「おまえたちを愛する者たちを愛したとしても、おまえたちにどんな善意(charis)があるのか。なぜなら、罪人でさえ自分たちを愛してくれる者たちを愛するからである。たとえ、おまえたちに善いことをしてくれる者たちに善いことをしたとしても、おまえたちにどんな善意があるのか。罪人もまた同じことをしている。取り返すことを期待して、貸したとしても、おまえたちにどんな善意があるのか。罪人もまた、同じものを取り返すために、罪人に貸している。だが、おまえたちはおまえたちの敵を愛しなさい。なにもお返しを期待しないで、善いことをなし、貸しなさい」( [『ルカ』] 三二~五)
(岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、126)
- 一年前より、風景とニュース。
(……)窓外は雲をはらんだ空をそれでもぬけてくるひかりによってけむりこもったような淡い白さに大気がまるごとつつまれており、川沿いの樹々はまだしも薄緑をのこしてかるいいろにふさふさ浮かんでいるが、山はといえばいろも木の襞かたちもあきらかならず白霞にふうじられ、幻影的にとおのいたかのような風情だった。新聞一面からウクライナ情勢を追う。ロシアとウクライナ間ではじめて外相会談がおこなわれたが、協議継続で一致したくらいでめだった進展はないと。ラブロフは交渉団が停戦協議をしているわけだからまずはそちらで基本をとりきめてそれにしたがいたいみたいなことを述べたらしい。韓国大統領選は一本化された野党候補の尹錫悦が当選。保守に政権が変わると。しかしわずか0. 73ポイント差くらいの大接戦だったという。文在寅政権で検事総長をつとめながら政権の不正をめぐり対立して解任された人物だが、政治経験はないわけなのでその点が懸念をもたれつつ、左派よりは反日本というたちばではないので、日韓関係は改善が期待されているとのこと。
- 瞑想について。
出勤までの時間のことはだいたいわすれたし、ということはおおきな印象事もなかったわけだが、まあ『魔の山』を読んだりだろう。起床がいつもどおりおそかったし、日記は書かなかった。帰宅後もほぼ書かず、この日の記事の一段落目を記したのみ。さいきんは日記をもう最優先にせず、てきどにあきらめることができており、からだをととのえることを重んじるようにもなれていて、だからこの日も労働に出るまえにストレッチや瞑想をした。瞑想はよい。この時間をとるととらないとでは勤務中のパフォーマンスも、心身のかろやかさも、世界のくだらなさにたいする抵抗力もだいぶちがう。うえにも掲げているがさいきん読んでいる藤田一照と宮川敬之の連載記事によれば、道元は、「しかあるに、近年おろかな杜撰いはく、「工夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也」。この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。いかでか学仏法の漢といはん。見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし」と『正法眼蔵』に書いているらしい。宮川敬之の訳は右。「そうであるのに、近年の愚かな、粗雑な修行しかしていない者たちは、「工夫坐禅して胸を落ち着かせることができるならば、平穏な境地となる(工夫坐禅は、胸襟の無事なることを得了らば、便ち是れ平穏地なり)」という。こうした見解は、小乗仏教の論者たちにも及ばず、仏の境地どころか、人間や天界の境地よりも劣っている。そのような見解を持つ者が、どうして仏法を学ぶものといえようか。現在の大宋国には、こうした安易な坐禅修行者が多くいるのだ。仏祖の道が荒れ果ててしまったことをかなしむばかりである」と。けっこうなディスりぶりである。坐禅は「平穏な境地」なんぞをめざすものではないというはなしで、とはいえいっぽうで道元は、坐禅は「大安楽の法門」だとも言っている。「平穏地」と「大安楽」とどうちがうのかよくわからないのだが、こちらが瞑想をやっている体感では、まあたしかに「平穏」というよりはもうすこし「安楽」的なここちよさがある気はする。それにたぶん、道元の批判の趣旨は、坐禅は意識的に能動的に「工夫」をこらしてこころを落ち着かせて「平穏地」にいたろうとする、そういうテクニックではない、そのようにかんがえて「平穏地」をおいもとめているれんちゅうはなにもわかっていないクソバカどもだ、ということなのだろう。これは実感としてもよくわかる。とはいえ「平穏」というか「安楽」というか、いずれにせよ坐禅はそれをめざして得ようとするものではないとしても、やっていれば結果的にそういうたぐいの効果が生じるということも事実だ。ただ、ヴィパッサナーのほうでは、サマタ的方法によって生ずるそういう三昧の快感にふけるのは危険なことであるともいましめられていたはず。サマタ的方法というのは能動的一点集中のことだから、それは道元の批判と軌を一にしている。静的瞑想によってかんじる快感は三昧とはまたちがうのかもしれないが、なんにしてもふけりすぎはよくはないとはおもう。ただそうなると、ほぼいちにちじゅう坐禅しているとおもわれる永平寺の修行僧とかどうなってんの? とおもうが。とおもっていま永平寺の坊さんのスケジュールを検索してみたところ、ふつうに掃除とか読経とかもあるので、坐禅の時間はそこまでおおくはなかった。只管打坐じゃねえじゃん(まあ、それも、ながい時間めちゃくちゃやりまくるという意味ではなく、公案とかをかんがえたりそれこそ悟りをめざしたりせず、坐禅ひとつに専心するぜ、ということなのだろうが)。曹洞宗だって仏教なのでとうぜんだが。それに、いぜんどこかで、永平寺ではサラリーマンのしごとみたいにいちにち何時間も坐禅する、というのをきいたおぼえがあるのだが、しかしこれはふたしかである。はなしをもどすと、いわゆる禅病というものがあるわけだが、それもこちらのかんがえでは、集中性瞑想をやりすぎることで心身に負担を強い、そのけっかバランスがくずれてなるものなのではないかと推測している。そもそもにんげんの意識は本性上ながい時間一点に集中することをしやすいようにはなっておらず、つねに拡散的に揺動しているものであって、それは瞑想のたぐいをすこしでもやってみたり、そこまでいかなくともちょっと自己相対化の視点をもてば容易に理解されるはずだ。それを無理に一所に定位しつづけようとすればとうぜんながら負担はおおきい。いわゆるマインドフルネスのたぐいは西欧一般でもシリコンバレーなどのビジネス界でもいまや隆盛をきわめているといってよい世相だが、もとは仏教のヴィパッサナー瞑想から由来していたはずのそれはけっきょくのところたんなる精神集中法として俗流化してしまっているというのが藤田一照の批判(ほんにんはなるべくつよく糾弾するような表現を避けようとしていたとおもうが)である(ついでにいえば、それらはほんらい仏教が宗教としてもっていたはずの倫理性を脱色され、ストレスを減らしながら現状にうまくてきごうしてやっていくための世俗的なツールと堕している、という批判もある)。あらゆる宗教はなんらかのかたちで超越への志向をはらみもつものであるはずで、道元も、うえの連載で思量・不思量・非思量のはなしとその解釈を読むかぎりでは、もちろん超越にふれることを、かれの特徴上めざしているとはいいづらいのかもしれないが、すくなくともその契機を枢要なものとして思考していることはたしかだろう(そもそも「仏」とは超越いがいのなにであるのか)。そして、倫理性とはまさしくなんらかのかたちでの超越への志向や、すくなくとも超越との関係においてしか生じえないものではないのか? その倫理性がじっさいに人間社会や人間関係のなかで表出されるありかたには良し悪しがあるとおもうが、どちらにせよひとが倫理をかんじ引き受けようというからには、なんらかの超越性がそこに介在する気がするのだが。だからひとが倫理を捨てないかぎり宗教も終わりはしない、といえるのかもしれないが、とはいえこれはあまりに一般的で、雑駁すぎる標語である。「宗教」と「宗教性」はあきらかにべつものなわけだし。禅病のことにはなしをもどすと、一点集中的なやりかたをがんばりすぎるとそうなるのではないかということともうひとつ、瞑想的状態のなかで精神にばかりフォーカスしてしまい、身体をかんじることがおろそかになるというのがその原因にあるのではないかともじぶんは推測している。デカルトはそれを信じないだろうが、やっぱりなんだかんだいっても、主体としてのわれわれの存在感覚を根本のところでさだかにささえているのは、呼吸だの鼓動だの皮膚や内臓の感覚だのではないかとおもうのだけれど。だからそれが意識にはいらず、それを無視して思念ばかりが目にみえて思考にとりかこまれるような状態になると、やはり心身の、もしくは精神のバランスがくずれて自家中毒みたいなことになるのではないかと。
- 往路。
出勤は三時。徒歩。ひかりを背にうけながら坂道にはいってふりむくと、太陽がまだ西空に凝縮的な球としてかがやいているのが視界にのぞき、下方に敷かれた近所の家々は安穏な空気のなかであかるみに憩うている。出口ちかくでガードレールのすぐそとに斜面から一本木が伸びていて、その両側を篠竹というものか、なよやかにほそい竹が添い、いま風をうけて葉をさらさら鳴らしながら、そのひろがりをやわらかく曲げて左右にゆっくりかたむいて、木にしなだれかかるようにしていた。(……)さんの宅の横では、もう黄色がさほどおおきくもみえないが、おとといにつづいて蠟梅の香りがまたマスクをとおしてふれてくる。街道に出る交差部の斜面の梅がすこし斬られたようだった。おもてみちのむこうではここでも竹がシズルシンバルのようにたなびき鳴っていて、風はうたがいなく春のもので音響はかわいたやわらかさ、つめたさは肌のどこにもむすばずすずしさにしかいたることなく、予想はしていたが陽のある歩道をいくうちにマフラーは暑くなったので取り去って、コートもまえをひらいて左右のあわせがうしろにながれるかるくさわやかな身となった。
きょうは公園に子どものすがたはすくなく、せんじつのにぎやかなざわめきはないがそれでも数人いたようだ。まえを老人がひとり行っていた。トレンチといってよいものなのか、テレビドラマのくたびれた刑事なんかが着ていそうな薄色のコートに山高風の帽子もあわせたかっこうで、老体らしく背はやや丸まってあゆみはおそい。すこしずつ距離を詰めながらみていると、すこしとぼとぼというおもむきの歩にあわせて丸まった背のうえでコートの生地が寄り、襞がつくりだす点状の影があらわれてはすぐ消えることをくりかえし、足がわるいというほどではなさそうだが左足がうごきづらいのか、さきにまえに出した右をささえにして左をそれに寄せてあるくような気味があった。よほどちかづいてもふりむかず、横にかかったときにとまってこちらをむいたようだったが、それにむきかえさず、ゆっくり抜いていそがず行った。
- 勤務中の一幕。
(……)かれのばあい印象にのこるのは勉強内容よりも、授業中もいろいろくっちゃべったり遊んだりしているからそちらのほうで、なかなかおもしろい。きょうはせっかく(……)を受験して受かったというのに、やっぱ行きたくないな、(……)行きたい、と憂鬱そうにしていたので笑った。友だちと別れるのが嫌なようだ。その友だちの顔をとちゅうでノートに落書きしてならべており、七人くらいいてみんなおなじ顔おなじ表情の絵になっているなかで、ひとりだけほかとちょっとちがう風貌のものがあったので、このひとだけちがうじゃんというと、こいつはとんでもないやつ、クソ野郎なんですよ、にんげんとしてクズなんですよとめちゃくちゃけなすのでわらった。わるいことをしようとしている、小学生とはおもえない、なんだかわかりますか? ときくので、なんだろうとおもいつつ、万引き? とか、ひとのものを盗む、とかいうと、後者がちかいと。さらにひとの金を盗む、とつづけたがそうではなく、正解は、ひとのかのじょをとろうとしている、とのことだった。それはたしかに小学生らしからぬ恋愛事情かもしれず、すごいな、もうかのじょいんの? 小学生のわりにドロドロしてんな、とわらった。なんと、(……)もかのじょがいるという。やばいね、はやいね、やるじゃん、などといっていると、先生はかのじょいますか、とか、いままでかのじょいましたか、とかきかれたので、いやいないいない、おれはマジでモテないから、いたことない、つきあったことない、マジでぜんぜんモテないから、とひたすら否定した。(……)も入塾当初は入り口付近でこちらをみてあいさつすることすらできない気の弱い子どもだったが、いまではいろいろそういうふうにはなしたり、文句を言ったり、快活なようすになったので、これも成長したということだろう。それはよかった。
- 帰路。
帰路はきょうも遠回りした。なんとなく、川の音をききたいような気がしたからである。街道沿いの「(……)」のまえの自販機で、コカコーラゼロの缶とキリンレモンの缶をそれぞれ買い、東へ。せんじつはとちゅうで右にはいって足音が左右の壁に反響する家々のあいだの坂をおりていったのだが、きょうはそこをすぎてさらに東へすすみ、徒歩の往路でいつも街道に出ている交差部から裏にはいった。木の間の坂道にかかると川のひびきがはじまって下方から浮かびあがってくる。樹々の密集や建物の遮蔽によってきこえづらくなる場所もありつつ、出口まえではひだりに空間がひらけてかなたの山まで妨げなくひとつながりになるから音もまた明瞭にあらわれて、川には灯もないからとうぜん闇につつまれており水はみえず、そのあたりにただ一様の真っ黒な壁が横にながくたちあがっているのは沿岸の樹々の夜姿だけれど、その闇のかたまりがそのまま水のざわめきと化しているようなひびきのきこえかただった。
- 夕刊から。
夕刊の二面に日野皓正のはなしが載っていた。もう八〇歳くらいのようだ。そのわりに若く、溌剌としているようにみえる。六〇年代に、白木秀雄のバンドからキャリアがはじまったらしい。六七年だかそのくらいに出したソロデビューアルバムがヒットして人気になったが、やっぱり世界がすごいな、せまい日本で井の中の蛙でいちゃいけないなということで七五年に渡米。Jackie Mcleanにみとめられてそのバンドに参加していたらしい。Art Blakeyともやっていたらしく、八〇年代前半のことだというエピソードがひとつかたられていた。ジャズフェスティヴァルかなんかでいろいろ有名なプレイヤーがつどってセッションすることになったときに日野も参加し、実力者たちのなかだからと意気込んでプレイしたところ、終演後にBlakeyから、テルマサ、じぶんを証明しようとするな、といわれたという。Blakeyはすぐに、おまえはもうじゅうぶん有名なんだから、とフォローしてくれたというが、それでまわりをきかない、ひとりよがりなプレイをしていたのだなとショックを受けたとのこと。年が経っていまではBlakeyのことばはすこしちがう意味でも理解されていて、それは要するに、やっぱり無我の境地というのが音楽なのだということで、音楽というのは天から降りてくるものを翻訳して表出するものであり、無我においてこそそれができる、Blakeyのことばはそういう後年のじぶんのかんがえをも先取りしているものだったと。Art Blakeyのドラムなんて、むしろじぶんを証明しまくってない? ともおもうが、八〇年代ということはもう晩年だから、そういう境地にいたっていたのかもしれないし、一面で派手で特徴的ではあってもサポートのときなどたしかに繊細さがみえることもあるし、またずっとながくバンドリーダーとしてやってきたにんげんでもあるから、メンバーの音をきいたり全体をみまわしたりしてバックで介入したり調節したりしながらささえるということはお手の物でもあっただろう。いずれにしても、じぶんを証明しようとするな、というのはけっこういいことばではないかとおもった。
- この時期も日記が追いついていないはいないのだけれど、それでも連日、いろいろ密によく書いているなという印象。
- きょうははじめ六時半にいちど覚めて時刻をみたものの、そこではたしかな覚醒・起床にいたらずあいまいな時間にはいりこみ、最終的に九時半をみた。天気は晴れ。午後三時現在でも空は雲混じりながらよく晴れており、レースのカーテンは全面にあかるみを受けて布の白さのうえにべつの白さをかさねながら涼しげな薄影も波打たせ、そのあかるさのおかげで明度を落としているパソコンの画面がすこしみづらいくらいだ。いちど布団を抜けて立ち上がり、トイレに行って用を足すとともに顔を洗い、水を飲むと腕もちょっとだけ降ってから臥位にかえった。Chromebookでウェブをみたり、一年前の記事を読んだり。それで離床するころにはもう一一時が目前だったか、過ぎていたかもしれない。瞑想はサボる。水切りケースのなかをかたづけて食事の支度へ。実家からもらったブロッコリーをはやくもつかいきってしまったし、温野菜にするにしても緑のものがなにもないから、大根くらいしかやりようがない。大根はもともとあったやつと、実家でもらってきた二本とで多くある。それにタマネギでも合わせるか? とおもったが、ニンジンが一本あまっていたのでそちらにすることに。それぞれ薄切りにして、手のひらのうえでこまかく切った豆腐もくわえて電子レンジへ。まな板包丁を洗い、それから腕を振り、椅子について首や後頭部をうしろにあずけて左右にうごかしマッサージをしたりも。また、さくばんはまた寝床にうつっているうちにあいまいな就寝をむかえてしまったのでアレジオン20を飲めなかったところ、このへんで鼻水とくしゃみが活発化してきていたので服用した。そうして食事。温野菜にはクリーミーオニオンドレッシングをかけた。その他納豆ご飯とバナナとヨーグルト。米がなくなったのでよそったついでに釜は水にひたしておく。納豆のパックなども漬けておき、食後はさきに歯をみがいた。その後皿洗いも。洗濯はきょうはせず。数がすくなかったので。シーツを洗いたいのだがここで洗うと花粉のためにやばくなるのではないかと躊躇してしまう。そのくせきょうは掛け布団のほうを陽に当てようと柵に干したのだが。そうしてシーツのついた敷布団のほうは、いつものようにたたむのではなくて、一面すべて窓によりかからせるかたちで立て、たおれないように枕とクッション(旧枕)をささえにしておいたが、しかしそれも食事に切りがついてから三〇分ほどが経つまでのことである。からだのめぐりがよくて、一時間待たずともごろごろする気になった。めぐりがよいのはきのうもたくさんごろごろしながら背面や脚をほぐしたからで、けっきょくこれがいちばんのメンテナンス法なのではという気がする。ごろごろしているあいだは本も読めるし。ただ大事なのは、脚をもみほぐすだけでなく、腰や背面もじゅうぶんにやわらげることだなと再認識した。腰のあたりをほぐしてから脚を揉むのとそうでないのとでは効果がかなりちがう。胃の違和感なんかも、背面下部の背骨の出っ張りあたりが反応点のようにかんじられる。つまりこのへんがこごっているとひりつきやすいのではないかと。そういうわけできょうもWoolfの英文を音読したり、『Gabi Hartmann』をBGMに三月二日と三日の記事を投稿したりしたあと、一二時半をむかえずして寝床にうつり、松井竜五『南方熊楠 複眼の学問構想』(慶應義塾大学出版会、二〇一六年)を読んだ。このくらいのおおきさの本だとあおむけでもっていると(胸のうえにクッションを置いてそれを腕置きとして支えにしてはいるものの)腕がだいぶ疲れてくる。とくに肘のあたり。それなのでときどき本を置いて、手を組んで両腕をまえに伸ばしてみたり、上腕や肘のあたりを揉んだりしながらすすめた。いつもは書き抜きたい箇所にめぐりあったらその場で本を置き、書き抜き箇所メモノートとペンをとりあげて記すことがおおいのだが、きのうきょう、そのようにたびたび本を置いて持ち替えるのがめんどうくさく、ある程度の分量を読んだあとにいったん起き上がって、そこでふりかえりながらノートにページを記すという方式になっている。きょうすすめたのは第Ⅴ章「ハーバート・スペンサーと若き日の学問構想」の章で、いまそのつぎの第Ⅵ章「「東洋の星座」と英文論考の発表」にもすこしはいっている。ページでいうと184から232。Ⅴ章はハーバート・スペンサーがとうじの学問界隈で影響力のおおきな存在だったこととか、その思想や学問についてもある程度知ることができておもしろい。鉄道技師から学者に転じた独学の徒だったらしく、学校制度になじめなかった南方熊楠もその点共感を得ていたようだ。スペンサーのあつかった分野は幅広く、社会進化論や黎明期社会学方面の認識がつよいが、その取り組みはじっさいにはいまでいう宗教学や文化人類学のようなものにちかいという。明治期日本にもその影響は流入しており、七八年に来日した(とうじ二五歳の)アーネスト・フェノロサが東京大学での講義でスペンサーをとりあげているし、「当時の日本の言論界にあっては、スペンサーは民権派にも国権派にも、自説を裏付けるものとして利用されていた」(195)と。南方熊楠はアメリカ時代にスペンサーの著作をいろいろ買って本に書き込みをしながら読みこみ、いっぽうで傾倒するとともに他方では(主に私信のなかで)さまざまな面から批判も向けている。スペンサーにかんしてひとつおもしろかったのは、「記述社会学」というプロジェクトをかれがおこなっていたことで、いわく、「スペンサーは『社会学原理』の執筆に先立って、膨大なデータ収集を計画し、これを『記述社会学』 Descriptive Sociology という名のシリーズで刊行していた」(209)。そして、「この資料収集は、スペンサーの指示によってダンカン(David Duncan)が開始し、シェッピング(Richard Shepping)、コリア(James Collier)と受け継がれて作成されていった」(209)というのだが、こういう百科事典的こころみというか、知のアーカイヴみたいなものは、啓蒙時代の百科全書派とはまたちがった意味合いで一九世紀を特徴づけているのかなあと、これはなんの根拠もないただの憶測なのだがそんなことをおもいもするし、またいっぽう、トーマス・マンの『魔の山』のなかでもこんなようなプロジェクトが描かれていたなとおもいだした。それはたしか「苦痛社会学」みたいなもので、にんげんの苦痛というか不幸か、にんげんのあらゆる不幸にかんする資料を分野別に収集することで人類文明の発展、すなわちそうした不幸の撲滅に資することを望むというわけで、作中ではスイス高山中のサナトリウムに滞在している軽妙で饒舌で滑稽でややうっとうしくもあるイタリア人の人文学者であるセテムブリーニ氏が、じぶんが属しているなんとかいう人文学的組織の本部が(バルセロナにあるのだが)そういうプロジェクトへの参加を要請してきたとハンス・カストルプに語り、光栄なことにじぶんはこの一大計画のなかの文学部門をまかされることになったと誇らかに告げていたが、いま典拠をさがしてみよう。ただ、この件はまだ書き抜いていなかったようなきがするのだが。下巻のほうじゃなかったっけ? いや、上巻だった。Evernoteをひらきつつも、そちらを調べるよりブログを検索したほうがはやいのでは? とおもって、「社会学」でサーチしてみたところ、2022/5/28, Sat.の冒頭に書き抜きが提示されてあった。細部で記憶違いがあるので正確な情報は以下を読まれたし。
(……)ところでこの印刷物ですが……あなたにこの印刷物の内容についてお聞きになりたいというお気持はおありですか。……では、まあお聞きください。この春にバルセローナで、連盟の総会が盛大に催されました。――ご存じと思いますが、この都市は、政治的進歩の観念と特殊な関係にあります。一週間にわたって祝宴や祭典の中に会議が続けられました。実は、私もぜひと思って、会議に出席することを熱望したのですが、顧問官の悪党に死ぬのなんのとおどされて、許可が得られなかったのです。――私はといえば、死ぬのが恐くて、出発を断念いたしました。お察しいただけると思いますが、不健康を理由に甘受しなければならなかったこの痛手に、私は絶望へ追いやられたのです。何が悲しいといって、私たちの有機体、その動物的部分のために、理性への奉仕を妨げられるということほどに悲しいことはありません。それだけに、ルガーノの支部からきたこの手紙は、私をことさら喜ばせるのです。……あなたは手紙の内容に興味をいだかれることと思いますが(end509)……そうだろうと思います。ではその大要をお話ししましょう。……『進歩促進連盟』は、人類の福祉を招来すること、つまり組織的な社会活動によって人類の苦悩を防ぎ、さらにその苦悩の完全な絶滅を目的とするところから――またこの最高の任務は、完全なる国家を究極の目的とする社会科学の援助によってのみ達成されるという事実に鑑み――連盟は、巻数の多い『苦悩社会学』という表題の叢書編纂をバルセローナにおいて決議したのです。これは、人間の苦悩をそのあらゆる種別に従って、体系的に綿密に徹底的に研究する事業なのです。あなたは、種別や体系がなんの役にたつかと反駁されるかもしれません。それに対する私の答えはこうです、整理と分類こそ征服の第一歩であり、真に恐るべき敵は、未知ということだと。私たちは、人類を恐怖と忍従の無感覚の原始状態から解放し、目的を意識した活動へと導いていかなければならないのです。まず原因を知って、それを除けば、おのずから結果が消滅すること、また個人の苦悩の大半は、社会組織の欠陥に基づくこと、それを人類に知らせなければなりません。そうなのです、それが『社会病理学』の意図するところなのです。この病理学はだいたい二十巻の百科辞典ふうの叢書として、考えられるかぎりの人類の苦悩をすべて列挙し分析するはずです。ごく個人的な私的な苦悩にはじまって、大きな集団的な葛藤、つまり階級闘争とか、国際間の衝突から生ずる苦悩に至るまでですね。要するに『社会病理学』は、人間のいっさいの苦悩を構成する化学的分子を、その種々の混合や結合以前の状態に還(end510)元し、摘出して見せるのです。そして苦悩の原因を取除くために、有効適切と思われる手段と方策とをあらゆる場合に人類に提供して、人類の尊厳と幸福という目標に到達しようというのです。この苦悩の百科辞典編纂には、ヨーロッパ学界の著名な専門家、つまり医師、国民経済学者、心理学者等が協力を惜しまないでしょう。そしてルガーノの編纂本部は、原稿を集める集水桶になるでしょう。ではこうした仕事の中のどんな役割が私に課せられたのか、とあなたは眼でお尋ねになっておられますね。まあ最後までお聞きください。この大事業は、文学が人間の苦悩を対象とするかぎりは、文学を無視しません。文学のためにとくに一冊が予定されていて、そこでは苦悩者を慰め導くという目的で、世界文学中の、個々の葛藤で参考になりうるような傑作が全部集められ、簡潔な分析がなされる予定なのです。そして――これこそこの手紙の中で、あなたの忠実な下僕に命じられている仕事なのです」
(トーマス・マン/高橋義孝訳『魔の山』(上巻)(新潮文庫、一九六九年/二〇〇五年改版)、509~511)
- 二時をまわったあたりでいったん起き上がり、湯を浴びた。それから日記という段だけれど、まだすこしだらだらしたい気がしたので、髪をかわかしたあと水気ののこったあたまを枕にあずけてふたたび横になり、書をもうしばらく読んで三時。そうして起き上がってきょうのことをここまで記せばいまは三時四九分。このあと午後七時から通話の約束がある。そのまえにスーパーに買い出しに行ってくるべきだが、いま行くか、それともさきに二食目を食べて夕方に行くか。
- (……)さんのブログから。
(……)先生は前回同様、中国における男尊女卑のひどさについて、その後いろいろと語った。田舎では今でも女の子には学校に行かせないとか、7歳くらいの女の子に家事をすべてやらせておきながらその兄ないしは弟はとことん甘やかすとか、女の子は中学・高校を出るなりすぐに働きに出なければならずその給料も兄ないしは弟の小遣いとして没収されるとか、いまだにそんなことがあるのかみたいな話だった。高校時代だったか大学時代だったかのクラスメイトに、農村出身の女の子がいたのだが、その子の故郷というのがガチガチの封建社会だったらしく、クラスメイトの男の子が座っていた椅子に別の女の子が入れ替わりに腰かけたのを見たその子が、男性がさっきまでいたところに女性が座るなんて「不謹慎」だとして騒ぎ出したことがあり、そのときはたいそうショックを受けたと(……)先生はいった。そんな発想がありうるのか、と。また、大学時代は、同級生に兄弟姉妹がたくさんいることに大変驚いたという話もあった。(……)先生は(……)でも都市部で育った人間なので、周囲はだいたいみんなひとりっ子であったわけだが、大学には当然農村出身の学生も多数いる。農村はひとりっ子政策の対象外だったため、兄弟姉妹のいる家庭も多い。それまで(……)先生にとって、兄弟姉妹=双子という認識だったので、これにはたいそう驚いたとのことだったが、この「兄弟姉妹=双子」という前提があったという話が、これまで聞いたことのあるひとりっ子政策に関するエピソードのなかで、ある意味もっともなまなましく感じられた。
*
(…)ウクライナ情勢の話が本格的に交わされたのはこのタイミングだったと思う。(……)先生、やはりロシア批判派だった。安心した。中国のネットではプーチンがかわいそうだという意見すらある、どうかしている、本当におかしいと、(……)先生はしきりに憤った。いまのプーチンを見ていると本当に核戦争になりかねないおそろしさがある、どうもまともに見えない、ロシア関係の専門家の多くが侵攻はありえないだろうなぜならメリットがないからだと判断していた、その判断をうらぎる行動に出た、いまのプーチンは普通ではありえない選択をとりうるということだ——そういう話をした。そもそも今回ロシアがウクライナに対してやったことって日本がかつて中国にやったこととそっくりですよね満洲事変とか盧溝橋事件とかというと、そうなんですなのに中国は全然ロシアを批判しないんです完全におかしいですと(……)先生は我が意を得たりといった口調で応じた。中国の教授五人組による声明について切り出してみると、(……)先生もやはりネットで見たらしかった。しかしその後さらに100人以上の名前が加わった件については知らなかったようだ。中国の知識人はとても勇敢だと思う、同じような状況にあったときに日本でこうした声をあげることのできる知識人がどれくらいいるか正直わからないというと、それでも中国国内ではまだまだ声が小さすぎると(……)先生はいった。
独裁は結局こうなるんですよねと(……)先生は踏み込んだ。中国もシュウになってからどんどん……というので、あ、そこまで批判的なんだとやや驚きながら受け止めつつ、まあ正直かなり嫌な方向にむかっていますよねと受けた。授業中はこういう話なんてできませんけど、でも学生のなかにはやっぱりいまの状況に批判的な子もいることはいますね、(……)さんなんてけっこうはっきりシュウのことを批判していましたよ、彼女とはそういう話もけっこうたくさんしましたと続けたのち、(……)さんは彼が主席の任期を撤廃したときに相当ショックを受けたようです、ニュースそのものにもですけど周囲が良いニュースだと喜んでいたのが特にショックだったみたいでというと、日本語学科のクラスメイトたちが喜んでいたんですか? とややショックを受けた表情でいうので、いえ高校時代のクラスメイトらしいですが、ものすごく優秀で勉強もよくできるクラスメイトたちがそんなふうにしか物事をとらえることができないのがショックだったようですと受けた。
私の世代はもっとも改革開放の恩恵を受けていると思いますと(……)先生はいった。こういう話題は家で旦那さん相手に交わすことはあるが、外ではよほど気心の知れた相手にしか打ち明けることができない。父親もいまではTikTokの愛国動画ばかり見て、すっかり妙な愛国心の持ち主になってしまったというので、田舎の両親がネトウヨになってしまうという例のあの現象が中国でも発生しているわけかと思った(日本でも同じようなことがたくさん起きていますと受けたし、ついでに以前(……)くんとも話したことであるが、西欧人らによる「日本すごい!」「中国すごい!」動画の馬鹿馬鹿しさについても言及した)。父親は世代的に日本にもアメリカにも西欧社会にも良い印象を持っていない、しかし十年ほど前に一度ヨーロッパを旅行したことがあり、そのときはさんざんヨーロッパにかぶれた、街並みはきれいであるし人間は親切であるし日曜日は仕事をせずにみんなゆっくり休んでいる、なんてすばらしい社会なんだろうと、完全にヨーロッパびいきになったというのだが、最近はまた元の木阿弥になってしまったとのこと(年齢が年齢であるし、いまさらどうのこうのいっても難しいので、特に議論などはしていないのだが、家庭でそういう中国すごい的な話ばかり聞かされていると、さすがにしんどいという)。こういう話をきくと、東浩紀ではないけれどもやはり観光客の持つ力というものを感じないわけにはいかない。コロナ以前の世界で中国の対日感情が一時期かなり改善されていたのは、実際、日本側が爆買いとして厭うていた中国人観光客らが帰国後にそのポジティヴな印象を母国で拡散したからだという調査結果みたいなものもあったように思うが、コロナ禍で気軽な海外民間交流が途絶えてしまったことは、国際関係上、長期的におそろしいリスクをもたらすのだろう。
- 本の引用も。
四つ目の読書体験は、一九七七年に始まる。文化大革命が終結し、毒草と見なされた禁書が改めて出版された。トルストイ、バルザック、ディケンズらの文学作品が最初に我々の町の書店に並んだときの反響は、現在で言えばスター歌手が田舎町に登場したようなものだった。人々は走り回って情報を伝え合い、首を長くして到着を待った。我々の町に届く図書の数量には限りがあるので、書店は告示を出した。行列して整理券を受け取ること、整理券は一人一枚、一枚で二冊まで購入可能。
私は図書購入の壮観さをいまだに覚えている。夜明け前、書店の門の外にはもう二百人あまりの長い行列ができていた。一部の人は整理券を手に入れるために、前日の夜から腰掛けを持ってきて、書店の門の外に陣取った。秩序正しく列を作り、雑談を交わしながら長い夜を過ごした。朝早くやってきた人々は、自分が出遅れたことに気づいた。それでも彼らは幸運を願って長蛇の列に並び、整理券をもらえるチャンスがあると信じていた。
私もまさに、遅れてきた中の一人だった。ポケットに忍ばせた五元札は、当時の私にとっては大金だ。書店に向かう途中、私はずっと右手でポケットの五元札を握りしめていた。振り動かせるのが左手だけなので、到着したときは体が左に傾いたままだった。上位の席次が得られると思っていたから、私は自分が二百番よりあとだと知って半ば落胆した。私のあとからも、続々と駆けつける人がいる。彼らの不満の声が聞こえた。
「早起きしたのに、着いてみれば遅刻かよ」
朝日が昇るころ、この三百人あまりの隊列は、睡眠をとっていない集団ととっている集団に分かれた。前方の一団は腰掛けにすわって一夜を過ごしていた。これらの一睡もしていない人たちは整理券獲得に自信を持っていて、買うべき二冊の本について議論している。後方の一段はひと眠りしてから駆けつけた人たちだ。彼らの関心事は、整理券が何枚配られるかだった。その後、情報が乱れ飛んだ。まず、前方の腰掛けにすわっている人が百枚を超えるはずはないと言い、すぐに後方に立っている人から反駁を受けた。中ほどに立っている人が二百枚は出すだろうと言ったが、それよりうしろの人たちは同意せず、もっと多いはずだと主張した。こうして整理券の数は水増しされ、最後に誰かが五百枚は配るだろうと言った。これには全員が、そんなに多いはずはないと反対した。並んでいるのは全部で三百人あまりだ。もし五百枚も配るのなら、苦労して行列した我々はバカを見ることになる。
七時ちょうどに、我々の町の新華書店の門がゆっくりと開いた。私の心に、何か神聖な感情が湧き上がった。古びた門はギーギーと耳障りな音を立てたのだが、私はうっとりして、舞台の華麗な幕が開くような気がした。門の外までやってきた店員は、立派な司会者に見えた。ところが、神聖な感情はあっという間に消え去った。店員はこう叫んだのだ。
「整理券は五十枚だけです。うしろの方はお帰りください!」
冬のさなかに頭から冷たい水を浴びせられたようなものだ。後方に立っていた我々は、頭のてっぺんから足の先まで冷えきってしまった。一部の人は憤慨しながら帰って行ったが、一部の人は怒りが収まらず、悪態をつく人たちもいる。私はその場に立ち尽くし、右手でポケットの五元札を握りしめたまま、最前列の人たちがうれしそうに店に入り、整理券を受け取るのを見ていた。彼らにすれば、整理券は少ないほどいい。それだけ徹夜の価値が上がるのだから。
整理券を受け取れなかった人がまだ大勢、書店の外に立っていた。店内で本を買った人が出てきて、喜色満面で成果を見せびらかす。外に立っていた我々は、それぞれ知り合いを取り囲み、羨ましそうに手を伸ばして、『アンナ・カレーニナ』『ゴリオ爺さん』『デイヴィッド・コパーフィールド』などの真新しい本を触った。我々は長いこと読書に飢えていたので、これらの名作文学の真新しい表紙を見るだけでも、大いに慰められた。気前のよい人は自分の本を開いて、買えなかった人にインクの匂いを嗅がせた。私も、その機会を得た。それは初めて嗅ぐ新刊書の匂いで、すがすがしいインクの香りに思わずうっとりしてしまった。
記憶に強く残っているのは五十番以降の数人だ。その表情は「痛恨の極み」という言葉で形容できる。彼らはしきりに悪態をつき、自分を罵ったり、名前も知らない他人を罵ったりした。二百番以降に並んだ我々は、一瞬がっかりしただけだった。五十番以降の数人は、カモ鍋のカモが飛び去ったようなもので、その無念さは想像に難くない。特に五十一番目の人は、書店に足を踏み入れようとしたときに行く手をさえぎられ、整理券の配布が終わったことを告げられた。その人は身動き一つすることなく立ち尽くしていたが、その後うなだれて端に寄った。腰掛けを持ったまま、ポカンとした顔で、本を買った人がうれしそうに出てくるのを見ている。我々がそれを取り囲んで、新刊書を触ったり、匂いを嗅いだりするところも見ていた。その人の沈黙は不気味だった。私は、その人が奇妙な目つきでこちらを見ているような気がして、何度も振り向いた。
その後、我々の町の人たちはしばらく、この五十一番目の人を話題にした。彼は三人の友人と深夜までマージャンをしたあと、腰掛けを持って書店の前にやってきて夜明けを待った。後日、彼は知り合いに会うたび、こう言った。
「もう少し早く、マージャンを切り上げればよかった。そうすれば、五十一番にはならなかったはずさ」
こうして、五十一番は一時、流行語になった。誰かが「今日は五十一番だ」と言えば、「今日はついていない」という意味だった。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)
- いま三月一九日の午後一〇時半をまわったあたりであり、この土曜日のことはほかになにもおもいだせない、と書きながらおもいだしたが、夜から通話だったのだ。(……)
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- 日記読み: 2022/3/11, Fri.
- 「ことば」: 1 - 5