20241028Mon.
- 今日は労働。面談に同席したりして、久しぶりに帰りがだいぶ遅くなった。アパートについたのが11時15分ごろ。休んでから遅い夕食をとった。そのあと椅子に座ったまま、坐禅の手のかたちをつくってしばらく休む。その間とその後の湯浴みのあいだに考えたことがある。いままで自分は学校の勉強、受験勉強なんてものはおおかたクソつまらんもんで、それより本読んだりし て自分の興味をはぐくむことを生徒にはしてもらいたいと思っていた。これがまちがいだったんじゃないかと。後段についてはまちがいではないが、前段が。つまり、硬直した受験勉強と、自分の興味を追究する無償の情熱たる学びのあいだに知らず線引きをして、後者のほうがおもしろく価値あるものと思っているのだが、これはある種のおごりではなかったか。後者のほうがおもしろいのはまちがいではないが、塾で生徒たちをあいてするにあたって、学校の勉強なんてものはしょせん学校の勉強にすぎない、という意識ではだめなんじゃないか、という発想がやってきた。何かを知り、学ぶことはおもしろいというのは、自分にとって 疑う必要のない端的な事実である。受験勉強のための学習塾という枠組みとはいえ、生徒にもなるべくそれを理解、あるいは体感してもらいたい。教育の役目なんて、本質的にはそれしかないはずなのだ。そしてそれがいちばん難しい。少なくとも、単に知識を伝達するより難しいし、一朝一夕でどうというものでもない。塾では基本的には学校の勉強、受験勉強という枠組みしかないわけで、その限りでできることをやるしかない。そういうときに、学校の勉強はたかたか義務的なお勉強で、真の学びはほかにある、みたいな態度ではよくないんじゃないかと思ったのだ。もちろん、そういう態度をあからさまに出したことはない。ただ、自分の マインドのありかたとして、学校の勉強だって知の営みの一環であり、そこにもたしかにおもしろさが、少なくともおもしろさへの入口がありうるのだ、という前提でいないと、いくら学ぶことはおもしろいということを自分で知っていても、生徒にそれが伝わらないんではないか。むやみに大げさに言えば、知への愛が足りなかったのではないか? 知への愛は区別を知らない! もちろんこちらの愛は神ならぬ人の愛なので、大いに有限だし、区別もするが、少なくとも、受験勉強だっておもしろいところはあるし、実際におもしろがれるんだぜ、というところを実践し、実地に見せてあげられたほうがいいのではないか。英単語ひとつだって、時と場合によってはおもしろい。右記したようなマインドに前提を変えることで、授業のやりかたやそこでの発言、教え方、思いつくことが変わってくるんじゃないか。