2023/3/10, Fri.

 「私は、私の話を聞いているおまえたちに言う。おまえたちの敵を愛しなさい(agapâte)。おまえたちを憎む者たちに善いことをしなさい。おまえたちを呪う者たちを祝福しなさい。おまえたちを侮辱する者たちのために祈りなさい。おまえの頬を打つ者には、別の頬をも向けなさい。おまえの上着をとる者に、下着をも拒んではならない」(『ルカ』六の二七~九)
 (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、125)




  • 一年前から。

上階へ。居間は無人。あたたかくなるようなことをきいたおぼえがあったが、おもったよりも晴れておらず、空は白さにつつまれており、そのわりにあかるめで陽のてざわりがかすかもれてみえなくもないが、まったくの曇天であることはちがいない。ジャージにきがえて洗面所で髪を梳かし、うがい。れいによってベーコンエッグをこしらえることに。フライパンにベーコンと卵を落として焼き、丼に盛った米のうえにのせる。台所にいるあいだカウンターをとおしてソファの安っぽい生地に南窓の白い色がすこし反映し混ざっているのを目にし、またテーブル上にはもっとはっきりと、まったき空の白さが水を撒かれたようにうつりこんでいたが、丼をもって卓のほうに来てすわると、とうぜんながらそのテーブルはさきほどみた純白の水たまりをうしなってくすんだ木肌風の褐色に尋常化しており、そのことがなにか不思議にかんじられた。いましがたみていたようすとぜんぜんちがうじゃないか、と。それをいえばそもそも、目にみえているテーブルのかたちひろがりだって、台所から距離をおいてみたときと椅子についてすぐ目のまえにみたときとではまったくちがう。そのものとの角度や位置関係や、接する関係のありかたによって、数瞬前とはちがった像があらわれて、それはまたこちらがうごけば応じて刻一刻と変容していき、だから一瞬前のものといまみているものはまったくべつの存在だと言ってもほんらい良いのだろうが、それを統合してつなぎあわせひとつの事物にまとめあげて提示する、ひとの意識の観念化と統一性のはたらきの、その不可思議さがたまさか不意にあらわになったものらしい。

  • ニュース。

新聞一面をみながらみじかい食事。ロシア軍がキエフを三方から総攻撃する態勢をととのえているもようと。総攻撃がはじまれば、一〇日から二週間ほどでキエフは絶望的な状況にいたるだろうと米当局のにんげんは予測しているらしい。九日はいわゆる人道回廊が各地にもうけられたようだが、ウクライナ側はロシアとの合意にいたったと強調したものの、ロシアが提示した案と出発地がおなじなのは二箇所だけだったと。ロシア側は避難実施にあたっての一時停戦を明言していない。ほか、韓国大統領選も投票がはじまって、李在明と尹錫悦が伯仲していると。ともにスキャンダルをかかえた身なので非難合戦の泥仕合となり、どれだけあいてのイメージを落として不人気にできるかという、大統領選として異例の展開になったとのこと。

  • 往路。なかなかの密度。

(……)マスクをいちまい取って顔に装着し、玄関をぬけると、それまでそんな気はぜんぜんなかったしかんがえていなかったのだが、きょうはべつの方角から行くかというこころになって、道にでるといつもとは逆に右側へ折れた。すすみながら来たほうをちょっとふりかえると、坂をくだって一段ひくいところにある家並みを背景にした空中に白い靄状の、輪郭が不定で複雑な図形がかかり浮かんでおり、それは近所の一軒の煙突から湧き出した煙だとすぐにわかったのだが、あるきながらなんどかふりむいて見るに、その白濁した気体は空中で凝固し貼りついたかのように固定的で、数秒をみればたしかに位置を変えてはいるし、かたちもすこしずつほころんで変容しつつはあるのだけれど、そのうごきはまことにゆっくりなので停止感覚のほうがつよく、大気中に無法則なかたちの薄布がとつじょ発生しさしこまれ、闖入したかのようだった。

林のあいだをぬける坂道へ。道の脇にさしのべられた枝に浮かんでいる葉っぱたちはピーマンの緑をもうすこし青く深めたようなすずしさで、もう暮れがたで陽もとおく木蓋のしたのみちだが光沢をやや帯びて、皺がみえても金属質に目にかたい。息をちょっとみだして太ももを熱くしながら急坂をのぼり、街道に出ると中学生か子どもがふたり帰るところで、ひとりがキルア! と言ったようにきこえたが、これはたぶん、~~するわ、とか、~~だわ、ということばだったのだろう。車の隙をみて北側にわたると時間に余裕があるからぶらぶらした足取りで気ままにあたりをみやりながら駅へとむかう。もはや三月も十日すぎて五時四〇分でもたそがれは来ず、正面、みちの果ての西空は下端を白くなごった去り陽に洗わせて、そのうえから直上まではただ水色があけっぴろげにぽかんといろをさらしだしており、昼は曇っていたのがいまになって晴れたのかとおもったところが首を曲げてみあげたかなたに赤ん坊の指のあとのような華奢に細いちいさ月をみとめるとともに、水色のひろがりのなかにも淡い霊気めいた雲がぜんたいに混ざって溶けあっているのがみてとられた。

最寄りについてホームのさきへ出ると数分間を立ったまま待つ。あたりに目をむけて視線がとまるのは北西にのぞいた空にとおくうつっている山影であり、ちょうどいま読んでいるトーマス・マンの『魔の山』で、女性の目のいろを形容するのにとおくの山のような青灰色とかいういいかたがでてきたが、それを読んだときにおもいだしたのが、夕時に目にするこの山のいろだった。それはちょうど二本の電線のあいだにすっぽりとはいりこんでかこまれたように低いすがたで、左右はそれぞれ斜めにもちあがる屋根の輪郭線に行き当たるから谷から生えた風情、接する空は陽の逃げていったほうなのでまぶしさを抜かれつつも真っ白に微光して、山影はいまは青の気も灰の気もよわく黒っぽさにながれており、そのすぐ右からはじまる間近の丘の端の木などはもうかんぜんにシルエットと化してギザギザとしたこずえの輪郭を裏から迫る白さにきわだたせ、空にあまったひかりをわけられてそれじたいどこかつやめくようだった。右手、東のほうに目をうつせば、暗みはじめた空気のなかで林の外縁あたりになにかあいまいなものがあるとまずみえたのだが、数秒おけばそれはピンク色の梅の花らしく、宵のちかまりと視力の問題で和菓子めいた薄紅のいろもさだかではないが、ほとんどふれあう至近に街灯がともっているので夜が来ればそれに照らされてむしろいろがはっきりうつるのだろうとおもった。風はない。眼下、線路脇に生えたぎこちないかたちの雑草はゆれず、電車がやってきて横からひかりをかけられてもまだゆれず、鼻先がそのまえをすぎてみえなくなるまでゆれるすがたをみられなかった。

  • おとといの勤務後から実家に滞在してきのうの夜八時半ごろ発ったわけだが、きのうはやたらと疲労感があり、それは主には花粉症の症状による。わがふるさとの花粉の威力をなめていた。こっちのアパートにいて外出も勤務かスーパーくらいという生活を送っているかぎり、薬を飲んでいればそこまでではないという感じだったが、地元に帰れば薬を飲んでいようが関係ない。鼻水をたびたびすすったりくしゃみが連続したりというそのうごきによってからだはなんだかきもちがわるいようになるし、消耗したようできのうはひさしぶりに昼寝もしてしまったのだが、そのくせアパートに帰ってきてからも顔やあたまが全体的に厚ぼったいというか造語をつくれば熱ぼったいというか、そんな感触で気力も湧かず、書きものをしたかったのに休んでいるうちにはやくも意識をうしない、なんどかもどりつつもけっきょくそのまま朝まで移行した。六時一〇分ごろに覚醒。その時点でデスクライトも天井の照明もつきっぱなしだったので消し、しかし二度寝はせず、ちょっとするとカーテンをひらいてそとのあかるさをとりいれた。時間からしても方角からしてもたいしてあかるくはないが。からだをさすっていて気づくのはやはり両の上腕部が冷えているということで、冷えているといってもさほどつめたくはないのだけれど、ほかのぶぶんと比較したときにそこの温度があきらかにすこし低いのだ。あとは手の甲。なぜ上腕だけこうも冷えてこごるのか、いったいどういう要因なのか、どこでながれがとどこおっているのか、やはり肘なのか、あるいは腋なのか、いまいちわからんが、しかし逆にいえばここをケアすればよいということだ。そして腕振り体操で腕はわりとほぐしあたためることができる。しかしこのときはまだ覚醒しても腕振りはせず。寝床にとどまってウェブをみたり一年前の日記を読んだりし、離床が何時だったかは正確におぼえていない。八時半か九時ごろだったか? 瞑想をすると九時になったのだったっけか。まだとうじつの正午過ぎなのになぜかおもいだせない。いずれにしても起き上がると座布団や枕を窓外に出し、布団をたたみ、腕振り体操をやったりトイレに行ったりして、瞑想をひさしぶりにわりときちんと、という感じでおこなったが、きちんとといってもただ座ってじっとしているだけで、あらためてなにもしないということ、座ってじっとしていればそれで成立、OK、というところに立ち返った。そういう時間のなかに滞在できるくらいからだの調子がもどってきたということでもある。からだじたいに耐久力がなければ無為はきつい。それで三〇分くらい座った。さいきんでは電車内でも瞑目静止が基本だし、きのうの帰路もときおり垂れてくる鼻水になやまされながらもそうしていた。それからふたたび腕を振ったり、水曜日に洗って出勤前に取りこんだだけで始末していなかった洗濯物をハンガーからはずしてたたんだりし、そうして食事の支度。実家からもらってきたブロッコリーと大根、それにウインナーと豆腐をあわせてスチームケースで温野菜をこしらえ、それを食べたあとはおなじくきのうの夕食のあまりをもらってきた肉炒めと餃子も大皿に熱し、おかずにして白米を食った。米を一杯半ほど食ったが、きのう実家で体重計に乗ってみるとほぼ五五キロぴったりだったので、やはりまえより増えている。いぜんは五三キロくらいだったはず。よい調子だ。
  • 食後は皿洗いをしたり歯磨きをしたりWoolfの英文を読んだりといつもどおりである。また、「ココナラ」をすこしのぞきもした。先日家計を計算してみて週3ではやはり金が足りないから週4でがんばるほかない、ただし週四日もいまの職場に時間をかけていくのは時間としてもからだの負担としてもきついから、近間の塾ではたらくこともかんがえようというはなしを書きつけたが、その後腕を振っているときに、近間の塾ではたらくのもそうだがオンラインで金を得る手段もあらためてかんがえるかとおもったのだった。それで「ココナラ」に登録して、プロフィール欄にnoteへのリンクを貼り、こういうことをやっているにんげんだというのをしめしたうえで、文章や読み書きにかんしてよろず相談みたいな感じで受け付けようと。まえはnoteでそういうのを募集してもフォロワー五人だから来るはずがないし、金をくれるひとをみつけるならブログのほうをつうじたほうがよいだろうとおもっていたが、しかしブログはやはり本拠地としてなるべく人目にふれさせたくない、ひとを呼びたくないところがあり、だったらココナラというプラットフォームを利用したうえでnoteを自己紹介的にリンクとしてつかえばよいではないかとおもいついたのだった。そもそもnoteにまた投稿をはじめた当初、ゆくゆくはそういう可能性もあるとかんがえていたのではなかったかとおもうが、よくおぼえていない。ついでにここに書いてしまうが、月曜日の勤務後に、いまいちにちで賞味いくら稼いでんのかなと、電車の座席で瞑目しながらあたまのなかで計算してみたところ、いちにち二コマはたらけばほぼちょうど六〇〇〇円というところだった。そして月曜日を例に実働時間をかんがえるとだいたい五時半から一〇時一〇分までだから四時間四〇分、これを分になおすと二八〇分、六〇〇〇÷二八〇をして一分でおおよそ二一円ほど稼いでいることになり、一〇分で二一〇円、一時間なら×六をして一二六〇円である。タイムカードの範囲内でかんがえるといちおう時給でそれくらいとなり、これでももちろん薄給だが、移動時間なども考慮して六〇〇〇円の金をかせぐのに実質的にどれだけの時間がつかわれているのかとかんがえると、この日はアパートを発ったのがおよそ四時ごろ、そして帰宅は(じっさいには一一時四五分くらいだったとおもうが)零時くらいにはなるだろうと予測して、すると((……)くんがよくつかっていたので知った言い方を借りれば)ドア・トゥ・ドアで大雑把には八時間もついやしているわけで、六〇〇〇÷八をすれば時給七五〇円ということになる。ふだんから効率だとか生産性だとか費用対効果だとかそんなもんはクソくらってろとおもっている性分ではあるものの、さすがのじぶんもこれではわりと阿呆らしい、客観的にみてかなり愚かな選択をしているといわざるをえない。だからといっていますぐこの愚かな選択をやめるつもりはないというか、かりに金の心配がなくなったとしても週二日くらいはいまの職場ではたらきたいとすらおもっているのだけれど、そうはいっても時間もやはり惜しい、家から出ずに金がかせげればそれに越したことはないというわけで、ココナラに登録して、ということをあらためて案じたのだった。それでのぞいてみてもみんなけっこうちゃんとしているというか、文章系のカテゴリなんかみてみるとプロが小説を読んで添削したり批評したりアドバイスしますみたいな記事がけっこうあって、まあぶっちゃけおれの出張るような場所じゃないなと、居場所じゃないなと、まえもおもった印象をまたおぼえてしまうのだけれど、ともかくそのうち依頼を募集するだけはしておこうとはおもっている。それでわずかばかりでもしごとと金が得られれば儲けものと。とはいえなんの資格も保証もないにんげんなので、その旨明記してnoteを参考に付し、文章作成の手伝いとか修正とか、こっちでこういうことができるのではないかとおもうという案をいくらか挙げて相談を受けつける、というかたちにするだろう。
  • その後、Billie Holiday『Lady In Satin』をながしつつ、二月二八日と三月一日の記事を投稿。そうして腕振り体操をまたやってからだをあたためたあと、きょうのことをここまで記して一二時四七分。わすれていたが食事のあとに洗濯もして、干してある。起きたときは快晴だとおもっていたのだが、昼間にいたったいまはおもったほどひかりがあるわけではない。それでいえばそもそも、きのう実家にいたときにみたテレビの天気予報では、あしたは午前中関東は雷雨でしょうというはなしだったのだ。東京のなかでもこちらのほうはあまり降らなそうだというはなしでもあったが。
  • その後は寝床で書見したり、三月三日の記事をさっと書いてかたづけたり、洗濯物を入れてたたんだり。いま六時三七分だが、休みの日の気楽さにまかせてここまでおおくの時間を臥位での書見についやした。松井竜五『南方熊楠 複眼の学問構想』(慶應義塾大学出版会、二〇一六年)である。いろいろおもしろい。南方熊楠の人生行路や学問的関心の発展にかんしてもそうだが、とうじの米国の社会的環境についてもふれられていたり、ミシガン大学博物館の成り立ちについても語られていたり(Joseph Beal Steereという探検家がアマゾンをはじめ太平洋地域各地を旅行し採集したコレクションがその発展におおいに寄与したというが、「この大旅行の動機としては、ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五~一八九二)の『アマゾン河の博物学者』 The Naturalist o the River Amazon (一八六三年)に影響を受けたこと」(153)などが指摘されているとあり、このナチュラリストのなまえは知っている。というのも、To The Lighthouseの序盤にMrs Ramseyがもの思いするなかで、”Croom on the Mind and Bates on the Savage Customs of Polynesia”という本への言及があり、Croomはこちらが持っているペーパーバックの註により実在の人物であることがわかるのだが、Batesってだれやねんと調べたことがあり、そのなかで名を知ったのだった。しかしGoogleで検索したかぎりではこのBatesがHenry Walter Batesのことなのかはわからなかったはずで、ちなみに岩波文庫版の邦訳だとこれには「一八六三―一九五一 人類学者」という訳註がさしはさまれているが、この人類学者についてもネット上ではさだかな情報はみつけられなかったはず)、あとフロリダ州ジャクソンヴィル南方熊楠が寄宿し友情をはぐくんだ江聖聡という中国人については、ジャクソンヴィル社会の研究文献やとうじの国勢調査(「実は、この時期のアメリカの国勢調査や住所録については、家系図の作成を目的にしたアンセストリー・コム Ancestry.comというサイトからほとんどのものをオンラインで見ることができる」(162)という)を活用して、ふたりが別れたのちの江聖聡の生涯を(最終的なところではあくまで推測ではあるものの)追ったりもしている。南方が寄宿したかれのgroceries兼自宅があったそのばしょもおとずれて現地調査をしており、あたりまえだがモノホンの、ガチガチの研究者である。そういった世界のゆたかな余白ぶぶんもふんだんに取り入れた記述の進行がおもしろく、110からいま178、第Ⅴ章「ハーバート・スペンサーと若き日の学問構想」のはじめまで来たが、このおおきさの、一ページ二一行ある単行本でそれだけすすんだからきょうはだいぶ読んだと言ってよい。しかしなによりも、「キーウェストでは、ヤシの枯葉上でのナナフシの交尾を熱心に観察しすぎて、その精液が目に入って七転八倒したりした(一八九一年八月二十八日)」(168)という一行の情報の圧倒的具体性、その喚起力。これは小説の一場面になりうる。

The Kremlin said on Friday it sees risks of possible “provocations” in South Ossetia and Abkhazia, two Russian-backed breakaway regions of Georgia, after days of protests in Georgia over a “foreign agents” bill. Kremlin spokesperson, Dmitry Peskov, said on Friday that Moscow was watching the situation “with concern”.

The war in Ukraine is driven by the interests of several “empires” and not just the “Russian empire”, Pope Francis said in an interview published on Friday.

In the early hours of Thursday, Russia unleashed its largest missile bombardment against Ukraine in three weeks, including six hypersonic missiles able to evade air defences. The UK ministry of defence said Friday the death toll from yesterday’s mass strikes stands at 11. Critical infrastructure and residential buildings in 10 regions were hit, President Volodymyr Zelenskiy said. “The occupiers … won’t avoid responsibility for everything they have done.”

At least six of the dead were killed in a strike on a residential area in the western Lviv region, 700km (440 miles) from the frontline, Ukrainian emergency services said. Three buildings were destroyed by fire after the missile attack and rescue workers were combing through rubble looking for more possible victims.

Ukraine’s air force said Russia launched 81 missiles in total on Thursday, alongside eight Shahed drones. It claimed to have shot down 34 cruise missiles and four of the drones.

     *

Ukrainian authorities insist they will continue to try to hold the eastern city of Bakhmut, despite suffering an estimated 100-200 casualties a day. Ukraine’s national security chief, Oleksiy Danilov, has said that one Ukrainian is killed for every seven Russians, and claimed that Ukrainian soldiers are killing as many as 1,100 Russians a day. Western officials have estimated Russian casualties in Bakhmut at 20,000-30,000.

Belarus’s authoritarian leader has signed a bill introducing capital punishment for state officials and military personnel convicted of high treason. The amendments to the country’s criminal code endorsed by leader Alexander Lukashenko envisage death sentences for officials and service personnel who cause “irreparable damage” to Belarus’s national security through acts of treason.

  • (……)さんのブログから。これはかなりすごい、おもしろいエピソードだ。ちょっとガルシア=マルケスをおもわないでもない。

 一九七六年九月のある日の朝、高校二年生だった私たちはいつものように、授業の前に全員起立し、黒板の上の毛沢東像に向かって斉唱した。
「偉大な領袖、毛主席の長寿を祈ります」
 そのあと席につき、国語の教科書の毛沢東に関する部分を朗読した。当時はあらゆる文章で毛沢東を描写するとき、「顔の血色がよく、元気にあふれている」という表現を必ず使った。
 この表現は小学一年の教科書から始まって、高校二年までずっと続いて変化がない。ちょうど我々が、毛沢東は「顔の血色がよく、元気にあふれている」と朗誦したとき、学校の拡声器が鳴り出した。九時から重要な放送があるので、全校の教員と生徒はすぐ講堂に集合せよという。
 我々は自分の椅子を学校の講堂まで運んだ。千名ほどの教員と生徒が、講堂で腰を下ろしてから三十分ほど待った。九時になると、ラジオから悲しいメロディーが流れ出した。私はすぐに不吉な予感がした。これより前、中国共産党の二人の重要人物、周恩来朱徳が亡くなっている。この一年、我々はラジオから流れる悲しいメロディーを聴き慣れていた。
 ゆっくりとした音楽が終わり、アナウンサーの悲痛な声が響き出した。「中国共産党中央委員会中国共産党中央軍事委員会中華人民共和国国務院、全国人民代表会、全国政治協商会議……」
 しばらく待ったあと、この五つの最高権力機構が共同で発表した「訃報」が読み上げられた。アナウンサーの声は引き続き悲痛で、ゆっくりしている。「偉大な領袖、偉大な指導者、偉大な元帥、偉大な舵取り……」またしばらく待って、ようやく毛沢東主席が病気のため不幸にして世を去ったことが伝えられた。アナウンサーの悲痛な声が、まだ「享年八十三歳」と言う前に、学校の講堂は泣き声に包まれた。
 我々の領袖が世を去った。私も涙が止まらなくなった。私は千人の泣き声の中で泣いた。天地を揺るがすような泣き声、息も絶え絶えの泣き声、いまにも窒息死しそうな泣き声を聞いているうちに、私の思考は乱れ始めた。もはや悲しみに支配されることはなく、奇妙な泣き声に心を奪われた。数人が泣いているのなら、きっと悲しみを感じただろう。しかし、千人が同時に大きな部屋の中で泣いているのは、むしろ滑稽に思われた。こんなに豊富で多彩な泣き声を聞いたのは初めてだ。たとえ全世界のあらゆる種類の動物が代表を派遣して、我々の学校の講堂に集まり一斉に泣いたとしても、この千人の泣き声ほど珍妙ではないと思う。
 この場違いな考えは、あやうく私の生命をおびやかすところだった。私はこらえきれずにこっそり笑ったが、そのあとに込み上げてきた笑いは慌てて呑み込んだ。当時、笑った顔を人に見られたら、私はすぐに反革命分子となり、そこで一巻の終わりとなっただろう。私は必死に笑いをこらえたが、体内を笑いが駆けめぐり、いまにも吹き出しそうになった。もうダメだと思った私は恐ろしくなり、両腕を交差させて前の生徒の椅子の背に乗せ、頭を深々とそこに突っ込んだ。私は千人の泣き声の中、びくびくしながら笑っていた。笑いを止めようとすればするほど、おかしくてたまらなくなった。
 私のうしろにすわって涙と鼻水を流していた生徒たちは、かすんだ目で私が前の椅子に突っ伏しているのを見た。また、私が笑いをこらえるために肩を震わせているのも見た。これらの生徒は、私が毛沢東に強い思い入れを抱いていると誤認し、あとでこう言った。
「余華の泣き方がいちばん激しかったな。いちばん肩を震わせていたのも余華だった」
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)

 テロルの大規模な発動に対する人々の不安が高まるなかスターリンは脳の発作で倒れ、一九五三年三月五日に死去した。これによりテロル発動の危機は去ったが、スターリンは、テロルの恐怖で人々を支配しただけの暴君ではなかった。スターリンの死が報じられると、多くの国民がその死を嘆き悲しんだのである。首都モスクワでは、スターリンとの最後の(end87)別れを求めて告別会場へ詰めかけようとした人々が将棋倒しとなる事故も起こった。
 当時モスクワ大学の学生だったゴルバチョフは回想に記している。教師が「悲しみにうち震え、涙ながらに学生に伝えた。『偉大な指導者は七十三歳の生涯を閉じた』」。学生には親類縁者が弾圧された人も少なくなく、政権の独裁的本質をすでに見抜いていた人は多かったが、「ほとんどの学生はスターリンの死を心底悲しみ、国にとっての悲劇であると考えた。正直に告白すれば、当時は私もそれに近い感情を抱いていた」。「この指導者のことをどう思っていたかに関係なく、国民は誰もが一様に『これからいったいどうなるのだろうか』という思いにとらわれた」。
 (松戸清裕ソ連史』(ちくま新書、二〇一一年)、87~88)

  • したのはなしもおもしろい。

 一つ目は小学校を卒業した年の夏休み、一九七三年だったと思う。文化大革命は七年目を迎え、我々が見慣れた武闘(武力闘争、特に文革中の暴力行為を指す)と野蛮な家宅捜索はすでに過去のこととなっていた。革命の名のもとにくり広げられたこれらの残酷な行為にも疲労の色が表れ、私が暮らす小さな町は抑圧と窒息に包まれたまま小康状態に陥った。人々はますます臆病で慎重になった。ラジオや新聞は相変わらず毎日、階級闘争を呼びかけていたが、階級の敵にはしばらく出会った記憶がない。
 そんなとき、町の図書館が対外開放を復活させた。父が私と兄のために図書館貸出証を入手してきてくれたので、退屈な夏休みにやるべきことができた。私が小説を読むのを好きになったのは、そのときからだ。当時の中国では、ほとんどの文学作品が「毒草」とされていた。外国のシェイクスピアトルストイバルザックらの作品も毒草、中国の巴金、老舎、沈従文らの作品も毒草、毛沢東フルシチョフが反目、敵対したため、ソ連の革命文学も毒草となった。大量の蔵書が毒草として廃棄されたので、再開した図書館にはいくらも本がなかった。書棚に置いてある小説は二十数種だけで、すべて国産のいわゆる社会主義革命文学だった。私はそれらの作品をひと通り読んだ。『艶陽天(うららかな日)』、『金光大道(輝ける道)』『牛田洋』『虹南作戦史』『新橋』『鉱山風雲』『飛雪迎春』『閃閃的紅星(きらめく赤い星)』など……。当時、いちばん好きだった本は『閃閃的紅星』と『鉱山風雲』である。理由は簡単で、この二冊の小説の主人公が子供だからだ。
 こうした読書体験は、その後の生活に何の痕跡も残さなかった。感情も人物も、ストーリーさえも読み取ることができず、読み取れたのは無味乾燥な様式で階級闘争を語っていることだけだった。それでも私は、全部の小説を真剣に最後まで読んだ。当時の生活がこれらの小説以上に無味乾燥だったから。「飢えているときは食べ物を選ばない」という諺がある。私の当時の読書体験はまさにそれだった。小説でありさえすれば、文章が続く限り、私は読むことをやめなかった。
 二〇〇二年の秋、私はベルリンで二人の老漢学者に会い、一九六〇年代初期の中国の大飢饉について語った。この教授夫妻は実体験に基づく話をした。当時、彼らは北京大学に留学していたという。夫は家の急用で先に帰国し、二か月後に妻からの手紙を受け取った。妻は手紙で、こう知らせてきた。大変だ。中国の学生は北京大学の木の葉を食べ尽くしてしまった。
 飢えた学生が北京大学の木の葉を食べ尽くしたように、私は木の葉よりも消化しにくい町の図書館の小説を読み尽くした。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)

  • 日記を書いたあとは食事。二食目だが、時間的にはもう夕食である。一食目とおなじように実家からもらってきたブロッコリーと大根をスチームケースに入れ、ウインナーと豆腐も合わせて加熱する。その間にまな板包丁を洗ってしまい、あとこれも実家でまえにもらったイノシシカレーを食おうかなとおもったので、ながしの頭上にある収納部からそれを出し、紙箱はセロハンテープで封じられていたので鋏を隙間に差し入れてすべらせ開封し、パウチを取り出しておいた。電子レンジがまわっているあいだはさいきん腕を振っていたが、きょうひさしぶりにながくごろごろしながら腰や背や脚をほぐしてみるとやっぱりそれもきもちいいなとなったのでまた寝床にころがって南方熊楠についての本を読んだ。チン、と鳴ると起き上がり、スチームケースをとりだして、洗濯機のうえでいったんカバーをひらいてからもういちど持ってながしのうえに浮かせてしずくを落とし、もどすとクリーミーオニオンドレッシングをかけた(書きわすれたとおもうがいちどめの味つけもそうだった)。そうして机にうつし、鍋に水を汲んで火にかけるとともにイノシシカレーのパウチを入れて食っているあいだに加熱が済むようにしておく。それで食事。その後大皿に米をよそってカレーも。たいした味ではない。米はあと椀に一杯分くらいある。いま一〇時四五分で、もしこのあと夜食を食う気になるならそれにあててもよいだろう。それかあした納豆ご飯を食べるか。いずれにしても冷蔵庫内の食べ物はもうすくなく、きょうはもはやめんどうくさいがあした買い出しに出る必要があるだろう。そのあしたは午後七時から通話をする予定もある。食後は皿を洗い、歯を磨いた。飯を食ったあとでもからだがそんなに違和感なく、ヤクを飲むのをすこしわすれそうなくらいだった。食事を終えて一息ついたのが八時過ぎくらいで、そこから一時間ほどはウェブをみたりして、九時くらいからまた寝床に。だいたい一時間経つと腹のなかやからだがこなれて横になってもだいじょうぶそうという感覚になる。そうしてChromebookでGuardianをみたり、(……)さんのブログを読んだり。なんだかんだ滞在してしまって一〇時を越え、それからきょうのことをここまで書くと一〇時五〇分。まちがえた、さきに書き抜きをしたのだった。九時ごろ、寝床にうつるまえに、このあいだ(三月三日の金曜日に)図書館で借り直してきたユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)の書き抜きをはじめ、ながい箇所をやっているとちゅうにいったんごろごろしようという気になったのだった。それで椅子にもどるとその箇所をかたづけてから日記。あときょうは三月四日をいくらかでも書いておくか。


―――――

  • 日記読み: 2022/3/10, Thu.
  • 「ことば」: 1- 3