2023/3/4, Sat.

 それでは、何が人間の本来的自己なのか。それは魂(プシューケー)である。それゆえ、「幸福とは魂がその優秀性に即して活動することである」。
 ただし、アリストテレスが「人間の魂の活動」と言うとき、それは、栄養生殖機能、運動機能、感覚機能、思考活動のすべてを包含する「人間の生の全体的な活動」を言っている。これらの諸機能は、最上位に理性活動があって全体を統括し、以下、感覚機能、運動機能、栄養生殖機能の順に階層的構造をなしているが、全体的な調和の中でそれぞれの機能が十全に己のはたらきを発揮しているときに、人間は幸福なのである。このことを構造的に言いなおせば以下のようになる。
 人間は理性的な部分と非理性的な部分とから成るが、非理性的な部分は基礎的な部分ではあるが、植物や動物の機能とも共通する部分であるから、優れて人間的な部分とはいえず、(end76)理性的な部分こそが人間を人間であらしめている部分である。したがって、欲望や衝動などの非理性的な起動力を理性がしっかりと統御して全体が調和的に活動しているとき、人間は幸福なのであり、この状態が有徳といわれる状態にほかならない。
 (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、76~77)




  • 一年前から。天気や気候。

九時四五分ごろにたしかな覚醒。カーテンをあけて顔にひかりを浴びながら息をゆっくり吐いてからだをやわらげる。空には雲が希薄ながらもこもこと湧きかえって青味もあまりあらわでないのだが、そのわりに陽射しはつよく、冬をかんぜんに抜けた厚さで頬に寄せ、ひさしくかんじることのなかったじりじりという質感をやどす。しかし一〇時半ごろおきあがって布団を出ると、部屋内の空気はおもったよりも冷たかった。のちに皿を洗ったときの水のつめたさも手にすこしつよかった。

  • ニュース。

(……)新聞をみてウクライナ情勢を追う。ヘルソンが落ちたらしい。市庁舎にロシア軍が押し入って、軍事駐留するみこみと。ヘルソンはドニエプル川に面しており、クリミア方面に水を供給するための枢要地らしい。ロシアは海に面した南部を取ってウクライナ内陸国化したいのだろうという。またハリコフなどでも市街地への砲撃がつづけられており、東南部マリウポリから北方のハリコフへ支配域をつなぎたいという意図もみえると。ロシアとウクライナの二度目の停戦協議がおこなわれたわけだが、テレビのニュースでちょうどながれたところではおおきな成果はない。北京パラリンピックがきょう開催するおり、IPC(国債パラリンピック委員会)はロシアとベラルーシの選手について個人資格での参加を容認していたところ、選手や関係者から多数の抗議反対が出て方針を一転し、参加をみとめないことにしたという。反対が噴出してロシア選手が参加するなら参加をとりやめるという声もあり、開催じたいがあやぶまれたこと、また選手村の様相も悪化しており安全が確保できないということを考慮したと。

三面には国連総会緊急会合での非難決議がとりあげられていた。きのうすでにつたえられていたが、賛成は一四一、反対五、棄権三五。意外と棄権がおおいなという印象だが、二〇一四年クリミアのときには賛成一〇〇で棄権は五八だったかそのくらいだったから、主導提案国にとっては予想外に賛成が増えた結果で、ロシアの孤立をきわだたせることができたと。中国、インドとも棄権にまわっており(中国はそうしながらも、決議はこの件の歴史的事情の複雑さを考慮していないというロシア寄りの声明を出した)、反対したのはロシア、ベラルーシ北朝鮮エリトリア、シリア。エリトリアってぜんぜん知らなくて、エチオピアらへんの国だったか? というおぼろげな記憶しかなかったのだが、Wikipediaをみてみると共産主義一党独裁国家だという。「1960年から1991年までの30年間エチオピアからの独立戦争を経て、エリトリア解放戦線から一部左派が1970年に分派結成したエリトリア人民解放戦線(EPLF、1994年以降に民主正義人民戦線に改組)を率いたイサイアス・アフェウェルキが大統領に就任し、マルクス主義共産主義的政策に基づく政治を行っている[4]。2001年に政府要人の半分が逮捕された際、2017年時点でも所在すら分かっていない[5]。2021年時点でもマルクス主義の影響を受けて、一党独裁を維持している共産主義社会主義国の一つである[4]。大学(唯一の大学であった国立アスマラ大学は閉鎖後に軍傘下教育機関らへ改組。軍管轄のカレッジらは設立)・野党、独立した報道機関が存在しない一党独裁国家であり、一般国民は18歳になると政府支配下の農民か兵士を含む低賃金又は無賃労働の奴隷的公務員となることが55歳(2019年時点平均寿命66.32歳[6])まで義務付けられている」、「国連や国際NGOなどから深刻な人権侵害・圧政ぶりから「アフリカの北朝鮮」と例えられる」とのこと。

国際面には韓国大統領選(九日に投票)で野党候補のふたり、尹錫悦 [ユン・ソクヨル] と安哲秀 [アン・チョルス] が合流して統一候補を立てることで合意したと。もともとそういううごきは出ながらもみのらずいたわけだが、投票直前のここでようやく決まった。直近の世論調査で李在明の支持率がたかく、これじゃあやばいとなったらしい。さいしょに安哲秀の側が尹側に提案したのを蹴っていたところ、尹錫悦は支持者から統一するようおおきな圧力をかけられて、再度交渉して合意にいたるチャンスをうかがっていたらしい。安の側も支持率は一〇パーセント程度でしかなく、大統領選をさいごまでたたかい抜いても当選する確率はまずないし、それだったら統一して党も合同し、尹が勝ったあとにポストをもらうという線をもとめたほうがのちの政治キャリアにとってもよい、という判断があるようだ。

テレビのニュースでみた情報をひとつおもいだしたが、ウクライナ内にある(たしか東南部といっていたか?)なんとかいう欧州最大級の原発が攻撃されたらしい。現状安全性は心配ない、安定しているという発表がいちおうはあったもよう。

ベッドにころがり、書見。トーマス・マン高橋義孝訳『魔の山』(新潮文庫、一九六九年)上巻である。六九年の訳なのでとうぜんだが、やはりはしばしに古いことばの感覚はある。「ちんば」(100)ということばが出てきたのには、この語をみるのがひさしぶりすぎてかえって新鮮な感すらあった。いまだったら「びっこ」というだろうし、いまだったらというかこちらがこどものころとかは「びっこ」といっていたのだけれど(母親がときどき口にしていたおぼえがある)、「びっこ」ももうたぶんふつうに差別語になっているのだろうから、いまはどちらもつかわれないのだろう。あとこれはきのう読んだ範囲だが、ハンス・カストルプはべつに肺をわるくしているわけではなく(そもそも葉巻や煙草が大好きで施設についてからも吸っていた)、いとこのヨーアヒム・ツィームセンを見舞うという名目でアルプスにやってきたのだった。その点はいちばんはじめの段落から、「三週間の予定で人を訪ねようというのである」(12)と明言されていた。だからほんにんはじぶんはこのサナトリウムに長期滞在するべき患者だとはおもっていない。ただ、エンジニアの試験に合格して造船所の実習生としてはたらきはじめようというところで、それまでの努力のために「疲労しすぎているような様子」(78)となり、医者から転地療養をすすめられたおり、ちょうどいとこがサナトリウムで退屈しているから見舞いと保養をかねてそこにいくのがいいだろう、ということの次第だった。とはいえハンス・カストルプじしんもこの施設にやってきてからやたらと顔が火照るということをうったえ、異常なことに(かれはマリア・マンツィーニという葉巻がお気に入りでそれをまいにち吸わなければ気がすまないくらいの愛好家であり、この旅にも「二百本鞄に入れて持ってきた」(30)というのだが)葉巻もうまくない、味がしないといっており、あきらかにふだんとはちがった体調になっていることがみうけられるので、これからじっさいに病人になっていくのかもしれないが。

  • 描写について。

いま帰宅後で、自室で夕食を食べ終わったところの一一時。(……)さんのブログを読みながら食っていたが、さいしんの三月三日の記事中に、一年前から古井由吉(『山躁賦』)の文章についての分析があっておもしろかった。とくに現在相での風景描写につかわれる単純過去について述べたつぎのくだり。

通常であれば単純過去を使用しない箇所を単純過去で押し切る場面はかなり目立つ。これもまたマークの抹消であり、記述群のたやすい階層づけを拒み、フラットな自失を呼び寄せるための罠であるのだろうが、たとえば、作中の現在にあたる相で、語り手の目の前にある風景が描写されているくだり、そのなかであきらかに現在形を使うべき一文に過去形があてがわれているようなことがたびたびある。具体例を挙げると、以下のくだり。夜、ホテルの食堂の窓から「燈が集まってい」る山をながめている現在の相にあたる場面。

 高山なら天狗のお庭とか踊り場とか呼ばれる、台状の地形らしいところに、整然と五列ほどに並んで、揺らぎもしなければ顫えもせず、人工のものには違いないが、しかしどこか人離れした、闇からじかに生まれた表情で光り、さらに西のほう、湖岸とは反対側へ、枝尾根らしいのを伝って、ようやく列を乱してずり落ち、くだるにつれ数を増すかと思えば逆にまばらになり、やがて転々と散って谷陰に溺れた。そのむこうのまた一面闇のはるか遠く、霧のこめた宙へ目を凝らすと、地の底から鈍く昇る赤い発光のように、平かな、燈のひろがりが浮んだ。

長い一文目の最後が「溺れた」と過去形になっているのはおかしい。通常であれば「溺れている」と現在形にするだろう。たとえばこのくだりが、燈の移動を長時間にわたって観察している場面として描かれているのであれば、「溺れた」となっていても不自然ではない。しかしこのくだりはあくまでも語り手が窓越しに夜の山をながめた、決して長くはない時間、というよりほとんど無時間的な空間の静物的描写として置かれている。そうであれば、「溺れた」という過去形を使用しているのはおかしいし、もっといえば「ようやく」はまだレトリックの範疇として理解できるものの「やがて」もかなりあやしいということになる。しかし古井由吉はそこをあえて単純過去「溺れた」で押し切る。これによってもともと静物的な風景描写に使用するには特徴的な「溺れた」「浮かんだ」という動詞が、その動詞性をさらにきわだたせることになる(「動き」の発生)。動詞的に処理された描写は、過去と現在が交錯し現実と幻視が交錯する文章のフラットな羅列のなかに置かれると、単なるレトリックであることをやめて、(制度的静物的)描写であることから逸脱し、それ自体がある匿名的な経験——権利上「幻視」や「引用」に等しいもの——として浮遊しはじめる。

それにしても(……)さんもよくもまあこんなこまかいところにひっかかるなというか、これはかんぜんに読むにんげんのひっかかりかたではなくて文を書くにんげんのそれだよなとおもうのだけれど、動感がでるというのはそのとおりで、古井由吉のこのやりかたが、じぶんはけっこう感覚としてわかるような気がする。じぶんもたまにこういうことをやっているんじゃないかと。ありていにいえば、こういう「やがて」を、じぶんはつかいそうだなとおもったし、じっさい過去につかったことがあったような気もする(そのとき文を単純過去で締めたかどうかはわからないが)。というか(……)さんのこのはなしを読んではじめて気づいたのだが、じぶんは「やがて」を空間性の描写にもちいることにいままで違和感をもっていなかった。しかしいわれてみれば、たしかにそれはほんらい時間的経過にもちいる語なのだ。この引用部を読んだかぎりでは、ここでは空間配置がそのまま時間化されている、時間に変換されているという印象をおぼえる。じぶんもみた風景や事物の配置をながながとしるすときに、それはあたまのなかで記憶をおもいうかべ、ひとつひとつとりあげて分節しそれを整序しながら言語化して文のかたちにしたてていくわけだけれど、じぶんの視線や感覚のうごきを再構成的になぞったり、仮構的(加工的)に秩序化しているうちに、あたまのなかで構想されるそのうごきのなかに時間が発生してしまうようなことがあるのではないかとおもう。視線を推移させていったその推移がそのまま時間になるというか。こちらが古井由吉のうえの文を読んだときに喚起されたのは、じぶんが文を書いているときのそういう感覚だった。だから、描写とはおしなべてそうではあるのだろうけれど、とりわけうえの文は、風景をえがいているというよりは、風景をみているそのうごきをえがいているという感触をえた。表象としては静物なのだろうが、みているものを言語という形式でえがいているうちにその微分的なうごきのなかに時間が捏造的にしのびこんでしまい、空間的推移と時間的経過が等質化するとともに空間性と時間性が渾然一体となり、二重化されたそのうごきの感覚を果てにおいてきっちりおさめる終結符として単純過去が要請されるというような。そこには最終的な風景としての総合された時間性というよりは、この文とことばのつらなりそのものならびに表象の連鎖において発生しはらまれた時間性が表現されているような気がされ、そちらのほうが優勢になっているのかもしれない。だから、「浮んだ」のほうはわからないが、この一文目で「(やがて)溺れた」をつかえるのは、たんじゅんなはなし、この一文が比較的ながいもので、したがってそこで生じる表象の継起もながく幅のあるものだという事情もたしょうあずかっているのではないか。あえて「溺れた」をもちいることで動感を保証しながら閉じるということでもあるだろうし、逆からみれば、ことばや表象のうごきが生産=捏造する時間性において単純過去「溺れた」が担保されているという気もされ、それは表裏一体の様相なのだとおもう。よりこまかく文をみてみれば、一文目において動感が顕著になるのはあきらかに「さらに西のほう」以降だとおもわれる(これいぜんは仮構された視線のありかたとしてはうごきの感覚にとぼしいのだが、だからといってじぶんはその前半部が「ことばや表象のうごきが生産=捏造する時間性」からかんぜんに排除されているとはおもっていない。したがって、「視線」という比喩的な、もしくは観念的な語はこれらの説明にもっとも適したものではないのだけれど、ほかによいいいかたがおもいつかないので便宜上そういっておく)。ここで「さらに」とともに方向が指示されることで視線がそのむかうさきを転じているからだが、それによって準備された転移がつぎの動詞「伝って」で現実化するとともに、ここから「燈」の配置的なありかたが視線の動態とほぼ一体化する調子になって、「(ようやく)ずり落ち」、「くだる」、「(やがて)散って」「溺れた」とつづいて終わる。こうしてみてくるとやはり、じつにこまごまと分節的に移動や運動をあらわす一連の動詞群を導入したことによって、そのつらなりのさだかな終着点として過去形が必要になったようにもみえるが、そのなかでおもしろいのは「ずり落ち」の語で、この動詞だけ匿名的(でおそらく無属性的な、ほぼ純然たる)視線のうごきとしてよりも、対象のほうにより適合したいいかたにかんじられるからだ。ほかの語はどれも対象である「燈」の配置にも、視線のうごきかたにもほぼ等分に意味をわけあえることばだとおもうのだが、「ずり落ち」の「ずり」がもっている摩擦のニュアンスだけは、物質や物体としては存在しない視線にはそぐわないようにかんじられるのだ。この風景をみているものはとうぜんながらこの山からは遠い場所におり、したがって視線はあいだにおおきな距離をはさんで山と密着しておらず、それもまた接触しているとはいえるとしても、摩擦感をかもせるほどに山とほどちかくふれあっているのはあきらかに「燈」のほうだからである。

  • 帰路。

(……)最寄り駅で降車。階段通路をゆっくり行き、のぼったところで横をむいて東へはろばろとひらいている夜空を目にしたが、水平空間はひかりもかたちも色の偏差もない一様な黒さにつつまれているばかり、それが液体質の濃い闇にひたされた晴れなのか、雲が占領した乾燥帯なのか一見してわからず、駅舎を抜けてまだ街道にいるあたりでもみあげれば街灯がさまたげるので判然としなかったが、昼間は曇っていたはずだとおもいながら木の間の坂に踏み入ると星もなく灰色じみているのがよくわかり、曇天はしかしおもいのほかにあかるくこずえとの色味のちがいも境も明瞭で、樹冠のしたを行っているあいだも木立の間を埋める背景が粘土風としても浮かぶように薄く、月はなくともあきらかな夜だった。

  • この日は(……)で(……)くん・(……)と会って映画『BLUE GIANT』を観、その後(……)でくっちゃべったりカレーを食ったり。往路のことはわすれたが、待ち合わせが現地、「(……)」のまえということだったので、いつもどおり南の車道沿いから踏切りを越えて空き地や病院まわりを西に抜けていくと、そのまま西進はせずに北上して立体交差をくぐっていった。図書館にあるいていくときとおなじルート。交差を出たあとさらに対岸にわたって、そこで西向きになってまたみじかい横断歩道にとめられるのだが、そのとき薄青い空をみあげたり、これから向かう通りに立った緑樹の葉が宿した光点を風に揺らされながら弱く立ちさわいでいるのをながめたりした。歩道をまっすぐ西にすすんでいき、(……)の本館のまえを過ぎ、モノレール線路下の広場へ。待ち合わせの一時半までそろそろ間もなかったが、トイレに行きたかったのでいったんそこのビルにはいり、エスカレーターで一階あがって(……)の脇の通路からトイレへ。用を足してビルを出ると場所は高架歩廊上、広場をそぞろあるくひとびとのすがたをみはらしつつ幅広の階段を下り、すすんでいった。しかし(……)の入り口前に来てあたりを見回してみてもふたりらしきすがたはない。そこで携帯をみればいま(……)に着いてあるいているというメールが来ていたので待ちの姿勢にはいり、映画館のまえにやってきてプログラムの看板を見たあとなかにはいっていくひとびとのようすなどながめつつしばらく待っていると、それらしきふたりのすがたが遠くに生まれ、手をあげているので(……)だな、ふたりだなと判じてこちらも手をあげかえした。映画がはじまるのは二時一五分なのでまだ間があり、ふたりはなにか食いたいという。それで(……)に行くことに。移動。なにか軽食的なものをということで、店をみつくろい、そうこうしているうちに時間がだんだんなくなってくるのだが、階段をあがって区画にはいってきてさいしょあたりにあった店に決定。花屋と軽いレストランもしくはカフェがいっしょになっているみたいな店。こちらは外食はまだ駄目だとことわってあったのでふたりが気を回してくれてテラス席にしようと。それでじぶんは入店せずにガラス壁のなかでふたりが注文しているのをみつつそのへんに立ち尽くして待ち、来るとそこにあったテーブルへ。ただしこれは二人がけでもともと付属している椅子はふたつだけであり、そばにあってフロアの端から広場のほうを見下ろす位置に置かれてあったハンモック風座椅子みたいな、ななめにかたむいておりからだをやや寝かせるかたちでゆったりあずける椅子をひとつテーブルのほうに借りて、こちらがそれに腰掛けた。するとテーブルにたいして高さも足りないし、かたむいたしたからちょっとみあげるような視界になるので不思議な位置関係だ。(……)が頼んでいたのはエビとラタトゥイユのサンド的なやつで、(……)くんはなんだったか、なんらかのバーガーだったっけ? それか(……)のそれがバーガーだったのか。わすれてしまったし、おもいだせないことはおもいだせないままにどんどん割愛していこう。
  • そうして食事を終えると時間がけっこうやばかったので急いで映画館へ。わすれていたが飯を食いに行くまえにいちどなかにはいって発券だけ済ませてあった。もういちどなかにはいるとこちらのおもっていたのとちがってこんかいの上映ホールは一階だといい、一階にもみるばしょあったのかとはじめて知ったが、チケットチェックのまえで三枚をおのおのに分けて、係員にしめしてなかへ。Iの15番とかだったかな。席まで行ってリュックサックは足もとに置き、モッズコートはやや暑いが脱ぐのがめんどうくさかったのでまえを開けただけでそのままにした。じきに上映開始。『BLUE GIANT』。さいしょはたしか雪の降る川辺で少年がひとりサックスを吹いているところからはじまり、ちからいっぱい吹いたようすでぶはっ、と息をついたあとかれは、雪で音がひびかねえや、みたいなことを言ったとおもったが(また、マウスピースが駄目になりもしたのではなかったっけか)、これが主人公の宮本大である。いったん吹くのをやめている宮本のちかく、土手上の道を黒い猫が一匹通り、ここで一瞬だけカメラが猫にぐっとちかづくとともに音響も猫視点になるというか、草を分けるなどその周辺の音を前面にひろうかたちになるのだが、猫にたいして宮本は、おまえもひとりか? みたいな声をかけつつ、猫がとまらず道のさきにむかってあるいていくうしろすがたを目で追い、そっちに行けばなかまがいるのか? という問いをかさね、暗闇のなかに消えていく猫を見送ったあと、セリフをわすれたがきっといるよなみたいな確信をぽつりともらす。これはその後、宮本が上京して沢辺雪祈 [ゆきのり] (いまホームページをみて漢字を確認したわけだが、こんな二字だとはぜんぜんおもっていなかった)と玉田俊二(かれはもともと同郷の同級生で、友人であり、宮本はかれの下宿にアポなしで行って転がりこむことになる)というなかまと出会うことを暗示しているわけだろう。きわめて通有的なやり口である。そのあと宮本は音楽プレイヤーかスマートフォンで”Impressions”をながす。となると、『BLUE GIANT』というタイトルの”Giant”も合わせて、John Coltraneを連想することは避けられないのだが、このときながれた演奏はColtraneのテイクではなくてたぶんもう上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラムス)、馬場智章(サックス)による演奏だったはずである(ただ、ベースもはいっていたとおもうが)。そもそもじぶんはColtraneの”Impressions”をなんだかんだ聞いたことがないのでは? こちらのばあい、ゆうめいな演奏だとWes Montgomery & Wynton Kelly Trio『Smokin’ At The Half Note』の版にもっぱらふれてきて、そもそもColtraneがスタジオでこれをやったオリジナル音源ってどれなのよといま調べてみたのだけれど、Wikipediaによればほぼライブでやっており、スタジオで録音した機会は六二年と六三年の二度しかないという(そのうち後者は数年前に未発表音源として発掘された『Both Directions at Once』で、これはとうじ地元の図書館で借りたがちっとも聞いていない)。ともあれ冒頭でColtraneは連想するわけだが、劇中にそのなまえが出てくることはなく、上京後に宮本大がTake Twoというさびれたジャズバーをおとずれて、ママさん的女性にレコードをながしてもらったときも、それはSonny Stittだったし、その後沢辺と邂逅してその店でかれにじぶんの演奏を聞かせたときの音も、ざらついたトーンになっており、Coltraneが出すような音色ではなかったので、作品としてたぶん意識はされているのだろうが、あからさまにそちらに寄せるようなことはむろんしていない。ただ、後半で、演奏中のイメージ演出として地球を越えて宇宙に飛び出してしまったり、惑星のあいだを浮遊するみたいな絵面があったときは、おいおい、アセンションしちゃってんじゃんとおもってColtraneをまたおもいだしたが。それはどうでもよいのだけれど、ところで、このTake Twoというバーにはじめて宮本が行ったとき、ママはそと、雨まだ降ってる? みたいなことを聞き、宮本が肯定するとカウンターの向こうでうしろを向いて、カバーをかけてあったレコード棚をあらわにし、するとそこに詰められている膨大なレコードの量に宮本は圧倒されて、うわ、このひとはジャズを信じてるんだな、という感銘を得るのだが、そうしてかけられたのがSonny Stittのバラードで、宮本はいいなあ、ソニー! と口にし、それにたいしてママがわかるの? と聞けば、ソニーソニーでも、ソニー・スティットでしょ、とかかれはこたえて(たしか「ロリンズ」という名は口にされなかったとおもう)、きょうの天気みたいな演奏だ、とか感想をもらすのに、ママははっとして、この子どうして、雨が降ってるのに合わせて選んだってわかったのかしら、と心中にもらすのだけれど、いやいやいや、わかりやすすぎでしょ、めっちゃ説明するじゃん、とおもった。ついでに作中出てきた実在の固有名詞をひろっておくと、Sonny Stitt、Art Blakey、あとKendrick ScottとKeith Moonで、もうひとりふたりいた気がするがわすれた。Art Blakeyは、いっしょに組むドラマーとしてずぶの素人である玉田を宮本が連れてきたときに沢辺が、玉田くん、アート・ブレイキーって知ってる? と聞くさいに出てくる(はじめてドラムセットについて興奮していた玉田は、え、アクセルとブレーキ? と足もとを見下ろして探る)。のこりのふたりが言及されたのは、その玉田がならいに行ったドラム教室のひとまくで、玉田いがいに女児が練習しているところ、講師の男が玉田に助言をしたあと、~~ちゃん、すごいねー、ケンドリック・スコットみたいだねー、と褒めたのにたいし、あたし、キース・ムーンがいい! と返す場面で、ここはいやジャンル違うやんとおもわず笑ってしまったし、全篇をとおして笑いどころという意味でいちばんおもしろかったのもここだったのだが、かんぜんな内輪ネタである。こちらと(……)くんはいっしょになって笑い声をもらしていたのだが、まわりであまりそういう反応はなかったようだ。
  • 劇中、音楽はとうぜんわるくなりようがなく、演奏場面はどれも音を楽しんでいた。劇中、メインの曲はたぶん四曲あったようなのだが、”The First Take”というのがけっこうキメがこまかい感じのかっこうよいやつだったとおもう。”N.E.W.”というのがおそらく七拍子のやつで、劇中この曲名が沢辺によって(「”N.E.W.”をさいしょに持ってくるぞ」と)口にされるときがあり、そのときじぶんは「エヌ」ではなくて「エル」と聞き取って、”LEW”という曲名だとおもっていたのだが、さいごのクレジットのときに(……)くんが”N.E.W.”だとおしえてくれた(眼鏡をかけておらず、クレジットの文字が読み取れるほどの視力を確保できていなかったので)。あと”Blue Giant”というタイトル曲があったようだが、これが”N.E.W.”とかわるがわるやられていた、ちょっとごつごつした感じのもう一曲だったのかな? さいごの四曲目はおぼえていない。いわゆるスタンダードでながれたのは”Impressions”と、曲名や音源がわからないがSonny Stittのそれだけだったはずで、有名曲をつかわずぜんぶオリジナルで勝負したというのはジャズを扱った映画作品として特徴的なのではないか。上原ひろみが音楽を担当しているのでそうでないともったいないみたいな判断もあったのかもしれないし、物語としても沢辺がじぶんで作曲するにんげんなので対応できるわけだが(楽曲にかんしては(……)くんは聞いたとき、あー、たしかに上原ひろみ、とおもった、と言っており、こちらも曲というよりは演奏面、速弾きのときとか、低音部でこまかくやっているときとかにそう感じたが、しかし上原ひろみをそんなに聞いたことがあるわけではない)、耳あたりのよいスタンダードに頼らないかたちでジャズの魅力をしめそうとした姿勢はひとつ挑戦的な点として評価できる気がする。また、ジャズは激しくて熱い音楽なんだというジャズ観が一貫して(主に宮本によって)提示されているので、これをみればジャズをあまり聞いたことがないひとでもそのへんがたしょうわかるというか、端的に、ジャズは居酒屋や喫茶店やバーのBGMとして消費されるだけの小洒落た音楽ではないということが理解できるようにはなっているのではとおもった。もちろん小洒落たジャズも激しいジャズもそれぞれあるしそれはべつによいわけだが、ただとくにジャズを好きでないひとが生きているなかでジャズ音楽にどこにふれるかというと、なんかほぼそういう場所にかぎられるのではという気がして、そこでながれているジャズというのはもっぱら小洒落たものだとおもうので(というか、なにかの店など行ってながれているのを聞いてみると意外と六〇年代っぽい攻めた雰囲気のやつとかがかかっていたりもするのだけれど、それが小洒落た雰囲気として聞こえるようにつかわれている)。
  • 映像としておもしろく、アニメーションの面であきらかにちからがはいっていたのは演奏とちゅうのさまざまな演出で、心象風景のような感じだったり、サイケデリックな色合いがたびたびもちいられたり、演者のゆびがズームされたり、うえに記したように宇宙的なイメージが登場してちょっとスピリチュアルな方面に寄ってみたりといろいろあって、めくるめく、という映像展開がなんどかくりひろげられてここは充実していた。音楽演奏を(いわゆるリアリズム的な、もしくは写実的な手法ではないわけだが)えがいたアニメーションの表現としても、ぜんぜん知らないが、ここまでやったというのはけっこうあたらしいものなのだろうか? ただ、巨大なサックスからなんかエネルギー波のようなものが放射されているみたいな画がキメとしてバーンと出されたり、あとはさきにふれた宇宙や惑星のイメージだったり、そこまで行くとやりすぎじゃない? おおげさにしすぎじゃない? という瞬間もあったが。あとそういう心象イメージではなくてふつうに客観的な演奏のようすを描いているあいだに、キャラクターのうごきに3Dの、いわゆるVRoidの技術が活用されていた。とりわけ視点がすこしとおくからになって、キャラクターが画面奥でややちいさめに映るときにそうだった気がするのだが、そのさいドラムセットについていたりピアノについていたりする人物のからだのゆれかたを、これあれだよなと見とめていたのだけれど、終わったあとに(……)もそのことを言っていたので、ああやっぱあれそうだよね? となった。演奏のうごきを描写するアニメーションの進歩とか、そういう場面をあつかった他作品の系譜とかもちろんまったく知らないのだけれど、こちらがおもいだすのは『涼宮ハルヒの憂鬱』の文化祭でのバンド演奏の場面が、とうじ(アニメ放送は二〇〇六年だったらしい)すごいとネット上で評判になっていたことで(という記憶をのちに口にすると(……)くんが、ドラムのフィルインのタイミングが絵とばっちり合ってるとか、ギターを弾く長門のゆびのうごきがじっさいとおなじだとか、と具体化してくれた)、3Dは措いても、たんじゅんな描写もそのころとは比べ物にならないほど洗練されたのだろうとはおもう。
  • 物語としてはまあ典型的なマッチョイズムとヒロイズムという印象を受けてしまうのだけれど、ただ特徴的かもしれないのは、この映画の範囲では試練 - 努力 - 達成の説話的コースをあたえられるのは主人公の宮本大ではなくてほかのふたり(ピアノの沢辺とドラムの玉田)だということで、こちらが見てかんじたかぎりでは、この映画作品中で宮本大は実体的な試練に遭遇しないし、挫折も味わわないし、内面的な葛藤もほぼ体験しない。ストイックな努力をしているということは冒頭の雪のなかでの孤独な練習だとか、東京に出てきてからも川辺や大学の敷地内など場所をみつけてはただひとりでサックスを吹いていたり、まだあかるいころから日が暮れるまで時間をかけて楽器をメンテナンスしているさまがとりあげられたりと、はっきりしめされてはいるのだけれど、それはなんというか必死の努力というよりは、まいにちの習慣として確立されたストイックさという気味のほうがつよく、だから沢辺が宮本をさがしに来てみつけたときに、玉田が急に出てきて、すごいよな、だれも聞いてないのに、ああやっていつもひとりでやってるんだぜ、みたいなセリフを吐くことになる。宮本大はそういうふうに、巨人というよりはある種の超人的な人物としてえがかれているということで、かれがすさまじい努力を積んだということは断片的な回想の画がちょっとはいったり、またサックスをはじめて三年だと聞いて期待をしていなかった沢辺が、かれの独奏を聞いて衝撃を受けたあと、Take Twoのカウンターに突っ伏すようになり、打ちのめされたかのような声音で、三年……才能……いや、どれだけ練習したんだあいつは……みたいなことを漏らす場面に示唆されてはいる(沢辺雪祈は四歳からピアノをはじめて一四年になる)。とはいえ実際上、この映画の範疇では宮本大ははじめから終わりまで天才のたぐいとして立ちあらわれているといわざるを得ないだろう。事実、つねに全力をこめたかれの演奏は、披露のたびに問答無用で観客を圧倒し、ファンを獲得してその名を高めていくわけである。その快進撃において宮本が、ひじょうに曖昧模糊とした原理にもとづいてひたすら突き進んでいくというのもポイントだろう。つまり、とにかく全力でやるとか、「勝てる演奏」ではなくて「良い演奏」をするとか、ぶっ飛ばすとか、きわめて直感的な物言いをして、分析や吟味をまったくしないし、つねに前向きで意見や立場がぶれることがないのだけれど、つまりかれの行動原理はその大部分、精神論なのだ。それにたいして沢辺は一〇代のうちに有名ジャズクラブ「So Blue」(これは現実でいうBlue Noteにあたるものである)のステージに立つという目標を達成するため、つてをたどってSo Blueのスタッフにライブを見に来てもらったり、おまえのソロはいつも似たような感じでつまらんみたいな批判をする宮本にたいして、いまは安定して「勝てる演奏」をしてバンドの認知度を高めていくことのほうが重要だろ、と戦略的な性質をみせるのだけれど、「So Blue」のスタッフの評価では、そういう方向で目標にたいして性急になりすぎた沢辺のほうが、人間的にもふるまいがよくないし、また演奏としても半端でつまらず、じぶんをさらけだすことをおそれている、ということになる。そうしたきびしいことばをつきつけられてかれは挫折をするのだけれど、その後、それでも若いプレイヤーにチャンスをあたえるべきではないかとおもった「So Blue」のひとが、Fred Silverなるジャズメンの来日公演に穴が出たのでとかれに連絡をよこし、そのステージで沢辺も、「内臓ひっくりかえしてやる」と開眼し(これは「So Blue」のスタッフに、内臓をひっくりかえすような、それくらいじぶんをさらけだしたことがないだろう、みたいな苦言を向けられたことを受けたものである)、自己実現というか自己解放というか、そういう境地を体験することになる。またいっぽうでクールぶって皮肉っぽいインテリキャラみたいな造形だった沢辺も、これまで生活のすべてをピアノにささげてきたみたいな一連の回想がはさまることで、熱情的なにんげんだったということがとちゅうであきらかになり、さらにまた工事現場のガードマンもしくは交通整理員としてバイトに精を出しているようすがたびたびうつされて(このへんの設定はかなり昭和的というか、そもそも宮本大があてもなく上京してきて、事前連絡もなしに同級生の玉田のアパートに行き、そのままそこにころがりこむという冒頭の枠組みからして、いやこれはいまの、令和の上京のしかたじゃないよなあという感じがつよい)、アパートもかなりボロい部屋だったりして意外と泥臭いキャラクター像に転換していく(三人で飯を食っているときに宮本が、東京の坊っちゃんは、みたいなことをいうのだが、沢辺はそれにたいして、はあ? おれは誇り高き長野県民だっつーの、とかいう返答をする)。ただその後沢辺がかんぜんに直感的精神論者に転向したかというともちろんそういうわけではなくて、いよいよ「So Blue」でのライブがちかづいたころ、路地を宮本とならんであるいているときに、おれは作曲も好きだ、ひとつひとつの音をじっくりかんがえてつくっていくのも、と言い、つづけて、でもおまえは毎晩、観客のまえで死ななきゃならないもんな、と宮本に向ける。だからいちおうこのふたりのあいだの性質的対立というのはここで和解をみたということになりそうで、同時にポイントなのは宮本の演奏スタイルが「死」とむすびつけられていることで、それはこの作品のキーワードでいえば「全力」であり、「So Blue」のスタッフにいわせれば「内臓をひっくりかえすほど自己をさらけだすこと」であり、またべつの箇所で宮本がいうには、ソロっていうのはひとつひとつ毎回ちがう、そのときのきもちがいつもちがうから、ということなので(ちなみにかれの目標もしくは夢は「世界一のジャズプレイヤーになること」であり、その内実は、「どんな感情でも演奏で表現できる」ということである)、宮本の演奏は毎度そのたびに一種自己を死なせることであり、しかし死んだきりにはならず演奏はまたおこなわれるのだから、そのたびにまた再生することにもなるだろう。「全力」、すなわちその瞬間にすべてをこめることによって擬似的な死 - 再生を通過し、絶えざる自己更新をつづけていくというあたりが、この作品で提示されている主要な音楽観、もしくはジャズ観とみなせるだろう。
  • はなしがいくらかそれていってしまったのだが、説話的構造の面にもどると、要はこの映画におけるかぎり宮本は一種の天才でいわばスターであり、そのスターがあいまいな直感的精神論でほかのふたりを牽引してとにかく突き進んでいくことで成功の道をかけあがっていく(この点、のちにこちらは、あいつ「スター取ったマリオ」みたいな感じだから、と評した)という、そうしたマッチョでヒロイックな(宮本にたくされたマッチョイズムは上述したように奇妙に希薄なてざわりでもあり、「挫折」や「試練」を経験していかにもマッチョな道行きのなかにはいるのはほかのふたりのほうなのだが)物語の進行には、いっぽうでむろんたのしみながらも、たほうでまあ乗り切れないよね、というはなしだ。乗り切ってはいけないだろうともおもう。宮本の成功と、かれの演奏が観客にあたえる衝撃はまあ言ってみればあらかじめ決まっているようなものであり、かれがさいしょからさいごまでスターとして描かれているというのは物語内のべつの要素によっても裏付けられていて、というのは、劇中何度か、宮本がかかわった人物が現在よりも年を取ったすがたでインタビューを受ける、という趣向がさしはさまれるのだ。こちらの記憶のかぎりでは出てきたのは三人、故郷仙台で宮本にサックスをおしえていた由井という師匠のおっさんと、ドラマーだった玉田、そしてTake Twoのママなのだが、たとえば玉田がそこで、いやー、あの一年半はぼくの人生で最高の時間でした! (かれはスーツ姿でうつっており、営業職かなにからしいのだが)取引先でも自慢してるんですよ、おれはあの宮本大と最高のバンドをやってたんだぜ、って! と語っていることから推して、このインタビューが撮られた時点で宮本大はすでにビッグネームとしての地位を確立しているということになる。したがってこの映画の本篇は、いまやスターとなった宮本大が東京に出てきてはじめて組んだバンドの仲間たちと過ごした一年半の青春物語、というおもむきを帯びるわけだから、そこでかれのスターとしてのステータスが遡行投影的に前提化されていてもおかしくはない。そしてさきほどいちどふれたように、じっさいに物語の焦点として内実となっていたのは、宮本大というよりは、沢辺と玉田のふたりのほうだというのがこちらの印象だ。つまり宮本の内面がほとんど描出されないというか、描出されるにしても夢に向かってぶれることない確信とともにひたすら全力でつきすすむという要約に単一化されるのにたいし、ほかのふたりは明確に挫折と苦難を経験するし、その「成長」が提示される(宮本はさいしょからさいごまでスターなのでそこに成長はない)。だからこの映画の物語は、「天才」もしくは「スター」である宮本大によって感化され、引っ張られ、その過程で挫折 - 試練 - 成長を経験する「天才」ではないふたりのはなしのほうが主眼になっていたようにみえ、したがって原作にたいするスピンオフ的な気味もちょっとかんじたのだった(こういう見解をあとで述べたさい、(……)は、たしかに宮本大にはぜんぜん感情移入できなかったかも、と同意をしめしていたし、(……)くんもかのじょもいちばん好きだったのはたぶん玉田で、たしかにかれはズブの素人からはじまって真摯にがんばるじつに健気な青年として描かれていた)。ただ、(……)がのちほどスマートフォンで(たぶんWikipediaをみて)調べていたところによると、設定や物語内容は原作漫画の東京編とだいたい共通しているらしい。だからとりたててスピンオフというあつかいではないのかもしれないし、原作ではたぶん宮本大も(なにしろ主人公なのだから)もっと複雑なかたちでフォーカスされているのだとおもうが、そのへんはわからない。
  • 説話の進行上でおおきなフックとなっているのはうえにも触れた沢辺の挫折がひとつで、つまりそこまで沢辺はこのメンバーのなかではいちばん楽器の歴がながく、いろいろな知識をそなえていて、また音楽活動もすでにしており界隈ですぐれたプレイヤーとして評判も得ていたから事情につうじており、いわばふたりにとっては先輩格で、宮本や玉田をもちまえの皮肉ぶりで遠慮なく批評するし、つてもあるから「So Blue」のひとを呼ぶみたいな裏での根回しもおこなうわけである。ところが、じぶんが目標として憧憬しているジャズクラブの目(というか耳か)がたしかなスタッフが、初心者である玉田の演奏は「好感が持てる」といい、宮本は「おもしろい」と評するいっぽう、沢辺だけをつまらないといってこきおろすわけである。ここで沢辺はおおきく挫折し、失墜する。もうひとつのフックはこれも沢辺関連で、また全篇で最大の分岐点なのだけれど、「So Blue」でのライブがせまった直前で、ガードマンのバイト中に沢辺が車に突っこまれる事故に逢い、右手をぐしゃぐしゃに損傷される。これはその時点ではいわゆる「鬱展開」に属するものなのかもしれず、こちらもとくにそうなるとはおもっていなかったので(そもそも物語の展開なんてわりとどうでもよいのだが)ちょっとおどろいたが、説話構造のうえでは最後の悲劇的な試練としてよくあるかたちになるだろう。(……)はのちほど感想をはなしたさいに、あれはショックだった、原作者にちょっと物言いたくなった、ああいう「お涙ちょうだい」みたいなのはいらないんだよな、とこの点批判していた。物語のためにひとを殺したり、こういうおおきな怪我をさせたり、犠牲にするようなのは好きじゃない、とも言っていたとおもう。たぶん映画を見に来ていたひとのおおくはすでに原作を読んでいるひとではなかったかとおもうので、そうであればそういう展開も知っているわけだが、初見のひとにとってはそこそこショッキングにうつるかもしれない演出もなされていて、衝突されたあとは地面に投げ出された沢辺の片腕がぐちゃぐちゃにゆがんでいるのがきちんとうつされたりもしていた。ただこのあと、(……)が見た情報にもとづくと、原作とこの映画とでは異同が出る。映画では沢辺の右手はなおる可能性があると(ベッドの脇の母親によって医者から聞いた情報として)明言されるのにたいして、原作では回復は無理だとなっているらしい。また、映画では「So Blue」でのライブをサックスとドラムのふたりだけでおこなったあと、母親にからだをささえられた沢辺が通路にあらわれて、暗黙の了解でこれがさいごだというわけで三人で再度ステージに立つのだが、かれはそのとき左手だけで演奏するわけである。その点上原ひろみの腕の見せどころというわけで、左手だけでも見事に静動の展開をつくって成立させていたが、原作ではこの三人でのアンコールはないらしい。また終幕で宮本がミュンヘンに旅立つまえ(なぜアメリカではなくてドイツ? とおもうが)、沢辺に電話をかけて、はやく腕なおせよとかいうのに、そのとき(長野の実家で)楽譜に音符を落として曲作りをしていた沢辺は感涙しながらうるせえバーカと言って電話を切るとともに、なんだったか、ぶちかましてこいよみたいな宮本への応援をつぶやくのだけれど、右手の回復が絶望的ということはこのシーンも原作にはないのかもしれない。こういうことの消息から邪推するに、沢辺が事故にあって演奏生命を(ほぼ)断たれるというこの展開は、原作の時点でファンのあいだで評判がわるかったり批判を読んだりしたのかもしれず、だとすればこの映画ではさいごに三人でのステージを実現させたりいくらかの希望をのこしたりするかたちで、そうしたファンの心理を満足させようとしたのではないか、ともかんがえうるだろう。
  • 感想というか分析というかはだいたいそのくらい。映画を見てこちらのほうに生じた主観的感慨をまとめると、音楽はもちろんかっこうよくて楽しんだというのと、演奏中のアニメーション演出がおもしろかったというのと、物語上のたんじゅんなヒロイズムうーん、というその三点におおきくは尽きる。映画は二時間強だったとおもうので、終わると四時半くらいだったのではないか。そのあとは(……)に移動して池のちかくのながい座席に腰掛け、おのおの感想を言ったり、時間がくだって風が肌寒くなってくると飯を食おうということで、施設内にあった「(……)」のカレーを食ったり、そのあとおなじく施設内にあるコーヒーショップの店舗裏の段に腰掛けてまたくっちゃべったり。分離キーボードのはなしだけ書いておく。さいきん(……)は分離キーボードなるものを買って、(……)くんの助けを借りながらじぶんでキーの配置をカスタムしているのだという。分離キーボードなるものがあることじたい、こちらはこのときはじめて知った。写真を見せてもらったが、基盤があいだにスペースをはさんで左右に分かれているもので、かたちとしてもふつうのキーボードより縦列がながく、横列がみじかめなように見えた。(……)がこれを導入しようとおもったのは、キーボードを打つのはからだにわるいという気づきがあったからだといい、とりわけシフトキーとかコントロールキーなんかを打つとき、端のほうにあるから小指や薬指を伸ばさなければならず、そうすると手をつうじてからだに負担がかかってよくないと。打鍵による体調への影響はこちらもさいきんとみにかんじているところなので、我が意を得たりとばかりにうなずき、同意した。(……)のかんがえでは打鍵において親指はしごとをしなさすぎ、ということで、かのじょはシフトとかスペースキーとかを親指で押せる位置に据えたらしい。エンターもかな。エンターキーもあんなにおおきい必要はないと言っていて、いわれてみればたしかにそうかもしれない。分離キーボードのように、健康に影響をあたえづらいキーボードやパソコンのつかいかたがこれからどんどん主流になっていくだろうという見通しをかのじょは述べ、むしろいままでその問題に気づかなかった、対処してこなかったパソコン業界にたいして怠慢をかんじるとも言っていた。そういわれてみればたしかにそうだな、という感じ。コンピューターというものが今後どのような形態になっていくのかもわからないが。文字入力にキーボードなんかもつかわなくなるのかもしれない。いずれはたぶんそうなるだろう。ものを書くためのツールが、ペンと紙、(タイプライターふくむ)キーボードと変わっていって、つぎにどうなるのかというのが気になるところだ。いよいよ手からはなれて、もう機械をあいてに口述筆記するみたいな、エクリチュールパロールへと吸収されるみたいなことになったりするのだろうか。ぜんぜんわからんが、さいきんのChatGPTとか、AIの発展をかんがえると、将来的にはたぶんもうなんらかの文章を書くとき、まずAIをかませるというのがスタンダードに、常識になるのだろうなとはおもう。かんたんな文章だったらもうAIがつくったそれでOKだろうし、複雑なものだったり、なんらかの創作性があるようなものでも、まずAIに放りこんで、出てきたものを手直しするようなかたちがふつうになるのではないか。そこまで行かなくとも、AIにてきとうになにか投げて、出てきたものをアイディアの下敷きにするというつかいかたはふつうになるだろう。いまもうすでにそういうことをやっているひともいるとおもうし。たとえば詩の一行目をそれでゲットしてそこからつくるとか、じぶんもちょっとやってみたいもんな。いずれにしてもロマン主義の時代からなんだかんだつづいている創作の個人性や「天才」観念、そういうある種の神話は、まったくなくならないまでも、相対化されざるをえないだろう。AIとともに、つまり集合的な知と記録と記憶のデータベースとともに作品をつくるということがふつうになるだろうし、創作いがいのさまざまなにんげんのいとなみでもそれは同様だろう。ある種、AIをつうじた(この世界じたいの?)集合的無意識への接続みたいなことになったりするのか? それは飛躍しすぎ、スピリチュアルに行きすぎだろうが、分離キーボードにはなしをもどすと、これから左右のそれぞれをちょっともちあげてかたむきをつけ、山型のようにするらしく、それを「テンティング」というのだという。テント型にするということだ。そうしてもって手首への負担を減らそうという腹らしい。(……)くんいわく、海外でもカスタムキーボードというものはあって、カバーを変えてみたり、デザインをじぶん好みにしてみたりというくらいはやっているが、基盤そのものからあたらしくつくったりキーの配置を変えてしまおうというながれは、日本が先陣を切っているかもしれない、とのことだった。
  • カレーはテイクアウトして、店舗のすぐ向かいにならんでもうけられていた座席について食べた。それは店舗に属する席ではなく、(……)というこの施設じたいの所属で設置されていたテーブルで、店舗のすぐ脇にもテラス席があったので、(……)くんは外食がまだきびしいこちらの状態を理解しながらもそこでいいんじゃないかとおもっていたようだが、(……)にテラス席ではどうかと聞かれて、じぶんでもどうかわからなかったので、うーん、どうかな、みたいなあいまいな返答をしていると、テイクアウトしようということになった。店舗からの距離はそうとう近いのでテイクアウトの意味がないようなものだが、通路をはさんでおり外部だという感覚があるぶん、そちらのほうがたしかに緊張はしない。テイクアウトの容器分、余計な金をつかわせてしまってすまなかったが。(……)
  • カレーは食べるまえはどうかなとちょっとおもっていたのだが、とくに緊張せず、ふつうにおいしく食べられた。ただ(……)が背後の店舗に空容器を返しに行ってくれたその後、施設内にだれでも弾いてよいピアノが設置された一室があるのだが、そちらにうつったときは飯を食って直後なのでふつうに緊張し、ふたりが室内にどんどんはいってテーブルにつくいっぽうでこちらは足が重く、しばらく立ったままで若い男がピアノを弾いているのを遠目にながめ、そろそろ進んでからも入り口にいちばん近いあたりの席につくありさまで、(……)もそちらにうつってきたが、こちらが緊張しているのを察して、たいした時間もつかわず出ようとなった。それからコーヒーショップ裏手の段にうつって駄弁り、そのあいだに分離キーボードのはなしを聞いたりした。ほか、なにかの拍子にルー大柴のブログのことをおもいだし、こちらはそれを(……)さんのブログ経由で知ったわけだが、ルー大柴のブログ読んだことある? おもしろいよ、と言ってその場でスマートフォンをもちいて検索し(そとでスマートフォンをつかってウェブをみることのほぼないこちらにおける貴重な機会!)、最新記事をひらいてみせながら文言を読み上げ、三人で爆笑した。「ラブ(愛)読書」とか、「渋バレー(谷)」とか、熟語のそこだけ変えるんかいというのと、わざわざ括弧でもとの字を明示してみせる律儀さに笑ってしまう。


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  • 日記読み: 2022/3/4, Fri.
  • 「ことば」: 1 - 3