2023/4/11, Tue.

 この顔のために、何だってしたではないか。髪の生え際をまっすぐにし、歯を矯正し、髪型と髪の色を変えた。あの阿呆な卑怯者どもが、この顔が彼らのものだと勘違いしたのも無理はない。彼女は睫毛を震わせるだけでよかった、世界中がその意味を勝手に解釈した。彼女の微笑みは神秘的。目は預言者的。頬骨は神的。くそっ。崇拝は終わりの始まり。そうしたらもう残るは硬直か自己犠牲しかない。くそっ。何が女神だ。化粧した間抜け、それが彼女だったのだ、これまで何年間も。男の役だって立派に演じられただろう。すらりと高い身長、広い肩幅、巨大な手足。だが、この身体を彼らは望まなかった。半裸のこの身体を見て、あいつらは逃げ出した。この呪われた面 [つら] には大きすぎる台座、培養液。それが彼女の真の敵だった。何が大理石だ。ただの仮面、空っぽの容器にすぎない。その裏側に何が隠されているか、皆が躍起になって知りたがった。後ろになんて何もありゃしないのに。何も!
 (ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、112; 「青衣の少年」)



  • 一年前。往路。

 陽気はきょうも初夏、空気はやわらかで、服のうちで肌もほころびあるくあいだにふれてくる布地の質感がやけにさらさらとなめらかだった。公団付属のさびれきった小公園に立つ桜木ははや三色の混淆期にはいっており、といっても花はもうすくなくて、来たほうからみて正面にあたる東側はほぼ二色、葉の若緑と花弁の去った花柄の紅のとりあわせだが、それだとやや地味にうつり、花の白さがのこってみいろのいりまじったあの官能的なみだれぶりにはおよばない。木の間の坂を越えて最寄り駅にはいれば脇の広場ではこちらはピンク一色の、樹冠をまるくひろげふくらませた枝垂れ桜が満開で、すきまなく桃色をぬられたすじが何本も、ねじれた紐のように葡萄の房のように垂れさがって幹をかこんでいるさまの、下端から頂点までずいぶんながくたかいアーチをえがく傘のすがただった。

  • (……)さんのブログから。

 しかし以前からラカンを読んできた者なら、特定の命題、たとえば不安についての命願をまず突きとめ、それをさらに補強し、臨床的に応用することが、どれほど思うようにいかないことであるかを知っている。これはラカンの側での神経症的戦略、すなわち回避なのだろうか。ラカンはピン留めされることを回避しているのだろうか。ピン留めされれば一定の立場を取らざるをえなくなり、特定の命題や論証を用いるリスクも背負うことになり、その結果自分自身が去勢(限界確定や批判など)にさらされてしまうからだ。私は、神経症的回避をそんなに簡単に無視していいとも思わないが、とはいえ、それが本質的なことだともほとんど思えない。実のところ、この回避を神経症に分類するとき、その前提には、具体的な命題を提供することはそれ自体で価値ある目標である、という考えがある。言い換えれば、それは理論に対して強迫的なスタンダードを採用することである。これによると、理論は、私たちが検証(敬服あるいは嘲笑)できるように、個別的で識別可能な対象(糞便のようなもの)を生産しなければならないのである。
 非常に多くの理論的な書きものが、まさにこのような前提を採用している。この前提は、本質的には強迫的な偏見であり、その大部分が、遠慮なしにこう呼ばせてもらえれば、「肛門的で男性的な学術書きもの」に結びついている。なぜこんなものが、ラカンの書きものをはかる尺度でなければならないのか。おそらく、私たちはむしろ、最終生産物ではなくラカンの書きものの流れあるいはプロセスにこそ、すなわちその捻れと転回、再帰的スタイル、そして運動にこそ、目をみはるべきである。ラカンソシュールの仕事の何を評価したかについて考えてみよう。彼は『一般言語学講義』を「その名に値する教育、すなわち、それ自身の運動にのみ目を向けるような教育を伝達するという点で最も重要な出版物」(…)と呼んでいる。ラカンの考えでは、その名に値する教育とは、ひとつの完全で完璧な体系をつくりだすことで終わってはならないし、結局のところそんなものは存在しない。真の教育は絶えず進化し、自らを問いに付し、新しい概念をつくり続ける。
 要するに、強迫的なスタンスを採用するなら、ひとはこう言うことができる。すなわち、私たちにはラカンを寸評し、彼に価値があるかを確かめるための(肛門的)贈り物が必要なのに、彼はそれを与えるのを回避しているのだ、と。あるいはもっとヒステリー的なスタンス——ラカン自身のスタンスに近い——を採用するなら、こうも言える。ラカン自身、自らのテクストを、何らかの完結した理論や体系を構成するものとはみなしていない、と。1966年に『エクリ』が出版されたときに彼がその本を提示した仕方から見れば、それが作りかけ(ワークインプログレス)であることにほぼ疑いの余地はない。ここで特に、ジャン=リュック・ナンシーとフィリップ・ラクー=ラバルトの「文字の審級」読解に対する彼の1973年のコメントについて考えてみよう。ラカンはそれが、その時点までに自分の作品になされた読解のうち最も優れたものであると主張している(…)。しかしラカンの考えでは、彼らは、その本の後半部分で誤りを犯している。というのもそこで彼らは、ラカンにひとつの体系があると想定し、あまつさえその体系についてきわめて複雑なダイアグラムを提供しているからである。
 それに対してラカンは、自分自身の作品を、フロイトの作品を見るのと同じ仕方で捉えている。ラカンが繰り返し述べているように、後期フロイトを評価して、それと引き換えに初期フロイトを貶める、などということはできない(…)。フロイトの作品は、その捻れと転回、再定式化、新たな局所論の配置という水準で捉えられねばならない。フロイトの後期の定式は彼の初期の定式を無効にしたり取り消したりしない。後期の定式は、ある種の止揚(乗り越えのなかで押さえ込むと同時に維持すること)において初期の定式をさらに補強している。私たちがフロイトを本当に理解するようになるのは、エス/自我/超自我の局所論を把握することによってではない。特殊な理論的および臨床的な問題を扱うために次々と局所論を発明していくさまや、それらに満足がいかなくなった理由を見ることによってである。実際、ポストフロイト派の精神分析家たちの仕事に対しラカンが投げかける批判の要点は、彼らのフロイトの読み方に関係している。彼らは、あちらこちらから概念を取りだしては、まったく無関係な文脈にそれを置き、他方でフロイトの書きもののなかでそれを取り囲んでいた他の一切合切を置き去りにしてもよいと考えているのだ。
(ブルース・フィンク/上尾真道、小倉拓也、渋谷亮・訳『「エクリ」を読む 文字に添って』 p.101-102)

Russia plans to increase air defences over its north-western border to counter Finland’s accession to Nato, a commander in its aerospace forces has said. Lt Gen Andrei Demin, the deputy commander-in-chief of aerospace forces, also said further reforms of Russian air defences were “undoubtedly planned and will be implemented”.

Col Gen Oleksandr Syrskyi, commander of Ukraine’s ground forces, has accused Russian troops of using “scorched earth” tactics in the embattled eastern city of Bakhmut. The situation in Bakhmut was “difficult but controllable”, he said, adding that the defence of the city continued.

The Russian-installed head of Ukraine’s Donetsk region said Russian forces controlled more than 75% of the besieged city of Bakhmut. It was still too soon to announce a total victory in the battle over Bakhmut, Denis Pushilin said on state television while visiting the embattled city in eastern Ukraine.

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More than 200 Russian and Ukrainian soldiers have returned home in a prisoner swap, according to both sides. Russia’s defence ministry said 106 Russian soldiers were released from Ukrainian custody as part of an agreement with Ukraine. Andriy Yermak, chief of staff to the Ukrainian president, said Russia freed 100 Ukrainian prisoners.

The US defence department has said an interagency effort is assessing the impact of the leak could have on US national security and on its allies and partners. Officials say the breadth of topics addressed in the documents – which touch on the war in Ukraine, China, the Middle East and Africa – suggest they may have been leaked by an American rather than an ally.

The documents suggest that without a huge boost in munitions, Ukraine’s air defences could be in peril, allowing the Russian air force to change the course of the war, the New York Times has reported. One of the documents, dated 23 February and marked “Secret”, outlines in detail how Ukraine’s Soviet-era S-300 air defence systems would be depleted by 2 May at the current usage rate.

Only 1,800 civilians are still living in the “ruins” of Avdiivka, the embattled eastern Ukrainian city that had a prewar population of 32,000, according to the local governor. “The Russians have turned Avdiivka into a total ruin,” said Pavlo Kyrylenko, Donetsk’s regional governor. In a separate statement, the Ukrainian general staff said Russian forces were continuing to mount offensive operations around Avdiivka but were suffering heavy losses of personnel and equipment.

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The president of Belarus, Alexander Lukashenko, held a meeting on Monday with Russia’s defence minister, Sergei Shoigu. Lukashenko said he needed guarantees that Russia will defend Belarus “like its own territory” in the case of aggression, state media reported.

Ukraine would like India to be engaged and involved in helping resolve its conflict with Russia “to a great extent”, its first deputy foreign minister Emine Dzhaparova has said. Dzhaparova, the first Ukrainian minister to travel to India since Russia’s full-scale invasion, said the Ukrainian president had requested a phone conversation with India’s prime minister, Narendra Modi.

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A Russian court has sentenced two men to 19 years in prison each for setting fire to a government building in a demonstration against the war in Ukraine. Roman Nasryev, a former driver for the Russian national guard, and Alexei Nuriev, an officer in the emergency situations ministry, threw a molotov cocktail on 11 October 2022 into an administrative building in the town of Bakal in Russia’s Chelyabinsk region in protest of the war in Ukraine and Russia’s “partial” mobilisation.

  • (……)さんのブログから。

それでたぶん中国つながりの話題からだったように思うのだけれど話がいつしかKさんのことにおよび、Kさんは日本語教師として中国にわたるまでのつなぎの仕事として京都か実家のある大阪でゴミ収集でもしようと考えているらしいけれどもわたしは反対だ、と、その時点でもう次にくる言葉はおおかた予想がついていたのだけれど、あんなのは部落のする仕事だ、四つのやることなのだ、と四本指をたててみせながらなにひとつ悪びれることもなければ秘密めかすこともなく大家さんは口にして、以前Kさんの働く和食屋へ行ったときにゴミ収集でもしようかなと考えているのだけれどまわりのひとたちにわりと反対されるんだよねとKさんが少し口を濁すふうにいっていたのも要するにたぶんこういうことなんだろうなとひそかに思っていたりしたのだったが、ああやっぱりなな展開の今日で、京都はこの手の差別意識が根強い。大学時代の同級生は京都以外の地域出身の人間のほうがむしろ多かったから身近なところでその手の発言に相見えることはほとんどなかったけれども、卒業後いちフリーターとして京都生まれ京都育ちの同僚らのいる職場で働くようになりだして以降は鮮度の高い差別意識を悪びれもせずに発露するひとびととかなり頻繁に出くわす毎日で、というかこれは要するに京都という地域のお国柄に帰する話ではなくって日本全国どこであろうとローカルな細部に分け入ってみればいやがおうでも出くわさずにはいられない醜悪さであるといったほうがおそらく適切で、この手の意識は陰に日向にまだまだ現役で色濃く影を落としているものなのだろうし、事実、じぶんの地元でもその手の話をちょろちょろと耳にすることがあるのだ。

  • 七時台にいちど時間をみたのだが、いま実家から帰宅後の午後一〇時。それなりの重さのリュックサックを背負い、おなじくらいの重みの紙袋を持って(……)駅から三〇分強あるいてきたので、からだはけっこう疲れている。とくに足のさきのほう。アパートに着いたのは九時まえで、そこからしかし休むことなく立位でティム・インゴルドを読んで過ごした。いましがたさすがに脚がつかれたのですこし横になってふくらはぎを揉んだりしたが。ティム・インゴルドは実家にいたあいだにも読みすすめて、きょうは394からはじまっていまもう512。けっこうなペースで、終わりもそろそろちかい。実家で起きたのは九時半ごろで、七時台にいちど時間をみたのだが、そこから深呼吸をしたりからだをさすったりしつつもあいまいな時間がつづいて、なかなか起きられなかった。ひさしぶりにゆめを見て、しかもそれがけっこうおもしろいものだった。さすがにこの時間になるとうしなわれたものがおおいが、おぼえているかぎりで書いてみよう。まずおもいだされるのはコンビニをおとずれたことで、ばしょとしてはなんとなく(……)の、(……)のほうにあがっていく坂のてまえあたりとして認識されているようだった。そこの道路の北側におそらくセブンイレブンであるコンビニがあったのだが、現実のそこにはなかったはずで、むしろ振り向いた反対側の角にむかしローソンがあった。入店してなにかを買おうとしたのだが、このコンビニは年嵩の夫婦が経営しているようでふたりそろってレジカウンターの向こうに立っており、ほかの客がものを購入しに行くと、この夫婦は自民党の熱心な支持者らしく、なんらかの政策に賛同する旨の署名をもとめられている。そんなのはいやだ、やめようとおもって退店し、つぎにおぼえているのはそのコンビニのひだりがわを奥にすすむ道をあるいていったことで、三人くらいともづれがおり、そのうちふたりは黒人か東南アジア系の兄弟だった気がする。コンビニいぜんにかれらは登場していた気もするがよくおぼえていない。ともづれといってもじぶんはかれらにとってほぼいないようなあつかいになっており、無視されているというか、こちらのすがたがみえていないような感じ。奥にすすんでいくと、そこは法面がたかく立っていたり、またのちには木々が茂って林の様相もみせていたが、なにか喚起されるものがあり、連れとはなれてひとりでひろい土台のようになった地面のうえにのぼり、視界のさきを見通すと、そこになにがあったのだったかわすれたが(トンネルだったか?)、その光景はじぶんの幼少時のおもいでにむすびついていたらしく、それがとつぜんよみがえってきて、うわなつかしい、ここだ、むかし来たことある、という感動におそわれて、そのことを連れになかば聞かせるようにことばに出したものの、反応はないし、この時点ではほぼかれらは消え去っていたかもしれない。それから林の縁にいると、木々のむこうにかいまみえるひとつうえの道に、若い男女の一団がいるのがみえて、そこに行こうと右手のほうへまわっていく。のぼる坂道がみつかったのだがそのさきには女性がひとり待ち受けており、行ってみると着物姿で、空間は林ではなく小綺麗ななんらかの施設内に変わっており、女性からはお待ちしておりましたみたいなねんごろな歓迎のことばを告げられ、案内される。ついていくあいだ庭園とかがあった気がするが、ある一室にいたり、そこで案内はおなじように着物姿のべつの女性に変わって、こちらでおもてなししますみたいなことを言ってしめすほうをみれば、べつの一室につづく入り口に「宏池会研修会」とかいう表示があって、いやこんなところに来るつもりじゃなかったし、さっさと帰りたいとおもっていると、いつの間にか小池百合子ともうひとり匿名的な男性がそばにいた。
  • 実家にいるあいだはたいしたことをしておらず、寝床でごろごろして書見している時間がおおかった。せっかく実家に来たのにやった家事もアイロン掛けくらい。天気ははかりしれないよさ。快晴のきわみで、最高気温も二五度くらいあったようだし、居間でスクワットなどかるくすればとたんにからだは汗ばんで、アイロン掛けをしているあいだも暑かった。覚醒後に寝床で一年前の日記を読むさいも、南窓で朝からたいそうあかるいのでChromebookの画面がみえず、いちどひらいたカーテンを半分閉めて太陽のすがたとひかりをさえぎり、そのうえ画面の明度をあげなければならなかったくらいだ。一食目は一一時ごろ食った。うどんを煮込むように用意してくれてあったのでそれを煮込み、そのほかさくばんの天麩羅やマカロニサラダのあまりと米。部屋にもどったあとしばらくしてから隣室にはいって、ギターも立ったまま弾こうとストラップをからだにかけて、一弦が切れていてほかも錆びまくり汚れまくりのテレキャスターをもてあそんでいたのだが、そのうちに左半身がよくない感じになってきて、やめようと自室にもどったところがその後もそのよくない感じがなかなか抜けきらず、それで文も書けなかった。いまも打鍵しているとわりとあるのだが。
  • 「偽日記」より。

保坂和志の小説的思考塾。今回は「ポリコレ問題」が主題。聞いている側としても緊張状態に置かれるような題材だ。以下は、内容の紹介でも、保坂さんの発言に対するコメントでもなく、話を聞きながら考えたり、思い出したりしたこと。

セクシャリティにかんする言葉遣いはここ十年、二十年くらいで大きく変化した。その影響は、例えば保坂さんが「性転換手術」と言ったときに、それは今は「性適合手術」と言うんだよなあと自動的に思ったりする程度には、ぼくも受けている。だけど二十年前には、同性愛とトランスジェンダー性同一性障害との区別の認識も曖昧だった。能町みね子のデビュー作は『オカマだけどOLやってます。』というタイトルだが、今の能町みね子は決して「オカマ」という言葉は使わないだろう(能町みね子の本は『結婚の奴』しか読んでないが)。しかし、2005年当時はまだ、社会に流通している言葉で自分を表現する言葉が「オカマ」しかなかったということだろう。セクシャリティーに限らず、ジェンダー意識の変化も大きくあり、例えば「女流作家」という言葉は完全に死語になったし、「女優」という語も、そう遠くない将来に消えるだろうと思う。

ある概念が流通することで、それまでただモヤモヤしているだけでうまく言えなかったことが言えるようになるということがある。例えば「トーンポリシング」とか「シーライオニング」という概念を覚えると、今までそういうやり方で自分に圧力をかけてきた(しかし、どう言い返したらよいか分からずモヤモヤしていた)相手に、明快に理屈の通ったやり方で反論することができるようになる。また、自分が過去に、あるいは今でもなお、そういうやり方で人に圧をかけていることがあるのではないかと反省することもできるようになる。

言葉の配置の変化、新たな概念の一般化は、ジェンダーセクシャリティー、秘められた(秘めている権利がある)内面などにかんする、権力関係の不均衡やバイアス、抑圧や暴力のあり方についての認識の解像度を上げ、それにかんする配慮を繊細なものにすることを可能にする。これはもちろんポジティブなことだ。

しかしここで、いくつか問題も出てくる。一つは、繊細な人が、他者に対してより繊細であることを自分自身に強いて、その強すぎる超自我が自分自身を強く抑圧し、縛り、傷つけてさえしまうのではないかという点。一つは、元々繊細で、他者に対する敬意を強く持つような人ばかりが、さらに配慮を強めることになって、本来ならそこに届けるべき、他者への敬意や権力への配慮の足りない人にはこの変化がなかなか届かず、むしろ(急激な言説的な環境の変化についてこれないことによる)逆ギレ的なバックラッシュを生み出してしまうこと。一つは、元々はポジティブであるはずのもの、あるいは見えなかった苦痛(加害/被害関係)を顕在化させるためものが、「他者を攻撃したいという欲望の発露」のための道具として使われてしまうこと。「正義」だと社会的に認定されたものを後ろ盾にして、他者を過剰に攻撃しようとする人の存在。

三つ目の問題は深刻で、この「正義を後ろ盾に他者攻撃の欲望を叶えようとする人」が、一人で、顕名であればまだしも、SNSの発達という環境の元、「正義」を後ろ盾にした匿名の多数が攻撃の欲望を炸裂させる。仮に誰かが「非難されて当然のこと」をしたとしても、炎上が起きてしまうと、正当な非難(その人のしたことの、何が、どのように問題であるのかを、その人に対して訴えること)すら困難になってしまう。誰だって攻撃されれば自動的に防御的(あるいは対抗的)な姿勢をとることになるので、過剰な攻撃はあり得たかもしれない対話・改善の可能性すら潰してしまう。そして多くの人が、炎上を避けるために身を固くして、常に気を使って安全策をとることを余儀なくされる。表現は萎縮し、元々、「他者へ敬意」から発したものだったはずが、たんなるリスク回避、セキュリティの問題に成り下がってしまう。

(ここに、二つ目の問題が絡んでくる。保坂さんが、クリーンな人ほどスキャンダルに弱いと言っていたが、元々、他者を傷つけないように配慮している人は、それが不十分であった時、「お前は他者を傷つけている」という指摘に深く傷つくが、初めから他者への敬意など持たない人は、そのような指摘で自分が傷つくことはない。むしろ「タブーを破ってやった」的なポーズとなる。これも深刻な問題だと思う。)

この回で保坂さんが問題としているのは、この一つ目と三つ目のことであると思われる。大雑把に言えば、一つ目に該当するような配慮しすぎるような人に対して、もう少し緩く構えて良いんじゃないかということと、そして、三つ目の「攻撃する人」にかんしては、基本的には気にする必要はない、ということではないか。まとめとしては雑すぎるが。

●他者への敬意としてあったはずのものが、セキュリティ問題になってしまって、過剰な抑圧になって表現が萎縮する例として、3月26日の日記に書いたChatGPTの振る舞いがあると思う。

ここでChatGPTは、ぼくの夢の中にある差別的なものの気配を鋭く察知して(そこまでは素晴らしいのだが)、それに最も安易な形で蓋をしようとする。その結果、決して間違ったことの言えない優等生の作文のような表現になってしまう。ヤバいものには初期段階で蓋をするという態度は、リスク回避としては有効だが、それは例えば「差別」というものにかんして深いところで思考する機会を失わせる。

(隙あらばAIを攻撃したいという人はたくさんいるため、AIがこういう防御的な振る舞いをしてしまうのは仕方がないのだが。)

●保坂さんは、差別の問題は「紋切型」の問題に帰着するというようなことを言っていた。ぼくはそれに加えて、「恐怖」というものが作用しているように思う。

紋切り型にかんしては、認知限界が絡んでくるように思う。一人の人が関心を持ったり意識したりできる範囲と量は限られており、当面差し迫って必要なことと、主に関心を持っていること以外については、大抵の人は、ふわっとしたイメージによって処理している。そしてこの「ふわっとしたイメージ」は多くの場合、かなり偏った紋切り型なのだ。そしてこの「ふわっとしたイメージ」の部分が、何かを判断するときに大きく影響する要素となったとき、その判断が、そうとは意識できないまま差別的なものになってしまうことがある。これを避けるためには、物事の一つ一つを丁寧に吟味する必要があるのだが、どうしたって認知には限界があるので、あらゆる場面においてそれを充分に行うのは難しい。

より厄介のなのが「恐怖」だ。人は、恐怖の対象について差別的になってしまう。というか、恐怖の対象であるにもかかわらず自分がそれを恐怖していることを認めたくない対象に対して、差別的になると思われる。自分の生活基盤が崩されているという感覚を持つ人が、「近い他者」に対して差別的になるのはこのためだと思われる。これを回避するためには恐怖を解消する(知識によって・コミュニケーションによって…)しかないと思うのだが、恐怖は、人間の最も根源的な感情の一つであり、最もコントロールが難しい感情の一つでもあると思うので、これは非常に困難だと思われる。

●権力は、その場に応じて様々な働き方をする。晩年の大江健三郎の擬似的私小説の主人公は、現実の大江に限りなく近い高名な作家であり、つまり「権威ある男性」そのものだ。彼は、権威ある男性であるからこそ、様々な人たち(女性たち、若者たち、家族たち、政治的に異なる立場の人たち…)からの批判や非難に常に晒されており、その批判や非難のいちいちを、正面から真に受けて、そのたびに大きな揺らぎを見せる(最も強い批判者は「息子の存在」かもしれない)。批判を真に受ける事によるアイデンティティーの揺らぎが、晩年の大江の小説を動かしている大きな力のうちの一つだと思われる。彼は、社会的な地位としては権威ある男性であり、家父長であるが、批判を真に受ける場においては、ほぼ一方的にパンチを喰らう側にあり、無力で受動的な位置に置かれた弱者となる。そして、しばしば彼は、自分を批判する者たちに加担し、「権威ある男性」としての社会的力を、批判者への協力のために献上しさえする。しかしそれでもなお、彼は「行動する者たち」から置いてきぼりにされ(裏切られ)、「向こう側」に渡りそこね、「こちら側」でそれを記述する役割に甘んじる。そしてここでも、お前は結局「書くこと」によって全てを制御する権力の位置にいるのではないかと批判され、その批判もまた正面から真に受けられる(例えば『水死』から『晩年様式集』への流れなど)。このような何重にも重なる、受動-能動の逆転と力のせめぎあいが「文」の中に折りたたまれていく。

権力の勾配や暴力的な抑圧のありようは、何重にも重ねられているし、その「場」によって様々に変化するので、常に個別的に「その場」について丁寧に見ていく必要があり、たとえ「権威ある男性」だったとしても、常に力の優位の位置にいるとは限らない(「権威ある男性」であることに変わりはないとしても)。

タランティーノの「政治的な正しさ」に対してずっとモヤモヤするものがあり、それは彼への不信(あるいは、彼を支持する人への不信)となり、『ジャンゴ 繋がれざる者』を最後に、それ以降の映画は観ていない。彼は、「デス・プルーフ」では女性たちの側に、「ジャンゴ」では黒人たちの側につく。それは政治的に正しい態度と言えるだろう。

「ジャンゴ」では、黒人たちがひたすら酷いめに合わされ、白人たちはひたすら酷いことをしつづける。さらに、黒人たちの中にも、白人にうまく取り行って、黒人たちを責める役割りに回る者もいる。そしてこの話は、史実にそれなりに忠実に作られているという。ここまではいい。

映画のラストは、それまでずっとずっと耐えてきた黒人女性が、とうとう反撃に出て、「悪い白人」を完膚なきまでに叩き潰す。それを観る観客は溜飲が下がり、スッキリする。だが、それでいいのか。ここで「悪い白人」を殺すまでに至る主人公の「怒り」そのものは、当然のことだと納得する。しかし、そのことと、それを観た観客が「スッキリしてしまう」こととは違う。ここでは立場が逆転しただけで、悲劇的構造は継続されたままであるから、観客がスッキリしていいはずがない(観客がスッキリするような形で作っていいはずはない)。この構造は、単純な勧善懲悪の「悪い奴をやっつけてスッキリする」エンターテイメントのものだ。だが、実際にアフリカ系の人たちが被ってきた酷い歴史的事実を、スカッとスッキリする単純なエンターテイメントのために利用してしまってよいのだろうか。

問題は何一つ解決されていない。ただ、優劣関係が逆転しただけで、対立構造そのものは変わらずすべてそのまま残されている。ここには、差別や暴力的な支配-被支配の関係を、ほんの少しでも改善し緩和しようとする努力の気配すらないままで、主人公の置かれた厳しい状況とそれへの強い「怒り」の蓄積、そして爆発を、観客をスッキリさせるための原資として利用してしまっているように、どうしても見えてしまう。

ここでタランティーノが、「背後に正当化できるもの」を何も置かずに、ただ、映画において人を殺していく快楽だけを追求していたとしたら、それが好きかどうかはともかく、不信は抱かなかったと思う。

●既に「正義」と認定されているものを後ろ盾にすることに対する不信は、ぼくにはどうしてもある。


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  • 日記読み: 2022/4/11, Mon.