晴れ晴れとした日で、離床すると早速布団を干してシーツも洗った。布団ばさみを買っていないので、敷布団は柵にかけるのではなく、バルコニーとは名ばかりの窓外の細長く狭いスペースに半端に折りたたんで立てるしかない。
図書館に行ってきた。六時五〇分頃出発。それまでのあいだは飯を食ったり体操したり休んだりしてからだを調えているわけだが、通常ひとの多い街に出たり勤務したりするときはヤクを三錠飲むのが習いだったところ、きょうは二錠で行けたので少し進歩。(……)通りに入ると公園の木から宵前をむかえても旺盛に鳴きやまないセミがシャカシャカいうような、あるいはジビジビいうような声でわめき立てている。緑の暗んだ梢の葉叢の隙間にはモザイク片のように散りばめられた夕空の色がつぶつぶと覗く。少し進んで小学校敷地でもおなじく木の梢は暗緑、そのなかの幹はもう黒い影である。とはいえ空は七時前でもあかるさを失いきってはおらず、淡青がひろく延べられた先で諸所に白んで、さらにそれが残照のほのかな香りを受け入れてゆるゆると揺蕩うていたり、空の地色よりいくぶん濁りを混ぜた青さの雲が散らばっていたりする。
裏路地から行って途中で北の車道に折れ、渡って裏に入って踏切を越えようと思ったところが入った口をまちがえたらしく、見覚えのない雑駁とした地帯に迷い、こっちだったかとしばらくめぐるように行って結局(……)通りの立体交差に出てしまった。ここは車の音がうるさいし、チャリも多くて油断していると後ろから高速でやってきて危なかったりするので避けようと思っていたのだが。行けば途中、線路の下で頭上が塞がれて左下の車道の宙との境も石造りの柱で区切られた短い区画があるのだが、そこに入ると余計に圧迫的に響く車の音と閉鎖的な感じと照明のオレンジ色によってだろう、身に緊張をおぼえ、ちょっとバランスが崩れた。呼吸を意識してみようかなと鼻のあたりに知覚を向ける。意識するといっても深呼吸したりコントロールするのは面倒くさいのでそうではなく、ただ歩きながらおのずとおこなわれている息の感じを見ながら圧迫感をまぎらせて行き、出ればからだの感じはもとに戻る。
図書館のそばに大戸屋があって(たしかやよい軒ではなかったはず)、その前を通り過ぎざまになかを覗くとあかるい店内でそれぞれ区分けされた席に集っているひとびとの群像が、水槽のなかのうんぬんでもないが、また家畜のように狭苦しいところでうんぬんでもないが、なんとなくそれに近いような印象を受けたっぽくって、それはいまじぶんが店に入って飯を食えないことからくる僻みなのだろうか? しかし図書館に続く高架歩廊に上る階段を行くときは一段とばしで安定的に上っており、足は軒昂である。入館。新着図書。松井梓というひとの、海、路地、なんとか、だったか、それか海と路地のリズムなんとかだったか、モザンビーク島の繋がっては切り離される近所付き合い、みたいな副題がついた本があって、見た目の雰囲気も何とはなし良かったし気になる感。春風社。藤田直哉のAI=ネット社会論だったか、政治論だったか、そんなような本。法政大学出版局から出ている『アラブの女性解放論』というやつ。その隣に碧海寿広というひとの『近代仏教とは何か』だったか、そんなやつ。青土社。あと村上靖彦の『すきまの哲学』という題だったかな。このひとは研究者としてはたぶんレヴィナスあたりからはじまって、近年は西成に通っていわゆるヤングケアラーのひとにインタビューしてその語りを分析するような本を出しているっぽくって、数か月前にレヴィナスの解説書も出していたはずで多作だ。このひとの本はわりと全部読んでみたい。それでいえばちくまプリマー新書の『客観性の落とし穴』は、きのう書いた書評の一冊としても行けるかもしれん。一冊くらい読みやすい新書入れておくのもいいかもしれん。ここの後半で簡易的に展開されていたインタビューしたひとの語りの分析というのはほぼ本文に厳密にもとづいたテクスト分析的な感じで、それは語るひとのことばや文脈や話者の人格などをなるべく尊重するという方針にもとづいたやり方で、だから通常編集で省かれるような言い間違いとか逡巡とか間投詞とかも全部文字化して組み込まれているのだけれど、そこからそのひとの経験の固有性やそれと不可避的に結びついた語りのスタイルを摘出することができ、その「経験」というのは個人の主観性に閉じたものではなく、記憶や環境や他者と関連し合った共同的なものとしてあるというわけで、客観性や数値という抽象化された観点からはとらえることのできないそうした共同的=複合的なものとしての個人の「経験」の固有性においてこそある種の普遍性が逆説的ながら見えてくるのではないかということをベンヤミンを一節引きつつ言っていたのだけれど、これはプルーストが書簡で、「具体性の頂点においてこそ普遍性が花開く」と言っていたのと同じことではないか。だから『客観性の落とし穴』を読んだときの印象としては、文学のある種の側面にかなり近いな、と思って、このひとそのうち小説書くんじゃないかと思ったのだが、いまのところそういう機運はないようで、あくまで哲学としてそれを考え言語化したい様子だ。そのインタビュー分析をもっと詳しく論じたものと思われる本として、なんだっけ、『交わらないリズムの現象学』だっけ? それか『交わりとリズムの現象学』かな。忘れたが青土社から出ている一冊があって、これも読もうと思って以前一度借りたのだけれど読めていない。
書架のほうへ。テーブル席がひとでいっぱい。しかしひるまない。けれどもいまや視界はややぼんやりしてきており、居並ぶ本の背表紙を見ていると目を使うからだろう、腹がちょっとぎゅるぎゅるしてからだのなかが締まってくる感じがあった。最初にこのあいだ借りて読み出しながら読みさしで終わってしまった島口大樹『鳥がぼくらは祈り、』を取りに行く。書棚の側面を見ると右側にスセソとあって左がサシだったのでこっちかなと左側の至近下部をみるとそこはまだサの範囲で、佐藤のところだったので佐藤亜紀なんかがある。あと佐藤泰志が二冊。福間健二編集の初期作品集と、拾遺というやつ。拾遺の雰囲気がなんかよかった。あと、『テトカポトリカ』だっけ、なんかテトラポッドみたいな題名のやつで直木賞を取った佐藤究も三冊。このひとはもともと純文学のほうから始まったのだけれどうまくいかなくて、編集者の進めでエンタメ方面に流れたらしいのだけれど、直木賞取ったときの読売新聞の記事でフーコーを引くとともに、同作を書いた理由を聞かれたら恐怖以外にないみたいなことを言っていて、要はラス・カサス神父のスペインによる南米侵略の記録を読んだことが大きかったようなのだが、これはなかなか行けるひとなんじゃないかと思っていた。しかしこのときくだんの作は見当たらない。ほかに三冊。どれかの著者紹介に江戸川乱歩賞という文字が見えたので、ミステリー的なやつなのだろうか。この並びで『ビボう六』というほかより少し小さいひかえめな本を見つけ、なんとなく気になったので取ってひらいてみるとなんとなく悪くなさそうだったので借りることに。佐藤ゆき乃というひと。ちいさいミシマ社。なんか聞いたことはあるような気がする。著者紹介を見ると、この作で第3回京都文学賞受賞(一般部門最優秀賞)、また、「2023年に、「ながれる」で岩手・宮城・福島MIRAI文学賞受賞」とある。九八年生まれ。ということは二六歳くらいか。
それで二冊を持ち、プリーモ・レーヴィの『これが人間か』があるかイタリア文学も見ておこうとそちらに向かう途中、通路にあるワゴンに『ダンテ地獄篇精読』なる地味な色合い装丁の書を発見してしまい、こんな本あるのかと見る気になったのはいつか書いてnoteで売るつもりでいる「グリージャ」なんかを読む文章の参考になるかもしれんという目論見だったのだけれど、手にとって見れば粟津則雄で、粟津則雄ってこんなのも出してんのかよと思った。八八年。筑摩書房。装丁菊地信義。やつらは友達だからだ。古井由吉なんかも交えて連歌会やってたらしい。吉増剛造もいたんだっけ? 冒頭、「『地獄篇』「第一歌」は「(省略)」ということばで始まっている。次いで、数行のちに、語り手は「(省略)」と述べるのだが」と、前置きもなしにきちんと引用していて、当たり前だがちゃんと精読している。信用できる。
それでイタリア見たがレーヴィは『リリス』と全詩集しかなく、『これが人間か』がないはずがないと思うのだけれど、文学ではなくて歴史とかのほうにあるのかもしれない。戻って階段上り、岩波新書のところに行って石川日出志『農耕社会の成立』を取る。それから岩波文庫。なんか、いったいだれがいまこんなの読んでんの? というやつを読もうと思っていた。しかし薄いほうがいい。それで海外文学の赤い並びを見ていって、魯迅/竹内好訳『野草』、アイスキュロス/呉茂一訳『縛られたプロメーテウス』、アリストパネース/高津春繁訳『女の平和』、ハインリヒ・ハイネ/小沢俊夫訳『流刑の神々・精霊物語』を選んだ。魯迅とハイネはともかくギリシャ二つはわりと有名どころになってしまったが。ほかにもっと、中国の全然知らない古い小説家らしいひととか、ギッシングとか、フーケーの『水妖記』とか、ヘッベル短編集とかのほうがいま誰も読んでねえだろ感はつよい。ギッシングとかいったい誰やねん。ネット上ですらこの名前について誰かがなにかを触れているのを見たことがない。ヘッベル短編集についても、日本全国広しといえどもいまこの日々にこれを読んでいるのはいて一人だと断言できる。そもそも小説書いてたのすら知らんかった。そういえばシュティフターの『水晶』というのがあって、覗いてみたら「石さまざま」の副題があったのだけれど、「石さまざま」って松籟社の四巻本しかないのかと思ってた。しかも手塚富雄訳だった。シュティフターといえば『晩夏』が有名で評判高いはずだがこのとき見当たらなかった気がする。『ブリギッタ・森の泉』というのはあり、これは昔地元で借りて読んだのだがそのときの印象では大したあれではなかった。ところでヘシオドスの『神統記』と『仕事と日』で漠然と『歴史』と同じくくり、つまり青本かと思っていたのだけれど赤本のなかにあった。松平千秋訳。そのうち読みたい。
計八冊。これだけ借りても読めるわけがないのだけれど、とりあえず借りておけばしばらく手元に置かれてこういう本があるということが記憶に残るので、そのうちまた借りていつか読むことになるはず。