2023/4/18, Tue.

 一九二九年の特別暑い日のこと、三人の青年がメディネット・マディからほど遠からぬ、なかば砂に埋もれた廃墟を通りかかり、丸屋根の下にぼろぼろに朽ちた木の箱を発見した。箱は太陽の光にさらされて瞬時に崩れ去り、その中から腐朽したパピルスの束がいくつか姿を現した。水が紙の奥深くまで浸透していたため、数え切れぬほど多くの世代にわたって虫や蟻の被害は免れたものの、代わりに非常に細かい塩の結晶に蝕まれていた。青年たちはすぐにそれらの本を手に古物商のもとを訪れたが、この縁が黒く変色した紙の塊のために金を出すことを最初はためらった。後にその朽ちた束の一つを鑑定した修復士もまた、果たしてそこから太古の秘密を引き出せる時が来るかと訝しんだ。
 彼はようやく何か月もかかって、くしゃみをしただけですぐに粉々になってしまいそうに薄くて破れやすい本の頁を、斜めに置いた台板とごく小さなピンセットの助けを借りて、一枚ずつばらばらに剝がすことに成功した。それは偶然か、それとも神意か! ベルリンで古文書学者たちが拡大鏡と鏡(end167)を手に、ガラス板の下に広げてのばした、絹のように光る聖典とおぼしき書物の断片をのぞき込んでいた頃、物理学者フリッツ・ツヴィッキーはロサンゼルスからほど遠からぬ山上にあるカリフォルニアの天文台で、直径二百インチの反射望遠鏡をかみのけ座の方向へ向けた。そしていくつものぼんやりした星雲、それらは独立した銀河であることが明らかにされていくのだが、そうした星雲の動きを観察し、自分の計算と比較するうちに、彼はあることを発見するに至る。
 目に見える物質だけでは、この銀河団を束ねておくには力が足りない。宇宙には目に見えない物質が存在するに違いなく、その存在はそこから生じる重力によってのみ認識しうる。これこそ他の物質にほんの少しだけ先んじて凝集し始める物質で、その重力が残した痕跡に、他のあらゆる物質は従わざるをえない。神秘的な力、新たな宇宙の勢力、それをツヴィッキーはその未知の性質ゆえに「暗黒物質 [ダーク・マター] 」と呼んだ。
 ベルリンの古文書学者たちはその間、ガラスで守られた断片を並べ替え、見事に書かれた文字を解読し始めた。断片はマニの信徒の滅亡を予言し、彼らに加えられることになる残虐な仕打ちを詳細に描写していた。しかし、それはまたこんなことをも告げていた。

 幾千もの書物が救われるであろう。それらは心の正しき者ら、敬虔なる者らの手に渡るであろう。大福音書と生命の宝、プラグマテイアと秘儀の書、巨人の書と書簡、わが主に捧げる賛歌と祈祷文、絵本と啓示、寓話と密儀――一つとして失われる物はないであろう。どれほど多くが失われ、破滅するだろうか。幾千冊かが失われ、幾千冊かが彼らの手に託される、そうして彼らはふたたび私の書を見出すであろう。彼らはそれに接吻して言うであろう。「おお、偉大なる者らの智慧よ! 光の使徒の鎧よ! おまえはどこに迷い込んでいたのか。どこから来たのか。おまえはどこで見つけられたのか。この書がわれらのもとに届けられたことに、私は歓声をあげる」(end168)人々がそれらの書物を声に出して読み、一つ一つの書の名を告げ、主の名と、それを書くためにすべてを抛った者らの名、そしてそれを書き留めた者の名、句読点を記した者の名を呼ぶのを、おまえは目にするであろう。

 (ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、167~169; 「マニの七経典」; 結び)



  • (……)さんのブログよりもろもろ。

忘我において体験されるものは(それが何であるかについて語ることがまったくのところ許されるなら)、我の一体性である。しかし一なるものとして体験されるためには、我は一なるものになっていたのでなくてはならない。完全に一体化されていた者だけが一体であるものを受けいれることができるのである。そのときこの人間はもはやさまざまなものを集めた束ではなくて、ひとつの火である。彼の経験の内容、彼の経験の主体が、また世界と我とが合流してしまっているのである。このときにはあらゆる力が共振してひとつの力になり、あらゆる火花が燃えつどってひとつの炎になるのである。このとき彼は営為から遠ざかってこのうえなく静か、このうえなく無言語的な天上の国に委ねられ、営為がかつてその伝達に仕えるはしためとするために骨折ってつくりだした言語からも――また、およそ生命を得てよりこのかた永遠にわたって、一なるもの、不可能なるものを希求している言語、営為のうなじに足をすえてまったく真理に、純粋性に、詩になろうとするそのような言語からも脱却しているのである。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「忘我と告白」)

     *

 私たちは私たちの内部へと耳をすまし――そうしながら知らないのだ、どの海のさわだちを私たちが聴いているのかを。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「忘我と告白」)

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ちなみに大学に入学して最初に書かされた(日本語の)小論文はじぶんの知るかぎりクラスメイトの中で最低点だった(いくら勉強にやる気がなかったとはいえこれはちょっと恥ずかしいと思ってひとの目にふれないように隠した記憶があるからたぶん間違いない)。そんなやつでもまあ時間さえかければそこそこの文章を読み書きできるようになるものなのだ。小説家にでもなってひとやまあてるかと志しはじめたばかりのころはコンプレックスのように思えて仕方なかった思春期を文学どころかあらゆる芸術と無縁に無為に無駄に過ごしてしまったこの経歴が、じつをいうとかなりの武器にもなりうるんでないかと最近はときどき思う。というか以前よりときどき思っていたその論理にわずかながら実感がともないはじめたというべきかもしれない。ハイカルチャーにもサブカルチャーにもひとしくごくごく一般的な興味と無関心を保ちながら芸術の外で営まれる生活を地方のヤンキー文化にどっぷり疑問のかけらもなく染め抜かれながら過ごしていたドアホにしか見ることのできぬ光景もあるだろうし、そのドアホが都会に出ていきなり芸術にかぶれてしまったこの変身の衝撃にだってほかのだれでもない自分自身がいちばん今だって驚いているし、多くの作家がインタビューで問われることになる思春期をともに過ごした一冊がマジでないというか本といえば中高通して週刊少年ジャンプグラップラー刃牙しか読んでいなかったわかりやすいドアホがさながら交通事故で頭を打ったとたんに絵心にめざめた多くのアウトサイダーたちと軌を一にするかのごとく辿りはじめたあの遅刻者だけが目にすることのできる無人の道のりのしずけさなんてたぶんほとんどのひとが知らない。じぶんには遅刻するという特権が与えられた。物心ついたときからそばにあって常にじぶんをなぐさめはげましてくれるものとしての文学を知らずにいることができた。これが強みになりうることの確信にいま、具体的な実感がともないはじめている。

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 それから、この日の記事の末尾には「これ、すごすぎるな。こういうのがヒーローっていうんだよ」というコメントとともに、毎日新聞の記事へのリンクがはられていたのだが、当然そのリンクは10年後のいま失効している。それでURLを検索してみたところ、全文引いている個人ブログが見つかった。すばらしい内容だったので、ここにも記録しておく。「追悼・三國連太郎さん:徴兵忌避の信念を貫いた(特集ワイド「この人と」1999年8月掲載)」というタイトル。



 徴兵を忌避して逃げたものの、見つかって連れ戻され、中国戦線へ。しかし人は殺したくない。知恵を絞って前線から遠のき、一発も銃を撃つことなく帰ってきた兵士がいる。俳優・三國連太郎さんは、息苦しかったあの時代でも、ひょうひょうと己を貫いた。終戦記念日を前に、戦中戦後を振り返ってもらった。【山本紀子】

 −−とにかく軍隊に入るのがいやだったんですね。

 ▼暴力や人の勇気が生理的に嫌いでした。子供のころ、けんかしてよく殴られたが、仕返ししようとは思わない。競争するのもいや。旧制中学で入っていた柔道部や水泳部でも、練習では強いのに、本番となると震えがきてしまう。全く試合にならない。それから選抜競技に出るのをやめました。

 −−どうやって徴兵忌避を?

 ▼徴兵検査を受けさせられ、甲種合格になってしまった。入隊通知がきて「どうしよう」と悩みました。中学校の時に、家出して朝鮮半島から中国大陸に渡って、駅弁売りなどをしながら生きていたことがある。「外地にいけばなんとかなる」と思って、九州の港に向かったのです。ところが途中で、実家に出した手紙があだとなって捕まってしまったのです。

 「心配しているかもしれませんが、自分は無事です」という文面です。岡山あたりで出したと思う。たぶん投かんスタンプから居場所がわかったのでしょう。佐賀県唐津特高らしき人に尾行され、つれ戻されてしまいました。

 −−家族が通報した、ということでしょうか。

 ▼母あての手紙でした。でも母を責める気にはなれません。徴兵忌避をした家は、ひどく白い目で見られる。村八分にされる。おそらく、逃げている当事者よりつらいはず。たとえいやでも、我が子を送り出さざるを得なかった。戦中の女はつらかったと思います。


 ◇牢に入れられるより、人を殺すのがいやだった

 −−兵役を逃れると「非国民」とされ、どんな罰があるかわからない。大変な決意でしたね。

 ▼徴兵を逃れ、牢獄(ろうごく)に入れられても、いつか出てこられるだろうと思っていました。それよりも、鉄砲を撃ってかかわりのない人を殺すのがいやでした。もともと楽観的ではあるけれど、(徴兵忌避を)平然とやってしまったのですね。人を殺せば自分も殺されるという恐怖感があった。

 −−いやいや入ったという軍隊生活はどうでした?

 ▼よく殴られました。突然、非常呼集がかかって、背の高い順から並ばされる。ところが僕は動作が遅くて、いつも遅れてしまう。殴られすぎてじきに快感になるくらい。演習に出ると、鉄砲をかついで行軍します。勇ましい歌を絶唱しながら駆け足したり、それはいやなものです。背が高いので大きな砲身をかつがされました。腰が痛くなってしまって。そこで仮病を装ったんです。

 −−どんなふうに?

 ▼毛布で体温計の水銀の部分をこすると、温度が上がるでしょう。38度ぐらいまでになる。当時、医者が足りなくて前線には獣医が勤務していました。だからだまされてしまう。療養の命令をもらって休んだ。また原隊復帰しなくてはいけない時に、偶然救われたのです。兵たん基地のあった漢口(今の湖北省武漢市)に、アルコール工場を経営している日本人社長がいた。軍に力をもっていたその社長さんが僕を「貸してほしい」と軍に頼んだのです。僕はかつて放浪生活をしていた時、特許局から出ている本を読んで、醸造のための化学式をなぜか暗記していました。軍から出向してその工場に住み込み、1年数カ月の間、手伝いをしていた。そうして終戦になり一発も銃を撃たずにすんだのです。

 −−毛布で体温計をこするとは、原始的な方法ですね。

 ▼もっとすごい人もいました。そのへんを走っているネズミのしっぽをつかまえてぶらぶらさせたかと思うと、食べてしまう。「気が狂っている」と病院に入れられましたが、今ではその人、社長さんですから。

 −−前線から逃げるため、死にもの狂いだったのですね。

 ▼出身中学からいまだに名簿が届きますが、僕に勉強を教えてくれた優しい生徒も戦死していて……。僕は助かった命を大切にしたいと思う。そう考えるのは非国民でしょうか。

 −−三國さんのお父様も、軍隊の経験があるそうですね。

 ▼はい。シベリアに志願して出征しました。うちは代々、棺おけ作りの職人をしていました。でも差別があってそこから抜け出ることができない。別の職業につくには、軍隊に志願しなくてはならない。子供ができて生活を安定させるため、やらざるを得なかったのでしょう。出征した印となる軍人記章を、おやじはなぜだか天井裏に置いていた。小さいころ僕はよく、こっそり取り出してながめていました。

 −−なぜ天井裏に置いていたのでしょう。

 ▼権力に抵抗する人でしたからね。いつだったか下田の家の近くの鉱山で、大規模なストがあって、労働運動のリーダーみたいな人を警察がひっこ抜いていったのです。おやじはつかまりそうな人を倉庫にかくまっていた。おふくろはその人たちのために小さなおむすびを作っていました。またいつだったか、気に入らないことがあったのでしょう、おやじは駐在所の電気を切ったりしていた。頑固で曲がったことの嫌いな人でした。

 −−シベリアから帰ってから、どんな職業に?

 ▼架線工事をする電気職人になりました。お弟子さんもできた。おやじは、太平洋戦争で弟子が出征する時、決して見送らなかった。普通は日の丸を振って、みんなでバンザイするんですが。ぼくの時も、ただ家の中でさよならしただけ。でも「必ず生きて帰ってこい」といっていました。

 −−反骨の方ですね。

 ▼自分になかった学歴を息子につけようと必死でした。僕がいい中学に合格した時はとても喜んでいた。ところが僕が授業をさぼり、家出して、金を作るため、たんすの着物を売り払ったりしたから、すっかり怒ってしまって。ペンチで頭を殴りつけられたり、火バシを太ももに刺されたりしました。今でも傷跡が残っています。15歳ぐらいで勘当され、それから一緒に暮らしたことはありません。

 −−終戦後はどんな生活を?

 ▼食料不足でよく米が盗まれ、復員兵が疑われました。台所まで警察官が入って捜しにくる。一方で、今まで鬼畜米英とみていたアメリカ人にチョコレートをねだっている。みんなころっと変わる。国家というのは虚構のもとに存在するんですね。君が代の君だって、もっと不特定多数の君なのではないか。それを無視して祖国愛を持て、といわれてもね。

 −−これからどんな映画を作りたいと思いますか。

 ▼日本の民族史みたいなものを作りたい。時代は戦中戦後。象徴的なのは沖縄だと思います。でも戦いそのものは描きたくない。その時代を生きた人間をとりまく環境のようなものを描こうと思う。アメリカの戦争映画も見ますが、あれは戦意高揚のためあるような気がします。反戦の旗を振っているようにみえて、勇気を奮い起こそうと呼びかけている。


 ◇国家とは不条理なものだ

 三國さんは名前を表記する時、必ず旧字の「國」を用いる。「国」は王様の「王」の字が使われているのがいやだ、という。「国というものの秘密が、そこにあるような気がして」

 「国家というのは、とても不条理なものだと思う」と三國さんはいう。確かにいつも、国にほんろうされてきた。代々続いた身分差別からすべてが始まっている。棺おけ作りの職業にとめおかれていた父親は、全く本意ではなかったろうが、シベリア出兵に志願して国のために戦った。そうして初めて、違う職業につくことを許された。この父との確執が、三國さんの人生を方向づけていく。

 学歴で苦労した父は、息子がいい学校に入ることを望んだ。しかし期待の長男・連太郎さんは地元の名門中学に合格したまではよかったが、すぐドロップアウトしていく。三國さんは「優秀な家庭の優秀な子供がいて、その中に交じっているのがいやだった。自信がなかった」という。

 時代も悪かった。中学には配属将校といわれる職業軍人がいた。ゲートルを巻いての登校を義務づけられ、軍事教練もあった。

 学校も家も息苦しい。だから家出した。中学2年のことだ。東京で、デパートの売り子と仲良くなって泊めてもらったこともある。中学は中退してしまう。父は激怒した。中国の放浪から帰ってきた時、勘当された。家の近くのほら穴で「物もらいと一緒に寝起きした」という。道ですれ違おうものなら、父は鬼のような形相で追いかけてきた。

 その後、三國さんが試みた徴兵忌避は、不条理な国に対する最大の抵抗だった。後ろめたさはない。圧倒的多数が軍国主義に巻き込まれていく中、染まらずにすんだのは、「殺したくない」という素朴な願いを持ち続けたためである。

 「国とは何なのか、死ぬまでに認識したい。今はまだわからないが、いつもそれを頭に置いて芝居を作っている」と三國さんは話している。

Jamal was born Frederick Jones in Pittsburgh, Pennsylvania, and regarded the eclectic musical culture of his birthplace as crucial to his development. His father was an open-hearth worker in the steel mills, but his uncle Lawrence played the piano and at only three years old Jamal was copying his playing by ear. He took lessons from seven, and would recall “studying Mozart along with Art Tatum”, unaware of white society’s widespread prejudice that European music was supposed to be superior to that of African-Americans. Significant influences in his early years were the music teacher Mary Cardwell Dawson (founder of the National Negro Opera Company), and his aunt Louise, who showered him with sheet music for the popular songs of the day. Pianists Tatum, Nat King Cole and Erroll Garner were among the young “Fritz” Jones’s principal jazz influences, and he also studied piano with James Miller at Westinghouse high school.

At 17 he toured with the former Westinghouse student George Hudson’s Count Basie-influenced orchestra, worked in a song-and-dance team, and wrote one of his most enduring themes, Ahmad’s Blues, at 18. Two years later he adopted Islam, and the name Ahmad Jamal. He also joined a group called the Four Strings, which became the Three Strings with the departure of its violinist, and caught the ear of the talent-spotting producer John Hammond, who signed the trio to Columbia’s Okeh label.

The public liked Jamal’s distinctive treatments of popular songs, and so did Davis. Developing his new quintet in 1955, Davis sent his rhythm section to study Jamal’s then drummerless group. Davis liked Jamal’s pacing and use of space (the prevailing bebop jazz style was usually hyperactive), and he noticed that Jamal’s guitarist, Ray Crawford, often tapped the body of his instrument on the fourth beat. Davis told his drummer, Philly Joe Jones, to copy the effect with a fourth-beat rimshot, which became a characteristic sound of that ultra-hip Davis ensemble. Davis began to feature Jamal’s originals and arrangements in his own output, including New Rhumba (on his 1957 Miles Ahead collaboration with Gil Evans), and Billy Boy (on 1958’s classic Milestones session).