2023/4/21, Fri.

 数百メートル南西の灰色の肌のシラカバが、水の行方を教えていた。私は野原を横切って、少し幅が広くなった川床にたどり着く。細い畦道が蛇のようにくねくねと畑と用水路の間を縫ってつづいている。道幅は二メートルもない。若芽の毛布にいくつか裂け目ができている。泥炭質の土がそこだけ湿り気を帯びて光っている。イノシシが掘り返したのだ。ヒバリが一羽、囀りながら空高く舞い上がる。その歌は息もつかずに春の訪れを告げるが、春はまだ遠く、信ずるに足らないように思われる。初めて水音も聞こえてくる。水はコポコポと優しい音を立てながら小さな森に向かって流れ、ハシバミの茂みの中に消える。私は森の内部の心安らぐ静けさに浸る。ここで大地は強い東風から守られ、まだ去年の灰白色の枯葉を載せている。下草は土にまみれて灰色をしており、チョウチンゴケだけがパセリのように青々としている。卵黄色の花を咲かせる用意のできたセツブンソウが、葉を広げてすっくと立っている。森が明るくなり始める頃――小枝や松毬 [まつかさ] 、そして青黒く光る獣の糞の間に――私はシカの角が落ちているのを見つける。その焦茶色の角はずっしりと重い。私は快い細かい筋と小さな粒々のある、硬い革のような表面や、枝分かれしたなめらかな先端に触れてみる。かつて額骨の突起を飾っていた膨らんだ環の部分には、まだシカの毛が付着している。角はつい最近脱落したばかりにちがいない。純白の根本部分のざらざらした痂皮 [かひ] のような骨組織は、まるで珊瑚石のように鋭く尖っている。角を落とすのにはかなりの力が必要だったにちがいない。まわりに生えるトウヒの樹皮に、(end176)ミミズ腫れのような筋がいくつもついている。その傷口には乳状の樹脂がまるで凍った血のように固まっている。お腹を空かせたシカに、樹皮をきれいにかじり取られている木もある。
 一陣の風が梢を揺らし、空が明るくなる。一瞬、太陽の輪が厚い雲の層を通してうっすらと光るのが見える。影がさしたわけでもないのに、たちまちあたりは騒然となり、鳥たちの声が大きくなる。カササギ機械的なお喋り、ズアオアトリの疲れを知らぬ歌、クロウタドリのしゃがれ声、コマドリの憂いに満ちた単調な節。
 私が森の外に出ると、一羽のハシボソガラスが舞い上がり、カアカアと鳴きながら、冬大麦の緑色の斑の畑の上を滑るように飛んでは、何度も急降下する。その間その耳障りな声が途切れることはない。風景は変わったように見える。静かで整然としている。まっすぐな粘土質の土の道が、用水路に沿って次の集落までつづいている。そのほとりには葉のない柳の茂みが点々と並んでいる。水中に、いまはもう販売されていないメーカーの火酒の瓶が沈んでいる。道の左手の枯れた藪の中から、赤灰色のキイチゴの枝が何本か突き出ている。鳥の巣が葉のない茂みの中に掛かっている。そしてヒトシベサンザシの低木の根元に、石灰のように白い、打ち砕かれた沢山のカタツムリの殻と石が転がっている。その石の上で、クロウタドリツグミがカタツムリの柔らかい肉を殻から掘り出したのだ。トラクターの盛り上がったタイヤ跡は雨と雪解け水でふやけていて、私が踏むたびにぐにゃりと潰れる。あちこちの水たまりは周囲の色を吸収したようだ。濡れた粘土と濁った沼の褐色。全体が次第に調和して、色のコントラストが少なくなっていく。ヤマネコヤナギの萌黄色の縁どりのついた枝だけが、小さな銀色の花穂 [かすい] と一緒に冷たい空気の中で震えている。その艶のある毛皮は、べとべとする芽鱗 [がりん] が剝けたばかりだ。
 村の入口の標識の少し手前で、流れは分岐する。私はその中でいちばん目立たない、ポッキリヤナギに縁どられた畦道の奥深くに隠れた、細い水路を辿ることにする。ポッキリヤナギはまるで土手に(end177)頭から埋まった不恰好な生き物のように、水辺の藪の中から突き出している。樹冠をつめられ、枝はねじ曲がり、風雨にさらされ空洞化している。折れた箇所からは朽ちた木片がはみ出している。
 まもなく道は用水路にぶつかる。地図に書かれている探していた名前の川だ。その流れは蛇行せずに、周囲から離れて東へ向かい、柳に縁どられた、二つの牧草地の間の自然の境界となっている。岸辺の痩せた土の上に、雨に倒されたカヤツリグサが束になっている。流れは製図板に引かれた通りの直線を音もなく辿りながら、次々と南北に分岐する水路へ水を供給する。周りの土地は凍りついたように動きがない。すべてが遠く、すでに何かしら用途が決まっている。耕作地、いまはまだ家畜小屋にひしめいている牛たちの牧草地。風だけが時おり激しく吹いて息を寸断し、嵐さながらに私の歩みを阻む。空にはむくむくと筋肉質の雲が浮かんでいる。どこか遠くから車の往来が聞こえる。
 しばらくしてようやくまた目を引く物が出てくる。ミズキとトゲスモモの斜面が耕牧地を囲み、厳しい北東風から守っている。灰褐色の、クロウタドリほどの大きさの鳥の群れが畑の上を飛び、何度も集まって休んでは、些細なことでまた舞い上がる。ノハラツグミだ。古い料理の本に登場する、ビャクシンの実を好む灰色の斑の鳥で、地中海沿岸で越冬してきたのだろう。時おりキアオジも、菜種色の斑模様を見せながら冷たい空気をよぎる。ほとんど気づかないくらいに用水路は水位を上げ、川幅を広げて、水面に鱗のような泡を浮かべながら、機械式の堰の開いた地下牢を通り抜けて流れていく。
 やがて車道が近づき、水路を横断する。私は平らな錫灰色のアスファルトに違和感を覚える。車がすごいスピードで通過していく。北の方にはポプラの防風林越しに、コンクリート色の家畜小屋、膿を思わせる緑色のサイロ、セロファンにくるまれた藁束の灰白色のピラミッドが見える。どこかで農業機械の唸る音がする。雪片がちらほら、黄色くなった牧草地のぬかるみに、音もなく降りていく。
 私は岸辺の草むらに、鶏の卵ほどの大きさの、茶色い模様のドブ貝を見つける。その内側は真珠色(end178)に光っている。そこからさほど離れていない所で、マガモが水底の餌をあさっている。私が近づくと、都会に暮らすその近縁種に比べてはるかに臆病らしく、不愛想にガアガア、バタバタと騒いで飛び立ち、近くの休耕地に集まって舞い降りる。その足は明るい橙色、畑の灰色の額縁の中で、雄の頭は光の加減により青碧色に変化する。何時間も単色だけを見てきた後で、この鳥たちはエキゾチックなほど色鮮やかに感じられる。
 (ユーディット・シャランスキー/細井直子訳『失われたいくつかの物の目録』(河出書房新社、二〇二〇年)、176~179; 「グライフスヴァルト港」)



  • 一年前からニュース。

 (……)新聞の一面からウクライナの報を読む。マリウポリのさいごの拠点である製鉄所が激しく攻撃されており、ロシア軍は地下貫通爆弾というものをつかったという。地下にまで貫通したあと爆発するものらしく、それで施設はかなり損害を受けたようで、生き残ったアゾフ大隊のにんげんだかが多数のひとびとが瓦礫に埋もれていると証言していた。施設にはウクライナ軍とアゾフ大隊の兵二五〇〇人ほどがのこっていたといい、また子どもをふくむ市民もおおく避難してきていた。マリウポリはもうほぼ全域が制圧されたようで、ロシアとウクライナは市民をザポリージャに逃す「人道回廊」の設置に合意したというが、ロシアからすればもうあたらしい市長も置いてかれらの統治をはじめるつもりのようなので、市民を逃がす必要はないといういいぶんになりそうなものだが。文化面には古川日出男があたらしい小説を書いたという報。カルト集団をとりあつかったものらしく、オウム真理教による地下鉄サリン事件が風化しつつあるいま、とうじの空気を知っているにんげんが書き残しておかなければならないという意識からものしたという。社会面、さいごのページにはヘルソンからリヴィウに避難したひとの証言。ロシア兵は家に押し入って金品などを押収し、体格のよい男性は連行されて、ころされたのか刑務所にいれられたのかだれにもわからない、という。

  • 天気と交感。

 うえに書いたようにすこしばかりでも外気を浴びようとおもったので上階にあがってベランダに出、しばらく屈伸したり左右に開脚して腰をひねり太もものつけねのほうを刺激したり、前後に開脚して脛のすじをのばしたりした。文句なしの曇天である。雲はきれいに空を白く埋め尽くしていて、上体を左右にひねりながらみあげれば一帯のなかでは西の低みがより白く、すこし高めから天頂まではそれにくらべるとみずいろの気がみえないでもないが、いずれたいした差でもなく総じて白の模様なき平面である。微風がながれて冷たさにむすばず不定のうごきで肌にふれまわりなでていくのがここちよい。自由とおちつきと開放の感覚。ことは皮膚感の問題である。とおくのおとがつたわってくるのもよい。

  • (……)さんのブログより。

 しかしこういう発表形式の授業をやってみてあらためて思ったのだが、中国の学生たちって本当にずっとスマホをいじっているよなと思う。教師が教壇で話しているにもかかわらずスマホをいじりつづける学生が相当数いるのにはもう慣れたが(この仕事をはじめたばかりのとき、マジかこれ! とびっくりしたものだったし、じぶんの授業がそんなにまずいのだろうかと凹みもしたわけだったが、のちほど同業者らの経験談が寄せられているウェブサイトで、授業中のスマホいじりとカンニングの多さについて経験者のほぼ全員が触れているのを見て、あ、そういうものなんだなと受け入れるようになった)、クラスメイトの発表中も、もっといえばふだんコンビで行動している相棒の発表中ですら、ろくにその話を聞かずスマホをいじりつづけている学生が少なからずいて、ああいうのってそれがきっかけで揉めたりしないんだろうかといつも不思議に思う。最前列に着席している学生らにしても、じぶんたちとそれほど関係の深くない学生の発表時には、発表している学生のその目の前で堂々とスマホをいじっているわけで、たとえば日本語能力のめちゃくちゃ低い発表者の発表をつまらないと感じるのは仕方ないにしても、だからといって堂々とはばかりなく黙殺する、そこにはとんでもない飛躍があるでしょうとこちらなどは思うのだが、どうも中国人社会ではそうでもないようなんだよな、こういう場面には授業外でも本当にしょっちゅう出くわす。コロナ前の話だが、スピーチコンテストの練習がはじまってほどないころ、参加者と指導教師が会議室に集められて、そこで外国語学院のお偉いさんの訓示を聞く形式的な会議があったのだが、おなじテーブルのぐるりを囲んだその席上でお偉いさんの女性教授があれこれずっとなにやら口にしつづけるその正面に座っている(……)先生がテーブルの上に置いたスマホを堂々といじっていたり、あるいは学生らが机の下に隠したスマホをやはりいじっていたりするそのようすを見て、ある程度人数のいる場で、木を隠すなら森の中ではないけれども頭数にまぎれて内職をするのであればまだ理解できる、しかしそのときはおなじ机にお偉いさんとコンテストに参加する学生三名、指導教員としてこちらと(……)さんと(……)先生と(……)先生だけが同席しているという状況だったわけで、え? このシチュエーションで内職すんの? マジで? と心底びっくりしたのだった。これもこの国でたびたび感じる「他者」の不在に通ずる現象かもしれん。

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「(…)私は愛にとらえられていながら、だれを自分が愛しているのかわからない。私は忠実でも不実でもない。私はいったいだれなのか? 私は自分で私自身の愛のことがわからない。私は愛に満ちた心をもち、が同時にその心は愛のために虚ろなのだ」
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「フェリード=エド=ディーン・アッタール」)


 あなたのもつすべてを火のなかへ投げこむがよい、靴にいたるまで。なにひとつあなたのもつものがなくなったら、屍衣にさえ思いを向けずに裸で火のなかへ身を投じるがよい……。
 あなたの内部のものが断念のなかでひとつに集められたなら、そのときあなたは善と悪との彼方にいるだろう。善も悪もあなたにとって存在しなくなるだろうとき、あなたははじめて愛するだろう、そしてあなたはついに、愛のわざである救いにふさわしくなるであろう……。
マルティン・ブーバー/田口義弘・訳『忘我の告白』より「フェリード=エド=ディーン・アッタール」)