日はたらくかたちにはなっていた。ともかくそれで金曜は医者に行けるということがさだまったけれど、ぐうぜん臨時休診の日にあたっていたら終わるので、(……)にも電話して確認。つうじょうどおりやっているかと聞くと午前も午後もつうじょうどおりだと返ったので(ただし翌日の土曜日は休みになっているので注意してくださいと付言してくれた)、金曜日の午後にヤクを入手しに行く。またいっぽうで二時くらいにSMSがはいっており、たぶん母親かなとおもってみるとそうで、花粉症大丈夫かとか書かれてあったが、医者の予定が確定したあとに、金曜に医者に行くのでそのついでに帰るかもしれないと送っておいた。たださきほどシフトを確認したところでは翌土曜日に勤務がはいっていて、そうするとめんどうくさい気もする。しかしひさしぶりに実家からあるいて出勤するということにもこころは惹かれる。
  • 四時くらいからきょうの日記を書き出して、打鍵しているうちにやはり両肩がもやもやしてくるというかしびしびしてくるというか、おちつかない感じで鈍くなるので、そうなると立って布団のうえの座布団に乗って前後に腕を振る。しばらくやっているとまさしく瘧が落ちるように(という使い方で合っているのか? とおもい、そもそも瘧ってなんやねんと検索してみると熱病のことで、主にマラリアの一種を指したとあったのでこれは誤用だ)肩の付近がほわーっと軽く、気体をはらんでふくらんだようになってくるので、それで楽になると椅子にもどってまた文を書く。なんどかその往復をしていまここまででもう七時になってしまった。
  • シフトを確認したら週3だったというのはまちがいで、誤ってすでに済んだ二月のシフトをみていたのだった。三月はふつうに週休五日制が実現している。しかも一コマだけの日も多い。すばらしい。しかしまたわすれていたが、四日の土曜日というのは(……)くんにさそわれて『BLUE GIANT』の映画を見に行く日だ。となるとわざわざ実家から出向くのはやはりめんどうでもある。
  • 七時のあとは寝床に逃げて(……)さんのブログを読みながらごろごろし、しばらくしてから起き上がってみると母親からSMSの追信が来ていて、寒いから電気代高いでしょ、うちもふたりなのに高くてびっくりした! とあったので、くらしweb TEPCOにアクセスしてみてみるとたしかに高い。エアコンつかわざるを得ないからねと返しておき、ついでに職場というか本社から来ていたアンケート依頼がきょうまでだったことをおもいだしたので、メールに記されたURLをポチポチパソコンのブラウザに打ち込み、アンケートに回答した。それでいま八時二四分。そろそろ夕食を食べよう。ながしの洗い物というかうどんの鍋は寝床に逃げるまえにかたづけて、そのさい米もあたらしく炊きはじめておいたのでもう炊けている。
  • 夕食は温野菜とレトルトのスープカレーと、あと肉まんも食ってしまった。そしてヨーグルト。夕食ののちはたぶん一〇時すぎくらいから書きものをはじめた。二〇日いこうはめんどうなのでもう手帳のメモをうつしてお茶を濁そうかとおもっていたのだが、メモをみてみれば意外と記す気になる。それで二〇日の往路のことをひとまず書き、しかしどちらかといえばきのうの帰路のことをさきに書いてしまいたかったのでそちらに移行。これに時間がかかって午前一時を超えることとなり、きょうはかなりよく書いたなという印象。さすがに疲れた感もあるが、またときおり立って腕を振っていたので身と肌は比較的やわらかい。前後だけでなく、左右にやるのもよい。深夜だがシャワーを浴びて出てきていまもう二時。髭を剃りたかったがこの時間になるとさすがにめんどうくさい。また、きのうの往路のことも書いてしまいたかったが果たせず。二〇日もまだ往路を書いただけでぜんぜん仕上がっていない。


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  • 日記読み: 2022/2/28, Mon.