いましばらくは無理ではあろうが、もう少しからだのバランスが向上し、頑健のほうに寄って読み書きをより多くできるようになったらば、じぶんの小説を書くのと並行で翻訳もちまちま進めていきたいと願う。ほんのちょっとずつでいいので、To The Lighthouseを日々に読んで訳したい。その際は過去の訳をすべて捨てていちからはじめる。そういうわけで、ここにそれらを葬って供養しておく。ついでにUlyssesも。つつがなく成仏せよ!
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「ええ、もちろん、もし明日、お天気だったらね」 ラムジー夫人はそう言って、「だけど、ヒバリさんとおなじくらい早く起きなくちゃ、だめよ」と付け加えた。
たったこれだけの言葉が、息子にとっては、はかりしれない喜びをもたらすことになったのだ。まるで、遠足に行けるということはもう間違いなく決まり、幾星霜もと思われるほど楽しみに待ち焦がれていた魅惑の世界が、あと一夜の闇と一日の航海とをくぐり抜けたその先で、手に触れられるのを待っているかのようだった。彼は六歳にしてすでに、ある気持ちを別の気持ちと切り離しておくことができず、未来のことを見通しては、そこに生まれる喜びや悲しみの影を現にいま手もとに収まっているものにまで投げかけずにはいられない、あの偉大なる一族に属していたのだが、その種の人びとにとっては、幼年期のもっともはやいうちから、感覚をつかさどる歯車のどんなわずかな動きであっても、陰影や光輝を宿した瞬間を結晶化して刺しとめる力を持ってしまうものなので、床に座りこんで「陸海軍百貨店」のイラスト入りカタログから絵を切り取って遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母親がそう言ったときちょうど手にしていた冷蔵庫の絵に、まるで天にも昇るかのような無上の喜びを恵み与えたのだった。その絵は、歓喜の縁飾りを授けられたわけである。手押し車や芝刈り機、ポプラの樹々の葉擦れの響きや雨を待つ葉の白っぽい色、それにまたミヤマガラスの鳴き声や、窓をこつこつと叩くエニシダのノック、ドレスが漏らす衣擦れの音――こういったすべてのものたちが彼の心のなかでは鮮やかに彩られ、はっきりと識別されていたので、それはもはや自分だけのひそやかな暗号を、秘密の言語を持っているようなものだった。しかしまた彼の姿には、純一 [じゅんいつ] で、妥協をまったく許さぬ厳格さがそなわってもいた。その額は高く秀で、荒々しさを帯びた青い目は申し分のないほどに率直、かつ純粋で、人間の持つ弱さを目にするとかすかに眉をひそめてみせるくらいだったので、母親であるラムジー夫人は、鋏をきちんとあやつって冷蔵庫の絵を切り抜いている息子の様子を見まもりながら、白貂をあしらった真紅の法服で法廷に座る彼の姿や、国政の危機に際して過酷で重大な事業を指揮するその勇姿を、思わず想像してしまうのだった。
「だがな」と、そのときちょうど通りかかった父親が、客間の窓の前で足を止めて口をはさんだ。「晴れにはならんだろうよ」
斧でも火かき棒でも、とにかく父親の胸に穴をぶちあけて彼を殺せるような何らかの凶器が手もとにあったなら、ジェイムズはその場ですぐにそれを掴み取ったことだろう。ただそこにいるというだけで、ラムジー氏の存在は、それほどまでに激しい感情の揺れ動きを子どもたちの心中にかき立てるのだった。ナイフのように痩せているどころか、その刃の鋭さを思わせるくらい細身の彼はいまもまた、いかにも皮肉っぽくにやつきながら立ち止まっていたのだが、それは単に息子の幻想を打ち砕き、また、(ジェイムズが思うには)どこを取っても彼自身より一万倍もすばらしい夫人を馬鹿にして楽しむためだけではなく、自分の判断力の正確さに対するひそかなうぬぼれに耽るためでもあったのだ。俺の言うことは、本当だ。いつだって本当のことしか、言わない。嘘なんてつけるはずもないし、事実に手を加えてねじ曲げたことも、一度もない。誰であれ限りある人間の儚い喜びや都合におもねって不愉快な [disagreeable] 言葉を言い換えたことはないし、まさに自分の腰から生まれ出た子どもたちを相手にするならなおさらそうだ。俺の子どもならばまだ幼いころから心得ておかねばならんだろう、人生の厳しさを、事実の動かしがたさを、そして伝説に語られたあの土地への旅、この上なく輝かしい我々の希望も光を失い、我々を乗せて運ぶ小舟がもろくも闇に沈み去ってしまうというあの神話の地への旅には(と、思考がここまでくるとラムジー氏はいつも背すじを伸ばし、水平線を見つめながら青く小さなその目を細めるのだった)、何をおいてもまず、勇気と真実と、それに苦難を耐え忍ぶ力が必要だということを。
「でも、晴れるかもしれませんよ――晴れるといいんですけど」とラムジー夫人は言って、そのとき編んでいた赤茶色の長靴下を、いらいらした様子でちょっとひねってみせた。もし今夜中に編み終わって明日本当に灯台 [Lighthouse] に行けることになったなら、その靴下は小さな息子がいる灯台守にプレゼントする予定だった。というのも、その男の子は結核性股関節炎におびやかされていたからだ。それと一緒に古雑誌の束やタバコなど、本当は必要でもないのに見回してみれば部屋中に散らかっている雑多なあれこれも、何でも持っていってあの気の毒な人たちを楽しませてあげましょう、何しろあの人たちは、やることといえばランプを磨いたりその芯を切ったりちっちゃな庭を掃除したりするくらいで、それ以外は一日中座りこんで死ぬほど退屈しているに決まっているんだから。だって、一度に一か月も、それどころか嵐のときはもっと長く、テニスコートくらいの広さしかない岩の上にずっと閉じこめられていたいなんて思う? と夫人はよく問いかけるのだった。手紙も新聞も見られないし誰にも会えない、結婚していても奥さんにも会えないし子どもの様子もわからない――病気になっていないか、転んでしまって手や足でも折ってやしないか、それもわからないのよ。毎週毎週、何も変わらず単調に砕けつづける味気ない波を見ている、と思ったらものすごい嵐がやって来て、窓はどれも水しぶきでいっぱい、鳥たちはランプに激突、建物全体もぎしぎし揺れて、おまけに海にさらわれないようにドアからちょっと鼻を出すこともできないのよ? そんな生活、あなたはしたいと思う? と彼女は訊ねたものだ、とりわけ娘たちに向かって、語りかけるように。そしてすこし調子を変えて付け足すのだった、だから、慰めになるものなら何でも、できるだけ持っていってあげないとね。
「風向きは真西ですね」と無神論者のタンズリーが、骨ばった指をひろげて吹き抜けていく風を確かめながら言った。彼は、夕方の散歩でそこらを歩き回るラムジー氏のおともをして、テラスの上を行ったり来たりしていたのだ。真西というのはつまり、灯台に上陸するには最悪の風向きということだった。そうね、たしかに嫌な [disagreeable] ことを言う人ね、とラムジー夫人は認めた。いやらしい人、わざわざ余計なことを言って、ジェイムズをなおさらがっかりさせるんだから。しかし一方で、子どもたちが彼を笑いものにすることを彼女は許さなかった。「無神論者」と子どもたちは呼ぶ、「ちっぽけな無神論者」と。ローズも彼を馬鹿にする。プルーも彼を馬鹿にする。アンドリューも、ジャスパーも、ロジャーも、みんなして彼を馬鹿にする。もう一本の歯もなくなってしまった老犬のバジャーさえ彼に噛みついたけれど、それは、家族だけでいたほうがずっと素敵で楽しいのに、わざわざヘブリディーズ諸島まで一家を追いかけてくる青年が(ナンシーに言わせれば)彼でもう一一〇人目だから、ということだ。
「馬鹿馬鹿しい」と、かなりきつい声色でラムジー夫人は口にした。自身から受け継がれた子どもたちの誇張癖は良いとして、また、何人か町に泊まってもらわなければならないくらいたくさん人を招いてしまうのも(そういうことがあるのは事実だが)さておき、来てくれた人たちに無礼があるのは許せない。特に若い男の人、教会のネズミみたいにみすぼらしくても、夫が言うには「飛び抜けて優秀」だし、彼を熱狂的に崇拝していて、休暇中にもここまで訪ねてきてくれるような人たちに対しては。実際、彼女には、自分と異なるもうひとつの性に属するすべての人々をまるごと護り、みずからのもとに包みこんでしまうようなところがあるのだった。何がそうさせるのか彼女にもうまく説明はできなかったが、おそらく彼らのそなえている騎士道的な礼節や勇敢さ、あるいは彼らが条約交渉を担ったりインドを統治したり、国家財政を管理したりしているという事実が理由のひとつではあるのだろう。しかし結局のところそれはきっと、彼女自身に寄せられるある態度、女性なら誰でも好ましく [agreeable] 感じずにはいられないような、信頼のこもった、子どもみたいに純真で敬意に満ちた態度によるもので、年配の女性が若い男性からそういった好意を受け取っても、決して品格を損なうことにはならないのだ。だから、その価値とそれが意味するものすべてを骨の髄まで感じ取れないような娘には――どうか、我が娘たちのなかにはそんな女の子がいませんように!――災いあれ。
彼女はいかめしい様子でナンシーのほうに振り向いた。あの方は追いかけてきたわけじゃなくて、と口にする。お招きして、来ていただいたの。
でも、あの子たちはこういう暮らしとは違った道を見つけるんでしょうね。きっともうすこし簡単で、もうすこし骨の折れないやり方があるはずだから、と夫人はため息をついた。鏡を覗きこんだときなど、白髪は増えて頬もこけてきた五十歳の自分を目の前にして、彼女は思うのだった、色々なことをもっとうまくやれたのかもしれない、と――夫のこと、お金のこと、彼の本のこと。けれど自分としては、ほんの一瞬でもみずから決断したことを後悔したり、困難を避けて通ったり、義務をなあなあに済ませたりしたつもりはない。このときの夫人の様子は直視するのも恐ろしいくらいだったので、チャールズ・タンズリーについて手厳しく叱られた娘たち――プルー、ナンシー、ローズ――は、皿からときおり目を上げながらも、黙りこくったまま、母親のものとは違う人生について前々から温めていた不届きな考えをもてあそんでいるほかはなかった。それはパリかどこかでもっと野放図に
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食事が終わればすぐさま、ラムジー夫妻の息子と娘たち八人は牡鹿のようにこっそりとテーブルから姿を消し、寝室へ、いわば彼らの要塞へと向かう。家のなかで唯一そこだけは、どんな話題でも論じ合うことのできるプライバシーが確保されていたのだ。タンズリーのネクタイや選挙法改正案、海鳥や蝶々や他人の噂など、あらゆることについて彼らが話し合うあいだ、陽の光がその屋根裏部屋に注ぎこんでくる。隣とは板壁一枚で仕切られているだけなので足音はどれもはっきり聞こえるし、またグリゾンの渓谷地域で癌のために死にかけている父親を思ってスイス人の小間使いがすすり泣く声も伝わってくるのだが、そんな屋根裏に太陽は降り注ぎ、バットやフランネルの衣服、麦わら帽子やインク壺やペンキ入れ、カブトムシや小鳥の頭蓋骨などを照らし出し、さらには壁にピンで留められている細長くてひらひらした海藻から塩と藻のにおいを滲み出させる。それとおなじ香りは、海水浴の砂でざらざらになったタオルのなかにも潜んでいるのだった。
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あの方、立派な哲学者になられていたはずなんですけどね、とラムジー夫人は漁村に続く道を歩きながら言った。でも、不幸な結婚をしてしまったんですよ。黒い日傘をきちんとまっすぐに立てて持ち、まるで角を曲がれば誰かに行き逢うかも、とでもいうようないわく言い難い期待の気配を物腰に漂わせつつ、彼女は語るのだった。オクスフォード大学でのある女性との恋愛沙汰のこと、早くして結婚したこと、貧窮生活、インド行き、そしてちょっとした詩を、「とても綺麗になさったと私は思うんですけれど」、翻訳して、少年たちにペルシア語やヒンドゥスタニー語を教えようとしたこと、でも本当のところ、それって何の役に立つんでしょうか?――そうしていまはあんな風に、芝生の上に寝そべっていらっしゃるんです。
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(……)ひどくぺらぺらと流れ出してくる研究者界隈の専門用語[ジャーゴン]に置いてきぼりにされながらも、彼女は思った。なるほどそういうことだったの、サーカスに行きましょう、なんて言われただけでどうしてこの人があんなにうろたえたのか、それにご両親やごきょうだいのことまで一気に喋ってしまったのも。可愛そうな方だわ、あの子たちがもうこの人のことを笑ったりしないようにきちんとさせなくちゃ、特にプルーにはよく言っておかなくちゃね。でも、この方はきっと、このあいだラムジー夫妻とイプセンを観に行ってきたんですよ、なんて誰かに話したいだけなんでしょうね。いっぱしの学者気取りで恐ろしくもったいぶる人だし――そう、どうしようもないくらい退屈。何しろいまだって、もう町に着いて大通りまで来て、周りでは荷馬車がゴトゴト丸石畳の上を通り過ぎていくのに、彼ときたらまだ喋ってる、セツルメント運動のこととか、教育がどう、労働者がどう、それに我々の階級に対する援助とか、講義がどうとか。もうすっかり自信を取り戻したみたい、サーカスのことからは立ち直ったみたいね、そしていま(彼女はふたたび彼に対して温かな好意を覚えていた)私に何か言いかけて――と、ここで両側の家並みがふっとなくなり、波止場に出た二人の目の前に湾の全体がいっぱいにひろがると、ラムジー夫人は思わず感嘆の声を上げずにはいられなかった。「ああ、とってもきれい!」 真っ青な海の水が一面、巨大なお椀を満たしたかのように彼女の眼前に湛えられていたのだ。その真ん中にはいくらか年老いたような白っぽさの灯台が、遥か彼方、厳粛な様子で屹立しており、右手のほうには霞んだり隠れたりしながらも視線の届く果てまでずっと、流体的にたなびく野草に彩られた緑色の砂丘が緩くなめらかな襞を描きながらつながっていて、その砂の道はいつも、人間などひとりも住んでいない月の国にでも向かって消えていくかのように映るのだった。
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男たちは会話をやめていた。そのせいで波の音が恐ろしく迫ってきたのだった。一瞬だけ彼女を掌握していた緊張感から解放されると、夫人はまったく反対の状態に急降下し、不必要に感情を高ぶらせてしまったのでその埋め合わせをしようとでもいうように、冷淡に、かつ面白半分に、かすかな悪意さえこめながら、哀れなチャールズ・タンズリーが追い払われたんでしょうね、と断定した。まるでどうでもいいことだった。夫がいけにえを欲するのだったら(そして実際、そうだったのだが)喜んでささげましょう、チャールズ・タンズリーを。だってこの子をあんなにいじめてくれたんだから。
それからまたすこし彼女は顔を上げたまま耳をすましていたが、その様子はまるで、何かいつも耳にしている馴染み深い音声を、規則正しく動く機械のような音声を待ち受けているかのようだった。するとまもなく、なかば喋るようななかば歌うようなリズミカルな響きが庭のほうではじまり、夫がテラスをずんずん闊歩しながら発するしわがれたうなり声とも歌声ともつかないものが聞こえてきたので、彼女はふたたびほっとなだめられ、ああ、何も心配ないわと安心して、膝の上に載せていた本に目をもどすと、ジェイムズがとても慎重にやらなければうまく切り取れないような、刃が六枚ついたポケットナイフの絵を見つけてやった。
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「なんだか急に寒くなってきましたね。太陽がもう、あんまり暖かくないみたい」 あたりを見回しながら彼女はそう言った。たしかに大気は明るさを十分に残し、芝生もいまだやわらかな深緑色を地に広げ、家屋はその緑のなかでトケイソウの紫を散りばめられて、青空の高みからはミヤマガラスが物静かな声を落としてくる。だが、空中では何かが活動し、きらめき、銀色の翼をひるがえしていた。やはりもう九月、しかもそのなかばだったし、夕方の六時を回ってもいたのだ。そうして二人はその場を離れ、いつもの方角に向けて庭をぶらぶら歩きはじめた。テニスコートを通り過ぎ、パンパスグラスの茂みも過ぎて、厚く生い茂った垣根が途切れたところに向かっていく。そこは鮮やかに燃え立つ炭の火鉢を並べたごとく、真っ赤なトリトマの群れに守られており、それを通して望む湾の青い水は、より一層青さを湛えて映るのだった。
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それにしても、ラムジーの一家は決して裕福とはいえないのに、あれでなんとか家計をやりくりできているのは不思議なくらいだ。子どもが八人! 八人もの子どもを、哲学で食わせているというんだから! おや、ちょうどそのうちの一人がやって来た、今度はジャスパーだ。気楽な様子でぶらぶら歩いてきた彼は、鳥撃ちをするんだ、とあっけらかんと言い放ち、すれ違いざまついでにリリーの手を取ると、それをポンプの取っ手みたいにしてぶんぶん振っていったので、バンクス氏は思わず、ちょっと毒を含んだ調子で、ずいぶんなつかれているんですね、ブリスコウさんは、と口にすることになった。あの子たちの教育についても、そろそろきちんと考えなければならない時期に来ているんだろう(ラムジーの奥さんだって、自身、それなりにちゃんとした教育を受けたはずだし)、あの「すばらしき仲間たち」、全員そろってよく育ち、ときにつっけんどんだったり優しさに欠けたりもする若人たちが、毎日すり減らしていく靴や靴下のことを思うだけでも大変だろうが。きょうだいのうち、どの子が誰で、とか、生まれた順番とかをはっきり覚えるのは彼には難しかった。だからバンクスは、心のなかでひそかに、イングランドの王や女王をまねた名前で彼らを呼んでいた。つまり、いたずら女王キャム、冷酷王ジェイムズ、公正王アンドリュー、美麗女王プルー、などと――プルーはきっと美人になるだろうから、ぴったりじゃないか? ――それに、アンドリューも賢い青年になるだろう。
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それじゃあ、何が正解なんだろう、こういうことって? どうやってひとはひとを判断し、評価するのか? あれこれ考え合わせて、私はこのひとが好きなんだ、嫌いなんだ、って、そんなの、どうやって決められるっていうんだろう? それに、好きとか嫌いとかっていう言葉には、結局どんな意味があるのか? はたから見てもわかるくらい、思いにつらぬかれて梨の木のそばに立ちつくしている彼女に向かって、二人の男性の印象がどっと降り注いできた。そうすると、自分の思考を追いかけるのは、喋るのが速すぎて鉛筆でも書き留められないひとつの声を追うような感じになってきて、その声は確かに彼女自身の声なのだけれど、それが勝手に、否定しがたい、いつ終わるとも知れない、しかも矛盾ばかりのことを色々言い立てるので、梨の木の表面にできた割れ目やこぶですら、変えようがなく固く永遠にそこに定着してしまったもののように思えるのだった。あなたには偉大なものがあります、と彼女は続けた、でも、ラムジーさんにはちっとも。あの方は心が狭くてわがままだし、うぬぼれも強くて自己中心的です。甘やかされた子ども、暴君で、夫人を死にそうなくらいくたくたにしてしまう。だけど、あのひとにはあなたにないものもありますね(と彼女はバンクス氏に語りかけた)。燃え盛る炎みたいに、激しく超然としたところが。俗世間のつまらないことは何一つ知らず、犬と子どもたちを可愛がっているばかり。何しろ八人もいますからね。でもあなたにはひとりもいない。
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彼女は目を上げた――いったいどんな悪魔に憑かれたのかしら、この子は、いちばん下の子で、大切にしてきたのに?――そして部屋を見回し、椅子に目をやって、まったく、おそろしいくらいボロボロ、と思った。椅子の腸 [はらわた] が、なんてアンドリューがこのあいだそんな風に言っていたけれど、床じゅうに散らかっている。でも、どうなるっていうの、と彼女は自問した、新しい椅子を買ったとしても、それも結局冬のあいだに駄目になっちゃうんだもの、だってその時期にこの家を世話してくれるのはお婆さんひとりだけなのに、湿気がひどくて、ほんとうに家じゅうポタポタしずくが垂れるくらいなんだから。気にしちゃ駄目ね。家賃はきっかり二ペンス半だし、子どもたちもここが大好き、それに夫にとっても良いことでしょう、三千マイルも、いえ、正確にいえば三百マイルだけど、いつもの書斎とか講義とか弟子たちからそれだけ離れていられるのはね、お客様をむかえられるくらいの広さもあるし。マットとか、簡易ベッドとか、ロンドンで使い尽くして幽霊みたくかたなしになってしまった椅子やテーブルなど――それもここでは十分役に立ってくれる。あと、写真が一、二枚に、本。本っていうのは、と彼女は思った、じぶんで増えるのよね。でも、どうしても読む時間が取れない。ああ、まったく! 贈ってくださった本、しかも詩人が直筆で、「その願い服さるるべき女性へ」とか……「幸より高き我らが時代のヘレネへ」とか……そんな献辞を入れてくれた本でさえ、恥ずかしいからだれにも言えないけれど、実は読んでいない。それに『精神 [マインド] 』に載ったクルーム [George Croom Robertson] の文章や、ポリネシアの野蛮な風習についてのベイツ [Henry Walter Bates?] の本など(「ねえ、いい子だから、じっとしてて」と彼女は言った)――どちらも灯台へ持っていけるような本じゃない。この先、家はみすぼらしくなるばかりだろうから、どうにかしなければ、と思うこともある。子どもたちに、きちんと足を拭いてビーチの砂を部屋に入れないよう教えこむとか――それだけでも違うはず。でもカニはしかたないわね、アンドリューがほんとうにそれを解剖したいって言うのなら、ジャスパーも海藻からスープがつくれるって信じているみたいだし、やめさせるわけにいかない。
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長靴下は、すくなくとも半インチは短かった。ソーリーの息子の発育はジェイムズよりも良くないだろうが、そうだとしても、短すぎるだろう。
「これじゃ、短すぎる」と彼女は言った、「ぜんぜん足りないわ」
こんなにも悲しい表情は、ほかにない。苦く、また黒いものが、暗闇のなかで、陽のあたる地上から深淵へと走る竪穴のなかばで、おそらく一粒の涙がむすばれたのだ。涙は落下した。水はあちらへこちらへと揺れ動き、しずくを受け入れると、しずかになった。こんなにも悲しい表情は、ほかにない。
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「しかしあの人は、自分の美しさをちっとも意識してないんだよな、子どもみたいに」 バンクス氏はそうつぶやいて受話器を置くと、部屋を横切り、家の裏で建設中のホテルの工事はどれくらい進んだかと外を見た。そして、未完成の壁のあいだで入りみだれ立ち働く人びとをながめながら、ラムジー夫人のことを思いめぐらせた。というのは彼の思うところ、見た目の美しい調和にうまく組み入れがたい、なにか不釣り合いなものが夫人にはいつもつきまとっていたのだ。鹿撃ち帽をひょいっとかぶってみたり、ガロッシュで芝生を駆けていっていたずらっ子をつかまえたり。それだからただ彼女の美しさを思い浮かべていただけなのに、なにか息づきふるえるもの、生き生きとしたものが(彼がながめる前で作業員たちは小さな板にレンガを載せて運んでいる)おのずとよみがえってきて、それをイメージのなかに組みこまなくてはならなくなる。あるいは単純に、彼女は女なのだと考えるにしても、夫人が独特の気まぐれさをもっていることは認めざるをえないだろう。それかもしかすると、自分の容姿がそなえている気品なんて脱ぎ捨ててしまいたいというひそかな願望があるのかもしれない、などとも考えてしまう、まるで彼女が自分の美しさにも、男たちが美について語るあれこれにもうんざりして、ただほかの人びとのように、取るに足らない存在になりたがっているかのように。わからない。わからない。もう仕事にいかなければ。)
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その言葉の救いがたい非合理性、女の精神というものの愚劣さが彼を憤らせた。死の谷を駆け抜け、打ち砕かれてふるえきっていたというのに、そこにいま妻が真っ向から事実に逆らって、まったく問題外の希望を子どもに信じこませる、つまり実質、嘘をついている。彼は石段を踏み鳴らし、「くそったれ」と吐き捨てた。だが、妻がなんと言ったというのか? 明日は晴れるかもしれません、とそれだけのことだ。そういうこともあるだろう。
いや、やはりないな、気圧がこれだけ下がっているし、風も真西なのだから。
こんなにも、びっくりするくらい他人の気持ちを思いやらず真実ばかり追究するなんて、こんなにもわがままに、残酷に、文明的洗練の繊細なヴェールを引き裂いてしまうなんて、あまりにも人間の品位を踏みにじる行為だわ、と彼女は感じ、返事もできず、目の前が真っ暗になったかのようで呆然としながら、まるでザラザラした霰をたたきつけられ、土砂降りの汚水を浴びせられるがままというようすでうなだれていた。なにも言えなかった。
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わずか六枚のビスケットと水一瓶のみで炎天下の海に放り出された船員たちをも救ったであろう徳性――忍耐強さや正義感、先見の明、無私の心や巧みな手腕などが、彼を支えにやってきた。つぎはRだ――だが、Rとは?
革でできているかのようなトカゲの厚ぼったいまぶたにも似て、彼の強靭な視線をさえぎり閉じこめる覆いが目のまえをちらつき、Rの文字を見えにくくした。瞬間ひらめくその暗闇のなかで、彼は人々が――あいつは敗残者だよ、と――Rなんて彼には無理だと言うのを聞いた。彼がRにたどりつくなど、夢物語だ。それでももう一度、さあ、Rへ。R……。
氷に閉ざされた極地の無人地帯を渡っていく荒漠とした探検にあって、彼を隊長にも案内人にも参謀役にもしたであろう特質、楽観もせず打ちひしがれもせずに、起こりうる事態を落ちついて考察し、それに立ち向かっていこうとする冷静沈着さがふたたび彼を支えにきた。さあ、Rだ……。
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誰が非難できるだろう、自分がいまこうして立ちつくしながら、名声や、捜索隊や、果ては骨をうずめたその上に弟子たちが感謝の念とともにつくりあげてくれる石塚のことまで思いめぐらせたとしても? 結局のところ、挫折をさだめられた探検隊の長を、誰が非難できるというのか? 行き着ける果てまで冒険をすすめ、最後の一滴まで完全に力を振りしぼったあげく、もはやふたたび目覚めることも望まずに眠りに落ちた彼が、爪先にちくりと痛みをおぼえて自分はまだ生きているのだと悟り、どうにか生き抜くことをあきらめずに、思いやりと、ウイスキーと、苦難の物語を聞いてくれる相手をいますぐにもとめたとしても、その彼を、いったい誰が非難できるのか? 英雄が鎧を脱いで窓辺にたたずみ、妻や息子を見つめるようすは、誰の心にもひそやかなよろこびを生むだろう。ふたりの姿は最初は遠くへだたっているが、だんだんと近づいてきて、ついには唇の動きや本や頭までもが目の前にはっきりと映るようになる。とはいえ、彼が経験した孤独の激しさや、荒涼とした時の流れや、星々の衰亡とくらべれば、その光景はあまりに可憐で、まだなかなか腑に落ちてこないのだけれど、それでも最後にはパイプをポケットにしまい、堂々と立派な頭を妻のまえに垂れ――そんなふうに彼がこの世の美に敬意を払ったとして、いったい誰がそれを非難するだろうか?
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するとたちまちラムジー夫人は、自身をたたみこみはじめるように見えた。ひとつの花びらがべつの一枚に閉じ合わされるように彼女はたたまれていき、そしてついには、全身がのしかかる疲労感にくずおれかかり、かろうじて残ったのは指を動かすほどの力でしかなかったが、それでもたおやかなすがたで消耗感に身をゆだねながら、グリム童話のページに指を走らせ撫でてみせた。それと同時に、彼女のなかを隅まで響き渡っていたのだ、これ以上ないいきおいまで押しひろがったあと、おだやかにしずまる泉の拍動にも似て、あるべきものを生み出せたのだというよろこびの脈動が。
夫が立ち去っていくあいだ、この律動のひと打ちひと打ちが彼女と彼をつつみこむようにおもわれ、また、二つの異なった音色が、一方は高いほう、他方は低いほうから行きあたってむすばれたときに分かち合うあの安息をも、二人に恵んでいるようだった。だが、その共振がおとろえ、ふたたび童話に意識を向けたとき、ラムジー夫人はからだがくたくたになっているだけでなく(彼女はいつも、出来事の渦中ではなくて、それが終わったあとになって疲労をおぼえるのだった)、別のところから来るなにか不快な感覚が、かすかながら肉体の消耗感にかさなっているのを感じ取った。とはいえ、「漁師のおかみ」の物語を読み聞かせているあいだ、彼女はその出どころを確かに理解していたわけではない。その不満感を言葉にしてかんがえようとも思わなかったが、ただ、ページをめくるために声を止めるときなど、波の砕ける響きがぼんやりと、不穏にただよって耳に入り、ああ、こういうことかもしれない、と思い当たるのだった。自分が夫よりも優れているなんて、一瞬だってそんなふうに思い上がったりはしないし、それに、夫にことばをかけるときも、本当かどうかあやふやなことを言うのは自分でゆるせない。いろんな大学やたくさんの人々があのひとのことを必要としているし、講義も、書いた本も、ものすごく重要な価値をもっている――それを疑ったことはすこしもないわ。けれど、夫との関係なのよね、困ってしまうのは。あんなふうにおおっぴらに来られると、誰かに見られるかもしれないのに。そうしたら、皆さんきっと言うでしょう、あいつ、奥さんに頼りきりだなあ、なんて。でも、あきらかに、わたしよりも夫のほうが、はかり知れないほど重要なひとなのだし、わたしだって世の中になにか貢献しているとしても、あのひとのやっていることに比べれば、塵みたいなものなのに。だけどそれだけじゃなくて、もうひとつ気がかりなのは――本当のことを言えないのよね、気後れしちゃって。たとえば温室の屋根も壊れているし、修理するってなれば、たぶん五〇ポンドはかかるでしょう。あと、本についても、ちょっと思うところがあって、あの人がうすうす感づいていそうで怖いのだけれど、最新の本はこれまでのなかで最高とはいえないんじゃないかしら(ウィリアム・バンクスさんの口ぶりでは、そんな気がするのだけれど)。ささいな日常の隠し事もいろいろあるし、子どもたちはそれを知っているけれど、隠すのがちょっと重荷になっているみたい――こうしたことごとが欠けるところのないよろこびを、相和する二つの音色が奏で出す純粋なよろこびを減退させ、そしてついには鬱々とした平板さをのこしながら、彼女の耳から音を絶やしてしまった。
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(……)She bore about with her, she could not help knowing it, the torch of her beauty; she carried it erect into any room that she entered; and after all, veil it as she might, and shrink from the monotony of bearing that it imposed on her, her beauty was apparent. She had been admired. She had been loved. She had entered rooms where mourners sat. Tears had flown in her presence. Men, and women too, letting go the multiplicity of things, had allowed themselves with her the relief of simplicity. It injured her that he should shrink. It hurt her. And yet not cleanly, not rightly. That was what she minded, coming as it did on top of her discontent with her husband; the sense she had now when Mr. Carmichael shuffled past, just nodding to her question, with a book beneath his arm, in his yellow slippers, that she was suspected; and that all this desire of hers to give, to help, was vanity. For her own self-satisfaction was it that she wished so instinctively to help, to give, that people might say of her, "O Mrs. Ramsay! dear Mrs. Ramsay...Mrs. Ramsay, of course!" and need her and send for her and admire her? Was it not secretly this that she wanted, and therefore when Mr. Carmichael shrank away from her, as he did at this moment, making off to some corner where he did acrostics endlessly, she did not feel merely snubbed back in her instinct, but made aware of the pettiness of some part of her, and of human relations, how flawed they are, how despicable, how self-seeking, at their best. Shabby and worn out, and not presumably (her cheeks were hollow, her hair was white) any longer a sight that filled the eyes with joy, she had better devote her mind to the story of the Fisherman and his Wife and so pacify that bundle of sensitiveness (none of her children was as sensitive as he was), her son James.
彼女は、自覚せずにはいられなかったが、美のたいまつをたずさえているようなものだった。彼女はどんな部屋にはいるときも、そのたいまつを高くかかげてはこんでいく。そして、ときにそれをつつみ隠してしまったり、それによって強いられるふるまいの単調さに辟易することがあったにしても、結局のところそのうつくしさはだれの目にもあらわだった。夫人は称賛された。愛された。葬儀のためにひとびとがあつまり座っている部屋部屋へ彼女がはいっていく。すると彼女の目のまえで、おおくのひとが涙をながす。男性たち、それどころか女性もまた、さまざまに込み入った事情を手放して、夫人とともに単純さのやすらぎを得ることができるのだった。カーマイケル氏がたじろいだのに夫人の心は痛んだ。彼女は傷つけられた。しかも、公明正大とはいえないやりかたで。それこそが彼女の気がかりで、夫への不満にくわえて念頭に浮かんできたものだった、つまりある感覚、カーマイケルさんが質問にはうなずくだけで、本を小脇に、黄色いスリッパで、足をひきずるようにすぎていくときにおぼえた、わたしは信用されていないという感覚、そして、ひとになにかを与え、助けになりたいというこの望みも、全部虚栄心にすぎないのではという感覚が。結局自己満足のためなのだろうか、わたしがこんなにも、本能みたいに、助けたり与えたりしたいと思うのも、みなさんが「ああ、」
(2020/7/4, Sat. - )
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「そうね、もちろんいいわ、もし明日、お天気だったらね」 そうラムジー夫人はこたえ、「でも、ヒバリさんとおなじくらい、早起きしないとだめですよ」と言い足した。
このことばが息子に、並々ならぬよろこびを運んできてくれることになった。まるで遠足に行けることはもう決定し、何年も何年も待ったとおもえるほど楽しみにしていた不思議の世界が、もう一晩だけ闇夜を抜けて一日船を走らせれば、触れられるところにあるかのようだった。この子はまだ六歳だというのに、あの偉大なる種族の一員だった。あれこれの気持ちを切り離しておくことができず、未来のことをかんがえれば、予想されるよろこびやかなしみと一緒くたになって手もとの現実がぼやけてしまう、そんなひとびと。このひとたちには、まだ物心つかないうちでも、感覚の歯車がちょっとでも回ると、紡がれた気鬱さや輝かしさの宿る瞬間を結晶化し刺しとめてしまう力がはたらくので、床に座って《陸海軍百貨店》のイラスト入りカタログから絵を切り抜いていたジェイムズ・ラムジーも、母親がしゃべっているあいだ、冷蔵庫の絵に、天に昇ったかのような幸福を恵んでやったのだった。それは、よろこびの縁飾りを持つ絵になったのだ。手押し車や芝刈り機、ポプラの木々のもらす響き、雨の前に白みがかっている木の葉たち、ミヤマガラスのカアカア鳴く声、エニシダの枝がぶつかり合う音、さらさらとしたドレスの衣擦れ――彼のこころのなかでは、こうしたもののすべてがとても色鮮やかにきわだってそれぞれの場所を占めていたので、自分専用の暗号、秘密の言語をすでにもっているようなものだった。けれどもまた彼のすがたは、まったく断固とした厳めしさを帯びてもいて、広い額と激しさを秘めた青い目は申し分なく率直純粋、人のこころの弱さを目にすればぴくっと眉をひそめてみせる、そんなふうにも映ったものだから、冷蔵庫に沿って鋏を几帳面にあやつる我が子を見守っている夫人には、白貂をあしらった真っ赤な礼服をまとって裁判官席についていたり、国家運営の危機にさいして妥協できない重大な仕事を指導してみせる息子のようすが思い描かれるのだった。
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Buck Mulligan frowned at the lather on his razorblade. He hopped down from his perch and began to search his trouser pockets hastily.
―Scutter! he cried thickly.
He came over to the gunrest and, thrusting a hand into Stephen’s upper pocket, said:
―Lend us a loan of your noserag to wipe my razor.
Stephen suffered him to pull out and hold up on show by its corner a dirty crumpled handkerchief. Buck Mulligan wiped the razorblade neatly. Then, gazing over the handkerchief, he said:
―The bard’s noserag! A new art colour for our Irish poets: snotgreen. You can almost taste it, can’t you?
He mounted to the parapet again and gazed out over Dublin bay, his fair oakpale hair stirring slightly.
―God! he said quietly. Isn’t the sea what Algy calls it: a great sweet mother? The snotgreen sea. The scrotumtightening sea. Epi oinopa ponton. Ah, Dedalus, the Greeks! I must teach you. You must read them in the original. Thalatta! Thalatta! She is our great sweet mother. Come and look.
Stephen stood up and went over to the parapet. Leaning on it he looked down on the water and on the mailboat clearing the harbourmouth of Kingstown.
―Our mighty mother! Buck Mulligan said.
He turned abruptly his grey searching eyes from the sea to Stephen’s face.
―The aunt thinks you killed your mother, he said. That’s why she won’t let me have anything to do with you.
―Someone killed her, Stephen said gloomily.
―You could have knelt down, damn it, Kinch, when your dying mother asked you, Buck Mulligan said. I’m hyperborean as much as you. But to think of your mother begging you with her last breath to kneel down and pray for her. And you refused. There is something sinister in you ...
He broke off and lathered again lightly his farther cheek. A tolerant smile curled his lips.
―But a lovely mummer! he murmured to himself. Kinch, the loveliest mummer of them all!
He shaved evenly and with care, in silence, seriously.
バック・マリガンはしかめっ面で剃刀の刃に乗った石鹸の泡を見やった。座っていた胸壁の上からひょいっと飛び下りると、ズボンのポケットをせわしなく、ごそごそやりはじめる。
――くそったれったらねえや! 野太い詰まり声でわめいた。
それから砲座のところに来ると、片手をスティーヴンの胸ポケットに突っこんで言った。
――お鼻拭きをちょっくら拝借、剃刀を拭いたくってね。
スティーヴンが好きにさせてやると、バック・マリガンはしわくちゃの汚いハンカチを引っぱり出して、これ見よがしに端をつまみあげた。刃をきっちり拭ってきれいにする。そうして、ハンカチをまじまじとながめて言うには、
――こりゃ、詠い人 [うたいびと] のお鼻拭きだな! われらがアイルランドの詩人どもに似つかわしい、あたらしき芸術の色。青っ洟緑だ。味見でもしてみたらどうだ、な?
彼はふたたび胸壁に登ると、ダブリン湾にまなざしを放った。淡い楢色まじりの金髪が、かすかに揺らぐ。
――いやはや! とおだやかにもらした。海ってえのは、アルジーが言ってたとおりじゃないか? 大いなる麗しの母だと。青っ洟緑の海。玉袋縮み上がる洋 [よう] 、ってとこだ。葡萄酒色の海の上にて [エピ・オイノパ・ポントン] 。なあ、ディーダラス、ギリシャ人だよ! おまえに教えてやる。原文で読まなくっちゃだめさ。おお、海原 [ターラッター] ! おお、海原 [ターラッター] ! ってな。 [別案: わだつ海よ! わだつ海よ! ってな。] われらが大いなる麗しの母だぜ。ほら、見てみろ。
スティーヴンは立ち上がって、胸壁に寄った。もたれかかると海面を、そしてキングスタウンの湾口を抜けていく郵便船を見下ろす。
――力強きわれらが母よ! とバック・マリガンは言った。
出し抜けに、灰色の窺うような目つきを海からスティーヴンの顔に向けかえる。
――叔母さんは、おまえがおふくろさんを殺したと思ってんだよ、と口にした。んなわけで、おれをおまえと付き合わせたくないんだ。
――殺したのはどっかの誰かさんだろ、とスティーヴンは陰鬱に返した。
――でもよお、キンチ、ひざまずくくらいはできたろうが、死にかけのおふくろさんが頼んでんだから、とバック・マリガンは言う。おれだっておまえに負けないくらい、神をも畏れぬ極北民族 [ハイパーボリアン] だよ。しかし思ってもみろ、自分のおふくろがもう虫の息で、頼むから膝をついてくれ、祈ってくれって言ってるんだぜ。それをことわった。おまえにはどっか、ねじくれたところがあるよ……。
そこでやめて、手から遠いほうの頬にもう一度、泡をそっと塗り直していく。このくらいで許してやるかという笑みが口もとに浮かんだ。
――まったく、素敵な役者のむっつりさんだね! と自分ひとりでこそこそ言っている。キンチ、みんなのなかでいちばん素敵なむっつりさんめ!
そうしてむらのないように慎重に、黙って、真剣に、髭を剃る。
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—Let him stay, Stephen said. There’s nothing wrong with him except at night.
—Then what is it? Buck Mulligan asked impatiently. Cough it up. I’m quite frank with you. What have you against me now?
They halted, looking towards the blunt cape of Bray Head that lay on the water like the snout of a sleeping whale. Stephen freed his arm quietly.
—Do you wish me to tell you? he asked.
—Yes, what is it? Buck Mulligan answered. I don’t remember anything.
He looked in Stephen’s face as he spoke. A light wind passed his brow, fanning softly his fair uncombed hair and stirring silver points of anxiety in his eyes.
Stephen, depressed by his own voice, said:
—Do you remember the first day I went to your house after my mother’s death?
Buck Mulligan frowned quickly and said:
—What? Where? I can’t remember anything. I remember only ideas and sensations. Why? What happened in the name of God?
—You were making tea, Stephen said, and went across the landing to get more hot water. Your mother and some visitor came out of the drawingroom. She asked you who was in your room.
—Yes? Buck Mulligan said. What did I say? I forget.
—You said, Stephen answered, O, it’s only Dedalus whose mother is beastly dead.
A flush which made him seem younger and more engaging rose to Buck Mulligan’s cheek.
—Did I say that? he asked. Well? What harm is that?
He shook his constraint from him nervously.
—And what is death, he asked, your mother’s or yours or my own? You saw only your mother die. I see them pop off every day in the Mater and Richmond and cut up into tripes in the dissectingroom. It’s a beastly thing and nothing else. It simply doesn’t matter. You wouldn’t kneel down to pray for your mother on her deathbed when she asked you. Why? Because you have the cursed jesuit strain in you, only it’s injected the wrong way. To me it’s all a mockery and beastly. Her cerebral lobes are not functioning. She calls the doctor sir Peter Teazle and picks buttercups off the quilt. Humour her till it’s over. You crossed her last wish in death and yet you sulk with me because I don’t whinge like some hired mute from Lalouette’s. Absurd! I suppose I did say it. I didn’t mean to offend the memory of your mother.
――あいつがいたってかまわないさ、とスティーヴン。夜にならなきゃ、べつに変なところもないしね。
――なら、なんだってんだ? バック・マリガンは苛立たしげにたずねた。白状しろよ。おれだって、お前に遠慮はないぜ。おれの何が気に入らない?
ふたりは立ち止まり、眠るクジラの鼻先に似て水のうえを横たわっているブレイ・ヘッドの丸みを帯びた岬のほうに目をやった。スティーヴンはしずかに腕をほどく。
――言ってほしいのか? と問いかけた。
――ああ、なんなんだ? とバック・マリガンは返す。思い当たることがないんだが。
そう言いながら、スティーヴンの顔を覗きこんでみせる。微風が彼の額を横切り、梳 [と] かされていない金髪をそっと持ち上げ、すると不安をはらんだ銀色の点が瞳の内に揺れうごいた。
スティーヴンは、自分自身の声に鬱々となりながら、
――母が死んだあと、最初に君の家に行った日のこと、覚えてるか?
ぱっとしかめっ面になったバック・マリガンは、
――何? どこだって? 思い出せねえな。なんかのアイディアとか、世間で騒がれてることしか覚えてないもんでね。なんでだ? 一体全体、何があったって?
――君はお茶を淹れてて、とスティーヴンは話す、お湯を補充してくるときに、階段のまえを通ったんだ。そこにお母さんとお客さんが客間から出てきた。誰が来てるの? って君は聞かれて。
――そんで? とバック・マリガン。おれはなんて言った? 忘れちまったな。
――こう言ったんだ、とスティーヴンはこたえた、《ああ、ディーダラスだよ、あのおふくろさんがいやな死に方をした》。
頬にさっと浮かんだ赤みのおかげで、バック・マリガンはいっそう若く、魅力的に見えた。
――そんなことを言ってたかい? と聞き返す。そんで? なんかまずいかね?
苛立ちめいたそぶりで彼は気まずさを振り払った。
――それによ、死ってのはどんなものかね、と問いかける、おふくろさんのにせよ、おまえのにせよ、おれ自身のにしても。おまえはおふくろさんのしか見てねえだろう。こっちは毎日、マーテルとかリッチモンドで見てんだぜ、患者がぽっくり逝って、それから解剖室でチョキチョキ臓物 [ゾウモツ] にされちまうのを。そりゃいやなことさ、そう言うしかない。けど、たいしたことじゃあねえんだ。死に際のおふくろに頼まれても、ひざまずいて祈ろうとはしない。なぜだ? 忌まわしきイエズス会士の血さ、ただそれが、逆向きに流しこまれちまってんだな。おれにしてみりゃ、なにもかもお笑い草、いやなことさ。おふくろさんの脳葉が駄目になってると。医者をサー・ピーター・ティーズルなんて呼ぶし、キルト布団からキンポウゲの刺繍をはぎ取っちまう。全部済むまであやしてやりゃあいいんだ。じぶんじゃ最期の願いを袖にしたくせして、おれが葬儀屋ラルエットのやつらみたいに黙ってめそめそしてないからって、すねるんだから。馬鹿馬鹿しい! たしかに、そう言ったんだろう。でも、おふくろさんの思い出に瑕をつける気なんてなかったんだ。