Mさんのブログより。やや今更感はあるけれど、ここで言われていること、ぜんぶめっちゃよくわかる。

高橋 茶室って、千利休が基本形を作ったんだけど、まず狭い、そして暗い。入る時に狭いにじり口から入って、暗いのに窓もない。そしてこれがおかしいんだけど、茶室には掛軸がかけてあって、お茶の作法では最初にそれを見なくちゃいけない。見て何かを言うわけです。だったら、合理的に考えたら、「明るくしろよ!」ってなる(笑)。観賞するっていうのが作法に入ってるのに、わざわざ暗く、ほとんど見えない状況にしている。「なんでこんなことしてるのかね?」って訊いたら、「感覚を鋭くするためです」と。
 つまり普段の僕たちは、実は何も見てないんです。明るい中で目に入ってくるものを受け止めているだけ。見るっていうのはお茶で言う「拝見の型」みたいに意識を働かせて、対象に前進して、全神経を込めて見るっていうのが、本当の「見る」。だから普段の「見る」は、見ているうちに入らないっていうのが茶室の思想なんですね。音についても、茶室は真っ暗だから目の次に頼るのは聴覚です。茶室ではお湯を沸かしてるでしょ? 茶を立てる時に何をしてるかと言うと、お湯がどういう状態かをずっと聴いてるんだって。ずっとシーンとしてるので、聞こえてくるのは自分の鼓動とお湯の音だけ。それではじめてものを考える、と。ここには、ある種の合理性がありますよね。一瞬ノイズと反対のような感じがするけど、でも、これは暗くしてノイズを増やして、そして見る、ということ。
 なんでこんな話をしたかというと、これを社会にあてはめると、社会のノイズっていうのは弱者なんです。障害を持っている人とか老人とか病気の人とかっていうのはノイズで、そういう人がいないほうがいいって考える。でも、それだと殺さないといけないので、どうするかと言うと、施設に入れちゃう。つまり遠ざける。昔はみんな家にいたでしょ。だから、ノイズが周りにあった。これは実は全部同じ問題で、近代というのは、すべてのノイズをなくそうとする時代です。するとどうなるかと言うと、わかりやすくなって、強い人だけが残る。意味があるものだけ。そうしたかたちが続いてきて、それが今の社会を作っている。だからね、音楽のノイズが一番正当的なんですよ、大友さん!(笑)
大友 いやいや(笑)。でも、ノイズの世界にいる人たちってやっぱりどこかで感覚的にそれがわかっているところがあると思うんです。そうやって社会が不要としてたものの中に、自分にとっての大切なもんが実はいっぱいあって、そのことを感覚的に、もしかしたら身体感覚のような感じで知ってるんですね。どうもみんな、強いものとか権威のあるものに対して牙をむくクセがついちゃってるのは、そのためだと思うんです。それは反体制とか、政治的なポジショニングとは明らかに違う。もっと生きてくことの原始的な感覚として、そうなってるような気がします。
(佐々木敦『シチュエーションズ 「以後」をめぐって』より大友良英×高橋源一郎「世界のノイズに耳をすませて」、『シャッター商店街と線量計—大友良英のノイズ原論』)

 「見るっていうのはお茶で言う「拝見の型」みたいに意識を働かせて、対象に前進して、全神経を込めて見るっていうのが、本当の「見る」」という部分だけは少し違うんじゃないかとおもうが。むかしはじぶんもそういう見方・聞き方をしようとしていたし、それはそれでいいしわかるのだけれど、いまのじぶんは、一点集中的な(もしかしたらそれを、感覚をとおして対象に同一化しようとする志向・欲望と言ってもいいのかもしれないが)知覚や感性のつかいかたはじぶんにそぐわないとおもっている。そういう動員の仕方に神経が耐えられなくなったということでもあるかもしれない。
 三段落目のはなしについては、結局これなんだよなあとおもう。資本主義にせよ全体主義にせよ、それらがはらみもっているいちばんの問題は、効率化と衛生化、つまり無駄やノイズのない純粋なものや状態を希求する強力な欲望だという気がしてならない。ここ二、三年のじぶんは、これにまつわることばっかりかんがえているような気がする。どんなに高邁で理想的な思想であっても、それのみを徹底して突き詰めようとすると、かならず現実とのあいだに齟齬が生じ、それを無理に解消しようとすれば全体主義や強権独裁に陥らざるをえない、と。現実化したユートピアとは、それがどんなものであれディストピアにほかならない、という。ほどほどの不純さとノイズを抱えこんで持続するだけの鷹揚な弾力と猥雑さを身につけている社会がひとの世としていちばんいいんだとおもう。その「ほどほど」が、いったいどういう状態なのかわからんというのが難事なのだけれど。というより、それはあらかじめこういうものです、このくらいの塩梅ですというのがわかって言えるという種のことがらではなく、いまある現実の状態との折衝によってその都度その都度調整を続けていくことでしか示せないというものだとおもう。大雑把に言ってそれが政治ということだとおもうし、政治にかぎらず、人間のいろんな営みや仕事のなかにそういう領野はつねにある。いま、日本やそのほかの国々の動向・社会の雰囲気を漠然と見るに、そういう調整的な根気や粘り強さみたいなものだったり、ノイズを許容したり、なんだったら楽しんでしまうみたいな感性のありかたが顕著に欠けているようにおもえる。
 だから変態の存在というのは大事なものなのだ。性的な変態でもいいし、性的な意味ではないがなにかしら変態的なところのある人種ということでもいいのだけれど、まじめなはなし、変態が社会のうちに存在をゆるされているかどうかというのが、その社会の健全度をはかるおおきな指標だとおもう。もちろんそれが社会の本流に近いところに位置して受け入れられる必要などない。といって、当人たちがそうなりたいと望んだ場合は、どうするかというのがまた困難な問題となろうけれど、ひとまず、変態は日の目を見なくとも、変態として社会内のどこかに存在しているだけで貴重なものなのだ。したがって、変態を書くというのも、文を書く人間の重要な仕事のひとつである。変態について書くのでもいいし、ことばであれその他の媒体であれ、変態をえがくのでもいいけれど、変態を対象や主題とした表現がゆるされるかどうかというのも、その社会の健全性におおきくかかわっていると断言していい。もっとも、こういう言い分は、当の変態自身、じぶんを変態だと自認しているひとからすると、鼻持ちならないものかもしれない。あなたたちはおおっぴらに存在を主張することができなくても、社会のどこかの片隅にいてじぶんの変態性をひそやかに楽しんでいるだけでOKなんですよ、みたいなことになるからで、やはりいくらか偉そうな感じがするし、いやわれわれもっと存在を認められたいんですけど、と言われたら、それはそうですよね……と言わざるをえない。べつに社会的な承認をもとめていなくて、じぶんの趣味とか嗜好(志向)はおおっぴらにできるものではないしそうするつもりもとんとない、というひとでも、わざわざおまえにそんなこと言われたくはねえし、と感じるかもしれない。これはただ結構クリティカルなものを含んでいるポイントかもしれない。つまり、変態は社会的な承認を得たらもう変態ではなくなるだろう(変態とはみなされなくなるだろう)、ということだ。性的マイノリティのひとびとがたどってきた道のりというのはそういうことでもあるのだろうし。こちらがいま疑問におもったのは、変態が変態のままに、位置づけられているだけではなく、公的にとか全的にとか十全にではなくとも、どこかしらで、私的にというよりももう少し広い意味で、承認される社会というのはありうるんだろうか? ということだ。あと、変態の存在が社会の健全性を証すとはいっても、変態ならなんでもいいというのはもちろんあきらかに間違っている。痴漢は駄目。ただ、痴漢って変態なんだろうか? というのもよくわからないが。変態という語があれだったら、もう少し意味をひろげて、アウトサイダーということばに変換してほしい。