一一時ごろから零時半まで。13000字。このあいだ書いた、「じわりじわりと枝先に露が集まっていき、一滴の玉へむすぼれて、思いもよらずながい寸刻ゆらぎながらも引っ掛かり続け、周囲の色を吸いこんだあとで出し抜けに落ちていくのと同じたっぷりとした時間をかけて、ぽとりぽとりと言葉ははじまり、やがて間隔を狭めるとともに、木末の先を離れたしずくが低い枝葉の同類たちを巻き込まずにはいられぬように、かさなるごとに確かに一層重みをもってながれていった」を削除。余計じゃないかと。ホメロスとかプルーストの長い比喩をちょっと思わせないでもないが、イメージとしてもありきたりだし、戦場から逃げてきた兵士の語りをイメージ化するというのもどうなのかな、ということもあった。ただ、これがないとないで、リズム的につなぎが足りないような感触もある。
 「たぷんと押し出された熱湯はかおる緑の気配ちらつく宵闇を篤く孕んだその上に」を、「たぷんと押し出された熱湯は草花の吐いた香りをとどめるまだ真新しい宵闇を篤く孕んだその上に」に。「かおる緑の気配ちらつく」はだめだなと思っていた。こっちのほうがいいと思う。これは、さいきんCyrille Aimee & Michael Valeanu『I’ll Be Seeing You』というギターとボーカルのデュオをよく聞いているのだけれど、そのタイトル曲の歌詞(最後の連)で、”I’ll find you in the morning sun / And when the night is new / I’ll be looking at the moon / And I’ll be seeing you”という箇所があって、それがあたまに再生されているときに、”when the night is new”から「真新しい宵闇」を思いつき、これで行けるな、となった。時間感覚を盛り込めばよかったんだ、と。ただまだ完成形ではない気がする。
 「血の気を戻した顔の皮膚だけが規則知らずの熱気と涼気をかわるがわるに味わった」も、「血の気を戻した顔の皮膚だけが混ざり合いなしの熱気と涼気をふたつながらに味わった」に。「ふたりは言葉を、あるいは無言を、壊さず丁重に聞き受けた」は、「すべての言葉とすべての無言を、ただただ丁重にふたりは聞き受けた」。
 「夜が深まると、兵士は牛舎に案内された」以降が新しく書いた分。「牛の姿のひとつすらない空っぽの房に左右を挟まれ行くあいだ」は、「空っぽの房を左右に〜〜行くあいだ」のほうがいい気がしているのだけれど、〜〜部分の動詞が思いつかない。その次の、「手持ちの小さな灯りがひろげる溶けかけの円の境界上に、暗闇は石の割れ目をつたって表と裏を縫って行き交う小爬虫類めいた機敏さを見せ、ふれられたゆえにしりぞくよりも決してふれられぬよう遠のいてゆくあのどこか騙し絵じみた錯覚感で、あまりにも柔弱にやすやすと離れていってはまたすぐに集まってくるのだった」はちょっとぎこちない感がある。また、きょうようやく兵を殺すところまで来たけれど、この殺害を理由や意味に回収させず、推測や解釈、できるならば解釈の気配(印象)をもなるべく排除したいという観点からすると、この段落には比喩がないほうがいいのではという気もしている。この一文の比喩は明確に解釈に通ずるものではないと思うが、いくらか雰囲気を作ってしまっているようではあるので、どうしたものかという感じ。それでいうと「学芸会の芝居のために教えこまれた台詞を暗唱してみせる生真面目な生徒の滑稽さが、どこかにほのめき滲んでいた」もなくすか迷う。こっちのほうが兵士の様子への言及であり、かつ「滑稽さ」という価値づけ的な語でそれをしている、すなわち皮肉めいたところがあるがゆえに、より殺害の意味づけに近づきやすいように思うからだ。いっぽうで、これを残せば残したで、いちおうやや複雑な多義性は生まれうるのかな、という気もしている。