水曜日に塾で国語をやって、二学期に中三は魯迅の「故郷」をやるのでそれを予習したのだが、「やるせない」という語が文中に出てきて(主人公の「私」が実家を引き払うために二〇年ぶりに帰った故郷で、まだそこに住んでいる母親がもてなしてくれたが、「さすがにやるせない表情は隠せなかった」みたいな箇所)、これの意味がわからんと生徒がいう。やるせないかー、どんな感じかな、いざ説明するってなると難しいよねと受けつつ、そのときはとりあえずワークを一ページ前にもどって、たしかここに書いてあったろと示したのは語彙の意味をきく問いで、そこに「やるせない」が含まれており、選択肢が四つある。どれだと思う? と聞くと相手は「せつない」を選び、こんなかだとそれがいちばん近いわなと受けて問題に戻り、じゃあなんで母親はせつない表情してんの? と質問を続けて、記述問題を見事正解に導いたのだったが、きょうそのことを漠然と思い出して、やるせないは切ないというより、正確には、気持ちのやり場がなくてどうしようもないということだよなと思った。それとともに、この語は漢字だと「遣る瀬ない」だろうと思いだして、この「瀬」にちょっと驚いた。「瀬」だったのか、と。何かを「遣る」、送る、行かせるような「瀬」がない、ということなのだ。何を遣るのかといえば語の性質上そりゃ気持ち、心向きということになるが、気持ちをあらわすことばのなかに「瀬」という具体的な場所的環境(まあおおげさぶって一応トポスと言ってやってもいい)が含まれていることに驚いたのだった。つまり古人にとって気持ちは「瀬」に「遣る」ものだったのか? と、それこそ水に流すということばもあるけれど、川にものを捨てるじゃないけど少なくともそういう風にして処理するものだという発想があったのか? と想像が膨らんだのだった。それでいま調べてみたら、weblioの実用日本語表現辞典に次のようにある。「「やるせない」とは、憂いや悲しみを紛らわせようとしても思いを晴らすすべがなくてつらく切ないことを意味する表現である」、「「やるせない」の語源は、古語の「遣る瀬無い」である。「遣る」は「行かせる・進ませる」という意味から転じて、「思いを晴らす」という意味が派生した言葉だ。「瀬」は「海や川の歩いて渡れる程度の浅い場所や、流れのはやい場所」のほかに、「あることを行う場所や機会」を意味する」。なるほど、と。この「瀬」は具体的な場所的環境(トポス)ではなかったのだ。たしかに「瀬」の字を調べれば、「立場。場所。機会。おり」の意があり、例語として「逢瀬」が添えられている。ということは「立つ瀬がない」の「瀬」もこれと同じ「瀬」だろう。おもしろい。
ちなみにきょう返した本のなかには岩波文庫の古い魯迅の「野草」というのが含まれていたがこれはけっきょく読めず。借りて読めたのはけっきょく島口大樹のみ。またそのうち借りて読む。魯迅なんていま読んでるやつほぼおらんだろうし、訳も竹内好の古いそれしかあんまりないんじゃないか。しかし中国近代の文人のなかではそれこそ日本の教科書に載っているくらい有名な名前ではあるし、忘れたがたしか東北大学だかどこかに留学していて世話になった先生がいて、みたいなエピソードも有名じゃなかったっけ? なんでもよろしいがこの「故郷」しか知らないし、ちょっとほかも読んでみたいなと。「故郷」はべつにおもしろいとは思わんが。教科書に載る作品などたいがいはおもしろくないだろう。そもそも魯迅が、そして「故郷」がなんで中学校の国語の教科書に載っているのかよくわからん。