おれはついに、職場で授業を終える際、「おつかれさまでした」ではなくて、「ありがとうございました」と生徒にあいさつする人間になった。先週から自然にそうなった。
きょうは歩きすぎるくらいに歩いてしまった。七時に起きて九時にはもう外に出て、一時間二〇分歩き、午後は午後で四五分ほど歩き、職場へはいつもどおり三〇分歩いていく。帰りは帰りで音楽方面のあれで友人らに伝えることがあったものだから通話しながら隣の駅まで三〇分ほど歩き、こっちに来たらいつもどおりやはり三〇分歩いてアパートに帰る(スーパーにも寄った)。合わせて二一五分だから三時間半くらいは歩いたわけだ。このままじぶんは、令和日本のヘンリー・デイヴィッド・ソローかヴァルザーになるかもしれない。
地元を歩いていると色を変えた木々たち葉叢たちがとにかく鮮やかで、鮮やかといっても、そこに激烈さはない。おだやかながらひたすらにあかるい色また色、あまりにもまぶしいひかりのあかるさとあいまってただただ色の多様、どこを見てもそれが存在していて、こんなにもとりどりだったか、あかるかったか、混淆していたか、精妙だったか、これが晩秋の色彩だというのなら、今年までにじぶんが見てきたものはいったいなんだったのか? と困惑させられる。もしかするとおれはそろそろ死ぬのかな、と、ありがちな感慨が浮かんだりもする、そういう色のありかただ。おそらく死にはしないのだが、死期を前にした老人の目とか、じぶんが遠からず死ぬことを知った末期の病人のまなざしとして、フィクションや、フィクションでないところで伝え聞く世の見え方は、あるいはこういうものなのではないかと、そんなふうに感じて見ている。