こうして、正しい社会は各人が自由に活動し、自分の選んだ目的を追求し、それを実現しうる社会でなければならないが、そうすると、人間には生まれつき能力差があるから、教育(end205)や職業選択の機会を万人に均等に開放していても、必然的に職業や財産において格差が生まれてくる。しかし、このことを避けるために、人間の自由に制限を加えてはならない。これが自由の原理が第一原理であるということの意味である。
社会主義社会の挫折から明らかなように、人間の自由を制限すれば、人々は活動への意欲を失い、社会は全体として疲弊する。それでは、どうすればよいか。ロールズの配分の原理とはこの問題への対処である。すなわち、人々の自由な活動は社会的弱者の利益になるという条件の下においてのみ、その存立を許容される、というのがこの原理の内容である。自由競争社会において、大きな能力によって大きな成果をあげた者は、個人であろうと国家であろうと、乏しい能力のために成果をあげえなかった弱者に、その富を奉呈しなければならない、という思想である。それは、累進課税とか、さまざまな社会福祉政策とか、発展途上国への無償の経済援助とか技術援助とか教育援助とか、さまざまなボランティア活動とか、いろいろな形でおこなわれうるだろう。
このような考え方の根拠としてロールズがあげる理由は、能力は個人のものではなく社会の共有財産(common assets)であるという思想である。なぜ、そう考えるか。なぜなら、能力は偶然に(contingent)与えられたものだからである。自分はたまたま優れた能力をもっているが、乏しい能力の所有者であったとしても少しも不思議はない。自分はたまたま日本(end206)人であり、たまたま女であり、たまたま健康であったが、すべてそれ以外であったとしても少しもおかしくはない。それゆえ、能力を私する理由はないのである。この考え方のうちにロールズ哲学の核心がある。
(岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、二〇〇三年)、205~207)
- 一年前からニュース。
(……)食べながら新聞でウクライナの情報を追う。ロシア軍のキエフへの接近は停滞しているか停まっているらしく、とおくからミサイルで攻撃するのを主としていると。高層住宅が攻撃されて人死にが出ている。ロシア側は南部ヘルソン州全域を「制圧」したと発表しており、クリミアに接した地域だからその孤立化を解消することができるわけで、東部親露派のように「ヘルソン人民共和国」の樹立をもくろんでいるのではないかという。また、東部ドネツクにむけてウクライナからミサイル攻撃があり民間人二〇人が死亡したとも発表されたらしく、プーチンは「野蛮な攻撃だ」として非難したというのだが、いったいどの口がそんなことを言うのかというはなしで、ロシアも同様の、民間人居住地域をねらった「野蛮な」ミサイル攻撃や空爆をウクライナよりもはるかにおおくおこなっているのだから、それを非難するならみずからの側でもいますぐやめなければならない。ウクライナ側はこの攻撃を否定しており、真偽は不明。
- 地震。
いまもう深夜二十四時をまわったところ。さきほど風呂にはいっていたら地震があった。浴槽のなかで脚を交差させながら伸ばして目をとじながら湯につかっていたところ、からだのしたに揺れがつたわってくるのが感知されて地震だなと気づき、しかもその揺れのじわじわとしたかんじからこれはなかなかおおきいものだとわかったのだが、はだかだし逃げるひまも場所もないしどうしようもない。さいわいあたまのうえからなにか落ちてくるような場所ではないので(もっとも、もっとおおきな地震だったら窓が割れて破片が飛んでくることはあったかもしれないが、そうしたら服を着ていないから容易に怪我をしただろう)、すぎるのを待つしかないと、うごかず姿勢もかえず余裕ぶった冷静さで天井をみあげたり目を閉じたりしてまちかまえたところ、だんだん盛りあがってきた揺れがとりわけおおきくひびいたときがあって、そのさいにはからだにちょっと不安がはしった。比較的はやいうちにとなりの洗面所でなにかものが倒れた気配もあったし、時間もながくつづいて、このへんでこれくらいということは震源ではかなりおおきかったんではないかとはかっているうちに揺れはおさまっていき、尻のしたでわずかにもたげる感触もかんぜんに絶えてから立ちあがってシャワーをつかった。母親が来て地震だったよというので、だいじょうぶだった? ときき、震度もたずねると四だという。しかしそれはこのあたりの数字とおもわれた。ともあれあたまやからだを洗って出ると、テレビのニュースが速報をつたえており、目がわるいのでこまかいところはよくみえなかったが東北地方で震度六とか五とかだったらしく、津波のおそれもいわれ福島原発に異常がないか調べられているともつたえられ、東日本大震災でやられた地域がまたこうむることになったのだった。とうぜんながら、二〇一一年三月一一日からおおよそちょうど一一年でまたということをおもった。緑茶をつくって部屋にもどってからいまYahoo!の地震情報をみたが、発生は二三時三六分ごろ、震源は福島県沖(牡鹿半島の南南東60km付近)、最大震度六強、マグニチュード七. 三とある。
- 二年前からの引用。
- いま三月二三日の午前一時。この当日には一年前の日記もどこかのタイミングで読んだらしく、以下の二箇所がメモされてあった。
ジョゼフ・チャプスキはプルースト自身と作中の「私」がほぼ同一であるという前提で語っている。つまり、『失われた時を求めて』の話者はほとんどプルースト本人であるという姿勢を基本としている。それに留保はいると思うが、さまざまな類似性があるのはたしかだし、ここではそれは大した問題ではない。作品の最後で、話者が、いわゆる文学的回心というか、舗石を媒介にしてヴェネツィアのことを想起したり、糊の強いナプキンの感触を媒介にバルベックのことを思い出したりする有名なシーンがある。その前で主人公は、自分には文学的芸術的才能がないと自覚しており、もう文学の夢を追うのはやめようとあきらめているのだが、そういういわゆる無意志的記憶の勃発によって反転的に書くべきもの、おのれの仕事を見出すにいたる。それで何年ぶりかでゲルマント家のサロンを訪れた主人公は、「自分の人生に関わった多くの知人友人たちが、時の作用によって変貌し、年老い、膨れ上がり、あるいはかさかさに乾いてしまったのを目撃することになります。台頭してくる若い世代が、彼の年老いた、または死んでしまった友人たちとそっくりな希望を抱いていることに、胸を衝かれるような衝撃を覚えます。しかし、彼はこうしたすべてを、明晰で、距離を置いた、自分とは切り離された新しい眼で眺め、ついになぜ自分が生きてきたかを悟ります。彼だけが、この人々の群れのなかで、今はいない人々を再び生き返らせることができるのです。その確信はあまりに強く、死について無関心になってしまうほどでした [﹅20] 」(45)とチャプスキは解説している。ここはやはりちょっと感動した。特に、「彼だけが、この人々の群れのなかで、今はいない人々を再び生き返らせることができるのです。その確信はあまりに強く、死について無関心になってしまうほどでした [﹅20]」の部分、それも、「死について無関心になってしまうほど」の一節。結局これなんだよなあと思った。自分が毎日しこしこ記録をつけることの理由がもし何かあるとしたら、やはりこれになるんだよなあと。何かものを書くというのは、本源的にそういうことなんではないか? とも思う。言語を用いて何かを記録したり、証言したり、描写したり、記述したり、つくりだしたりするというのは。それは、死んだものをよみがえらせるというおこないなのではないか。つまり、書くこととは蘇生術である。そのなかでも文学というものは、場合によっては、もとのない蘇生なのではないか。よみがえらせるべき死者や死物を直接的には持っておらず、参照先がわからない、もしくはないけれど、そこでたしかに死んだものが蘇生している、というようなもの。すぐれた文学や文章には、そういう要素が含まれているのではないか。どこから来たのかわからないものを蘇生させ、起源不明でつながりの先が見えず、ことによると断たれているようなものを想起させるもの(プラトンがソクラテスに語らせた想起説を連想する)。こちらの日々の書き物に照らして言えば、瞬間は瞬間ごとに消えていき、つねにすでに死んでいるわけで(それを「死」として語ることの修辞性にも多少の留保を置きたい気持ちがないではないが)、その時点でそれはもう書くにあたいするものなのだ。瞬間ごとに死んでいく瞬間を瞬間ごとに絶えずよみがえらせるための無限の努力が記憶と記録なのだということ。そして、つねにすでに死んでいる世界のことごとのなかで書くにあたいしないことなど原理的にはなにひとつ存在しないというのがいまも変わらずこちらの信仰であって、それがまだ棄却されていないことを今日再認した。とはいってもそれは原理的な話にすぎず、実際のおこないとしては怠けがちだから、最近の記事もまだいくつも仕上げられておらず、忘れることを忘れるがままにまかせてしまっているのが現実だが。ただ、そういう、消えていくものを書かねばならないという倫理感のようなものがおりにふれて自分のなかによみがえるということは確かにある。
*
(……)空気は非常にやわらかく、あたたかく、風も軽く、におやかなようで、家は北向きで玄関のそばはもう日向でないが、すこし行ったほうではまだ淡い陽射しが降りておだやかにひろがっており、その温もりが大気に染みこみつたわってこちらの肌まで届いているような感じ。林縁の区画に行ってあたりをながめる。足もとには落ち葉が集められて小山のように盛り上がっている。かすかな音が耳にとどくのは土地の脇に沢とも言えないような水路が流れているからで、その水音が散発的に、泡のように浮かぶのだけれど、水の音というより小鳥の息遣いとでも言ったほうが良いようなかそけさで、水路に寄ってみると小堀のようになっているなかは葉っぱがいっぱいに詰まっていて水などあまり見えないくらいに埋め尽くされているし、落ち葉だけでなく草も色々生えていて満員という感じで、水流も一見して流れているとも見えず、葉や草の隙間に窮屈に押しこめられて小さくしぼんだ水のおもてが空の色を希釈して映しながらただその場でつつましくふるえているだけのようにしか見えないのだが、確かに流れているらしい。(……)
- うえの描写はいまあらためて読んでみると、べつに表現としてたいした記述ではないし、書かれているものももちろんたいしたものではないのだけれど、とにかく書きたいのだなと、見聞きしたものを書きたいのだなという気配がリズムのなかにどこかかんじられて、よくただの地味な沢をこうも書くなと、おまえのその執着のようなものはいったいなんなのかと過去のじぶんにたいしてすこしおもう。
- 「読みかえし」ノートを読んでいたらうえのテーマとおなじようなはなしが出てきた。
紀元前二九〇〇年頃の第一エジプト王朝期に由来する一巻のパピルスの巻物が残されているが、保存状態が非常に悪いため今日まで開かれぬまま、その中にどんなメッセージが含まれているのか私たちは知ることができない。私は時々こんなふうに未来を想像してみる。今日のデータ記憶装置、奇妙なアルミの箱を前にして、後の世代の人々は途方に暮れて立ち尽くす。その内容はプラットフォームやプログラム言語、データフォーマット、再生装置の急速な世代交代のために単なる無意味なコードと化しており、しかも物体としては、インカの結縄 [キープ] の雄弁かつ沈黙した結び目や、もはや戦勝の碑なのかそれとも哀悼の碑なのか知る由もない謎めいた古代エジプトのオベリスクと比べて、明らかに発散するオーラが少ない。
永遠に保たれるものはないにせよ、他のものより長く存続するものはある。教会や寺院は宮殿より長持ちするし、文字の文化は複雑な記号体系を持たない文化よりも持続する。かつてホラズムの学者(end23)ビールーニーは、文字のことを時間と場所を通じて繁殖するものと呼んだが、文字とはそもそも初めから遺伝と並行して、および血縁とは無関係に情報を伝える体系であった。
人は書くこと、読むことによって祖先を訪ね、従来の生物学的な遺伝に対して第二の、精神的な遺伝系統を対置することができる。
もじ人類それ自体を、時おり提案されるように、世界を保存 [アーカイブ] し、宇宙の意識を保存する神の器官として理解しようとするなら、これまでに書かれ印刷された無数の書物は――当然ながら神自身およびその多数の流出 [エマナチオン] によって書かれた本を除いて――この無益な務めを履行し、すべての物の無限性をその身体の有限性の中に止揚しようとする試みとして現れる。
あるいは私の想像力の乏しさによるのかもしれないが、私には依然として本こそあらゆるメディアの中でもっとも完璧なメディアのように思われる。ここ何世紀か使われてきた紙は、パピルスや羊皮紙や石や陶器と石英ほど長持ちするわけでもないし、もっとも多く印刷され、もっとも多くの言語に翻訳された書物である聖書ですら、完全な形で私たちのもとに届けられてはいないのであるが。それは後の何世代かの人間に受け継がれる機会を高める複製芸術 [マルティプル] であり、執筆され印刷されて以降の過去の時間の痕跡が一緒に書き込まれた、開かれたタイムカプセルである。そのタイムカプセルの中では、あるテクストのどの版も、それぞれ廃墟と似通っていなくもないユートピア的空間であることが明らかになる。そのユートピアにおいて死者たちは雄弁に語り、過去は甦り、文字は真実となり、時間は止揚される。もしかすると本は、一見身体を持たず、本からの遺産を要求し、あふれるほど膨大な量の情報を提供する新しいメディアに比べて多くの点で劣る、言葉の本来の意味で保守的なメディアであるかもしれない。だが、このメディアは文章、挿絵、造本が完全に溶け合い一体となった、まさにその身体の完結性ゆえに、他のいかなるメディアもなし得ないように、世界に秩序を与え、時には世界の代わりにさえなるものである。さまざまな宗教による死すべきものと不死のもの――すなわち身(end24)体と魂――への観念的な分割は、喪失を乗り越えるための、もっとも慰めになる方策の一つであるかもしれない。しかしながら運び手と内容の不可分性は私にとって、本を書くだけでなく、造本もしたいと考える理由である。
すべての本と同じように、本書もまた、何ものかを生き延びさせたい、過ぎ去ったものを甦らせ、忘れられたものを呼び覚まし、言葉を失くしたものに語らせ、なおざりにされたものを追悼したいという願いによって原動力を得ている。書くことで取り戻せるものは何もないが、すべてを体験可能にすることはできる。かくしてこの本は探すことと見つけること、失うことと得ることの双方を等しく取り上げ、存在と不在の違いは、記憶があるかぎり、もしかすると周縁的なものかもしれないということを予感させる。
そして長年に及ぶ本書の執筆の間の、わずかな貴重な瞬間、消滅は不可避であるという考えと、書棚で埃にまみれてゆくこの本のイメージが私の目の前に浮かんだ。それはどちらも慰めであるように私には思われた。
(ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、23~25; 「緒言」結び)
- (……)さんのブログより。おもしろいエピソードたち。とくに二番目のはなしがいろいろな面でおもしろい。
まず、この本当の記憶について語ろう。文革時代の小さな町での生活は、暴力に満ちあふれているとは言え、退屈で重苦しいものだった。記憶によると、犯人が銃殺されるときだけ、町じゅうが節句のような賑わいを見せた。先に述べたように、当時はあらゆる判決が批判集会で下された。審判を受ける犯人は中央に立ち、胸の前に札を下げている。札には彼らが犯した罪が書かれていた。反革命の殺人犯、強姦殺人犯、窃盗殺人犯など。犯人の両側には、一緒に吊るし上げられる地主と右派分子、そして歴史的反革命分子と現行犯の反革命分子がずらりと並んでいる。犯人はうなだれ、腰を曲げてその場に立ち、自分に向けられた激しい批判の言葉を聞いていた。批判文の最後が判決だった。
私が暮らしていた街は杭州湾のほとりにあった。批判集会はいつも県の中学校の運動場で開かれ、街の住民で埋め尽くされた。大きな札を下げた犯人は演壇の手前に立ち、うしろに県の革命委員会のメンバーがすわっている。革命委員会が指名した人がマイクの前に立って、大声で批判の言葉と最後の判決を読み上げた。犯人が縄でぐるぐる巻きにされ、背後に銃を持つ二人の軍人が威風堂々と控えている場合は、必ず死刑になると決まっていた。
私は幼いころから中学校の運動場に立ち、何度も批判集会に参加して、拡声器から流れる激昂した声を聞いた。批判の言葉がどこまでも続く。前半は毛沢東と魯迅の文章からの引用で、そのあとはほとんど『人民日報』の引き写しだった。冗長で、つまらない。いつも両足がだるくなるころに、犯人の罪状が読み上げられた。最後の判決は簡潔で、要点を押さえている。
死刑に処し、直ちに執行する!
文革時代の中国には裁判所がなく、判決が出たら上訴できない。世の中に弁護士という職業があることすら、聞いたことがなかった。犯人が批判集会で死刑を宣告されたら、上訴の時間などなく、直ちに処刑場に連行され銃殺された。
「死刑に処し、直ちに執行する」という声が響くと、ぐるぐる巻きの犯人は銃を持った軍人に引きずられ、トラックまで運ばれた。トラックの荷台には、実弾を込めた銃を担いだ軍人が怖い顔をして二列に並んでいる。トラックは海辺へ向かって走って行った。千人近い住民も一斉にあとを追う。自転車に乗ったり、走ったりして、黒山の群衆は海辺を目指した。私は幼児から少年になる間に、死刑になる犯人をどれだけ見たかわからない。彼らは自分の判決を聞いた瞬間、体の力が抜け、二人の軍人にトラックまで引きずられて行った。
私はすぐ目の前で、死刑囚がトラックに乗せられるの見たことがある。うしろで縛られた犯人の手は恐ろしかった。縛り方がきつく、時間も長かったので、両手の血流は断たれていた。その手は想像するような青白いものではなく、どす黒かった。その後、歯医者になって得た医学知識によれば、そういうどす黒い手は壊死しているのだ。犯人が銃殺される前に、両手はもう死んでいた。
犯人を銃殺する場所は、海辺に二つあった。北浜と南浜だ。我々町の子供たちはトラックに追いつけないので、事前に賭けをした。前回は北浜で銃殺したから、今回は南浜の可能性が高い。批判集会が始まってすぐ、子供たちは先に海辺へ走り出した。あらかじめ、有利な場所を確保しておくのだ。我々は南浜に着いたが、誰もいない。場所を間違えたと知って、北浜へ急いだが間に合わなかった。
場所が的中したときは、間近に犯人を見ることができた。これは私の幼年時代で、最も心震える場面だった。実弾を込めた銃を担いでいる軍人は円形に並び、見物の群衆をさえぎる。銃殺を実行する軍人が膝の裏側を蹴ると、犯人は地面にひざまずいた。この軍人はそれから少し後退し、鮮血を浴びない位置に立ち、小銃を構える。犯人の後頭部に狙いをつけ、「パン」と発砲した。小さな弾丸の威力は、大きなハンマーをはるかにしのぐ。あっという間に、犯人は地面に倒れた。銃殺を実行した軍人は発砲したあと、歩み寄って犯人の死亡を確かめる。もし、まだ息があれば、もう一発お見舞いした。軍人が犯人の体を反転させたとき、私は全身に震えを感じた。銃弾は後頭部から入るときは小さな穴をあけるだけだが、前から出るときに犯人の額と顔をめちゃくちゃにした。その穴の大きさは、我々が食事をするのに使う茶碗の口ほどもあった。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)*
文革の頃、私は「魯迅」という強力な言葉を十分に利用した。私の成長過程には、革命と貧困のほかに、絶え間ない論争があった。論争は幼年期と少年期の贅沢品であり、貧しい生活における精神の糧だった。
私は小学校のとき、同級生と論争した。太陽が地球に最も近くなるのはいつか? その同級生は、朝と晩だと言った。太陽がいちばん大きく見えるからだ。私は昼だと言った。いちばん暑くなるからだ。我々は疲れを知ることなく、マラソンのような論争を続けた。毎日顔を合わせると、自分の説を述べ、相手の見解を批判する。そういう水掛け論をくり返したあと、我々は他人の応援を求めるようになった。彼は自分の姉のところへ私を連れて行った。彼の姉は双方の言い分を聞くと、すぐ彼に味方した。まだ幼かったこの少女は、羽根蹴りをしながら言った。
「太陽が地球にいちばん近いのは、もちろん朝と晩よ」
私は承服できず、同級生を私の兄のところへ連れて行った。兄は当然、自分の弟を擁護し、同級生に拳を振り上げて見せて威嚇した。
「今度、朝と晩がいちばん近いと言ったら、おれが黙っちゃいないぞ」
私は兄のやり方に失望した。必要なのは真理で、武力ではない。我々はさらに、ほかの年上の子供のところへ行った。同級生を支持する者もいれば、私に賛成する者もいて、なかなか勝負はつかない。我々の論争は一年に及んだ。町の年上の子供たちはみな、何度か引っぱり出されて判定を求められ、もううんざりしていた。我々が言い争いながら近づいて行くと、彼らは大声を上げた。
「あっちへ行け!」
我々は激しい論争を二人だけの範囲に止めるしかなかった。その後、同級生は新しいことに気づき、私の「暑さ」の理論を攻撃し始めた。彼は言った。もし、暑さを基準にするなら、太陽は夏になると地球に近づき、冬になると遠ざかるというのか? 私は彼の「見た目」の理論に反駁した。もし、見た目の大きさを基準にするなら、太陽は雨の日に消えてなくなるというのか?
論争はどこまでも続いたが、ある日、私は魯迅を持ち出し、一瞬にして彼を言い負かした。追い詰められて、とっさに魯迅の言葉を捏造したのだ。私は彼に向かって叫んだ。
「魯迅先生が言うように、昼の太陽がいちばん地球に近い」
彼は唖然として、しばらく黙って私を見てから、慎重に尋ねた。「魯迅先生がそう言ったのか?」
「もちろんさ」私はびくびくしていたが、強硬な姿勢は崩さなかった。「魯迅先生の言葉を信じないのか?」
「いや」彼は慌てて手を振った。「どうして、いままで言わなかったんだ?」
私は毒を食らわば皿までの覚悟で、嘘を言い続けた。「前は知らなかった。今朝のラジオで聞いたんだ」
彼は悲しそうに下を向き、口の中でつぶやいた。「魯迅先生がそう言っているなら、おまえが正しい。おれは間違っていた」
彼が一年間堅持してきた太陽との距離に関する見解は、私がでっち上げた魯迅の言葉の前で、簡単に瓦解してしまった。それから数日、彼は沈黙し、一人で敗北を噛みしめていた。
これは文革時代の特徴と言える。造反派同士の論争でも、紅衛兵同士の論争でも、家庭婦人同士の言い争いでも、最後の勝利者は毛沢東の言葉を持ち出した。それで決着がつき、論争や言い争いは収まる。あのとき、私はもともと毛沢東の言葉をでっち上げるつもりだったが、口元まで出かかってやはり気が引け、仕方なく「毛主席の指導によれば」を「魯迅先生が言うように」に変更したのだ。後日、嘘がばれて打倒され、小さな反革命分子になったとしても、罪は少し軽いはずだった。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)*
当時の我々は街をぶらつき、よく騒ぎを起こして、同年齢の少年たちと殴り合いのケンカをくり広げた。ときには大胆にも、頭半分ほど背丈の違う年上の連中を相手にした。激戦が始まると、その同級生は身を隠して、近くで様子をうかがっていた。逃げることもなければ、参戦することもない。その後、彼は突如として勇猛果敢になった。いつも戦いの先頭に立ち、引き揚げるのはいちばん最後だった。
ある日、我々のグループは年上の連中にさんざん殴られて退散した。完敗を喫したあと、その同級生は家に駆け戻り、包丁を手にして再び現れた。意気揚々としている年上のグループと対峙した彼は、まず右手に持った包丁で自分の顔を切りつけた。鮮血がほとばしると、今度は左手に持ち替えて反対側の顔を切った。そして血だらけのまま、大声を張り上げて突撃して行った。
年上のグループは、勝ちに乗じて追撃を始めようとしたとき、この血まみれの相手を目にした。水火も辞さない覚悟で、勇ましく突進してくる。右手にはなお、キラキラ光る包丁を振りかざしていた。中国には、「命がけの相手がいちばん恐ろしい」という諺がある。年上の連中がさっと逃げ出したので、その同級生は追いかけながら叫んだ。
「おれと死ぬか生きるかの勝負をしろ!」
さっきは退散した我々も、虎の威を借りる狐のように、「おれと死ぬか生きるかの勝負をしろ!」と叫んで、あとを追った。我々は町の通りを汗だくになって、年上の連中を追撃した。呼吸を整え、速度を合わせるため、我々のスローガンは簡略化された。
「死ぬか生きるかだ!」
その日の午後、我々の名声は町じゅうに広まった。それ以降、「死ぬか生きるか組」という称号を得た我々を他のグループは笑顔で迎え、年上の連中でさえ一目置くようになった。あの同級生を我々は心から尊敬した。彼はもう二度と我々のうしろに付き従うことがなくなった。我々も彼が先頭に立つのに慣れた。
彼はどうして、一夜のうちに別人になったのだろう? 理由はとても簡単だ。今日から見ると、それはまったく信じられない理由だった。
この同級生の両親がある日、隣人と言い争いをした。隣人が彼らの家の豆炭をいくつか盗んだというような、つまらないことが原因なのだろう。言い争いが過熱するにつれて、双方とも手が出た。そこで同級生も争いに加わり、いちばん弱い相手を選んで、右の拳を伸ばした。隣家の美しい娘の豊満な胸を突いたのだ。このひと突きが彼を別人に変えた。その後、彼は手のひらを下に向けて右手を開き、我々の羨望のまなざしの前で、四本の幸福な指について語った。衣服一枚隔てただけで、美しい娘の豊満な胸にどのように触れたのか。親指以外の四本の指がみな、人をうっとりさせる柔らかな部分の感触を味わったのだという。
その瞬間の素晴らしい感触によって、彼はまだ子供であるにもかかわらず、自分の人生がすでに完成したように思った。のちに彼はよく、満ち足りた様子で言った。
「おれは女の人の胸を触ったんだから、もう死んでもいい」
自分はもう死んでも悔いはないと思ったことで、臆病者が突如として勇敢になったのだ。
我々の少年時代は、そんな風だった。女性の成熟した胸に一度触れただけで、人が変わる。我々が極端な時代に育ったせいだ。殴り合いのケンカの時は大胆不敵だが、女性の生身の肉体を思うと意気地がなくなってしまう。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)
- したのエピソードもクソ笑う。
8時より12時間の奴隷労働。京都マラソン開催のため朝早くから夕刻までいたるところで道路封鎖。ゆえに客足少なし。勤務中はマラソン好きなTさんとテレビ中継をなんとなくながめていた。客は来ないしやることないしでしびれを切らしたTさんがEさんの許可をもらって途中で職場を抜け出しゴール地点まで出かけたのだけれど、きのうとは打って変わっての極寒&強風に耐えかねてすぐに戻ってきた。中継カメラに映りこんでやるとの約束を反故にされたのでそのことを責めると、ゴール付近に地方アイドルだかミスなんとかだかわからないけれどべっぴんさんがたくさんいたものだから見とれてしまいそれどころじゃあなかったのだという弁明があり、ほんなら今度はぼくが行きますわといったところいくら客が少ないからってフロントの不在が通るわけねえだろということになって結局今度はEさんが出かけることになったのだけれど、とりあえず現場付近に到着したというEさんにどこどこのあたりの沿道で待機してくれ、さっきから何度も中継画面がそこのカメラに切り替わっているからそこにいさえすればいつかテレビに映りこむはずだ、と、そう指示したはいいもののすでに一着二着三着とランナーがゴールしはじめておりインタビューなどもはじまっていて、ああこれたぶんダメだわ、カメラ切り替わりそうにないわ、と若干諦めながらもうちょっと現場でねばっていてくれとEさんに伝えたのだけれどEさんはなぜかこの極寒のなかTシャツ一枚で外に出てしまっていて、ただそのTシャツにはいちおう職場のロゴがプリントされているのでちょっとした宣伝という意味もあったのかもしれないけれどもいずれにせよもう無理です、寒いです、退散しますと告げる電話が切られてしばらく、カメラがゴールした走者のインタビューから沿道で応援するひとびとの姿へと切り替わったところで、画面奥にむけて群衆の中を疲れきった背中でふらふらと歩く頭ひとつ飛び抜けて大きい後ろ姿がちっさく映り込んだものだから爆笑した。Tさんが大興奮しながら電話をかけて、マネージャー! 映ってる! 後ろ姿! 後ろ姿が! とクソでかい声で叫びまくったそのときにはすでにカメラは沿道のひとびとを置き去りにしてふたたびゴール付近の様子に切り替えられたのだけれど、そこからまた一度だけ、ほんの五秒ほど沿道の風景に切り替わった瞬間があって、そこでもやっぱり群衆の中から頭ひとつ飛び出した茶色いツイストパーマの後頭部のふらふらしているのがのぞいたのでTさんと一緒に手をたたいて爆笑した。さぶい!死ぬ!さぶい!と震えながらEさんが戻ってきたときには、さっきテレビ映ってたひとですよね? 光栄です! 握手してください! ヤフオクで流すためのサインください! などと歓迎した。たぶん今年に入っていちばん笑った。ワイもテレビに映りたい。
- 覚醒してちょっとしてから時間をみると七時。はやい。保育園にあいさつの声が聞こえないので、はやい時刻ではないかと予想してはいたが。しばらく布団のしたでからだをさすったり、口から息をゆっくり吐き出して身をめざめさせたりする。起き抜けの鈍いからだであまりちからをこめて一気に血流をうながしてしまってもよくない気がするので、いきおいをつけずにすこしずつ吐く。しばらくすると起き上がってカーテンをあける。きょうも晴れ晴れしい青空。首と肩をまわし、寝床を抜け出して、マグカップをつかってながしで口をゆすぐとともにうがいをした。それからトイレにはいって用を足して顔も洗い、出てくると冷蔵庫のペットボトルの水をカップにそそいで飲む。いや、トイレに行くまえにもう飲み、出てきたあとにのこっていた少量を飲み干したのだった。しかしそんな仔細はどうでもよい。それから布団にもどっていつものようにウェブをちょっとみたり日記を読んだり。きょうは「読みかえし」ノートを読むこともできた。あと(……)さんのブログもすこし。それで離床したのが八時四〇分ごろ。座布団二枚を窓外に出し、布団をたたんで、腕を振ったり背伸びなどをしたり。水もまたちょっと飲み、瞑想をはじめたのが九時をまわったころだった。座っているとちゅうに深呼吸をすこしはさむ。窓外からは子どもたちの騒ぎ声。からだの感覚はわるくない。一五分少々座ったか。食事へ。きょうもきょうとて温野菜だがのこりすくなかったキャベツを削るように切ってすべてつかってしまい、ゴミとなった芯付近のかたまりはラップで二重につつんで冷凍庫へ。ウインナーと豆腐をスチームケースにはくわえて、電子レンジでまわす。その間は腕振り体操をやる。やりながらぼんやり、さいきんふれていないがいちおう進行中の詩篇の文言をあたまのなかにめぐらせて、あそこはこっちのほうがいいんじゃないかとかかんがえる。しかしまとまりきらない。クリーミーオニオンドレッシングものこりすくなかったので温野菜にすべてつかってしまい、食事。野菜を平らげるときのう買ってきた冷凍の唐揚げを椀で加熱し、そのあいまにスチームケースを洗ってしまい、もうひとつの椀に米をよそってつづけて食べる。その他バナナとヨーグルト。食後は歯磨きや洗い物をさっさと済ませ、足首をまわしながらウェブを閲覧していたが、そのうちにWoolfの英文をぶつぶつ読み出した。さくばん、深夜過ぎの夕食のあとにWavesからの引用部分を邦訳ととちゅうまで照らしておいた。邦訳を読んだときはこの第四章(?)くらいからひたすらおもしろくなり、すばらしいすばらしいとむさぼるように読んでいたが、原文と見比べてみると、なるほどここはこうしているのかとか、訳文になると意外とニュアンスが硬いな、とかいう箇所が見受けられる。邦訳は第一章(?)だけちょっと硬い、ながれきらないものをかんじてうーんとおもっていたのが第二章(?)以降からは気にならなくなって、うまい飯を無限に食いつづけるみたいな状態にはいったのだけれど、こうしてみるとやはり全体的にすこしだけ硬いような気もされて、もうすこしソフトにながれる日本語で訳す余地もあるのかもしれないとおもった。Woolfの英文じたいだってとても平易とはいえないものなので、硬くても良いのかもしれないが。いずれにしても『灯台へ』も岩波文庫の御輿哲也訳であと三〇年くらいはだいじょうぶだろうし、『波』も森山恵の新訳がそれくらいの期間は役目を果たしてくれるはず。あとはエッセイや書簡・日記等をかんぜんにふくめたほんとうの意味での邦訳全集をはやくつくるべきだとおもう。権利の関係で駄目なのだろうか? それともそういうプロジェクトの機運がないのか。
- 洗濯もした。洗うものはすくないが。そろそろ出番のなくなりそうなダウンジャケットも洗っておいた。干したのは正午くらいだったかとおもうが、間近の空はじつに青々、ただ右手、西北方の屋根のうえにはゆびですーっとなぞったような雲が粉状にうっすらと引かれてもいた。一二時半くらいにいたり、なぜかギターが弾きたくなったのでケースから引っ張り出してつまびく。しばらくいじってゆびがそこそこほぐれてくると録音してAブルースをやったが、手がまだととのいきっておらず拙速な感じではある。くわえてやっているとちゅうに上階でひとつ足音が立って、たぶんそういうわけではなかったのだとおもうがうるさいという抗議の表示かなと一瞬おもい、それで音量を下げつつもつづけたのだけれど、なんとなくやりづらい感じになってしまったのできょうはみじかく終えた。七分強におさまっていたはず。しかしその後もあまりおおきくはしないようにしながらも似非インプロとかをやりつづけたのだが。一時くらいで終い。ギターを弾いていると姿勢がかたまるし、しかもこちらのばあいけっこう前傾したり首がかたむいていたりするので終わるとからだがこごっている。それでちょっと寝床に逃げてから日記を書こうとおもって横になると、なぜかけっこうねむくなってしまい、意識を落とすまでは行かないのだけれど、深呼吸したり肩や背や手をさすったりしながらなかなか起きる気力が湧かない。ここで昼寝にはいったらたいそうきもちがよかっただろう。天気もよくてレースのカーテンが白さをことさらあかるくしておりそのぬくもりも染み出してくるようだったし。しかし甘美さの誘惑に屈しはせず、一時半くらいでなんとか起き上がり、そこからきょうのことをここまで記して二時一三分。ねむくなるまえにひさびさにストレッチもおこなった。日記はきのう六日分までしあげて投稿し、七日の勤務は面談同席しただけだから書くことはすくない。そのあと八日九日は実家に行った日でこれはめんどうくさいが、きちんと書かずやっつけでも良いとおもっている。
- Patrick Wintour Diplomatic editor, “The revenge of history in Ukraine: year of war has shaken up world order”(2022/12/26, Mon.)(https://www.theguardian.com/world/2022/dec/26/ukraine-war-revenge-of-history-how-geopolitics-shaping-conflict(https://www.theguardian.com/world/2022/dec/26/ukraine-war-revenge-of-history-how-geopolitics-shaping-conflict))。ウクライナやゼレンスキーの歴史意識だったり、難民が今後EU諸国にとっての重荷になるだろうという見通しや、ロシアもむしろそれを狙って戦略を転換してきているというはなしだったり。さいごの、Jade McGlynnというひとの、“Sergei Lavrov [the Russian foreign minister], for instance, says that without Russia, Ukraine does not have any history. But it is actually the opposite. Without Ukraine, Russia’s understanding of its own identity – this third Rome, based on Orthodoxy, this gathering of all the lands of Rus – does not really work.(……)”、“That is why it is going to be very hard for Russia ever to accept this war has failed.”という見解はなるほど、とおもった。
During his Victory Day speech in Moscow in May 2022, the president told Russian soldiers back from the Ukrainian front they were “fighting for the same thing their fathers and grandfathers did” – for “the motherland” and the defeat of nazism. The Ukrainian revolution of 2013 was a fascist “Banderite coup”, the government in Kyiv a “junta”, Nato enlargement an Anschluss, and the EU a decadent threat to Russian culture. Russia in 2022, according to Putin, was like the USSR in 1941, threatened by an invasion from the west.
[The Ukrainian writer Oksana] Zabuzkho argues that this deep historical sense of injustice and betrayal drives not just Putin, but the whole of Russian society. “One wants to find Russians who are not preoccupied with self-pity right now. The feeling of injustice is one of the most distinct symptoms of the moral breakdown that characterises so much of Russian society today.”
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Ukraine, too, has its own sense of injustice and points its accusatory finger at Russia. Olesya Khromeychuk, director of the Ukrainian Institute in London, argues: “Ukraine’s historical experience – of statelessness and struggle, repressive external rule and hard-won independence – has shaped Ukraine into the nation we see today: opposed to imperialism, united in the face of the enemy, and determined to protect its freedom. For the people of Ukraine, freedom is not some lofty ideal. It is imperative for survival.”
Ukraine’s identity took time to form after it gained independence in 1991. Two narratives competed – one national and nationalist, the other Soviet nostalgic. This was not unique among post-Soviet states, but the process was never more intense or confrontational than in Ukraine.
Battles were fought over school textbooks, monuments, the choice of national anniversaries, street names, state archives, or the status of the Holodomor – the human-made famine of 1932-33 that killed millions of Ukrainians – as a genocide. Under the “historical presidency” of Viktor Yuschenko between 2005 and 2010, 159 historical decrees were issued, the vast majority about the de-communisation of Ukraine.
In the process history was often royally misused. The Ukrainian Institute of National Memory for instance between 2014 and 2019 came to be dominated by a narrow group of rightwing nationalists that defined Ukraine in purely ethnic anti-Russian terms.
Unpopular leaders such as Petro Poroshenko relied on increasingly divisive and crude ethnic appeals to patriotism, thinking it was the shortcut to remaining in power. In 2015 the government even issued a set of “memory laws” that made questioning the official, deeply anti-Soviet view of Ukraine’s past punishable with prison terms of up to 10 years.
It was not until the advent of Volodymyr Zelenskiy and the “independence generation” – those who grew up after Ukraine left the Soviet Union – that Ukraine addressed issues of the past, identity and language in a more inclusive way, as Olga Onuch sets out in her book The Zelensky Effect. Zelenskiy, a former comedian and actor elected in 2019, understood the importance of history. Indeed, in the opening series of Servant of the People – the TV show that made his name – Zelenskiy plays a history teacher trying to convince his pupils of the importance of Mykhailo Hrushevsky, the historian who, in 1903, first tried to show how Ukrainian history was not merely a part of an overarching Russian story.
In his new year address in 2020, Zelenskiy asked Ukrainians to ask themselves, “Who am I?”, and not find an answer by simply excluding others. “Our passports don’t say whether we are the right kind of Ukrainians or a wrong one. There is no entry there, saying ‘patriot’, ‘Maloros’ [a derogatory term used to describe a Ukrainian native with no national identity], ‘vatnik’ [a derogatory term for a pro-Russian citizen] or ‘Banderite’ [a derogatory term for a Ukrainian nationalist]. It says: ‘citizen of Ukraine’, who has rights and obligations. We are all very different.” The idea was to live together with respect.
Onuch and her co-author, Henry Hale, argue Zelenskiy was critical to giving Ukrainians a chance to “realise they shared a rich common fate that transcended linguistic, national and religious diversity”. This generation did not want just to shed their Russianness, but find a new Ukrainian civic identity linked to a hard-fought idea of common values. As a Russian-speaking Jewish person from south-east Ukraine, Zelenksiy was perfect to demonstrate how Russian-speaking Ukrainians, including those in the east, could fully identify with the Ukrainian state and express their patriotism.
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Yet the toll is already massive. The US chief of staff, Mark Milley, claims as many as 100,000 Russian soldiers have died or been injured. Based on open-source references, the Oryx site determined that the Russians had lost a total of 1,491 main battle tanks since 24 February, of which 856 different types were destroyed, 62 damaged and 55 abandoned, and the Ukrainians had taken more than 518. Russia, albeit involuntarily, became Ukraine’s most important arms supplier.
By one calculation, the US has spent 5.6% of its annual defence budget to destroy nearly half of Russia’s military capability.
The successive battlefield defeats have damaged the reputation of the great Russian military. First there had to be the “regrouping” in the north, when Russia realised it could not take Kyiv and Chernihiv. On 6 September came the stunning collapse of the Russian front in the north-east in the Kharkiv region. On 11 November Russia withdrew from the port city of Kherson, retreating from territory it had announced as annexed and part of Russia only 40 days earlier. The goal of establishing a land corridor to Transnistria – a Russian-backed breakaway region of Moldova, one of Ukraine’s western neighbours – is, for now, abandoned. Since September Ukraine says it has reclaimed more than 8,000 sq km (3,089 sq miles) of Russian-occupied territory.
Russia has also paid a toll in lost diplomatic prestige. In meetings with Central Asian republics, Putin sometimes find himself humiliated and contradicted, and there is talk of a security vacuum in the Caucasus as Russian prestige withers. Positive diplomatic support for Russia, as opposed to hedging, is confined to Belarus, North Korea, Syria and Eritrea. In one international diplomatic body after another, the “Russia not welcome” sign is going up. The Chinese defence minister, Wei Fenghe, in June said his country would not be providing one bullet to Russia, portraying the relationship as a partnership, not an alliance.
Cumulatively that has left Putin not looking for a way out, but a way to stay in the war. Mark Galeotti, the author of Putin’s Wars, believes Moscow has now clearly moved from winning the war to not losing it, and that requires trying to outsuffer the west. Orlando Figes summarised it recently: “The war is now entering a new phase because winter has arrived and the Russians are going to dig in. That is why they are ceding the western bank of the Dnieper River. The current phase is to destroy Ukrainian infrastructure, to create a refugee problem, and start an economic war against the west. That’s where the war will be played out and everything will be decided. What determines the outcome of the war will be how willing western societies are to continue supporting Ukraine.”
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Through a mixture of state planning and individual parsimony, Germany has weaned itself off Russian energy, an extraordinary achievement for a country that was dependent on Russia for 55% of its gas. German industry has reduced gas consumption by about 25% since the year’s start, while production has only fallen by 1.4%. The state has found alternative suppliers, including in Norway, the Netherlands, Belgium and France.
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Germany has led the efforts to quell anger about rising bills by constructing hugely expensive subsidy packages. Since the start of the energy crisis in September 2021, according to the Bruegel Institute, a staggering €705.5bn (£614bn) has been allocated or earmarked across European countries to shield consumers from the rising energy costs.
But will it be enough? The nights are longer, the thermometers have dropped and energy bills are landing, so the witching hour is here. The recurring nightmare of Zelenskiy’s young strategic communications team is that Ukraine’s suffering drops out of the news, and the country, once synonymous with freedom, becomes a burden. “Our principle is simple,” says Andriy Yermak, the president’s chief of staff. “If we fall out of focus, we are in danger.” The attention of the world serves as a shield.
So far the drumbeat of rebellion is faint and confined to the fringes on the left and right.
That has forced Putin to switch tactics again and resort to different tools of war to weaken Europe’s resolve. The attacks on civilian energy structure that began in October are not only designed to create misery in Ukraine, but to make neighbourhoods uninhabitable, so creating an exodus from the cities and a second wave of Ukrainian refugees that the west cannot tolerate. The Ukrainian MP Lesia Vasylenko, pointing out 14 million Ukrainians are already displaced, including 7 million abroad, frankly admitted to British politicians she feared the mood towards Ukrainian refugees might be about to change. Alarm bells are already ringing about the bullying of Ukrainians in schools, she said.
But according to the Polish migration expert Prof Maciej Duszczyk from the University of Warsaw, 70% of Ukrainian refugees cross the Polish border, and in Poland, again for historical reasons, there is no sign of a backlash yet. For Poland, Russia is synonymous only with conquest, partitions, genocide, colonialism and communism. Whatever its past or present differences with Ukraine, the two countries know that in Russia they share a common enemy, according to Duszczyk. Poland is now home to approximately 1 million refugees from Ukraine (and as many Ukrainians who lived there before the war). Nearly 60% have found jobs. In elections next year, Duszczyk does not expect the refugee issue will feature.
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If Poland did decide it is full, or tried to play electoral politics with Germany over the issue, as many as 2 million more refugees could, in theory, move on to countries in western Europe, predominantly Germany. By one estimate that might cost an estimated €48bn a year.
Manfred Weber, the German head of the European People’s party, the pan-European conservative political grouping, says Germany may be sleepwalking into a crisis. “Due to Putin’s reign of terror, I’m afraid we are going to have a dramatic winter of flight. The reception centres in Germany are full, the municipalities are groaning, also in countries like the Netherlands, Belgium and Austria. It looks like we will have to open more gyms in Germany in a few months and restrict school and sports operations because they could be full. Germany is not prepared for this situation.”
More than any other European country, Germany will determine whether the continent stays the course with Ukraine. Wolfgang Ischinger, the former German diplomat, says Germany has been the European country most willing to change its foreign policy and shed its worship of the status quo. At one level Germany has spent the past 12 months shedding its postwar mindset. Olaf Scholz’s zeitenwende signalled €100bn investment in its depleted army. Germany agreed to send anti-tank missiles and Stinger missiles into a war zone. The country’s president, Frank-Walter Steinmeier, for years the country’s most vocal proponent of compromise with Russia, went to Kyiv to apologise. He said Germany’s dependency on Russian gas had been a strategic error, born of a stubborn misreading of Putin. “In the face of evil, goodwill was not enough.”
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Jade McGlynn, an Oxford academic and author of the forthcoming Russia’s War, explains why it is so hard for Russia to relinquish Ukraine. “Sergei Lavrov [the Russian foreign minister], for instance, says that without Russia, Ukraine does not have any history. But it is actually the opposite. Without Ukraine, Russia’s understanding of its own identity – this third Rome, based on Orthodoxy, this gathering of all the lands of Rus – does not really work. You cannot espouse this state messianic role if you cannot convince ethnic Russians to join you in cultural communion and you to have bomb them.
“That is why it is going to be very hard for Russia ever to accept this war has failed.”
- きょうの記述に切りをつけたあと腕振り体操をしていると、日記も書きたいが天気があまりにも良すぎるしちょっと散歩でもしてくるか? というきもちが湧いたので、そうすることにした。それでジャージからブルゾンと青灰色のズボンにきがえる。気候がよくて暑いくらいだし、ひさしぶりに自販機で炭酸ジュースでも買ってくるかとおもい、百円玉を三つ財布から取り出してズボンの左ポケットに入れた。鍵は右ポケット。それいがいなにも持たず、マスクをつけて部屋を抜け、アパートの階段を下りて道に出ると左折する。曲がるまえに視界の右手になんらかの気配があったので振り向いてみると、路地の入り口で真っ黄色な車体の低めのクレーン車が出張って電線の工事か点検かなにかしており、ヘルメットをかぶった整理員がこちらを向いていた。ひかりは高く右手前方から寄せてくるし、路地中に日なたもおおくひらいてそこにはいればここちよくぬくみ、陰にあって風が来たところで肌寒さに結ぶことなくただ涼しさが肌をなでるのみの春日だが、快晴とおもっていたのが空には意外と薄雲が見え、希薄ながら混じったり湧いたりしていて青さはおさえられていた。それでも陽射しは一途にまばゆい。公園にいたのは女性ら数人とその子どもたちらしい遊びの群れ、ちいさなすがたが滑り台につどっているのを母親連はちょっとはなれてながめながら立ち話をしていた。そこは公園敷地の端っこにあたる。過ぎてすすみながらなかに視線を向けつづける。ベンチはこちらがわ、垣根をはさんですぐちかくと、それと微妙にずれつつ対応するように向こうがわの端とにもうけられてあり、さきほどの親子たちいがいには無人だが、近間のベンチに脱がれたジャンパーのような服が乗っていた。ベンチもふくめて地面はひろくなべて日なた、こういう時季、昼間に出てきてベンチで陽を浴びながら本を読むのも良いだろうなとおもったが、まえまえからおりにふれておもうそれを実行にうつしたことはいちどもない。公園のさきにある福祉施設はもう建物はできあがっているのだが、稼働しているのか否かひと気は感知されない。路地の出口前で右側に塀をなしている一軒には梅の木があって、さきごろまで出勤のさいなど降りそそぐひかりの幕内にいろを籠めてあざやかだったが、もうおおかた散ったらしい。南の車道沿いも、歩道も道路もぜんぶなめられて、まだまだ高いかがやかしさが対岸の建物のうえ、左手上空にめいっぱい押しひろがって、視界がつねにまぶしさに侵されている。道沿いの家の、庭ともいえない狭いスペースに、あれは桜なのか白い花がほころびはじめているのを見たり、洗濯物が吊るされているのを見やったりする。ドラッグストアの店舗脇には雑草の生えた緑の地面があるが、そこにも色つきの埃みたいなこまかな花が群れで生まれて白くならんでいる。みじかい横断歩道に止められて、ちょっと待ってから渡ったさきはコンビニ前で、過ぎると歩道のなかに植え込みがあって、右側は裏道へ、歩道端の左側はそのまままっすぐ西進する車道にしたがうが、路地の果てにはいまちょうど電車が通って、ちいさなすきまを埋めながら右にするするながれていく。汗ばむ陽気。(……)通りの横断歩道まで来てまた止まったが、立ち止まればひかりがいくらかじりじりと感じられるような厚みで、左を向けばそこには(……)の会館があり、きょうもガードマンのヘルメットが光点の受け皿となっていて、工事はかれのすぐ背後、敷地の入り口まで及んで地面に穴が掘られていた。道路を渡る。ひかりを弾く色とりどりの花が道端にあしらわれてある。踏切りでまた止められる。電車が左右どちらの方向にも通り過ぎていくのを突っ立って待ち、渡りだせばレールの両側、踏切りからすぐ近くの位置だけなぜか石が濡れており、雨の日の林で見かけるカエルのからだみたいな沈んだ色でてらてら光沢を帯びていた。道路の対岸を行く自転車の若者はTシャツいちまいの軽装だが、じっさいそれくらいでも十分な気候だ。中華料理屋の裏手を抜けて草穂の空き地に来ると高々と伸びたクレーンは空を背後に角張った線条を黒くしながらもそのうえにやはり白さを溜めて、先端からはあれがボーリングというものか、地面に向かってなにかの器具がまっすぐ降りており、外観はやたら古汚れたようでクレーンの真っ黒さと切断的につながっている。穂草の群れは料理だったらころあいのようなすっきりとしたきつね色にあかるく染まりながら風になびき、その手前ではもっと背の低いべつの穂たちが、こちらは反ったあたまに白さを弾き返して波頭めき、それを目から捨てて前方を向けば駅前マンションが堂々と空に静止しているが、背景はやはりおだやかで、しかしひかりは変わらず送られつづけて、角の踏切りをもと来たほうに越えて曲がると、そこにある「(……)」という、なんの施設なのか知らないがこじんまりと瀟洒な建物の職員が、まえにも見かけたことのある白髪でスーツ姿の老年だが、道に出てきてあたりに水を撒いていた。そこにつづいては飯屋とか美容室とか何軒か店のならびがあって、そのうち一箇所の上階に「(……)」という個人塾があるが、ここは先日春期講習を呼びかけるチラシがポストにはいっていた塾だ。ここではたらくのも良いかもしれないとおもいながら広告の示された窓を見上げて過ぎる。講師を募集しているのかどうかは知らないが。小学生の下校すがたがあらわれだしており、黄色い帽子にランドセルのうしろにも真っ黄色なカバーをつけたいたいけなふたり、男の子と女の子が通りがかって、うしろを行く女の子が言ったようだったが、世の中お金でしょ、というつぶやきが耳に拾われて、あの年でそんなことを言うなんてなかなか切ないじゃないかとおもった。行く手は(……)通りの交差点、さきほどのT字部からちょっと北にずれた位置だが、横断歩道にはいまちかくの(……)の学生だろう女の子たちがあつまってにぎやかにしており、ちょうど青になったので止まらずすすんですれ違うと、きょうそんなに荷物いらなくない? それな、とかはなしていた。ハーフパンツで膝からしたを出しているものも数人あった。そうして路地にはいる。とちゅうにやや旧家風の、門のうちに梅や松や、あれも松の一種か緑の葉っぱがドーム状のこずえをなしている一軒があり、そのしたを通り過ぎながら見上げると葉叢のすきまに空の色がちりちりと細分化されて見通せた。コンビニ前までもどってくれば往路とおなじ道を逆からたどることになる。コンビニの上空、北側の空はやはり雲がおもいのほか多く、浸潤しながらもなじみきってひそまず希薄に浮かび、なかば濁っているといってもよいたぐいの青さだった。車道沿いをまた行って、動物病院の端にある自販機でキリンレモンをひとつ買い、ポケットに入れず片手につかんだままでアパートに帰る。ときおり持ち替えた。
- 帰宅するとちょうど三時ごろ。暑くて汗もすこしかき、水気がからだから抜けているようだったので、買ってきた炭酸ジュースをさっそく飲んだ。飲みつつうえのGuardianの記事を読む。飲み干したあとも椅子についたまましばらく読んだが、じきに寝床にながれてChromebookのほうで読みつづけ、さいごまで読了。それからも(……)さんのブログをみたりしながらすこしだらだらし、もう陽射しのいろのなくなった五時過ぎに起き上がると洗濯物をとりこんで即座にたたみ、そうしてきょうのことをまた書き出した。しかし打鍵をしていると左腕の内側がひっかかるようにして痛む。それで布団のうえで座布団に乗ってしばらく腕振りをしてみると、じきに左の鎖骨のあたりに軽い痛みが生じてきた。ここがこごっているのか? とおもい、ということは胸鎖乳突筋の問題だったのか? とかんがえ、そのへんをさすったり、また胸鎖乳突筋の付け根にあたるだろう耳のうしろがわとかをさすったりすると、たしかにけっこう良い感じだ。ここまで記して七時をまわっている。あしたまた実家に行くことになっており、というのは兄が来るとかで、(……)というはなしで、母親からSMSが来ていたので書きものをしながら三時に(……)に着くのではどうかと返したところが、「(……)」は三時にはもう閉まってしまうらしい。しかたがないので余裕をみて一時半過ぎに着く電車でどうかと打診しておいた。
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- 日記読み: 2022/3/16, Wed.
- 「読みかえし2」: 1270 - 1277
- 「ことば」: 1 - 3